共産党の「北朝鮮拉致問題追及」のすばらしさをしんぶん赤旗で学ぼう

今日も増元照明氏に突っ込む(7/21分)
http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20110721/5643210987
でも少しだけ紹介したが。我が支持政党・日本共産党へ、北朝鮮問題で不当な中傷をする増元のような珍右翼への簡単な反論である。しかし兵本達吉は本当にふざけてるな。過去の多くの裏切り者の「反共さん」同様、今じゃミニコミはともかく、大手マスコミ(産経のような極右系を含む)は全く相手にしてくれない落ちぶれようだが。「根拠レスの真偽の怪しい話」「あることないこと」を言ったら当然そうなるわな。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-06-16/26_01.html
北朝鮮問題
日本共産党は道理ある解決へこんな役割を果たしてきました、より一部引用


■橋本質問が初めて、政府も国会答弁で確認
 山口那津男*1議員(公明)「国会の場で、言わば拉致に関する容疑というものが初めて指摘をされ、警察庁としてこの容疑の存在を認めたというのは一体いつごろになるんでしょうか」
 谷垣禎一(注:小泉内閣国家公安委員長*2 「(八〇年三月に公明党の議員が質問したが)まだ当時はこれが北朝鮮の拉致に関するものであるかどうかということについてはご答弁ができない状況で、まだそういうご答弁はしておりません。その後、八年ほどたちまして……(橋本敦議員が質問した八八年の)三月二十六日の参議院予算委員会では、福井、新潟、鹿児島の各県下のアベック拉致容疑事案とそれから辛光洙事件ですね、これについてご質疑がありまして、それに対して、警察庁としてこれが北朝鮮による拉致の疑いがあるという答弁、そういう答弁ができたのはこのときが最初でございます」(二〇〇二年十一月五日、参議院内閣委員会)

■国際的な無法行為を公然と批判してきた、日本共産党が先駆的に
 八〇年代になると、北朝鮮は無法行為をエスカレートさせます。もっとも激しい形で最初に現れたのが、八三年十月、ビルマの首都ラングーンで、訪問中の全斗煥韓国大統領の一行をねらった爆弾テロ事件でした。
 翌八四年には、日本海の公海上で操業していた日本のイカ釣り漁船が北朝鮮警備艇の銃撃を受け、船長は死亡、漁船は拿捕(だほ)される、という事件が起きました。これも北朝鮮が公海上に「軍事境界線」なるものを勝手に線引きし、漁船がその線を越えたら、侵犯だといって銃撃を加えるという、国際法を無視した不法行為でした。
 さらに、八七年十一月には、韓国の大韓航空機が北朝鮮工作員によってビルマ上空で爆破され乗員・乗客百十五人全員が死亡するという、悲惨な無差別テロ事件を引き起こしました。
 これらの無法行為にたいし、日本共産党が公然とその不法性を批判すると、北朝鮮側は、たとえばビルマの爆弾テロ事件では、朝鮮総連傘下の日本語新聞「朝鮮時報」が「謀略に同調する行為」だとして非難を加え、日本漁船銃撃事件では、朝鮮労働党機関紙「労働新聞」が「内政干渉」だなどと日本共産党を中傷し、攻撃しました。
 日本共産党はこれらの攻撃にも「赤旗」紙上に論文を発表し、無法なテロ行為を正当化する北朝鮮側の主張を全面的に論破し、批判しました。

自民党社会党北朝鮮の「窓口」に、拉致問題を取り上げず
 北朝鮮の国際的な無法行為が広がり始めたとき、これを正面から批判する政党は日本共産党以外には、残念ながらありませんでした。政界で北朝鮮問題といえば、国交のない北朝鮮とのいわゆる「窓口外交」が盛んで、自民党社会党が「窓口」になって北朝鮮側の意向を聞いてくるやりとりに終始していました。
 八四年の日本漁船への銃撃事件でも、事件の二カ月後に社会党の石橋委員長が北朝鮮を訪問しましたが、金日成から「あのような時は逃げなければ撃たない」といわれたことを“大成果”のように宣伝しただけでした。
 九〇年九月に、自民、社会の両党はそれぞれ訪朝団を派遣し、朝鮮労働党との間で国交樹立をうたった三党共同宣言に調印しましたが、拉致問題をとりあげることはありませんでした。
 当時、金丸訪朝団に随行した野中広務*3は、八八年の日本共産党の橋本議員の質問と梶山国家公安委員長の答弁を引用しつつ、著書でこう反省の弁を語っています。「私はといえば、この時点における北朝鮮に対する見方は、まだ非常に甘かったといえる。この金丸訪朝団における交渉では、拉致の問題はまったく取りあげられていない。……行方不明者は北朝鮮の拉致によるものではないかという指摘は、政府内でもあったのである。この問題に早期に触れることができなかったのは、残念である」(『老兵は死なず』(文春文庫))

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-09-17/00_01.html
■フジテレビ12日夜放映「完全再現!北朝鮮拉致“25年目の真実”」
「ノンフィクションドラマ」をうたった番組は日本共産党にかんする事実をどう偽ったか、より一部引用
 フジテレビが九月十二日夜放映した「金曜エンタテイメント・完全再現!北朝鮮拉致“25年目の真実”」は、十四日付本紙「視聴者を欺く『ノンフィクションドラマ』の虚構」で指摘したように、北朝鮮による日本人拉致問題をめぐる日本共産党にかんする事実を歪曲(わいきょく)し、兵本達吉・元日本共産党国会議員秘書の言い分だけをとりあげて、“共産党拉致問題にとりくんだ兵本氏を不当に除名した”かのように虚偽の放送をおこなったものです。同番組をみた視聴者から「共産党はなぜ兵本氏を除名したのか」という問い合わせも寄せられていますので、同番組の何が虚偽で歪曲かをあらためて検証しておきましょう。
(中略)
 事情を知らずに見た人は、だれでも、拉致問題の国会質問のために一生懸命調査活動に奔走した正義の兵本氏を日本共産党が非情にも除名したとうけとるでしょう。

