「珍右翼が巣くう会」に突っ込む(12/23分:高世仁の巻)&北朝鮮最新ニュースその他色々(追記・訂正あり)

高世仁は今後ブログをどこでやるのか?(2019年1/28記述)
 さて2019年1月28日ではてなダイアリーの更新が不可能となりました。
 そこで小生も「一番手っ取り早い移行先」としてはてなブログに移行したわけですが、気になるのは「はてなダイアリーをやっていた高世仁id:takase22)てどこに移行するんだろうなあ。それともブログはしないの?」ですね。
 最後の高世記事
■一所懸命に生きたら幸福になれるはず?
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20190127
では最後に(つづく)と書いてあります(高世はこの(つづく)を愛用しています。(つづく)と書きながら、続かないこともよくありますが)。
 で(つづく)と書いた以上「普通に考えれば」どこかでブログを続けるんでしょうね。ただそれが「どこなのか」は2018年1月28日現在、高世の「はてなダイアリー」にも「ツイッター」にも書いてないのでわかりません。はっきり言ってブログ読者に不親切ですよね。それともまさかとは思いますが、高世って「はてなダイアリーの中止」をまだ知らないんでしょうか?
【2019年2/2記載】
 高世は俺同様にはてなブログhttps://takase.hatenablog.jp/)に移行していました。もちろん今後も高世批判は続けます。


■一所懸命に生きたら幸福になれるはず?
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20190127
【最初に追記】
 ちなみにこの高世記事についてid:Bill_McCrearyさんはhttps://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/37bbe06713201f3b01240554390650b4のコメント欄で

 そもそも高世のブログなんかでする話じゃないですよね(苦笑)。昔ながらの加藤諦三*1が自著で語るような話じゃないですか(笑)。正直彼はジャーナリストなんだから、こんな話ブログの読者だって興味ないし、政治活動家としたって落第です。高世も相当迷走しているように思いますね。

とコメントしています。うーん、確かに「加藤諦三」みたいではある(苦笑)。高世もどんな思惑でこんな記事を書いてるんですかね。
「俺は21世紀の加藤諦三になる!。それで金儲けする!」つうことなのか。はたまた変な宗教にはまってるのか?
【追記終わり】

 「一所懸命に生きたら幸福になれる」。
 これに「べき」や「はず」をつけて、「幸福になれるべき」「幸福になれるはず」、私たちはこう思いがちだ。これに似た、「努力すれば必ず夢はかなう」(べき、はず)というのはかなりひんぱんに耳にする。いったいどうなのか。
 かっこいいフレーズではあるが、ちょっと考えれば、これらが非合理的な思い込みであることはすぐわかる。まず大原則として、世界は「私」を中心に回っているわけではなく、世の中は自分の思いどおりにはならない。これは大人になればわきまえるべき道理である。また、主観的にがんばっていると思っていても、やり方が不適切だったら、当然よい結果は生まない。さらに、世の中を見回せば、一所懸命に生きても幸福になれない人、必死に努力しても夢が叶わない人がたくさんいる。結論として、どこから見ても非合理的な思い込みなのである。
 「べき」「はず」「必ず」となると、絶対失敗できない、失敗したら人生おしまい、と自分を追い詰めることになり、結果、落ち込んでしまう。さらに、真面目な人ほど、「こんなに一所懸命生きているのに幸せになれないなんて、世の中間違ってる」となり、「うつ」や怒りにつながって、人生にとって役に立たない。
 あの大学に必ず合格するはず、絶対に金メダルを取るべき、というのではなく、精一杯努力してあの大学に合格したいものだ、合格できるといいなあ、と考える。もし失敗しても、残念だったが、これで人生お終いじゃないと思う。
 さらに、失敗したのは、やり方が適切でなかったかもしれないと反省して、より適切な方法を試していく。こうした前向きの努力によって、必ず成功すると保証できないが、成功する確率は増えるだろう。

「べき」「はず」「必ず」となると、絶対失敗できない、失敗したら人生おしまい、と自分を追い詰めることになり、結果、落ち込んでしまう。

の典型例が「ドラマであって事実ではないですが」金八先生第一シリーズ(1979年)で「東大受験に失敗して自殺した登場人物」ですね。約40年前のドラマなんで、牟田悌三氏は故人だし(2009年死去)、杉田かおる鶴見辰吾もいい年をしたおじさんおばさんです。つうか今気づいたんですが「1977年に拉致されためぐみさん(当時、中学1年生)」、「1979年に中学3年生を演じた杉田や鶴見(実年齢も中学三年生)」ってほぼ同い年なんですね。

【参考】

http://homepage-nifty.com/kinpachi/part1/0121.htm
■第1シリーズ 21話 「受験戦争に消えた命」
■あらすじ
 東大の合格発表。不合格となった浅井雪乃の兄・洋一(田鍋友啓)が陸橋から電車に飛び込み自殺する。浅井家には事件を聞きつけたマスコミが押し寄せ、池内商店に身を寄せる雪乃(杉田かおる)のことも嗅ぎつける。金八(武田鉄矢)らの気遣いにも関わらず、記者の口から兄の自殺を聞かされた雪乃は、歩を連れて実家に戻ることを決意する。
 教室に戻った金八は、事件のことを正直に報告する。同時に「合格に漏れた者もみな先生のところに帰ってきてくれてありがとう」と生徒に感謝し、「実社会に出たら辛いこともあるだろうが、その時はどうかこの日のことを思い出してくれ」「死んじゃいかん」と涙ながらに訴える。生徒たちは保(鶴見辰吾)と雪乃をみんなで守ろうと誓うのである。
 洋一の死により生きがいをなくした父・正太(牟田悌三)、そんな正太を責める母・秋子(野中マリ子)だったが、雪乃と歩が浅井家に戻ると、少しずつ笑顔が戻るのだった。
■みどころ談義
● 雪乃のお兄ちゃんが…。
○ 悲しいねぇ。東大なら一浪、二浪しても許容範囲だと思うんだけれど、失敗は決して許されないと錯覚してしまったんだろうね。そのために家でも王様然としていたワケだし。
● 金八先生の「東大に入ることだけが目標だったのだろう」という言葉が頭に残ります。
○ 洋一が自殺した後の浅井家で、雪乃の母親が歩をいとおしそうに抱くシーンがあるよね。ここでも背後に受験の跡が見えていい効果を出している。「克己」だとか「東大合格」だとか決意の張り紙があって。
● キツイ見せ方してくれますよねぇ。受験に対して意気込んでいた跡がまだ残る部屋を、父親が暴れてメチャクチャにする。
○ もう何もかもお終いだ、という状況を見せておいて、そのタイミングで雪乃が歩を連れて戻ってくると。
● こうでもしないと雪乃は浅井家に戻れなかったのか、という気もちょっとしますね。
○ もう一つ印象に残ったのが金八の説教シーン。
● 「死ぬな」ということを言うんですが、死なないで戻ってきてくれて「ありがとう」というところから入っていくのがスゴイと思いました。
○ 説教なんだけれど、完全に生徒たちと同じ高さまで降りて話してるんだよね。「入試の日は先生も恐かったし、発表の日はもっと恐かった」と。
● 同じ目線の「いい兄貴分」でいてくれた金八先生
○ 「先生泣いたりしてみっともなかったけど、このみっともない教師の顔を、何度でも思い出してください。」
● 僕、そこで泣きました。
○ 金八は常に生徒と同列にいた。ということは、この言葉の中の「先生」や「教師」という部分を、生徒一人一人が「自分」と置き換えることもできるんだよね。巣立ちゆく生徒に対してのはなむけの言葉でもあったような気がする。
○ ラストで金八と保が、交差点で別方向に歩いていったでしょ。もうすぐ卒業式なんだなぁと寂しくなるシーンだったね。
● 最後に気になったことを一ついいですか。流れを無視するようで申し訳ないんですが、金八先生、お通夜でも火葬場でも喪服を着ずにいつもの服装で通していたんですよ。
○ 金八は貧乏なんだってば!

