今日の産経ニュース(2019年7月17日分)

首相演説に「安倍辞めろ」とやじ 北海道警、聴衆を排除 - 産経ニュース
 安倍らしいですが「安倍に向かって暴漢が襲ってきた」「安倍に向かって物が投げつけられた」ならまだしも「安倍はやめろ」「消費税増税反対」程度の野次で警官に排除させるとは無茶苦茶です。
 野次を飛ばしていいとは言いませんが、この程度の野次は「許容範囲」でしょう。こんなことをすれば、安倍批判を萎縮させることにつながりかねません。つうか、それが安倍の目的でしょうが。

 国民民主党玉木雄一郎代表は17日、川崎市での街頭演説で「文句を言う人を権力を使って排除することが当たり前になれば怖くて声を上げられなくなる」と批判した。

と玉木が批判するとおりです。そもそも同様のことを民主党政権がやったら「独裁的だ」と非難していたのが産経でしょうし。


ジャニーズ事務所がコメント「圧力の事実ない」 - 産経ニュース
 ジャニーズの言動は予想の範囲内です。
 「今後は誤解を受けないように注意する(つまり圧力などかけない)」はともかく、「過去に圧力なんかかけてない」はウソでしょう。
 いずれにせよ今後のジャニーズと周囲の対応に注目ですね。
 こんなことを言いながら、今後も圧力をかけ続けるようであれば、公取も元SMAPも黙ってはいないんじゃないか。ただし「今後は本当にしない」のなら「過去は大目に見る(公取や元SMAP)」つう対応もあり得るでしょう。


ジャニーズ事務所、元SMAP3人の出演に圧力か - 産経ニュース
 「一時期に比べ明らかにテレビ出演が減ってるため」以前からそうした噂はされていましたが

 公正取引委員会は、独禁法違反の恐れがあるとして、同事務所を注意した。

ですか。安倍批判をろくにしないことと言い、こうしたジャニーズのごり押しに屈することと言い日本のテレビ局もどうしようもないですね。
 しかしこうしたことが表に出てきたのも「ジャニー喜多川氏の死去」がきっかけでしょうか。やはりテレビ局内の内部告発なのか。


【産経抄】7月17日 - 産経ニュース

昨年8月末、英国とフランスの間で「ホタテ戦争」が勃発した。仏北部のノルマンディー地方沖で、約40隻のフランス漁船が5隻の英国漁船を取り囲み、操業を妨害した。けが人は出なかったが、石を投げ合い、船体をぶつけあう乱闘となった。
▼背景にあるのは、ホタテ漁に対する両国の規制の違いである。フランスはホタテ資源の保護のため、5月中旬から9月末まで禁漁としている。英国漁船が、それにとらわれず漁を続けることにフランス側は不満を募らせてきた。

 会員登録してないとここまでしか読めませんが会員登録(ただし無料登録)を幸いしてるのでこれ以降を紹介しましょう。

▼ここ数年のサンマの不漁に悩む日本にとっても、人ごとではない。海水温や潮流の変化によって、日本沿岸に近づくサンマの数は減っている。中国や台湾の大型漁船が、公海上でサンマをごっそりさらっていくのも要因の一つとされる。

 やれやれですね。「海水温や潮流の変化」と書きながら、結局「中国ガー、台湾ガー」だそうです。「資源保護を考えない漁業」という意味では日本もそんなに自慢できる国ではないようですが「都合の悪いことは他人(特に産経が嫌う中国や韓国)に責任転嫁」が産経の考えの訳です。

今日の産経ニュース(2019年7月14日分)

【新聞に喝!】名も気分も戦中のまま 元東京大学史料編纂所教授・酒井信彦(2/2ページ) - 産経ニュース

 6月6日、芥川賞作家で文化勲章も受章した、田辺聖子さんが亡くなった。新聞各紙は死亡記事の外に評伝を掲載し、大きく報じたが、そこには「カモカのおっちゃん」シリーズという、「週刊文春」に長期にわたって連載された軽妙なエッセーが言及されていた。
 その中でも私が特に注目しているのは、熱心な新聞読者であった田辺さんが、新聞に対する評価を行った「ヒアサ新聞」と題した回だ(単行本・文庫本『女のとおせんぼ』所収)。日経・毎日・読売・朝日*1がとりあげられている。田辺さんが、朝日の記事は面白いと言うと、カモカのおっちゃんは、戦中・戦後の朝日について、次のように指摘したという。
 「朝日新聞は、戦時中の記事、毎日より勇ましゅうて派手で威勢よかった。庶民は『みい、朝日読んでたら、気ィ大きゅうなる』いうたもんです。『赫々(かっかく)の武勲、必死必中の体当り、敵大混乱』なんて書いて、庶民を嬉しがらせとった。毎日はわりと地味でしたな。朝日が派手で、みな朝日の記事がおもしろい、いうて人気あった。」
「名前も変えんと、戦中戦後、同じ名ァで、よう新聞つづけてる思うわ。新聞ほどアテにならんもんおまへんねんデ。」

 ウヨ雑誌「週刊文春」にこういう朝日への悪口を書くことが何を意味するか、田辺聖子ももちろんわかってることでしょう。
 産経の指摘が事実なら田辺について、呆れざるを得ません。以前から彼女の本を読んだことはない*2のですが今後も読まないでしょう。大体「名前を変えてない」つうなら文春だって名前を変えてないし、もちろん戦争扇動もしていたのですが。
 そして「戦争扇動」なら朝日、文春以外も「当時のマスコミ」は基本的に同じですし、むしろそれについて、一定の反省をしているのが朝日や毎日でしょう。無反省なのが例えば産経や文春の訳です。

 なお、ドイツ・イタリアでは、戦争中の新聞は、全て廃刊になったという。

 「つう事は産経も廃刊になるべきですね?(まさか産経だけは例外だと言いますか?)」「つうか、そういうあなたはあの戦争が間違った戦争だと言いたいのですか?(でも常日頃、正義の戦争だと言ってなかったですか?)」ですね。
 朝日や毎日に悪口さえ出来ればいいという考えしかないのでこういう馬鹿な発言が出るわけですが。


吉本興業・大崎会長 一問一答 反社との関係断絶を強化明言 闇営業処分「残念で仕方ない」 (1/3ページ) - 産経ニュース

 僕は闇営業という言葉を初めて知った。吉本では会社を通さない仕事も基本的にはOKです。ただ、反社会的勢力との付き合いは駄目。

 ということでこの発言を信じるならば「仕事を受ける前の会社への報告」はする必要があるのかもしれませんが「反社会的勢力など不適切な面がなければ、会社経由でない仕事でも基本的にOK」のようです。

*1:産経が取り上げられてないのは、「ウヨの田辺が産経批判を避けた」のか、単に「部数の少ない産経が眼中にない」のかが気になるところです。

*2:単に彼女に興味がないからであって、それ以上でもそれ以下でもないですが。つうか小生は基本「小説は時代小説(池波正太郎など)とミステリ(松本清張など)以外はまず読まない人間」ですが。

新刊紹介:「歴史評論」8月号

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生がなんとか紹介できるもののみ紹介していきます。まあ正直、俺にとって内容が十分には理解できず、いい加減な紹介しか出来ない部分が多いですが。
特集『戦争と科学・科学技術』
【前置き】
 もちろん今回の特集の問題意識は
赤旗
軍事研究禁止を継承/学術会議 50年ぶりに声明
主張/学術会議の新声明/軍事研究への明確な拒否回答
進む軍産学共同/防衛省の委託研究 分担機関に6大学/藤野議員への回答で明らかに
大学での軍事研究反対/学術会議声明1年で集い
軍事研究反対声明 多くの大学が対応/学術会議アンケート
戦争目的の研究 従わないために/日本学術会議がフォーラム/審査方針などつくる動きも

科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか 池内了著 実態示し知識人の責務説く :日本経済新聞
 『科学者と戦争*1』『科学者と軍事研究*2』の著書があり、科学研究と軍事とのかかわりを批判してきた著者*3が、次代を担う若手研究者向けに書き下ろした。「軍事研究に携わるべきではない」という明確なメッセージを発するのが目的だ。
 特に防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」の批判にページを割いた。この制度は大学の研究者らから「防衛分野の将来に資する」先端的な研究を公募する。大学の基礎研究費の削減や研究力の低下が叫ばれるなか、最大で1課題あたり20億円支給されるという気前の良さが話題を集めた。
 防衛装備庁によれば実施するのは「基礎研究」で「成果の自由な公表」が可能とされているが、実態はどうなのか。細かく検証し、まやかしが多いと結論づけている。応募してもよいのではないかと考える研究者の主張には逐一、反論し、知識人としての責任や社会から課せられた責務としての「ノーブレスオブリージ」が大切だと説く。
 世界は過去の教訓から戦争を回避するようになっており軍事研究は膨大な無駄だという主張などは、最近の緊迫した国際情勢をみれば異論もあろう。全体的に一方的論調が目立つが、社会とのかかわりを深く考えたがらない傾向の目立つ研究の世界に一石を投じる内容ではある。

龍谷大:軍事研究「関与しない」 学長が声明 教育への投資減/防衛関連の予算増 「強い懸念」 /京都 - 毎日新聞
 龍谷大(京都市)は「あらゆる軍事研究に関与しない」とする入澤崇学長の声明をホームページ(HP)上で発表した。声明は20日付で、私立大への助成金が減らされる一方で防衛費が著しく増加しているとし、「教育への投資が少なくなり、防衛ないし軍事関連の予算が増えていることについて大学として強い懸念を覚える」と警鐘を鳴らしている。

などといった「問題意識と同じところ」にあるわけです。なお日経の書評は「財界や安倍政権の機関紙」と呼ばれる新聞らしい論調(軍事研究について論じることにはもちろん反対しないが、軍事研究に全否定的な池内氏の結論には賛同しがたい)と言うべきでしょうか。
【前置き終わり】


■戦時下における研究支援制度の拡充 (水沢光*4
(内容紹介)
・1930年代から1940年代の日本の公的研究支援制度について述べられている。
・1933年に日本学術振興会研究費制度が創設される。この研究費は以前からあった文部省の科学研究助成金の約7倍と格段に金額が大きかったが、
1)軍部や財界の委託研究費が多い
2)その結果として「工学分野」「応用研究」の割合が非常に多いという問題点があった。
・その結果、「基礎研究」「工学以外の研究」への研究支援制度を拡充するためとして1939年に文部省科学研究費交付金が創設された。
・また1940年には文部省専門学務局に「科学課」が新設され、科学課は1942年には科学局に格上げされた。
・太平洋戦争開戦後は「科学の戦力化」が打ち出され、科学研究費交付金もその影響を受けざるを得なかったが、しかし残された資料からは「太平洋戦争開戦後」も極端に工学分野が増大するようなことはなかったことが見て取れる。
 「太平洋戦争開戦後の公的研究支援制度」については、今後のさらなる研究が必要だが
1)軍事研究については軍部の予算も存在したこと
2)文部省は「基礎科学の振興」と言う方針を維持し続けたこと
3)(2)に関連して)文部省は、科学研究費交付金の予算配分を、原則として「科学者の集まりである学術研究会議(現在の日本学術会議の前身)」の決定に委ねたこと(つまり文部省からあれこれ指示することはできる限り避けたこと)
で「科学の戦力化が打ち出された後も」、科学研究費交付金は軍事分野に急激に偏重することはなかったと思われる。
 なお、文部省科学研究費交付金制度が創設された1939年といえば文部大臣(平沼内閣)は陸軍大将の荒木貞夫であり、その後も小磯*5内閣で陸軍中将の二宮治重*6が文部大臣に就任したが、この交付金について、軍事研究分野への傾斜があまり認められない点は興味深い。

参考

■科学研究費助成事業
・1939年(昭和13年)に文部省科学研究費交付金の制度が創設された。陸軍大将荒木貞夫*7が平沼*8内閣文部大臣を務めていたときで、300万円(現在の金額で約43億円)の予算が認められた。
 当初は自然科学分野だけが助成対象であったが、文部省・科学振興調査会の平賀譲*9らの後押しで1943年(昭和18年)度から人文・社会系の諸学問にも拡大された。

広重徹『科学の社会史(上)-戦争と科学』 - yokoken001’s diary
・研究費の増大と諸機関の連絡調整の促進という点で、著しい前進をもたらしたのが、日本学術振興会(以下、学振)であった。桜井錠二*10古市公威*11、小野塚喜平次*12の学会長老らの呼びかけで、1931年に学士院に集まり、協議したことをきっかけに、1932年に正式に誕生した。学振の意義は、その桁違いの額の大きさであり、商工省や学士院の補助金を合わせても、その3倍近い額にも上った。さらに重要なことは、学振が個人研究費ともに、総合研究を促進しており、大学や研究機関の間の連携を図り、研究活動を産業軍事に結びつける狙いを持っていたということだった。このような豊富な資金と、近代化への志向とに支えられた学振は、また、日本の研究水準を上昇させた。たとえば、(ボーガス注:湯川秀樹朝永振一郎という)2人のノーベル賞受賞者を出した原子核宇宙線の研究は、学振の第10小委員会によって、本格的軌道に乗った。戦争へ向けての科学の国家的動員の中で、初めて研究らしい研究が行われ、世界水準に近づくことができた。
・第6章「科学技術新体制」では、日中戦争の長期化に伴って登場した科学動員の新しい側面について述べられる。新しい要素とは、第一に1938年の内閣改造で、陸軍大将荒木貞夫が文部大臣になったことを契機に、文部省による科学行政の積極化が始まったということである。
 1938年8月にはさっそく科学振興調査会が設置され、ここで文部省の諮問に応じて科学振興に関する重要事項が調査審議されるようになった。そして、調査会自らの建議で、1939年文部省科学研究費交付金(以下、科研費)が創設され、その事務を担う独立課として科学局が1942年発足した。この科研費の創設の背景には、基礎科学が十分でないとの認識であり、荒木は、科研費は何の役に立つかなど言わずに、使い捨てにするつもりでなければならないと述べている。

 上で紹介した広重徹*13の著書『科学の社会史(上)(下)』は岩波現代文庫で入手が出来ます。他に広重の著書としては『近代科学再考』(朝日選書→後にちくま学芸文庫)、『思想史のなかの科学』(共著、平凡社ライブラリー)があります。
 さて、話が脱線しますが
 基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ないと思う - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)の指摘「基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ないと思う」が

広重徹『科学の社会史(上)-戦争と科学』 - yokoken001’s diary
 このような豊富な資金と、近代化への志向とに支えられた学振は、また、日本の研究水準を上昇させた。たとえば、(ボーガス注:湯川秀樹朝永振一郎という)2人のノーベル賞受賞者を出した原子核宇宙線の研究は、学振の第10小委員会によって、本格的軌道に乗った。戦争へ向けての科学の国家的動員の中で、初めて研究らしい研究が行われ、世界水準に近づくことができた。

という広重の指摘でも裏付けられた(?)わけです。
 要するに科学研究振興で大事なことは「カネとか設備」であって「民主主義」じゃないと。
 「学振が誕生し、科学研究が発展したという1932年」は「日本の民主主義が進展した年」なのか。そんなことはないわけです。さすがに阿部治平も「日本の民主主義が進展したので1932年に学振が出来て、科学も発展したのです」とはいわないでしょう。
 まあ、こんなのは当たり前の話ですけど。戦前日本に限らない。ナチドイツだって、ソ連だって、何だって同じです。
 あるいは後で紹介する■二〇世紀の農業技術と戦争技術(藤原辰史)に名前が出てくる「ノーベル賞受賞者フリッツ・ハーバー(彼がノーべル賞を受賞した業績である『新技術』フリッツ・ハーバー法は帝政ドイツ時代に発表された)」だって同じです。
「基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ない」。
 そんな当たり前のことも

リベラル21 密告は習性なのか――中国の大学において教育・研究の発展を阻むもの
 社会科学だけではない。科学・技術の分野でもこれでは定説を越えた新学説が生れにくい。伝統的芸術の革新もできない。実に中国にとって不幸な時代がやってきたといわなければならない。

と書いて「中国相手にだけは」認められない阿部治平が「異常な反中国」でおかしいだけです。俺は「異常な反中国&異常なアンチ日本共産党&異常なダライ・ラマ盲従分子」の「阿部治平」が「反吐が出るほど大嫌い」だし、「狭量な性格」なので機会があるごとにこうして阿部への悪口を書くことにしています(苦笑)。しかし阿部もいい加減自分の間違い(理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ある、は間違い)を認めればいいのに。たぶん「未だに巣くう会と付き合ってる家族会」と同じで「つまらないメンツにこだわってる」んでしょう。阿部も呆れたバカです。
 なお、「更に話が脱線しますが」荒木貞夫といえば

荒木貞夫ウィキペディア参照)
・1933年(昭和8年)、大阪でいわゆるゴーストップ事件が発生。犬養*14内閣陸相であった荒木は「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」と憤慨し、内務省と対立した。
 1933年10月には外国人記者団との記者会見において、「竹槍三百万本あれば列強恐るるに足らず」と口にして座を呆然とさせたという(竹槍三百万論)。さらに来日中の作家ジョージ・バーナード・ショーとの会談において日本人は地震によって強靭な精神を鍛えたのだと主張したという(地震論)。
石原莞爾*15は荒木のことを「無能な男」と徹底的に嫌っていた。二・二六事件の最中、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時陸軍大佐)は荒木に向かって「お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と罵倒した。荒木が「何を無礼な!上官に向かってばかとは軍規上許せん!」と言い返すと石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけた。
・1938年(昭和13年)に、第1次近衛内閣の文部大臣に就任すると同時に、「皇道教育」の強化を前面に打ち出した。
 戦後の東京裁判においては、文相時代の事柄も追及されることとなった。裁判の法廷において、証人として出廷した大内兵衛(戦後、法政大学総長)は、法廷証言で、軍事教育を通じて、軍部による学園弾圧が強化されていった過程を「1938年、荒木文相の時、各大学における軍事教育が一層強制的となり、軍部の学校支配が強化された」「軍事教練は、荒木さんが陸相当時、東大で採用するよう要求があった。この時東大は拒絶したが、1938年に荒木さんが文相になった時、軍事訓練は強制的となった」と証言している。
・口癖は「非常時」「皇国精神」「皇軍」だった。それまで「国軍」という言い方が普通であった日本陸軍を、「皇軍」と称したのは荒木がはじめと言われる。
青年将校たちとは友達感覚で接し、自宅に彼らを年中たむろさせ、明け方まで痛飲することも多かったことで知られていた。青年将校たちは、面と向かって大将である荒木を呼び捨てにし、荒木も怒るどころかニコニコしながら「若い者は元気があって良い」と上機嫌であったという。そのため、他の将校たちから顰蹙を買うことも多く、陸軍内で問題視された「下克上」の風潮も、「関東軍板垣征四郎*16石原莞爾)による満州事変実行など他の理由も当然ある」ものの、荒木の言動も大きな要因の一つだったと言われている。

ということで「ゴーストップ事件での横暴な振る舞い」や「合理主義軽視、精神主義重視としか思えない言動」などで悪名高い御仁ですが、文相時代の荒木の発言

広重徹『科学の社会史(上)-戦争と科学』 - yokoken001’s diary
「(基礎研究を振興するためには)科研費は何の役に立つかなど言わずに、使い捨てにするつもりでなければならない」

は実に普通です。
1)荒木が「科学技術分野には特に関心がなかった」ので「その点については文部官僚や学者のいうとおりに動いていただけ」なのか、
2)ある程度は彼にも彼なりの信念(例えば「軍事研究を進展させるには『急がば回れ』でむしろ基礎研究を重視すべきだ」「軍事研究を重視して他の研究を犠牲にしたらかえって国力が劣る。軍のために国があるのではない」「軍事研究は基本的に軍事費でやればいい」「科学のことは基本的に科学者に任せるべきだ」など)がありその信念から「文部官僚や学者の意見に賛同して動いていた」のか、
3)あるいは「大学への軍事教練導入」など荒木のやりたい右翼的なことを大学側に飲ませるためのあめ玉としての「科学研究費増大」だったのか
が気になるところです。
 いずれにせよ「荒木文相による科学予算の増大」も「基本的に、理数系の学問振興と政治体制・民主主義の程度は関係ない」事を証明する事実の一つです。さすがに阿部治平も「荒木貞夫は民主主義者だから、文相時代に科学予算を増やしたのです」とはいわないでしょう(勿論阿部への皮肉)。
 なお、「更に話が脱線します」がそれにしても当時の大学関係者が荒木文相をどう評価していたのか知りませんが、仮に「大学での軍事教練などマイナス面があるにしても荒木さんは文相として科学研究費を大幅に増やしてくれた」として感謝する人間がいたとしても理解は出来ます。
 なんとも無様で無残な話だと思う(拉致被害者家族の有本明弘氏) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)も批判していますが、安倍や「荒木は荒木でも、荒木和博」に対する家族会の態度は理解が出来ませんね。安倍や「巣くう会の荒木」が「荒木文相による科学研究費増大」のような何かをやってくれたのか。何もやってないわけです。
 荒木貞夫をたとえにすれば

「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」(陸軍大臣時代の荒木貞夫

レベルの態度(経済制裁)しか北朝鮮にはとってない。
 なお「ゴーストップ事件の顛末」についていえば

 最終的には、事態を憂慮した昭和天皇の特命により、大阪第四師団長・寺内寿一*17中将の友人であった白根竹介*18兵庫県知事が調停に乗り出した。天皇が心配していることを知った陸軍は恐懼し、事件発生から5ヶ月目にして急速に和解が成立した。11月18日、井関第4師団参謀長と粟屋大阪府警察部長が共同声明書を発表し、11月20日に当事者の戸田巡査と中村一等兵が和田良平検事正の官舎で会い、互いに詫びたあと握手して幕を引いた。和解の内容は公表されていないが、警察側が譲歩したというのが定説となっている。

というなんとも締まらない結末になっています。荒木のいう「陸軍の名誉にかけて大阪府警察部を謝らせる」というほど「陸軍が全て正しい、と大阪府警がいう」ような話には少なくとも表向きはなりませんでした。
 そして「更に話が脱線します」が、近衛文麿という人は

【第1次近衛内閣】
・文部大臣:荒木貞夫(陸軍)
外務大臣(拓務大臣兼務):宇垣一成*19(陸軍)
・内務大臣:末次信正*20(海軍)
【第2次近衛内閣】
・商工大臣:豊田貞次郎*21(海軍)
・司法大臣:柳川平助*22(陸軍)
【第3次近衛内閣】
厚生大臣:小泉親彦*23(陸軍)
・商工大臣:左近司政三*24(海軍)
外務大臣(拓務大臣兼務):豊田貞次郎(海軍)

ということで「荒木以外でも」陸軍大臣海軍大臣でない「軍人大臣が多い」点が興味深いと思いますね。

水沢光「日中戦争下における基礎研究シフトー科学研究費交付金の創設」『科学史研究』第51巻(2016年)、210-219頁。 - yokoken001’s diary
 1939年文部省は科学研究費交付金300万円を予算に計上する。日本学術振興会の研究費が応用研究に重点をおいていたのに対し、科学研究費交付金は基礎的な分野の研究を推奨するという特徴を持っていた。実際、報告書からも多くは戦時下の緊急問題とは直接関係のない基礎研究であったことがわかる。1930年後半以降の研究費の推移をまとめると、日中戦争の元で、当初、応用研究が拡大したが、研究を進めるなかで、大学の研究環境が貧弱であることが障害になっているという認識が広がった。そのため、1939年以降、戦時下であるにもかかわらず、基礎研究の援助に重点を置く科学研究費交付金が創設されることになった。つまり、1939年に応用研究の推進から、基礎研究への重視へと「基礎研究シフト」がおこった。