■兵本氏の除名の真相は
 では、兵本氏の除名の真相は何か。橋本議員の質問は一九八八年三月、兵本氏の除名は十年後の九八年八月です。兵本氏は、九八年三月で定年を迎えていましたが、自分でも「九七年から九八年にかけて私は全国を駆け回り、拉致疑惑の解明のために全力を尽くした」(『文芸春秋』二〇〇二年十二月号)と語っているように、八八年の橋本質問以後も、国会議員秘書の一人として拉致疑惑の解明に継続的にとりくんでいました。その活動を党が妨害したことなど一度もありません。
 そればかりか、橋本議員と国会議員団事務局は、彼の半年間の定年延長を党本部に要請し、党本部もそれを了承したのです。「拉致問題」は除名とはまったく無関係です。
 問題は、この定年延長の間の九八年五月十八日、兵本氏が、赤坂の料理屋で警察庁警備公安警察官と会食し、彼の退職後の就職の斡旋について面接を受け、自分の採用を事実上依頼する対応をしたことです。
(中略)
 警備公安警察は、日本共産党対策を中心任務とする秘密政治警察の核心であり、日本共産党公安調査庁とともにその廃止を要求しています。こういう警察官の「面接」を受け、就職斡旋を依頼するなどということは、党員と両立することではありません。しかも、兵本氏は、党からの指摘を受けながら、自己の行為を正当化し反省することをしませんでした。
 一九九八年八月二十日、日本共産党中央委員会統制委員会は、党規約にもとづき、重大な規律違反行為として、除名処分を決定し、兵本氏に通知しました。
(中略)
 兵本氏が警備公安警察官に就職斡旋を依頼したがゆえに除名されたことは、本人もくりかえし認めた動かしがたい事実であり、「拉致問題」で除名されたかのように描く「再現ドラマ」はまったくの虚構です。
(中略)
 日本共産党は、日本政府に初めて北朝鮮拉致疑惑を認めさせた橋本質問のあとも、事態の解明をすすめない警察にきぜんとした捜査を求めた諌山博参院議員の質問(九〇年六月、参院地方行政委員会)、横田めぐみさん事件をとりあげた橋本議員の質問(九七年六月、参院法務委員会)、拉致をめぐる日朝交渉の現状をただした木島日出夫衆院議員の質問(九八年三月、衆院法務委員会)などを繰り返しおこなってきています。兵本氏も九八年に除名されるまでは、橋本議員の秘書として拉致疑惑解明の一端をになっていたのです。
 日本共産党は、兵本氏が除名された後も、九九年には不破委員長が二度にわたって、拉致問題など日朝間の諸懸案の解決のためにも、日朝両国政府間の正式交渉ルートを開くべきだと代表質問で提案しました。この提案は、二〇〇〇年四月からの日朝国交正常化交渉の再開、北朝鮮が初めて拉致の被害を認めた一年前の日朝首脳会談へとつながったのです。
 このように兵本氏が拉致問題に一人で取り組んだかのように描き、日本共産党はそれを妨害しているだけのように描くことは、真実をまったく歪曲するものです。
■虚偽放送で公党の名誉を傷つけることは民主主義の破壊
 今回のフジテレビの「ノンフィクションドラマ」は、日本共産党が兵本氏を拉致問題の解明にとりくんだから除名したなどという、明白な虚偽を公共の電波を使って全国に放映したことになります。拉致問題の解明と道理ある解決のために早くから努力してきた日本共産党の名誉がこれによって著しく毀損(きそん)されたことはいうまでもありません。被害の回復の困難なメディアを手段として相手の名誉を毀損することがまかりとおれば、民主主義はなりたちません。
 しかも、兵本氏が雑誌などで、みずからの除名問題で事実をいつわった日本共産党攻撃を繰り返し、その都度日本共産党が機関紙上で公然と反論してきていることは天下周知の事実です。その問題を取り上げるにあたって、フジテレビ側が、日本共産党と橋本氏にはいっさい取材や問い合わせをおこなわず、一方的な言い分だけを公共の電波を使って放送したのですから、その行為は二重に悪質です。
 公党である日本共産党の名誉を事実の歪曲によって毀損したフジテレビの責任は厳しく問われなければなりません。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik2/2003-02-20/03_02.html
公明党・拉致実行容疑者の辛光洙釈放要望
“知らなかった”ではすまない
 署名の1年前に橋本議員追及、88年3月26日参院予算委 2公明議員が出席、より一部引用
 昨年十月、公明党北朝鮮による拉致問題で党略的な日本共産党攻撃をおこなってきたのにたいし、本紙は、「『反省』すべきは公明党ではないのか」という根拠の一つとして、韓国に潜入を企て逮捕された日本人拉致実行容疑者の辛光洙シン・グァンス)とその共犯者の金吉旭らの「釈放」をもとめる要望書に、公明党の六人の国会議員(衆院議員三人*4参院議員三人*5)が署名していることを指摘しました(昨年十月二十七日付)。その後も、十一月二十三日付特集では、六人の署名の写真を付けて報道。「これこそ、拉致問題解決の妨害」と批判してきました。
 公明党はこの指摘に四カ月近くも沈黙していましたが、最近になって“知らないで署名した”といい始めました。「当時は辛が日本人拉致の実行者だとは分かっていなかった」「今から14年前の話であり……辛が拉致実行者であると知っての釈放要望でない」(公明新聞二月十六日付)といっています。
 しかし、辛光洙と共犯者をふくむ「政治犯」二十九人の釈放要望書が来日する韓国の盧泰愚大統領あてに提出されたのは、八九年七月。それより一年も前に、国会の参議院予算委員会日本共産党の橋本敦議員が辛光洙事件をとりあげていました。この参院予算委員会には、公明党から署名した六人のうち猪熊重二、和田教美の二人の国会議員が出席していたことになっています(八八年三月二十六日、参院予算委員会会議録)。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-11-17/08_0401.html
■「拉致調査妨害」など事実無根
 ――日本共産党国会議員団はこの問題にどう取り組んだか
参議院議員 橋本敦、より一部引用
 『文藝春秋』十二月号は、「不破共産党議長を査問せよ」と題する兵本達吉氏の一文を掲載しました。これにたいし、日本共産党はただちに反論の掲載を要求し、橋本敦前参議院議員が執筆した反論を、同誌編集部に届けましたが、同誌はその掲載を拒否しました。橋本氏の原稿全文を本紙に掲載します。


 『文藝春秋』二〇〇二年十二月号に「不破共産党議長を査問せよ」などという一文が掲載された。「日本共産党こそ拉致調査を妨害した元凶である」と言うのが、その内容のすべてであり、ウソと中傷に満ちたものである。その筆者が、私の参議院議員時代の秘書だったものであるだけに、彼をよく知るものの一人として、また日本共産党国会議員団のなかにあって、拉致問題究明にいささか力を尽くしてきたものの一人として、真実を明らかにすることは、私の責任でもあるだろう。
一、一九八八年三月、参院予算委で一連の事件を正面から取り上げて追及
 一九七七年から一九七八年に新潟*6・福井*7・鹿児島*8の海岸から、若い男女が失踪(しっそう)したのか、連れ去られたのか、突如、行方が判らなくなるという、人命にかかわる重大かつ異様な事件が発生した。それは、現在、北朝鮮による拉致事件であることが明白になった一九七七年十一月の横田めぐみさん、一九七八年七月の蓮池薫さんと奥土祐木子さん、同じ七月の地村保志さんと浜本富貴恵さん、同年六月の田口八重子さん、同年八月の市川修一さんと増元るみ子さんらの事件であった。今日ではこのほか、曽我ひとみさんと母ミヨシさんの事件をはじめ、十五名のみなさんを拉致被害者と政府は認定している。
 これらの事件は、事件発生当時には社会の関心を集める重大事件とはなっていなかったが、家族の不安と心痛は筆舌に尽くし難いものであったことは言うまでもない。
 国民の基本的人権を守る弁護士として活動してきた私は、参議院議員になってからも幸い法務委員会に属し、国民の人権の擁護や犯罪による社会的不正をなくす課題に取り組んでいた。
 そうしたなかで、一連の拉致疑惑事件が重大な社会問題となってきたのは、一九八〇年代に入ってからのことであった。一九八七年に起きた大韓航空機爆破事件では、わが党はこれを北朝鮮による無法なテロ行為であると厳しく批判したが、その事件の直接の犯人とされた金賢姫が、日本名の旅券を保持していた上、同人の教育係であった李恩恵田口八重子さん)が北朝鮮工作員によって日本から拉致されたという衝撃的な事実を告白した。
 この事件の解明が社会的に重大な関心を呼ぶことになり、一九七七・七八年の一連の若い男女の蒸発事件の究明も新たに大きな課題となってきたのである。
 私が質問でも紹介しているところだが、一九八八年二月九日には、読売新聞が「日本の浜を無法の場にするな」という社説で、「『李恩恵』という人物についての真相解明を急ぐべきであり、北朝鮮側によるら致が事実とあれば、わが国は北朝鮮に対し、原状の回復を求め、同時に、その責任の所在を明確にするための適切な措置をとることが必要である」と述べ、また、同じ日の朝日新聞も「事実とすれば、日本の主権にかかわるきわめて重大な事件である。…日本の警察が北朝鮮にら致されたのではないかとみている三組の男女についても、疑惑は大きく膨らんでいる」と書いた。
 また、一九八八年二月上旬に発売された雑誌論文でも、「拉致事件をスクープした記者の記録」によって、富山での一九七八年の拉致未遂事件をはじめ、福井・新潟・鹿児島での男女蒸発事件の具体的状況が克明に報道されるに至った。
 このような状況のなかで、私は、いよいよ一連の事件をまとめて重大な政治課題として国会で取り上げる必要を痛感した。
 それは第一に、速やかな真相究明により解決すべき国民の人命と基本的人権にかかわる重大な問題であること、第二に、相手がいかなる国であれそれが外国の政府関係機関による犯行であれば、わが国に対する重大な主権侵害事件であり、民主的法治国家として絶対に看過できない問題であることが明白だからである。
 私はこれを、私の議員室の会議で、なんとしてもやるべきであり、やろうと提起した。その当時、私の議員室は、私の他に秘書二名で構成されており、その一人が兵本君だった。
 二人の秘書も賛成で、質問のための準備、調査は、現地に赴いての実情調査は兵本君が担当し、政府関係からの聞き取りや新聞報道などの資料収集は別の秘書が担当することとした。
 さらに私は、この問題の重要性から考えて、法務委員会で法務大臣相手に質問するよりも、政府に対する総括的質問として予算委員会において質問するのが適当であると考え、そのことを党議員団の国対委員会に報告して了承を得た。準備には橋本室をあげて取り組んだ。
二、参院予算委で拉致疑惑を認める政府の最初の公式答弁
 一九八八年三月二十六日、第一一二国会参議院予算委員会での拉致疑惑問題の総括的な質問にあたっては、前述の現地調査とともに、政府関係者からの聞き取りや資料調査をもとに、何度も部屋会議を重ねて討議し、意見を出し合って質問構想を固めていった。もちろん最終的には質問者である私が、私の責任において詳細な質問原稿を練り上げて質問に臨んだ。三晩ほど徹夜に近い準備をしたと記憶している。
 答弁のための私の要求大臣は、国務大臣国家公安委員長梶山静六外務大臣宇野宗佑法務大臣林田悠紀夫の各大臣と政府委員の城内康光警察庁警備局長らであった。
 私はまず、大韓航空機爆破事件から質問に入って、梶山国家公安委員長から、この李恩恵が実は日本女性で「日本から拉致をされた疑いが持たれることから、事態の重大性にかんがみ、今後とも国民の協力を得つつ解明に力を尽くす所存である」との答弁を得た上で、一連の拉致事件を総括的にまとめて質問に入った。
 それまでの調査検討で、私は、第一に、これらの事件の若い男女には自殺の恐れや失踪の理由など毛頭ないこと、第二に、営利目的の誘拐など日本国内の犯行とみられる状況がまったくなく、また、富山での未遂事件の遺留品が日本製のものと判断されないことからみて、国外からの犯行の可能性があるとの強い心証を得ていた。
 そこで、まず警備局長に対し、三件の状況を警察はどうみているかを質(ただ)したところ、警備局長は、これらの事件については「自殺することは考えられない」「家出などの動機はない」と答弁し、「諸般の状況から考えますと、拉致された疑いがあるのではないか」とはっきり答弁した。警備局長は、富山事件の遺留品について「製造場所とか販売ルートなどは不明」、つまり日本製でないかもしれないことを認めた。
 そこで私は、質問を次に進め、前述した雑誌記者のルポやその他の報道、二人の秘書の調査などをもとにして、つぎのように梶山国家公安委員長に迫った。