【参考終わり】

 まあそれはともかく、今更高世にどや顔されなくても「努力しても報われるとは限らない」なんてことは誰でもよーく分かっています。特に「大学受験や野球のプロ入り」のような「競争相手が居る場合」がわかりやすいですが、競争相手だって努力してるわけですから。自分だけが努力してるわけじゃない。
 「努力すれば報われる」のなら、巨人の條辺がうどん屋をやったり、西武のGG佐藤が親の会社に就職したりはしないでしょう。現役を引退した、今の彼らが不幸だなんてそんな失礼なことは言いません。何も野球人生だけが人生じゃない。
 彼らが彼らなりに現役引退後、「与えられた条件の中で幸せをつかんでる」、そう思います。
 しかし、可能ならば彼らだって長く現役生活を続けた落合博満などの様に「もっと現役生活が続けたかった」でしょう。そして、現役引退後もコーチや野球評論家などの形で野球に関わっていきたかったでしょう。最初からうどん屋や親の会社に就職したいなら、野球選手なんかにならない。
 しかし、「長く現役を続けること」「現役引退後、野球に関わる仕事(コーチ、野球評論家など)をすること」も彼らには現実として無理だったわけです。
 「努力すれば報われるべき」「こんなに一所懸命生きているのに幸せになれないなんて、世の中間違ってる」というのはあくまでも

「差別は良くない」
「努力しても報われない理由が黒人差別、女性差別の様な社会構造なら是正されるべき」
「えん罪なのに再審請求を何度もしてるのに釈放されないなんておかしい」
「真面目に働いてるのにワーキングプア生活保護受給なんておかしい、なんでそんな低賃金なんだ」

などの話、つまり社会構造の話です。「努力したって才能がない」とか「努力してるけど努力の方向が間違ってる」とかそういう場合の話はしてない。
 キング牧師とかマンデラ(黒人解放運動)とか、市川房枝(女性解放運動)とか、「帝銀事件の平沢死刑囚、名張毒葡萄酒事件の奥西死刑囚(いずれも再審無罪判決が出ず獄中で病死)」とか「極端な貧富の格差はおかしい」とかそういう話です。

読売ジャイアンツにいきたいと思って頑張ってるんだから、僕は巨人にいけるはずだ
紅白歌合戦に出られる様な人気歌手になりたいと思って(以下略)
・東大に行きたいと思って(以下略)
財務省に入省したいと思って(以下略)
・医師や弁護士になりたい、そのために国家資格試験に合格したいと思って(以下略)

などという話をする奴は普通いない。才能がなければ、あるいは努力の方向性が間違ってれば、努力してもどうにもならない。
 いや「こんなに頑張ってるのに何で願いが叶わないんだ」とぼやく奴はいても、それはぼやきでしかありません。
 「才能があるのに不当な差別をされている」「真面目に働いてるのに低賃金で生活保護を受けてる」「無実なのに死刑判決が出た」つうケースでもない限り誰も「あいつは一生懸命頑張ってるんだから希望が叶って幸福になるはずだ。なれない社会がおかしい」なんて話を「真面目にする奴はいない」。
 しかし、この高世の文章には「高世って本当にでたらめな野郎だなあ、前から分かってたけど」と吹き出しました。
 なぜなら高世は過去に「現実と希望は違う。つらくても現実は直視すべきだ」というこの記事での主張とは全く違うこと、矛盾することを書いていたからです。
 id:Bill_McCrearyさん記事『これじゃあ「ジャーナリスト」でなくて「反北朝鮮活動家」だ』https://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/37bbe06713201f3b01240554390650b4がそんな高世を批判しているので紹介しておきましょう。

https://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/37bbe06713201f3b01240554390650b4
 さて、読者の皆さまはこのような記述についてどうお考えですかね?

(前略)
 拉致問題については、一つ確認しておきたいことがある。
 それは、「拉致被害者は生きている」ということである。
 「生きていることを前提に」のスローガンについては、一般にも誤解があると思う。「亡くなっている事実を認めたくない家族の心情」として、お気持ちは分かりますけど・・・というふうに理解している人がけっこういるようだ。
 北朝鮮のいう「全員死亡」を受入れているらしい日本の影響力ある人たちもいる。
 田原総一郎氏が、有本恵子さんら未帰還の拉致被害者について「外務省も生きていないことは分かっている」と発言して騒ぎになったことがあった。
 この発言は3年前の「朝生」でなされ、有本さんの両親が計1千万円の慰謝料を求めて田原氏を訴えたのだった。去年11月4日に判決が出た。「発言には合理的根拠がない」とし田原氏に対して有本さんの両親に計100万円を支払うよう命じるものだった。
 「生きている」は、家族の心情ではなく、事実なのである。
 北朝鮮側が「8人」についての死亡証明を全くできていないのはすでに知られている。日本政府の追及で、「死亡証明書」が「捏造」であることを北朝鮮も認めている。
 なにより、帰国した拉致被害者たちがはっきり語っているのである。
 去年12月、金正日が死亡したときに出したコメントから;
蓮池薫さん(新潟県柏崎市):
「日本政府が今後の情勢を慎重に分析・判断して、まずは残されている拉致被害者の皆さんの安全が保障されるように最善を尽くしてくれるよう切に願っております」
地村保志さん富貴恵さん夫妻(福井県小浜市):
「私ども帰国した拉致被害者が一番心配しているのは、未だ帰国が果たされていない拉致被害者の安全・安否です。国に対しては正確な情報の収集と帰国していない拉致被害者全員が無事帰国出来るよう、全力で取り組んでもらうよう強く希望します」
曽我ひとみさん(新潟県佐渡市):
「新しい体制に代わるこのチャンスを生かし、拉致された被害者全員の救出に尽力してくれることを望みます」
 彼らはみな、未だ北朝鮮に残ったままの仲間たちにいつも思いをはせているのだ。
 「生きている」証拠として、これ以上、確かなことがあろうか。
(つづく)

