裕木奈江の姿を最近(?)あまり見かけない気がする

id:Bill_McCrearyさん記事『古手川祐子の姿を最近あまり見かけない(原田美枝子のように、60になっても活躍するのも大変だ)』
https://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/96f3f3965ca3d9ca62cff4c27948e61f
から思いついて書く記事です。
 最初に断っておきますが、私は裕木奈江のファンではありません。
 「彼女の全盛期(?)ですら」裕木奈江出演作品は山田洋次『学校』(1993年)しかたぶん見たことがありません。
 ただちょっと気になったので裕木奈江を記事にするだけです。ファンの方、いたら*1ごめんなさい。
 特にコメントはせずに、以下の記事を紹介しておきます。しかし最近の若者がどれほど彼女を知ってるか少し興味があります。

裕木奈江(1970年5月12日〜:ウィキペディア参照)
 1987年9月から1988年5月まで伊藤正次演劇研究所にて研究生として学んだ後、東京アクターズスタジオの第1期生となる。
 1988年公開の映画『ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー』に本名の田沢奈江名義で出演しデビュー。1980年代末に映画女優として活動を開始。1990年公開の映画『曖・昧・Me』では主演。
 その後1990年代になってテレビドラマ・CM・歌番組などテレビ番組での芸能活動にも進出。
 1992年放送のフジテレビ系スペシャルドラマ『北の国から'92巣立ち』では主人公・黒板純(吉岡秀隆)の恋人・松田タマコ役を演じて、純の子を妊娠し中絶するという衝撃的な内容で脚光を浴びる。さらに、翌1993年放送の日本テレビ系連続ドラマ『ポケベルが鳴らなくて』では友人の父(緒形拳)と不倫に陥り家庭を壊してしまう役を演じて社会現象を巻き起こし、確かな演技力に定評を得る。
 フジテレビ系連続ドラマ『ウーマンドリーム』(1992年、裕木が主演)の挿入歌「泣いてないってば」で歌手として本格的に活動を開始し8枚のアルバムをリリース、ニッポン放送のラジオ深夜番組『オールナイトニッポン』(1992〜1993年)のパーソナリティも務めるなど、アイドル的な人気を博す。
 一方で、女性から共感を得られない役柄を自然体に演じたことにより、ドラマ制作をめぐるトラブルを契機に演じた裕木自身が「ぶりっ子」「嫌いな女優No.1」などとして女性誌から“女性の敵”であるかのような激しいバッシングを受けこととなる。この騒動のことを、後に「忙しかったので、バッシングを気にしている暇がなかった」「3-4時間ほどしか毎日寝る時間がなく、後から騒動を知ったほどだった」と語っている。
 20代半ばからは、テレビ・ラジオ進出以前からの古巣であった映画界や舞台を中心に活動する。
 1999年の写真集『UNRELEASED FILMS』で初めてオールヌードを披露した。2001年公開の映画『光の雨』では、永田洋子をモデルとする冷酷非情な新左翼幹部を演じ(厳密には「劇中劇」という扱い)、イメージチェンジを図る。
 2004年9月から1年間、文化庁の新進芸術家海外研修制度を利用し在外研修生としてギリシャに国費留学し、英語と演劇を学ぶ。
 2006年4月 クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』にNAE名義で出演。以降ハリウッド映画出演時はこの名を使用。同年7月、日本において「作家・坂口安吾の妻役」で舞台『無頼の女房』に出演。
 2007年 デヴィッド・リンチ監督の映画『インランド・エンパイア』に出演。同年、アイスランド映画レイキャヴィク・ホエール・ウォッチング・マサカー』に日本人メイドの役で出演。
 2017年 デヴィッド・リンチ脚本・監督の海外ドラマ、新作『ツイン・ピークス The Return』に出演。アジア人で唯一、デヴィッド・リンチ監督から直接キャスティングされる。アメリカでは2017年、5月21日から9月3日まで放送された。日本では、WOWOWにて2017年7月22日より放送開始。
■私生活
 1999年、11歳年上のヘアメイクアーティストと結婚し、米国ロサンゼルスへ移住。しかし、結婚11年目となる2009年1月に離婚した。

http://d.hatena.ne.jp/metaka/20060122/p1
夕刊フジDQN記事で裕木奈江を思い出した(2006-01-22)
 夕刊フジが「下品だ」という事は このブログで何度か書いてますし なので、このブログ的には「決定事項」であり 改めて強調するまでもない事ですが。
 でも、 ヤフーのトップページで 夕刊フジの反吐が出そうなくらい 下品な記事が紹介されていたんですよねー。 (ヤフーもなぁ)