三 学術行政の強化:文部科学省(文部省『学制*25百年史』(1981年(昭和56年)発行))
 研究の助成のため、文部省にはじめて自然科学奨励金が設けられたのは大正七年からであるが、その額も大正十一年の一五万円からしだいに削減されるような有様であった。このような背景のあとに昭和七年、日本学術振興会が誕生したのは学界にとってまさに画期的なことであり、それだけその役割も大きかった。
 しかし、行政面からも学術を担当する文部省においては、学術行政を専掌する部局を欠き、わずかに専門学務局の一課に学芸課があり、学校行政以外の学術・芸術全般を取り扱っていたにすぎなかった。
 国家社会が、国力の基盤は究極において科学の力にまつべきものであるとの認識を深めたのは、国防国家の確立が呼号されはじめた昭和六年の満州事変のころからであり、その前後から政府もしだいに科学に対する関心を深めた。さらに、昭和十二年七月、(ボーガス注:盧溝橋事件による)日華事変*26の勃発からわが国は長期にわたる戦時体制に突入し、国家総力戦体制の進展とともに、戦争遂行の原動力としての科学技術の重要性はいっそう明確となった。この当時から国家の科学に対する関与はさらに積極化し、行政上にも種々の施策が講ぜられるに至った。
 まず、昭和十三年八月、文部省は科学振興調査会を設置した。これは、学術研究会議の代表と文部省首脳が会談の結果、従来の学術行政の貧困を改め、「我ガ科学界ノ現状ヲ批判検討シ其ノ制度施策内容並ニ運営等各般ニ亘ツテ之ヲ刷新拡充シ以テ我ガ国科学ノ根木的振作ヲ図ルタメ」必要な具体的方策を審議することを目的とするものであった。調査会は、十四年三月から十六年三月まで「人材養成ノ問題及研究機関ノ整備拡充並ニ連絡統一ニ関スル件」(答申第一)、「大学ニ於ケル研究施設ノ充実ニ関スル件」、「大学専門学校卒業者ノ増加ニ関スル件」(答申第二)、「科学研究ノ振作及連絡ニ関スル件」、「科学教育ノ振興ニ関スル件」(答申第三)の答申を行なったが、その内容は科学振興に関し各般にわたって重要な具体策を述べたものであった。
 これらの答申に基づいて、文部省は、まず昭和十四年度の追加予算にはじめて科学研究費交付金三〇〇万円を計上した。科学研究奨励金が、昭和六年以降七万三、〇〇〇円にすえ置かれたのに比し、これは飛躍的な金額であった。当時、わが国の中国における軍事行動*27に対し、諸外国の反感が激化し、わが国に対する科学封鎖の傾向が著しくなり、この危機を打開するためには、わが国の科学をその根底から振興する必要が痛感されたためである。なお、科学研究費の配分審査は、文部省から委嘱を受けて学術研究会議が行ない、また、この研究費は当初は自然科学だけを対象としていたが、昭和十六年から逐年増額されて人文科学にも拡大するようになった。
 なお、科学研究費の配分審査は、文部省から委嘱を受けて学術研究会議が行ない、また、この研究費は当初は自然科学だけを対象としていたが、昭和十六年から逐年増額されて人文科学にも拡大するようになった。
 次に、文部省自身の学術行政体制を強化し、昭和十五年二月、専門学務局学芸課から、新たに科学課を分離・新設し、さらに昭和十七年十一月には科学局に拡充した。

三 学術行政の強化:文部科学省
 文部省は、まず昭和十四年度の追加予算にはじめて科学研究費交付金三〇〇万円を計上した。科学研究奨励金が、昭和六年以降七万三、〇〇〇円にすえ置かれたのに比し、これは飛躍的な金額であった。当時、わが国の中国における軍事行動に対し、諸外国の反感が激化し、わが国に対する科学封鎖の傾向が著しくなり、この危機を打開するためには、わが国の科学をその根底から振興する必要が痛感されたためである。

については「日中戦争勃発による科学封鎖(欧米による日本人留学生の受け入れ拒否など)」の恐れがそんなに高かったのかどうかは「議論がある(つまり科学予算を増やすために、科学者たちが実際より話を盛っていた疑いがある)」ようですが、いずれにせよ「科学封鎖を招きかねない」という意味でも「日中戦争は愚策」でした。


■二〇世紀の農業技術と戦争技術(藤原辰史*28
(内容紹介)
 筆者の過去の著書『戦争と農業』(2017年、インターナショナル新書)、『トラクターの世界史』(2017年、中公新書)などを元に「農業技術(農薬、化学肥料、トラクター)」の軍事転用について述べられている。
1)農薬と毒ガス
 これは説明するまでもないでしょう。

参考

フリッツ・ハーバー(1868~1934年、ウィキペディア参照)
・ドイツの化学者。空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法で1918年、ノーベル化学賞を受賞。しかし、第一次世界大戦時に塩素ガスを始めとする各種毒ガスの開発に関与したことから「化学兵器の父」「毒ガス兵器の父」と呼ばれることもある。当時、ハーバーの受賞に対しては各国からの批判があった。
・オットー・ハーン*29に、毒ガスの使用はハーグ条約に違反するのではないかと問われたハーバーは、毒ガスを最初に使用したのはフランス軍だと述べ、さらに、毒ガスを使って戦争を早く終わらせることは、多くの人命を救うことにつながると語ったという。
・1919年にハーバーが液体殺虫剤として開発したツィクロンBは、その殺傷能力に着目され、1942年ごろよりアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所などのナチの強制収容所でのガス殺用途で使用された。

2)化学肥料と火薬

ハーバー・ボッシュ法ウィキペディア参照)
 パンの原料である小麦を始めとして農作物を育てるには窒素分を含む肥料の十分な供給が不可欠だが、その窒素を供給する化学肥料を生成するのにハーバー・ボッシュ法が使えるため、この方法の発見によって農作物の収穫量は飛躍的に増加した。
 そのため、ハーバー・ボッシュ法は、「空気からパンを作る方法」と言われた。
 しかしハーバー・ボッシュ法は、爆薬の原料となる硝酸の大量生産を可能にしたことから「空気から爆薬を作る方法」ともいわれた。ハーバー・ボッシュ法によって、ドイツは、第一次世界大戦で使用した火薬の原料の窒素化合物の全てを国内で調達できたという。

3)トラクターと戦車
 筆者に寄ればトラクターの技術が軍事転用されて生まれたのが戦車だという。

参考

"トラクター史"を知らずに人類史を語るな | プレジデントオンライン
 イギリス陸軍工兵中佐アーネスト・スウィントン卿(1856~1951)が開発を試みた。彼は、西部戦線で物資運搬に利用されていたアメリカのホルト社の履帯トラクターからヒントを得た。
 これを戦場用に改造したものを投入すれば、塹壕を踏み越え、湿地帯も多かった西部戦線を突破できるのではないか。スウィントンはそう考えたが失敗に終わる。代わりに戦車開発の主導権を握ったのが当時海軍大臣だったウィンストン・チャーチル*30(1874~1965)であった。
 幾度もの失敗を経て、イングランドリンカーンにある農機具メーカーのウィリアム・フォスター&カンパニー社が105馬力の試作品「リトル・ウィリー」を製作する。ダイムラー社のエンジンを搭載し、農業用トラクターとそれほど変わらない車体を装甲したものであった。さらに開発が進み、最終的に、世界初の戦車マークIが49台投入されたのは、1916年10月20日、ソンムの会戦*31であった。
 戦時の運搬力もまた、馬からトラクターへ移行していく。第一次世界大戦後には軍事用トラクターがつぎつぎに開発される。
 ヴェルサイユ条約で徴兵制とともに空軍や戦車の保持を禁止されたドイツは、秘密裏に戦車を開発する策を練る。
 ダイムラー・ベンツ社、クルップ社、マシーネンファブリーク・アウクスブルクニュルンベルク(MAN)社やヘンシェル社などの主要な軍需産業が、LaSというコードネームで戦車の開発を続けた。LaSは、 Landwirtschaftlicher Schlepper(農業用トラクター)の頭文字をとったものである。1935年3月のナチス再軍備宣言後、わずか1年でI号戦車A型が生産されたが、それこそがLaSであった。
 I号戦車は8ミリから15ミリの機銃しかもたない豆戦車だが、(中略)スペイン内戦やポーランド侵攻、対仏戦争の初期まで実戦にも投入された。続くII号戦車も、再軍備宣言以前から、LaS100というコードネームで開発され、実戦に用いられた。ただ、独ソ戦では、その後に開発されたIII号戦車とIV号戦車が主力であった。
 第二次世界大戦時にはほとんどのトラクター企業が戦車開発を担うようになる。ドイツのランツ社が全トラクターの生産のうち、50%を戦車生産に切り替えたのは1943年のことであった(大島隆雄*32第二次世界大戦中のドイツ自動車工業(2)」)。
 日本でもトラクターの軍事的有用性は自明であった。鐘紡ヂーゼル工業会社取締役車両部長の渡邊隆之助は、1943年に『牽引車(トラクター)』というトラクターの概説書を執筆しているが、そのなかの「大東亜建設と牽引車の意義」という箇所でつぎのように書いている。
 「国防自動車科学面にクローズアップされたトラクターは、大東亜の資源開発、輸送力向上等によって平時増強作用が行なわれる」。「農地開発、増産目的上東亜的なトラクター農法は急速に実現する可能性がある」。「米、英、ソは勿論、独、伊、仏等、自動車工業力下にトラクター工業の組織を有しないものはない」
 つまり、平時の農業用トラクターとは軍事利用を前提に開発すべきであり、それは、ちょうどドイツの企業がトラクター開発の名の下に戦車を秘密裏に製造していたように、自動車工業の発達している国では常識になっていると述べたのである。
 さらに、渡邊はつぎのようにも述べている。
「牽引車は無論第一線兵器ではないとは云え、准第一線兵器であろう。/キャタピラー会社は、大東亜戦争勃発前半年位迄他の自動車会社に倣わず、兵器車両の政策を拒んでいたが、遂いに服従して政策を初めたと云う記事が、戦前に届いた雑誌に載っていたが、聊か緊張感を覚えさせるものがある」(前掲書)。
 ソ連もトラクターの戦時利用に積極的であった。
 1933年6月1日、第一次5ヵ年計画の一環として、南ウラル地方のチェリャビンスクに建設された「チェリャビンスク・トラクター工場」は、ソ連の重要なトラクター生産の拠点であった。同年中に、初の履帯トラクター「スターリニェツ60型」を生産した。スターリニェツとは「スターリン主義者」という意味である。独裁者の名前がトラクターに付けられたのは、世界史上でこれが最初であるが、ただ、スターリニェツ60型は、アメリカのキャタピラー60型のコピーであった。
 チェリャビンスク・トラクター工場は、他方で、戦車生産の拠点でもあった。しばしば「タンコグラード Tankograd」、すなわち「戦車都市」と呼ばれていたことからもわかるように、戦争中に約1万8000台の戦車を生産している。1941年にはKV-1、翌年にはT-34など、赤軍を代表する戦車もここで作られていた。
 もちろん、ドイツやソ連ばかりではない。
 イタリアではフィアットが1910年に最初のトラクターを完成したが、1917年にはイタリアで初の戦車となるフィアット2000を試作している。フランスのルノーも、19世紀末から20年間自動車を製作してきたが、1919年に最初の20馬力の履帯トラクター、HI型を完成している。これは、第一次世界大戦期に製作していた戦車をベースに作られたものである。ルノーフィアットも両大戦期とも戦車や軍用車を生産していた。
 以上の意味で、トラクターと戦車はいわば双生児であり、ジーギル博士とハイド氏のようにドッペルゲンガー(二重人格)の機械であったということができよう。

 「第一次大戦を契機に馬からトラクターに運搬手段が変化」と書いてありますが、日中戦争、太平洋戦争当時も「馬で運搬していたのが日本軍」で、一方、米軍は自動車でした。
 それで「日本が米国に勝てる」と思うのは客観的に見て正気の沙汰ではないでしょう。

I号戦車ウィキペディア参照)
 ドイツが第一次世界大戦後、初めて量産した豆戦車(5トン級)である。
 ヴェルサイユ条約によって戦車の開発を禁じられたドイツだが、その後、秘密裏に「トラクター開発」の口実で戦車の試作が行われた。
 1932年、戦車開発の参考用として、イギリスのヴィッカース・アームストロング社より、トラクター3両が輸入された。クルップ社が同年完成させた試作戦車は、このイギリス製車トラクターの設計の影響を色濃く受け継いだものとなった。
 生産はクルップ社のほか、マシーネンファブリーク・アウクスブルクニュルンベルク*33(略称MAN(マン))、ダイムラー・ベンツ*34ヘンシェル*35、ラインメタル*36にも振り分けられ、1936年6月までに818両のI号戦車A型が生産された。
 1938年のオーストリア合邦で使用されたほか、1936年以降、実戦テストを兼ねて100両がスペイン内戦に送られた(ヒトラー政権はフランコ軍を支援していた)。
 その脆弱さはスペイン内戦ですでに露呈していたが、ポーランド侵攻デンマーク侵攻、ノルウェー侵攻、フランス侵攻、バルカン半島侵攻、バルバロッサ作戦(ソ連奇襲作戦)、北アフリカ戦線など、ドイツ軍の主だった戦場すべてで使用された。大砲ではなく機銃しか装備されていなかったため大砲を持つ敵戦車には対抗できず大きな損害を出したが、後継戦車のⅡ号戦車、III号戦車、IV号戦車が充足されるまで前線で使われ続けた。
 中華民国に輸出されたⅠ号戦車は日中戦争の南京防衛戦に使われた。この際、4両が日本陸軍に鹵獲され、昭和14年頃に靖国神社で展示された。ただし、ドイツとの国交を考慮して、「ソビエト製の戦車」として展示された。

 こうした事実から筆者は「軍事技術と民生技術」は必ずしもはっきりと区分けできるものではなく「民生技術の軍事転用」の危険性を警戒する必要があるとしている(もちろん後で紹介するマンハッタン計画や戦前日本の原爆研究などのように明らかな軍事研究もありますが)。
 なお、「軍事研究」と言うテーマから外れるので、藤原氏も「民生技術の軍事転用と言う問題とは別途、トラクター、化学肥料、農薬には現在問題が生じていることにも注意する必要がある」として簡単にしか触れていませんが、たとえば「化学肥料」という技術は現在、「窒素成分による水質汚染」と言う問題を生んでることも指摘しておきます。


■戦時期日本の科学と植民地・帝国(加藤茂生)
(内容紹介)
 日中戦争、太平洋戦争時に植民地において日本は
1)農学研究(満州での寒冷地農業、東南アジアでの南方農業の研究)
2)地質学研究(満州や南方での石油、石炭、レアアースなどの探索についての研究)を実施した。しかし結果的にはたいした成果を上げることは出来なかった。
 ちなみに加藤論文は岩瀬昇*37『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』(2016年、文春新書)を紹介しています。この本、なかなか面白そうなので後でネット上の記事を紹介しておきます(機会があったら読んでみようかという気もします)。
 満州で石油探索を行いながら「油田発見についに失敗した日本」ですが、皮肉にも日中戦争終了後、中国政府によって満州中国東北部)で「大慶油田」が発見されることになります。

失敗の本質ーエネルギー版『日本軍はなぜ満洲大油田を発見できなかったのか』 - HONZ
 中国東北部、かつての満洲大慶油田という油田がある。日本の九州ほどの巨大な面積に広がり、これまでの中国経済の成長を支えてきた世界有数の巨大油田である。このほとんどの日本人が知らない油田こそ、第二次世界大戦中に日本軍が喉から手が出るほど渇望したものの、遂に発見できなかった油田である。
 歴史に「もしも」は無いのは無論だが、もしも日本統治下の満州でこの大油田が発見され*38、日本が十分なエネルギー源を得ていれば、アメリカへの開戦という無謀な戦争をしかける必要はなかったのかもしれない*39
 「満洲で日本が油田を発見できなかったのは不運だった」とこれまで片付けられてきたこの問題に、著者は新たな視点から失敗の本質をあぶりだす。資源開発の実務経験ある著者が注目したのは、当時満洲での油田探査で使用されていた機器や作業内容だ。過去の資料から読み解けるのは、時代遅れの機材や中途半端な作業など、時の最先端とはほどとおいずさんな探査活動の内容だった。
 民間企業は当時から欧米の最新鋭機器や最先端技術を取り入れて資源開発を推進していた一方、日本軍は、欧米で一般に使われていた機材・技術の活用を拒み、精神論で油田を発見しようとしていた。十分な機材・技術なしには、いくら優秀な技術者でも油田を見つけることはできない。エネルギー開発の基礎中の基礎をも把握していなかった日本政府・軍による明らかな失策である。
 あまりにも情けない失策に開いた口が塞がらないが、その他にも本書では、石油実務を知らない素人によるソ連との権益交渉、荒唐無稽なエネルギー需給分析に基づいて判断された開戦の意思決定、松の切り株を原料として戦闘機を飛ばそうとする日本軍の計画など、いかに当時の日本の中枢がエネルギー音痴であったかがこれでもかと紹介されている。


■原爆研究をめぐる物理学者たちの戦時体験 (小長谷大介*40
(内容紹介)

日本陸軍の原爆開発計画「ニ号研究」に中心人物として関わった仁科芳雄理化学研究所教授
日本海軍の原爆開発計画「F研究」に中心人物として関わった荒勝文策・京都帝国大学教授

について述べられています。

【参考:ニ号研究】

<阿武隈川物語>(33)無謀な国策甘さ共通 | 河北新報オンラインニュース
 阿武隈山地福島県石川町にある塩ノ平採掘場跡。旧日本陸軍が戦前、ウラン鉱を採掘した。
 「大した道具がなく、スコップとつるはしで掘った。無我夢中で、原爆を作ろうとしていたとは知らなかった」
 旧制石川中学(現学法石川高)の生徒で採掘に動員された前田邦輝さん(88)=石川町在住=が昨年8月6日、現場を案内しながら証言してくれた。
 陸軍が極秘に進めた原爆開発「ニ号研究」。日本は制海権を奪われ、原爆の原料を国内で調達する必要に迫られていた。そこで、ウランの有望な採掘先と目されたのが同町だ。
 阿武隈山地は花こう岩帯で、町は巨晶花こう岩「ペグマタイト」が採れる日本有数の地域。そのペグマタイトに、放射性鉱物「サマルスキー石」が含まれる。
 ただ、サマルスキー石に含まれるウラン鉱は約25%。その中に、核分裂を起こすウラン235は0.7%しかない。ウラン235の分離は四つの方法が考えられ、日本はガス化して濃縮する熱拡散方法を模索したが、実現できなかった。米国は全ての方法を試して成功した。
 前田さんは「石川のウランで原爆が作れるとは、素人でも思えない。無謀な国策だった」と振り返る。
■ニ号研究:
 旧陸軍航空本部が理化学研究所に依頼。戦況が悪化した1943年ごろから本格化したとされる。中心となった物理学者仁科芳雄博士の姓を取り、ニ号研究と呼ばれた。理研の飯盛里安博士が石川町に移住し、ウラン採掘を進めた。

【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…(1/13ページ) - 産経ニュース
 終戦が迫っていた昭和20年4月。ニ号研究による原爆開発で起死回生を狙う陸軍は、福島県石川町の山間で、旧制私立石川中(現石川高)の3年生約60人を学徒動員し、ウランの採掘を開始した。
 陸軍将校から「君たちが掘っている石がマッチ箱1個分もあれば、ニューヨークを吹き飛ばす爆弾が作れる」と言われた。「お国のために頑張らなくては」と精を出した。
 原爆開発に必要なウランは当時、日本ではほとんど産出しなかった。陸軍はドイツや朝鮮半島から秘密裏に運ぼうとしたが、いずれも失敗。戦前から微量のウランを含む「ペグマタイト」という鉱石を少量産出することで知られる石川町に、望みをつないだのだ。
 ニ号研究は6月に中止されたが、町には情報が伝わらず、採掘は終戦当日まで続いた。学徒による採掘量は1トン近くともいわれるが、どこに運ばれたかは不明で、何の役にも立たなかった。
 前田邦輝さん(85)は「自分たちが掘っていたものが何だったのか、戦後数十年たって初めて知って驚いた」。結局、ウランは採れなかったが、それでよかったと思っている。
 米英は1944年の時点で計3670トンのウランを確保していたが、日本は多くても1トン程度。理研がウラン濃縮で大量生産に不向きな熱拡散法を採用したり、装置に不具合が生じたりしたのも、開発に必要な資材の不足が影響している。
 米国のマンハッタン計画には12万人が参加し、研究費は当時の22億ドル(103億円)に上った。これに対し日本の原爆研究者は数十人で、研究費もニ号研究で2000万円にすぎない。組織も陸海軍で一本化されておらず、開発体制はあらゆる面で脆弱(ぜいじゃく)だったといえる。
 核開発史に詳しい山崎正東京工業大名誉教授(70)は「こんな状況で、日本は初めから原爆など開発できるはずがなかった。予想通りの結果に終わった」と話す。

幻の原爆開発 理研「ニ号研究」、ウラン濃縮が壁に
 研究が始まったのは戦前の昭和16年4月。欧米で核分裂反応を利用した新型爆弾が開発される可能性が指摘されていたことを背景に、陸軍が理研に原爆の開発を依頼した。核物理学の世界的権威だった仁科芳雄博士に白羽の矢が立った。
 本格化の契機になったのは仁科が昭和18年6月に陸軍へ提出した報告書だ。核分裂のエネルギーを利用するには少なくともウラン10キロが必要で、「この量で黄色火薬約1万8千トン分の爆発エネルギーが得られる」と記した。後に広島に投下された原爆に相当する威力だ。これに陸軍が反応した。
 「米独では原爆開発が相当進んでいるようだ。遅れたら戦争に負ける」。
 東条英機*41首相兼陸軍大臣は研究開発の具体化を仁科研究室に命令。「ニシナ」の名前から、計画は「ニ号研究」と名付けられた。
 分離筒は昭和19年3月に完成し、7月から実験が始まった。理論的にはうまくいくはずだった。だが六フッ化ウランが筒と化学反応を起こして分離できない事態に陥る。筒には化学反応を起こしにくい金メッキをすべきだったが、戦時中の物資不足で銅を使ったことが落とし穴になった。
 実験は計6回行ったが、いずれもうまくいかない。昭和20年1月、チームの1人は日誌に「行き詰まった感あり」と記す。分離筒を作製し、実験で悪戦苦闘した竹内柾(まさ)氏は戦後、49号館を「始終苦号館」と評した。
 (ボーガス注:昭和20年6月)仁科はニ号研究の中止を決断した。
 広島に原爆が投下されたのは、その2カ月後だった。
 広島の原爆には計り知れないショックを受けた。現地調査に赴く直前、研究員にあてた手紙にこう書き残した。
 「ニ号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来た。米英の研究者は理研の49号館の研究者に対して大勝利を得たのである」
 科学者としての敗北感と自責の念がにじむ。
 次男の浩二郎氏(83)は現地調査から帰宅したときの仁科の様子を覚えている。
 「悲惨な状況を目の当たりにして、大きな衝撃を受けていた」
 仁科は原爆だけでなく、原子力のエネルギー利用にも関心を持っていたとされる。戦後は原子力の安全利用のための国際的な枠組みづくりを訴えた。
 「原爆開発には失敗したが、あれ以上に戦禍を拡大せずに済んだという意味で、父はほっとしていたかもしれない」。
 浩二郎氏は静かに語った。
■ニ号研究に参加した福井崇時氏(名古屋大学名誉教授)
■記者
「原爆を開発できると思っていたか」
■福井
「こんなもので、できるはずはないと思っていた。原爆を作ろうにもウランがない。ウラン235も分離できていない。原爆の卵のもっと向こうの、よちよち歩きの状態だった。原爆を作るなら、きちんとシステムや組織を作らなくてはいけないのに、日本は米国と比べて方針がなく、バラバラだった。われわれ学生に分離筒をやれというのも、むちゃくちゃだった」
■記者
終戦後はどうしたか」
■福井
進駐軍が来て分離筒を見つけると、えらいことになると思った。阪大が理研の出店(でみせ)であることは隠していたからだ。詳しく調べられると、先生方に累が及ぶ。証拠は隠せと思った。川に捨てれば分からなくなるので終戦の数日後、誰にも相談せず同期生と2人で、理学部のすぐ隣にある筑前橋から土佐堀川に3本の分離筒をばっと捨てた。もう70年もたっているので、さびて腐っているだろう」
■記者
仁科芳雄博士はなぜ原爆研究に取り組んだと思うか」
■福井
「軍の研究に参加すれば兵隊に行かなくて済むので、周囲の研究者や学生を温存するため参加したのが本心。後に先生がおっしゃっていた。それと研究を守りたいということ。われわれは守ってもらったわけです。だから僕は戦争の被害者とはいえない」
仁科芳雄(にしな・よしお):
 明治23年、岡山県里庄町生まれ。大正7年、東京帝国大電気工学科を卒業し理化学研究所入所。大正10年から昭和3年まで渡欧し量子力学を研究。昭和6年、仁科研究室創設。昭和21年、理研所長、戦後初の文化勲章。昭和24年、日本学術会議副会長。昭和26年1月死去。

