新刊紹介:「歴史評論」5月号(その1:特集『近代日本政治史入門』)

・詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。小生なりに紹介できる内容のみ紹介します。
特集『近代日本政治史入門:立憲政治の源流と動態』
 「近代日本政治史入門」てタイトルですけど「えー、これが入門なの?」感ありますね。率直にいって読んでてよくわからない部分が多い。
 まあ、各筆者が「自著の紹介を中心に、自分のライフワークとそれについての最近の研究について説明している」つう意味、つまり「新しい研究成果の発表ではない」つう意味ではある種「入門的」ではありますけど。
 かつ「近代」つうけど扱われてる対象はもっぱら「昭和戦前」です。「明治や大正」はあまり扱われてない。
 また茶谷論文は若干「戦後の昭和天皇の政治的言動(沖縄メッセージや増原*1防衛庁長官内奏問題)」に触れてますがそれは「近代つうより現代じゃないか」感がある。
 あと今回、扱われてる政治アクターってもっぱら「職業政治家」、特に「議会政治家(国会議員)」なんですよねえ。
 「えーと、日比谷焼討事件とか、米騒動とか、二・二六事件青年将校とか、市川房枝婦人参政権運動とかは?。」感がある。
 政治といった場合アクターは必ずしも政治家だけじゃない。官僚もいれば、財界人もいれば、労組も市民活動家もいるわけです。


■公論世界と政党・名望家(三村昌司)
(内容紹介)
 明治時代政治史について「公論世界」「政党」「名望家」の3つのテーマから最近の研究を紹介しています。
 具体的には
■公論世界:
 東島誠『公共圏の歴史的創造』(2000年、東京大学出版会
 池田勇太*2『維新変革と儒教的理想主義』(2013年、山川出版社
 小関素明『日本近代主権と立憲政体構想』(2014年、日本評論社
■政党:
 山田央子『明治政党論史』(1999年、創文社
■名望家:
 高久嶺之介『近代日本の地域社会と名望家』(1997年、柏書房
 福沢徹三『一九世紀の豪農・名望家と地域社会』(2012年、思文閣出版
 塩原佳典『名望家と「開化」の時代』(2014年、京都大学学術出版会)
 飯塚一幸『明治期の地方制度と名望家』(2017年、吉川弘文館
などですね。

参考

■名望家(ウィキペディア参照)
 近代の地域社会において名声や人望を兼ね備えた人のこと。 旧家・名士・素封家と同義で使われることが多いが、近代において経済・文化・政治活動等に力を入れた人のことを指す。 日本においては、明治維新以後に力を伸ばしてきた有力者や地主を指すこともある。

■名望家政党(ウィキペディア参照)
 日本において議会制民主主義が導入された初期には、普通選挙制度が導入されるまでは、納税額を基準に選挙権や、被選挙権の制限が存在していたため、当選する者の多くが名士と呼ばれる特別な階層の人たちであって、特権階級に属する者達を中心に議会内会派が結成されていた。このような政党を名望家政党と呼ぶ。


■議会と予算審議(伏見岳人*3
(内容紹介)
 「議会と予算審議」というタイトルは果たして論文タイトルとして適切なのかと思います。
 というのも、論文内容は筆者の著書『近代日本の予算政治 1900〜1914:桂太郎の政治指導と政党内閣の確立過程』(2013年、東京大学出版会)の要約であり、「議会と予算審議」はあくまでも桂内閣限定でしか論じられていないからです。
 「桂内閣の予算審議での野党対策」とでもタイトルを書いた方が正しい。つまりは有能な政治家であった桂は巧みな手腕で野党・立憲政友会の反対を抑え込んでいくわけです(筆者の主張によれば力で野党を抑え込むと言うよりは「野党の主張と、自らの主張を足して2で割る」ような妥協政治の達人が桂だそうです)。
 筆者曰く「日本政治史上最長の首相在任期間(ただしトータルでの最長は「2886日(約7年11か月)」の桂だが、継続期間の最長は佐藤栄作(約7年8ヶ月)。桂の場合、佐藤と違い、「第1次桂→第1次西園寺→第2次桂→第2次西園寺→第3次桂」で断続がある。)を達成し、また在任期間中、日露戦争勝利や韓国併合などを成し遂げた桂*4の政治手腕はもっと評価されるべきである」。
 ただしその桂は「いわゆる第一次憲政擁護運動(大正政変)」により第三次桂内閣が崩壊し、失意のうちに病死したわけです。トータルでは「史上最長」の桂ですが、第三次内閣だけは「62日間」で崩壊しています(つまり第一次と第二次が長い)。
 この第三次桂内閣の「62日間」は終戦直後の東久邇宮内閣*5の「54日間」につぐ「日本政治史上2番目に短い内閣」です(つまり戦前では最短)。
 短命内閣として知られる

・羽田*6内閣:64日間
 自民党が提出した不信任決議案に、連立を離脱した社会党新党さきがけが賛成し可決される公算が高かったため総辞職し、海部俊樹*7元首相擁立で乗り切ろうとするが、自民、社会、さきがけが擁立した村山富市社会党委員長が首相指名選挙で海部に勝利し村山自社さ内閣が誕生。
・石橋*8内閣:65日間
 病気辞任。
・宇野*9内閣:69日間
 女性スキャンダルによる辞任。

なども第三次桂内閣に比べたら長いわけです(まあ数日の差ではありますが)。
 なお、桂政権崩壊時の

 彼等*10は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へてありまするが、其為すところを見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動を執って居るのである。彼等は玉座を以て胸壁となし、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか

という尾崎行雄*11の桂批判演説は歴史教科書などでも紹介されるので割と有名かと思います。
 桂が現在「日本政治史上最長の首相在任期間を達成」し、在任期間中に「日露戦争勝利や韓国併合の実績がある」にもかかわらず、知名度の低い大きな理由は第一次憲政擁護運動での政権崩壊と失意の中での病死のわけです。
 このあたりは「戦後史上最長の首相在任期間を達成し、在任中、日韓国交正常化、沖縄返還などを実現しながら、退任記者会見では、新聞記者を追い出して醜態をさらした佐藤栄作*12」に桂は似ているかもしれません。
 安倍と桂、佐藤を一緒にしては「桂や佐藤に失礼」ですが、このまま行けば安倍も彼ら同様「長期政権*13だったが最後に醜態をさらす」羽目になるのでしょう。

佐藤栄作(ウィキペ参照)
 1972年6月17日の退陣表明記者会見の冒頭、佐藤は「テレビカメラはどこかね?。新聞記者の諸君とは話さないことにしてるんだ。僕は国民に直接話したい。新聞になると文字になると(真意が)違うからね。偏向的な新聞は大嫌いなんだ。直接国民に話したい。やり直そうよ。(記者は)帰って下さい」と発言。最初は冗談と思った記者たちより笑い声もあったが、佐藤はそのまま総理室に引き上げてしまった。
 内閣官房長官として同席していた竹下登*14の説得で再び会見室にもどり、何事も無かったよう佐藤は記者会見を始める。反発した新聞記者が「内閣記者会としてはさっきの発言、テレビと新聞を分ける考えは絶対許せない」と抗議したが、「それならば出てってください。構わないですよ。やりましょう」と応え、新聞記者達は「じゃあ出ましょうか!、出よう、出よう!」と全員が退席し、がらんとした会見場で、佐藤はひとりテレビカメラに向かって演説した。
 なお竹下の著書『政治とは何か:竹下登回顧録』(2001年、講談社)によると、佐藤はあらかじめ記者クラブの了解をとってテレビのみの会見を設定しようとして、秘書官を通じて記者クラブ幹部に話をつけていた。しかしそこで行き違いがあり、記者クラブ側としては、佐藤がテレビに向かって独演することは了承したが、記者が会見の席に出られないという意味では受け取っていなかったため、最後の見送りという意味も含めて陪席することとした。そのため当日の席でまず佐藤が話が違うといって怒り、それに対して見送りのつもりで来ていた記者らも腹を立てて退席することとなったという。
 その日の朝日新聞夕刊は、事の顛末を「ガランとした首相官邸の会見室で、首相はモノいわぬ機械に向かって一人でしゃべっていた」と突き放すように締めくくった。全国紙が時の首相を「一人でしゃべっていた」などと冷たく突き放して書くのはおそらく前代未聞の出来事だった。

 桂も佐藤も「それなりに有能で長期政権を実現しても」、晩年は時代の流れに対応できず退陣を余儀なくされたと言うことでしょう。
 たとえば佐藤の場合、それは「中国敵視外交」だったわけで、後任の田中角栄*15によって日中国交正常化が果たされるわけです。
 なお、長い間、「世間的には無名の存在」「第一次憲政擁護運動での悪役的扱い」だった桂ですが、筆者やウィキペ「桂太郎」が指摘するように最近は