夕刊フジ『「女に嫌われる女」裕木奈江、国費でギリシャへ』
 かつて「女に嫌われる女」で知られた女優、裕木奈江(35)。しばらく表舞台から消えていたと思ったら、意外なことで再び注目されている。文化庁の「新進芸術家海外留学制度」で一昨年9月から昨年10月まで、ギリシャのバロス島という南エーゲ海の島に留学していたという。芸術家と呼ぶには違和感のあるタレントが、現代演劇の本場とはいえない国で血税を使い何を勉強したのか…。
 同制度は、1967年から「我が国の芸術文化の振興」を目的として、才能ある芸術家の力を伸ばすことを支援してきた。裕木は1年間の留学で、往復の飛行機代のほか、日額1万円の日当などが支給された。
 作家の麻生千晶氏は、「彼女はどこが新進で、どこが芸術家なのでしょうか。未来の才能を見いだそうというよりは、よく知られた人を選んでおこうという国側の安易な姿勢を感じます」と批判する。
 裕木と同じ年に留学制度を利用した人の行き先は、ロンドンやパリといった現代芸術の動きが活発な地域ばかり。裕木は「ギリシャ演劇を勉強するために選んだ」としているが、観光地のエーゲ海の島でどんな勉強をしたのか、今後の仕事で見せてもらいたいものである。

 記事タイトルからして 悪意丸出しの下品な記事なんですが (だいたい、今更、裕木奈江を叩いて  どうしようというんだ?) 内容も酷くて・・・ いくらでもツッコミ所のある記事ですが とりあえず
・「女優」を芸術家と言えない、なんて  大衆芸能を差別している考え方じゃないか?
ギリシャだから「遊びだろう」ってイメージって  ギリシャに対して失礼だろう。 (「フジヤマゲイシャ」のイメージで日本を見て  「日本に留学なんて遊びじゃないか」なんて  言われたら日本人として怒らないか?)
(あと、作家とか自称してる『麻生千晶』  という名前も、ここで晒しておきます。)
くらいを指摘しておけば良いでしょう。
 まぁ、夕刊フジ批判はこれくらいにして 裕木奈江さんです。 実は、女優さんとしての印象は それほどないんですよね。 ただ なんか「不自然な売れ方」をして 「不自然な消え方」をした人だって印象があります。
 売れたのは、 突然、ドラマ*2の主役に抜擢されたから、 だったと思います。 原作が『極東セレナーデ』という 朝日新聞で連載されていた とても面白い小説でした。 話自体が 「無名の女の子をスターに仕立て上げる」 という話だったので 当時、無名だった(と思う)裕木奈江さんが 抜擢されて、このドラマでスターダムに上がった んだったと思います。
 で、 「消えた」のは、「ポケベルが鳴らなくて*3 というドラマで不倫の役をやったから。 その役があまりにハマっていたため 「彼氏を寝取られそう」 とか変な言いがかりとも言うべき理由で 「女に嫌われる女優」 と言うレッテルを貼られ、 女性顧客を失いたくないメディアで 全く使われなくなってしまった・・・
 しかし、考えてみても変な話なんですよね。 実際に不倫をした訳じゃなくて 単にドラマでそういう役をやっただけなのに メディアでバッシング記事を沢山書かれ 呼応するようにテレビで使われなくなる・・・
 なんかね、 「げーのーかいのドン」みたいな人に 睨まれたんじゃないかって 思わせるくらい 不自然な消え方だったと思います。
 それ以来、 メディアでは殆ど見かけなかった (数年前に結婚報道があった記憶が。) で、久しぶりがこれかい? (なんか 「未だにドンは許してないんか?」  って思わせる記事ですわなぁ。)
 と、一般的な復習は良いんですが。 それより 個人的な裕木奈江の思い出と言えば 「裕木奈江オールナイトニッポン」なんですよ。
 面白かったです。 特に「言うだけ彼氏のコーナー」 というのがあって、 彼氏の居ない女の子や、 彼氏を作ってはいけないアイドルの為に 「口で言うだけの彼氏」を作っていこう というコーナーでした。 リスナーからの投稿で、 色々なプロフィールとかエピソードが決まっていく という。 名前は確か「服部和也」だったかな? (よー覚えてるなぁ、>私) それで、他にも色々と細かな事が決まっていって そのうち リスナーが「和也になりきって」電話で会話する という事もやっていました。 ちょっとでもプロフィールやエピソードと違うと 「和也じゃない!」と言われて電話を切られる、という。
 あと、このコーナーで覚えてるのが リスナーの女の子が 友達に勇気を絞って「私、彼氏が居るの、和也というの」 と「告白」すると、 その友達が 「あぁ、服部和也でしょ? 私もオールナイト聞いてるし」 と返した、という。 それはやっちゃイケナイでしょって(笑)
 ま、そんな事を思い出しました。