 「この三組の男女の人たちが行方不明になってから、家族の心痛というのはこれはもうはかりがたいものがあるんですね。
 六人のうちの二人のお母さんは、心痛の余り気がおかしくなるような状況に陥って、その子供の名前が出ると突然おえつ、それから精神的に不安定状況に陥るというのがいまだに続いている。それからある人は、夜中にことりと音がすると、帰ってきたんじゃないかということで、その戸口のところへ行かなければもう寝つかれないという思いがする。…
 それから新潟柏崎というのは長い日本海海岸ですが、万が一水にはまって死んで浮かんでいないだろうかという思いで親が長い海岸線を、列車で二時間もかかる距離ですが、ひたすら海岸を探して歩いた。あるいはまた、…あらゆる新聞、週刊誌を集め、もう真っ黒になるほどそれを読み直している家族がある。本当に心痛というものは大変なものですね。
 こういうことで、この問題については、国民の生命あるいは安全を守らなきゃならぬ政府としては、あらゆる情報にも注意力を払い手だてを尽くして、全力を挙げてこの三組の若い男女の行方を、あるいは恩恵を含めて徹底的に調べて、捜査、調査を遂げなきゃならぬという責任があるんだと私は思うんですね。そういう点について、捜査をあずかっていらっしゃる国家公安委員長として、こういう家族の今の苦しみや思いをお聞きになりながらどんなふうにお考えでしょうか。」


 私がこう切り込んだのに対し、梶山国家公安委員長と宇野外務大臣は、明確に次の通り答弁したのである(議事録より)。


 ○国務大臣梶山静六*9) 昭和五十三年[一九七八年]以来の一連のアベック行方不明事犯、恐らくは北朝鮮による拉致の疑いが十分濃厚でございます。解明が大変困難ではございますけれども、事態の重大性にかんがみ、今後とも真相究明のために全力を尽くしていかなければならないと考えております。


 ○国務大臣宇野宗佑*10) もし、この近代国家、我々の主権が侵されておった…このような今平和な世界において全くもって許しがたい人道上の問題がかりそめにも行われておるということに対しましては、むしろ強い憤りを覚えております。


 こうして初めて、一連の事件について、北朝鮮による拉致という濃厚な疑惑があることを、政府は公式に認めたのである。
 これを受けて私は、私の質問の政治的見解・基本的主張を次のように論じて、この質問を締めくくった。


 「私はこの問題は、日本国内において断固としてこういった不法な人権侵害や主権侵害は許さない、この男女を救わねばならぬという国民世論がしっかり高まることと、国際的にも相手がどこの国であれこんな蛮行は許さぬ、そして誘拐された人たちは救出せねばならぬ、それが人道上も国際法上も主権国家として当然だという世論が大きく沸き起こる中でこそ、捜査の目的を遂げ、そして法律的にも事実上もきちんと原状回復を含めて始末をするという方向が強まると思うんですね。わが党も、相手がどこの国であれテロや暴力は一切許さないという立場で大韓航空機事件でも対処しているわけですが、そういう立場で、これらの人たちが救出されること、日本政府が毅然(きぜん)とした対処をとることを重ねて要求したい。」


 この私の質問は、北朝鮮による拉致の疑惑の存在を、政府の公式答弁としてはじめて明確にしたもので、現状の認識のみならず、今後の事件の解明の手順と被害者と家族のみなさんの権利回復救援のための展望と方向を示唆する重大なものであったが、わが党の新聞「赤旗」が翌日一面に大きく報道した以外に、各紙がこれを積極的に取り上げなかったのは、今にして残念に思う。
 拉致問題に関心が高まってきていたとはいえ、当時の状況はまだこのようなものであった。