・古川薫*16『山河ありき 明治の武人宰相 桂太郎の人生』(2002年、文春文庫)
千葉功*17桂太郎:外に帝国主義、内に立憲主義』 (2012年、中公新書

など、文春文庫や中公新書と言った一般向けの書籍でも桂が取り上げられていますし、研究書にまで話を広げれば最近では

・宇野俊一『桂太郎』(2006年、吉川弘文館人物叢書
・小林道彦*18桂太郎:予が生命は政治である』 (2006年、ミネルヴァ書房日本評伝選)

といった著書があります。
 ちなみに桂が画策し、立憲政友会との対立を深め、第三次桂内閣崩壊を招いたいわゆる「桂新党計画」は桂死後、加藤高明*19を党首とする立憲同志会(後に憲政会を経て立憲民政党)の誕生をもたらします。


政党政治と専門官僚(若月剛史*20
(内容紹介)
 若月氏の文章紹介で代替。 

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2009/651.html
■政党内閣の成立と崩壊―官僚制の構造変容とその影響―
 本論文は、従来、ともすれば別々に語られる傾向にあった近代日本の政党内閣(第一次加藤高明内閣〜犬養毅*21内閣)の成立と崩壊を統一的に説明しようとする試みである。
 かつて三谷太一郎氏は、明治憲法下で藩閥に代わる「体制の集権化要因」となりうるのは政党のみであり、それゆえ政党内閣制は「帝国憲法の必然的所産」として生まれたと指摘した。しかし、確立・定着したはずの政党内閣は、実際には約8年で崩壊に至ってしまう。この成立から崩壊までのあまりの短さをどのように説明するのか。この古くから提起されつつも十分に論じられてこなかった問いに対して、本論文は、1920年代に生じた官僚制の急速な構造変容に政党内閣側が対応できず、両者の間でミスマッチが生じていたことを指摘することで答えようとするものである。より具体的に言えば、この時期に登場した重化学工業化、労働・農民運動の活発化、都市―農村の格差拡大、新中間層の形成といった新たな政策課題に対応すべく、官僚制側が省庁単位で政策体系の構築や組織の合理化を行った結果、省庁間でのセクショナリズム化が進展していったにもかかわらず、政党内閣側はそれを統合するシステムを構築できず「体制の集権化要因」としての正統性を失っていく過程について明らかにすることが本論文の目的である。
 第Ⅰ部では、1920年代に官僚制内のセクショナリズム化を基底で促進した要因として、この時期に省庁間での人事異動が行われなくなっていった点に着目し、そのような人事慣行が形成されるに至った理由を探った。
(中略)
 第二部では、1920年代に本格化する省庁間のセクショナリズムに対して、政党内閣がどのような統合強化構想を有しており、それらの大半が最終的には実現できず政党内閣が崩壊していく過程を論じた。
(中略)
 第Ⅲ部では、各省官僚制が政党内閣側の予算削減要求に対して組織の合理化を進めることで対応しようとしていたのが限界に達し、最終的には政党内閣に対する反発を強めていく過程を、逓信省の事例を中心に検討を加えた。
(中略)
 これまで見てきたように、統合の主体として期待されて成立されたはずの政党内閣は、統合強化を実現できず統治能力への信頼を失っていくとともに、官僚制内においても反発が強まっていった。このように支持基盤を急速に失いつつあった政党内閣は、満州事変と昭和恐慌という二つの危機を前にしてもろくも崩壊するに至ったのである。

 つまり「専門官僚を政党がコントロールできないことが、政治の停滞を産み、政治不信を招き、軍部の台頭を助長し、政党内閣が崩壊した」という観点から「政党政治と専門官僚」の関係が論じられていると言っていいかと思います。そうした見方とは別の見方で「政党政治と専門官僚」を論じることもできるでしょうし、そもそも「そういう見方が適切なのか」も争いがあるでしょうが。


■政党組織と後援会(手塚雄太*22
(内容紹介)
 筆者が以前著書『近現代日本における政党支持基盤の形成と変容:「憲政常道」から「五十五年体制」へ』(2017年、ミネルヴァ書房)で取り上げた自民党政治家・加藤鐐五郎について説明されている。「またマイナーな政治家を取り上げたもんだ、知らないよ、加藤鐐五郎なんて」感が半端ないですがそれはさておき。
 医師出身で「瀬戸焼など陶磁器産業でしられる」愛知県を選挙区とした加藤が、戦前から陶磁器業界と医師業界を後援会の中核に組み込んだことが指摘され、自民党が戦前*23から、上意下達的な組織政党*24と言うよりは、「後援会をバックとした政治家たち」を組み込んだ「後援会政党」で個々の保守政治家には「後援会への所属意識は強くても」、「政党への所属意識が低いこと」が指摘される。
 だからこそ、河野洋平*25元外相(自民→新自由クラブ→自民)、石破茂*26元幹事長(自民→新進党→自民)、二階俊博*27幹事長(自民→新生党新進党→保守党→保守新党→自民)、園田博之(自民→新党さきがけ→自民→たちあがれ日本→維新→次世代の党→自民)などといったメンツ*28自民党を離党したり、離党した後復党したりするわけです。
 自民党の公式党員が少ない理由もここにあります。そして自民党の場合、組織政党ではないので「党職員から政界進出」ではなくてほとんど「地元の名士(財界人など)を自民党が担ぐ」つうパターンになります。まあ場合によって官僚出身の岸信介*29(商工省出身)、佐藤栄作鉄道省出身)兄弟のような天下り的候補もいますし、最近の自民は「小泉*30元首相、福田康夫*31元首相、安倍*32現首相」など、世襲が多いですけど。
 まあ、「政党への帰属意識が弱い」つうあたりは自民党だけじゃなくて、「社民党(政策審議会長、国対委員長)から民主党(政調副会長、幹事長代理)を経て立民に行った辻元清美氏(現在、立民国対委員長)」とか、「今現在、落ち目の民進や希望から、最大野党の立民に移籍しようとしてる連中」なんかもそうでしょうが。一方、公明や共産ではまずそう言うことは考えがたいわけです。
 「公明党から自民に移籍」とか「共産から立民に移籍」とか考えがたい(別にそうしてほしいわけではないですが)。小沢一郎自由党に行った公明党出身・東祥三*33なんぞは例外的存在です。
 例の筆坂(元参院議員、元党政策委員長)なんぞも共産党を離れたら政治家としてやっていけなくなって、あげく「産経あたりでしか使ってくれない反共売文業者」にまで転落した理由の一つはそこにあります。
 竹入義勝元委員長や矢野絢也元委員長が「そうなった事情は知りませんし、興味もないですけど」、公明党創価学会と袂を分かつと、公明党創価学会関係者がみんなして「竹入や矢野はろくでもない、あいつらは池田先生と学会、党を裏切った」と批判の大合唱になる一因もそれでしょう。
 こうした「公式党員が少ない事態」をもちろん自民党も改善したいと考えてるわけですが、それが
■産経『自民党が120万党員確保へ強権発動 党員獲得のノルマ未達議員は名前を公表へ 近く正式決定し支持基盤固めを狙う』
http://www.sankei.com/politics/news/170627/plt1706270002-n1.html
ではねえ。
 以前、小生がhttp://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20170627/5640158721で批判し、id:Bill_McCrearyさんも
■やっていることが、反社会的勢力と変わらない
https://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/56344940caed29101a50a6fb9a9ec993
で批判されましたが、まあ考え方がとことんずれてますね。

参考

■加藤鐐五郎(1883年3月11日〜1970年12月20日ウィキペディア参照)
・愛知県瀬戸市出身。造船疑獄に対する指揮権発動で吉田*34内閣法務大臣を辞任した犬養健の後任法相(1954年)となり、さらに警職法改正をめぐる国会審議混乱の責任を取って衆議院議長を辞任した星島二郎*35の後任議長(1958〜1960年)に就任したことから、医師出身の政治家という自らの経歴とあわせ「後始末の専門のヤブ医者」を自称したことで知られている。
 戦後の新制歯科大の魁となる愛知学院大学歯学部新設を当時の愛知県歯科医師会会長(加藤の後援会会長)と共に推し進め、歯学部設立後は顧問兼名誉教授として答辞を読んだ。
■略歴
・1905年:愛知県立医学専門学校(現・名古屋大学医学部)を卒業、医師となる。
・1908年:名古屋市で医院を開業。
・1913年:名古屋市会議員となる。その後愛知県会議員にもなる。
1924年政友本党*36公認で第15回衆議院議員選挙に立候補し初当選。その後立憲政友会(政友会)に移籍。
・1939年:政友会が分裂したため、中島知久平*37率いる政友会革新同盟に所属。
・1945年:日本進歩党(1945〜1947年)の結党に参加。
・1946年:公職追放(後に解除)。
・1952年:自由党(後にいわゆる保守合同自民党)公認で、愛知県第1区(名古屋市)より出馬、第25回衆議院議員選挙に当選し、政界に返り咲く。以後4回連続当選。
・1963年:第30回衆議院議員総選挙に出馬せず、政界から引退。