https://www.narinari.com/Nd/2007077643.html
■D・リンチ作品に大抜擢、ハリウッド女優・裕木奈江インタビュー(2007/07/04)
・7月14日にリンチ監督の最新作「インランド・エンパイア」が公開される。この作品は、昨年のベネチア映画祭で栄誉金獅子賞、今年は全米音楽批評家協会で実験的作品賞などを受賞した話題作。
・この映画のラストに、日本人女優が登場している。その女優とは、最近めっきり日本のテレビで見かけなくなった裕木奈江クリント・イーストウッド監督の「硫黄島からの手紙」に続く出演で、この作品でハリウッド女優に正式登録されたのだそう。
裕木奈江は、90年代に男性からの圧倒的な支持を得たものの、主演ドラマ「ポケベルが鳴らなくて」(日本テレビ系)の役柄が影響してか、女性からは余り好かれなかったのだ。こうしたことから“バッシング”にまで発展し、90年代後半にはテレビやラジオから姿を消すことに。活動を映画や舞台を中心に移し、99年には写真集でオールヌードを披露したのだけど、04年のギリシャ留学(文化庁在外研修員)後は、消息が途絶えていたのだ。
 留学後はハリウッドに移住した裕木奈江。リンチ監督が短編映画を撮影していることを知り、募集していたエキストラとして「インランド・エンパイア」に参加したそうなのだ。ところが、セリフのある重要な役に大抜擢。そのことについて、「撮影の後、リンチにあいさつに行くと、ジッっと見て、“君はジャパニーズ・ホームレス・ガールを演じることに興味があるかい?”って言うんです。もちろん、答えはイエスでした」と語っている。
 それから間もなく自宅のファクスに3ページもの台本を送られてきた。撮影現場では主役のローラ・ダーンとともに8分間撮影され、それがすべて本編に採用されたようなのだ。
 かつての“事件”について、「日本では、なんでもはっきり言うので、バッシングされることも多かったと思う」と語り、「でも、私ももう37歳です。世界を視野に入れて、このアメリカでは、アジアの女優としてでなく、日本人の女優としてやっていきたい」と、決意を新たにしている。すでに2作のオファーが来ているそうで、「インランド・エンパイア」同様、今後の活動が楽しみなのだ。