 執筆者は高世仁という人です。北朝鮮関係の本を書いています。
 で、これはちょっとどうしようもない文章としか言いようがありませんね。

 拉致問題については、一つ確認しておきたいことがある。
 それは、「拉致被害者は生きている」ということである。

 だからぜんぜん何の証拠もないでしょう、拉致被害者北朝鮮で生きているっていう。
 巣食う会などの政治活動家とか拉致被害者家族がこのような発言をするのはある意味仕方ないでしょう。政治活動家はそう発言していなければ立場がないし(彼らが「生きていない」と発言するときは、拉致問題が反北朝鮮ネタとしての利用価値がなくなったと見限った時でしょう)、家族たちもこれまたそのような発言をせざるを得ない。仮に「もう亡くなっている」と考えていたとしても(たぶん私は、そのように考えていると思っています)、「生きている」と発言をし続けることになるでしょう。
 でも、高世って人はジャーナリストですよねえ。ジャーナリストがこのような根拠薄弱なことを言うのはどうかと思うけど。

 「発言には合理的根拠がない」とし田原氏に対して有本さんの両親に計100万円を支払うよう命じるものだった。

 いや、だからこの裁判は別に北朝鮮での拉致被害者の生存を保証したり担保したりするものではないでしょう。ただ、田原側が番組でそのような発言をしたことが妥当かどうかが問題なだけで。

 彼らはみな、未だ北朝鮮に残ったままの仲間たちにいつも思いをはせているのだ。
「生きている」証拠として、これ以上、確かなことがあろうか。 

 あんた馬鹿か。どこが

 「生きている」証拠として、これ以上、確かなことがあろうか。

だよ。文学じゃないんだから、いいかげんにしろよ。
 これってジャーナリストの記事じゃありませんね。政治運動家のものです。
 高世も、たぶん「そう主張することに意味がある」と考えているから、このような記事を書いているのでしょう。あてにならん男です。

 高世に■一所懸命に生きたら幸福になれるはず?
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20190127での「希望と現実は違うんだ!。現実を直視しよう!」とid:Bill_McCrearyさんが批判する高世記事での「無根拠な拉致被害者生存説」との整合性を問いただしたらどう答えてくれるのやら。「拉致被害者生存説には根拠がある」と詭弁炸裂でしょうか? 
 また高世が■一所懸命に生きたら幸福になれるはず?
http://d.hatena.ne.jp/takase22/20190127で「努力したからって成功するとは限らない。方法論が間違ってる努力ならいくら努力しても無意味」「努力すれば成功するつうのは自分の努力が質も量も必要十分だつう、自分勝手な思い込み(俺の要約)」つうなら、それこそ横田奥さんら家族会に

・あんた方家族会は努力してるのに報われない、小泉訪朝から16年たっても動きがない、拉致が風化してるって言いますけど、努力の方向性が間違ってたら報われなくても自業自得でしょう。
蓮池透氏を家族会から除名する様な、田中均氏を外務省退官に追い込む様な方向性が正しいと本気で思ってるんですか?
・努力ならあんたらとは違う方向性だけど、あんたらが敵視する田中均氏や蓮池透さんだって彼らが信じるやり方で拉致解決の努力をしてるんですよ!

とガツンと言ってやるべきでしょう。
 何で高世が「努力が報われるとは限らない。間違った努力なら無意味だ」といいだしたのか意味不明ですがそれはさておき。まあ、高世も俺みたいな「ならそういうことを横田奥さんに言えよ。あんたの努力は間違ってますよ。だから小泉訪朝から16年たっても拉致に進展がないんですよ、と」「間違った努力をするくらいなら、訪朝してもっと孫娘やひ孫娘と会いなさいよ、と。」という突っ込みを予想してないんですかね。 
 まあ高世の本心は常識で考えて「希望と現実は別物だ。努力しても報われるとは限らない。報われなくても『努力したこと』には意味があると思う。そして第一希望がかなわなくても新しい希望を、第二希望を見つければいいじゃないか」でしょうが、「横田奥さん相手」には「あなたが生きてると信じるなら私もめぐみさんが生きてると信じます」になってしまうわけです。つまり「カネのために横田奥さんにこびてる」のでしょう。「高世って本当に馬鹿でくずだな」と改めて思います。
 むしろ「めぐみさんが生きてるという根拠のない希望は捨てて、孫娘やひ孫娘と会うという新しい希望で残り少ない人生を生きなさいよ、あんたもう82歳でしょ。あと何年生きるつもりよ?」と俺なんかは横田奥さんに言いたいですね。まあ言ったて、あの奥さんは逆ギレするだけでしょうけど。


村木厚子さん「プロセスをオープンに」、の続き
http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20181211に書いた文が書ききれなくなってきたのでここに追記で書いておきます。主として斎藤隆介ネタ(「花さき山」その他)と名探偵コナンネタです。
 しかし最近の子どもて斎藤隆介って知ってるのかが少し気になります。
【追記その1】
 「花さき山」について「村木氏などのように感動童話とは言いたくない」と言う批判意見が見つかり小生も同感なので紹介しておきます。まあ「貧乏を我慢すること」をあまり美談とは言いたくないですよね。

■『花さき山』のアマゾンレビュー
・気の滅入るお話
 テレビドラマ『おしん』の子供時代の原型のようなお話です*2
 貧しい家庭に生まれ、幼い兄弟のために犠牲になる女の子は、この後、どんな人生を送ることになるのか?。望まない結婚を強いられるのか?。それとも、家族を助けるために奉公に出るか、売られていくのか?。いろいろと想像して辛くなりました。
 現代を生きる子どもたちに夢や希望を与えるお話ではありません。
 高齢の方の評価が高いようですが、ひたすら犠牲を説く古臭い道徳観は今の時代にそぐわないと思います。

https://www.ehonnavi.net/ehon00_opinion_single.asp?no=604&rno=156650
 この本は、とても有名ですね。
 でも今まで読む機会がなく読んでいませんでした。
 読んでみての私の感想としては、少々後味が悪い感じがしました。
 その優しさやせつなさや思いやりの内容が私にはどうも納得いきませんでした。
 我慢や自己犠牲が美徳とされきた古い時代には、この内容は非常に感動的かもしれませんが、なんとなく今風ではないなという印象をうけました。
 また、最後やまんばにあったことなどを大人に話した時、それを誰にも信じてもらえなかったという結末もなんとなくさびしく感じました。