三、拉致疑惑解明のその後の取り組み
 そして、この拉致事件が、疑惑の段階から事実として確認されるまでには、まだ長い年月の被害者と家族の皆さんの苦しみと闘いがあり、国会でのわが党をはじめ各党の追及があり、さらに日朝国交正常化交渉、両国首脳会談を待たなければならなかった。
 一九八八年以後、拉致疑惑の解明問題が大きく動いたのは、横田めぐみさんの件が大きく明るみに出た一九九七年になってのことであった。
 実は、一九九七年一月二十一日に、横田めぐみさんについての情報を父親の横田滋さんにお伝えしたのは、私の部屋からであった。私の部屋に、横田めぐみさんが北朝鮮で生活しているらしいという情報が寄せられ、それを兵本秘書が議員会館の私の部屋でお伝えしたのであった。
 横田さんご夫妻は、熟慮の上、実名で救出運動に立ち上がることを決意され、同年二月には朝日放送産経新聞・『アエラ』なども横田めぐみさん拉致事件を初めて実名で報道し、三月二十五日には「『北朝鮮による拉致』被害者家族連絡会」も結成されるに至った。
 このような被害者家族の皆さんの切実な要求実現を支援するために、私は政府に対して拉致疑惑解明にいっそうの努力を求めて、さらに質問する必要があると考え、同年六月五日、参議院法務委員会で質問に立った。
 「初めて耳にした娘の消息に私の体はショックと驚きで震えました。議員会館のある永田町に向かう途中、次第に娘は生きていたという喜びが湧き上がってきました。一刻も早くめぐみを救出できるなら自分の命さえも惜しいとは思いません。代われるものなら代わってやりたいと思うのは、子を持つ親なら誰でも同じではないでしょうか」という『文藝春秋』誌に寄せた横田滋さんの文章を引きながら、政府として「関係閣僚会議、そのもとで必要な対策室を設けるなど」して、早急に必要な総合的統一的体制を作って疑惑解明に積極的に取り組むよう強く要求した。
 さらに同年十一月十三日、私は、法務委員会において質問に立ち、いっそうの事件解明に努力するとともに、家族の皆さんに可能な限りの情報を提供することを、政府に約束させた。私は、その後、九八年四月七日にも、政府に対して、拉致事件の徹底的な解明を求める質問を行った。
 拉致疑惑解明は、私一人ではなく、議員団として取り組んでいたので、私のほかに、諌山博参議院議員が一九九〇年六月二十五日、同院地方行政委員会で、さらに九八年三月十一日、木島日出夫衆議院議員が同院法務委員会で、それぞれ私とも緊密に連絡しつつ質問に立って、政府に対し、疑惑の解明と外交的努力を強く求めている。
 木島議員はその質問で、一九九七年八月に行われた日朝国交正常化に向けての審議官級の予備交渉と、それに続いて行われた日朝間の赤十字連絡会議の状況について質したが、政府の答弁は、北朝鮮側は拉致の事実はないと言い、与党訪朝団の訪問を受けて、「一般の行方不明者として調査する」と言うのみで、まったく具体的な進展がなかったことを示した。そのため木島議員は、「もっと毅然たる態度で交渉に臨んでほしい」と強く要望した。
 この木島質問の結果、日朝間のこのレベルの交渉では、拉致疑惑の究明はできないことも明らかとなった。日朝間の諸懸案とともに拉致問題の解明を正式の議題として、高いレベルによる正式の日朝国交正常化交渉を進めることが重要な課題であることが明白となった。
 私も前述の九七年六月五日の質問では、この拉致疑惑事件の解明と被害者の救済のためには、北朝鮮との国交関係がないという「難しい壁をどう乗り越えて」解決に向かっていくのかは、「政府としても本当に大事な問題」であると指摘していたが、右の木島議員の質問は、結果として日朝間の正規の国交正常化交渉の努力がいよいよ必要となっていることを示したと言える。
 以上の経過からも明らかなように、重大な拉致の疑惑はあっても、拉致犯人は犯人の特定が可能ななんらの直接証拠も状況証拠もまったく残していないのであるから、国内の捜査や調査には限度があり、しかも国交がないため正式の対外交渉も捜査協力も得られないのであるから、この壁を乗り越えて拉致の疑惑を「事実」であるというところまで究明するためには、日朝間の権限のある正式の交渉に待たなければならないということが、事件の性質からいっても、また事態の進展の上からみても、次第に明らかになったのである。
 しかし、その肝心の日朝間の国交正常化交渉も一九九二年十一月から中断したままであり、その上、一九九八年八月の例のテポドン騒ぎで日朝間はいっそう対立的な雰囲気が拡大していた。

四、日朝正常化交渉についての不破委員長(当時)の道理ある提案と成果
 このような時、わが党議員団の拉致疑惑解明と被害者救済のための一貫した国会質問の流れを受け、一九九九年にいたって、不破委員長(当時)が一月とさらに続いて十一月の二度、衆議院本会議代表質問に立って、拉致問題など両国間の諸懸案の解決のためにも、日本と北朝鮮との政府間交渉の正常なルートを開くべきだと提案したのである。
 大事な提案なのでその中心部分を引いておく。


 「北朝鮮の政権あるいは政権党が、国際社会におけるルールについて、われわれと共通の常識をもたないことは、私たちもよく知っています。日本共産党自身、北朝鮮の側から、国際的な道理を無視した不当な攻撃をくりかえし受けたために、一九八二年以来、北朝鮮の政権党といかなる関係ももっていません。しかし、国際的な平和と安全のためには、また不測の事態を未然に防止するためには、相手がそういう状況にあればあるだけ、日本の側が、国際的な道理をふまえ、問題を平和的に打開する態度をつくすことが重要であります。(そして、その見地から、不破委員長は次のことを提案した――)北朝鮮と正式の対話と交渉ルートを確立する努力を、本腰を入れて、真剣におこなうべきだという問題であります。」(一九九九年一月二十一日)


 「首相。政府には、北朝鮮との関係で、日本がなにをめざすかの外交目標を明確にする責任があります。日本自身、北朝鮮との間には、ミサイル問題、拉致問題などいくつかの紛争問題をもっていますが、それは、交渉によって解決すべき交渉の主題であって、その解決を交渉ルートをひらく前提条件としたり、すべてを他の国の外交交渉にお任せするといった態度では、問題は解決できません。
 また北朝鮮は、戦前の侵略戦争と植民地支配によって日本が被害をあたえた国ぐにのなかで、その清算がまったく未解決のまま残っているただ一つの国です。そのことの解決をふくめ、北朝鮮との国交の問題などにとりくむ日本自身の責任ある立場をしめす必要があります。」(一九九九年十一月二日)


 この二回の提案が、一九九九年十二月の日本共産党の穀田衆議院議員、緒方参議院議員をふくむ超党派訪朝団の派遣に結びついた。そのときの朝鮮労働党との会談で、日朝の政府間交渉について前提条件をつけないで再開することで合意に達し、翌二〇〇〇年四月から七年半ぶりに、日朝正常化交渉が再開された。
 不破提案が、まさに道理にかなったものであったことは、事実によって証明された。二〇〇二年九月十七日の日朝首脳会談で、金正日総書記は八件十一人の拉致を事実であると認め、「遺憾であり、率直にお詫(わ)びしたい」と表明した。こうして、北朝鮮による拉致の疑惑は、交渉の中で、もはや疑惑ではなく明白な事実となり、それをさらに解明してゆく場も道筋も明らかになったのである。
 それにしても、示された結果は余りにも痛恨である。
 志位委員長は談話の中で次のように述べた。


 「わが党は、拉致という許すことのできない犯罪がおこなわれていたことにたいして、きびしい抗議の態度を表明するものである。
 さらにわが党は、北朝鮮政府に、本日明らかにされたものが北朝鮮がかかわる拉致問題のすべてであるのか、拉致犯罪をおこなった責任者はだれなのか、拉致被害にあった方々がどのような扱いを受けたのかなど、真相を全面的に明らかにすることをもとめる。また責任者の厳正な処罰と、被害者への謝罪と補償がおこなわれるべきことは、当然である。」


 国民の生命と人権、わが国の主権にかかわるこの深刻かつ重大な事件について、日本共産党がその解明と解決のために継続して、一貫して力を尽くしてきたことは、何人にも明らかである。