東京新聞:本本紙原発報道の一部 シリーズ「日米同盟と原発」 第1回「幻の原爆製造」(1)(TOKYO Web)
 戦時下の日本で、極秘裏に進められていた原爆開発計画「ニ号研究」。戦局の一発逆転を狙って軍が主導し、当時、原子核物理の第一人者だった理化学研究所の科学者、仁科芳雄氏(1890~1951)が開発責任者を務めた。計画は結局、とん挫したが、仁科氏の下で学んだ若い門下生らの研究は戦後、「平和利用」と名を変えた戦後の原子力開発の礎となった。狭い国土に今や50基がひしめく原発大国・日本。そのルーツを「ニ号研究」から探った。 (文中の敬称略、肩書・年齢は当時)
 1940(昭和15)年夏の蒸し暑い朝。東京・新宿から立川に向かう国鉄中央線の車中。立川の陸軍航空技術研究所に出勤途中の陸軍中将、安田武雄(51)は、旧知の科学者と偶然乗り合わせた。
 科学者の名は、仁科芳雄(49)。東京帝大電気工学科を首席で卒業後、1918年から理化学研究所で研究員として働いていた。英国、ドイツ、デンマークなど欧州の研究所にも留学し、最新のエックス線や原子核物理を学んでいた。日本の原子核研究の第一人者だった。
 仁科は安田の顔を見るや、あいさつもそこそこに切り出した。
 「例の話ですけれど…」。
 2人が以前から話題にしていた原爆。当時は「ウラニウム爆弾」と呼んでいた。
 安田が戦後、雑誌「原子力工業」に寄せた手記*42によると、仁科はこの時、初めて原爆製造の実験研究に着手する用意があることを伝えた。安田は「遠い未来の夢だと考えていたが、心おのずと弾むのを禁じ得なかった」と喜んだ。仁科の「いささか勢い込んだ様子」に、期待を膨らませた。どうにか、できそうだ。
 仁科と安田が出くわしたころ、日本はドイツ、イタリアと三国同盟を締結する寸前だった。ヒトラー率いる独軍は前年の39年9月、ポーランドに侵攻。三国同盟は欧州戦線の火種が日本に飛び火することを意味していた。日本軍は泥沼が続く日中戦争に加え、米英仏などの欧米列強との戦に備える必要があった。
 安田は、裏付けを急ぐ。仁科と別れた後、東京帝大で2年間物理を学んだ陸軍航空本部少佐の鈴木辰三郎(28)に、別ルートから原爆製造の可否を確かめるよう命じた。
 鈴木は、理研の若手研究者、嵯峨根遼吉(34)に相談する。嵯峨根は「日本物理学の草分け」とされる長岡半太郎(1865~1950)を実父に持ち、米国で人工放射能を研究した俊英。嵯峨根の話をもとに、鈴木はその年の10月、安田に「原子爆弾は出現する可能性がある」と報告する。
 それから半年後の41年4月、安田は理研所長の大河内正敏(62)を訪ね「原爆製造の研究をお願いしたい」と申し出る。
 仁科と安田の運命の出会いから1年もたたずにスタートした日本の原爆開発。その8カ月後、日本軍が真珠湾を奇襲攻撃し、日米が相まみえるのを当時の2人は知る由もなかった。
仁科芳雄(にしな・よしお)
 岡山県新庄村(現・里庄町)の資産家の四男として生まれた。理化学研究所では、最年少の40歳で主任研究員に抜てきされ、原子核を研究した。戦後は日本学術会議の副会長を務め、国際会議で原子力の国際管理を提唱した。門下生は戦後の原子力開発の中心を担い、湯川秀樹朝永振一郎の両氏はノーベル物理学賞を受賞した。1955年に設立された仁科記念財団は、原子物理学に功績を残した学者に「仁科記念賞」を授与している。

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (2)戦争の死命を制する
 陸軍航空本部が後押しする形で進められた原爆開発。1941(昭和16)年10月、発足したばかりの東条英機(56)内閣は次年度の政府予算案に理化学研究所への委託研究費として8万円(現在の4億円相当)を計上し、財政面でも支援した。
 理研は日本初の研究機関として17年に設立。欧米で最先端の化学や物理などの基礎科学を学んだ新進気鋭の若手科学者がそろっていた。仁科は原爆開発に、そうした若手の部下を起用した。
 東京帝大でウラン化合物を研究した木越邦彦(22)もその1人。20人ほどいたメンバーのうち数少ない生存者で、現在93歳の木越は当時の研究の様子をこう振り返る。
 「仁科先生から『原爆ができると思ってやっているのか』と聞かれて『さあ…』と答えたら『そんな気持ちでやっているのか』と怒られた。やると決めたらまっしぐら、猪突(ちょとつ)猛進型だった」
 それでも木越は、懐疑的だった。
「先生が本気で原爆を作ろうとしていたのかは今でも分からない。『研究室に入れば、徴兵されずに済むぞ』と言われたことがある」と証言。
「僕は、核分裂のエネルギーが軍艦や飛行機の動力源になるのかに関心があった。爆弾製造は夢物語で、具体的には考えられなかった」 と打ち明ける。
 果たして仁科の本心はどうだったのか。
 研究に参加した木越の同僚、武谷三男(30)の著書「原子力と科学者」によると、日本軍が真珠湾を攻撃した2日後の41年12月10日に開かれた理研の会議で、仁科は戦争目的としての原爆に触れず、こう語っている。
 「戦争が終わって比べた時、日本の科学がアメリカに劣ったのでは、甚(はなは)だみっともない。日本国の威信のために純粋研究を進めなければならない」
 ところが、日本の戦局が不利になると、仁科の発言は微妙に変化する。ミッドウェー海戦で日本軍が大敗した数カ月後の翌42年10月、仁科は新聞への寄稿文でこう書いた。
 「今日の時局においては軍備・産業に直接関係のある応用研究に重点を置くべきである」
 それから5カ月後の43年3月、仁科は、ほぼ2年余りに及ぶ研究成果として「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にある」とする報告書をまとめ、陸軍航空本部に提出した。
 学習院大の江沢洋*43名誉教授(理論物理学)を通じて、本紙が入手した報告書のコピーによると、原爆製造について「連鎖反応が起これば極めて短時間に莫大(ばくだい)なエネルギーを放出する。強力な爆弾として用いられる可能性がある」などと記されていた。
 陸軍を通じ、仁科の報告書を受け取った首相の東条は航空本部総務課長の大佐、川嶋虎之輔(45)を呼んだ。
 防衛省防衛研究所の図書館に所蔵されている川嶋の手記「原子力の開発について」には、東条が指示した内容が書かれてあった。
 「特に米国の研究が進んでいるとの情報もある。この戦争の死命を制することになるかもしれない。航空本部が中心となって促進を図れ」

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (3)ウランを入手せよ
 理化学研究所仁科芳雄らを最後まで悩ませたのが天然ウランの確保だった。必要としたウランは2トン。占領下の朝鮮半島や南方のマレー半島からの調達を試みたほか、遠い欧州にも目を向けた。
 陸軍は、ドイツ占領下のチェコスロバキアで「ピッチブレンド」というウラン鉱石が採れるとの情報を入手していた。1943(昭和18)年7月、陸 軍航空本部の大佐、川嶋虎之輔が駐ドイツ大使の大島浩*44(57)に送った極秘電報を、米軍が傍受している。米公文書館に残るその電報コピーには次のようなや りとりがあった。
 【7月7日 東京→ベルリン】「日本にピッチブレンドを輸出できるか、早急に調査せよ」
 【9月1日 ベルリン→東京】「ピッチブレンドを入手する交渉を続けるので、研究目的の重要性を示す文書を送ってほしい」
 【11月15日 東京→ベルリン】「1トンの酸化ウランを入手せよ」
 大島はナチス幹部と交渉したが、なかなか許可が下りない。当時、ドイツも原爆開発を進めており、日本への警戒感が強かったためとみられている。
 ようやく認められたのは極秘電報から1年以上もたってから。45年3月24日、酸化ウランを積んだ独潜水艦UボートU234」が独北部のキール港から日本へ向かうことが決まった。
 護衛として、欧州に駐在する2人の日本人技術将校が搭乗した。ドイツで潜水艦の設計を学んでいた友永英夫(36)と、イタリアで飛行機の研究に携わっていた庄司元三(41)の両中佐だった。
 欧州戦線は、連合国軍がドイツの首都ベルリンに迫っていた。バルト海から大西洋の海域も支配され、日本にたどり着ける保証はなかった。
 友永と庄司は、敵に拿捕(だほ)された時は自ら命を絶つ決死の覚悟だった。家族にあてた遺書をしたため、睡眠薬ルミナールの瓶を持って艦に乗り込んだ。
 キール港をたってから1カ月余り後の5月1日。U234の無線通信室に「ヒトラー総統死去」の連絡があった。ヒトラーは戦局を悲観し、その前日にピストル自殺した。7日にはドイツが連合国に降伏し、日本とドイツの同盟関係が破棄された、との情報も入った。
 動揺する艦内で、友永は艦長のヨハン・フェラーに「生きたまま敵側に引き渡されるのは許されない。このまま日本へ行ってください」と、航海続行を申し出たが、かなわなかった。艦は連合国軍の停船命令を受け入れ、ドイツ人乗組員は全員投降を決めた。
 友永と庄司は、持っていたルミナールをあおった。2人はフェラーにあて「運命には逆らえません。静かに死なせてください。遺体は海に葬ってください」と、ドイツ語の遺書を残して自決した。

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (4)行きつまった感あり
 「原爆製造は可能」とした仁科らの研究は、あくまで理論上の話。問題はどう形にするかだったが、戦時中の物資不足が障害となった。
 例えば、爆薬の濃縮ウラン。熱拡散分離法を採用したが、天然ウランをいったん別の化合物にしてからでないと、高濃度のウランが生成できない。しかも、分離塔と呼ばれる実験装置は高価なニッケルが手に入らないため銅で代用しなければならず、不純物が混じることもしばしば。
 当時、濃縮実験を担当した理研の研究者、山崎文男(36)が失敗続きの様子を日記に書きとめている。「ますます絶望的」「テストサンプルを測定したが、てんで弱く問題にならぬ」。
 45年1月29日付では、ついに「『ニ』報告、行きつまった感あり」とつづってあった。
 日記を保管している現在72歳の長男、和男によると、山崎は終戦直後まで書き続け、後年、神奈川県鎌倉市の自宅で何度も読み返していた。重要な箇所にはメモ書きを加えたり、赤ラインを引いたりしてあったが、ニ号研究のところだけは、まったく加筆せず、当時のまま。
 和男は「研究がうまくいかなかったことが、よほど悔しかったのでしょう。父は、振り返ることさえ嫌だったと思う」と話す。
 45年に入ると、米軍機B29の東京空襲は激しさを増した。4月14日未明には、文京区本駒込理研にも爆弾が落とされ、熱拡散分離塔のある49号棟が全焼。実験を続けることすらほぼ不可能になった。
 山崎の日記によると、45年5月15日、仁科は理研の会議室に山崎ら部下の研究者を集め「ニ号研究の大体中止を決議した」。これを受け、陸軍技術少佐の山本洋一(40)は6月28日付の報告書でこう書いた。
 「理研仁科研究室における熱拡散法による研究は数回の実験の結果、不可能なること判明し、原子核エネルギーの利用の研究は中止することとなれり」
 当時、陸軍とは別に、海軍も京都帝大と協力して原爆開発を進めていた。「F研究」の暗号名で呼ばれていたが、やはりウラン濃縮がネックとなり、日の目を見ることはなかった。
 ニ号研究の中止を決めた陸軍の報告書にはこんな一文もある。
 「敵国(米国)もウランのエネルギー利用は当分なしえざるものと判明した」
 仁科ら日本の科学者はそれが、見込み違いであったことを1カ月余り後に(ボーガス注:広島、長崎への原爆投下で)知ることになる。

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (5)少年らに「マッチ箱一つ」
 陸軍は、ペグマタイトの岩石から、天然ウランを含む鉱石サマルスカイトを3トン掘り出し、計500キロの酸化ウランを得る皮算用だった。気の遠くなるような無謀な計画だが、有賀によると、勲章を着けた軍人がこうハッパを掛けたという。
 「君たちの掘っている石がマッチ箱一つくらいあれば、ニューヨークなどいっぺんに吹き飛んでしまうんだ。がんばってほしい」
 マッチ箱一つの“火薬”で形勢逆転。軍事教育を受け、教育勅語をそらんじる少年たちは、そんな言葉に発奮した。時折、軍人が配るキャラメルを楽しみに、懸命に働いた。
 採掘を初めてから2カ月余り後の6月13日。陸軍の委託を受けていた石川山工業所が「石川山で採掘したサマルスカイトが750キログラムに達し た」と報告した。しかし、このころ、理化学研究所仁科芳雄が進めていた「ニ号研究」は既に中止を決めていた。ウランを調達したところで、使う見込みはない。が、少年らは、その事を知らされなかった。

東京新聞・日米同盟と原発
第1回「幻の原爆製造」 (6)腹を切る時が来た
 日本の敗戦が濃厚になった45年8月6日朝。米軍のB29「エノラ・ゲイ」が広島にウラン原爆「リトルボーイ」を投下し、市街地が焼き尽くされた。世界で初めて原子力が戦争目的に使われた。
 一夜明けた7日、陸軍将校が理化学研究所仁科芳雄の研究室を訪ね「アメリカが広島に原子爆弾を落としたと報告があった。調査団を派遣したいから、参加してほしい」と要請した。
 自分たちがたどり着けなかった原爆で、日本が大打撃を受けた。仁科の当時の心境は今も定かではない。が、その一端を知る手がかりとして、7日夜に理研の部下、玉木英彦(35)あてにしたためた手紙が残っている。そこにはこうある。
 「吾々(われわれ)『ニ』号研究の関係者は文字通り腹を切る時が来たと思ふ。…米英の研究者は理研の研究者に対して大勝利を得たのである」
 日本の敗戦が近づいていた。
※この特集は社会部原発取材班の寺本政司、北島忠輔、谷悠己、鈴木龍司が担当しました。

【戦後70年 核物理学の陰影(下)】悲運の加速器、海底に沈む 「米国の誤謬、もはや絶望」(1/9ページ) - 産経ニュース
 終戦から3カ月が過ぎた昭和20年11月24日の朝。東京・駒込理化学研究所に突然、2台のブルドーザーがやってきて、門や建物の塀を壊し始めた。
 「全てのデータを押収し、理研、大阪帝国大(現大阪大)、京都帝国大(現京都大)のサイクロトロンを破壊せよ」
 米陸軍省原子核の研究装置である円形加速器サイクロトロン」を原爆製造用と誤認し、連合国軍総司令部(GHQ)に破壊命令を出したためだ。
 仁科は戦後、GHQと交渉し、放射性同位体を作って生物学や医学への応用研究に使う許可を得ていた。新たな時代に向け、希望をつなぐ装置のはずだった。それが一転して破壊される事態に直面した。
 仁科が将兵に猛然と抗議する様子を米ライフ誌が伝えている。
「これは私の研究生活10年分の成果である。原爆とは無関係だ」。
 壊さないでくれと嘆願する傍らでは妻と女性秘書がすすり泣いていた。
 仁科は東京・有楽町のGHQ本部にも乗り込み「なぜ破壊するのか。米政府は科学者に意見聴取したか」と問いただした。科学者なら装置の価値を理解し、壊せというはずがない。彼らの意見を確認するまで、破壊作業を停止させるためだった。だが回答は「ワシントンの科学者も承知した上での決定だ」。
 仁科は言葉を失う。
 「科学者も含めて米国全国民の誤謬(ごびゅう)であるため、もはや絶望なることを知り退出した」。
 後の書簡にこう記したが、米側の回答は虚偽だった。
 将兵らはアセチレンバーナーで焼き切るなどしてサイクロトロンを破壊。数百トンもの残骸をクレーンで巨大なトレーラーに積み込んで運び出し、東京湾に沈めた。科学に対する理不尽で侮辱的な行為は、日本の敗戦を象徴するものだった。
 全ての破壊が終わった日の晩。次男の浩二郎氏(83)は「まるでお通夜のようで、憔悴(しょうすい)した表情の父を前に、誰も一言も話せず重苦しい雰囲気が広がった」と振り返る。
 ニ号研究の分室が置かれた大阪大でも同様の光景が繰り広げられた。当時学生だった福井崇時(しゅうじ)名古屋大名誉教授(91)は壁を壊すブルドーザーを見て、度肝を抜かれた。
「やられたと思った。悲しかったですよ。放心状態だった」
 科学史に汚点を残したサイクロトロンの破壊は、なぜ起きたのか。関係資料によると、米国の原爆開発計画に関わった陸軍のブリット少佐が原爆開発装置と思い込み、パターソン陸軍長官の承認を得ずに独走。GHQに対して破壊命令を出すよう働き掛けたことが原因だった。
 破壊が報じられると、米国の科学者は「人類に対する犯罪だ」「理不尽な愚行」などと強く非難。仁科芳雄博士は、米国の科学者も承知の上だとしたGHQの説明が嘘だったことを知る。
 暴挙に対する怒りの声は大きく広がり、米マサチューセッツ工科大の科学者らは陸軍長官に抗議文を送付。
 こうした事態を受け長官は「陸軍省の軽率な行動を遺憾とする」との声明を発表。破壊命令が誤りだったことや、科学者の意見を聞くべきだったことを認め、謝罪した。

 確かに暴挙ではあるのでしょうが、産経の場合「反米主義の本心」が露呈してるような気がします。

仁科芳雄(1890年~1951年、ウィキペディア参照)
■ヨーロッパ留学
 1921年に2年間のヨーロッパ留学が決まり、最初にケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所に滞在し、翌1922年11月にゲッティンゲン大学に移った。
 ニールス・ボーア*45の講演を聴いて物理学の新しい分野の研究に興味を持ち、1923年4月にコペンハーゲン大学のボーア研究室に移った。ここでは研究員として5年半過ごし、1928年にはオスカル・クラインとともにクライン=仁科の公式を導いている。
サイクロトロンの建設
 1935年、理化学研究所理研)に原子核放射線生物学を研究するために原子核実験室が設けられた。1937年に仁科が主導して日本で最初の26インチ小サイクロトロンが完成した 。
 仁科は小サイクロトロンが完成するころから、より高エネルギーの粒子ビームが得られる大サイクロトロンの建設を構想していた (この頃はどれ位の大きさにするかまだ決まっていなかったが、その後60インチに決まった) 。そのころカリフォルニア大学のアーネスト・ローレンス*46も大型サイクロトロンの建設を計画している、という情報がもたらされた。サイクロトロンの主要部分である電磁石は日本で注文するよりアメリカの海軍工廠に2台まとめて注文する方が安くなる*47ことが判ったので、ローレンスに依頼して理研の分を一緒に注文してもらうことになった。当時、60インチのサイクロトロンは世界最大であり、カリフォルニア大学と理研の2台のみであった。電磁石は1938年中頃理研に到着し、1939年頃一応組み立てが終了したが、予期したような性能が出なかった。ローレンスのところでは既に完成していたので、情報を得るため1940年、理研から研究員3名がローレンスのもとに派遣された*48。当時は既に日米関係の悪化が始まっていたため、ローレンスには会えなかった。サイクロトロンの見学は許されたが設計図のコピーをもらう約束も取り消しになった(後にローレンスはマンハッタン計画の重要な役割を担った)。
 理研では3人が持ち帰った情報をもとに大改造を行うことになった。1944年2月15日、空気中に引き出したプロトンビームが紫色に光るのを肉眼で確認できるまでになった。それ以後も調整を続け、7月頃から実際の研究を始めた。
■ニ号研究
 1940年(昭和15年)4月、安田武*49・陸軍航空技術研究所長(陸軍中将)は、雑誌などで紹介されている核分裂に注目。陸軍航空本部付きの鈴木辰三郎中佐にウランを用いた新型爆弾の開発研究を命令した。鈴木中佐は東京帝国大学の嵯峨根遼吉教授の協力の下に1940年10月、報告書を安田中将に提出した。安田中将は理研大河内正敏所長に秘密裏に研究を依頼して、大河内は仁科に研究課題を託した。
 1942年に海軍技術研究所でも原爆研究が始められた時に仁科は長岡半太郎と共に理研の代表で参加したが、仁科は陸軍に原爆研究をすでに依頼されていたので積極的に発言をしなかったという。
 アメリカで原子爆弾開発「マンハッタン計画」が始まった翌年1943年(昭和18年)5月頃、仁科研究所は原子爆弾が作れる可能性を報告書によって軍に提示する。陸軍はこの報告に飛びついて、陸軍航空本部の直轄で、研究を続行させる。
 仁科は、若く優秀な科学者を集めるために、陸軍より召集解除の特権を得て、木越邦彦(後に学習院大学名誉教授)、玉木英彦(後に東京大学名誉教授)、竹内柾などの研究員を集めた。
 このことから仁科の原爆研究は「若手研究員を召集から守るための方便に過ぎなかった」とする見方もある。
■戦後
 1946年11月に理研の所長となり、同年文化勲章を授与された。また、学士院会員、日本学術会議副会長を務めた。だが、戦後になると体調を崩す事が多くなり、病院での検査の結果肝臓癌と判明した。この癌の原因については、放射線の研究を戦前から長年行っていた事による被爆や、原爆投下直後の広島・長崎に入市し被曝した事を要因と考える説もある。そして1951年1月10日、60歳で没した。死去から4年後の1955年、原子物理学の振興を目的として仁科記念財団が設立された。この財団では毎年、原子物理学に関して著しい業績を上げた研究者に仁科記念賞を授与している。また、1990年に日本で発行された、ラジオアイソトープ利用50周年を記念した切手には仁科の肖像が描かれている。
■人柄
 理研時代の弟子からは慕われ、「親方」と呼ばれた。ドイツ滞在中に励ましの書簡を送られた「仁科の弟子の一人」朝永振一郎*50は、仁科を「温かく親しみやすかった」と評している。また、湯川秀樹は新粒子予言のさいにボーアから批判を受けたが仁科はこれをかばい、後に湯川は「非常に鼓舞された」と語っている。

鈴木辰三郎氏死去/元いわき明星大学長 | 全国ニュース | 四国新聞社
 鈴木辰三郎氏(すずき・たつさぶろう=元いわき明星大学長、元陸上自衛隊化学学校長)。
 30日午後1時27分、肺炎のため東京都目黒区の病院で死去、89歳。名古屋市出身。
 太平洋戦争中、日本の原爆開発研究に携わった。

【参考:F研究】

【戦後70年 核物理学の陰影(上)】幻の原爆開発 科学者が巻き込まれた2つの出来事とは…(1/13ページ) - 産経ニュース
 原爆開発の研究は、海軍の依頼を受けた京都帝国大(現京都大)でも並行して行われていた。核分裂の英語(フィッション)の頭文字を取って「F研究」と呼ばれた。
 研究は戦局が深刻さを増した昭和18年5月に委託されたが、本格化したのは昭和19年秋からだ。原子核研究の草分けだった荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授を中心に、理論面で湯川秀樹*51博士らも参加した。
 ウラン濃縮は理研とは別の方法を試みることになり、遠心分離法を採用した。天然ウランを容器に入れて高速回転させ、遠心力を利用してウラン235を分離する方法で、洗濯機の脱水と同じ原理だ。
 遠心分離機は、荒勝研究室の講師だった清水栄京大名誉教授らが独自に設計する一方、東京計器製作所(現・東京計器)にも設計・作製を依頼した。
 1カ月後に終戦を迎えることになる昭和20年7月。F研究に関する海軍と京大の最後の合同会議が琵琶湖岸のホテルで開かれた。ここで海軍出身の東京計器顧問、新田重治氏が遠心分離機の構造を説明している。
 「その図面が出てきたのですよ」。
 核物理学の歴史を調べている政池明京大名誉教授(80)が明かす。今年6月、清水氏の遺品から見つけた。記録がほとんどないF研究を裏付ける貴重な証拠だ。図面は劣化して見にくいが、「完成 昭和20年8月19日」との記載が見える。終戦の4日後に完成させる予定だったのか。米国の資料によると、東京計器は遠心分離機の製造中に空襲で被災し、装置は失われたという。
 荒勝研究室には中国・上海の闇市場で海軍が購入した約100キロのウラン化合物が運ばれたという。だが遠心分離機は結局、完成せず、実験に使われることなく終戦を迎えた。
 ただ、完成していても、実は当時の遠心分離法ではウラン濃縮は不可能だった。それを既に知っていた米国は別の方法で原爆を開発した。遠心分離法による濃縮は、容器内に温度差を設けて対流を起こす技術などを併用することが必要で、実用化したのは戦後になってからだ。
 戦後、荒勝研に所属した竹腰秀邦京大名誉教授(88)は「荒勝先生は原爆を開発できるとは思っていなかっただろう。終戦に間に合う見込みはなかった。時代に翻弄された科学者といえるのではないか」と話す。