http://kazeandsoraand.blog.fc2.com/blog-entry-251.html
■『花さき山』感想
(作:斎藤隆介、絵:滝平二郎岩崎書店、1969年)
 10歳のあやが自分よりも妹のことを優先する。にもかかわらず周囲の大人たちは誰も気づかない。声をかけない。子どもの気持ちに寄り添うこともない。みんな生活のことでいっぱいだ。本書は基本的には「いい話」ではなく「悲しい話」だ。
 自給自足に近い形の古い農村。生活は決して楽ではありません。あやという10才の女の子がいました。山菜を取りに山奥へ入っていき、道に迷ってしまったところ、やまんばと出会います。あたり一面に咲く美しい花。この花がなぜこんなに美しいのか。やまんばは教えてくれました。この花は、ふもとの村の人間がやさしいことをすると、咲く花だといいます。あやの足元の小さいその花は、あやが昨日、咲かせた花です。あやは、昨日、家が貧乏だったので自分は我慢して、妹に祭り服を与えるように言いました。妹は喜び、母は助かった。この時、赤い花が咲いたのです。つらいのをしんぼうして、自分よりも人のことを思って。そうするとここに美しい花が咲く。
 家に帰ったあやはその話を周囲にするのですが、誰も信じてくれません。再び、山にはいるのですが、やまんばにも会わず、花さき山もありませんでした。しかしあやは、やさしいことをするたびに、「あっ!、いま、花さき山で、おらの 花が 咲いてるな」と思うのでした。さて。この話は、「いい話」なのでしょうか「悲しい話」なのでしょうか。
 ごんたろうは、とても悲しい話だと思うのです。
 10歳の女の子が自分よりも妹を優先させようとしたのは、とてもよいと思う。しかし通常であれば、親や周囲の大人が、褒めてあげるべきでしょう。
 「えらいねえ」「すごいねえ」「やさしい子だねえ」
 何でもいい。まずは周囲が言葉に変えて、それをその子に与えるべきです。評価や褒め言葉は目的ではありません。褒めてもらわなくても、認めてもらわなくても、それは人間の理想として、やるべきことだと思います。しかし、人間のコミュニケーションが成立するということは、そういう言葉が自然と出てくるのだと思います。
 そう思えば、この絵本で描かれている周囲の大人は、子どもの心に無関心というか、無頓着というか、気にしていないのです。貧乏だからといってしまえばそれまでですが、それはちょっと寂しい。また、あやが山での出来事を語ったときも、現実的な回答のみ。父母たちに悪気はないのですが、空想の世界を楽しむという余裕はありません。あるいは子どもに合わせてあげるというような、ゆったりとした気持ちもありません。毎日食べていくのにやっと、ということでしょう。生活が苦しければそれは仕方ないことなのかもしれませんが、やはりちょっと寂しい。

https://ameblo.jp/educa-zidoubungaku/entry-12301760890.html
・今春、教科書検定を通った道徳教科書で、児童文学は、どのように扱われているのでしょうか?
・今回は、4年生の複数の教科書で扱われている『花さき山』(斎藤隆介作)を考えてみたいと思います。
・『花さき山』は、絵本でも有名な作品です。ファンの方もたくさんおられると思います。
 ここで検討したいのは、文学作品が、「道徳科」の徳目のために扱われることについてです。
 『花さき山』の作品評価でないことは、ご了解下さい。
・『花さき山』を掲載している教科書で道徳科を学ぶ子ども達は、「美しいものや気高いもの」として、「人のことを思って我慢すること」の大切さを学ぶことになります。
・一体だれが、「美しいものや気高いもの」=「人のことを思って我慢すること」などということを決めたのでしょうか。
 『花さき山』では、主人公の妹が、「みんなのように祭の赤いべべ買ってけれ」と足をドテバタして泣いて、おっかあを困らせます。それを見た主人公(姉)は「おっかあ、おらはいらねえから、そよ(妹の名)さ買ってやれ。」と言い、辛抱する場面が描かれています。
 確かに、この少女の置かれていた家庭環境では、姉が我慢するしかなかったのかもしれません。
 しかし、いつでもどこでも「我慢」ではいけません。
 私は、対比的な作品として『龍の子太郎』(松谷みよこ*3作)を思い出します。
(主人公・太郎の母親は、太郎を身ごもって体調を崩していた時、ついついイワナを三匹食べてしまい、「三匹のイワナを一人で食べた者は龍になる」という貧しい村の言い伝えを破ってしまったために、龍にさせられる。)
 やっとのことで、龍になった母を探しだした太郎が、母親が龍になった理由を知った場面です。
 掟を破って龍にさせられたことを止むを得ないことだと考え、自分を責め続けて生きてきた母龍に、太郎は激しく反発し、こんなふうに主張します。
 そんなことってあるか!
 おかあさんは ぐあいが わるかったんじゃないか。
 ぐあいが わるいとき、すきな さかなを 三びき たべたばっかりに、人間でいられなくなるなんて、そんな、そんなこと、うそっぱちだ。
さらに、
 おらが いいたいのは、もし そのとき、いわなが百ぴき あったら、ってことなんだ。うんまい、米のにぎりめしが 百あったら、ってことなんだ。
 そうです。それだけあったら、みんな はらいっぱい たべて、だれが よけい くった、などといわなくてもすむでしょう。いわな三びき たべたからといって、じぶんは 人間でないと、じぶんを せめずにもすむでしょう。
 ここでは、「イワナを三匹食べる」ことさえ許されていなかった貧しさに対し、その現状を豊かな村を作ることで変えていきたい、という、主人公の強い想いが描かれています。
 『花さき山』の「貧しさを我慢する少女」と、『龍の子太郎』の「貧しさを豊かさに変えていこうとする少年*4」とを、単純に比べてはならないのですが、少なくとも、ここで紹介した太郎の心にも、実に美しく、爽やかなものがあります。   
 私は、理不尽さに我慢するのでなく、その現状を何とか変えていこうとする(ボーガス注:マンデラやプンワンのような?)生き方に「美しさ」を感じます。
(しかし、個心的な感じ方を他者に強制する「道徳科」のような態度を、私は拒否します。)
 勿論、「我慢」の必要な時もありますが、それは、その時の状況に拠るのではないでしょうか。