五、ウソで固めた兵本元秘書の日本共産党攻撃
 以上の事実と経過にてらせば、本誌(『文藝春秋』)十二月号で私の元秘書兵本君が「日本共産党こそ拉致調査を妨害した元凶である」などと断じていることのでたらめさは、あまりにも明白であろう。
 彼は、「橋本敦議員の質問を準備したのが私だった」という。質問の準備は、私を先頭にして兵本君を含む私の部屋全体でやったのだし、一九八八年の時点でこの問題を取り上げ質問しようと提起したのは、ほかでもない、この私である。質問原稿も、秘書二人の調査結果や資料をふまえつつ、私自身が自ら議員としての責任において苦労して練り上げて書いたのだ。私が兵本君のスピーカー役をつとめたかのような言い分は、思い上がりもはなはだしく、無礼というべきだろう。
 確かに、兵本君が、拉致問題で私の秘書として活動をしてきたことは事実である。私の秘書としての彼の活動は、どんな場合でも私の責任になるものだが、私は、彼のそういう活動を制限するどころか、むしろ最大限自由にやらせてきたといっていい。その一端は、たとえば彼が、「九七年から九八年にかけて私は全国を駆け回り、拉致疑惑の解明のために全力を尽くした」などとのべていることでも、裏書きされている。
 こういう兵本君に、拉致問題に関心をもつ党本部のいくつかの部局が話を聞きたいといったことは、なんら不思議ではない。それを、「妨害」とか「嫌がらせ」などというのは、意図的なねじまげ以外のなにものでもない。
 彼が、私にも党の国際部にも断ることなしに、単独で韓国大使館に赴いたことにかんしては、それが党の外交活動を彼の独断ですすめるという意味合いをもつ行為であるだけに、党が注意したのは当然のことである。
 私が、拉致問題にかかわる兵本君の行動にストップをかけた数少ない具体例の一つについて、彼が書いていることには明白なウソがある。九七年四月の彼の二度の神戸行きの件である。北朝鮮系の「地下組織の元工作員」の紹介で拉致問題に通じた「地下組織の責任者」か何かに会いに行きたいといってきた件(二十日の神戸行き)と、それに続いて、朝鮮労働党の幹部が船で神戸港に入るという情報にもとづいて外務省職員をともなって会いに行きたいといってきた件(二十二日の神戸行き)の二件である。これは、党議員団が行うべき調査活動というようなものではなかった。
 最初の件については、事前に相談があった。私は、即座に止めたし、国対の担当者であった佐々木陸海衆議院議員とも相談した。佐々木議員も直接兵本君に会って、「地下組織」といったものとの接触などすべきではない、調査活動の枠を超えるし、何よりも危険だからといって、止めたのである。
 後の件については、兵本君はすでに外務省関係者にも連絡して、翌朝一緒に出発することを決めた後、深夜に電話で私に了解を求めてきた。このときも私は、佐々木議員と連絡しつつ、絶対にだめだと繰り返した。日本共産党は、朝鮮労働党と断絶状態にある。その日本共産党の議員の秘書が、労働党幹部と外務省職員を引き合わせ、勝手な話し合いを行うことを認めるならば、政党としてのけじめをまったく欠いた行動になることは、普通の常識をもつものならわかることだ。
 兵本君は、佐々木議員が「不破さん〔当時党委員長〕の直々の指示だ」といって二十日の神戸行きをとめたといい、二十二日の神戸行きに際しては、「不破委員長の秘書室」からの電話で、「労働党幹部との交渉のテーブルには絶対につくな」といってきたと書いている。最近の公明新聞によると、勝手な行動をしてはならない云々(うんぬん)と「不破さんから直々に言われた」と、兵本君は語っているそうである。これらはみな大ウソなのだ。最初は私と佐々木議員が止めた。二度目は私が止めたが、止められないとわかって、最後に佐々木議員とも相談して「北朝鮮の幹部とは絶対に会ってはならない」と指示した。二十二日の朝、東京駅を出ようとする兵本君からの電話をうけて制止したのは、党の織田優参議院事務局長である。不破委員長や秘書室がどうのというのは、真っ赤なウソなのである。
 そういうウソまでならべて、兵本君は、彼の活動を「党」が妨害したといいたいのだろう。しかし、兵本君は、こうした私たちの制止にもかかわらず、二回とも神戸に行ったのだ。そして、二回ともめざす相手に会えなかったのである。これが、いったい拉致問題解明へのどういう妨害だったというのか。妨害というのもウソなのだ。ついでにいえば、私は、この二回の神戸行きにかんしてさえも、兵本君の出張経費の支出を承認している。今となっては、これは甘かったと思っているが。
 兵本君は、彼の除名そのものが、拉致問題調査への妨害だったといいたいらしい。とんでもない話だ。大体、彼は、九八年三月で定年を迎えていた。彼の活動をやめさせたければ、そこで退職させればよかったはずだが、実際には、私も、国会議員団事務局も、彼の半年間の定年延長を党本部に要請し、党本部もそれを了承した。韓国大使館行きも、神戸行きも、兵本君の除名の理由ではない。拉致問題は除名とはまったく無関係なのである。
 問題は、この定年延長の間の九八年五月、『文藝春秋』の彼の一文でも引用しているとおり、彼が、赤坂の料理屋で警視庁警備公安警察官と会食し、彼の退職後の就職の斡旋(あっせん)について面接を受け、自分の採用を事実上依頼する対応をしたことだったのである。この点について、彼は「日本共産党らしい作為」だとかいろいろ弁明しているが、見苦しい限りだ。
 彼が、当時国会の同僚秘書に「退職後の身の上相談」としてもちかけた内容が重大だったので、事務局の織田優君らが兵本君に直接事情を聞くことになった。そこで彼が、積極的に語ったところによれば、公安警察官との「面接」の詳細は次のようなものだった。


『指定された料理屋に行った。「案内した女性や仲居さんが、とても水商売の女性とは違い、婦人警官のようなしっかりした感じがし、警察庁の関係の料理屋という感じだった」。案内された部屋で待っていると、現れたのは「四十五歳から五十歳くらいの、厚手の眼鏡をかけた、おとなしそうな大学教授風」の人物で、「警察庁警備局公安一課」という肩書きの名刺を出した。』


 兵本君はこの男と二時間近く会食し、兵本君の経歴などを男が知悉(ちしつ)していることを知らされて驚いたりしている。この会食の意味についても、兵本君は、「退職後の就職の斡旋であり、相手は政府の役人であり、拉致問題で政府の仕事に就ける人物かどうかの面接であったと理解している」と語っている。
 警備公安警察は、日本共産党対策を中心任務とする秘密政治警察の核心であり、日本共産党公安調査庁とともにその廃止を要求している。こういう警察官の「面接」を受け就職斡旋を依頼するなどということが、党員として許されないのは、当たり前ではないか。こうして兵本君は、定年延長期限が切れる八月末の直前に除名処分となり、秘書を罷免となっている。兵本君がその後、秘密政治警察など党破壊勢力の手先の役割を、手を変え品を変えて忠実に果たすに至っていることは、周知の事実だ。
 兵本君は、拉致問題での日本共産党の「基本姿勢をしめす明白な証拠」などと称して、二〇〇〇年十月の党首討論などでの不破委員長(当時)の発言を引き、政府が「拉致疑惑」といっている以上、それにふさわしい交渉の仕方をと不破氏が政府に求めたことを、「拉致疑惑の棚上げ」と何の論拠もなく断定している。
 不破委員長は、拉致行為が重大な国際犯罪であるという認識に立って、この問題を政府として北朝鮮に提起する以上、捜査の到達点、すなわち「疑惑」の段階にふさわしい、足場を固めた交渉が必要だと主張したのである。これは、当然の理性的な提起であり、「棚上げ」でもなんでもない。
 兵本君は、「〔日本共産党が〕拉致問題を棚上げすることによって、日本国政府より先に北朝鮮と関係正常化を図る。いち早く良好な関係を築けば、利権の確保も狙える。こういった目論見があれば、拉致被害者の存在など日本共産党にとって邪魔者でしかない。拉致問題への数々の妨害行為も納得がいくというものだ」と述べている。日本共産党の「数々の妨害行為」「拉致問題棚上げ」などというありもしないものをウソを交えてでっち上げた結果、そのつじつま合わせに、日本共産党北朝鮮との良好な関係を築いて「利権をねらっているのだ」という、荒唐無稽(むけい)なでっち上げを積み重ねるところまで、兵本君は落ちている。もはや言うべき言葉もない。
 日本共産党国会議員団が、拉致疑惑を先駆的にまた積極的系統的に追及し、この問題で新しい局面を切り開く上で大きな力を発揮したことは、厳然たる歴史の事実である。どんなウソや策謀も、この事実を消し去ることは絶対にできないだろう。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-11-18/04_0401.html
拉致問題、88年以来、質問を積み重ね解決の道開いた日本共産党国会議員団
対談:橋本敦前参院議員×木島日出夫衆院議員
 今年九月の日朝首脳会談で、北朝鮮は日本人十三人の拉致の事実を認め、生存者五人が帰国しました。この拉致問題で、日本共産党国会議員団はどのような役割を果たしてきたのか、詳しく知りたいという質問が赤旗編集局に寄せられています。そこで、一九八八年三月二十六日の参院予算委員会で、最初にこの問題をとりあげた橋本敦前参院議員と、その後、拉致問題を追及した木島日出夫衆院議員に、語り合ってもらいました。聞き手は赤旗編集局です。

■追及してきた当事者として
 ――拉致事件はまだ、真相解明や責任者の処罰、家族の帰国など多くの解決すべき問題がありますが、十数年前から拉致問題を国会でとりあげてきてのいまのお気持ちはどうですか。

