「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう・パート149(追記・訂正あり)

【2021年12月24日追記】
 情報(来年1月1日から7日まで、都内の早稲田松竹で、田中絹代の監督作品5本が上映される)(ほかにも、女優監督の話) - ライプツィヒの夏(別題:怠け者の美学)でこの拙記事を紹介いただきました。いつもありがとうございます。
【追記終わり】
■『映画監督・田中絹代ネタで色々書いてみる』パート1
田中絹代・生誕100年記念オフィシャルサイト(2009年、松竹)
https://www.shochiku.co.jp/kinuyo100/profile.html
下関市田中絹代ぶんか館サイト
http://kinuyo-bunka.jp/kinuyo/biography/post.html

https://www.shochiku.co.jp/kinuyo100/profile.html
 14才で映画界に入ると清純派スターとして人気急上昇、早々に松竹の看板女優となる。代表作『彼と田園』(28年)、『マダムと女房』(31年)、『伊豆の踊子』(33年)、『春琴抄・お琴と佐助』(35年)、『浪花女』(40年)のほか、空前のヒット作『愛染かつら』(38年)は今も語り草*1。戦後47、48年に『不死鳥』『夜の女たち』*2他が評価され、新設の毎日映画コンクールで連年女優賞を獲得*3、翌49年占領下の日本から日米親善芸術使節として渡米するなど大きな話題となった。
 その後も小津安二郎(『宗方姉妹』(50年)、『彼岸花』(58年))、溝口健二(『西鶴一代女』(52年)、『雨月物語』(53年))、成瀬巳喜男(『銀座化粧』(51年)、『流れる』(56年))、木下惠介(『楢山節考』(58年))など巨匠監督に迎えられ、数々の芸術性の高い名作に出演、晩年には『三婆』『サンダカン八番娼館・望郷』(ともに74年)で、老いの人生を臆せず演じきってベルリン国際映画祭では最優秀女優賞に輝いた。一方、日本最初の女優監督として『恋文』(53年)、『月は上りぬ』(55年)など6本もの作品を手がけたことは、国際的にも高い評価*4を受けている。

http://kinuyo-bunka.jp/kinuyo/biography/post.html
 14歳で銀幕デビューした絹代は、17歳で主演女優に抜擢され、67歳で没するまでの間、約250本の映画に出演しました。
 特に壮年期以降の円熟した演技は、海外でも高く評価されました。
 また、女優としては日本で初めての映画監督となり、6作品を発表しました。

 「ちょっとだけ」「申し訳程度」ですが松竹や田中記念館の公式サイトで「監督としての業績」に触れてることは正直驚きです。「黒歴史」として触れないかと思ってました。
 なお、「日本最初の女性監督」坂根田鶴子は「女優ではない」ので確かに「日本で二番目の女性監督」田中は「日本最初の女優監督」です。
 「いやそもそも女優監督なんて日本の映画史にほとんどおらんやろ」とは思いますが。

https://sentence.exblog.jp/6814326/
■映画収集狂『溝口健二の嫉妬』
 新藤兼人監督が書いた溝口健二に関する著書*5を読んでいると、溝口健二にとって田中絹代との関係を明らかにすることが、いかに大きな部分を占めていたか、つくづく実感されます。
 新藤兼人は書いています。
「『絹代のアタマでは、監督はできません』と、溝口健二が言ったと聞いて、絹代は真っ青になってふるえた。言い方があるだろう。絹代のアタマでとはなんだ。」
 新藤兼人は、溝口のこの苦言を「出来ない監督業なんかやって、いままで築いてきた女優としての田中絹代の名前を汚すことはない。」という思いがあったからだと解釈していました。
 そして、その言葉の裏には、田中絹代が名前を落とすことによって、(ボーガス注:田中が主演した)自分の作品の評判が落ちることをなによりも恐れたのだとしています。
 しかし、カッとくると前後の見境がなくなって何を言い出すか分からないといわれた短気な溝口健二が、そこまでの深謀遠慮を尽くしての物言いをするとは、僕にはどうしても考えられないのです。
 ここは、どうしても、溝口健二が前後の見境がなくなりカッとして「絹代のアタマでは、監督はできません」と言ったという方を信じたいと思っています。
 この暴言を吐いた当の相手は、(ボーガス注:田中ではなく)小津安二郎でした。
 監督協会の理事をしていた小津安二郎が、協会の資金稼ぎの責任をはたすために、自分が松竹で撮るために用意していたシナリオ「月は上りぬ」*6田中絹代の監督でやることを提案し、協会理事の小津自ら監督交渉を田中絹代に持ちかけています。
 田中絹代がこの小津安二郎の依頼を、初監督作「恋文」が評価されたと受け取り喜んだと想像するのは、それほど困難なことではありません。
(中略)
 (ボーガス注:田中主演で小津の)「風の中の牝鶏」が撮られた同じ時期に、溝口健二田中絹代で撮った作品「歌麿をめぐる5人の女」、「女優須磨子の恋」、「夜の女たち」、「わが恋は燃えぬ」などのどの作品と比較しても、小津演出の田中絹代が、はるかに(溝口健二の演出では果たせなかった)「ナマの女」を演じ切っているような気がします。
 電話口で溝口健二小津安二郎に吐いた「絹代のアタマでは、監督はできません」という激しい言葉は、溝口健二の中で小津安二郎に対して長い間燻っていたものが、ある切っ掛けを得て噴出しただけのような気がしてならないのです。

 「へえ」ですね。小津が監督としての田中の才能を認めてオファーしたとは「田中には失礼ながら」とても思えませんが、このブログ記事を信じれば「田中から小津に協力依頼(それを小津が快諾)」ではなく「その逆」だったわけです。しかもそれは小津個人ではなく「監督協会理事としての依頼」でした。
 そしてこの小津のオファーが、小津映画「風の中の雌鶏」に田中が主演したこと*7とセットで