ノリタケカンパニーリミテドウィキペディア参照)
 愛知県名古屋市西区則武新町三丁目に本社・工場を置く世界最大級の高級陶磁器・砥石メーカー。社名「ノリタケ」は、創業地である愛知県愛知郡鷹場村大字則武(現・名古屋市中村区則武)に由来する。
 1904年(明治37年)に森村市左衛門(6代目)によって日本陶器合名会社として創業された。前身の日本陶器は日本で初めて高級洋食器を生産し、明治時代から戦前にかけて陶器商社・森村組の手で欧米に大量に輸出された。ノリタケブランドは欧米で絶大な人気を博し、国内の業者が模造して輸出した偽物が出回るほどであった。
 現在では食器類の売上比率は15%程度と他部門に主力を譲っており、工業機材およびセラミックマテリアル、環境エンジニアリングの3事業が全体の75%以上を占める。工業機材事業は砥石、研磨布紙、ダイヤモンドなど、研削材や半導体材料からなる。セラミックマテリアル事業には電子ペーストや回路基板、窯業材料などがある。環境エンジニアリング事業は液晶ディスプレイ、電池材料等向けの焼成炉など、産業機械を扱っている。
■グループ企業
TOTO:衛生陶器・温水洗浄便座等の製造・販売
日本碍子:がいし・セラミックスの製造・販売
日本特殊陶業:スパークプラグの製造・販売
大倉陶園:高級陶磁器(主に食器)の生産
・共立マテリアル:セラミックス原料の製造・販売
森村商事:窯業・耐火物原料、航空機材、機械プラント、食品、生活用品等の輸出入及び国内販売。


■総力戦と議会・政党政治(官田光史)
(内容紹介)
 ・翼賛議会での議会政治家(主として山崎達之輔)の動きを取り上げた、筆者の著書『戦時期日本の翼賛政治』(2016年、吉川弘文館)が紹介されています。また翼賛議会を取り上げた著書として古川 隆久*38『戦時議会』(2001年、吉川弘文館)、米山忠寛『昭和立憲制の再建 1932〜1945年』(2015年、千倉書房)が紹介されています。

参考

■翼賛議会(ウィキペディア参照)
・太平洋戦争中における帝国議会の呼称。その始期については新体制運動の中で既存政党が解党されて大政翼賛会が結成された1940年とするのが一般的であるが、翼賛議会としての体裁が本格的に整うのは、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)以後のことである。
大政翼賛会が推薦した候補者に対して官民からの支援が行われ、逆に非推薦候補者に対しては選挙干渉とも言えるような圧迫が加えられたとされている。この結果、466の定数のうち381名の翼賛会推薦議員が当選した。
 翼賛選挙後の5月20日、翼賛政治会(翼政会)が結成された。

■山崎達之輔(1880年明治13年)6月19日 - 1948年(昭和23年)3月15日:ウィキペディア参照)
 東久邇宮内閣内務大臣、第1次池田*39内閣自治大臣国家公安委員長を務めた山崎巌は達之輔の弟にあたる。また、第2次中曽根*40内閣国土庁長官を務めた山崎平八郎は達之輔・巌兄弟の甥にあたる。
■略歴
・1927年(昭和2年):田中義一*41内閣の文部政務次官に就任。
・1934年(昭和9年):党議に反して岡田内閣に農林大臣として入閣したため政友会を除名。
・1937年(昭和12年):林*42内閣の農林大臣兼逓信大臣として入閣。この頃より親軍的新党の結党を目指す。
・1940年(昭和15年):聖戦貫徹議員連盟を結成、大政翼賛会総務に就任。
・1942年(昭和17年):翼賛政治会政調会長に就任。その後常任総務、代議士会長を歴任。
・1943年(昭和18年): 東條*43内閣の農林大臣(後に農商大臣)として入閣。


■政治史における「宮中」(茶谷誠一
(内容紹介)
 『昭和戦前期の宮中勢力と政治』(2009年、吉川弘文館)、『昭和天皇側近たちの戦争』(2010年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『宮中からみる日本近代史』(2012年、ちくま新書)、『牧野伸顕*44』(2013年、吉川弘文館人物叢書)、『「昭和天皇実録」講義:生涯と時代を読み解く』(編著、2015年、吉川弘文館)、『象徴天皇制の成立:昭和天皇と宮中の「葛藤」』(2017年、NHKブックス)の著書がある筆者の問題関心から『政治史における「宮中」』が論じられている(「宮中某重大事件」など、明治、大正時代の言及は少ない)。
 つまりは「昭和天皇とその側近連(元老・西園寺公望*45内大臣牧野伸顕内大臣在位:1925〜1935年)、木戸幸一内大臣在位:1940〜1945年)など)の戦前の政治的言動」についての研究がもっぱら論じられている。
 なお、筆者も指摘しているが「昭和天皇に都合の悪い公文書(典型的には沖縄メッセージ関係)が日本政府から積極的に公開されることはまず考えられない」ため、「宮中研究」においては
1)「木戸幸一日記」「西園寺公と政局(原田熊夫日記)」「入江相政日記」「松井明メモ(GHQ司令官と昭和天皇の会見メモ)」「富田メモ*46」などの私文書
2)「沖縄メッセージ」の存在が証明された米国政府機密指定解除文書
といった「日本政府公文書」以外を活用せざるを得ない点に注意が必要。
 特に「沖縄メッセージ」のような「あまりにもやばい話」はまず日本政府公文書で出てくることはあり得ない(もちろん筆者が指摘するようにそれでも日本政府に宮中関係公文書の公開を求めていく必要はあるが)。
 しかし以前も別エントリ『「天皇による天皇の政治的利用」の紹介』(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20091225/1260000031)で書きましたが戦後も「君主気取りの昭和天皇の時代錯誤」は本当に酷いですね。
 昭和天皇のこうした問題点についてはid:Bill_McCrearyさんエントリ『昭和天皇というのも、時代錯誤な人だ』(http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/de78e71009695eb9f42ca0ed66f14575)も紹介しておきます。

参考

https://ameblo.jp/saradin2/entry-11479176894.html
■『昭和天皇 側近たちの戦争』茶谷誠一
 前半は大久保利通の次男・牧野伸顕、後半は系譜的に言うと木戸孝允*47の孫にあたる木戸幸一*48を中心に時代の流れを記述している。
 本書によれば側近達の志向は基本的に立憲君主制の維持である訳だが、その制度に対する認識の相違によって、軍部の台頭を抑えうる機会を逃し続けた印象を受ける。
 側近達及び当時の閣僚陣に大きな影響力を持った人物として、筆者は元老の西園寺公望を挙げ、その最後に際して以下のように評している。
英米協調外交を共有する牧野の立憲君主論とは、天皇親裁の是非をめぐって対立し、天皇親裁反対を共有する木戸とは、外交政策や軍部への姿勢をめぐって対立していたのである。』

https://ameblo.jp/0-leporello/entry-11364000198.html
■宮中からみる日本近代史/茶谷誠一
 茶谷誠一「宮中からみる日本近代史」(ちくま新書)を読みました。
 この本は明治から終戦直後までの政治の中で、宮中(内大臣侍従長宮内大臣など)がどのような役割を果たしたかについて描かれています。
 叙述されるのは明治期からですが、この著者のご専門は戦前昭和期のようで、とくにこの時期に力を入れて書かれています。
 明治憲法体制では、そのシステムの都合上、天皇に奏上したり、(天皇が主権を行使しなくても)天皇のお伺いを立てる必要があります。
 この役割を担うのが宮中。
 とくに内大臣天皇を直接輔弼する役職として、権力を行使することが可能な立場となります。
(中略)
 この本の昭和期の大きな主人公は2人。
 牧野伸顕木戸幸一です。
 ともに宮中での内大臣経験者。
 (ボーガス注:最後の元老西園寺の死後)元老なき時代に、この2人が権力の調停役としてかなり大きな役割を果たしていることが分かります。
 まずは昭和1ケタ代、政党内閣の時代。
 この時代に活躍するのが、牧野伸顕内大臣)と西園寺公望(最後の元老)。
 この2人の思想は対英米協調。
 おもに憲政会(民政党)と強調しながら、また、海軍の穏健派斎藤実*49岡田啓介*50鈴木貫太郎(後に宮中にて侍従長になります)らを取り込む形で、対中強硬論の田中義一内閣や、満州で単独行動を取る陸軍を抑えようとし、なんとか対英米協調路線を継続していきます。
 しかし、2.26事件が発生。
 斎藤実は殺され、鈴木貫太郎は重傷を負い、岡田啓介牧野伸顕自身も危うく命を落としかけます。
 その後、牧野グループは一掃され、対英米協調路線は崩れます。
 その後に登場するのが木戸幸一(のち内大臣)と近衛文麿(首相)。
 彼らは対英米協調からアジアモンロー主義へと舵を切り、日中戦争へ突入します。
(中略)
 この頃になると、元老西園寺公望首班指名は形式的なものになり、実質は木戸幸一首班指名を行うようになります。
 そして1940年に西園寺が亡くなり、木戸・近衛は完全に対英米協調を見限り、日独伊三国軍事同盟を締結します。
 重臣会議においても主導権を握る木戸幸一。そして太平洋戦争へ・・・。
 その後、1945年。
 「もう一度戦果を挙げてから」などという人たちを差し置いて戦争を終結させようとしたのも、木戸&近衛。
 木戸幸一は、2.26事件の生き残りでかつての牧野グループの一人である鈴木貫太郎を首相に指名します。
(中略)
というように、ざっくりとストーリーを追いかけるだけでも面白いです。