 橋本敦 私は一九八八年三月の参院予算委員会の質問以来、拉致問題を国会で何度かとりあげましたけれど、これは国民の命にかかわる重大事件であり、人権を守るという点からいっても、この事件は徹底的に解明し、被害者のみなさんを一日も早く救出しなきゃならん、そういう思いが常にありました。
 同時に、当時、報道は少なかったけれど、七七年、七八年にかけて同様の事件があいついで起こるという異常な社会的事態が、一体どこから起こってくるかの究明も大きな問題だと思いました。こういう大きな課題は、国会で当然とりあげて国民の前に明らかにして解決の方向を導き出していかねばならないという気持ちが強かったのです。
 拉致が北朝鮮による犯行だということが確定し、そして生存者の方が五名*11日本に帰ってくるという状態を今日迎えたことを考えますと、実に長い年月がかかったけれども、やはり断固として真実と正義を貫くという構えのたたかいというのは、国民的課題として大事だなと思います。真相解明を含め、まだまだ課題はありますが、重要な一歩をふみだしたという点では、感慨深いですね。
 もう一つは、この問題について、国会のたたかいから、さらに日朝間に交渉ルートを開いて徹底的に解明するという道筋を、日本共産党が打ち出していったことは、たいへん重要だったと思います。とくに九九年の不破委員長(当時)の代表質問での提起は、まさに日本の国民と、日本の主権を守るという課題を外交的にどう道を開いていくかということを見事に先見的に提案したと思います。
 いま振り返ってみますと、他党は、単なる行方不明者の調査という要求で終わるなど、どう解決するかという責任ある政策が打ち出せなかった。その状況からみて、日本共産党国益を守り、国民の利益を守る立場を貫く党だということを、あらためて痛感しています。

 ――木島さんは、選挙区も拉致事件が発生した福井、新潟などと重なりますが、どのように感じておられますか。

 木島日出夫 私は、二度目に衆議院に当選したのが九六年十月で、北陸信越ブロック代表でした。翌年の九七年にはじめて警察白書拉致問題について、七件十名を「北朝鮮による拉致容疑」として明らかにしたのです。そのころ、新潟などでは横田めぐみさんを救出するという運動が大きく発展しておりました。
 私は長野で弁護士をやっているんですが、事務所の後輩の弁護士が新潟出身で、彼のお父さんが拉致被害者家族の方と友人という関係でした。九七年に、私自身新潟でこの被害者のご両親とお会いしたり、国会の事務所で横田めぐみさんのご両親とお会いしました。これらを通じて、これは日本の国としても真相解明をはじめとして頑張らなければならないと感じました。
 たいへん痛ましい情報もでてきましたが、五人の方の生存が確認されました。いまこうやって日本にきておられて、個人的な体験からも感慨があります。

 ――木島さんの質問は、九八年三月でしたね。

 木島 参議院の橋本さんがもう十年も前に徹底してこの問題をとりあげて、日本共産党の議員団として、北朝鮮による拉致の疑いを浮き彫りにしていたのを、私も確信にしていました。そのうえで、これら一連の事件についてかなり深く調べ上げました。
 最初に起きた事件が北信越の石川県の久米裕さんの事件(宇出津事件)でした。また、唯一物的証拠があがっていたのが富山県高岡の未遂事件なんです。それらを調べ上げて、九八年三月十一日、衆院法務委員会でこの問題をとりあげ、「日本政府としてきぜんとしてあらゆる手段を使って真相を明らかにし、消息を明らかにし、救出のために全力をつくすべきだ」という論を張って追及したことを昨日のことのように覚えています。
 日本共産党国会議員団として、さらに真相を徹底して解明していかなければいけないと思っていますが、橋本さん、諌山博さん(元参院議員)のがんばりと、その後の不破委員長(当時)の代表質問で、今日の道筋を切り開いたことに確信をもって、これからもきぜんと取り組んでいきたいと思います。

■自主独立路線の値打ちが光った
 橋本 もう一つ実感するのは、日本共産党が自主独立の路線をしっかり守ってきた値打ちが光ったということなんです。社民党朝鮮労働党ときわめて親しい関係ということから離れられずに、疑惑の解明ができなかったということを自己批判していますけれど、日本共産党は、ラングーン事件*12(一九八三年)や、日本漁船銃撃事件(一九八四年)、大韓航空機爆破事件(一九八七年)など、北朝鮮の無法にたいしては朝鮮労働党との関係が断絶しようとも断固としてきびしく批判をし、また日本国民にたいする権利侵害や主権侵害を許さないという立場を貫きとおしました。
 そういう日本共産党だったから、私たちもこの拉致問題をとりあげ、北朝鮮による犯行の疑いが濃厚だとなったあとでも、さらにきびしくこれを追及することを党国会議員団の活動としてやれたし、党はそれを支援してくれました。そういう意味でも日本共産党の自主独立の路線はやはりここでも光ったなと誇りに思います。

■88年の橋本質問
北朝鮮による犯行の疑い濃厚」の政府答弁引き出す
 ――拉致問題を最初に国会質問としてとりあげた動機をもう少しくわしく聞かせてください。

 橋本 当時は家族のみなさんも、昔の言葉でいえば、「神隠し」にあったようなことで、何事が起こったのかわからないまま、苦もんの日々を過ごしておられました。
 私がこの問題をとりあげたのは一九八八年ですが、八七年十一月に大韓航空機爆破事件が起こりました。その容疑者として逮捕された金賢姫の教育係として拉致された日本人がいたという証言が報道されました。それが一つの大きなきっかけになって、新聞や雑誌に、社説や事件を追ったルポが掲載されるようになりました。
 私はそれらを読んで、ようやくここまで具体的に問題がでてきた、追及の方向づけが出てきたと感じたわけです。そこで、私は各事件の似たような状況から一つひとつの事件としてではなしに、一連の事件として究明をやっていく必要があると思って提起しました。当時、私の部屋には秘書が二人いましたが、二人とも賛成でしたし、当時の国会対策委員会(国対)にも問題提起して了承を得ました。
 そこで、私の秘書二人で、警察庁や外務省から説明をうけたり、新聞・雑誌などから情報収集する役割と、実際に現地に行って家族の方から状況をお聞きする役割とに任務分担をして準備にあたりました。

 ――調査した結果はどうでしたか。

 橋本 まさに国政の場でまとめて提起するに値する状況だということに確信を持ちました。一つは、三組の若い男女行方不明事件は、どれひとつとして失踪(しっそう)する必然的理由がなにもない。自殺する条件もない。むしろ婚約もし、結納も交わし、近い将来に輝かしい人生を出発したいと希望に燃えていた人たちでした。
 もう一つはいずれも国内犯罪と考えられない状況でした。何らかの事件に巻き込まれて身代金請求をされるとかいうこともいっさいない。さらに、富山の未遂事件での遺留品をみると、タオルだけが日本製で、そのほか人間にかぶせる袋だとか、重要な物件はみな日本製品だと断定できないという警察の情報でした。
 これは、どこの国かわからないけれども、国外から若い人たちを誘拐するというとんでもない事件の可能性がある。だからこそ、日本政府としては日本の主権とともになによりも国民の人権を守るという責任をもって捜査しなければいけないし、捜査の次第によっては、どこの国であれ当該国にたいして、一日も早く原状回復を要求しなければならない。そういう大問題だから、国対とも相談して、関係大臣を全部呼んで追及できる予算委員会で質問をやることをきめたのです。

 ――いま議事録を読んでも、質問には論理的なち密さがあります。それが当時の梶山静六国家公安委員長から「北朝鮮による犯行の疑いが濃厚」という答弁を引き出したのでしょうね。