「俺が田中の監督業に反対してるのは知ってるはずなのに、田中に監督オファーとか、小津の野郎、なめてるのか」
「そういうことを言って、田中をたらしこんで俺から引き離して、自分の映画専属にする気か。小津は汚い野郎だ」

と「短気な溝口」をマジギレさせたことは間違いないでしょう。小津の方にも確かにそういう思惑があったかもしれませんが。
 それにしても

「小津さん、あんたやり方が汚いぞ。そこまでして田中をあんたの子飼いにしたいか」
「あんた本気で田中を監督に育てる気があるのか」
「俺が田中の監督業に反対してるのはあんたも知ってるはずだ。俺を挑発してるのか」

などと言えずに「田中絹代に悪口」して田中を憤激させ、かえって小津寄りにしてしまう溝口もどうかと思います。
 やはり巨匠・小津相手には悪口もしづらいんでしょう(もちろん小津個人ではなく『監督協会としての依頼』になってるつう点も批判しづらい理由でしょうが。このあたり小津もなかなかの策士です)。その結果、攻撃の矛先が、溝口が「自分の子分としか思ってない」田中にいくと。そして溝口は切れると「小津に田中の悪口なんか言ったら小津が喜ぶだけだから、『あんた田中を囲い込みたいからこういうことやるんじゃないのか?、本気で田中を映画監督として育てる気があるのか?』など、小津批判はしても田中批判はできるだけ避けよう」とか、その種の計算が全くできないんでしょう。

https://jack4afric.exblog.jp/17313851/
■ジャックの談話室『田中絹代:女優の鑑』(1909〜1977)
 その後、彼女は女優出身の監督第1号(第2号は左幸子)として「お吟さま」(1962)など6本の作品を監督します。

 早速ウィキペディア左幸子」を見てみます。ちなみに「ただの偶然ですが」彼女には「ベルリン国際映画祭女優賞受賞」つう別の「田中絹代との共通点」があります。

左幸子ウィキペディア参照)
 1977年には『遠い一本の道』監督・主演。当時の国鉄労働組合が1億円の資金を提供し、田中絹代に次ぐ女優監督となった*8

 当初『この映画、「国鉄マンの日常生活を描いた作品」のようですが、ググっても内容がよくわからない。』と書きましたが幸いにもコメ欄でhttps://movie.walkerplus.com/mv18574/をご紹介いただきました。「合理化(もちろん一般的な意味ではなく、国鉄当局が実際に進めた合理化ですが)反対」がテーマのようです。主人公の国鉄マンが井川比佐志、その妻が監督でもある左幸子、彼らの娘が市毛良枝です。「左幸子の志」は評価しますがあまり話題にならなかったということは田中同様、やはり「作品としては?マークがつく」のでしょう。山田洋次あたりがやればまた話は違った、つうか左が目指したのはそんな感じなのかなと言う気がします。
 それにしても、国労全面協力とは時代を感じさせます。

http://www.momak.go.jp/Japanese/films/2016/momakFilms4.html
京都国立近代美術館『女性監督 田中絹代特集』(2016年11月5日(土)・6日(日))
 現代は日本で女性映画監督が数多く活躍しているが、歴史を振り返ると、戦前・戦中には文化映画で活躍した坂根田鶴子(1909〜1975)が、そして戦後では1953年から1962年の間に6本の劇映画を監督した田中絹代(1910〜1977)がもっとも有名である。本プログラムでは、女の視点から男女の愛と性を描いた田中絹代の4作品を振り返り、日本映画史の読み直しをはかりたい。
■企画協力
北小路隆志*9(映画評論家/京都造形芸術大学准教授)
板倉史明*10神戸大学大学院准教授)
■11月5日(土)14:00-15:42
『月は上りぬ』 1955年(日活)
 監督第2作。戦争中に東京から奈良へ疎開してきた父(笠智衆)と3姉妹(山根壽子、杉葉子北原三枝*11)の家族を主人公に、3姉妹の恋愛模様が繊細な心理描写によって丁寧に描かれる。
 東大寺奈良公園若草山など、奈良の美しい風景も楽しみのひとつ。(ボーガス注:小津脚本だけに)小津的なローポジションのショットが散見されるのも興味深い。
■11月5日(土)15:55-17:45
『乳房よ永遠なれ』 1955年(日活)
 監督第3作。乳がんのため若くして世を去った薄幸の歌人中城ふみ子の生涯を、田中澄江*12が脚色。松竹から移籍した月丘夢路がヒロインを演じ、乳がんで乳房を失った女性の苦悩や欲望が、女性による脚本と演出によって大胆に描かれる。
■11月6日(日)14:00-15:42
流転の王妃』 1960年(大映東京)
 監督第4作。満州国皇帝溥儀の弟溥傑に嫁いだ愛新覚羅浩の波乱に富んだ自伝を、和田夏十が脚色し、ヒロイン(役名は呼倫覚羅竜子)には京マチ子が扮している。 歴史の荒波に翻弄されながらも、夫や子どもとのきずなを胸に、たくましく生きる女の姿が描かれる。
■11月6日(日)15:55-17:27
『女ばかりの夜』 1961年(東京映画)
 田中絹代の5作目の監督作品で、元売春婦たちが社会的な自立を目指して更生を試みるが、彼女らに対する偏見に満ちた社会の現実に直面する。「彼女たちの中にある人間らしさ、純真なもの」を描き出そうとした」(キネマ旬報287号)田中は、実際に更生施設で女性達に取材して撮影に臨んだ。