http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/51981543.html
茶谷誠一『宮中からみる日本近代史』(ちくま新書
 天皇に強大な権力が集中する明治憲法のもとで、天皇を補佐する立場から政治に影響力を持った「宮中グループ」。
 内大臣宮内大臣侍従長などを中心とするこの勢力は日本の近代史において独特の役割を果たすことになりますが、その実態を丁寧に論じたのがこの本。特に昭和の戦前、戦中、戦後まもなくの時期を「宮中」という視点から切り取っています。
 もともと内大臣という職自体が、(ボーガス注:初代首相の地位を伊藤博文に奪われたが、当時、伊藤と同レベルの権威を有していた太政大臣経験者)三条実美を処遇するためにつくられたもので、明治憲法の内閣制度のもとでは誰が就任するかによってその重みがちがってくる存在でした。
 また、宮中に入るというのは現実の政治から外されるという側面もあり、桂太郎は(ボーガス注:山県が自分を現実政治から排除しようとしていると判断したこともあり、)山県有朋*51の推薦を固辞しようとしました(結局、外堀を埋められる形で就任)。
 その後も大山巌*52松方正義*53といった大物が内大臣に就任します。しかし、彼らのような元老は高齢化していき、ついに内大臣になるにふさわしい元老が払底してしまいます。
 そんな中で1921年宮内大臣、1925年に内大臣になり、当時摂政だった昭和天皇を支えたのが牧野伸顕
 当時の内大臣としてはまだ若く、政治的能力もあった牧野は、一木喜徳郎*54宮相や鈴木貫太郎*55侍従長らとともに、いわゆる「牧野グループ」を形成し、若き昭和天皇とともに「立憲政治」や「協調外交」を目指します。
 このあたりはそれなりに歴史をかじっている人ならば知っていることかもしれませんが、この本で注目すべきなのは牧野と「最後の元老」・西園寺公望の間のズレについて詳しく書いてあること。
 基本的に、西園寺も牧野も英米との協調外交を指向し、軍部の台頭を憂いていました。
 しかし、牧野が天皇の権威を使ってでも軍部の台頭を抑えようとしたのに対して、西園寺はあくまでも天皇が政治的な決断をし責任を追うことに慎重でした。
 田中義一への叱責、満州事変の拡大、国際連盟脱退など、節目節目で天皇の発言や御前会議などで軍部を抑えようとした牧野に対して、西園寺はブレーキをかけ続けます。あくまでも後付になりますが、この両者の不一致が軍部の独走を抑えられなかった一つの要因といえるのかもしれません。
 そして、五・一五事件が起こり政党内閣が終わると、宮中でも近衛文麿*56木戸幸一、原田熊雄*57といった「宮中革新派」が台頭していきます。
 彼らは宮中を支配する西園寺、牧野の情報収集役、媒介役として力を持つようになり、思想的にも軍部の主張するアジア・モンロー主義に親和的な姿勢を持っていました。
 その中で内大臣となり、宮中の権力を行って握ったのが木戸幸一
 彼の政治スタイルについての分析もこの本の読みどころの一つになります。宮相や侍従長との協力のもとで物事に当たろうとした牧野に対して、木戸は宮相や侍従長天皇の世話役以上の役割は求めず、政治的な事柄に関しては内大臣である自分が一手に引き受けようとしました。
 木戸は第2次近衛内閣誕生時の近衛の奏請や三国同盟の締結において、西園寺の意向を「無視」し、元老なき次代を見据えて自らが中心となって天皇の輔弼を行う姿勢を見せました。
 結局、日本は木戸の輔弼のもとで太平洋戦争へと突入し敗北するわけですが、御前会議による「聖断」のシナリオの中心となったのも木戸。このあたりは先行研究も多いところですが、この本を読むと改めて木戸の役割というものがわかります。

http://www.fben.jp/bookcolumn/2017/09/post_5177.html
象徴天皇制の成立
 今の天皇象徴天皇制をまさしく慎み深く実践していると思いますが、昭和天皇は戦前の延長線上の考えを最後まで捨て切れなかったようです。
 昭和天皇は首相や大臣から内奏(ないそう)と称する政治報告を受け、感想と称して自分の考えを述べ、政治への影響力を保持しようとしていたのでした。驚くべき事実です。
 昭和天皇は、「立憲君主」としての自覚のもと、安全保障問題と治安問題に対して関心を示し続け、積極的な姿勢をとっていく。昭和天皇の安保と治安への関心は、反共主義(対ソ脅威論)にもとづく政治信条に由来していた。
 昭和天皇は、象徴天皇を実質的な国家元首として認識していたようだ。
 昭和天皇は、憲法施行後も、首相や外相などの主要閣僚に対して必要に応じて政務報告を求めた。内奏は、大臣から相談を受ける権利にあたる。天皇からの指摘を受けて再考を迫られることがあった。激励する権利、警告を発する権利をも行使していた。
 戦前・戦後の国家指導者層のなかには、天皇制の存続(皇統の維持)と昭和天皇の戦争責任問題を切り離し、前者を後者に優先させる者たちもいた。東久邇宮高松宮*58三笠宮*59らの皇族や重臣の近衛も天皇制の存続を最優先事項とし、場合によっては昭和天皇を退位させて戦争責任を一身に負ってもらい、皇統の維持をはかるという案を考慮していた。
 これに対して昭和天皇は、幼い息子を天皇にしたときに摂政となるべき弟たちを信用できず、退位は出来ないと考えていた。
 昭和天皇アメリカ軍によって日本の安全保障を確保するというのが持論だった。その結果、在沖米軍による日本防衛という形式を考慮し、その意見をGHQ最高司令官のマッカーサーではなく、GHQ外交局長のシーボルトに伝えていた。
 そして、天皇の「沖縄メッセージ*60」は、アメリカの意思決定に影響を与えた。
 昭和天皇は、日本国内での共産党の言動にも敏感に反応していた。昭和天皇は、野坂参三*61の巧妙な宣伝に不気味さを感じ、潜在的な脅威として警戒心を募らせていた。
 昭和天皇明仁天皇との間には、国民との接し方において違いがある。
 昭和天皇は、戦前からの伝統にしたがい「上から」の仁慈の施しという側面が強い。明仁天皇は、国民とのより「対等」な視線での思いやりの施しがにじみ出ている。
 昭和天皇は、国家の繁栄が前面に出てくるのに対し、明仁天皇は、国民の幸福を語る。真の意味での象徴天皇制の歴史は、まだ30年ほどでしかない。
 今の天皇生前退位をめぐって、象徴天皇とは何かを日本人はもっと大いに議論すべきだと思います。その点、この本は考えるべき手がかりをたくさん与えてくれます。一読してみて下さい。