https://www.oricon.co.jp/news/2097470/full/
■『裕木奈江はいかにして国際女優になったのか』2017-10-28
 「実は歌手だったんですよ。CDを出して、オリコンの雑誌の表紙を飾ったこともあったんですよ」。
 本人に言われるまでもなく、いまの40代以上ならその名を知らない人がないくらい、1990年代にアイドル的な人気を博した裕木奈江(47)。20代半ばからは女優として主戦場を映画や舞台に移し、いつの間にか米・ロサンゼルスを拠点に活躍する国際女優になっていた。
 日本では7月からWOWOWプライムで放送されているデヴィッド・リンチ脚本・監督の海外ドラマ、新作『ツイン・ピークス』に、アジア人で唯一、デヴィッド・リンチ監督から直接キャティングされて出演している。
 裕木奈江はいかにして国際女優になったのか。
■転機はギリシャ留学
 裕木は、2004年から1年間、ギリシャで英語と演劇を学んでいる。当時、日本では海外留学ブームがピークを迎えていて、仕事を辞めて海外留学するOLも少なかった。
 「10代から30代半ばまで芸能界にいて、それしか知らない人生でしたので、世界を広げるなら、留学だと思いました。私の周りにも海外留学する人がいましたし、せっかく俳優をやらせてもらってきたので、文化庁新進芸術家海外研修制度(渡航費・滞在費を支援してくれる)を利用して、一から演劇を学ぼうと思いました。
 留学先をギリシャにしたのは、演劇の起源でもあるギリシャ劇に興味があったから。審査の時に、ギリシャ悲劇には日本の神道にも通じるものがある、といったことをアピールしたことを覚えています。審査に合格して、ギリシャに渡った頃はオリンピックも終わった後で、とても静かでした(笑)。米国からの留学生たちと同じドミトリー(宿泊施設)に入ることができて、英会話力も身に着きました。ギリシャから帰国してから、オーディションを受けにロサンゼルスに行くようになりました」。
■ハリウッドで俳優の仕事をするには?
 新作「ツイン・ピークス」ではリンチ監督から直接オファーがあったというが、どのような経緯で世界的に有名な監督から声がかかるようになったのか?
 「ハリウッドでは、映画俳優組合(スクリーン・アクターズ・ギルト/SAG)に加入していないと、オーディションが受けられないんです。組合員になるには、エキストラとして雇われた経験があればいいので、どうせエキストラで参加するなら、好きな監督の作品にしようと思って。そこでデヴィッド・リンチ監督にごあいさつすることもできました」。
 リンチ監督の作品との出合いは、カイル・マクラクランが主演した『デューン砂の惑星』(1984年)に遡る。
「中学生の時に映画館で観ました。当時の中学生が喜んで見るような作品ではなかったと思いますが、『スター・ウォーズ』よりもひかれるものがありました。ポスターもすてきだったし、カイル・マクラクランもマネキンのように美しい青年でした。『ブルーベルベット』(86年)のヒロイン、イザベラ・ロッセリーニにリンチ監督が顎クイしている写真を部屋に飾っていたこともありました。その頃2人が交際していたというバックグラウンドにも憧れていました。その後『ツイン・ピークス』(1990〜91年)にもハマりました。リンチ監督が撮る女性は皆、美しくて色っぽくて好きでした。まさか一緒に仕事する日が来るとはその頃は思ってもいませんでしたが…」。
 2006年にはクリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に“NAE”名義で出演し、以降海外の映画に進出。2006年にはリンチ監督の『インランド・エンパイア』でせりふのある東洋人のホームレスの役を与えられた。この時のことを覚えていたリンチ監督が「この役どう?」と勧めてきたのが、新作『ツイン・ピークス』の“目を縫い閉じられた女性”の役だった。
 「私自身は覚えてなかったんですが、渡米するずっと以前に友達に、もしハリウッドの監督と仕事するなら、クリント・イーストウッドとデヴィット・リンチ、クエンティン・タランティーノと仕事がしたいと言っていたことがあったらしくて、そのうち2つはかなったんだな、と思いました」。
■趣味は写真 女優の仕事と補完し合う
 趣味で撮り始めた写真でも才能を発揮し、個展を開くこともある。
ギリシャに行った頃から、撮るようになって、いつの間にかはまってしまいました。女優は観られるのが仕事。しかも、自分の好きなようにできるところがあまりない。せりふも決まっているし、髪型や衣装は用意されているし、監督のああして、こうして、という指示に従って。でも、写真は自分の好きなものを被写体にして、好きな角度から好きなように撮ることができる。いろいろ補完し合っているんです」。
 だから、女優の仕事もやめられない。
「自分で脚本を書くわけでもなく、演出がしたいわけでもない。私は作品を構成する素材の一つになれればいい。完全に受け身ですが、それが面白い。今度は、どんな役かな? 弱い女性の役が続いたと思ったら、次は殺人犯か。リンチ監督からオファー? “目を縫い閉じられた女性”っていったいどんな役? 求められることに応えていくだけ。今後もチャンスがあればオーディションを受け続けますし、日本から出演オファーがあれば帰ってきます。人生も後半、あまりギラギラせずに自分のペースでやっていきたいですね」。