 紹介文だけ見ると「面白そうで、すごく見たくなる(苦笑)」(これは2016年企画ですので今はもちろん見れません)。
 ちなみに『月は上りぬ』(脚本が小津)の画像が京都国立近代美術館サイトに貼ってありますが、「父親」笠智衆(小津映画の常連)が娘と縁側にいて、完全に雰囲気が小津映画です。
 「小津映画のワンシーンです」といわれたら信じそうなくらいです。


■『日本映画史に映画監督として絹代さんの名を刻むきっかけになれば。:「映画監督 田中絹代」著者、津田なおみさんインタビュー』
http://cineref.com/news/2018/05/director-tanakakinuyo.html
津川雅彦氏、天国へ。こっそり言うけどこの人が監督した「次郎長三国志」結構好きだった(三浦の個人ブログ)
http://miura.trycomp.net/?p=4759
についてコメントする際に、津川以外に俳優出身(?)の映画監督いねえか、ということでぐぐって見つけた記事です。
 失礼ながら「田中作品が知られてない」つうことは「作品的にあまり評価できない」つうことではあるのでしょう。
 「名選手必ずしも名監督(名指導者)ならず(例:巨人の長嶋)」同様に「名俳優必ずしも」つうことでしょう。
 「選手や俳優」としてすごくてもそれは「監督として全体を見事にコントロールできる」つうことを必ずしも意味しません。
 しかし田中絹代には『日本で二人目の女性映画監督』という価値がありますが津川にはそんなもんありませんからね。かつ津川は、田中絹代ほどの「昭和を代表する名優」でも(以下、「武士の情け」で自主規制)。
 津川のウヨ仲間でも今後『映画監督・津川雅彦』なんて本は書かないのでしょう(苦笑)。
 しかしこれを機会に『田中絹代監督全作品DVD化』されれば面白いですが、やはり無理か?