【戦後70年】もう一つの「戦争裏面史」原爆開発競争 京都帝大「F研究」秘話 被爆地で新型爆弾の正体突き止めた“皮肉”(1/4ページ) - 産経WEST
 「これは原爆だ」。
 昭和20年8月6日、米軍が投下した1個の新型爆弾で壊滅した広島市。その一報を受けて現地入りし、新型爆弾の正体を原爆だと突き止めたのは、皮肉にも旧日本軍から委託を受けて原爆の研究を進めていた日本の科学者たちだった。戦後70年を前に、京都帝大(現在の京都大)の荒勝文策博士(1890~1973年)らが残した調査資料や研究ノートが新たに見つかり、歴史のワンシーンが改めて浮かび上がった。そこに記されていたのは、戦争に引き込まれながらも科学者として懸命に使命を果たそうとする姿とともに、国家の命運をかけた原爆開発競争というもう一つの「戦争裏面史」だった。
 日本では第二次世界大戦中、旧陸軍が理化学研究所仁科芳雄研究室に、旧海軍は京都帝大の荒勝文策研究室に原爆の研究開発を委託した。
 「ニ号研究」の符丁で呼ばれた仁科博士らの研究では、熱拡散法によるウラン濃縮に着手。荒勝博士らの研究はfission(核分裂)の頭文字をとって「F研究」と名づけられ、遠心分離法によるウラン濃縮を目指した。
 しかし、物資の不足などのため双方の研究とも終戦までに成功しなかったとされる。
 戦後70年を前に、京都大では、荒勝研究室に所属していた科学者が残した研究ノートが新たに見つかり、原爆開発で最も重要とされたウラン濃縮についての記述も確認された。遠心分離装置の回転数を計算した数値や必要な資材の寸法、参考にした海外論文が記され、実際に研究を進めていた様子が分かる。
 終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は理研や京都帝大などを捜索し、物理学の基礎研究に使われる円形加速器サイクロトロン」を破壊。「原爆の開発につながる」との理由だった。この時、日本の原子核物理学の基礎を築いた荒勝博士の研究資料も、ほとんど持ち去られたという。
 荒勝博士の孫弟子で、核開発の歴史に詳しい政池(まさいけ)明*52京都大名誉教授=素粒子物理学=は「理研の原爆開発に比べて京都帝大のF研究は残っている資料が少なく、分からないことが多い」と指摘。「戦後70年もたって新たな資料が出てきたことに驚いた。歴史を検証するための貴重な内容が含まれている」と語る。
 これまでに米国側で公開された資料から、日本海軍が上海でウランを購入して荒勝博士に提供していたことなどが知られている。しかし結局、原爆開発に成功したのは、優秀な人材を集め、圧倒的な資金を投入した米国だった。
 昭和20年8月6日、米軍は広島に原爆を投下。直後に米国のトルーマン大統領は「原子爆弾を投下した」との声明を発表したが、理研や京都帝大などの科学者たちは独自の調査を行うために現地へ向かった。
 仁科博士は8日に広島へ入り、翌日には土壌などを採取。東京へ空輸して放射能の存在を確認した。
 荒勝博士は同10日に現地入りし、爆心地近くの西練兵場など十数カ所で採取した土壌からベータ線を計測、科学的な検証で原爆と断定した。残留放射能のエネルギーや半減期を調べて核分裂の生成物まで推定したのは京都帝大のチームが最初だったという。
 この時のデータを記録した資料は、政池氏が昨年末、荒勝博士の遺族から預かった遺品約550点の中から見つけた。
 科学者たちの調査チームは、広島赤十字病院(当時)に残っていたエックス線フィルムの感光や、負傷者の白血球数の著しい減少を確認。いずれも原爆により放出された放射線の影響と結論づけ、8月10日に開かれた陸海軍の合同会議で「原子爆弾または同じ威力を持つ特殊爆弾」と報告した。これは終戦の判断に影響を与えたとされる。
 調査に向かう前、仁科博士は関係者にあてた手紙で「トルーマン米大統領)声明が事実とすれば、我われは腹を切るときが来た。米英の研究者は日本の研究者に対して大勝利を得たのだ」と書き残している。
 荒勝博士の遺品の中から見つかった新たな資料について、政池氏は「原爆投下直後の混乱状態でも精度の高い測定が行われていたことが分かる。苦悩を抱えながらの調査だったのだろうと思う」と語る。
 その上で、荒勝博士らが当時進めていた原爆開発に言及。「日本の基礎科学の研究レベルは高く、米国にも劣らないものだったといえる。しかし、物資が足りない日本で原爆を完成させるのは無理だということも、荒勝博士たちは分かっていたはずだ」と指摘した。
 政池氏は現在、当時の様子を明らかにしようと、荒勝博士らが残した資料を詳しく調べている。

【戦後70年 核物理学の陰影(下)】悲運の加速器、海底に沈む 「米国の誤謬、もはや絶望」(1/9ページ) - 産経ニュース
 サイクロトロンの破壊は京都帝国大でも同時に執行された。平成22年に発見された荒勝文策(あらかつ・ぶんさく)教授の日誌には、GHQに抗議する様子が記されている。
 「研究設備の破壊撤収は必要無きに非(あら)ずや。これ等(ら)は全く純学術研究施設にして原子爆弾製造には無関係のものなり」
 しかし、占領軍は建設中だったサイクロトロンの80トンの磁石を持ち去った。「惨憺(さんたん)たる光景であった」と荒勝氏は嘆いた。
 大学1年だった竹腰秀邦京大名誉教授(88)が当時を振り返る。
 「外国人が乗り込んできたのが怖くて、物理教室には近寄らないようにしていた。実験で使う部屋の一角にサイクロトロンの大きな磁石が置かれていたが、占領軍が去った後、その場所は空になっていた。ああ、日本ではこういう研究をやってはいけないのかと、半ば諦めのような気持ちを抱いた」
 占領軍は科学者の生命線である実験ノートの提出も命じた。立ち会った占領軍通訳の回想記によると、この要求に対し荒勝氏は感情の高ぶりを抑え切れず、声を詰まらせながら「没収は不当である」と強く抗議した。
 荒勝氏は戦前、台北帝国大(現台湾大)で加速器による原子核実験をアジアで初めて行った先駆者だ。壊されたサイクロトロンは、日本海軍から依頼された原爆開発の「F研究」に組み込まれたが、本来は基礎研究が目的だった。
 「日本の地から原子核研究の芽をつみ取られる事は誠に残念である」。
 破壊の翌月の日誌にある荒勝氏の言葉だ。
 「大変な苦労をして作っていたものが、核兵器のためと誤解され、壊されてしまった。先生の心中はいかばかりだったか」と竹腰氏は話す。
 終戦後の昭和24年、京大の湯川秀樹博士が中間子論で日本人初のノーベル賞を受賞。敗戦とサイクロトロン破壊で打ち砕かれた日本の核物理学に、一筋の光明が差し込んだ。
 破壊事件に心を痛めた占領軍通訳はその後、再び来日し、荒勝氏に心境を改めて尋ねている。回想記によると、湯川と親交があった荒勝氏は「後輩がノーベル賞を受賞したことで全てが埋め合わされた」と、きっぱり語ったという。
高エネ研特別栄誉教授 仁科記念財団理事長・小林誠*53(71)に聞く
■記者
「戦時中の日本の原爆研究をどう見るか」
■小林
核分裂の連鎖反応からエネルギーを取り出せば、発電用原子炉や原爆などの用途が生まれる。軍部は原爆を想定していたが、理研や京都帝大で行われたのは連鎖反応を起こす前の段階の基礎研究だ。日本の原子核研究は戦前、非常に高いレベルにあったが、原爆研究はウラン濃縮すら成功しなかった。非常にプリミティブ(幼稚)なレベルだった」
■記者
「開発が成功する可能性はあったか」
■小林
「無理だった。戦争で物資も人材もなかった。ウラン濃縮も、理研の熱拡散法は装置の素材に問題があったし、京大の遠心分離法も技術的に未熟だった。実際に原爆を作ってそれを使う状況に陥らなかったという意味では、開発できなくてよかったと思う」
■記者
「科学者が兵器開発に参加したことの是非は」
■小林
「軍事利用される可能性があるから断るという単純な問題ではない。画期的な新原理や技術について、研究を軍だけが進めるのは危険だ。最先端の知見を人類で共有するためには、科学者が立ち会う必要がある」
■記者
「仮に自身が兵器開発を依頼されたらどうするか」
■小林
「既存の知識や技術で兵器を開発しろというなら、可能な限りノーと答える。新たな科学的真理を明らかにする研究なら判断は難しい。断れば科学者の使命から逃げることにもなる。研究の科学的意味しだいだ」
■記者
「戦後、GHQはサイクロトロンを破壊した」
■小林
「とんでもない暴挙だった。サイクロトロンは兵器の研究装置ではない。原子核のほか生物や放射性同位体など、幅広い研究に役立つ純粋な科学研究装置だ。日本の原子核研究は一気に停滞し、後々まで尾を引いた」
■記者
(ボーガス注:仁科、湯川など)原爆研究に関わった科学者の多くは戦後、核廃絶運動などに取り組んだ
■小林
「原爆投下で起きた悲惨な状況から、強い衝撃を受けて意識が変わった。エネルギーの大きさは当然、分かっていただろうが、どんなことを引き起こすか考える余裕がなかったのかもしれない」
※この企画は長内洋介、伊藤壽一郎、黒田悠希が担当しました。

湯川秀樹、原爆研究記す 終戦前後の日記公開 (写真=共同) :日本経済新聞
 日本初のノーベル賞受賞者湯川秀樹(1907~81年)が終戦前後に書き残した日記を京都大が21日、初公開した。原爆研究に関わった記述がある一方、広島や長崎の原爆被害も詳細に記しており、専門家は、戦後平和運動に携わった湯川の歩みを知る記録として注目している。
 湯川は原爆研究への関与を公的な場では認めていなかったが、45年6月に原爆開発についての会議に出席していたことが今回、本人の自筆記録で初めて裏付けられた。
 日記は78年、京大理学部の戸棚の整理中に風呂敷包みから発見され、湯川の没後、遺族が大学に寄贈したノート15冊の一部。「研究室日記(日誌)」と題され、今回、45年分の3冊が公開された。
 このうち、6月23日には「F研究 第1回打ち合わせ会、物理会議室にて」と記され、京都帝大(現京大)の同僚荒勝文策氏ら研究者計12人の名前があった。研究内容への言及はなかった。
 F研究は海軍の依頼で荒勝氏を中心に進めていた原爆研究。湯川の関与は他の研究者の残した資料で分かっているが、原料不足などから基礎的な研究にとどまり、製造段階には程遠かったとされる。
 日記ではF研究に関して、他にも2月、海軍の施設で会合があったことや、5月に戦時研究に決定したとの通知があったことが記載されている。
 一方、広島への原爆投下翌日の8月7日には、「(新聞社から)広島の新型爆弾に関し原子爆弾の解説を求められたが断る」としている。原爆投下に関する感想はないが、戦後の9月6日には、「死者 広島7万名 長崎2万名」などと原爆の死傷者数や建物被害数を記している。
 9月15日には「米士官2名教室へ来たので直ちに面会」と記述。戦時中の研究について聴取されたことがうかがえる。また、マッカーサー司令部に提出する研究に関する報告書の作成に忙しい日々を送っていたり(10月3日)、海外の研究者と原爆について論じたり(11月22日)していた。
 日記を分析した小沼通二慶応大名誉教授は「日記に思いは書かれていないが、国が正しいと考えていた湯川の価値観が戦後になって変わったことが同じ頃に雑誌に書いた記事から読み取れる。45年に平和運動への道ができたのだと思う」と話している。日記は京大湯川記念館史料室のホームページで公開する。

湯川博士、生涯黙した極秘の原爆研究 にじむ反核の原点:朝日新聞デジタル
 没後36年を経て21日に公開された湯川秀樹博士の終戦前後の日記には、生涯語らなかった原爆研究についての記述が散見される。戦後一貫して平和と核廃絶を訴えたが、その転機となった、「反省と沈思の日々」と後に雑誌に記した沈黙の期間の動静も浮かびあがる。
 「午後 三氏と会合 F研究相談」。
 1945年2月3日付の日記はこう記されている。F研究は旧海軍の委託を受け、京都帝国大(現・京都大)が極秘で進めた原爆研究の名称だ。Fはfission(核分裂)の頭文字。指揮をとった荒勝文策教授のもと、後にノーベル物理学賞を受ける中間子論ですでに世界的に有名だった湯川博士が理論を担当した。この日の日記には、「荒勝、堀場*54、佐々木」という名前が書かれ、計4人で学外で打ち合わせをしたと記されている。
 日本の原爆研究はF研究と、旧陸軍の委託で理化学研究所(東京)が行った「ニ号研究」がある。戦況を打開する手段として、海軍が研究を本格化させたのは1943年ごろ。1944年10月には、大阪・中之島の海軍士官クラブ「水交社」で京大と海軍によるF研究の初会合が開かれた。原爆製造に欠かせないウランの濃縮計画の報告があり、湯川博士核分裂の連鎖反応について報告したことが知られている。
 翌1945年5月には「F研究 決定の通知あり」、6月は「F研究 打合せ会、物理会議室にて」と記されている。
 7月21日、「午前雨 涼し 朝七時過家を出て京津電車にて琵琶湖ホテルに行く、雨の中を歩く。帰りは月出で九時帰宅」。日常生活の記述にも読めるが、この日はF研究の海軍との合同会議が大津市で開かれた。
 日本の原爆開発に詳しい山崎正*55東京工業大名誉教授(科学史)によると、原爆の原料となるウランの入手が困難なことから、F研究はこの日の会議で事実上終了したという。原爆研究はF研究、ニ号研究とも失敗に終わった。
湯川秀樹 
 1907年東京生まれ。旧京都帝国大学(現・京都大)で学び、1934年に「中間子論」を発表。1949年、日本人初のノーベル賞となった物理学賞を受賞した。戦後は平和運動に力を注ぎ、1955年に核兵器と戦争の廃絶を訴えたラッセル・アインシュタイン宣言に署名。パグウォッシュ会議にも参加し、核なき世界の実現を訴えた。亡くなる直前まで平和を訴え続けた。1981年死去。

湯川秀樹:戦中の原爆研究に言及 京大が日記公開 - 毎日新聞
 日本人初のノーベル賞を受賞した物理学者、湯川秀樹(1907~81年)が、終戦期の45年に書いた日記を21日、京都大基礎物理学研究所・湯川記念館史料室が公開した。湯川が生涯を通じて公的な発言を控えていた原爆研究「F研究」に言及。広島原爆投下や時局に関する記述もあり、専門家は「第一級の歴史的史料」としている。

 「戦後の湯川」にとって「F研究への関与」は「可能な限り口にしたくない黒歴史」だったのでしょう。気持ちは分からないでもありません。

■荒勝文策(1890~1973年、ウィキペディア参照)
・1928年、台北帝国大学教授を経て、1936年、京都帝国大学教授となる。理研仁科芳雄大阪帝国大学の菊池正士*56と共に、戦前日本を代表する原子核物理学者であった。
・1941年5月、日本海軍より原子爆弾の研究を依頼された。この計画には湯川秀樹らも加わっていた。一方で、日本陸軍理研仁科芳雄に原爆の開発を依頼し、「海軍-京大」「陸軍-理研」という2つの研究開発が別々に並行して進められた。
・1950年に、定年で京都大学を退官し、甲南大学の初代学長に就任した。なお、湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞を記念して京都大学に基礎物理学研究所が設立された際、中心人物の1人でもあった。
・『昭和史の天皇 4』(1968年、読売新聞社。のち『昭和史の天皇 原爆投下』として1988年、角川文庫に収録)によれば、当時、京大助教授だった木村毅一(後に教授)の証言によると、広島から京都に戻る際、荒勝(当時、京大教授)は京都に3発目の原爆が投下されるという噂(実際に米軍は京都への投下構想を当初より抱いていた)を聞いて「(事実ならば)原子物理学者としてこれは千載一遇の好機だ。急いで比叡山の頂上に観測所を造って、原爆投下から爆発の状況など、あらゆる角度から、写真や計器を使って徹底的に観測してやろう」と述べたという。

 木村証言には「はあ?」ですね。これが事実かどうかはもはや調べようがない*57でしょうが、「冗談でも本気でも」事実なら「広島の惨状を目撃した上でこの発言」とは荒勝氏は一寸常軌を逸していますね。広島、長崎の原爆投下に衝撃を受け、戦後、「核の平和利用」を訴えたとされる仁科や湯川の逸話とはあまりにもかけ離れています(なお、小長谷論文は「真偽不明の木村証言」は紹介していませんが、仁科や湯川に比べれば、戦後の荒勝に彼らのような政治的言動がほとんど見られないこと、荒勝が「是非はともかくいわゆる学者バカ(政治的言動におそらくほとんど興味がない)であったこと」は指摘しています)。
 まあ「学者の社会的責任」というものを考えずにはいられません。悪い意味で「研究さえ出来ればいい。それが社会に与える影響とか興味ない」を「とことんまで追求すれば」木村が証言する「荒勝暴言」になるわけです。
 たとえば「チベットの現地調査が出来ればそれでいい。中国政府が協力してくれるつうから現地調査に行ってきます。お前の態度は中国のチベット統治への加担だ?。知らんがな、そんなん」つう態度をとったら「学者が研究を最優先するのは当然です」とはMukkeもさすがに言わないでしょう(以下、大嫌いなMukkeへの悪口が続きますが一応それなりの正当性は目指しています、つまり「俺の主観的にはMukkeへの因縁付けや言いがかりではない」つうことです)。
 まあ、Mukkeの「俺はI浜Y子*58・W大学教授の学問研究には興味はあるけど、社会的発言には興味ありません」つう言い逃れはその種の詭弁に近いもんがありましたが。
 あるいは「I濱の弟子らしい」Mukkeだってさすがに「荒勝の弟子」が「木村さんが証言する『荒勝さんの比叡山発言』をどう思うかって。別に興味ないけど。荒勝さんは戦後、甲南大学学長にもなった偉大な物理学者だからそんなん仮に事実でも俺にとってどうでもない」と言ったら*59「アホか、手前」と批判するでしょう。まあ、MukkeのI濱擁護ってそのレベルの暴言、詭弁でしたけど。そうした数々の詭弁、暴言の結果「はてなからトンズラ」ですから哀れな御仁だとは思います。


アメリカの軍事技術開発と「デュアルユース技術」の軍事利用(山崎文徳)
(内容紹介)
 「デュアルユース(軍事技術の民生転用)」を強調して軍事研究を正当化する主張に対し、
1)軍事技術開発と民生技術開発では性格が違うため、軍事技術は必ずしも民生転用可能ではない
2)軍事大国米国やソ連は必ずしも「民生技術の分野」で他国を圧倒しているわけではないこと(なかったこと)を指摘し、適切な主張ではないと批判している。


■私の原点「朝鮮史研究との出会い」(糟谷憲一)
(内容紹介)
 『朝鮮の近代』 (1996年、山川出版社世界史リブレット)などの著書を持つ朝鮮史研究者、一橋大学名誉口授の糟谷氏が自らの研究について振り返っている。


■歴史のひろば「東京五輪がもたらす都市空間の変容」(石坂友司*60
(内容紹介)
1)1964年東京五輪では「五輪開催をてこに」首都高速道路の建築など「都市空間の変容」が行われた
2)2020年東京五輪でも「1964年の夢よ、再び」とそうした動きがある
3)しかし「国土開発がほとんどされてない」&「首都高速道路の建築などにほとんど異論のなかった」1964年とは違い、2020年の都市開発ほどには異論なく進むことはないだろう、つう話です。
 まあ小生が思うに「万博や五輪をてこに開発」がほとんど異論なく進んだのは「東京五輪(1964年)」「大阪万博(1970年)」「沖縄海洋博(1975年)」、「筑波万博(1988年)」といった「昭和時代(1980年代のバブル期まで)が全盛期」じゃないですかね。
 最近は「批判が弱いにしても」日本人もそれほど脳天気でもないでしょう。もっと冷めたところがあるんじゃないか。いずれにせよ五輪のような一大イベントは、石坂氏も指摘するように「便乗した都市開発」「会場跡地の利用問題」「愛国心の助長」と言った問題があるのであまり脳天気に万歳できるもんでもないでしょう。


■和田幸司*61『「士農工商」はどう教えられてきたか:小中学校における近世身分学習の展開』(2018年、ミネルヴァ書房)(評者:大橋幸泰*62
(内容紹介)
 「士農工商」概念については1990年代以降、研究の進展で
1)武士と「一般庶民」と「被差別民」については明確な身分の差があったが「一般庶民」の間には「身分の差」は認められない。「農工商」は「農工商」の順に「上下がある身分」ではなく「職業の違い」にすぎない
2)「農民が都市に出稼ぎに行くこと」でわかるように「農工商」は固定的な物ではなかった。また一般庶民との間には「明確な身分の差がある武士」ですら「下級武士にしかなれない」とはいえ「御家人株売買(ただし、売買は違法行為なので法的には養子縁組の持参金の形をとる)」の形で一般庶民が武士に成り上がることが出来た
など、その理解には大きな変化があったが、それは必ずしも「小中学校の歴史学習」には十分反映されていない*63という認識を元に「どう反映すべきか」について述べられている。
 なお、大橋氏も指摘していますし、ウィキペディア士農工商」にも指摘がありますが、士農工商とは「過去においては差別用語的扱い」をされることが多かったわけです(後で紹介します)。

【参考:「士農工商」理解の変化】

https://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/syakai.html#q5
東京書籍
「よくあるご質問Q&A」小学校 社会
小学校 「新編 新しい社会」,「新しい社会」3・4下
Q:
 これまでよく使われていた「士農工商」や「四民平等」といった記述が(ボーガス注:東京書籍の小学校社会科教科書から)なくなったことについて,理由を教えてください。
A:
 かつては,教科書に限らず,一般書籍も含めて,近世特有の身分制社会とその支配・上下関係を表す用語として「士農工商」,「士と農工商」という表現が定説のように使われてきました。しかし,部落史研究を含む近世史研究の発展・深化につれて,このような実態と考えに対し,修正が加えられるようになりました(『解放教育』1995年10月号・寺木伸明*64「部落史研究から部落史学習へ」明治図書,上杉聰*65著『部落史がかわる』三一書房など)。
 修正が迫られた点は2点あります。
 1点目は,身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でないということです。史料的にも従来の研究成果からも,近世諸身分を単純に「士農工商」とする表し方・とらえ方はないし,してはいなかったという指摘がされています。基本的には「武士-百姓・町人等,えた・ひにん等」が存在し,ほかにも,(ボーガス注:士農工商から外れる)天皇・公家・神主・僧侶などが存在したということです。
 2点目は,この表現で示している「士-農-工-商-えた・ひにん」という身分としての上下関係のとらえ方が適切でないということです。武士は支配層として上位になりますが,他の身分については,上下,支配・被支配の関係はないと指摘されています。特に,「農」が国の本であるとして,「工商」より上位にあったと説明されたこともあったようですが,身分上はそのような関係はなく,対等であったということです。また,近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ,先述した身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあったということです。
 これらの見解をもとに弊社の教科書では平成12年度から「士農工商」という記述をしておりません。
 さて,「士農工商」という用語が使われなくなったことに関連して,新たに問題になるのが「四民平等」の「四民」をどう指導するかという点です。
 「四民平等」の「四民」という言葉は,もともと中国の古典に使われているものです。『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とあります。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味です。ここで「士農工商」は,「国を支える職業」といった意味で使われています。そこから転じて「すべての職業」「民衆一般」という意味をもちました。日本でも,古くから基本的にはこの意味で使われており,江戸時代の儒学者も職業人一般,人間一般をさす語として用いています。ただし,江戸時代になると,「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方も出てきます。この用法から,江戸時代の身分制度を「士農工商」という用語でおさえるとらえ方が生じたものと思われます。
 しかし,教科書では江戸時代の身分制度を表す言葉としては,「士農工商」あるいは「士と農工商」という言葉を使わないようにしています。これまでは「四民」本来の意味に立ち返り,「天下万民」「すべての人々」ととらえていただくよう説明してきました。しかし,やはりわかりにくい,説明しにくいなどとのご指摘はいただいており,平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにしました。
 「四民平等」の語は,明治政府の一連の身分政策を総称するものですが,公式の名称ではないので,この用語の理解自体が重要な学習内容とは必ずしもいえません。むしろ,従来の「江戸時代の身分制度も改めて四民平等とし」との記述に比べ,現在の教科書の「江戸時代の身分制度を改められ,すべての国民は平等であるとされ」との記述の方が,近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せたとも考えております。
(「四民」の語義については,上杉聰著『部落史がかわる』三一書房p.15-24を参考にしました。)