http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20170731/p1
茶谷誠一象徴天皇制の成立』
 おそらく昭和天皇は、大日本帝国憲法における天皇大権を捨てて、イギリスのような「君臨すれども統治せず」というスタイルの立憲君主制になれば十分と考えていたのでしょうが、日本国憲法の規定する象徴天皇制とは、イギリスの国王以上に政治への関わりを持たない存在です。
 冒頭にも述べたように、このギャップが本書が注目するポイントとなります。
 イギリスのウォルター・バジョットはイギリスの君主の持つ権利として、「大臣から相談を受ける権利」、「大臣を激励する権利」、「大臣に警告する権利」の3つをあげましたが(106p)、昭和天皇はおそらくこの3つの権利が自分にもあると考えて行動していたフシがあります。
 昭和天皇の行った政治的行為としては、沖縄をアメリカがしばらく占領することを望む「沖縄メッセージ」が有名ですが、そうしたあからさまなもの以外でも、昭和天皇は閣僚にたびたび内奏を求めましたし、そのときにたびたび発言をしています(その発言を漏らして問題になったのが1973年の増原防衛庁長官の辞任問題)。
 こうした昭和天皇の姿勢に対して芦田均*62などは否定的で、それが芦田内閣時の宮内府長官と侍従長の更迭につながる面もあるのですが、吉田茂佐藤栄作らがこうした昭和天皇の姿勢に応えたこともあって、昭和天皇はその後も内奏を求め続けることになります。
 また、興味深いのは第2章でとり上げられている皇室財産と皇室典範の問題です。
 とりあえず日本国憲法によって天皇制の存続が決まったものの、GHQ(特に民政局(GS))は新しい皇室を望んでいました。GSは国民主権の原則の貫徹を求め、皇室財産といえども国会のコントロール下に置かれるべきだとして、ある程度の自律性を求める宮中側の意向を厳しく押さえつけました。
 一方で、皇室典範に関しては天皇の退位問題と女帝の可否について人権の観点から疑問を呈したものの、日本側から退位後の天皇の政治活動の問題や女帝の弊害を説明されると、それ以上は問題視しませんでした(86p)。
 退位問題に関しては、佐々木惣一*63宮沢俊義*64などが退位規定を設けることに賛成であったのに対して、宮内省から出席した加藤進、高尾亮一らは皇位の継承が不安定になると反対します。この時期は昭和天皇の戦争責任問題や、高松宮の摂政就任に対する昭和天皇の警戒感もあって、宮中では退位規定を設けることに消極的だったのです(83ー85p)。
 高尾亮一は後年、「皇室典範に対しては占領軍の態度がたいへん寛大であつた」のに対して、皇室経済法では「一々の細かいデテールまで干渉して」きたと述べていますが(86p)、皇室の財産が国民主権のもとで管理されるのと引き換えに戦前色の強い皇室典範が残ったという事情があったのです。
 皇室典範に対するGHQの優先順位が低かったことが、現在の今上天皇の退位問題につながっているといえるのかもしれません。
 あと、この本でもうひとつ興味深かったのが寺崎英成のこと。
 寺崎英成は戦前にはアメリカ大使館の情報担当の一等書記官として野村吉三郎*65の日米交渉を補佐した人物で、戦後は宮内省の御用掛をつとめ、昭和天皇GHQのパイプ役となりました。彼の遺品から「昭和天皇独白録」が見つかったことも有名です。また、妻グエンはアメリカ人で、その娘はマリ子。柳田邦男の『マリコ*66のモデルともなっています(個人的には奥さんの回想録のグエン・テラサキ 『太陽にかける橋』*67はけっこう面白いと思う)。
 「昭和天皇独白録*68」のこともあって、戦後の宮中において寺崎が果たした役割というのはそれなりに知っていたのですが、その活動は昭和天皇の地位が不安定だった1948年頃までがピークだと思っていました。
 ところが、この本を読むと48年以降も寺崎は重要な役割を担っており、それゆえに吉田茂に更迭されたということがわかります。
 昭和天皇からの信任を得た寺崎は次第に政治秘書的な役割を担うようになり、昭和天皇マッカーサーの会見においても通訳を務めると同時に会見録の作成も行うようになります*69。しかし、昭和天皇と芦田首相が巡幸をめぐって激論を交わしたあとの1947年11月14日の第5回会見においては会見録を外務省に提出しないなど、政治的な行動を見せるようになります(これはマッカーサーが巡幸の是非について発言した場合、後に問題になる可能性があったからではないかと著者は推論している(208ー209p))。
 こうした寺崎の行動に危機感を持ったのが吉田茂でした。講和問題や安全保障問題について吉田は自らによる一元的な交渉を強く意識しており、昭和天皇といえどもその交渉に容喙させるわけにはいきませんでした。
 「臣茂」と称し、天皇を立てる姿勢を見せた吉田でしたが、だからといって昭和天皇の政治的な意思を政策に反映させようとはしませんでした。吉田は講和問題については秘密主義を貫き、昭和天皇は口を挟もうと思っても口が挟めない状況になっていくのです。
 そうしたプロセスの中で、昭和天皇の「政治秘書」ともいえる寺崎は解任されます。昭和天皇は寺崎を使ってGHQのさまざまな人物と接触をはかろうとし、また寺崎も昭和天皇の「側近」としてさまざまな行動を行いますが、それらは吉田にとっては邪魔なものだったのです。

http://rentai21.com/?p=882
■進藤榮一*70:「天皇メッセージ」から「主権回復の日」を考える いまにつづく”捨石”としての沖縄
 安倍政権は4月28日に「主権回復の日」式典をおこなうという。1952年の同日、サンフランシスコ条約が発効して「独立」したからとされる。しかしこの日は、米軍による異民族支配が始まった「屈辱の日」として沖縄は怒りを爆発させている。かつて、昭和天皇アメリカに沖縄を売り渡すことによって、戦後日本が形作られてきたことを鋭く暴く論文「分割された領土−沖縄、千島、そして安保」(『世界』1979年9月、『分割された領土 もうひとつの戦後史』(2002年、岩波現代文庫)所収)を発表した進藤榮一・筑波大学名誉教授にききました。(文責:星英雄)
 私がアメリカで発見した天皇メッセージは、昭和天皇が自らすすんで沖縄をアメリカに差し出すという衝撃的な内容でした。天皇宮内庁御用掛の寺崎英成を介してアメリカにメッセージを伝えたのですが、寺崎は「沖縄の将来に関する天皇の考えを伝えるため」として占領軍総司令部政治顧問のシーボルトを訪ねました。1947年9月のことです。
 シーボルトが残した外交記録にこうあります。
「寺崎が述べるに天皇は、アメリカが沖縄を始め琉球の他の諸島を軍事占領し続けることを希望している。天皇の意見によるとその占領は、アメリカの利益になるし、日本を守ることにもなる」
 さらにこう書かれています。
天皇がさらに思うに、アメリカによる沖縄(と要請があり次第他の諸島嶼)の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の−−25年から50年ないしそれ以上の−−貸与(リース)をするという擬制(フィクション)の上になされるべきである。天皇によればこの占領方式は、アメリカが琉球列島に恒久的意図を持たないことを日本国民に納得させることになるだろう・・・」
 シーボルトは驚き喜んですぐ連合国軍最高司令官マッカーサーやマーシャル*71国務長官に伝えたのです。こうして、「天皇メッセージ」は、アメリカの対日対世界政策の見直しにつながっていきました。
 日本の主権から沖縄を切り離し、アメリカの軍事占領にまかせるという、後のサンフランシスコ条約日米安保条約を柱とする戦後日本の原像がここにあったといえるでしょう。
 論文発表当時、きわめて大きな反響がありました。一部には、天皇がそんなメッセージを出すはずがないとか、天皇の意図は潜在的主権を確保することにあった、という見方もありました。しかし、アメリカに占領してもらいたいという天皇の意思でメッセージが発出されたことは、昭和天皇侍従長を務めた入江相政の日記*72でも裏づけられましたし、いまでは歴史事実として定着しています。

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/43913
沖縄タイムス昭和天皇実録に「天皇メッセージ」沖縄訪問希望も』
 宮内庁は9日付で、昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。宮内庁によると、非公開*73の内部文書を含む3152件の資料をもとに編さん。沖縄関係では、天皇が米国による沖縄の分割、軍事占領を望み、現在の過重な米軍基地負担につながる「天皇メッセージ」を、日本の公式記録として記述した。ただ、連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサー元帥との会見の全記録などはなく、天皇の沖縄に対する認識や、沖縄の戦中、戦後史の空白を埋める内容に至っていない。一方、戦後かなわなかった沖縄訪問の希望はたびたび記述しており、沖縄への「贖罪(しょくざい)意識」が浮き彫りになった。
 天皇メッセージでは、1947年9月19日に、御用掛の寺崎英成が、GHQ外交局長のウィリアム・シーボルトを訪問したと記載。「沖縄占領の継続を望むという天皇の意向を伝える」とした。
 52年4月のサンフランシスコ講和条約発効で、沖縄はメッセージ通り日本から切り離され、本土と異なる戦後史を歩んだ。
 メッセージ自体は、進藤栄一筑波大学大学院名誉教授が、シーボルトの報告電文を米国の公文書館で発見、79年に公表している。
 進藤氏は「事実が『実録』に確認されたことは、応分に評価できる」としたが、48年2月にも沖縄の長期占領を、寺崎を通してGHQに伝えていると指摘。「2度目の言及はなく、歴史事実を極小化している。官製正史の限界と本質を示している」と評した。
 天皇は復帰後、沖縄訪問の機会を模索した。87年の沖縄海邦国体への出席が決まったが、体調を崩し、訪問は中止。その心情を「思はざる病となりぬ沖縄をたづねて果さむつとめありしを」と詠んだ。晩年の88年にも意向を示しており、希望の強さをうかがわせた。
[ことば]昭和天皇実録
 昭和天皇の87年余りの生涯を政治、社会、文化、外交の出来事も交えながら、年月日順に記述した年代記宮内庁書陵部が1990年に編さん開始。側近の日誌や未公開の個人文書など約3千点余の資料を収集し、元侍従ら約50人から聞き取り調査を重ねた。2回の期間延長を経て24年間かけて完成。今年8月、天皇、皇后両陛下に提出された「奉呈本」は和紙に印刷し、糸でとじる装丁で本文60冊に目次・凡例が付属した計61冊、計約1万2千ページ。全文が情報公開請求の対象となるほか、来年3月から5年計画で公刊される。