http://cineref.com/news/2018/05/director-tanakakinuyo.html
 シネマパーソナリティーの津田なおみさんが、初の著書となる「映画監督 田中絹代」を(ボーガス注:2018年)5月11日に出版した。サイレント映画の時代から活躍し、戦中、戦後と常にトップスターとして注目を浴びた田中絹代。300本近くの映画に出演し、『愛染かつら』『女優須磨子*13の恋』『西鶴一代女』『雨月物語』『楢山節考』『おとうと』等多数の代表作*14で知られる大女優には、映画監督としての顔もあった。なぜ監督になりたかったのか。監督として描きたかったことは。津田さんの優しい語り口そのままに、田中絹代の監督としての一面や、全6作品に迫っている。日本映画の変遷も分かりやすく解説され、映画初心者にもオススメしたい一冊だ。著者の津田なおみさんに、お話を伺った。
■インタビュアー:
 元々は女性監督のことを研究しようと思ったところから、スタートされたそうですね。
■津田:
 日頃から映画のことを書いたり、話したりさせていただいていますが、どうしても物の見方が主観的になってしまうので、もっと映画を分析する力を付けるために2012年に大学院に入学しました。修士論文のテーマに女性監督を取り上げようと考え、日本に的を絞って女性監督を調べていると、田中絹代さんの名前が出てきたのです。絹代さんは大女優ですが、その時まで彼女が監督をしていたことは知らなかった。しかもなんと6本も監督作があるのには本当に驚きました。絹代さんを監督として取り上げた書籍は今までなかったですし、研究論文も監督作の中の数本を取り上げたものはあっても、全作品をまとめて研究したものはありませんでした。指導教授からも勧められ、私も「自分で研究しよう」と思ったのが始まりですね。
 調べはじめると、大変でした。論文が何もないので、まず文献を集めるところから始めなければならず、(ボーガス注:ほとんどの作品がDVD化されてないので)作品を安易に観ることもできません。
■インタビュアー
 著書では、この6本のことを細かく分析されていますが、どうやってご覧になったのですか?
■津田:
 (ボーガス注:東京国立近代美術館の)フィルムセンター*15アーカイブで全作品が保管されています。研究者は申請をすれば観ることができる*16ので、センター内の試写室にたった一人で2日間に分けて6本全て観ました。一人田中絹代監督映画祭です(笑)。(ボーガス注:監督デビュー作である)『恋文』は(ボーガス注:新東宝*17映画傑作選の一本として)DVDが発売されているので取り寄せましたが、それ以外の作品は本を執筆するのに1度観ただけでは書けないので、最終的には修士論文を書く2年間で3回観に行きました。
■インタビュアー:
 特に、探すのに苦労したのは(ボーガス注:田中の)どんなコメントですか?
■津田:
 彼女がなぜ6作品で監督を辞めてしまったのか。私はそこがどうしても知りたかったのですが、あまり分からなかったのです。本文で触れていますが、6作目の『お吟さま*18』撮影当時、宮川一夫*19と並び撮影界の巨匠と呼ばれた宮島義勇*20に、監督だった絹代さんは随分絞られていたそうです。文献の裏付けは取れませんでしたが、その様子を見た、聞いたという話を多数の方から伺い、その状況なら彼女はこう思うだろうと、私なりの考察で書いています。監督を続けなかったことに関してご本人もあまり語っておらず、今回の執筆で一番苦労した部分でした。
■インタビュアー:
 当時を知っている方の証言として、神戸100年映画祭のゲストで来場された香川京子さんのコメントも掲載されています。
■津田:
 香川さんは、バッシング*21を受けて自宅に籠っていた絹代さんを訊ねた時のことを語って下さいました。他にも、「(ボーガス注:ただの名義貸しで)監督をしていないように言われることもありましたが、絹代さんはちゃんと監督していらっしゃいましたよ」とおっしゃっていたのです。昔の事なので詳しくは覚えておられず、本にはこのコメントは書いていませんが、香川さんは今まで何度も、絹代さんが現場でちゃんと監督をしていたのかと聞かれていたのだと思います。実は、『お吟さま』主演の有馬稲子さんにもお手紙を書き、取材を申し入れたのですが、「女優としては尊敬しておりますけど(ボーガス注:監督としてはちょっと?)…」と取材は叶いませんでした。当時のことを知っておられる方がどんどん少なくなってしまい、あと10年早く着手できていれば、もっと多くのお話が伺えた*22のにと、つくづく思いましたね。
■インタビュアー:
 (ボーガス注:死去された方や消息がわからない方などが多く?)証言を得るにもかなり難しい状況の中、原作者のお子様で、撮影中に田中絹代監督と交流された方とお会いできたそうですね。
■津田:
 5作目となる映画『流転の王妃 満州宮廷の悲劇』原作者の愛新覚羅浩*23さんの次女、福永こ生(こせい)さん*24です。こ生さんは、ご両親の写真を関西学院大学に寄贈されています。本書にも掲載させていただいている写真が偶然展示されていたので、大学を通じてこ生さんをご紹介いただきました。もう50年ほど前の話ですが、絹代さんはとても気さくで「あなた(映画に)出たらいいのよ」と何度も声をかけて下さっていたそうです。
■インタビュアー:
 一番多くの資料を提供してくださったのが、下関にある田中絹代記念館だったそうですが、記念館の成り立ちも含め、取材のエピソードを教えていただけますか?
■津田:
 田中絹代さんは下関出身です。生涯独身を通したので、遺品は又従弟の小林正樹*25監督が管理をされていました。小林監督が下関に彼女の遺品を集めた記念館を作ろうと動き、2010年に小林監督が管理していた遺品を下関市に譲渡し、オープンしたのが田中絹代記念館です。絹代さんが当時使っていた監督台本もありますし、着用していた帽子やハイヒール、自宅に置いていた棚など、絹代さんの私物が本当にたくさんあるのです。季節ごとに展示も変わりますし、監督コーナーには、監督協会に入っていたことを示す書類や、影響を受けた監督として溝口監督などの写真も飾られていました。また、小林正樹監督が作られた毎日映画コンクール田中絹代賞の過去受賞女優も展示されています。事務局長からは「監督として書かれた本はないので、是非頑張ってください」と激励していただき、色々とお力を貸していただきました。
■インタビュアー:
 地道な資料の読み込みを重ねて、女優田中絹代が監督を志した動機を津田さんなりの仮設を立てながら章立てで解き明かしています。最終的には映画しかなかったというのが、一番強い動機に見えますね。
■津田:
 本書でも触れていますが、家族を経済的に支えているのは絹代さんでした。彼女の肩に全員の生活がかかっていたのです。また、先日(ボーガス注:女優の)蒼井優さん*26が「私は映画に関わっている人たちとずっと生きていたい」とおっしゃっていたのですが。田中絹代さんもそう思っていたのではないかと。この映画業界が大好きだし、(女優として)もう若くないと言われても、なんとしてでも映画業界に生き残りたい。だからいつか監督できたらとずっと思っておられたのではないでしょうか。
■インタビュアー:
 6本も残しながら、作品の評価は当時あまり高くないと本書でも書かれていますが、実際にご覧になった津田さんの評価はどうですか?また、一番好きな作品は?
■津田:
 作風があまりにも一作ずつ違うのには驚きましたが、例えば「そんなに小津監督風に撮らなくてもいいのでは」と思う一方、小津風に撮れるのは逆にすごいなとも思います。一番好きなのは3作目の『乳房よ永遠なれ』です。本当に不思議な角度で撮っています。例えば乳がんで乳房を切除した主人公がベッドに仰向けになっており、その上から恋人が覆いかぶさる図を、ベッドの下から撮っています。透明のベッドなのでしょうか、主人公の背中と恋人の顔が見えて、斜め上に電球が見える。男性監督なら、死を間際に恋人と一体になる喜びを噛みしめる女性の顔を映すでしょうが、絹代さんはそうはしなかった。アップになるのは、喜んでいるだけではない戸惑いも見える恋人の顔です。愛しているとはいえ、相手は病気なのですから。一方、表情が映らない主人公は、何を思っているのか分からない。視点を変えて、面白い撮り方をしています。『乳房よ永遠なれ』は女性の性欲を描きながらも、生々しくなり過ぎないように鏡を使ったり、背中で見せたり、少しオブラートに包みながら、言いたいことを表現しています。そこが上手いと思いました。
■インタビュアー:
 『乳房よ永遠なれ』までの初期2本は、周りが「監督、田中絹代を失敗させてはいけない」と、(ボーガス注:溝口健二を除いて?)映画業界をあげて全力支援していたのも、当時の日本映画界の裏事情が垣間見えるエピソードでした。
■津田:
 今で言えば、吉永小百合さん*27が監督するようなものですから。絶対に失敗させられないと皆が思っていたはずです。でも絹代さんは、初監督の前に、成瀬監督の『あにいもうと』の撮影では監督見習いとしてずっと撮影に立ち会った努力家でした。(ボーガス注:田中の監督志望を聞いて)(「絹代の頭では監督できない」と言い放った)(ボーガス注:毒舌家)溝口監督に対して「この人に認められなければ」という気持ちがずっとあったのでしょう。必死だったのだと思います。溝口監督が亡くなった後、『サンダカン八番娼館 望郷』でベルリン国際映画祭最優秀女優賞を受賞した際、「監督したことがこの賞に結び付いたことを、溝口健二に言いたい」という趣旨のコメント(原文は著書「映画監督 田中絹代」に掲載)を残していますが、あれが本音だと思います。女性監督第一号の坂根田鶴子さんは監督としての仕事に迫った本が(ボーガス注:大西悦子『溝口健二を愛した女:女流映画監督第一号・坂根田鶴子の生涯』(1993年、三一書房)、池川玲子『「帝国」の映画監督 坂根田鶴子』(2012年、吉川弘文館)と)2冊(いずれも女性著者)出版されているのに、絹代さんの本がなかったのも、他の監督たちが力を貸した作品だから、彼女の作品と認められてこなかったのでしょう。でも、私は監督として最終的にOKを出す以上、どれだけサポートがあってもそれは絹代監督の作品だと思います。
■インタビュアー:
 確かにそうですね。それらの作品全てを解き明かすだけでなく、日本映画の黎明期からの流れや当時の日本の状況も丁寧に解説しながら進行するので、すっと頭の中に内容が入ってきます。津田さんが語っているような優しい文体で、「小説 田中絹代」のように絹代さんの人物像が立ち上がってきますね。
■津田:
 田中絹代さんが生きた時代がどうであったか。そして日本映画界がどういう動きをしていたか。作品は、その時代に置かなければ分からないことがたくさんあるので、昭和初期から戦後の映画のことを分からない方にも理解していただけるように、並行して分かりやすく書くことを、とにかく心がけました。
■インタビュアー:
 監督として作った作品の中に、どんな意義があったのかを、(ボーガス注:津田さんは著書において)女性ならではの視点で考察しています。
■津田:
 (ボーガス注:主人公の女性が若くして乳がんで死ぬ第三作『乳房よ永遠なれ』、主人公の女性・愛新覚羅浩が満州国の崩壊で苦労する第四作『流転の王妃』、主人公の女性(元売春婦)が差別と偏見に苦しむ第五作『女ばかりの夜』、主人公の女性が自害する第六作(最終作品)『お吟さま』と)どの作品もヒロインは悲しい目に遭うのですが、最後は必ず立ち上がる。そこは一貫しています。自分で死ぬと決めて死ぬことも(『お吟さま』)自立として描きます。絶対に男に迎合しないです。2作目の『月は上りぬ』は小津監督が脚本を手掛けており、前時代的な台詞を言わされている箇所もありますが、最終的には家から出るという形をとり、少し先をいく女性を描く意図が読み取れます。彼女自身がそういう女性が主人公になる映画がないと憂いていたのでしょう。
■インタビュアー:
 監督としての田中絹代さんに焦点を当てた本を書かれた今、改めて彼女の人生をどう感じましたか?
■津田:
 きちんと日本映画史に点を残した人だと思います。絹代さんが映画監督であったことは、今まで素通りされていました。この本を執筆したことで、絹代さんはささやかではあっても、きちんと女性が活躍する社会が本当に来ればいいと思い、監督した6作品できちんと点を残してきた。それが面になればいいのにと思っていた人だと私自身も実感できました。その一方で、(ボーガス注:田中に監督なんかできないと言い放った)溝口監督にとても執着していたことから、負けず嫌いな点もあったのでしょう。そして色々な映画監督が放っておけない面もお持ちだった。絹代さんは本当に言葉遣いが丁寧です。監督として普通なら「よーい、スタート!」と言う場面でも、「今から参ります」という具合で、どんな人にもとても丁寧な応対をされる方でした。だからいい意味で“監督田中絹代”を演じて6作品を作った人だと思います。一生田中絹代を演じ続けた。一方、自宅ではいつも電話の前で、オファーの電話がかかるのを待っていると何かで読んだことがあります。素の彼女は孤独だったのでしょう。全てを映画に捧げ、プライベートも演じきった人ではなかったのでしょうか。
■インタビュアー:
 ありがとうございました。最後に、メッセージをお願いいたします。
■津田:
 私は、日本映画史の年表の中に「田中絹代監督」をきちんと入れるきっかけになればと思い、執筆しました。今は「女性監督特集」というくくりでは記載されても、映画監督本になると、田中絹代が入っていないのです。それどころか、女性監督はほとんど入っていません。この本は薄いですし、まだまだ深める余地がたくさんありますから、「田中絹代は映画監督だった」ともっと多くの方に知っていただき、研究していただいたり、女性監督が羽ばたく起点を再発見してもらえるとうれしいです。