 橋本 どういう質問の運びで政府に迫るかをずいぶん検討しましたが、質問する責任は議員の私にありますから、部屋で秘書とともに何度も相談したうえ、最終的には私が全体の質問構想をねりあげ、一問一答の詳細な質問原稿を私の責任で仕上げまして予算委員会に臨みました。
 私がとくに重視した質問のスタンスは、どの国の犯行か断定しないことです。私自身、断定できる具体的材料を持っていないし、どこの国であろうと外国から日本にたいして人権侵害や主権侵害は許されないという立場を貫きました。しかし、家族の人たちが悲嘆にくれているという実情をふまえて、政府には責任をもって事件捜査の方向づけをはっきりしなければならない重大な責任があるということを迫力をもって追及すれば、事件の大筋と犯行の責任がどこにあるかを政府に明らかにさせることができると思いました。
 私はそういう立場で質問して梶山国家公安委員長にたいしても、一連の事件のもつ特異性と家族のみなさんの切実な思いと苦しみの実情を基本におきながら、論理を積み上げて行く中で、政府の責任ある見解はどうなんだと迫っていきました。
 ここで一言しておきますが、最近、私の秘書だった兵本達吉君(注=九八年五月の、公安警察に自分の再就職を依頼したという行為によって九八年八月に党から除名)があちこちで、彼がひとりで調査し彼がひとりで政府を追及してきたかのように吹聴しているのは、とんでもないことです。私の拉致問題での国会質問は、これまでのべてきたような立場から、秘書団の調査や分析も活用しながら、私の弁護士としての経験も生かして、常に私自身の責任で練り上げてやってきたものです。また、わが党が九七年に彼の「拉致調査を妨害」したかのようにいっていることも、みずから一方で九七年から九八年にかけて拉致調査で全国を駆け回ったといっているように、根も葉もないウソです。

 木島 私も改めて橋本質問を議事録で読み返してすごい追及だったなと思いますね。その年の一月に金賢姫大韓航空機を爆破したことを告白し、拉致された日本人女性から教育を受けた――客観的な事実、表に出た事実はそれだけです。その事実をしっかり据えて、行方不明事件をきちんと位置付けて真相にせまっていく。そして、梶山大臣に「北朝鮮による拉致の疑いが濃厚」と答弁させたのです。
 日本の国務大臣が相手の国の名前をあげて、拉致の疑いが濃厚とすること自体が政治的にも法律的にもたいへんなことです。八八年三月の時点でここまで追い込んでいったというのはすごいなと改めて感じました。

■90年の諫山質問、事態の解明すすまない警察を“叱咤”する立場で
 ――それが、九〇年に諌山さんが参院地方行政委員会でおこなった質問にもつながっていくのですか。

 橋本 私が質問して、政府は鋭意捜査すると約束しましたが、さらに詰めていかないと、政府がどれだけ本気になってやるかわからない。一回の質問で終わりとすれば、目的は達しないわけですから。そのときに諌山さんが、人権問題ということで重ねてきびしく調査を要求する質問をしたいということだったので、私も大賛成でした。
 拉致問題というのは、たまたま私が予算委員会でやりましたが、私の個人的な関心と問題意識をもってやったというわけではなくて、党議員団の方針として究明する課題だとしてとりあげているのですから、積極的に協力しました。

 木島 諌山さんという人は、弁護士としてもまた共産党の議員になってからも警察問題をとりあげてきた人で、この問題ではピカイチです。それは正しい意味で警察が国民の権利や人権や財産、生命を守る役割を果たさなければならない。しかし、それを果たしていない。それはゆがんだ政治警察だからと、ただしてきた人です。
 九〇年六月の質問でも、当時人権問題として大問題だった坂本堤弁護士事件と拉致問題の二つをとりあげて、警察はきぜんとしてきちんと捜査をやりなさいという思いをこめてとりあげているわけです。

 ――橋本質問から二年後の諌山質問でも、事態の解明が警察の手ではいっこうにすすんでいないことが明らかになりました。

 橋本 ですから、ある意味では警察を激励し、叱咤(しった)する必要があったんです。マスコミもほとんどとりあげなかったのです。八八年の私の質問でも「赤旗」は質問の翌日、一面できちっととりあげていますけれど、残念ながら他の新聞はほとんどとりあげなかったですね。
 横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんが書かれた『めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる』(注:草思社)という本でも政府に拉致疑惑をはじめて答弁させたのは橋本質問だったと書いておられます。ところがある学者がこの本で書いているように、この梶山答弁について「国会で国の治安の最高責任者が、北朝鮮を犯罪者扱いしたこの答弁は、まさに歴史的なものだったが、マスコミはまさにこの大ニュースを無視した。読売、朝日、毎日はこの答弁について一行も書かず、書いた産経、日経も一段ベタ扱いだった」のです。
 それに比べ「赤旗」は一面で報道したというのは、共産党の姿勢を示すものとして大事です。

 木島 新潟で横田めぐみさん救出運動をおこなってきた「横田めぐみさん等拉致日本人救出の会」が九八年四月に発行した記録集では、産経新聞の阿部雅美編集局次長が「拉致疑惑を最も熱心に国会で取り上げて来たのは共産党の議員です。共産党産経新聞は昔から仲が良くないのですが、これはそういう問題ではありません」と指摘していますね。

■その後の経過と旧拉致議連
 ――その後の経過はどうだったのでしょうか。

 木島 その後も日本と北朝鮮の関係は切れたままで、なんの情報も入ってこない。マスコミもとりあげない状況がずっと続くわけです。
 そういう苦労のなかで、九七年の段階で拉致被害者の家族のみなさんは家族会をつくり、橋本さんがあらためて追及の質問をする。世論の関心もたかまり、警察も初めて白書で書くわけです。

 橋本 横田めぐみさんのお父さんやお母さんは、そのときの気持ちを本などに書いておられるんですけれども、話を聞いたときは、本当に自分の娘が北朝鮮にいるなんていうのは、半信半疑だったのです。
 それで実名を出すべきかどうか悩みに悩んだあげくに、娘を救い出さなきゃならんと思いきって実名で運動に立ちあがる決意をされました。それから横田めぐみさんの事件が表に出てくる、(拉致被害)家族会の結成もあり、拉致日本人救援議員連盟(旧拉致議連)の結成もあり、国会でも他の議員も横田さんの事件を中心に質問をするということで第二段階が始まったんですね。

 ――「拉致日本人救援議員連盟」への対応はどうでしたか。

 橋本 この議連は当時、新進党永野茂門参院議員*13が幹事役になってつくる段取りでした。結成のときには、わが党に連絡はなく、結成してから永野議員の秘書が議連結成の趣意書と入会申込書をもってあいさつにこられて、「橋本先生がこの問題に深くかかわってきたことがわかるように『文芸春秋』に掲載された横田滋氏の文章を全議員にコピーして配布し、橋本先生に敬意を表しました」といわれました。日本共産党が先進的にやっていたことはよくわかっていたわけです。
 この議連には、衆院松本善明、正森成二両議員、参院立木洋議員と私の計四人が入会したのです。

 木島 この「拉致議連」は残念ながら、今年三月に会長の中山正暉自民党衆院議員*14が辞任を表明したことを受け、日本共産党に事前の連絡もなく解散してしまいました。
 そして、四月二十五日に現在の「拉致議連」(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟)が発足しますが、この議連は最初から日本共産党社民党を除外して、他の国会議員に参加がよびかけられたものでした*15

■97年の橋本質問、政府あげての支援体制を要求
 ――九七年の橋本さんの二回の質問、九八年の木島さんの質問とで、いち早く家族への支援体制や情報提供を政府に求められていますね。

 橋本 九七年の質問のころは、政府に捜査や調査をきびしく要求してもなかなかすすまない。その大きな壁はなにかというと、国交がないことだということが次第に明らかになってきていたのです。だから、このときの質問で私は「この事件は日本の国家主権の侵害にかかわる問題であるから、北朝鮮との国交の関係(がない)という難しい壁をどう乗り越えて、どう早くこの人たちに救済の手を差し伸べるか、政府としても本当に大事な問題だ」と指摘したのです。
 また、そういう方向に向けて、政府全体としての体制を組まなければいけないと、関係省庁会議の設置を提案しました。関係省庁の知恵を全部集めて、国交がないことの壁をこえていく展望をもって検討しなければだめだということです。
 もう一つは、家族会のみなさんに政府として全面的に協力する体制づくりをやりなさい、とりわけ情報をきちっと伝えることは大事ですから、このことも指摘をしたんですね。