ほんとうに教科書から「部落差別の歴史」は消えたのか? 歴史研究者・上杉聰さんインタビュー - 弁護士ドットコム
 被差別部落への差別を助長する発言をしたとして、元フジテレビアナウンサーの長谷川豊氏が、この夏予定されている参院選への出馬をとりやめた。その後、長谷川氏は、公式ブログで「教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっているのです」と記した。つまり部落差別の記述が教科書から消えたというのだ。この言説はほんとうに正しいのだろうか。現在、被差別部落の歴史は学校でどう教えられているのだろうか。(ライター・黒部麻子)
(編集部注:本稿で「部落」とは被差別部落のことを指しています。また、「穢多・非人」という呼称は、歴史上の用語として使用しています)
 長谷川氏は今年2月24日、都内の講演で「江戸時代にあまり良くない歴史がありました。士農工商の下に穢多(えた)・非人(ひにん)、人間以下の存在がいる、と」「人間以下と設定された人たちも性欲などがあります。当然、乱暴なども働きます」「相手はプロなんだから、犯罪の」などと発言したとされる。
 部落解放同盟中央本部は5月21日、長谷川氏を公認候補者としていた「日本維新の会」に対して、「部落は怖い」などのステレオタイプ差別意識を助長する行為だとして、抗議文を提出した。同党は検証委員会を開いて、長谷川氏の処分を検討していた。こうした状況を受けて、長谷川氏は出馬辞退に至った。
 出馬辞退の報道があった6月10日、長谷川氏は公式コラム「本気論 本音論」を更新して、次のように記した。
「僕らの世代は、小学校などで(僕は道徳の授業でした)江戸時代に暗い差別の歴史があった、と習いました。4段階の身分制度士農工商)。そして、その下に被差別階級があった、と」
「実は日本ではその歴史自体が、なかったのではないか、と。その認識は間違っていたのではないか、と*66
「最新の歴史の教科書では、実はそんな歴史認識自体が間違っていた、というのが最新の学説となっており、子供たちの教科書から、その差別の歴史の記述自体が無くなっているのです」
 江戸時代の身分制度について、「士農工商の下に穢多・非人がいた」と教わった人は少なくないだろう。現在はそうした説明はされていないのだろうか。部落差別の歴史自体がなかったというのは、ほんとうだろうか。部落史研究者の上杉聰さんに聞いた。
■記者
 現在の学校教育で、「士農工商」はどうあつかわれていますか?
■上杉
 かつては、上から「士農工商」、さらにその下に「穢多・非人」という身分を置いた(江戸時代につくった)、という説明がされていました。しかし、1990年代後半からこの記述は大きく変わり、教科書から消えていきました。現在の教科書では、江戸時代の主要な身分は「武士・百姓・町人」という3つの身分で説明されています。
 「士農工商」が消えたのは、もともと日本の身分制とは無関係の古代中国の言葉だったからです。人々の職業を4つに大別し(「士」は武士のことではなく、知識人や官吏を指していました)、皇帝の下にいる「民全体」を表す言葉でした。「老若男女」と同じように、「みんな」という意味だったのです。
 身分とは、職業のことではありません。江戸時代の日本では大工や鍛冶屋、造り酒屋、医者といった職業の人々も、村に住んでそこの人別帳に加えられていれば「百姓」身分、城下町などの町に住めば「町人」身分だったのです。
■記者
 それでは「穢多・非人」はどうなっているのでしょうか?
■上杉
 中学校の歴史教科書でもっともシェアの高い『新編・新しい社会 歴史』(東京書籍/平成27年検定)を見てみましょう。そこには、「百姓、町人とは別に、えた身分、ひにん身分の人々がいました」(『新編新しい社会 歴史』P115)と書かれています。
 このように「別に」、あるいは他社の教科書では「ほかに」という言葉で、部落差別を表現するようになりました。「下」ではないのです。そして、この教科書では続けて、次のように書いています。
「これらの身分の人々は、他の身分の人々から厳しく差別され、村の運営や祭りにも参加できませんでした。幕府や藩は、住む場所や職業を制限し、服装などの規制を行いました」(同前P115)
 このように、部落差別の歴史はしっかり記述されています。
■記者
 被差別部落江戸幕府がつくったのでしょうか?
■上杉
 「江戸時代のはじめにつくられた」という説明も、ほとんどされなくなりました。教科書の記述も、かつては「(幕府や藩が)えた・ひにん身分を置いた」という表現でしたが、上述のように「いた」という表現に変わり、江戸時代以前にもこうした人々がいたことが表されるようになりました。そして、中世に「河原者」や「ひにん」が差別されていたことを記載する教科書が増えています。
 また、河原者・善阿弥などの庭造りや、幕末に岡山で起きた「渋染一揆」について、ほとんどの教科書が積極的に取り上げています。そのほか、『解体新書』を著して、オランダ医学を日本に紹介した杉田玄白の説明とともに、当時の解剖は被差別身分の人々が担ったことも教科書に書かれるようになりました。
 このように、教科書の記述は大きく変わりましたが、長谷川氏が言うように「差別の歴史の記述自体がなくなった」というのは大きな誤りです。研究の成果を受け、部落の歴史や差別の実態がより正確に描かれるようになったということなのです。
■記者
 部落はいつからあったのでしょうか?
■上杉
 穢多や非人という言葉が登場する最古の史料は、鎌倉時代中期、1280年ごろの『塵袋(ちりぶくろ)』という、大変古い書物です。私自身は、穢多と同じ意味で使われた「河原者」や「屠者」という呼び方が見られる平安時代中期ごろにまでさかのぼると考えていますが、いずれにしても現在はこうした中世起源説が主流です(歴史学で中世とは平安時代中期から*67)。ただし、中世においては法整備まではされず、権力者による慣行的なものとして差別が行われました。
 それが制度化されるのが江戸時代です。宗門人別改帳に身分が記載され、部落の人たちの衣服や立ち居ふるまいまで規制するようになっていきます。また、部落の側だけでなく百姓や町人に対しても、差別しなければ罰せられる、つまり法的に差別が強制されるようになっていくのです。
■記者
 そうした人々はなぜ差別されたのでしょうか?
■上杉
 一つには、外来の仏教によって、動物を処理することを「残酷」とみなし、仏の戒(いましめ)を破る「悪行」(あくぎょう)とする観念が広がったことが背景にあります。また、日本には、伝統的に「穢(けが)れ」という概念が神道の中にあります。これは、物理的な「汚(よご)れ」を社会領域にまで拡げた概念です。古くから、死や病、犯罪など、人間社会の秩序に変化をもたらすものを「穢れ」と呼び、忌避してきました。
 こうした宗教的な背景のなか、古代の律令制が崩れ、中世の荘園制度が始まると、貴族や寺社、武士などがそれぞれの荘園を独立して支配することになります。すると荘園同士のあいだに必ず隙間が生じます。河原や荒れ地などに住み、どこにも属さない人たちが生まれてきたのです。それらの土地は無税地でもありましたので、荘園支配の体制から外れた「異質な人たち」と見なされました。また、米作をせず動物を殺して食べることから、宗教的に「残酷」や「穢れ」のレッテルが貼り付けられるようになりました。
 そうした人々が楽しく元気に暮らしていたら、荘園の秩序は外から壊されてしまいます。そこで、彼らに対し、人や動物の死体の処理、清掃、警察といった仕事をすることを、無税地に住む代償として、懲罰的な意味を込めて義務づけました。こうした穢れを取り払う仕事は「キヨメ」と呼ばれ、部落の始まりとなりました。「穢多」や「非人」の言葉はそこから(分業で)分かれて生まれてきました。
 しかし、「キヨメ」の人々が担った仕事は、社会にとって必要不可欠な仕事です。ですから、排除されたといっても、一般社会から完全に切り離され、独立していたというわけではありません。ある程度支配には組み込みながら、しかし仲間には加えない。こうした矛盾した行為が部落差別なのです。
■記者
 部落の人たちは貧しかったのでしょうか?
■上杉
 大半の人たちは貧しかったのですが、中には「穢多頭(えたがしら)・弾左衛門」のように、刀を差して髷(まげ)を結い、小大名に匹敵する力を誇った人もいました。こうしたことからも、「最底辺」や「最下層」といった言葉では説明できないことがわかります。ただし、このような弾左衛門でさえ、百姓や町人と付き合うことはできませんでした。排除される存在であったことに変わりません。
■記者
 明治になり、「解放令」が出されたことで部落差別はなくなりましたか?
■上杉
 1871(明治4)年の布告は、よく「解放令」と呼ばれますが、この呼称は後からつけられたもので、当時そんな名前はありませんでした。布告の中に「解放」という言葉も出てきません。その成立過程を研究していくと、国にとって「地租改正の邪魔になるから身分を廃止した」という程度の動機に過ぎなかったことがわかります。
 この布告により身分制度と名称は廃止されましたが、差別解消のための措置がそこに含まれませんでした。このため多くの論文では、「解放令」ではなく「賤民制廃止令」、あるいは簡略に「賤民廃止令」と呼ばれています。


【参考:「士農工商」と部落解放同盟の抗議】

士農工商ウィキペディア参照)
■TBS糾弾事件(1981年)
 広告代理店を舞台にした、1981年8月6日のTBS系のテレビドラマ『虹色の森』(毎日放送制作)に「士農工商、その下がうちだよ*68」との台詞が登場。これに対し、部落解放同盟が「差別表現」として抗議した。
阿久悠糾弾事件(1984年)
 『東京新聞1984年12月10日付に掲載された連載「この道」第35回で、作詞家・阿久悠が広告代理店勤務時代にテレビ局の社員たちから屈辱的な扱いを受けた思い出に触れ、「番組ディレクターは帝王だった。それに比べて、広告代理店は自ら士農工商代理店と嘲るほど立場が弱かった」と書いた。これに対し、部落解放同盟東京都連合会は、作者の意図にかかわらず「差別表現」であると抗議し、阿久は謝罪した。
週刊文春糾弾事件(1985年)
 『週刊文春』1985年5月9日号に作家・筒井康隆による「士農工商SF屋」との表現が掲載されると、部落解放同盟が抗議。筒井は「多種多様な業界で自嘲的に使われている成句であり、その限りにおいて部落差別の隠喩になりえない」と突っぱねたが、文春は部落解放同盟に謝罪した*69
電通事件(1996年)
 電通発行の週刊紙電通報』1996年9月16日付に掲載された連載コラム「シリーズ・広告自分史<8>」に「士農工商代理店、われら車夫馬丁でござんす」との表現が登場(筆者は愛媛新聞社会長の松下功)。これに対して電通は同紙を即刻回収し、謝罪声明を発表すると共に、問題の表現を差し替えた第二版を発行。翌1997年4月8日には電通の花岡専務が組坂繁之・部落解放同盟委員長に面会して謝罪文を手渡した。このほか、問題の記事の筆者である松下功が1997年2月17日に部落解放同盟中央本部を訪れ、謝罪した。
佐賀新聞社糾弾事件(1997年)
 1997年3月、佐賀新聞社社長の中尾清一郎が、佐賀市におけるシンポジウムで「佐賀というのは福岡から下にみられ、福岡人が士農工商の商であれば、佐賀は穢多非人」と発言。部落解放同盟佐賀県連合会が差別発言として批判し、中尾は謝罪した。


■歴史の眼:シリーズ連載「明治150年の総括」1
「明治150年記念事業が突き付けたこと」(原田敬一*70
(内容紹介)
 原田氏は「佐藤*71政権での明治100年に比べても、安倍*72政権の明治150年については歴史学会やマスコミなどの批判が弱かったのではないか」「やはり安倍の恫喝体質へのおびえがあるのか(ボーガス注:少なくともテレビ局がまともに安倍批判しないことや、日本新聞協会がきちんと望月・東京新聞記者を擁護しないことなどは原田氏や、あるいは高世仁などが嘆くようにそうしたおびえがあることは間違いないでしょう)」と嘆いています。
 ただ「モリカケや安保法など他の問題」はともかく明治150年に限れば

政府が明治維新150年を祝う式典 天皇陛下は出席せず:朝日新聞デジタル
 佐藤栄作内閣のもとで開かれた明治100年式典の際は、昭和天皇香淳皇后が出席したが、今回天皇、皇后両陛下は出席しなかった。宮内庁は「政府からお声がけがなかった*73」(西村泰彦*74次長)としている。

明治150年:記念式典縮小 首相こだわり/反発に配慮 - 毎日新聞
 明治改元から150年の節目を迎えた23日、政府は憲政記念館(東京都千代田区)で「明治150年記念式典」を開いた。50年前の100年式典は約1万人が出席して大々的に開かれたが、戦前の歴史も踏まえて明治維新の「全面称賛」には批判も根強く、今回の出席者は約300人に縮小。皇族の出席も見送られた。

と言う点に注意が必要でしょう。
 つまり積極的批判派はもちろん「積極的には批判しない人間」であっても安倍の「明治150年を手放しで支持する人間」はほとんどおらずその結果、「国内外の批判を恐れて」天皇夫妻(当時)も式典出席に消極的だった。「過大評価は勿論出来ないものの」あえて言えば、「積極的に支持しない」というのは「消極的不支持」「消極的反対」ともいえるわけです。
 それで次第に安倍もやる気を失ったわけです。そしてその結果として安倍は明治150年において、当初考えていたほどには「右翼的イデオロギー」を前面に打ち出せず、各地の自治体の記念イベントも「明治時代の偉人(山口の伊藤博文*75木戸孝允*76山県有朋*77吉田松陰など、鹿児島の大久保利通*78西郷隆盛*79など、高知の坂本龍馬板垣退助*80など、佐賀の大隈重信*81など)を元にお国自慢、観光振興をてんでんばらばらに行う」ような統一性のまるでない代物になったわけです。
 勿論そうした偉人自慢においては、原田氏も批判するように「吉田松蔭のテロ容認体質」「伊藤博文朝鮮侵略」など「負の側面」は無視ないし軽視される傾向にはありますが、それにしても当初危惧されたほどには右翼的にはならなかった。
 そもそも「自治体がてんでんばらばら」ですから、「新潟では河井継之助(長岡藩家老)」「福島では白虎隊」のような「明治新政府と対立した側」が取り上げられたりするわけです。これでは「明治時代を美化したい」という安倍の思いは世間にアピールされたとはいえ、それが「意味のある形になった」とはとてもいえないでしょう。
 「佐藤の明治100年(1968年)」は正直「佐藤の他の政治的業績(1965年の日韓国交正常化、1972年の沖縄返還など)」に比べ「後世への影響はほとんどなかった」でしょうが、「安倍の他の業績(安保法制定による集団的自衛権一部容認、特定秘密保護法制定、消費税8%増税入管法改正によって移民増加に舵を切ったことなど)」はともかく今回の「安倍の明治150年(2018年)」も「佐藤の明治100年」と比べても社会的影響力はほとんど皆無でしょう。
 こうした安倍の「やっぱ止めた(明治100年みたいな大規模な式典にしたかったけどやっぱ止めた。まあ、式典をやると言ったから一応アリバイ作り程度にはやるけど)」は

靖国参拝がしたい→首相1年目に参拝したら、アメリカや中国が批判するから止めた(ただし玉串料は奉納します)」
河野談話撤回がしたい→アメリカや中国が批判的だから止めた」
「稲田を重用したい→第三次安倍内閣防衛相にしたらあまりにも評判が悪いから止めた」
「二島先行返還を目指す→プーチン*82が乗り気じゃないから止めた」
「中国封じ込めを目指す→日本財界も、諸外国(例:G7諸国、インド)、も乗り気じゃないから止めた。むしろ李克強*83首相が訪日したら歓迎します」

など他にも例はあります。
 その結果として「明治150年」よりも「モリカケ」「安保法」「特定秘密保護法」などと言った問題に批判が集まったという面はあるでしょう。
 なお、原田氏も指摘してますし、他にも多くの人間が指摘してますが、この「止めた」を過大評価(?)することはもちろんできません。
 「止めた、があるから安倍のウヨ政治は怖くない」とはとてもいえない。そもそも「反対が弱ければ靖国参拝してもいい」などと思うこと自体が政治家として異常です。
 しかし、「安倍は産経的極右路線を全面展開してきたわけではない」「それが不可能な程度にはマスコミや野党、外国(米国、中韓など)などの批判には意味があったこと」は指摘しておきたいと思います。
 言いたいことは「安易な楽観論は間違ってる」と思いますが一方で「過大な悲観論も間違ってる」つうことです。


■広告『加賀藩明治維新』(宮下和幸、2019年、有志舎)
(内容紹介)

加賀藩の明治維新 宮下 和幸(著) - 有志舎 | 版元ドットコム
 北陸の大藩である加賀藩は、幕末政局において目立った動きを見せずに明治維新を迎えたとみなされ、加賀藩=「日和見」とのラベリングがなされてきた。しかし、それは正当な評価なのだろうか。

 なかなか面白そうなので機会があったら読んでみたい気はします。

*1:2016年、岩波新書

*2:2017年、岩波新書

*3:著書『宇宙のかたちをさぐる』(1988年、岩波ジュニア新書)、『宇宙から見た自然』(1991年、新日本新書)、『宇宙はどこまでわかっているか』(1995年、NHKライブラリー)、『泡宇宙論』(1995年、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)、『科学の考え方・学び方』(1996年、岩波ジュニア新書)、『天文学者の虫眼鏡』(1999年、文春新書)、『私のエネルギー論』(2000年、文春新書)、『科学を読む愉しみ』(2003年、洋泉社新書y)、『疑似科学入門』(2008年、岩波新書)、『科学と人間の不協和音』(2012年、角川oneテーマ21)、『科学の限界』(2012年、ちくま新書)、『科学のこれまで、科学のこれから』(2014年、岩波ブックレット)、『人間だけでは生きられない:「科学者として東京オリンピックに反対します」』(2014年、興山舎)、『宇宙論と神』(2014年、集英社新書)、『宇宙入門』(2015年、角川ソフィア文庫)、『宇宙開発は平和のために』(2015年、かもがわ出版)、『科学は、どこまで進化しているか』(2015年、祥伝社新書)、『科学者と戦争』(2016年、岩波新書)、『科学者と軍事研究』(2017年、岩波新書)、『司馬江漢:「江戸のダ・ヴィンチ」の型破り人生』(2018年、集英社新書)、『物理学と神』(2019年、講談社学術文庫)、『科学者は、なぜ軍事研究に手を染めてはいけないか』(2019年、みすず書房)など

*4:著書『軍用機の誕生:日本軍の航空戦略と技術開発』(2017年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*5:陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督、首相を歴任。戦後、終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀。

*6:参謀次長、満州拓殖公社総裁、小磯内閣文相など歴任

*7:犬養内閣陸軍大臣、第1次近衛、平沼内閣文部大臣など歴任。戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放。

*8:検事総長大審院長、第二次山本内閣司法相、枢密院議長、首相、第二次近衛内閣内務相など歴任。戦後、終身刑判決を受け服役中に病死。後に靖国に合祀。

*9:海軍技術研究所長兼造船研究部長、三菱造船技術顧問、東京帝国大学総長など歴任

*10:1858~1939年。東京大学教授(化学)、理研所長(3代目)、帝国学士院長、日本学術振興会理事長など歴任(ウィキペディア「桜井錠二」参照)

*11:1854~1934年。帝国大学工科大学(東京大学工学部の前身)初代学長、東京仏学校(法政大学の前身)初代校長、土木学会初代会長、日本工学会理事長(会長)、理研所長(2代目)など歴任(ウィキペディア古市公威」参照)

*12:1871~1944年。政治学者。東大法学部長、総長など歴任。1903年、当時の桂太郎首相、小村寿太郎外相に対露強硬論の意見書を提出したいわゆる「東大七博士」の一人としても知られる(ウィキペディア「小野塚喜平次」参照)

*13:1928~1975年。日本大学教授。

*14:第1次大隈内閣文部大臣、第2次山本内閣文部大臣兼逓信大臣、加藤高明内閣逓信大臣などを経て首相

*15:関東軍参謀として満州事変を実行。関東軍作戦課長、参謀本部第1部長、関東軍参謀副長、舞鶴要塞司令官など歴任

*16:関東軍高級参謀として満州事変を実行。関東軍参謀長、第1次近衛、平沼内閣陸軍大臣朝鮮軍司令官、第7方面軍(シンガポール)司令官など歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*17:広島第5師団長、大阪第4師団長、台湾軍司令官、広田内閣 陸軍大臣、陸軍教育総監、北支那方面軍司令官、南方軍総司令官など歴任

*18:岐阜県知事、石川県知事、富山県知事、埼玉県知事、静岡県知事、広島県知事、兵庫県知事、岡田内閣書記官長など歴任

*19:清浦、加藤高明、第1次若槻、浜口内閣陸軍大臣朝鮮総督、第1次近衛内閣外相(拓務大臣兼務)など歴任

*20:軍令部次長、連合艦隊司令長官、第1次近衛内閣内務相など歴任

*21:海軍省軍務局長、海軍省航空本部長、海軍次官、第二次近衛内閣商工相、第三次近衛内閣外相(拓務大臣兼務)、鈴木内閣軍需相など歴任

*22:陸軍次官、台湾軍司令官、第二次近衛内閣司法相など歴任

*23:陸軍軍医総監、陸軍省医務局長、第3次近衛内閣厚生相など歴任。戦後、GHQの戦犯指定を苦にして自決。

*24:海軍省軍務局長、海軍次官、第三次近衛内閣商工相など歴任

*25:明治5年(1872年)に太政官より出された日本最初の近代的学校制度を定めた教育法令

*26:原文のまま。現在では普通、日中戦争という。

*27:「侵略」と表現しないのはやはり自民党への忖度でしょうか。

*28:著書『稲の大東亜共栄圏:帝国日本の「緑の革命」』(2012年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『ナチス・ドイツ有機農業』(2012年、柏書房)、『ナチスのキッチン:「食べること」の環境史』(2016年、共和国)、『戦争と農業』(2017年、インターナショナル新書)、『トラクターの世界史』(2017年、中公新書)、『給食の歴史』(2018年、岩波新書)など

*29:1879~1968年。原子核分裂を発見し、1944年にノーベル化学賞を受賞

*30:アスキス内閣商務大臣、内務大臣、海軍大臣ロイド・ジョージ内閣軍需大臣、植民地大臣、第2次ボールドウィン内閣大蔵大臣、チェンバレン内閣海軍大臣などを経て首相

*31:当時新兵器であった戦車が英国軍によって初めて投入された戦いとして知られる。一連の戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な死者を出したが、いずれの側にも決定的な戦果はなかった(ウィキペディアソンムの戦い」参照)

*32:著書『ドイツ自動車工業成立史』(2000年、創土社

*33:ディーゼルエンジンの発明者ルドルフ・ディーゼルが所属していたことで有名(ウィキペディア「MAN」参照)

*34:ガソリンエンジンの発明者であるカール・ベンツとゴットリープ・ダイムラーが創業者(ウィキペディアダイムラー・ベンツ」参照)。

*35:ナチスドイツ時代に開発されたティーガーI戦車、ティーガーII戦車のメーカーとして知られる(ウィキペディアヘンシェル」参照)。

*36:火砲の開発・製造で知られ、同社製滑腔砲120 mm L44はレオパルト2戦車(ドイツ)、M1エイブラムス戦車(アメリカ)、90式戦車(日本)の標準装備となっている(ウィキペディア「ラインメタル」参照)。

*37:著書『石油の「埋蔵量」は誰が決めるのか?:エネルギー情報学入門』(2014年、文春新書)、『原油暴落の謎を解く』(2016年、文春新書)

*38:まあ「捕らぬ狸の皮算用」ですね。石油禁輸が対米開戦の大きな理由ではあるでしょうが他にも「米国の対日くず鉄禁輸」とかいろいろありますし、そもそも「大慶油田を発見できないこと=日本の国力の限界」のわけです。

*39:マジレスすれば「石油禁輸されて打つ手がない」時点でハルノートを受け入れて降参すべきだったのであり、リスキーな真珠湾攻撃に打って出るなんて無謀の極みです。

*40:著書『熱輻射実験と量子概念の誕生』(2012年、北海道大学出版会)

*41:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣、首相を歴任。戦後、死刑判決。後に靖国に合祀。

*42:https://ci.nii.ac.jp/naid/40017725579によれば安田『日本における原子爆弾製造に関する研究の回顧』(月刊「原子力工業」1955年7月号収録)のこと。

*43:著書『だれが原子をみたか』(2013年、岩波現代文庫)など

*44:戦後、終身刑判決を受けるが後に仮釈放

*45:1885~1962年。1922年ノーベル物理学賞受賞者

*46:1901~1958年。1939年ノーベル物理学賞受賞者

*47:「日本国内で作るより米国で作って輸入した方が安い」つうあたり「そんなんで米国と戦争するのかよ?」て話です。

*48:この逸話からは1)この時点では理研の研究者は日米開戦を予想してなかった、2)明らかに日本の核物理学は米国に比べ劣っていた、と言うことが分かるかと思います。

*49:1889~1964年。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1909年5月、陸軍士官学校(21期)を卒業。同年12月、工兵少尉に任官。1912年11月、陸軍砲工学校高等科(18期)を卒業。1913年9月、陸軍派遣学生として東京帝国大学工学部電気科に入学し、1916年7月に卒業。電信連隊中隊長、砲工学校教官、陸軍通信学校研究部主事、陸軍省軍務局防備課長、陸軍航空技術研究所長、陸軍航空総監、多摩陸軍技術研究所長など歴任。1940年、航空技術研究所長時にウラン235核分裂する時に大きなエネルギーを放出することを知って爆弾に応用することを着想し、1941年に陸軍が理化学研究所原子爆弾の開発を委託するきっかけとなった。1944年3月、航空総監だった当時、陸軍内で提案された特攻作戦(体当たり攻撃)に異を唱えた為、東條英機首相によって更迭された事でも知られる。後任の航空総監には後宮淳大将が任命され、同年末に企画は実行に移された(ウィキペディア安田武雄」参照)。

*50:1906~1979年。繰り込み理論によって1965年のノーベル物理学賞を受賞。東京教育大学長、日本学術会議会長、世界平和アピール七人委員会委員を歴任

*51:1907~1981年。中間子理論により1949年(昭和24年)、日本人として初めてノーベル物理学賞を受賞。

*52:著書『荒勝文策と原子核物理学の黎明』(2018年、京都大学学術出版会)

*53:いわゆる「小林・益川理論」の業績により益川敏英京都大学名誉教授とともに2008年のノーベル淵理学賞を受賞

*54:当時、荒勝研究室にいたという堀場製作所創業者である堀場雅夫のことか?