 ウィキペディア田中絹代」によれば彼女の監督作品6作とは

・『恋文』(1953年、新東宝
・『月は上りぬ』(1955年、日活)
・『乳房よ永遠なれ』(1955年、日活)
・『流転の王妃』(1960年、大映
・『女ばかりの夜』(1961年、東京映画)
・『お吟さま』(1962年、文芸プロ)

です。
 俳優、脚本もすごいです。『お吟様』主演(お吟役)が「有馬稲子*28」てのは既に上の引用文でわかりますが、

■『流転の王妃』(ウィキペ参照)
■脚本
 和田夏十(わだなっと)
  脚本家。映画監督・市川崑の妻。映画『ビルマの竪琴』など、市川作品の脚本などで知られる。
■キャスト
・愛新覚羅浩(京マチ子
愛新覚羅溥傑船越英二

で、他の映画では「俺の知ってる名前では」出演者が

■『恋文』
 森雅之宇野重吉*29久我美子香川京子
■『月は上りぬ』
 笠智衆*30佐野周二*31
■『女ばかりの夜』
 淡島千景沢村貞子香川京子菅井きん平田昭彦*32

などです(ウィキペディア等、ネット情報を参照)。「さすが昭和の大女優」です(なお、下の方に書きましたが『恋文』は脚本が木下恵介、『月は上りぬ』は脚本が小津安二郎です)。
 ちなみに『流転の王妃』は2003年にテレ朝開局45周年記念ドラマ『流転の王妃・最後の皇弟』としてドラマ化されてるそうで、このときは