https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1614610/
■女性自身『裕木奈江が日本の芸能界を離れることになった深刻な理由』2017/12/28
 女優の裕木奈江(47)が来年1月9日スタートのフジテレビ系ドラマ「FINAL CUT」で23年ぶりに民放連続ドラマ出演を果たす。
 各スポーツ紙によると、裕木が演じるのは亀梨演じる主人公の母親役。メディアによって死に追い込まれる難役だというが、デビュー時から裕木を知るテレビ局関係者からは「かつての自分と重なるような役なのに、よく受けたなという印象」との声も聞こえてくる。
 裕木は90年代前半に同局系連ドラ「北の国から92 巣立ち」「ウーマンドリーム」などに出演しブレーク。女優としてのみならず、90年にはデビューシングル「硝子のピノキオ」を発売し歌手としても活動してきた。
 さらにはニッポン放送の「オールナイトニッポン」でパーソナリティーをつとめるなど、たちまち売れっ子となった。だが93年にヒロイン役で出演した日本テレビ系の連ドラ「ポケベルが鳴らなくて」で大きく人生が狂ってしまった。
緒形拳さんが演じた妻子持ちの主人公と不倫するOL役を演じました。ところが、ドラマの中では不倫が原因で家庭が崩壊。すると世の女性たちの中でなぜか“裕木憎し”のムードが高まり、たちまち『女が嫌いな女』の代名詞のような存在になりました。メディアからも一斉攻撃を受けたこともあって結局、イメージは回復せず。徐々に仕事も減り、99年にヘアメイクアーティストとの結婚しました。それを機に、米ロサンゼルスへ移住。しかし09年1月に離婚したことを後に報告しています」(同前)
 その後はたまに帰国して細々と女優活動を続けていたが、米の大物映画監督デヴィッド・リンチ(71)の目にとまる。そして今年WOWOWで放送された人気ドラマシリーズの新作「ツイン・ピークス The Return」に出演し、アジア人で唯一リンチ監督から直接キャスティングされた。
 大作への出演を経て“凱旋”を果たした裕木の演技が注目されそうだ。

http://news.livedoor.com/article/detail/15116342/
裕木奈江、テレビから消えた真相は 不遇の時期乗り越え“国際女優”として活躍中(2018年8月5日)
 1日、女優の裕木奈江が自身のインスタグラムを更新。10月24日にデビュー30周年記念ライブを行うと報告した。長らく日本の芸能界から姿を消していた印象のある裕木だが、それには何か特別な理由があったのだろうか。
 裕木は1988年に公開された小原宏裕監督の映画『ソウル・ミュージック ラバーズ・オンリー』に出演して役者デビュー。92年に放送されたテレビドラマ『ウーマンドリーム』(フジテレビ系)では主演を務めただけでなく、挿入歌「泣いてないってば」も担当した。本格的な歌手活動もスタートさせ、深夜ラジオ番組『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)のパーソナリティを担当するなどアイドル並みの人気を博した。
 裕木にとって分岐点となったのは、1993年に放送されたテレビドラマ『ポケベルが鳴らなくて』(日本テレビ系)への出演だった。緒形拳演じる、妻子ある身のサラリーマンと、その娘の親友(裕木)が不倫に陥り、家庭を崩壊するストーリーで社会現象を巻き起こした。このドラマで裕木の熱演は確かな評価を得たが、同時に女性からは共感を得られない役どころを自然体で演じたことで、“ぶりっ子”“嫌いな女優No1”などと女性からバッシングを受けることに。その後、裕木はテレビの露出がみるみる減少していくことになった。
 実はこの現象の裏に、裕木と訴訟でもめたことのある大物プロデューサーの力が働いていたのではとも噂されている。このプロデューサーが裕木に男女の関係を求め、断られたことに腹を立てて女性誌やワイドショーなどにバッシングするよう働きかけたというものだ。
 真偽は定かではないが、そこから裕木は芸能活動の中心を映画や舞台に移すこととなり、テレビの世界から姿を消した。1999年に写真集『UNRELEASED FILMS』でオールヌードに挑戦。01年に公開された高橋伴明監督の映画『光の雨』で冷酷な新左翼幹部を熱演してイメージチェンジを図った。
 大きな転機は2004年9月から1年間、英語と演技を学ぶためギリシャに国費留学したことだった。演劇の起源であるギリシャ劇を学んだ経験は、比較的早い段階で功を奏した。06年4月にクリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に出演。その翌年にはデヴィット・リンチ監督の映画『インランド・エンパイア』、17年に同監督の海外ドラマ最新作『ツイン・ピークス The Return』にそれぞれ出演するなど、着実に海外女優としてのキャリアを積み重ねていった。また、同ドラマでアジア人としては唯一、デヴィット・リンチ監督から直接キャスティングされたことも話題となった。
 2000年以降、裕木は舞台や映画に出演するだけでなく、写真家・伊島薫氏の作品集『死体のある風景』(初版発行は06年5月)にモデルとして参加したり、趣味だった写真の個展を開いたり、ジュエリー製作や絵を描いたりと充実した日々を送っているようだ。また、私生活では1999年にヘアメイクアップアーティストと結婚してロサンゼルスに移住していたが、2009年に離婚。その後、裕木はヨーロッパなど海外を転々としながらマイペースに過ごしているようで、その様子をインスタグラムで報告し、ファンを喜ばせている。
 また昨年、裕木はテレビドラマ『FINAL CUT(ファイナルカット)』(フジテレビ系)に出演。23年ぶりに民放の連続ドラマに復帰して注目を集めた。2018年3月の毎日新聞の取材で裕木は、久々の撮影に「とても優しい雰囲気に変わっている気がしました。女性が活躍する場面が増え、男女関係なく働くようになったのがきっかけなのかなって感じました」と語り、かつての現場が厳しかったことを示唆した。
 10月の30周年記念ライブを控え、成熟した裕木の歌声を楽しみにしているファンも多いことだろう。とはいえ、演技力が評価されている女優なだけに、今後も日本のテレビドラマや映画で活躍する裕木の姿にも期待したいところだ。