https://ameblo.jp/educa-zidoubungaku/entry-12413604193.html
 私は、斎藤隆介氏の作品が好きです。
 『八郎』『三コ』『ベロ出しちょんま』『天の笛』。若い頃読み、感動しました。
 しかし、残念ながらこの『花さき山』には、斎藤隆介氏の他の作品にはない違和感を感じてしまいます。
 一つは、その結末にあります。
 斎藤隆介氏の他の作品には、主人公が命を落とすものが多い事は事実です。
 しかし、「八郎」や「三コ」の死は、その結果、貧しい百姓たちに豊かな土地をもたらします。
 (ボーガス注:『天の笛』では)太陽のかけらをついばんで焼け死んだ「ひばり」のお陰で、地上に春がもたらされ、寒さで死にかけていた鳥たちが救われます。
 では、『花さき山』の結末は、どうでしょう。
 結末を読むと、「花さき山」は、結局は「あや」の心の中の風景でしかなかったのだ、と多くの読み手は思うでしょう。
 あやが、妹のため、母親のために辛抱した切なさは、結局「あや」の心の中で癒されるしかないのです。
 その健気さは誰からも評価されず、「あや」は自分の心の中の「花さき山に咲く花」に癒され、また我慢を続けていくことになるのでしょう。
 「あや」は、それを良しとして受け入れてしまっていいのでしょうか。
 「あや」を愛しいと感じるだけに、余計に「本当に、それで良いのか?」と声を掛けてあげたくなります。
 作者は、この作品の構成を通して、なぜ「貧しさ」に立ち向かおうとしなかったのでしょうか?
 『花さき山』は、読み手の子ども達に、「貧しさ」という社会の矛盾を目を広げるのではなく、全てを「気持ち」の問題にすり替えてしまう危険性を孕んでいるように思えます。
 こうした結末を肯定することで、子ども達は「何事も気の持ちよう」という方向に誘導されないでしょうか。
 「貧しさ」は、気の持ちようで何とかなる問題ではありません。
 社会の構造から生じる問題を、「気の持ちよう」で終わらせていることに、私は大きな疑問を感じてしまうのです。

【追記その1終わり】


【追記その2】
 小生的には斎藤隆介というと『花さき山』より『ベロ出しチョンマ』『ソメコとオニ』*5ですね(つうかこの高世の記事を読むまで、『花さき山』は知りません)。小生は「深刻な話が嫌い」なので『花さき山』や『ベロ出しチョンマ』より『ソメコとオニ』なんかの方が好きです。
 で小生的に面白い「斎藤隆介」関係の文章をいくつか見つけたので紹介しておきます。
 なお、斎藤のメイン業績は児童文学ですが、『職人衆昔ばなし』(1979年、文春文庫)というルポルタージュ作品もあるようです。

http://www.iiclo.or.jp/100books/1946/htm/frame049.htm
■ベロ出しチョンマ
斎藤隆介:作 理論社 1967年)
日本教職員組合の機関紙『教育新聞』に連載された短編から28編を選んでまとめた童話集で、民話風創作の代表作である。
・プロローグとエピローグに1編ずつを配し、残りの26編を、「大きな大きな話」「小さな小さな話」「空に書いた童話」の三部に分類している。初出の発表媒体や「父母におくる童話集」という副題、「はじめに」の斎藤隆介(1917〜1985)のことばから考えて、(ボーガス注:子どもだけではなく)教員や一般のおとなも読者に想定していたと考えられる。1968年に第17回小学館文学賞を受賞した。
 「べロ出しチョンマ」は「大きな大きな話」の中の一つ。父親が年貢軽減を幕府に願い出た罰として、一家全員が磔になる。12歳の長松は3歳のウメを怖がらせまいとして、自分の眉を八の字に下げ、舌を出して笑わせようとし、そのまま、槍で突かれて死ぬ。八郎潟の巨人伝説に材を取った「八郎」も「大きな大きな話」の一つで、大男の八郎が海に身を投げて、大波から田を守るという筋である。
・民話絵本ブーム、斎藤隆介ブームを生む。
・「モチモチの木」は「小さな小さな話」の中の一つ。夜中に一人で便所にも行けない豆太だったが、腰痛をおこした爺さまの為に、怖さをこらえて医者を呼びに走る。その勇気と優しさに応えるように、家の前の大きな木に不思議な灯がともる。
・「天の笛」が1971年度の小学校4年、6年国語教科書に掲載されたのを皮切りに、今日まで「緑の馬」「ソメコとオニ」「八郎」「ベロ出しチョンマ」「花咲き山」「モチモチの木」が教科書に載ってきた経緯がある。とくに「モチモチの木」は1977年度から2004年度まで途切れることなく、複数の教科書会社が3年生用教材として採用を続けている。
・献身、自己犠牲といった表現で言い表されることが多い本童話集のテーマについては、発表当初から(ボーガス注:封建的、反動的だなどの?)賛否両論が起こり、むしろ(ボーガス注:自己犠牲や献身といったテーマが出てこない)「寒い母」や「トキ」の方に、斎藤の良質な部分を見ようとする考え方も出た。いずれにしろ、戦後の児童文学、絵本史上に無視できない功績を残した。

https://blogs.yahoo.co.jp/sime49f/25679777.html
■トキ
斎藤隆介のおはなしです。
 むかし東北のほうに、ちょっとぶさいくで(ぶさいくという、言葉はあんまり好かんな〜)えっとー「美人ではない」と言っときましょう(笑)
・美人ではないトキは、無口でとても働き者でした。美人ではないという程度ではなく、幼い頃の病気が原因で、あばただらけの顔でした。会話も苦手だと、結婚とも無縁だったのよ、悲しいことに。月日は流れ、トキはすっかりおばあさんになりました。
 髪の毛はまっ白で、あばただらけの顔も、ながねん野良で汗を流して働いてきたせいか、病気もせず顔色がよいので、ほんのりとピンクに染まり「まるでトキ(鳥)のようだ」と、人に言われるようになりました、というオチだったような。その誠実な人柄が、人に好かれ、トキおばあさんの家は、若い人たちのお客さんが多かったんだって。
 こう書いてしまうと、なんか面白味のない話になるなー。本の紹介はむずかしい。
・うさぎは、好きなおはなしでした。それは「美人でない」という設定に、共感を覚えたのもあると思うのよ(笑)
 きょうは美人にこだわってしまった。別に美人に、うらみがあるわけじゃないけど(たとえば男を取られたとか)マスコミなんかの、美人に有利な報道姿勢。う〜〜む。トリノオリンピックやなんかも。