■『流転の王妃・最後の皇弟』(ウィキペ参照)
■キャスト
・愛新覚羅浩(常盤貴子
愛新覚羅溥傑竹野内豊

です。
 こういうとき、ウィキペディアは実に便利です。
・引用文中、太字部分は俺の強調です。『宮島義勇に絞られた』のが苦痛でやめたつうことですかね。それでも興行的に当たれば我慢できたのでしょうけど。
・「2作目までは映画界全面協力」と津田氏が語っていますが

http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20140114/p1
■勝手に視やがれ!!テマティック批評計画『乳房よ永遠なれ』(田中絹代、1955)、から一部引用
 木下恵介*33脚本による監督第1作『恋文』(1953)、斎藤良輔小津安二郎脚本による第2作『月は上りぬ』

だそうですからね。
 木下脚本、小津脚本だの、一般人にはとてもかなうことではありません。
 またウィキペディア田中絹代』にもこうした映画界の協力については

・1952年2月、丹羽文雄原作の『恋文』で映画監督業へ進出することを発表。相談相手の成瀬巳喜男監督の映画『あにいもうと』に監督見習いとして加わり、成瀬監督自身から手ほどきを受けた。そして12月に『恋文』を公開、日本で二人目の女性監督の誕生となった。1954年(昭和29年)7月には監督2作目の『月は上りぬ』の製作を発表。しかし、いわゆる五社協定(松竹、東宝大映、新東宝東映)に加盟していない日活での製作ということもあって、日本映画監督協会理事長である溝口健二に反対される。田中は溝口の反対を無視し、小津安二郎の協力で映画を完成させたが、これが原因で溝口との関係を疎遠なものにしてしまう。

と「成瀬と小津の協力」が書かれています。
 なお、話が脱線しますが、田中が監督見習いをしたという『あにいもうと』は

■映画『あにいもうと』(1952年版)
 兄:森雅之、妹:京マチ子キネマ旬報ベストテン第5位。

でその後も

■NET(現在のテレビ朝日)のテレビドラマ『あにいもうと』(1960年版)
 兄:森雅之、妹:水谷八重子
■TBSのテレビドラマ『あにいもうと』(1972年版)
 脚本:山田洋次、兄:渥美清、妹:倍賞千恵子
■映画『あにいもうと』(1976年版)
 今井正監督。兄:草刈正雄、妹:秋吉久美子キネマ旬報ベストテン第6位。ブルーリボン賞主演女優賞(秋吉久美子)、助演男優賞大滝秀治)受賞。
テレビ東京のテレビドラマ『あにいもうと』(1995年版)
 兄:杉本哲太、妹:寺島しのぶ
■TBSのテレビドラマ『あにいもうと』(2018年版)
 脚本:山田洋次、兄:大泉洋、妹:宮崎あおい

と何度か作成されています(ウィキペディアあにいもうと」参照)。しかし、1972年版TBSドラマは「それ完全に『男はつらいよ』やないか(苦笑)」ですね。
 話を元に戻しますが、『繰り返します』が「さすが昭和の大女優」です。ただ、成瀬や小津の場合「溝口が反対してるのなら応援しよう」つう「溝口への反感」もあったかもしれません(俺の認識では溝口は多くの人間から嫌われています)。
 なお、この第三作『乳房よ永遠なれ』(1955年)、乳がんで早死にした歌人中城ふみ子(1922〜1954年)が主人公のようです。
 中城についてはTBSドラマ愛の劇場『乳房よ永遠に』(1972年)なんてのもあるようです(ウィキペディア『乳房よ永遠に』参照)。
 しかし

http://d.hatena.ne.jp/jennjenn/20140114/p1
■勝手に視やがれ!!テマティック批評計画『乳房よ永遠なれ』(田中絹代、1955)、から一部引用
 とにかくこれは驚くべき傑作だ。
 島津保次郎清水宏小津安二郎五所平之助溝口健二成瀬巳喜男といった監督たちの現場で、映画の知識を学んできた田中絹代の演出力は、女性監督としては、たとえばアニエス・ヴァルダ*34ソフィア・コッポラ*35よりは数段上であるのは間違いない。
 再評価をもっと進めるためにも、たとえばアイダ・ルピノ*36×田中絹代映画祭といった、日米女優=監督対決企画なんかを、ぜひ実現してほしいものだ。