https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12251-120252/
裕木奈江が30周年ライブ開催で「奇跡のアラフィフ戦線」に名乗り!?(2018年11月08日)
 女優の裕木奈江が芸能生活30周年を記念して、10月24、25日の2日間にわたり都内でライブ「裕木奈江 30周年記念ONE NIGHT LIVE with 吉川忠英 斎藤ネコ」を開催した。
「裕木がファンの前で歌声を披露するのは、実に13年ぶり。ライブ会場には彼女に会いに来た熱狂的なファンが集結。客席にはなんと、ミュージシャンの細野晴臣や作詞家の松本隆など大物アーティストの姿もありました」(音楽関係者)
 1994年にリリースされた7枚目のシングル「空気みたいに愛してる」では、作詞を松本氏、作曲を細野氏が手掛けたこともあり、その縁で今回のライブにも足を運んだものと思われる。裕木は、10月25日更新の自身のツイッターで「松本さんと細野さんの前で『青空晩歌』を歌う日が自分の人生に訪れたことに感謝します」と、レジェンド2人の来場に感激。「青空晩歌」も同コンビが手掛けており、松本氏も同日の自身のツイッターで「青空晩歌と空気みたいに愛してるが素晴らし過ぎて、瞬間に録音当時に戻り涙ぐんでしまった」と、収録当時に想いを馳せている。
「元々東京アクターズスタジオの第1期生出身の裕木奈江。演技もできるし歌も歌えます。1992年にはシングル『泣いてないってば』で本格的に歌手デビューを飾っていたんです」(前出・音楽関係者)
 しかし、なぜ13年もたった今になって突然ライブを行ったのか。業界筋はこう見る。
「今年1月期のドラマ『FINAL CUT』(フジテレビ系)で、亀梨和也演じる主人公の母親役として出演。再び多くのファンの前に姿を現しました。裕木といえば、2004年から海外進出を目指し留学。クリント・イーストウッド監督の映画『硫黄島からの手紙』に出演するなど実績を積んできました。しかしその一方で日本では引退状態でしたが、昨今日本では、石田ゆり子を始め“アラフィフ女優”がブレイク中*4。しかも同年代でハリウッド帰りの工藤夕貴も今クールの話題作『下町ロケット』(TBS系)に出演して話題となっている。裕木も日本での“本格復帰”を目指しているのかもしれませんね」(エンタメ誌ライター)
 今年、48歳。今回のライブは、“奇跡のアラフィフ”に名乗りを上げる狼煙というわけか!?