*55:著書『原爆はこうして開発された(増補)』(共著、1997年、青木書店)、『日本の核開発:1939~1955』(2011年、績文堂出版)

*56:1902~1974年。東京大学原子核研究所長、日本原子力学会会長、日本原子力研究所(日本原子力研究開発機構の前身)所長、東京理科大学長等を歴任

*57:もちろん可能性としては「荒勝を誹謗する木村の虚言」の可能性もあるでしょうからこれ以下は「これが事実ならもちろん人間として最低の暴言であり、問題だ」という批判にとどめます。

*58:著書『ダライ・ラマと転生』(2016年、扶桑社新書)など

*59:そういう「無茶苦茶な荒勝擁護」が実際にあったかどうかは知りませんが。

*60:著書『〈オリンピックの遺産〉の社会学長野オリンピックとその後の十年』(共著、2013年、青弓社)、『オリンピックが生み出す愛国心』(共著、2015年、かもがわ出版)、『現代オリンピックの発展と危機1940-2020:二度目の東京が目指すもの』(2018年、人文書院)、『一九六四年東京オリンピックは何を生んだのか』(共著、2018年、青弓社

*61:著書『浄土真宗と部落寺院の展開』(2007年、法蔵館)、『近世国家における宗教と身分』(2016年、法蔵館

*62:著書『検証 島原天草一揆』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『潜伏キリシタン:江戸時代の禁教政策と民衆』(2014年、講談社選書メチエ→2019年、講談社学術文庫)、『近世潜伏宗教論:キリシタン隠し念仏』(2017年、校倉書房)など

*63:後で紹介するhttps://www.tokyo-shoseki.co.jp/question/e/syakai.html#q5で分かるように全く反映されてないわけではありません。

*64:著書『被差別部落の起源とはなにか』(1992年、明石書店)、『被差別部落の起源』(1996年、明石書店)、『近世被差別民衆史の研究』(2014年、阿吽社)など

*65:著書『部落史がかわる』(1997年、三一書房)、『天皇制と部落差別』(2008年、解放出版社)など

*66:上杉氏も指摘してるように、長谷川発言のウチ、「従来の士農工商理解が不適切だった、と評価されてること」は事実ですが、「部落差別がなかった、と最近では認識されてる」と言うのは明らかなウソです。

*67:どこから中世が終了し、近世になるかは争いがありますが、鎌倉時代室町時代は一般に中世に含まれると理解されます。

*68:阿久発言と言い、当時の広告代理店とテレビ局の関係ってそんなもんだったんでしょうか。

*69:まあ筒井の場合単に差別に鈍感なだけですが。

*70:著書『日本近代都市史研究』(1997年、思文閣出版)、『国民軍の神話』(2001年、吉川弘文館)、『帝国議会誕生』(2006年、文英堂)、『日清・日露戦争』(2007年、岩波新書)、『日清戦争』(2008年、吉川弘文館)、『「坂の上の雲」と日本近現代史』(2011年、新日本出版社)、『兵士はどこへ行った:軍用墓地と国民国家』(2013年、有志舎)、『「戦争」の終わらせ方』(2015年、新日本出版社)など

*71:吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相などを経て首相

*72:自民党幹事長(小泉総裁時代)、小泉内閣官房長官を経て首相

*73:本当になかったのかは怪しいですし、仮になかったとしても「声かけて断られたら俺のメンツが潰れる」「天皇、皇后を出席させたらむしろ俺が『右翼行事に天皇を政治利用した』と国内外から批判される」「だから声はかけない」つう話であることは間違いないでしょう。

*74:警察庁警備局長、警視総監などを経て宮内庁次長

*75:首相、貴族院議長、枢密院議長、韓国統監を歴任。元老の一人

*76:参議、文部卿、内務卿を歴任

*77:第1次伊藤、黒田内閣内務相、首相、第2次伊藤内閣司法相、枢密院議長など歴任。元老の一人。

*78:参議、大蔵卿、内務卿を歴任

*79:参議、陸軍大将、近衛都督

*80:参議、第2次伊藤、第2次松方、第1次大隈内閣内務相など歴任

*81:大蔵卿、第1次伊藤、黒田内閣外務大臣、第2次松方内閣農商務大臣、首相など歴任

*82:エリツィン政権大統領府第一副長官、連邦保安庁長官、第一副首相、首相を経て大統領

*83:共青団中央書記処第一書記、河南省長・党委員会書記、遼寧省党委員会書記、第一副首相を経て首相(党中央政治局常務委員兼務)

今日の産経ニュースほか(2019年7月9分)

ジャニーズ所属タレントがコメント(9・完)「ジャニーさん、ずっと一緒だよ」(1/4ページ) - 産経ニュース
 タレントたちが追悼コメントをするのは不思議ではありませんが産経がここまで紙面を追悼コメント掲載に使うのは実に不可思議です。そこまでフジサンケイグループにとってジャニー喜多川の存在が重いのか。


ジャニーズ所属タレントがコメント(1)「僕を見つけてくれてありがとう」(1/4ページ) - 産経ニュース
 ジャニーズ所属タレントがジャニー氏を褒め称えるのはある意味当たり前のことです。
 「会社の上司に当たる人間に対し公然と悪口する人間」は普通いない。むしろ俺的に気になるのは「どう見てもジャニー氏とケンカ別れしたとしか思えない」元SMAP稲垣吾郎香取慎吾草薙剛)のコメントですね。彼らのツイートを見る限り、特にコメントはないようです。
1)ケンカ別れしたのでコメントしたくない
2)社交辞令として「ご冥福を祈る」などとコメントしても「ならばなぜ独立した!」とジャニーズ側からかえって非難されかねず、それがいや
というところでしょうか。
 そしてマスコミも下手に「今の心境は」などと取材した場合、「元SMAP」だけではなく、ジャニーズ側からも「ジャニー非難発言を引き出したいのか!」などと敵視されることを恐れてか特に取材する気もなさそうです。


ジャニー喜多川さんが死去 SMAP、嵐ら育成 男性アイドル文化を牽引 - 産経ニュース
 ジャニーズ事務所においては「明治新政府における大久保利通」「中国共産党における毛沢東」「戦後日本共産党における宮本顕治」「創価学会における池田大作」「パナソニックにおける松下幸之助」「ホンダにおける本田宗一郎」並のビッグネーム(ジャニーズ事務所を一代で大企業に仕立てた人物)ですが、彼が亡くなったからと言ってよかれ悪しかれジャニーズ事務所が潰れるつう事もないでしょう。渡辺プロダクションナベプロ)創業者・渡辺晋死後、ナベプロが力を落としたと言われるように、ジャニー時代の力が若干衰えるかもしれませんが、創業時はともかくもはやジャニーズも「彼なしでやってける企業」でしょう。
 なお、後継社長は「副社長でジャニーの姪に当たる藤島ジュリー景子」だそうです。

参考

ジャニーズ事務所ウィキペディア参照)
 サンフランシスコ講和条約の発効で日本が主権回復した1952年、ジャニーズ事務所創業者・ジャニー喜多川は来日してアメリカ大使館で通訳として勤務する傍ら、宿舎の近所の少年たちを結集させて野球を教授していた。ある日、雨天により通常行う野球の練習を休み、映画館で『ウェストサイドストーリー』を鑑賞する。これに一同感動し、以降野球のトレーニングそっちのけでダンスのレッスンを始めた。この時の野球少年から選抜されたのが、事務所最初のタレントグループである(初代)ジャニーズ(1962~1967年)であった。
 1962年、渡辺プロダクションの系列会社としてジャニーズ事務所が創業される。
 次いで、1968年にデビューしたフォーリーブス(1968~1978年)は当時全盛期を迎えていたグループ・サウンズ(GS)の流れに乗り、人気を博した。
■特色
 ジャニーズ事務所の特徴はタレントに対する教育制度にあり、デビュー前のタレントを総称してジャニーズJr.と呼ばれるようになる。この育成制度は、未婚女性のみで構成された宝塚歌劇団との類似性が指摘されており、喜多川も取材に対して「男版宝塚」と発言したことがある。


中6-3広 中日3連勝、広島は10連敗 - 産経ニュース
中2-1広 中日が4連勝、広島11連敗 - 産経ニュース
 丸が巨人に移籍し抜けたとは言えリーグ開幕前は「三連覇」も予想され「交流戦前は首位だった」球団が、交流戦の不振を契機にここまでメロメロになるとはびっくりです(とはいえ過去の貯金があるのでそれでも7/9現在で同率2位の阪神、DNAと1.5ゲーム差の4位ですが)。はたしてこのまま沈没するのか、巻き返すのか。巨人の独走(7/9現在2位と8.5ゲーム差)では「アンチ巨人」としてつまらないのでなんとか巻き返してほしい。


ハメネイ師の安倍首相に対する発言(最高指導者庁WS)|コラム|21世紀の日本と国際社会 浅井基文のページ

・7月3日付のイランの最高指導者庁WS(英語版)は、ハメネイ師が安倍首相と会見した際の発言を掲載しました。
ハメネイ師の発言内容には興味深い点がいくつかあります。
・一つは最後の次のくだりです。
ハメネイ師は、日本首相が『なぜアメリカ人はほかの国々に対して自分たちの信念や見解を常に押しつけたがるのだろうか』と発言したのに対して、『あなたがその事実を認識していることは良いことだ、そしてあなたはアメリカ人が自分たちの見解を押しつけるのは際限がないということを知っておくべきだ』と述べた。」
 トランプにゴマをすることに徹底している安倍首相がハメネイ師にこのような発言をするとはやや意外ですが、ゴマをすることが習い性になっている安倍首相は、徹底してアメリカに批判的なハメネイ師にも思わずおもねる気持ちになったということでしょうか。
 なんという事大主義で、卑屈な人間なのでしょうか。

 「ハメネイが嘘をついてる*1」と考えない限り、浅井先生の安倍批判には全く同感ですね。
 これでは「習近平氏やプーチン氏相手にはトランプの悪口を言い」「トランプ相手には習氏やプーチン氏の悪口を言う」などという二枚舌を安倍がしてる疑いすらあるでしょう。
 しかし、ハメネイ側もここまで安倍のメンツをズタボロにするとは「浅井先生も指摘していますが」安倍に対し、

 トランプに「イランは深く反省しています」とか無茶苦茶なこと言ってるんじゃねえか?

と何一つ信用してないのでしょうね。これが「なぜか安倍が格下と思ってるらしい韓国」なら『韓国を許せない!』とマジギレでしょうが、イラン相手には何も言えないんでしょうねえ。


河野氏「真摯に反省」 北方領土返還めぐる発言 本紙が抗議 - 産経ニュース
 何をどう反省するのかを説明しない当たりがさすが安倍の子分です。普通に考えれば「産経を捏造呼ばわりしたのは間違っていた、報道は正しかった」つう意味でしかないわけですが。しかしなんでこう態度が大きく変わったんですかね。安倍から「産経のメンツを潰すな」と叱責でもあったのか。


首相「怒るなら党名変えないで」 選挙妨害批判に反論 - 産経ニュース
 まともな人間なら「ただの言い間違えで、悪意はなかったので勘弁してほしい」レベルで済ますことを「名前を変えるのが悪い」とはいい度胸です。
 こんなことを言ったところで狂信的安倍支持者以外は呆れるだけでしょうに。
 大体この安倍の物言いだと誰かが「平成31年7月」と言い間違えて「元号は変わった」と指摘されて、「途中で元号を変えるのが悪い(本心か居直り(?)かはともかく)」というのもOKなのか。多分安倍だと「アンチ令和派」の嫌がらせだと勝手に認識して「馬鹿にするな!」「俺の決めた元号がそんなにいやか!」とマジギレしそうですが。


片山氏「非常に有意義」 参院選の女性候補者比率 - 産経ニュース
 女性活躍担当相という片山の立場上こういうしかないでしょうが「立憲民主や共産、社民など野党の女性候補者率が高く、自民、公明が低い」以上、正直どこまで本心かは疑問符がつきます。


同種訴訟で異なる司法判断も ハンセン病控訴断念 - 産経ニュース
 安倍にまともな人権意識があるわけもないので明らかな人気取りでしょう。ただし決断自体はもちろん悪いことではありません。
 ただし、小生も含めて安倍批判派はこんなことで「モリカケ」「嫌韓国」「デマ体質」「恫喝体質」などの安倍の問題点を容認しませんし、一方安倍信者は「安倍が控訴したところ」で支持でしょうから大して支持率に影響もないのではないか。 


【産経抄】7月9日 - 産経ニュース

▼97年前の今日、60歳で世を去った文豪・森鴎外は、娘を溺愛していた。
お茉莉は上等、目も上等、鼻も上等、頬っぺも上等、性質も素直でおとなしい」。
 長じて作家になった茉莉は書き残している。
 「父親は恋人以外の何者でもない」
▼東京都荒川区の和菓子店の経営者(43)も、近所の住民によれば、「娘にバレエを習わせる、子煩悩なお父さん」だった。そんな仲の良かった親子に、一体何があったのか。7日未明に18歳の娘の遺体が、店内の業務用冷蔵庫のなかで見つかった。父親は、家族に娘の殺害をほのめかした後、さいたま市内の河川敷で遺体となって見つかった。自殺とみられる。
▼実は殺人事件の半分は、家庭内で起こっている。全国の警察が昨年摘発した親族間の殺人事件*2は、418件、全体の47・2%を占めていた。もっとも多い動機が、「憤怒」である。とはいえ、和菓子店の親子の間で起きた事件は、あまりにも不可解である。
▼昨日の「朝晴れエッセー」には、7年前に亡くなった父の思い出がつづられていた。銀行員だった父は、接待の宴会があった日には、必ずお土産を持って帰ってくれた。筆者は問いかける。
「私が喜ぶ顔も、父の癒やしとなれていたのだろうか」。
▼なっていたに決まっていると、世の父親の多くは断言するだろう。鴎外ほどではないにしても、父親にとって娘は本来、「恋人以外の何者でもない」のである。

 まあ今後殺害動機などは分かっていくのかもしれませんがそれはさておき。
 あまり知られてないようですが「殺人のなかで割合が一番多いのは親族間殺人*3」は重要な指摘ですね。「冗談半分」でいえば「統計データ的には、あなたを殺す危険性がある、一番恐ろしい人間は見ず知らずの赤の他人ではなく家族」のわけです。産経もいつもこういうコラムなら文句言いません。
 まあ、普通恨みがないと殺人なんかできない。見ず知らずの人間なんか殺せないわけです。「江戸川乱歩の蜘蛛男」みたいなキチガイ(殺人それ自体に喜びを感じるサイコパス)は普通いないわけです。
 そして親族というのは「同居親族」が典型的ですが毎日顔を合わせてるが故に「恨みや不満がたまることも多い」わけです。
 それも「夫婦」「親子」ならまだしも「義理の父母(舅、姑)」なんて他人みたいなもんです。「あんたの娘(息子)と結婚したかったんであって、あんたと親族になりたかったわけじゃない」「あの野郎、ぶっ殺してやりてえ」つう話です。
 「舅、姑の婿いびり、嫁いびりによる殺人」「痴情のもつれによる殺人(配偶者の浮気に憤激してなど)」「DV殺人」「引きこもり殺人(引きこもりの息子、娘を苦にして。先日の元農水次官もそうです。まあ、アレはDVもあったんですけど)」「介護疲れによる殺人」「障害者の子どもの将来を悲観して殺人」とかまあ親族間殺人はいろいろあります。

参考
【産経・朝晴れエッセー】

【朝晴れエッセー】深夜のお土産・7月8日 - 産経ニュース
 父は銀行員の仕事柄、接待の宴会が多くあった。バスの最終便に間に合わず、母が車で駅へ迎えに行くことはしばしばで、ときには繁華街から1時間かけタクシーで帰宅することもあった。
 小学生の頃、朝の食卓で父が「今日は夕食いらない」と母に言うと、私はいつもわくわくした。飲み会の日には必ず、お土産があったからだ。
 宴会先から手土産でもらうお寿司、酔い覚ましに立ち寄る喫茶店のサンドイッチ、苺が一面にのったホールケーキ。私は母に促され夜9時には布団に入るものの、今日のお土産は何かな?となかなか寝付けない。門扉が開く音がすると、兄には負けまいと走って玄関へ行き、父を迎えた。
「顔見んと、手元ばっかり見てるなあ」
 父はよく、そう笑いながら箱を差し出した。いつもは鼻をつまむほど嫌いなお酒のにおいも、この時ばかりはまったく気にならない。日が替わってからの夜食は、なんとも大人の味がした。
 今では2児の母となった私も、帰りが遅くなる際には必ずお土産を買う。「おかえり!」と駆け寄ってくる子どもたちの笑顔が見たいからだ。
 父が亡くなり7年。今思えば、お酒が弱い父にとって接待はつらい時間だっただろう。けれど、お土産を渡す父はいつもうれしそうだった。
 私が喜ぶ顔も、父の癒やしとなれていたのだろうか。
三輪佳奈子 48 大阪市都島区

【親族間殺人】

18年の親族間殺人は418件 13年以降横ばい、警察庁まとめ | 共同通信 ニュース | 沖縄タイムス+プラス
 2018年に全国の警察が摘発した親族間の殺人事件(未遂を含む)は418件だったことが5日、警察庁のまとめで分かった。殺人事件全体の摘発は近年減少傾向だが、親族間殺人は13年以降、400件台と横ばいで推移しており、孤立した家庭内での問題が、深刻な事件へと発展している実態が統計からも明らかになった。動機は「憤怒*4」が191件(45・7%)で最多。
 警察庁によると、18年の殺人事件全体の摘発は886件で、親族間殺人がほぼ半数の47・2%となった。同庁幹部は「親族間の犯罪は、一般の街頭犯罪防止対策が通じず、防止が難しい」としている。

親族間犯罪、動機は「将来悲観」最多 警察庁調査 :日本経済新聞
・全国の警察が2014年に摘発した親族間の殺人・殺人未遂事件や傷害致死事件は計272件で、動機は「将来を悲観」が全体の3分の1で最も多かったことが10日、警察庁の調査で分かった。被害者は「父母」が3割を超えて最多だった。年間を通した詳細な分析は初めて。
・2014年に摘発した親族間の殺人・殺人未遂事件や傷害致死事件のうち、被害者は「父母」が33%と最も多く、「配偶者」が27%、「子」が25%だった。
・被害者と加害者の約8割が同居し(中略)ていた。
・動機は介護疲れや金銭困窮などによる「将来を悲観」が最多の33%。痴情のもつれや金銭トラブルによる「不仲・トラブル」が25%、「加害者の心神喪失等」が21%と続いた。
・全国の警察が16年に摘発した親族間の殺人事件(未遂も含む)は425件で、殺人事件全体(770件)の55%に上る。殺人事件全体が減少するなか、678件で同44%だった1979年と比べ、割合は上昇している。
・夫婦や父母、子供などの親族間の事件は現在、ドメスティックバイオレンス(DV)や特段の事情を除いて犯罪被害者への給付金が原則不支給となっているが、見直しも含めて検討する。

殺人:親族間が55% 警察庁、被害給付金を検討 - 毎日新聞
 全国の警察が2016年に摘発した殺人事件(未遂を含む)のうち、55%が親族間で起きていたことが警察庁の調べで分かった。この割合は増加傾向にある。警察庁は10日、(ボーガス注:犯罪被害者給付金が)原則不支給になっている親族間事件の被害者を(ボーガス注:犯罪被害者)給付金支給制度の対象にできないか議論するため、有識者会議を開いた。

 まあ「わかりやすい例」だと、「痴情のもつれ(母親が不倫をし離婚を持ち出すなど)から、恨みを爆発させた父親が母親を殺害した後に自殺」なんてので「不支給」なんてことをされたら困るのは「残された子ども(特に小学生など幼い場合)」ですから*5。「そういう両親で君たちはかわいそうだけど法律がそうなってるから仕方ない」「君らも両親の不仲をなんとか出来なかったのかね?(いや、子どもにどうしろと?)」ではまずいでしょう。支払うのは当然でしょう。
 つうか「今まで支払ってなかったのかよ!」ですね。すいません、柄にもなく偽善的なことを言ってしまいましたが、小生自身はそんなに人権にセンシティブではないですがそれにしても「それはおかしい」「検討が遅すぎる」ですね。
 まあ被害者支援つうなら「こういうことも大事なこと」です。岡村勲みたいな「死刑愛好家」はこういうことに多分ほとんど興味はないでしょうが。

*1:産経や櫻井よしこなどはそう言いかねませんが。ただ普通に考えてそれはないでしょう。

*2:ただし18年の親族間殺人は418件 13年以降横ばい、警察庁まとめ | 共同通信 ニュース | 沖縄タイムス+プラスによれば「殺人未遂」を含みます。

*3:もちろん「山奥にでも埋めて死体が発見されなければ」殺人と認定されませんのであくまでも「発覚した殺人については」ですが。

*4:要するに恨み辛みです。「憎悪」とかならまだしも「憤怒(憤激するほど激しい怒り)」と書いちゃうとなんかイメージが違う気がします。「安倍の野郎許せない。なんだあのモリカケ疑惑ってのは!」「香港政府はあの条例を正式に撤回せよ!(デモ隊)」てのも「憤怒」ですからねえ。

*5:さすがに小生が挙げた事例は「例外的に支払いが認められてる(いや無知なのでどうなのか知りませんが)」のかもしれませんが、「仮にそうだとしても」それ以外はほとんど認められてないんでしょうねえ。

今日の産経ニュース(2019年7月2日分)

東京でシャンソンの祭典「第57回パリ祭」 6日から - 産経ニュース
 パリ祭についてはウィキペディアの記述を紹介しておきます。

■パリ祭(ウィキペディア参照)
・1789年7月14日に発生しフランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃および、この事件の一周年を記念して翌1790年におこなわれた全国連盟祭が起源となっている。
・7月14日には、フランス各地で一日中花火が打ちあげられる。また慣例として午前中にはパリで軍事パレードが開催される。その後、フランス大統領の演説がおこなわれる。パレード終了後にはエリゼ宮殿において茶会が催される。パリ祭当日にはツール・ド・フランスも開催されている。
・なお、「パリ祭」は日本だけの呼び名である。これは、ルネ・クレール監督の映画 『Quatorze Juillet 』(1933年)が邦題『巴里祭』として公開されヒットしたためで、邦題を考案したのは、この映画を輸入し配給した東和商事社長川喜多長政である。読み方について、今日では「パリさい」が一般的だが、長政の妻・かしこは「名付けた者の気持ちとしてはパリまつりでした」と語っている。


自民府蓮の渡嘉敷会長、堺市議団に謝罪 - 産経ニュース
 これだけではなんとも言えませんが、「堺市長選の善戦」「渡嘉敷氏の力不足」もあり、当初安倍がもくろんでいた「維新全面プッシュ」はやはり難しくなったとみるべきでしょうか(アンチ維新の俺の願望込みですが)。


細野、長島両氏が衆院自民会派入り - 産経ニュース
 以前から自民入りしたがっていた連中なので驚きはないですが全く恥知らずですね。特に「民主党幹事長(海江田代表時代)、政調会長岡田代表時代)を務めたことも一応ある元幹部の細野」には「改めて」心底呆れます。まあ、それだけ細野らにはプライドもないし、能力もないということなんでしょうが。自らの能力を過信したあげく自滅して、そこまで追い込まれたわけです。
 もちろん今更細野らが自民入りしても上がり目はないでしょうが、「落選して政界引退に追い込まれるよりはマシ」「与党の一角ならいくらかでも甘い汁が吸えるかも」「もはや大臣だの幹部になることなんか諦めた」という心境なんでしょう。


「全く問題ない」安倍首相の大阪城発言で菅氏 - 産経ニュース
 「悪意などなかったがバリアフリーに対する認識が足りなかったのはまずかったと思う」で済む話で何で居直りますかね。


安倍首相、自身の大阪城エレベーター発言「遺憾だ」 - 産経ニュース
 この程度の事ですら素直に「軽率な発言で申し訳ない」とわびられず「遺憾」などと他人事のような発言とは、この男は「わびたくない」という居直り根性が骨の髄まで染みついてるのでしょう。正直「安倍晋太郎*1(父親)の子育ても酷かったんじゃないか」つう気がしています。 
 なお、「謝罪できない男」安倍が「すみません」「申し訳ない」などという代わりに「遺憾」といってることでわかるように遺憾とは「プーチン大統領の態度が遺憾(島の返還に全く冷淡で残念)」「トランプ大統領の移民に対する態度が遺憾(移民差別助長で残念)」「英国がEU離脱を決めて遺憾」などという時にも使う言葉(つまり残念とか悲しいとかいう語感)なので謝罪や反省の言葉では全くありません。