https://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-231371.html
琉球新報社説『昭和天皇実録*74 二つの責任を明記すべきだ』
 沖縄の運命を変えた史実は、十分解明されなかった。
 宮内庁昭和天皇の生涯を記録した「昭和天皇実録」の内容を公表した。米軍による沖縄の軍事占領を望んだ「天皇メッセージ」を日本の公式記録として記述した。
 しかし、沖縄の問題で重要とみられる連合国軍総司令部(GHQ)のマッカーサーとの会見記録や、戦争に至る経緯などを側近に述懐した「拝聴録」は「見つからなかった」との理由で、盛り込まれなかった。編さんに24年かけたにしては物足りず、昭和史の空白は埋められなかった。
 昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている。最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が「国体護持」の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の「捨て石」にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
 二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された「和平交渉の要綱」は、日本の領土について「沖縄、小笠原島樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする」として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から「捨てる」選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
 三つ目が沖縄の軍事占領を希望した「天皇メッセージ」だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。「天皇メッセージ」から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して「軍事植民地」状態が続く。「象徴天皇」でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。
 私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して「贖罪(しょくざい)意識」を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。

http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2008/07/23230547/
■これは必読文献! 豊下楢彦昭和天皇マッカーサー会見』
 昭和天皇マッカーサーとの会見で何をしゃべったのか? 第1回会見の記録は、2002年10月に初めて公開された。さらに、2002年8月に、朝日新聞が、1949年7月の第8回会見から通訳を務めた故松井明氏の記録(写し)を入手し、その概要が公表された(ただし、同写しの全文はなお公表されていない)。
 本書は、こうした資料にもとづいて、占領下あるいはサンフランシスコ講和条約締結前後の時期に、昭和天皇が主体的・能動的にはたした政治的役割を探究している。
 テーマは2つ。1つは、冒頭に述べた昭和天皇マッカーサー会見で何が話されたのか、という問題。豊下氏は、マッカーサーとの会見に先だって行なわれた「ニューヨーク・タイムズ」紙のインタビュー(書面による)に注目し、実は、天皇は、東条にたいする個人的非難を口にしたことを推測する。そして、当時はマッカーサーの地位も不安定であったことを踏まえ、「天皇によるマッカーサーの『占領権力』への全面協力とマッカーサーによる天皇の『権威』の利用を相互確認する」(60ページ)ものだったと指摘している。
 2つめは、講和条約と、それと同時に締結された安保条約にかかわる問題。世間では、再軍備を迫るアメリカの圧力をかわした「吉田外交」の功績ということが言われているが、豊下氏は、それがまったくの虚構であることを指摘する。そして、昭和天皇が、主体的・能動的に、講和条約締結後も日本の安全保障をアメリカにゆだねるために、日本からすすんで米軍の駐留を求めるべきだとして、アメリカ政府に働きかけたことを明らかにし、それが、天皇は「政治的権能を有しない」という新憲法の規定に違反した一種の「二元外交」だったことを指摘している。
 戦後史のなかでの昭和天皇のはたした役割を理解するうえで、必読の文献といえよう。

http://d.hatena.ne.jp/mahounofuefuki/20081021/1224600845
豊下楢彦*75昭和天皇マッカーサー会見』(岩波書店、2008年)
 占領期の日米外交における昭和天皇の「介入」を実証した論考集。既出の「『天皇マッカーサー会見』の歴史的位置」上・下(『世界』1990年2、3月号)、「昭和天皇マッカーサー会見を検証する」上・下(『論座』2002年11、12月号)を含む。特に「天皇の通訳」松井明が遺した未公開文書(「松井文書」)を使用し、天皇‐SCAP*76会談のほぼ全容を明らかにしたことが注目される。『安保条約の成立』(岩波書店、1996年)で提起していた日本外交における「天皇ファクター」の存在をさらに明確にしている。
 昭和天皇は、東京裁判に際しては自らの免責を確実にするために、東条英機への「責任転嫁」路線の上で行動し、講和問題に際しては「反共」を目的としたアメリカ軍の駐留を最優先した。沖縄の分離・占領継続を提唱したのも裕仁だった。独自の情勢分析から天皇制の維持に危機意識を持った場合は、正規の外交ルートを超越してアメリカ側に意思を伝えるようなこともしている。
(中略)
 戦前の昭和天皇が平時・戦時を問わず政府や軍の政策意思決定過程に介入していたことは、今や多くの史料で実証されている史実で、明治憲法下ではそれも当然なのだが、「象徴天皇」として「内閣の助言と承認」に基づいた「国事行為」しかできないはずの日本国憲法下でも、「超憲法的」に少なくとも安全保障問題に対しては政府を制約していたのは、本書を読む限りもはや疑う余地はない。
 東京裁判サンフランシスコ講和条約日米安保条約天皇制の存続を保障する装置として全面肯定した以上、(ボーガス注:昭和天皇が)特に前二者を否定する靖国神社へのA級戦犯合祀に不快を示したり、在日米軍の縮小・廃止に反対したのも当然であろう。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080831/p1
■Apes! Not Monkeys! はてな別館『昭和天皇マッカーサー会見』
 昭和天皇マッカーサーの会見における天皇の発言(およびマッカーサーの反応)はいくつかのルートで“公表”されたが、その内容にはいくつかの齟齬がある。本書の第1章と第2章は『マッカーサー回想記』における記述(天皇が「全責任を負う者」として自らを「諸国の採決にゆだねるため」訪問した、とされている箇所)の検証を軸として、天皇発言の実態とその意味を明らかにしようとしたもの。詳細は実際に本書を手にとってご覧いただくとして、著者の結論は通訳を担当した外務官僚奥村勝蔵*77の「手記」*1が会見の内容をもっとも正確に伝えている、というものである。そしてこの奥村「手記」には「全責任を負う」発言はみられないのである。
 この時期の天皇発言がはらむもう一つの問題は、「昭和天皇東條英機を非難したのか?」というものである。前出奥村「手記」には東條を(天皇の意に反して開戦した、として)非難する発言はみあたらない。しかし『ニューヨーク・タイムズ』紙のクルックホーン記者との会見や、イギリス国王への親書(46年1月)では東條の名に言及しつつ、「宣戦の詔書」が自らの意に反するかたちで用いられた、としているのである。著者は、天皇が「臣下」を個人的に非難したという不都合を隠蔽するために、発表された奥村「手記」からは同様の発言が削除されているのではないか、と推理している。
(中略)
 第3章は、第8回目以降の天皇マッカーサー会見において通訳を務めた外交官松井明が書き残した「松井文書」について。松井氏は出版を目的として原稿をまとめたが、周囲の圧力で断念したとのこと。その写しを朝日新聞が入手し、著者がそれを閲覧する機会を得た、という。遺族の了解が得られないため現時点では全文公開ができず、著者自身も「本来であれば歴史的に重要な資料は、誰もがアクセスすることによって研究が深められ議論が活性化されるべきものである」として、「内心忸怩たるものがある」と付言している(175頁)。とはいえ永遠に非公開のままということはあるまいし、非公開の文書を(法的に可能な範囲で)利用した研究が世に出ることで文書の重要性が広く認識され、公開への道が開けるということもあり得るだろう。
 内容的には、第4回の会見(「日本の安全保障」のためにアメリカがイニシアティヴをとることを要望した)の全貌が明らかになったこと、天皇が本格的に「外交」にのりだす(第4章に詳しい)きっかけとなった第9回、10回会見の内容や、第11回の会見で「戦争裁判に対して貴司令官が執られた態度に付、此機会に謝意を表したいと思います」と発言したことなども明らかになったことが、主な成果としてあげられている。新憲法下でも積極的に「政治的行為」を行なっていた昭和天皇の姿は、『独白録』などにおける「立憲君主の立場に徹した」という弁明の論理を否定するものだ、という著者の指摘には説得力があり、松井文書の資料批判が他の研究者も交えて行なえるようになることの重要性は高いと思われる。