https://ameblo.jp/aozorahyakkei/entry-10002013852.html
■『ちょうちん屋のままッ子』斎藤隆介
・児童文学です。秋田の提灯屋の息子・長吉が、江戸で最初は庭師の親方に奉公し、次いで料理屋の下働きになります。弱虫でおっとりの長吉は、秋田時代は継母に怒鳴られ父に説教され、ガキ大将にいじめられる。江戸へ出てからは慣れぬ土地でホームシックになったりもしますが、庭師の親方や板前や、色んな大人達の姿に触れて少しずつたくましくなっていきます。
という、少年の成長物語、なのですが。
 時代設定が凄まじい。幕末も幕末、慶応から明治に変わる、まさにそのとき、の話です。
 おれの生まれた年に黒船が来たんだ、いつかきっと外国に行く、と憧れる少年。徳川方を挑発するために江戸で騒ぎを起こそうとする薩摩藩士達。長吉の日常と並行して、大政奉還鳥羽伏見の戦いなど、所謂歴史上の事件も語られるのですが、読み返してみて驚きました。子供向けだからって特に噛み砕いて説明もしてないんですよね。小学生の私、よく読んでたなあ。たぶん半分も判ってなかったな。判ってなくても読めちゃうんですよね、子供は主人公に共感さえできれば。
 で、いま大人の目で読み直してみると、長吉の父や庭師の伝兵エ、板前の新さんの仕事ぶりが、幕末維新の時勢と対比されているのが明らかです。というと単純な庶民礼賛かと思われそうですが、そうではありません。
 物語の終盤、長吉が奉公する料理屋に、勝海舟*6が顔を出します。彼の庶民的なところが好きな新さんですが、薩長軍が攻めてきたら江戸の町を焼くのも覚悟の上と聞けば、やはり武士と町人の差を感じずにはいられない……というだけではないのですね。新さんは長吉に、「勝の殿様」の話を色々と聞かせます。貧乏な家に生まれたけれど、苦労して勉強して、航海術も覚えてメリケンまで行って来なすったんだぞ、おまえも勉強しろよ、と。
 これ、児童文学だとは思わないほうがむしろいいかも。普通の幕末小説として読めます。主人公が少年なので、地の文が彼の年齢に見合った語彙になっているというだけで。

https://ameblo.jp/aozorahyakkei/entry-10001414234.html
■『ベロ出しチョンマ』 斎藤隆介
 この前、斎藤隆介の『ちょうちん屋のままッ子』を、童話だけれども普通の幕末小説として読める、と言いましたが。
 考えてみたら何もこれに限らず、そういうのが結構多い作家なんですよね、この人って。
 この短編集は、実に色んなタイプの作品が入ってます。「八郎」や「カッパの笛」は創作民話ふう。
 タイトルにもなってる「ベロ出しチョンマ」は、領主の悪政を江戸へ直訴した名主の一家が死刑になるという、ハード極まりない題材なんですが、それでも手触りというのか、読むときに受ける感じは童話そのもの。「ソメコとオニ」は、これはもう大笑いするしかないギャグ短編。
 というふうに、テーマやタッチは全然違っても、まぎれもなく童話、という話がもちろん多いのですが。
 内容も文体も、これは明らかに童話じゃないのが「寒い母」。女手一つで7人の息子を育てた寡婦が、川を渡って隣村まで逢引をしに出かける。そうと知った息子達が川に飛び石を置いてやる。
 ね、凄いでしょう。「情事」とか「母も女だったのだ」とかいう言葉が出てくるんですよ、これは童話集だっていうのに(出版社が気にしなかったっていうのが凄いなあ)。
 しかしこれよりも凄い、と個人的に思ってるものがありまして。
 「浪兵衛」。
 抜け荷で捕えられた回船問屋の主人は、5年前にやはり抜け荷の罪で打ち首の刑に処せられた男に瓜二つ。死者が蘇ったかと恐れる奉行は、用心して首と体を一つ穴に埋めず、別々に獄門にかけたのですが、はたして翌朝、死体は消え失せていて*7
 大きな活字で、挿絵もついてるから童話に見えますが。字の級数を下げて、絵なしで読んだら、とてもそうは思えないですよ。漢字の多さも、文体も、構成も。時代物ショートショートちょっぴり怖い系。
 前に、フジテレビの今はなき時代劇枠で「怪談百物語」というのをやってて面白かったんですが、あんな感じでドラマ化することだってできそうだなあ。短い分だけ、ふくらまし甲斐がありそう。

https://blogs.yahoo.co.jp/sime49f/25317167.html
■寒い母
・むかしあるところに寡婦になった女の人がいました。7人の男の子を、懸命に育て。
・毎晩、母が出かけては「寒い寒い」と、ぶるぶる震えて言うのです。ふしぎに思った子どもたちは、ある晩母親のあとをこっそりつけてみました。冬の夜中、川を渡り(橋がないので、着物を頭の上にのせて。かなり広い川をざぶざぶ渡り)ある家に入りました。外からうかがっていると、どうも恋人に「背中をかいて」もらっているようです。
 それを知った子どもたちは、何をしたと思いますか?
 母が夜明け前に、また川を渡ろうとしたら。なんと「母が渡りやすい間隔で」飛び石が七つ、置いてありました。びっくりした母は「神様、この親切に感謝します。どなたかわかりませんが、この恩になにかむくいたいけれど、わたしは貧乏で何も出来ません。どうか神様、このかたにお礼をしてあげてください」と祈ります。
 そしてそ知らぬ顔をして、家に帰りました。子どもたちも何も言いませんでした。母はそれからも、毎晩出かけました。
 それから何十年もたち。母も、その子どもたちも皆亡くなりました。7人の子どもは今、天の上で「北斗七星」になっているそうですよ。

http://www.hico.jp/sakuhinn/6ha/bero.htm
 「ソメコとオニ」は誘拐されたソメコが初めて一緒に遊んでくれる相手をみつけたので、オニにママゴトやカクレンボ等をせがむ。オニは身の代金を取ってやろうと思っていたが、ソメコと遊んでいるうちに楽しくなって、いつのまにかソメコのペースにはまり、とうとう「はやくソメコを連れもどしにきてくれ」と手紙を書く。この作品は、何度読んでもぷっとふき出してしまう。

https://ameblo.jp/midorinomadokara/entry-12125134108.html
斎藤隆介 / 滝平二郎 『ソメコとオニ』
 元気をもてあまし、遊んでほしくてほしくてたまらないソメコと、ソメコを誘拐しちゃったオニの話。
 オニは最初、ソメコのオトゥに身代金(馬に積んだ金一俵)を要求するつもりでしたが、休む間もなくソメコの相手をさせられて、馬に積んだ金一俵をやるから、ソメコを迎えにきてくれと頼みます(笑)