【正論8月号】野党のでたらめ皇位安定継承策 産経新聞論説委員・政治部編集委員 阿比留瑠比(1/3ページ) - 産経ニュース
 もちろん野党各党の提案は「女帝容認」です。
 まあ、ウヨ支持層を抱える国民民主が「女系天皇*2否定」なのに対し、そうではない立民や共産、社民は「女系天皇も認める」つう微妙な違いはありますが。勿論俺は女系云々なんて区別は馬鹿げてると思うので女帝を容認するなら女系天皇も容認します。
 なお、小泉政権時代の「皇室典範に関する有識者会議」も「女帝容認(そして女系天皇も容認)」を答申してるし、世論調査で一番支持が多い*3のも「女帝容認(そして女系天皇も容認)」だから野党の態度は「ある意味当然」です。反対する阿比留らウヨの方がおかしい。

 (ボーガス注:女帝容認論者は、愛子さんが天皇になることによって)自分たちが正統な皇位継承資格者である皇嗣秋篠宮さまとその次を継がれる地位にある悠仁さまから、皇位を簒奪し、事実上、廃嫡*4しようとしているのだということが、分からないのか。これがどんなに不遜で危険な発想かに、どうして考えが及ばないのか。歴史の重みとは、そんなに軽視していいものなのか。

 まあ「愛子さんの代から始めます」つうならそうなるでしょうね。でそれを「問題だー」つうのは「どうしても秋篠宮悠仁君に天皇になってほしい人間」か、「愛子さんに絶対に天皇になってほしくない人間」か、「とにかく女帝に反対の人間」(いずれにしろ極右でしょうが)しかいないでしょう。
 これを「どんなに不遜で危険な発想か」なんていうのは産経のような極右だけです。
 つうかそれなら「女帝は、愛子さんの代では始めず、悠仁君の子ども以降の代で始めます」なら産経らウヨが納得するかといえば納得しないでしょうね。
 ちなみに「話が脱線しますが」、「単なる好奇心」ですが「廃嫡された人物ってどんなのがいるのか?」と思ってググってみたら割と有名どころでは、以下のような人がいますね(ウィキペディア『廃嫡された人物』参照)。

早良親王(750~785年)
 桓武天皇の弟ですが、当時は「天皇の息子が当然に天皇になる」などというルールはなく、彼が桓武の跡継ぎとされます。しかし、藤原種継暗殺に関与したとして廃嫡(皇太子位剥奪)されます。まあ実際の所、どうなのかはわかりません。その後、天皇になるのが平城天皇桓武天皇の長男)です。
武田義信(1538~1567年)
 武田信玄の長男ですが信玄暗殺を企てたとして、廃嫡され、弟の勝頼が後を継ぐことになります。
西園寺公一(1906~1993年)
 ゾルゲ事件での逮捕有罪が理由ですね。正直、彼は尾崎のスパイ行為については全く知らなかったのでどう見てもでっち上げ有罪ですが。

 で話を産経記事に戻します。

 天皇、皇后両陛下の長女である愛子さまをいったん天皇とすれば、やはりそのお子さまを次の天皇にという声が国内外からわき起こることは目に見えている。

 まあそりゃそうでしょう。そこで「ウヨ支持層に配慮した国民民主の案」は「愛子さんの子どもは天皇にはしない(いわゆる女系天皇の否定)」のだそうですが、まあそれは阿比留がいうように「不自然」でしょう。
 しかしそこで「女系でもええヤン」とならないのがもちろん阿比留らウヨです。なお、繰り返しますが、「そんなウヨ支持層への配慮が必要ない」立民、共産、社民は女系天皇も容認しています。

 しかし、そのお子さまは女系であり、皇室の伝統上、継承権は持たない立場にある。いわゆる「万世一系」から外れるのである。そうなると、愛子さまの系統と悠仁さまの系統のどちらが正統かをめぐって論争が巻き起こり、「南北朝」問題が起きかねない。
 実際に平成18年2月に宮内庁秋篠宮紀子さまのご懐妊の兆候を発表した際には、女性・女系天皇を認める皇室典範改正に熱心な小泉純一郎首相と、慎重派の安倍晋三官房長官との間で、こんなやりとりがあった。
 安倍長官「誠におめでたいことですが、これで皇室典範改正はよくよく慎重にしなければならなくなりました」
 小泉首相「なぜだ」
 安倍長官「生まれてくるお子さまが男子でしたら、皇室典範改正は正統な皇位継承者であるこのお子さまから継承権を奪ってしまうことになります。(皇子同士が皇位継承で争った)壬申の乱になりかねません」

 吹き出しました。一寸常人には思いつかない考えですね。

 この点については、女性・女系天皇容認を表明した共産党に近く、皇室と民主主義は両立しないと主張していた憲法学者の故奥平康弘氏も、むしろ女系天皇誕生への期待を込めてこう記している。
天皇制のそもそもの正当性根拠であるところの『萬世一系』イデオロギーを内において浸食する因子を含んでいる」(月刊「世界」平成16年8月号)

 奥平氏の見解について知るには、奥平『「萬世一系」の研究(上)(下)』(2017年、岩波現代文庫)を読めば良いかと思います。しかし阿比留が奥平主張の紹介に「比較的、入手が容易な岩波現代文庫」ではなく「入手が困難な、10年以上前の岩波世界」を持ち出すのはやはり「自分の詭弁がばれないようにするセコイ工作」でしょうか。
 それはともかく、前も書きましたが日本共産党や奥平氏天皇制廃止論を持論だとしていることは事実です。
 しかしそこから「だから女帝容認論天皇制廃止の陰謀なのだ」つうのは与太でしかありません。天皇制廃止を最優先に考えれば「女帝に反対した方がいい」でしょう。大体本気で「天皇制廃止のためには女帝容認だ。なんとかしてウヨ連中をだまして女帝を容認させよう」と思うのなら落語の「まんじゅう怖い」ではないですが「女帝容認が怖い」といった方がいいでしょう(いや実際「天皇制が維持しやすくなる」という意味では廃止派にとって「怖い(?)」のですが)。そうすれば「そうか、女帝容認が怖いのか」と思ってウヨが「女帝を容認してくれるかもしれない」。
 冗談はともかく、ここで奥平氏がいってることは「女帝容認を万世一系イデオロギーの否定につなげることが出来れば望ましい」つうだけの話です。
 そしてここで奥平氏が言う「万世一系イデオロギーの否定」とは「天皇制の否定」ではない。「天皇制の否定」ではないからこそ「万世一系イデオロギーの否定」と書くわけです。後で述べますが奥平氏自体は「万世一系イデオロギーを全否定したら天皇制は成り立たない」つう価値観のようですがそれは奥平氏個人の価値観に過ぎません。
 「万世一系イデオロギーの否定」とは「女性天皇は認めない」だの「神武が初代天皇万世一系。神武陵もモノホンです」「宮内庁天皇陵認定は正しいから見直す必要はない。天皇陵は原則、発掘調査を認めない」だのという「天皇制に現在、存在する不合理、非科学的な部分」の否定です。
 まあ、奥平氏
1)「どんなに頑張ってみたところで天皇制からそんな不合理(万世一系イデオロギー)を完全に除去することは出来ない、そして不合理は社会に悪影響を与えてる→天皇制は廃止するしかない」
2)「それでも不合理は少なければ少ないほどいい。『不合理がゼロでない限り100でも50でも変わりない、とにかく天皇制廃止以外は無意味だ』つう考えは適切ではない。そもそも一気に廃止なんかできない。不合理(例えば女帝否定)の除去なら天皇制支持者の一部の賛同も期待できる」
 まあ拉致被害者の帰国が少しでもあるならその方がいい、「全員帰国でないなら無意味(救う会や家族会)なんてのはおかしい」的な考え(田中均氏、蓮池透氏、和田春樹氏など)ですね。
 あるいは「日米安保廃止以外は主張として無意味だつうのはおかしい。安保容認の翁長氏などともできる限り共闘して、日米安保の現状(沖縄基地問題など)を改善していく」つう共産党的な考えですね。
3)「たとえ皇位継承者の増加で天皇制が維持しやすくなろうとも、女帝否定などという不合理な万世一系イデオロギー女性差別的考え)はやめるべきだ」
つう価値観*5なんでしょう。そう考えれば「女帝容認と天皇制廃止論」は何ら矛盾しない。
 とはいえ、阿比留らウヨにとってはなぜか「女帝否定という万世一系イデオロギーこそが天皇制の重要部分」なので女帝に反対するわけです。

*1:三木内閣農林相、福田内閣官房長官自民党政調会長(大平総裁時代)、鈴木内閣通産相、中曽根内閣外相、自民党幹事長(竹下総裁時代)など歴任

*2:女性天皇の子孫が天皇になること、過去の日本では女帝は全て未婚なので前例がない

*3:つまりは自民支持層ですら女帝反対は少数派です。

*4:皇位継承権がなくなることを「廃嫡」と表現するんですかね?

*5:ただしフェミニストもいろいろです。小生の理解では「女性がお世継ぎを生むことが義務づけられる天皇制は、女帝を容認しようが何をどうしようが女性差別」であり「だから女帝導入しても男女平等の観点で意味がない(積極的に女帝に反対はしないが、賛成もしない)」つう論者もいます。つまり、人によっては「お世継ぎ出産の義務づけ=万世一系イデオロギー」と見るわけです。そう考えれば「万世一系イデオロギーの否定(お世継ぎを生まない自由の容認)=天皇制否定」にはなるでしょう。そしてそう考えれば「女帝容認」は「万世一系イデオロギーの強化(お世継ぎを生む義務を容認)」とすら見なせるでしょう。まあそれでも俺は女帝容認の方がましだと思いますけどね。「子どもを産む義務」の方が「男子を産む義務」よりまだマシでしょう。

今日の産経ニュース(2019年6月28日分)

「適正な競争を実現する社会に」 小林喜光氏が講演 千葉「正論」懇話会 - 産経ニュース

 三菱ケミカルホールディングス会長で経済同友会前代表幹事の小林喜光氏

 そんな大物財界人がウヨの産経と付き合ってるのかと思うと本当にげんなりします。もちろん一方で「全国革新懇代表世話人」を務めた品川正治*1(故人)のような財界人もいますが。


【沖縄取材の現場から】玉城デニー沖縄知事の無邪気な中国認識(1/4ページ) - 産経ニュース那覇支局長 杉本康士)
 「中国と敵対することは経済的利益にならない」「むしろ観光客などの形で中国から利益を得るべき」「少なくとも中国による日本侵略、沖縄侵略があるかという意味でならば、中国は脅威ではない(そして南シナ海のフィリピン、ベトナムと中国の領土紛争は直接には日本や沖縄には関係しない)」「沖縄の米軍基地は中国の脅威への対抗など目的としていない。そもそも中国が今のような軍事大国となる前から、沖縄には米軍があったではないか」などの玉木氏及び「玉木支持者の認識」は脳天気どころか正論です。
 小生の別記事今日の中国&朝鮮・韓国ニュース(2019年6月27日分) - bogus-simotukareのブログで「秋田市宮城県仙台市茨城県日立市兵庫県神戸市」で「パンダ誘致合戦が起こってる」という話を紹介しましたがパンダ誘致には当然「日中友好が前提」です。そしてこれらの誘致に関わってる首長には「自民党系首長」がいます。また「郡仙台市長(元民主党代議士、野田内閣で復興大臣政務官)」のように「首長が野党系」の場合も「議会の自民党系議員」はこうした誘致に反対などせずむしろ支持しています。
 自民党政治家ですら中国との敵対なんぞ多くは望んでいないわけです。

 玉城氏はこれまで、日中関係が改善基調にあることを繰り返し強調してきた。
 4月26日の記者会見では「中国と日本の関係は非常に好調な関係になっている」と述べている。昨年12月の県議会でも、安倍晋三首相が習近平国家主席と短期間に3回の首脳会談を行っていることに言及した上で「両国の平和的な外交により、地域の緊張緩和に向けた動きが加速されることを期待している」と答弁した。

 「玉木氏が強調」も何も安倍政権自体が「日中関係は改善している、大変いいことだ」と表明しているのですが。基地問題はともかく日中関係については少なくとも「建前」においては玉木氏と安倍政権には違いはありません。

 6月25日の県議会では、中国の巨大経済圏構想「一帯一路」に沖縄県を組み込むことに改めて意欲を表明した。玉城氏は4月に訪中した際にも、胡春華*2副首相との会談で「一帯一路に関する日本の出入り口としての沖縄の活用」を提案している。

 別の拙記事で紹介しましたが、以前、二階*3幹事長が訪中した際には、(二階氏と親しい?)山梨県知事、滋賀県知事、高知県知事が同行し、彼らは「わが県も一帯一路に協力して中国と共存共栄したい」「是非わが県産品(山梨のワインなど)を中国の方に購入してほしい」「中国人観光客ウエルカム」とアピールしていました。
 産経的には彼らはどう理解されるのか。玉木氏同様に「中国認識が甘い、脳天気」なのか。なおこれらの知事のウチ、「元民主党代議士(鳩山内閣国交大臣政務官菅内閣国交副大臣)の岐阜県知事」はともかく他の二知事は自民党系です(山梨県知事は元代議士(二階派)、高知県知事は安倍政権の審議会『教育再生実行会議』メンバーです)。

 スリランカは港湾整備の資金を中国に返済できず、「借金のカタ」として運営権を握られた*4

 スリランカと沖縄は単純比較できませんし、そもそもスリランカは「それでも一帯一路に参加した」訳で産経が言うほど不利益ばかりでもないでしょう。

4月の記者会見では、地元紙・琉球新報の記者も「一帯一路は巨額の融資で債務漬けにされるリスクも指摘されている」と懸念を示している。

 琉球新報のような基地反対派を軒並み「親中国」呼ばわりしてきた産経のデマが皮肉にも明らかになる一文です。


【主張】トランプ氏発言 日米安保再確認の契機に - 産経ニュース
 産経が日米安保支持(それもほぼ現状容認)の立場であることは知っていますが、「再確認」ではなくせめて「議論」「検討」などと書いたらどうなんですかね。

 この発言をもって、米国が安保条約を破棄する兆しと焦る必要はない。

 小生のような「安保廃止を支持する立場」なら焦るどころか「喜び」ですが、まあ、小生に限らず「トランプが廃止するのでは」という意味で喜んでる「安保廃止派」もほとんどいないでしょう(これを機会に安保条約の現状について議論が起こればいいという喜び方ならともかく)。公式発言ではなく「放言の可能性が強い」からです。

 今後、防衛費の増額や中東でのタンカー護衛への協力などの要請があるかもしれない。日本は応分の責任を果たすべきだ。

 産経のいう「応分の負担」とは何なのか。日本はいわゆる思いやり予算(是非はひとまずおきます)を支払っていますし、何も負担してないわけでは全くありません。

 日米同盟がなければ、米国は中国との「新冷戦」を有利に進めることもできない。中国の覇権を阻めなくなるだろう。

 ここで「反中国の右翼」産経は日米同盟が「日本防衛を目的としていないこと」を平然と認めています。産経読者にとっては「日米同盟による中国封じ込めは当然の正義」だからでしょうが、産経愛読者以外にとってはそれは「日本防衛」と違い「当然の正義」ではありません。
 ただお断りしておけば、米国も産経が言うような「中国との新冷戦」など考えてないでしょうし、米国が日本に求める軍事支援もおそらくは「もっぱら中東」でしょう。


【主張】芸人処分 反社会的勢力と断絶せよ - 産経ニュース

 吉本興業では平成23年、島田紳助氏が暴力団関係者との交際を認め、芸能界を引退した。これを機に反社との断絶に乗り出したはずだが、取り組みは甘かったと断ぜざるをえない。

 客観的にはそういうことになるんでしょうね。ただ「現首相・安倍」に「工藤会という暴力団(福岡県が本拠地)、反社会的勢力(以下、反社)に汚れ仕事を頼んでいた疑惑」があることを知ってると「安倍の暴力団疑惑は黙認するくせに産経も良く言うわ」ですが。
 あるいは産経は過去において反共を理由に「霊感商法統一教会」という反社と公然と付き合っていたわけでよくもこんな社説が書けたもんです。
 あるいは産経的に「自民党や日本の大企業が過去に児玉誉士夫という反社とつきあっていたこと(ロッキード事件により児玉の大物フィクサーぶりの一部が露呈)」「いわゆる日本皇民党事件(竹下登*5金丸信*6らが、東京佐川急便社長を通じて暴力団・稲川会に汚れ仕事を依頼)」「原辰徳が反社に金を払ったのに何の処分も受けず未だに巨人軍監督」などはどう理解されるのか。何もこうした問題は吉本だけではありません。
 「安倍の工藤会疑惑」については「安倍、工藤会」「下関市長選、工藤会」「安倍、火焔瓶」などでググるといろいろ記事がヒットするのでここでは紹介しません。しかし「ヤクザに汚れ仕事を頼んだことがばれても首相になれる」とは日本もろくでもない国に落ちぶれたもんです。

参考

児玉誉士夫(1911~1984年、ウィキペディア参照)
・児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げていた。児玉は、大物右翼・辻嘉六に勧められて、1946年初頭、GHQに戦犯容疑で逮捕される直前に、この「資金の一部」を自民党の前身にあたる日本民主党鳩山一郎が総裁)の「結党資金の一部」として提供した。1954年には、鳩山一郎*7を総理大臣にするために「鳩山の側近」三木武吉の画策に力を貸した。その後も自民党と緊密な関係を保ち、フィクサー(黒幕)として君臨した。
・岸*8首相の第1次FX問題をめぐる汚職社会党の今澄勇(後に民社党に参加)が追及していた時には等々力の児玉の私邸へ二度も呼び、児玉は追及をやめるように説得した。しかし、今澄が聞き入れないため、身上調書を渡した。それには今澄の政治資金の出所、その額、使っている料理屋、付き合っている女が全て書かれていた。児玉は東京スポーツ新聞を所有する他に、腹心をいくつもの雑誌社の役員に送り込んでいた。それらに書き立てられることは脅威となった。
 日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸首相は1959年1月16日、首相の座を党人派の大野伴睦に譲り渡す密約をした。その立会人が「大野に近い」児玉であり、河野一郎佐藤栄作*9も署名した誓約書が残されている(ただし密約は反故にされ後継首相は池田勇人*10となった。退任パーティーで岸は暴漢にナイフで刺され負傷しているが、これは岸の裏切りに対する児玉の報復だと言われている)。
 改定に反対する安保闘争を阻止するため、岸首相は自民党の木村篤太郎*11らにヤクザ・右翼を動員させたが、児玉はその世話役も務めた。
・児玉は1965年の日韓国交回復にも積極的な役割を果たした。国交回復が実現し、5億ドルの対日賠償資金が供与されると、韓国には日本企業が進出し、利権が渦巻いていた。児玉もこの頃からしばしば訪韓して朴政権要人と会い、日本企業やヤクザのフィクサーとして利益を得た。
・日本国内では企業間の紛争にしばしば介入した。1972年河本敏夫*12率いる三光汽船はジャパンライン*13の乗っ取りを計画して同社株の買占めを進めた。困惑したジャパンライン社長の土屋研一は児玉に事件の解決を依頼。しかし、児玉が圧力をかけても、河本はなかなかいうことを聞かなかった。そこで、児玉はそごう会長の水島廣雄に調停を依頼。水島の協力により、河本は買い占めた株の売却に同意する。児玉は水島に謝礼として1億円相当のダイヤモンドを贈った。
・また、1973年には粉飾決算に揺れる殖産住宅相互株式会社の株主総会乗り切りに絡んで、同社社長の東郷民安から児玉に金銭が渡っている。
ロッキード事件
・児玉はすでに1958年(昭和33年)からロッキード社の秘密代理人となり、日本政府に同社のF-104戦闘機を選定させる工作をしていた。児玉が働きかけた政府側の人間は自民党大野伴睦*14河野一郎*15岸信介らであった。
・しかし、児玉と親しい大野(1964年死去)や河野(1965年死去)が死亡すると、児玉は佐藤内閣にはあまり影響力をもっていなかった。そこで児玉は大物政治家「田中角栄*16」と友人である国際興業社主・小佐野賢治に頼るようになった。小佐野は日本航空全日本空輸の大株主でもあった。田中が1972年(昭和47年)に首相になると児玉の工作は功を奏し、その後、全日空ロッキード社から航空機を21機購入し、この結果ロッキード社の日本での売上は拡大した。さらに全日空は、ロッキードからキックバックで得た資金を自社の権益の拡大を図るべく航空族議員や運輸官僚への賄賂として使い、その後このことはロッキード事件に付随する全日空ルートとして追及されることとなった。
 ロッキード社社長のアーチボルド・コーチャンは「児玉の最終的な役割はロッキードのP3C導入を防衛庁に働きかけることだった。児玉は次の大臣に誰がなりそうか教えてくれた。日本では大臣はすぐに代わるから特定の大臣と仲良くなっても無駄である。彼は私の国務省だった。」と言う趣旨を調書で語っている。
 しかし1976年(昭和51年)、アメリカ上院で行われた公聴会で、「ロッキード社が児玉を秘密代理人として雇い、多額の現金を支払っている」事実が明らかにされ、日本は大騒ぎとなった。
・2016年に放送されたNHKスペシャル「未解決事件」のインタビューに応じた堀田力*17元検事は「ロッキード事件の核心はやはりP3C、防衛庁ルートではないか。P3Cで色々あるはずなんだけど。こっちで解明しなきゃいけないけど、そこができていない。それはもう深い闇がまだまだあって、日本の大きな政治経済の背後で動く闇の部分に一本光が入ったことは間違いないんだけど。悔しいというか申し訳ない」と言う趣旨を語っている。

*1:1924~2013年。日本火災海上保険(現・損保ジャパン日本興亜)会長、経済同友会終身幹事を歴任。著書『戦争のほんとうの恐さを知る財界人の直言』、『これからの日本の座標軸』(以上、2006年、新日本出版社)、『9条がつくる脱アメリカ型国家:財界リーダーの提言』(2006年、青灯社)、『戦後歴程:平和憲法を持つ国の経済人として』(2013年、岩波書店)など。

*2:中国共産主義青年団共青団)中央書記処第一書記、内モンゴル自治区党委員会書記、広東省党委員会書記などを経て副首相

*3:小渕、森内閣運輸相、小泉、福田、麻生内閣経産相自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)を経て幹事長

*4:租借地などとデタラメを書かない点は産経としてはまともです。

*5:佐藤、田中内閣官房長官、大平、中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)などを経て首相

*6:田中内閣建設相、三木内閣国土庁長官福田内閣防衛庁長官自民党国対委員長(大平総裁時代)、総務会長、幹事長(中曽根総裁時代)、副総裁(宮沢総裁時代)を歴任

*7:戦前、田中義一内閣書記官長、犬養、斎藤内閣文相を歴任。戦後、首相、自民党初代総裁を歴任。

*8:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*9:元運輸次官。吉田内閣郵政相、建設相、岸内閣蔵相、池田内閣通産相などを経て首相

*10:元大蔵次官。吉田内閣蔵相、通産相、石橋内閣蔵相、岸内閣蔵相、通産相などを経て首相

*11:吉田内閣法相、防衛庁長官を歴任

*12:三光汽船社長。衆院議員。佐藤内閣郵政相、三木、福田内閣通産相自民党政調会長(福田、大平総裁時代)、鈴木、中曽根内閣経済企画庁長官など歴任。

*13:1989年に山下新日本汽船に吸収合併されナビックスラインになり、ナビックスラインも1999年には大阪商船三井船舶と合併して商船三井になった(ウィキペディア「ジャパンライン」参照)。

*14:吉田内閣北海道開発庁長官、衆院議長、自民党副総裁(岸、池田総裁時代)など歴任

*15:鳩山内閣農林相、岸内閣経済企画庁長官、自民党総務会長(岸総裁時代)、池田内閣農林相、建設相など歴任

*16:岸内閣郵政相、池田内閣蔵相、自民党政調会長(池田総裁時代)、幹事長(佐藤総裁時代)、佐藤内閣通産相などを経て首相

*17:著書『再びの生きがい:特捜検事からボランティアへ』(1995年、講談社文庫)、『壁を破って進め(上)(下):私記ロッキード事件』(2002年、講談社文庫)など

今日の産経ニュース(2019年6月24日分)