■松井明(1908年(明治40年)〜 1994年(平成6年)4月29日:ウィキペディア参照)
・日本の外交官。
・1949年(昭和24年)7月 〜1953年(昭和28年)3月まで昭和天皇の通訳をつとめる。1951年(昭和26年)、吉田茂首相秘書官としてサンフランシスコ講和会議に随行
・駐スウェーデン大使時代(1959〜1962年)に川端康成(1968年ノーベル文学賞受賞者)のノーベル文学賞受賞に向けて、積極的なロビー活動を行ったことでも知られる(共同通信ロンドン支局取材班編『ノーベル賞の舞台裏』(2016年、ちくま新書)参照)。
・元駐米大使・柳井俊二*78は義理の息子に当たる。
■松井メモ
 1980年頃に、昭和天皇と初代GHQ最高司令官ダグラス・マッカーサー*79との会見4回、2代目GHQ最高司令官マシュー・リッジウェイ*80との会見7回の通訳をした際の極秘メモを手記にまとめた。侍従長入江相政に出版したいと相談したが止められ、1989年になってから著書にメモがある旨を書いた。1994年1月に産経新聞に手記がある旨を明かした。2002年8月5日に朝日新聞がそのメモの詳細について報道した。

http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20151009/1444397688
原武史*81『「昭和天皇実録」を読む』を読んで
 原武史『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書)を読む。原は政治学者で、『大正天皇』(朝日文庫)、『昭和天皇』(岩波新書)、そして最近では『皇后考』(講談社)の著書がある。昨年「昭和天皇実録」が公開された。その内容を原が分析している。
 「昭和天皇実録」は、公式の記録だから天皇に不利なことは書きにくいだろう。原は記述をよく読み込み、また同時代の記録を参照して隠された真実に迫っていく。
(中略)
 「実録」では、戦後、退位について考えたことなどないかのような印象を受ける。しかし木下道雄*82の『側近日記』*83には、昭和21年に天皇が退位について悩んでいたことが書かれている。しかも皇太后までが天皇は退位すべきだと考えていた。皇太后天皇が退位した場合、皇太子が幼いので自分が摂政になることを考えていたらしい。
 また神道からカトリックへの改宗も検討されていた。神道には宗教としての資格がなく、国民に信仰心が足りなかったからこういう戦争になったのだと天皇が述べていたという。「国体」には天皇を統治の主体とする概念はあっても、教義や世界観を中核とする概念はなかったので、たとえ天皇が改宗し、カトリックの教義を信仰するようになったとしても、国体そのものが変わることはないと原は言う。
(中略)
 大まかに紹介したが、本当はもっとずっと面白い内容だった。一読をお勧めしたい。

*1:第3次池田改造、第1次佐藤内閣行政管理庁長官、第3次佐藤改造、第1次、第2次田中内閣防衛庁長官を歴任。なお全日空機雫石衝突事故で佐藤内閣防衛庁長官を1ヶ月足らずで辞任、田中内閣防衛庁長官も、増原内奏問題により再度辞任に追い込まれた。

*2:著書『福澤諭吉大隈重信:洋学書生の幕末維新』(2012年、山川出版社日本史リブレット)

*3:著書『近代日本の予算政治 1900〜1914:桂太郎の政治指導と政党内閣の確立過程』(2013年、東京大学出版会

*4:台湾総督、第3次伊藤、第1次大隈、第2次山県、第4次伊藤内閣陸軍大臣内大臣、首相など歴任

*5:GHQ治安維持法特別高等警察特高警察)の廃止、政治犯の釈放を命令されたことに強く反発し総辞職(ウィキペディア東久邇宮内閣」参照)。

*6:第2次中曽根第2次改造内閣、竹下改造内閣農水相、宮澤内閣蔵相、細川内閣副総理・外相などを経て首相

*7:福田赳夫内閣、第2次中曾根第2次改造内閣文相を経て首相

*8:第1次吉田内閣蔵相、第1次〜3次鳩山一郎内閣通産相などを経て首相

*9:第2次田中第2次改造内閣防衛庁長官自民党国対委員長(三木総裁時代)、福田内閣科学技術庁長官、第2次大平内閣行政管理庁長官、第1次中曽根内閣通産相、竹下内閣外相などを経て首相

*10:もちろん桂のこと。

*11:第一次大隈内閣文相、第二次大隈内閣司法相、東京市長など歴任

*12:第3次吉田第2次、第3次改造内閣郵政相、第4次吉田内閣建設相、第2次岸内閣蔵相、第2次池田第1次改造内閣通産相、第2次池田第3次改造内閣科学技術庁長官などを経て首相

*13:桂や佐藤ならまだしも安倍の長期政権など屈辱でしかありませんが。

*14:第3次佐藤改造、第2次田中第2次改造内閣官房長官、三木内閣建設相、第2次大平、第1次、第2次中曽根内閣蔵相、自民党幹事長(中曽根総裁時代)などを経て首相

*15:第1次岸改造内閣郵政相、自民党政調会長(池田総裁時代)、第3次池田内閣、第1次佐藤内閣蔵相、自民党幹事長(佐藤総裁時代)、第3次佐藤改造内閣通産相などを経て首相

*16:山口県下関市出身の時代小説作家。1990年、藤原義江の伝記小説『漂泊者のアリア』(後に1993年、文春文庫)で第104回直木賞を受賞。著書『失楽園の武者:小説・大内義隆』(1990年、講談社文庫)、『高杉晋作』(1995年、文春文庫)、『天辺の椅子:日露戦争児玉源太郎』(1996年、文春文庫)、『幕末長州藩の攘夷戦争』(1996年、中公新書)、『智謀の人 毛利元就』(1997年、中公文庫)、『剣と法典:小ナポレオン山田顕義』(1997年、文春文庫)、『花も嵐も:女優・田中絹代の生涯』(2004年、文春文庫)、『松下村塾』(2014年、講談社学術文庫)など

*17:著書『旧外交の形成:日本外交一九〇〇〜一九一九』(2008年、勁草書房

*18:著書『日本の大陸政策 1895〜1914:桂太郎後藤新平』(1996年、南窓社)、『政党内閣の崩壊と満州事変:1918〜1932』(2010年、ミネルヴァ書房)、『児玉源太郎』(2012年、ミネルヴァ書房日本評伝選)、『大正政変』(2015年、千倉書房)など

*19:第4次伊藤、第1次西園寺、第3次桂、第2次大隈内閣外相を経て首相

*20:著書『戦前日本の政党内閣と官僚制』(2014年、東京大学出版会

*21:第1次大隈内閣文部大臣、第2次山本内閣文部大臣兼逓信大臣、加藤高明内閣逓信大臣を経て首相

*22:著書『近現代日本における政党支持基盤の形成と変容:「憲政常道」から「五十五年体制」へ』(2017年、ミネルヴァ書房

*23:加藤の場合、戦前は自民党ではなく自民党の前身政党(加藤の場合、立憲政友会)だが。

*24:一般的には公明党共産党がこれに当たるとされると思います。

*25:第2次中曽根第2次改造内閣科学技術庁長官、宮澤改造内閣官房長官、村山、小渕第2次改造、第1次、第2次森内閣外相、衆院議長など歴任

*26:第2次小泉内閣防衛庁長官福田内閣防衛相、麻生内閣農水相自民党政調会長(谷垣総裁時代)、幹事長(第二次安倍総裁時代)、第三次安倍第1次改造内閣地方創生担当相など歴任

*27:小渕第2次改造、第1次森内閣運輸相、第3次小泉改造、福田改造、麻生内閣経産相自民党総務会長(第二次安倍総裁時代)などを経て幹事長

*28:もちろん他にもいますが。

*29:戦前、満州国総務庁次長、商工次官、東条内閣商工相を歴任。戦後、自民党幹事長(鳩山総裁時代)、石橋内閣外相を経て首相

*30:第2次若槻内閣逓信大臣を務めた小泉又次郎代議士の孫。第3次池田改造、第1次佐藤内閣防衛庁長官を務めた小泉純也代議士の息子。宮沢改造内閣郵政相、橋本内閣厚生相などを経て首相

*31:福田赳夫首相の息子。第2次森改造内閣、第1次、第2次小泉内閣官房長官を経て首相

*32:岸信介元首相の孫。安倍晋太郎自民党幹事長(竹下総裁時代)の息子。自民党幹事長(小泉総裁時代)、第3次小泉改造内閣官房長官を経て首相

*33:細川内閣、小渕再改造内閣で外務政務次官創価大学OBであり、国政進出は公明党からであるが、新進党時代には「私の政治の師は小沢一郎」と公言。1997年の新進党解党に際しても、旧公明党系議員が結成した新党平和黎明クラブには参加せず、公明党創価学会とは事実上袂を分かつ形となった。その後も、選挙では公明党創価学会から公式な支援は受けていない(ウィキペディア東祥三」参照)。