http://www.ondoku.sakura.ne.jp/esseitegami2.html
・わたしたち教師は国語授業で文学作品をどう読み解き、児童たちに与えていけばよいか、児童文学作家たちは教師や児童達に作品をどう読んでほしいと思っているか、児童文学作家たちは、自分の作品についてどう思っているのか、作家への手紙(感想文)には、どんな内容を書いてほしいと願っているのか、などについて参考になる記事が書いてある文章を目にしました。
・出典は、すべて日本児童文学別冊「児童文学読本」(すばる書房盛光堂、1975・1)によります。やや古い資料ですが、わたしにはたいへんに参考になりましたので、以下に紹介します。
斎藤隆介氏のご見解
 内村恭平君、ぼくの短編集「ベロ出しチョンマ」を読んでくれたそうで、どうもありがとう。
 君は、作者というものに手紙を書いたのは初めてだそうで、それが良いことか、悪いことかって聞いているけど、ぼくは良いことだって思う。
 作者は、君たち少年少女がこう読んでくれてるんだなあってわかって、次のものを書く時の勉強になるからさ。
 ぼくは、今まで作者に手紙を書いたことがないんだ。まず、勇気がなかったんだ。
 それから、「作者に説明を聞いたってしようがないや、作者が言いたいことはその童話にみんな書いてある。みんな書けないような作者の説明なんか聞いたってしようがないや」
 こう思っちゃったんだね。
 ちょっとなまいきだね。だけどね、自分ひとりで二度、三度読んでくと、だんだんわかってくることもあるんだ。そのときはうれしかったぜ。
 ニ度も三度も読むきのしないような本は、「たいした本じゃないや」って別の本を読むことにしてたんだ。
 でも、君は勇気があって、作者に手紙を書いて質問してくれたんだから答えます。
 表紙に、「父母へおくる童話集」って書いてあるのは、ぼくは、自分の童話をおとなにも読んでもらいたいからなんだ。
 おとなはね、だんだん年をとるとね、世の中に負けてしまうことがあるんだ。汚れたり、負けちまいそうなおとなが、ぼくの童話を読んで元気になってほしい、と思ったんだよ。
 「お子様用」に書いたおはなし、なんて、ニセ物だ、ってぼくは思うんだ。「お子様ランチ」なんて、みみっちくてうまかあないやね。子どもだって、おとなとおんなじおすしや、ちゃんとしたチャーハンを食べたいやね。
 題にした「ベロ出しチョンマ」の主人公、長松の住んでいた花和村という村は、いくら千葉県の地図を見てもありません。まつった木本神社というものもありません。そういう名の人形も売っていませんから、送ってあげられませんよ。お金は返します。
 あれは、ぼくが作った話だからです。
 (略)
 ないことが、まるであったように思えたら、ほんとにあったことよりももっとほんとなんじゃないかしら。
 あれは、ぼくが四年まえに千葉へ越してきた時、みんなのためにハリツケになって殺された佐倉宗五郎とその子どものことを考えて作ったんだ。
 佐倉宗五郎も、架空の人物である、なんて研究を発表している学者もあるんだよ。それでも宗五郎は、今でも「宗五様」って呼ばれて、物語になったり芝居になったりしてみんなの胸にほんとの人よりほんとに生きてる。
 なぜそうだろうか、君も考えてくれないか。
 あの短編集の最初にのっている「八郎」は、なぜ読みにくい秋田弁で書いたのか、って質問だけど、ぼくは、秋田弁っていうのは詩みたいに美しいことばだなあ、って思ったからだ。
 ぼくは学校を出ておとなになるまで東京で育ったんだけど、東京は「ふるさと」って感じがしないんだよ。
 東京でも下町は少し違うけど、ぼくの育った山の手なんて、子どもは「よい子」、お母さんは「オホホホ」の「ざあます奥様」で、ぼくはそんな暮らしがうそっぱちに思えて、いやでいやで仕方がなかったんだ。それで秋田へ行って十一年も暮らしてしまったんだ。秋田はよかったぜえ。
 日本全体にわかってもらえる共通語もひつようだけど、その土地土地のことばや、その中にあるほんとの暮らしの感じをもっと大切にしなくちゃいけないと思うんだ。
 一緒に読んだ伊藤君がね、「八郎の髪の中に住んだ小鳥が、ピチピチ、チイチイ、チュクチュク、カッコーって鳴いた所がおもしろい」って言って、その鳴きまねをしておもしろがってるのを、君は「ダメだ」って言ってるけど、そうかしら。
 君の言う通り、「八郎が村人のために高波を防いで八郎潟に沈んだことが大切だ」っていうのは確かにほんとうだ。
 だけどね、ただそれだけじゃ「お修身」だぜ。小鳥の鳴き声が美しいと思い、その小鳥を髪の中に住まわせてやって朝もソーッと起きる八郎をやさしい大男だなあ、と感じ、その八郎がみんなのために死ぬからグッとくるんだよ。
 「お修身」や「道徳」でなく、美しさや喜びを感じて、魂の底からほんとうにみんなのために働いたり、たたかったりできるようになるのが、ぼくはほんとだと思うんだ。
 小鳥の鳴きまねをしている伊藤君にも、どうかよろしく言ってくれたまえ。

【追記その2終わり】


【追記その3:村木さんの名探偵コナンネタほか】

https://twitter.com/y_seniorwriters/status/1027844710591750144
■読売新聞編集委員
 村木厚子さんが自身の事件や人生について語った本「日本型組織の病を考える」(角川新書、税別840円)が、10日に発売されました。今年1月24日〜3月5日に読売新聞朝刊に掲載された〈時代の証言者〜「冤罪のち次官」 村木厚子〉を大幅に加筆・再構成し、新たなインタビュー内容を加えたものです。

https://twitter.com/y_seniorwriters/status/958482710795874304
■読売新聞編集委員
 村木厚子さんが検察の主張を覆す書類を発見できたのはなぜなのか。村木さんによると、人気漫画「名探偵コナン」で学んだ「探偵の心得」が役立ったそうです。詳しくは朝刊連載「時代の証言者」の6回目で。

ミスターK@arapanman
 FDの証明書作成日時の矛盾を見つけたのは村木さん自身だったのか!!!。『名探偵コナン』の大ファンの村木さんは、コナンから「証拠は思い込み排して新鮮な目で見ること、ヒントは身近なところにあること」という探偵の心得を学んでいたと。何に救われるかわからないね!

 もちろん冗談でしょうが、ああいう目に遭ったことを自虐ネタに出来るというのはちょっと想像を絶してますね。精神が図太いというか何というか。
 「村木厚子、探偵だ!」「真実は常に一つ!」とか言ってたんでしょうか。
【追記その3終わり】


【追記その4】

■私は屈しない〜特捜検察と戦った女性官僚と家族の465日(ウィキペディア参照)
・TBS系列で、2011年1月31日の21:00〜22:54(JST)に、月曜ゴールデン枠で放送されたテレビドラマ。江川紹子*8がまとめた村木厚子の手記を原案とした。
■概要
 厚生労働省の局長・中井章子は、かつて所属していた部署で起きた証明書不正発給事件に、国会議員の働きかけを受けて上司として関与した疑いを掛けられる。任意で事情聴取を受けるはずが、出頭した大阪地方検察庁特別捜査部でそのまま逮捕状を執行され、大阪拘置所へ収監されてしまう。保釈請求に抗告し、言ってもいないことを調書に書き、容疑を認めたことにしようとする特捜部検事との対決。同じ省で審議官*9を務める夫、2人の娘、そして弁護士の支援を受け、保釈された章子が裁判で無罪を勝ち取るまでの465日を描く。
 なお、後日発覚した検事の証拠改竄事件は本作では描かれない。
■キャスト
・中井章子:田中美佐子(モデルは村木厚子
・中井浩一:金田明夫(章子の夫)
・中井菜月:市川由衣*10(中井夫妻の長女)
・中井実沙:大後寿々花*11(中井夫妻の次女)
・山岸弘:益岡徹(章子の担当弁護士、モデルは弘中惇一郎
・泉谷:六角精児(大阪地検特捜部主任検事、モデルは後に証拠改ざんで懲戒免職された前田恒彦
・山里秋人:山崎銀之丞(逮捕起訴され有罪判決が下った厚生労働省係長)
・青山忠雄:品川徹(「信の会」会長、モデルは凛の会会長)