【安倍政権考】失策追及は必ずしも野党の支持率アップにつながらない(1/2ページ) - 産経ニュース
 実際には「モリカケ」では大分支持率が落ちましたし、現在「年金2000万円問題」でも安倍内閣自民党共に支持率はいくらかは落ちています(それでも小生のようなアンチ安倍、アンチ自民からすればまだ高いですが)。
 確かにそうした、「安倍内閣や自民の支持率低下」は多くは「支持政党なし」の増加となり、野党支持には必ずしもつながってないようですが、本気で産経が「そんなもん追及されても痛くない」と思うならこんな記事は書かないでしょう。
 「野党の支持率増加につながらないんだから追及しても意味がない→だから野党は追及しないで下さい」という「はあ?」といいたくなる泣き言です。
 こんなもん、まともな人間は、「野党支持者だけでなく」自民党支持者ですら産経に呆れるだけでしょう。
 つうか「どこの国でも」少なくとも建前において「野党による与党の不祥事追及」は「正義の追及」のわけです。支持率がどうこういう党利党略話じゃない。「ニクソンウォーターゲート」「リクルート疑惑」「朴クネの崔順実疑惑」、何でもそうです。
 にもかかわらず、そういう党利党略話を平気でする。しかも産経は建前では「自民党とは別組織である」「自民を支持しなければいけない理由はない」「自民党支持者の団体として生まれたわけではない」のだから呆れますね。さすが、「産経下野ナウ。でも民主党の思い通りにはさせない」と産経公式ツイッターがツイートして「産経は下野してないでしょ?。いつから自民党機関紙になったの?」と批判され、産経のあだ名が「下野ナウ」になっただけのことはあります。


【主張】核のごみ円卓会議 解決促す日本発の妙案だ - 産経ニュース
 「国際的会議を開こう」レベルで「妙案」ねえ。そもそも「核のゴミ廃棄場所」がどこの国でも住民の反対運動で進まない中、「国際会議」を開いても何もどうにもならないでしょう。


吉本タレント11人謹慎処分 対応に追われるテレビ局 - 産経ニュース
 テレビ局やスポンサー企業に、特殊詐欺被害者団体や一般視聴者から「あんな人間をテレビに出すな」などと抗議があったんでしょうか?。当初、吉本や所属タレントがもくろんでいたような「たいした処分もなく幕引き」というわけにはいかなくなったようです。


【正論】靖国神社創立百五十年に際して 東京大学名誉教授・小堀桂一郎 - 産経ニュース

 我が国は昭和20年の敗戦以来本来の国土及び付属領海の幾箇所かを外国勢力の不法占拠*1に任せたままとなつてをり、又現実の侵略の危険*2にさらされながら手を束ねて依然〈諸国民の公正と信義に信頼して〉その返還・安全を空頼みにかけるより他ない為体(ていたらく)である。
 国土の守護神としての靖国の神々への国民の尊崇の念を新たにする事は今日喫緊の肝要事である。

 「国土の守護神?」ですね。靖国は、建前では「戦没者追悼の場」ではなかったのか。
 いずれにせよ「語るに落ちる」というかこの「国土の守護神=靖国の神」発言からはいろいろなことが想像できます。
 まず第一に「ウヨにとって千鳥ヶ淵ではダメな理由、靖国でないと行けない理由」はこれだろうということです。千鳥ヶ淵は「国土の守護神」ではなく戦没者追悼施設ですので。
 第二に「戦没者」でも「民間人や敵軍の兵士(戊辰戦争での彰義隊や白虎隊、太平洋戦争での米兵など)」は靖国に祀られていないこと、一方「戦没者」でない「A級戦犯(死刑や裁判中、あるいは服役中の病死*3)」「安政の大獄で死刑になった吉田松陰橋本左内」「桜田門外の変の水戸浪士」が祀られてることもこれが理由だろうと言うことです。「戦没者追悼施設ではなく、国土の守護神*4を祀る施設」が靖国であり「不戦を誓うのではなく、靖国の神様、我々が北方領土竹島を取り戻すのを応援して下さいと祈る」のが靖国だと言うことです。 
 しかし小堀も「戦没者追悼というのがウソだ」と自分から白状するとは滑稽な御仁です。

 上皇上皇后両陛下そしてやがては今上天皇皇后両陛下に靖国神社への行幸啓を請願できないものであらうか。

 まあ天皇一家はそんなことしないでしょうね。政教分離原則に反する上、国内外から「A級戦犯を美化するのか」と非難されるような行為をしても彼らにメリットはないからです。


【産経抄】6月24日 - 産経ニュース

 先の大戦で米軍に「パーフェクトゲーム」と言わしめた日本軍の作戦がある。76年前、昭和18年6月から7月にかけたちょうどいまごろ秘(ひそ)かに準備が進められた。米軍の包囲をかいくぐり、陸海軍将兵5200人を救出して「奇跡」といわれた。
 ▼舞台は北のアリューシャン列島の「キスカ島」。その名を知っていても、作戦に至る苦難を知る人は、いまではあまり多くないだろう。率いた海軍の木村昌福(まさとみ)中将を描いた『キスカ撤退の指揮官』(将口泰浩*5著)が光人社NF文庫に加わったのを機会に読み返した。
 キスカ撤退の2カ月前、日本軍はアッツ島玉砕で多くの将兵を失った。

 まあ、こういう「キスカ撤退成功」の様な事例は日本軍においては例外的ですね。多くの場合、「無謀な作戦(例:インパール作戦)でいたずらに死者を増やしていった」わけです(そもそもアメリカ相手に戦争すること自体が無謀ですが)。
 しかし、将口記者ですが

・『キスカ 撤退の指揮官』(2009年、産経新聞出版
・『アッツ島キスカ島の戦い:人道の将、樋口季一郎*6木村昌福』(2017年、海竜社)
・『キスカ島 奇跡の撤退:木村昌福中将の生涯』(2017年、新潮文庫、おそらく2009年の産経単行本の文庫化)
・『キスカ撤退の指揮官』(2019年、光人社ノンフィクション文庫、内容的にはおそらく2017年の新潮文庫と同じ)

て「どんだけ木村中将が好きなんだよ」ですね。まあ、戦前日本では珍しい「撤退成功事例」として自慢したい気持ちはなんとなく分かりますが。

参考

木村昌福(1891~1960年、ウィキペディア参照)
 海軍兵学校の卒業成績(ハンモックナンバー)が下位で、かつ海軍大学校甲種学生を経ていない。人事においてハンモックナンバーが重視される帝国海軍では目立つ存在ではなかったが、太平洋戦争開戦時には熟練した「水雷屋」として一定の評価を得ていた。
 「鈴谷」艦長時代にベンガル湾での通商破壊戦において敵の輸送船(民間船)を撃沈する際に乗員を退去させてから沈めるという人道的配慮を見せた。この際、自艦の機銃指揮官が射撃命令を出そうとしたとき、艦橋から身を乗り出して「撃っちゃいかんぞ!」と大声を出して制止した。
 ビスマルク海海戦では護衛部隊指揮官として参加。艦橋で敵攻撃機の機銃掃射により左腿、右肩貫通、右腹部盲貫銃創を負い倒れるが、最後まで指揮を行った。この際、信号員が咄嗟に挙げた「指揮官、重傷」の信号旗を「陸兵さんが心配する」と叱りつけて下げさせ、「只今の信号は誤りなり」と訂正させたというエピソードも残っている。
 キスカ島撤退作戦では、隠密作戦に必要な濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事はしなかった。1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも、霧が晴れた為突入を断念。強行突入を主張する部下たちに「帰ろう、帰ればまた来られるから」と諭して帰投し、状況をよく判断した指揮を行った。痺れを切らした軍令部や連合艦隊司令部からの催促や弱腰との非難にも意に介さず、旗艦で釣りをしたり、司令室で参謀と碁を打つなどして平気な顔をしていたという逸話がある。
 太平洋戦争中の数々の武勲や戦歴についても寡黙であり、1957年に元海軍中佐で戦史家の千早正隆*7が木村らに取材してキスカ撤退作戦の経緯を雑誌に発表するまでは、家族すら木村の事績を知らなかったという。

 この本で沖縄戦を勉強したい - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)で「島田知事を美化しすぎるのもいかがなものか」という指摘があるように「木村中将を美化しすぎるのもまずい」でしょうが、日本軍では珍しい合理的な考えの持ち主として一定の評価に値することは確かだろうとは思います。

■『キスカ 撤退の指揮官』(2009年、産経新聞出版)のアマゾンレビュー
■upwave:人間臭い木村昌福に親しみを感じる
 軍上層部の無策により多くの兵士が犠牲となった太平洋戦争において、木村昌福のような軍人がいたことには何か潤いのようなものを感じた。
■BLESS
 大和魂、玉砕、特攻、生きて虜囚の辱めを受けず。60年前の戦争というと、こんな命知らずの言葉がイメージとして先行してしまうが上層部の批判をものともせず、人命を第一に戦局を冷静に判断したこんな上官もいたのだと読後、そんなふうに思えてなりませんでした。
■もっと知りたいチベット
 子供のころ、三船敏郎の映画『太平洋奇跡の作戦 キスカ』で「船だ」と叫ぶシーンがあったことを覚えています。三船の役が木村昌福だったが、名前は木村ではなかったような。それ位、うろ覚えでしたが、かっこいい映画だったと記憶しています。
 本書では優しく、部下を大切にする木村の素顔に触れています。特に「撃っちゃいかん」と敵兵の命を救う場面や戦後、部下の生活のため慣れない製塩事業を興すところなどは感動ものでした。

太平洋奇跡の作戦 キスカウィキペディア参照)
 1965年6月19日に公開された日本の戦争映画。日本海軍によって行われたキスカ島撤退作戦を題材にしている。
■あらすじ
 昭和18年(1943年)、アリューシャン列島のアッツ島守備隊が玉砕した。同列島のキスカ島守備隊も、連日に渡って米軍の砲爆撃による猛攻を受け、間近と予想される敵軍上陸により、このままではアッツ島守備隊同様に玉砕する日を待つばかりという悲壮な状況となった。海軍軍令部は、北方担当の第五艦隊司令長官川島中将(山村聡、当時の第五艦隊司令長官・河瀬四郎海軍中将がモデル)の説得により、キスカ島守備隊5千名の救出を決意する。川島は、作戦実行部隊である第一水雷戦隊司令官に海兵同期の大村少将(三船敏郎)を指名した。キスカ島守備隊の運命は、海軍兵学校を「ドンケツ」で出たという出世コースを外れた現場叩き上げの司令官、大村少将の手腕に託されることになる。

 河瀬(1889年生まれ)と木村(1891年生まれ)はほとんど同年齢ですが、山村(1910年生まれ)と三船(1920年生まれ)では10歳の開きがあるので実年齢で考えれば、同期はあり得ない話です(なお、実際には実年齢通り河瀬が、3期上の先輩)。

町山智浩『太平洋奇跡の作戦 キスカ』『血と砂』を語る
町山智浩*8
 今日は宣伝みたいな感じになって申し訳ないんですけども。僕が参加した本の話をさせてください。『三船敏郎全映画』というタイトルの本なんですけども。これ、俳優の三船敏郎さんが2020年で生誕100年になろうとしているんですね。それに向けて、三船さんの出演した映画、ほとんど全映画。150本を解説した大著なんですよ。
(中略)
 やっぱり(ボーガス注:『七人の侍』(1954年)、『蜘蛛巣城』(1957年)、『隠し砦の三悪人』(1958年)、『用心棒』(1961年)、『椿三十郎』(1962年)といった)黒澤明映画の時代劇の侍という印象が強いと思うんですけども。今日はその話じゃない、三船敏郎さんの軍人役の映画についてお話をしたいんですね。
(中略)
 『快傑ライオン丸』は知っていますね。あれのシリーズのプロデューサーのうしおそうじさん*9三船敏郎さんと陸軍の航空隊にいた時、同じ部隊にいたんですよ。で、うしおそうじさんが同じ部隊で三船敏郎さんが上官を殴るのを見ているんですよ。それを証言しているんですよ。
 どうしてか?っていうと、日本では軍隊の中でも上官とか先輩の後輩や少年兵に対するいじめとか暴力とか嫌がらせがすごかったわけですよね。一応、規律では禁止されているのにやるんですよ。
 で、もうめちゃくちゃにやっているのを見て、三船敏郎さんが「ふざけんな! やめろ!」って立ち向かって。すると「お前、なんだ! 上等兵じゃないか!」って。要するに、下っ端じゃないかと言われて。「階級とか関係ねえだろ、この野郎!」って階級章を自分で破り捨ててぶつかっていったということがうしおそうじさんの目撃談として書いてあるんですね。
 で、実は三船さんは軍隊に7年間もいるんですよ。この人は。それなのに全く昇進しなかったのは徹底的に上官の部下とか後輩に対するいじめに逆らい続けて戦い続けたんで、厄介者ということで全く昇進しなかったらしいんですよ。
 それが三船敏郎さんという人だということが本当の目撃談として書いてあるのがこの本なんですけども。まあ、うしおそうじさんの本にも書いてありますけども。で、三船さんってそういう人なんですよ。だから、三船さんの戦争映画は全部そうです。だから、たとえば『太平洋の翼』っていう映画があるんですけども。そこでははっきりと「神風特攻隊の作戦をやろう」っていうのに対して「そんなことはやらせない!」って反対する役ですよ。
 で、その元になった人は源田実さん*10っていう軍人がいたんですけども。その人は別に歴史的には反対をしていないんですよ。でも、三船さんがやったら反対するしかないんですよ。だから役名まで変えられているんですよ。それであと、岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』っていう8月15日、敗戦のその日の24時間ちょっとを記録した映画がありますけども。あの中でも、「兵隊たちは悪くない!」って阿南*11陸相っていう陸軍大臣の役を三船さんは演じていますけども。で、「俺が全部責任を負う!」って言って自分で切腹して。他の兵士たちが「私もご一緒します!」って言うと「お前たちには日本を立て直すという仕事がある! 俺だけが罪を背負えばいい!」って言って腹を切っていくっていう役を三船さんはやっているんですね。
 常に一貫しているんですよ。やっている役が。で、あとは山本五十六っていう誰よりも有名な軍人を(『連合艦隊司令長官 山本五十六*12』で)演じていますけども、彼も戦争に徹底的に反対する役として三船さんはやっていますね。
(中略)
 でね、ちょっと今日は知られていない(ボーガス注:三船敏郎の主演)映画で『キスカ』っていう映画の話をしたいんですが。『太平洋奇跡の作戦 キスカ』っていうものなんですが、これは日本がアリューシャン列島というアメリカのアラスカのあたりにある国土を占領したことがあるんですよ。一瞬だけ。1942年、43年に日本がそこにあったアッツ島という島とキスカ島という島を占領したんですね。日本ってアメリカの国土を占領していたことがあるんですよ。ただ、そこがほとんど無人島みたいなところだったんで、結局占領をした後にミッドウェー海戦で負けちゃったりして、そこが戦略上意味がなくなっちゃうんですよ。占領したのに。で、どうするか?っていうと、日本軍が海外のいろんな島に行きましたけど、そのほとんどを見捨ててしまいましたよね。兵隊たちを。
赤江珠緒
 そうですね。
町山智浩
 で、多くの兵隊さんたちが敵と戦って死ぬというよりは、自ら万歳突撃をして自滅したり、自決したり、あとは餓死したり。まあほとんど自滅していったわけですよね。見捨てられて。ガダルカナルだったり沖縄だったり硫黄島だったり。ほとんどは自滅していく形で見捨てられていったわけですけども。
赤江珠緒
 そうですね。援護がないという状況でね。
町山智浩
 そうですね。「死んでこい!」っていう世界ですよね。ところが、このキスカだけはそこにいた5200人の兵士を全員救出しているんですよ。
(ボーガス注:三船敏郎が)木村(昌福)中将という将軍の役をやっているんですけども。まあ名前だけ「大村」っていう風に映画の中では変えていますけども。彼がものすごく緻密な作戦でこの5200人を救出する映画がその『太平洋奇跡の作戦 キスカ』っていう映画なんですよ。
赤江珠緒
 ああ、じゃあ実際にその史実をベースに。木村中将の采配で助かったということなんですか?
町山智浩
 そうなんですよ。これ、映画の中では大村少将ってなっていますけども。(作戦の当時は)木村少将ですね。で、彼がすごいのは、とにかく絶対に助けるんだっていうことで無茶な作戦をしようとしたり、「もう行きましょう!」っていうのを全部止めていくんですよ。「勝たなければ意味がないんだ。気合じゃないんだよ」っていう。要はほとんどが気合で行ったりしていたんですよね。沖縄なんかでもやらなくてもいい突撃をやったりしているんですけども。「そうじゃなくて、勝つことが大事なんだ。メンツとかそういうんじゃないんだ。耐えることも大事なんだ」って緻密にキスカの5200人を助けようとするっていう話なんですよ。日本軍の話だともう陰惨だったりひどいことをしたりするんじゃないか?って思うじゃないですか。そういうの、一切ないですから。三船さん、1人も殺さないですから。「助ける」戦いなんですよ。だから僕、『ダンケルク』っていう(ボーガス注:撤退戦を描いた)映画が公開された時、「これは日本(ボーガス注:の映画会社)が先にやっているよ」って言ったのはそういうことなんですよ。
山里亮太
 これ、DVDとかでいまも見れるんですね。
町山智浩
 いま、いろんなので見れます。ネット配信とか、いろんなので。

映画「太平洋奇跡の作戦 キスカ」を観てみた | 北海道で働く女社長の夫の蝦夷日記
 対米戦争の映画は史実として日本が悲惨な敗北を喫するので、暗い結末となるのが必然ですが、この映画は珍しく兵の命を尊重した作戦が題材なので、観ている方も安堵感があります。
 何よりも三船敏郎演ずる作戦指揮官・大村少将がとても魅力的です。大村の上司にして海軍兵学校同期の川島中将(演・山村聡)もいい。
 登場人物の印象的なセリフをいくつか。
 海軍兵学校をドンケツで出て、これといった戦歴もない大村少将の今作戦の指揮官起用に異を唱える幕僚に対して、川島中将の言葉。
「今度の作戦は敵を攻めるのではない。初めから戦果ゼロを目指して、しかも決死の戦いとなると、なまじ手柄をたてたがる奴には務まらんよ。しかし、あいつは腰は重いが、ここぞと立ち上がった時には必ず勝つ。昔からそういう男だ」
 大村の駆逐艦増援要求に尽力した川島に対して、大村があまり感謝の言葉を口にしない事にプライドを傷つけられた艦隊幕僚が、彼に詰め寄った際のやりとり。
「司令官は無礼です。駆逐艦の増援に対して努力された長官に対して、一言ぐらい感謝の挨拶があっていいはずです。感謝の気持ちも無いようでは、この作戦を指揮する資格はありません」
「それは逆じゃないのかなぁ。川島の友情の為だとか、長官の厚意に報いようだとか、そんなちっぽけな気持ちでは判断を誤まる。失敗するに決まっている。礼はいずれまとめて言う。しかしそれはキスカの5200名を無事に連れて帰った後だ」
 米軍の制海権にある中、霧に紛れてキスカ湾に突入する今回の作戦でしたが、第一回目の突入の際、前提条件の霧が晴れてしまったものの突入を具申する各艦長の意見を前に、大村少将の決断を伝える言葉。
「引き返す。帰ればまた来る事が出来る」
 結果、二度目の突入で5200名のキスカ島上陸部隊を撤収し、無事にこの作戦を大村少将は成功へと導きます。陰鬱な気持ちになる日本の戦争映画の中で、これほど晴れ晴れとした気持ちになる映画は他にはないでしょう。
 史実では、この作戦を指揮したのは木村昌福(まさとみ)少将(のち中将)。
 「帰れば、また来る事が出来る」は実際の発言です。
 1回目のキスカ湾突入を断念し日本の艦隊基地に戻った際は、映画でも描かれていたように軍中央は木村提督に非難の嵐を浴びせました。それでも彼はそういった声を気にせず、平然と聞き流していたそうです。もし突入を強行していたら、当時の米軍の動きから日本の救援艦隊は確実に発見・捕捉され、袋叩きにされたのが今日確実視されています。まさに信念の人でした。
 映画の大村は「海軍兵学校ドンケツ」となっていますが、実際の木村少将の卒業時の順位は118人中107番だそうで(似たようなものか)、加えて海軍大学も出ていない為、やはり出世コースからは完全に外れていた存在でした。しかし現場たたき上げの優れた水雷屋として、一定の評価はあったようです。
 またキスカ作戦時の上司・河瀬四郎中将(映画では川島)とは同期ではなく、河瀬中将が3期先輩に当たります(木村:海兵41期、河瀬:海兵38期)。映画の中では大村と川島が軽口をたたき合いますが、実際はそういう関係にはありませんでした。
 戦後、木村昌福は海軍時代の事を周囲にはほとんど語らず、1957年に「キスカ島撤退作戦」の取材で記者が木村の元を訪れて記事が雑誌に発表されるまで、家族の者でさえ彼の業績を全く知る事はありませんでした。


イスタンブール市長選 与党候補が敗北認める エルドアン政権に大打撃 - 産経ニュース
 再選挙自体、言いがかりも甚だしいものだったようですが、さすがに「再々選挙」つうわけにもいかないでしょう。
 首都での選挙で敗北というのはやはり痛いでしょうね(だからこそ無理矢理再選挙をしかけた)。
 とはいえ、今のところエルドアン政権が続いていることを考えれば過大評価も一方では禁物でしょう。
 「なぜイスタンブル市長選では勝てたのか?」「今回、野党共闘が成立したからか?(このあたり小生もトルコ政治に無知なので、以下、全て思いつきで書いていますが)」「エルドアン政権は地方では強いが都市ではむしろ弱いからか?」など野党側が勝因分析をした上で次に生かす事を期待したい。


引きこもり支援装う「引き出し屋」排除へ 家族会が実態把握 - 産経ニュース
 「支援者を装って、苦しむ家族を食い物にしよう」とはまるで巣くう会です。ただし、拉致被害者家族会は「進んで食い物にされてる」「食い物にされていいのか、と声を上げた蓮池透氏を不当にも除名した」ので俺は何一つ彼らには同情しませんが。

*1:勿論竹島問題と北方領土問題。

*2:ウヨの大好きな「中国の沖縄侵略ガー」「ロシアの北海道侵略ガー」のこと。

*3:A級戦犯のウチ、死刑としては東条英機元首相、裁判中の病死としては松岡洋右元外相、服役中の病死としては小磯国昭元首相などがいます。

*4:A級戦犯だけの責任ではない」とはいえ、無謀な太平洋戦争を開始するなどし、日本を亡国に導いた東条英機元首相らA級戦犯が「国家の守護神」というのも変な話ですが。

*5:産経新聞社会部編集委員(2015年に退社)。著書『キスカ 撤退の指揮官』(2009年、産経新聞出版)、『「冒険ダン吉」になった男・森小弁』(2011年、産経新聞出版)、『魂還り魂還り皇国護らん:沖縄に散った最後の陸軍大将牛島満の生涯』(2012年、海竜社)、『アッツ島キスカ島の戦い:人道の将、樋口季一郎木村昌福』(2017年、海竜社)、『極秘司令 皇統護持作戦:我ら、死よりも重き任務に奉ず』(2017年、徳間書店)、『キスカ島 奇跡の撤退:木村昌福中将の生涯』(2017年、新潮文庫、おそらく2009年の産経単行本の文庫化)、『キスカ撤退の指揮官』(2019年、光人社ノンフィクション文庫、内容的にはおそらく2017年の新潮文庫と同じ)など(ウィキペディア『将口泰浩』参照)

*6:キスカ撤退当時、北方軍司令官。

*7:著書『日本海軍の驕り症候群(上)(下)』、『連合艦隊興亡記(上)(下)』(中公文庫)、『日本海軍 失敗の本質』(PHP文庫)など

*8:著書『USAカニバケツ:超大国の三面記事的真実』(2011年、ちくま文庫)、『キャプテン・アメリカはなぜ死んだか』(2011年、文春文庫)、『アメリカは今日もステロイドを打つ USAスポーツ狂騒曲』(2012年、集英社文庫)、『底抜け合衆国:アメリカが最もバカだった4年間』(2012年、ちくま文庫)、『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』(2012年、文春文庫)、『トラウマ映画館』(2013年、集英社文庫)、『99%対1% アメリカ格差ウォーズ』(2014年、講談社文庫)、『トラウマ恋愛映画入門』(2016年、集英社文庫)、『〈映画の見方〉がわかる本:ブレードランナーの未来世紀』(2017年、新潮文庫)など

*9:著書『昭和漫画雑記帖』(1995年、同文書院)、『夢は大空を駆けめぐる:恩師・円谷英二伝』(2001年、角川書店)、『手塚治虫とボク』(2007年、草思社

*10:戦後、航空幕僚長自民党参院議員を歴任。著書『海軍航空隊始末記』、『真珠湾作戦回顧録』(文春文庫)など

*11:陸軍省兵務局長、人事局長、陸軍次官、鈴木内閣陸軍大臣など歴任

*12:海軍航空本部長、海軍次官連合艦隊司令長官など歴任