*34:東久邇、幣原内閣外相を経て首相

*35:第1次吉田内閣で商工相

*36:政友本党は、1927年に憲政会と合同し立憲民政党になっている。

*37:中島飛行機富士重工業の前身)創業者。第1次近衛内閣で鉄道大臣

*38:著書『皇紀・万博・オリンピック:皇室ブランドと経済発展』(1998年、中公新書)、『戦時下の日本映画:人々は国策映画を観たか』(2003年、吉川弘文館)、『東条英機』(2009年、山川出版社日本史リブレット 人)、『昭和天皇』(2014年、中公新書)、『昭和史』(2016年、ちくま新書)など

*39:第3次吉田内閣蔵相、第4次吉田内閣通産相、石橋、第1次岸内閣蔵相、第2次岸改造内閣通産相などを経て首相

*40:第2次岸改造内閣科学技術庁長官、第2次佐藤第1次改造内閣運輸相、第3次佐藤内閣防衛庁長官、第1次田中内閣通産相自民党幹事長(三木総裁時代)、総務会長(福田総裁時代)、鈴木内閣行政管理庁長官などを経て首相

*41:原、第二次山本内閣陸軍大臣を経て首相。張作霖爆殺事件で「関係者処分」を天皇に約束しながら実行できなかったことを天皇に批判されたことから内閣総辞職

*42:朝鮮軍司令官、斎藤、岡田内閣陸軍大臣を経て首相

*43:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、第二次、第三次近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、A級戦犯として死刑判決

*44:内務卿を務めた大久保利通の次男。吉田茂元首相の義父(つまり牧野は麻生太郎財務相の曾祖父にあたる)。第2次西園寺内閣農商務相、第1次山本内閣外相を歴任。1921年(大正10年)、宮中某重大事件の影響で中村雄次郎宮内大臣(陸軍出身)が辞任すると牧野が後任宮内大臣に就任。その後、内大臣(1925年(大正14年)〜1935年(昭和10年))も務めた。

*45:第2次伊藤、第2次松方内閣外相(文相兼務)、第3次伊藤内閣文相などを経て首相。

*46:2006年7月に日本経済新聞によりその存在が報道された元宮内庁長官富田朝彦のメモ(手帳14冊・日記帳13冊・計27冊)。特に昭和天皇靖国神社参拝に関する発言を記述したと報道された部分を指す。昭和天皇第二次世界大戦A級戦犯靖国神社への合祀に強い不快感を示したとされる内容が注目された(ウィキペディア富田メモ」参照)。

*47:参議、内務卿、文部卿を歴任

*48:第1次近衛内閣文相、厚生相、平沼内閣内務相、内大臣など歴任。戦後、A級戦犯として終身刑判決を受けるが1955年に仮釈放。1977年に死去

*49:第1次西園寺内閣、第2次桂内閣、第2次西園寺内閣、第3次桂内閣、第1次山本内閣海軍大臣朝鮮総督、首相、内大臣を歴任。内大臣在任中に226事件で暗殺される。

*50:田中、斎藤内閣海軍大臣を経て首相

*51:陸軍卿、内務卿、第1次伊藤、黒田内閣内務相、第2次伊藤内閣司法相、首相、枢密院議長、参謀総長などを歴任。元老の一人。

*52:第1次伊藤、黒田、第1次山県、第1次松方、第2次伊藤、第2次松方内閣陸軍相、参謀総長内大臣など歴任。元老の一人。

*53:内務卿、大蔵卿、第1次伊藤、黒田、第1次、第2次山県内閣蔵相、首相など歴任。元老の一人。

*54:第2次大隈内閣文相、内務相、宮内相、枢密院議長など歴任

*55:海軍次官連合艦隊司令長官、海軍軍令部長侍従長、枢密院議長などを経て首相

*56:貴族院議長、首相を歴任。戦後、自殺

*57:最後の元老・西園寺公望の晩年の私設秘書。彼の口述回顧をまとめて出版された『西園寺公と政局(原田熊雄日記)』(岩波書店)は、戦前昭和の激動の政局を知る上での貴重な史料となっている。

*58:大正天皇の三男。

*59:大正天皇の四男。著書『文明のあけぼの:古代オリエントの世界』(2002年、集英社)、『わが歴史研究の七十年』(2008年、学生社)など

*60:沖縄メッセージについては進藤栄一『分割された領土:もうひとつの戦後史』(2002年、岩波現代文庫)参照

*61:日本共産党第一書記、議長を歴任

*62:幣原内閣厚生相、片山内閣副総理・外相を経て首相

*63:憲法学者京都大学名誉教授、立命館大学学長

*64:憲法学者東京大学名誉教授

*65:海軍出身。阿部内閣外相、駐米大使など歴任

*66:現在、1983年、新潮文庫。1981年にNHKでドラマ化されている。

*67:1991年、中公文庫

*68:独白録については藤原彰、吉田裕、粟屋憲太郎、山田朗『徹底検証 昭和天皇「独白録」』(1991年、大月書店)、東野真『昭和天皇二つの「独白録」』(1998年、NHK出版)参照

*69:昭和天皇マッカーサーの会見については豊下楢彦昭和天皇マッカーサー会見』(2008年、岩波現代文庫)参照

*70:著書『敗戦の逆説:戦後日本はどうつくられたか』(1999年、ちくま新書)、『東アジア共同体をどうつくるか』(2007年、ちくま新書)、『アジア力の世紀:どう生き抜くのか』(2013年、岩波新書)、『アメリカ帝国の終焉:勃興するアジアと多極化世界』(2017年、講談社現代新書)など

*71:ルーズベルト政権陸軍参謀総長トルーマン政権国務長官、国防長官を歴任。1953年、いわゆるマーシャルプランによってノーベル平和賞を受賞

*72:入江相政日記』(朝日文庫)として刊行されている。

*73:もちろん茶谷氏ら研究者は公開を強く求めています。

*74:実録については小田部雄次昭和天皇実録評解1、2』(2015年、2017年、敬文舎)、原武史『「昭和天皇実録」を読む』(2015年、岩波新書)、半藤一利『「昭和天皇実録」にみる開戦と終戦』(2015年、岩波ブックレット)、半藤一利保阪正康他『「昭和天皇実録」の謎を解く』(2015年、文春新書)、保阪正康昭和天皇実録 その表と裏1〜3』(2015、2016年、毎日新聞出版)、山田朗昭和天皇の戦争:「昭和天皇実録」に残されたこと・消されたこと』(2017年、岩波書店)など参照

*75:著書『安保条約の成立:吉田外交と天皇外交』(1996年、岩波新書)、『集団的自衛権とは何か』(2007年、岩波新書)、『昭和天皇の戦後日本:〈憲法・安保体制〉にいたる道』(2015年、岩波書店)など

*76:連合国軍最高司令官のこと(つまりマッカーサー

*77:1945年(昭和20年)9月27日に行われた昭和天皇ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官の第一回会見において、日本側通訳を担当した。1947年(昭和22年)の第四回会見でも、昭和天皇の通訳をつとめた。その際、アメリカの報道機関に発言を漏らしたとして、外務省情報部長の職を懲戒免官処分となった。しかし、その後、もらしたのは別人と判明したため復帰が許され、1952年(昭和27年)に外務事務次官に任命され、1955年(昭和30年)までつとめた。1957年(昭和32年)にはスイス大使に任命され、1960年(昭和35年)までつとめた(ウィキペディア「奥村勝蔵」参照)。

*78:外務事務次官、駐米大使、国際海洋法裁判所所長など歴任

*79:米国陸軍参謀総長GHQ最高司令官、(朝鮮戦争での)国連軍司令官など歴任

*80:GHQ最高司令官、(朝鮮戦争での)国連軍司令官、NATO軍最高司令官、米国陸軍参謀総長など歴任

*81:著書『「民都」大阪対「帝都」東京』(1998年、講談社選書メチエ)、『<出雲>という思想』(2001年、講談社学術文庫)、『昭和天皇』(2008年、岩波新書)、『滝山コミューン一九七四』(2010年、講談社文庫)、『震災と鉄道』(2012年、朝日新書)、『皇居前広場』(2014年、文春学藝ライブラリー)、『思索の源泉としての鉄道』(2014年、講談社現代新書)、『レッドアローとスターハウス:もうひとつの戦後思想史』(2015年、新潮文庫)、『大正天皇』(2015年、朝日文庫)、『「昭和天皇実録」を読む』(2015年、岩波新書)、『皇后考』(2017年、講談社学術文庫)、『〈女帝〉の日本史』(2017年、NHK出版新書)、『松本清張の「遺言」:『昭和史発掘』『神々の乱心』を読み解く』(2018年、文春文庫)など

*82:東宮侍従、侍従次長など歴任

*83:現在、中公文庫