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181104-00060141-crankinn-musi
■芸能生活30周年・裕木奈江、13年ぶりのライブで涙(2018年11月14日)
 10月24、25日と二夜に渡り都内で、芸能生活30周年を記念したライブを開催し、13年ぶりにファンの前で歌声を披露した裕木奈江。久々の歌手活動だが、ステージが始まると彼女の持つ独特な世界観が一気に広がり、会場を優しい雰囲気で包み込んだ。そんな彼女にステージを終えた感想と芸能生活30年間の話を聞いた。
 今回のライブには、吉川忠英(ギター)、斎藤ネコ(バイオリン)、井上鑑(ピアノ)とこれ以上ないぐらい贅沢なミュージシャンが参加。さらに客席には松本隆細野晴臣といったレジェンドや関係者が多数集まり、ファンとともに30周年を祝った。アンコール曲「見上げてごらん夜の星を」を歌い終えると、あふれ出る涙をとめることができなかった。
「照明がついて明るくなると、昔からのファンの皆さんの笑顔が見えて、あー、すごいうれしいなって」。
 休憩も含め約2時間半。シングル「泣いてないってば」「拗ねてごめん」「この空が味方なら」「冬の東京」「空気みたいに愛してる」ほか、「青空挽歌」、「月夜のドルフィン」など全15曲を披露。目を閉じても、ステージからラブレターのように届く歌声を聞いただけで「裕木奈江だ」とわかる儚げなボーカルは、昔から変わらない。
 88年にスクリーンデビューを果たした裕木は、90年代に入り映画やドラマ、CMなどで大ブレイク。あれからはや30年、「よくわからないキャリアになってきたな、と」と笑うが、それだけ果敢にいろいろなことにチャレンジしてきた。
 山田洋次*5澤井信一郎*6高橋伴明*7ら名だたる監督たちの映画作品に出演した20代後半は「(観客として)見ていただけの人たちが、『裕木』って名指しでオファーしてくださるわけで全部やりたかった。無我夢中でしたね」と話す。04年に文化庁の新進芸術家海外留学制度で1年間、ギリシャで演劇を学んだことをきっかけに、米・ロサンゼルスを拠点に活動し国際派女優に。昨年はデヴィッド・リンチ監督の海外ドラマ『ツイン・ピークス The Return』にアジア人でただ一人、リンチ監督から直接キャティングされた。
 女優としてのイメージが強いが、デビュー当時は音楽系事務所に所属。
「実は最初、歌手にならないかとお誘いを受けたんです。私の声が軽くて面白い声をしているから、ポップな歌を歌ってみたらいいんじゃないかと。私はお芝居にすごく興味があったのですが、両方とも勉強になるからということでボイストレーニングも受けるようになって」と歌手活動のきっかけを明かす。
 90年2月に「硝子のピノキオ」でCDデビュー。以後シングルを全9枚、アルバムはベスト盤含め7枚をリリースしている。
「プロデューサーの酒井政利さんに誘われ、いきなり筒美京平さんの曲や、松本隆さん、秋元康さん作詞の曲だったりを歌わせていただいて。そうそうたる方々の楽曲に恵まれ、すごく幸運でした」とその幸せを噛みしめる。
 今回のライブにも多数のレジェンドが駆け付けたが、なぜ彼女はデビュー間もない頃から、普通は仕事を一緒にしたくてもなかなか叶わない超一流の人々に好かれたのだろうか。
「デビューがちょうどバブル期で、私みたいな田舎っぽい子がいなかったんですね。“3M”と呼ばれた牧瀬里穂さんや宮沢りえさん、観月ありささん*8とか、みんなデビューのときから洗練されていて…」と振り返る。「そんななか私は、地方から出てきて東京に慣れてないけど『がんばってます』っていうイメージで、そのシェアがすごく高かったのだと思います」と自己分析するが、裕木でなければならない圧倒的な理由がいくつもあったはずだ。
 久しぶりのライブを終え、「長く愛してくださっている皆さんの愛が、ありがたいです」と感謝する裕木。30周年の一区切りを「大きな円をひとつ、描き切った感じなんです」と表現しながらも「このあとは気楽にいきたいですね」と楽しそうに語る。より自由に女優としてアーティストとして、彼女が描き始めるだろう次の新しい円が楽しみでならない。

*1:つうか当然いるでしょうが。

*2:フジテレビドラマ『ウーマンドリーム』(1992年)のこと

*3:1993年の日本テレビドラマ

*4:そういえば工藤夕貴石田ゆり子も最近ではあまり見ない気がしますね。

*5:映画『学校』(1993年)のこと

*6:映画『日本一短い「母」への手紙』(1995年)のこと

*7:映画『光の雨』(2001年)のこと

*8:ウィキペディアによれば裕木が1970年生まれ、牧瀬が1971年生まれ、宮沢が1973年生まれ、観月が1976年生まれです。