という好評価は果たしてどうなのか?
 一方で

https://sentence.exblog.jp/12589044/
■映画収集狂『女ばかりの夜』、から一部引用
 田中絹代監督「女ばかりの夜」を見た感想を友人から求められました。
 この作品は、溝口監督の「赤線地帯」や「夜の女たち」とは、明らかに異なる視点から撮られた作品です。
 溝口健二作品が、娼婦たちの視点から(敵意に満ちて差別する世間を睨みかえすような視点です)撮られた作品だとすると、田中絹代作品は、世間の眼から娼婦たちを客観的(侮蔑的)に見すえた、眉を顰めて距離をとるような常識的な作品にすぎない*37といえるかもしれません。
 「女ばかりの夜」に登場してくる更生を目指している娼婦たちは、カタギの一般市民にとっては、結局のところ、男たちに体を売って生活するしか能力のない異常で少し頭のオカシナ哀れな女たちだと決め付ける世間の眼差しに炙られるような描かれ方をしているにすぎません。
 (ボーガス注:昭和の大女優として評価される)田中絹代という人が、女優としてはともかく、映画監督としてどのくらいの資質があったのか、この「女ばかりの夜」という作品に限って言えば、やはり、溝口健二が危惧した*38とおりのものだったのかと思わざるを得ないのだろうかというのが、僕の率直な感想でした。
 僕の感じた彼女の「限界」が、まんざら見当違いでもなかったことは、その後、田中絹代が映画監督であり続けることができなかったことを見れば、分かるような気がします。
 しかし、そういう思いが、女優としての田中絹代の評価にいささかでも影響を及ぼしてはならないことと肝に銘じました。
 亡くなってから既にもう長年月を経過し、しかも、かなり晩年になってからのごく僅かな期間の田中絹代しか知らない自分ごときが、とやかくウンヌンできるようなことではありませんが、その生涯を女優として全うした彼女の意志の強さに対する強烈な印象が、いまだに僕の中で生き続けています。
 若くて美しい盛りを過ぎた女優たちが、いつの間にか映画界から遠のいていくという現実が一方にあって、しかし、あえてなお、女優一筋で生涯を全うしようということが、どういうことなのかを痛切に考えたことがありました。
 そこではきっと、若くて美しかったキャピキャピの娘時代の好印象をいつまでも抱いているファンの前に、あえて老醜をこれ見よがしに晒さねばならない決意と勇気が必要とされたはずですし、女優自信、ファンには美しいままの自分をいつまでも記憶していてもらいたいと思うことは、美しさや可愛らしさで売ってきた女優ならなおさら、当然に抱く思いのはずです*39
 しかし、田中絹代が、娘役を演じるには到底ふさわしくない自身の年代を徐々に意識しはじめたとき、「俳優」であり続けることの危機感をつのらせ、日頃身近に見てきた「映画監督」の途に思い至ったことは、「そうだろうな」という思いと同時に、あまりにも軽はずみで無謀な思いつきだという思いは禁じられません。
 女優であり続けることの将来に対する危機感は抱くことができても、すぐにでも「映画監督」になれると安直に思いつく見通しの甘さ=将来への危機感の方は、まったく抱くことができなかったように見受けられます*40
 新藤兼人*41が書いた田中絹代の伝記(ボーガス注:『小説 田中絹代』(1986年、文春文庫))を読んでいて随所に感じるのは、人生の大切な節目で生き方の選択を誤る彼女の軽率さと、人間性を疑うような底なしの楽観であり、「映画監督」になろうとした行為もまた、意地悪く見れば、あのアメリカかぶれの「投げキッス」と同質のものと考えることができるかもしれません。
 しかし、彼女の軽率さを示す数々のエピソードを読んでいても、そこに少しも不快感を感じることがないという違和感に囚われるのも、また事実です。
 たとえそれらが失笑を誘うような軽率な行為であり、確かに人気絶頂のさ中で限りなくのぼせ上がった、思いの浅い軽率で傲慢な田中絹代という女がそこには息づいてはいるのですが、しかしその「軽率さ」のどれもが、その「無思慮」のどれもが、むしろ不快感を抱かせないのは、きっと、そのすべての愚行が、「映画」に対する盲目的な愛と限りない信奉とによって吸収されてしまっているからではないかという感じがしてなりません。
 映画に対する思いだけは十分に善良な、そして、映画にその生涯のすべてを捧げたひとりの女優がしっかりと存在していて、それこそが彼女の魅力なのだという思いがします。
 若さを失えば、その老いを逆手にとって(ボーガス注:映画「楢山節考」で)老醜を演じ切り、さらにトップ女優でいることの困難に直面すれば「映画監督」の途を模索したことも、あのアメリカかぶれの「投げキッス」などもひっくるめてさえ、すべてが許されるべもののようにも感じられてきました。
 「俳優」でありつづけるために、大切な何かを失ってきたことが、彼女の「軽率さ」というのなら、その「軽率」はとても愛すべきもののような気がします。
 それどころか、「映画」から外れそうになる自身を叱咤して、その一本道をひたすら歩むことの意思力は、きっと並大抵のものではなかったという畏怖のようなものさえ感じています。
 初々しい美形の幼な妻の役から、憚ることなく老醜をこれでもかと大衆の前に晒すことに、女優として、むしろ自負をさえ抱いたのではないかと見えたのは、自分の演技に対する確固たる自信というよりも、「映画」に仕えている自負がなければ、到底なし得なかったのだろうなと思います。
 あの「サンダカン八番娼館・望郷」が、演技の結実=集大成だったという当時の論調に接したとき、同時に、女優開眼という出発点として溝口健二の「西鶴一代女」が上げられていました。
 そのような背景を見据えながら、年を重ねていく田中絹代が、女優としてこのままやっていくことに不安と限界を感じ、映画監督の途を模索したとき、彼女の転進を溝口健二が強硬に阻んだというエピソードを知った溝口健二は、その田中絹代の軽率で安直な映画監督への転進の思いつきに対して、(ボーガス注:映画監督としての自分を田中に)侮辱された*42と感情的に反応したのだと思います。
 強硬なその溝口健二の反対に対して、生涯のコンビを解消させてまで頑として従わなかった田中絹代の強情さ=意思の強さを、「一本筋が通った十分に納得できるもの」というような言い方をしてもいいのか、長い間疑問でした。
 溝口健二が短気で直情的なら、田中絹代も短気で直情的でおまけに軽率だったからこそ、当然のような「決別」がもたらされたのだと思います。
 日本映画界にとって、至宝といわれたコンビがこんなカタチで解消されてしまったこと*43に、どんな理屈付けをしても始まらないような気がします。
 長年抱いてきた疑問があります。田中絹代が、生涯を女優として昂然と生きたと同じように、なぜ「映画監督」として生き続けることができなかったのだろうか、という疑問です。
 もっともこれは、彼女が撮った作品を一本も見ていない段階での素朴な漠然とした僕の疑問*44だったのですが、今回見た「女ばかりの夜」によって、(ボーガス注:映画監督としての限界があったからではないかと)その疑問の一端は氷解したかたちになりました。