 いや、悪いけど、村木さん(1955年生まれ)に田中美佐子(1959年生まれ)ってイメージはないぞ。美人女優使いすぎやろ(まあ「美人女優使いすぎ」は村木さんの娘役もそうですけど)。
 あえていえば

柴田理恵(1959年生まれ)
室井滋(1958年生まれ)
もたいまさこ(1952年生まれ)

といったイメージ。いや別に「柴田さんたちが不細工」とか一言も言ってませんのでご容赦を。
 「そんなに美人女優イメージない」てことですね。

*1:1938年生まれ。早稲田大学名誉教授。ニッポン放送テレフォン人生相談」パーソナリティー。個人サイト(http://www.katotaizo.com/)著書『自分を嫌うな』(1984年、三笠書房知的生きかた文庫)、『愛されなかった時どう生きるか:甘えと劣等感の心理学』、『自分にやさしく生きる心理学』(以上、1992年、PHP文庫)、『「やさしさ」と「冷たさ」の心理』(1993年、PHP文庫)、『「甘え」の心理』、『人生の悲劇は「よい子」に始まる』(以上、1994年、PHP文庫)、『偽りの愛・真実の愛』、『「自分づくり」の法則』(以上、1995年、PHP文庫)、『「自分」に執着しない生き方』(1996年、PHP文庫)、『行動してみることで人生は開ける』(1999年、PHP文庫) 、『生きていくのが上手な人下手な人』(2000年、カッパ・ブックス) 、『人生の重荷をプラスにする人、マイナスにする人』(2003年、PHP文庫)、『気が軽くなる生き方』(2004年、三笠書房知的生きかた文庫)、『「あなたを傷つける人」の心理』(2005年、PHP文庫)、『言いたいことが言えない人:「恥ずかしがり屋」の深層心理』 (2006年、PHP新書)、『心の休ませ方』(2006年、PHP文庫)、『だれにでも「いい顔」をしてしまう人:嫌われたくない症候群』(2007年、PHP新書)、『不安のしずめ方』 (2007年、PHP文庫)、『「うつ」になりやすい人』(2008年、PHP新書)、『「大人になりきれない人」の心理』(2008年、PHP文庫)、『どうしても「許せない」人 』(2008年、ベスト新書)、『苦しくても意味のある人生』(2009年、だいわ文庫)、『大学で何を学ぶか 』(2009年、ベスト新書)、『だれとも打ち解けられない人』(2010年、PHP新書)、『たくましい人』(2011年、PHP文庫)、『感情を出したほうが好かれる』、『自分を許す心理学』(以上、2011年、三笠書房知的生きかた文庫)、『いつも「自分」だけ責める人』(2012年、角川oneテーマ21)、『心の整理学』(2012年、PHP文庫)、『50歳からちょっと心を休ませる本』(2013年、朝日文庫)、『「怒れない人」の心理』(2013年、PHP文庫)、『がんばっているのに愛されない人:ナルシシズムと依存心の心理学』(2014年、PHP新書)、『自分をいちばん幸せにする生き方』(2014年、三笠書房知的生きかた文庫) 、『モラル・ハラスメントの心理』(2015年、だいわ文庫)、『悩まずにはいられない人』(2015年、PHP新書)、『自立と依存の心理』(2015年、PHP文庫)、『心の資産を高める生き方』、『自分の人生を生きられないという病』(以上、2015年、ベスト新書)、『無理しない練習』(2015年、三笠書房知的生きかた文庫)、『親が与えている愛 子どもが求めている愛』(2016年、青春文庫)、『なぜか子どもが心を閉ざす親 開く親』、『話が通じない人の心理』、『「めんどくさい人」の心理』(以上、2017年、青春文庫)、『「うまくいく夫婦、ダメになる夫婦」の心理』(2017年、PHP文庫)、『怒ることで優位に立ちたがる人』(2018年、青春新書インテリジェンス)、『「いい人」をやめたほうが好かれる』(2018年、三笠書房知的生きかた文庫)、『なぜ、あなたばかりつらい目にあうのか?』(2019年、朝日新書)など

*2:なお、「『花さき山』の貧乏な少女は、まるでチベット解放前の農奴制社会のようですね。イヤー解放後、チベット鉄道が出来たりして、豊かになって本当に良かったですね」といったらMukkeやI濱女史は怒るんだろうなと思います。

*3:1926〜2015年。1960年に発表した『龍の子太郎』で講談社児童文学作品賞(1960年)、産経児童出版文化賞(1961年)、国際アンデルセン賞優良賞(1962年)を受賞。1964年、『ちいさいモモちゃん』で野間児童文芸賞NHK児童文学奨励賞を受賞。1974年、『モモちゃんとアカネちゃん』で赤い鳥文学賞受賞。1979年に『私のアンネ=フランク』で日本児童文学者協会賞受賞。

*4:まるで「貧乏なチベット」に失望して「チベット解放に協力した」プンワンのような少年ですね!。今チベットはダライ統治時代とは違って非常に豊かになりました。

*5:子どもの頃読んだ記憶があります

*6:江戸幕府において軍艦奉行、陸軍総裁など歴任。明治新政府において外務大丞、兵部大丞、海軍大輔、海軍卿、参議、元老院議官、枢密顧問官など歴任

*7:本当に超常現象で生き返ってしまうのか、誰かが「生き返った超常現象が発生したかのように偽装している(死体が秘密裏に移動されたに過ぎず、うり二つであるのも生き返ったのではなくもちろん別人)」のかが気になるところです。通常なら後者ですが、ホラー小説なら前者も「あり」ですからねえ。いずれにせよ、あまり「童話的ではない設定」です。

*8:著書『私たちも不登校だった』(2001年、文春新書)、『人を助ける仕事』(2004年、小学館文庫)、『父と娘の肖像』(2006年、小学館文庫)、『勇気ってなんだろう』(2009年、岩波ジュニア新書)、『名張毒ブドウ酒殺人事件』(2011年、岩波現代文庫)など

*9:なお局長の方が審議官より上です。「直属の部下ではないとは言え」妻が上司の立場てのはどんなもんなんでしょうか。

*10:市川さんは1986年生まれなのでドラマ時点での実年齢は25歳ですね。まあ、逮捕当時、成人した長女さんが実際にいるんでしょう。

*11:大後さんは1993年生まれなのでドラマ時点での実年齢は18歳ですね。まあ、逮捕当時、高校生or大学生だった次女さんが実際にいるんでしょう。