 木島 すでに九七年の時点で、関係閣僚会議や政府としての対策室、家族への情報提供など、今日とられている措置がたいてい提起されているのですね。

■98年の木島質問、民間の力も借り、確固たる事実をおさえて北朝鮮に迫れ
 ――木島さんの九八年の質問の経緯はどうなのですか。

 木島 私は九六年の再選後、北信越選出ですから、身近に横田さんたちともお会いしたことは話しましたが、そのことで人ごとではないなという感じを持っていたのです。
 しかし、調べてみると、政府が動いている感じがしない。警察も手付かず、外務省も手付かず、それで業を煮やしてああいう質問になったという感じです。
 横田さんご夫婦が私の部屋にみえられたときに、一番印象深いのは「政府からなんの情報も与えられていない、それがもう切ない」ということです。それは脳裏に焼き付いています。
 そういう思いでしたから、私も質問の中で、せめて富山の拉致未遂件の立件記録は見せてほしいと追及しました。不起訴記録ですから、日本の検察は基本的には見せないんですが、せめて拉致被害の家族のみなさんには、見せてやってほしいと。当時の原田刑事局長から「関係者との関係で検察官において個別に判断することは可能であろう」と答弁がでました。それは非常に印象深いですね。
 翌日、産経新聞が「家族らに開示可能 北朝鮮による拉致疑惑捜査記録、 衆院法務委で法務省見解」という見出しで大きくとりあげました。

 ――木島さんは、北朝鮮との交渉の状況を詳しく追及されていますね。

 木島 当時、いくら警察や外務省から事前の説明を受けても、北朝鮮とは接触がないからなにも情報がないんだという話でした。しかし、あらゆるパイプをみつけだして、日本政府は北朝鮮接触して、真相解明と消息を明らかにすべきじゃないかというのが、私の質問の中心でした。
 政府の側からは、赤十字会談でも拉致問題をちょっと話すと、北朝鮮が席を立って帰ってしまうような状況だという告白だけでした。国連を通じて何をやったんだと追及をしても、明石国連事務次長(当時)との話で、この問題を提起したというだけでした。その後、詰めているかと質問すると、詰めておりませんという答弁まであるのです。

 ――「日本の主権が侵害されたたいへんな事件だから、民間の力も借りて、あらゆる情報を集約して北朝鮮に迫ることが求められる」とも提起されていますね。

 木島 警察は「北朝鮮による拉致の疑い」を認定しておきながら、何もやっていないと感じたのです。だから思わずこういう言葉になったのかなと思います。
 いわば北朝鮮に確固たる事実をおさえて迫れということですね。

 橋本 外務省の審議官級の予備交渉でも拉致はないと軽くあしらわれる、与党訪朝団がいっても「一般的な行方不明者として調査」しましょうという程度だったのです。これでは、家族や国民の期待に応えるような拉致疑惑の解明の進展はできないことがはっきりしたと思うのです。だから両国の責任と権限のある者との間で交渉をしっかりやらないといけないという思いが、私の質問、木島さんの質問で非常に感じました。このままでは行き詰まり状況だったのです。

■99年の不破提案、“交渉での解決”を求める――局面は大きく変わった
 橋本 そこへ、不破委員長(当時)が、九九年一月と十一月の衆院本会議での代表質問で、この拉致問題を含めて北朝鮮とのあいだに正式に交渉の道を開くということを提起されたということに、私は感激したんです。

 木島 日本共産党の国会議員団が果たしてきた役割を、そういう一連の流れのなかで位置付けますと、橋本さんが活路を開き、諌山さんや私が突き進んで、これではもう限界というところで、不破さんが新しい提起をする。そこから局面は大きく変わってきたと思うのです。

 橋本 本当にそうなんですよ。なんぼ調べても、犯人に直接結びつく直接証拠は日本にないんです。しかし、政府は北朝鮮の犯行の疑いが濃厚だという判断をもつ状況であることは間違いない。そこからどう進むか、残された道は、両国間の確固とした交渉の場なのです。それ以外に、拉致問題が疑惑から事実へと移っていくプロセスはないわけです。それを提起をしたことは、最後の重要なステップとして、画期的な提案だと思いますよ。
 その証拠に、権限ある者同士の首脳会談で拉致の疑惑ははっきり事実になりました。もはや疑惑ではない。そういう意味で、議員団の質問の積み重ねと追及が不破さんの提案に結びついていったことは非常に重要であったと思っています。

 木島 私の質問が、もうこれ以上は真相はなかなか出てこないというギリギリのところでしたね。

 橋本 そういう意味では、今までのたたかいの蓄積がある上に、当時の不破委員長が提案されたあの時期は、実にいい時期だったのです。拉致問題解明の壁を取り払い、新しく転機をよぶ大事な時期だった。そこから新たな展開をしたのです。

 木島 北朝鮮が拉致の事実を認めたことをうけて、その日に発表した談話のなかで、志位委員長は、拉致はこれだけなのか、この犯罪をおこなった責任者はだれなのか、被害者はどのような扱いを受けたのか、などの問題、また、責任者の厳正な処罰、被害者への謝罪と補償の問題などを、提起しています。これらの解明は、まさにこれからです。橋本さんの拉致問題追及の初心を新たに生かして、がんばりたいと思います。

 ――きょうは、どうもありがとうございました。

■どういう思いで質問したか、諌山元参院議員にきく
 一九九〇年の参院地方行政委員会で拉致問題をとりあげた諌山博元参院議員に聞きました。

 ――この質問で諌山さんは、警察に捜査の進展をただして「厳正に速やかに調査」するよう求められました。当時、どういう思いをもってこの質問をされたのでしょうか。

 諌山 この時、オウム真理教による坂本弁護士一家拉致事件と並んで、北朝鮮がかかわるとされる拉致事件がいろいろと報道されていました。八八年の橋本質問への答弁ののち、この問題で、警察はどこまで本気で捜査をすすめているのか。これを確かめ、そして捜査が不十分だったら叱咤激励するという立場です。
 拉致事件は、いずれ、明らかにしなければならない問題でした。議事録を読み返しますと、「国民は大きな関心を持っており、外国に連れ去られたのではないかということになると日本の主権侵害にかかわる問題です」と言っています。しかし真相は何かわからなかった。明らかにする必要があるが、この真相究明をするのはやはり捜査権をもって事件を担当する警察です。警察を通じて明らかにするというのが本筋であり、そこで警察に捜査を確かめ、叱咤激励したかったのです。

 ――質問はどのように準備しましたか。

 諌山 新聞報道が材料でしたね。それしかなかったと思います。これは警察問題として法務部会の関係で、橋本(敦・前参院)議員と相談しました。それから国会対策委員会にも事前に相談して了解をとりました。

 ――今年九月の日朝首脳会談で拉致の事実を北朝鮮が認め、事件の真相解明は急展開しました。

 諌山 私の質問にたいしては、当時「全力を尽くしているが手がかりがない」というのが警察庁長官の答弁でした。その後もその状況はかわらなかったと思います。だから、こういう形で事実が明らかになってこようとは思わなかったです。相手が北朝鮮ですから、なかなか大変だろうと思っていました。不破さんが三年前の代表質問で、とにかく交渉ルートをもて、といったのは、やっぱり正論でしたね。その流れの中で明らかになってきているわけですから。

*1:2013年7月現在、公明党党首

*2:橋本内閣科学技術庁長官、森内閣金融再生委員会委員長、小泉内閣国家公安委員長財務相自民党政務調査会長(福田総裁時代)、福田内閣国交相自民党総裁などを歴任。2013年7月現在、第二次安倍内閣法相

*3:村山内閣自治相・国家公安委員長小渕内閣官房長官を歴任

*4:ウィキペによれば小川新一郎、鳥居一雄、西中清

*5:ウィキペに寄れば、猪熊重二、塩出啓典、和田教美

*6:蓮池薫さんと奥土祐木子さんの事件

*7:地村保志さんと浜本富貴恵さんの事件

*8:市川修一さんと増元るみ子さんの事件

*9:竹下内閣自治相・国家公安委員長、宇野内閣通産相、海部内閣法相、橋本内閣官房長官を歴任

*10:田中内閣防衛庁長官福田内閣科学技術庁長官、大平内閣行政管理庁長官、中曽根内閣通産相、竹下内閣外相を経て首相

*11:蓮池夫妻、地村夫妻、曽我さん

*12:全斗煥韓国大統領暗殺未遂事件

*13:羽田内閣で法相を務めたが、南京事件を否定する暴言で法相を引責辞任

*14:竹下内閣郵政相、村山内閣総務庁長官、小渕、森内閣建設相・国土庁長官拉致議連会長

*15:反共分子の謀略ですね、わかります