つう映画監督作品への酷評(とはいえ女優としての彼女はさすがに評価していますが)も見つかりましたが。
 最後に他にも田中監督作品批評記事を紹介しておきます。

http://home.f05.itscom.net/kota2/jmov/2010_01/100163.html
■日本映画の感想文『女ばかりの夜』
 高校中退で知能指数が高いため、優等生とされた邦子(原知佐子)は(中略)米屋に住み込みの家政婦として就職する。
 美人の原知佐子に、店員(大村千吉)はもうドキドキである。店主(桂小金治*45)だけが身元を知っていたのだが、鬼みたいな奥さん(中北千枝子)にバレたらせっかく超低賃金でこき使える女中がNGになってしまうんじゃないかと思って黙っていた。
 ついに彼女の身元が大村千吉たちにバレてしまう。それまではハレモノのような扱いだったのが、元赤線と分かると「ヤラせてもらえる」と思い込む男たちの下劣さにウンザリな原知佐子である。
 原知佐子はものすごく真面目に更正しようとしていた。健気にも寮長(淡島千景)に頑張る様子を手紙で知らせていたのだが、元は赤線の女だと中北千枝子も知るところとなった。月給が安いのはガマンできたけど、まるで病原菌のような扱いをされて、ついにキレてしまい、(中略)店を出て行ってしまう。
(中略)
 原知佐子は地元婦人会の紹介で志摩バラ園に就職する。そこの奥さん(香川京子)の紹介で(中略)お寺に下宿までさせてもらえた。やっと人の善意に触れた原知佐子だったが、過去の経験がトラウマになっており、朴訥としたバラ園の助手の司クン(夏木陽介)のプロポーズも素直に受け入れられない。
 やっとその気になったら、司クンの実家から「売春婦なんて身の毛もよだつ!ウチの嫁なんてありえない」と手紙が来てしまう。バラ園の経営者で大学教授・志摩(平田昭彦様)も申し訳なさそうだし、司クンも原知佐子のことが好きなのだが、世間の厳しさが身にしみている原知佐子は、そっと身をひく。
 原知佐子がとにかく一生懸命なので見ごたえ充分。そりゃそうだよね、夏木陽介に出会うまでに、言い寄ってきた男が大村千吉とか桂小金治とか、その他大勢だもんね。にわかに信じられない、素直になれない、乙女心がグッと来る。
 原知佐子がノーメイクでガンガン泣くところで思わずもらい泣きである。
 寮の先生・沢村貞子淡島千景*46の凛とした態度が頼もしい。スーツ姿の淡島千景ってカッコいい!。さっすが宝塚!。娘役だけどね。
 社会問題を提起する真面目な映画なのだが、個人的にツボだったのは、奥さんの香川京子に「はい!」って腕を差し出して、時計はめてもらう(ボーガス注:亭主関白の?)平田昭彦様。オマエ、二枚目なら何やっても許されると思うなよ!

 芸術的価値(溝口作品は名作だが田中作品は凡庸)はともかく
■日本映画の感想文『女ばかりの夜』
http://home.f05.itscom.net/kota2/jmov/2010_01/100163.html
を読む限り、
■映画収集狂『女ばかりの夜』
https://sentence.exblog.jp/12589044/
が赤線が舞台だからって、田中『女ばかりの夜』と溝口『夜の女たち』『赤線地帯』と比べるのは「違うんじゃねえの?」と感じます。
 田中の場合『赤線をやめて必死に更生しようとする女性たち』を描いているのに対し、溝口の場合『赤線で生きるのは仕方がない』つう設定でしょうからねえ。全然設定が違う。
・いずれにせよ津田なおみ『映画監督・田中絹代』は、田中絹代ファンはもちろん、「昭和映画ファンなら読んで損はない一冊」かもしれません。


津川雅彦氏、天国へ。こっそり言うけどこの人が監督した「次郎長三国志」結構好きだった(三浦の個人ブログ)
http://miura.trycomp.net/?p=4759
 俺は「天国、極楽、地獄」があるとは思っていません。『人は死ねばゴミになる(伊藤栄樹・元検事総長の著書名)』と思っています。
 ただ、天国があるとして津川のような腐れカスは天国には行けないでしょう。

https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/08/08/kiji/20180808s00041000077000c.html
 映画「狂った果実」や「マルサの女」など伊丹十三監督の作品などに出演、また「寝ずの番」など監督としても活躍した俳優の津川雅彦

・この書き方だと「狂った果実=伊丹作品と誤読される」恐れがありますね。新聞記事ならもう少しまともな文章を書いてほしい。

 映画「狂った果実」でデビュー。その後も「マルサの女」など伊丹十三監督の作品などに出演

など書き方はいくらでもあるでしょう。
 なお、津川が出演した伊丹作品としては「マルサの女」(1987年)の他に「お葬式」(1984年)、「マルサの女2」(1988年)、「あげまん」(1990年)、「ミンボーの女」(1992年)、「大病人」(1993年)、「スーパーの女」(1996年)、「マルタイの女」(1997年)があります。
・ちなみに「狂った果実」は「津川のデビュー作」で「石原裕次郎主演、石原慎太郎原作」です。
・マスコミ的には「監督・津川」にも触れざるを得ないのでしょうが、津川を映画監督と思ってる人はほとんどいないでしょうね。
 芸術的な価値はひとまず置くとしても、津川の監督業は世間的に話題になってないし、興行的にも成功してないでしょう。

 「プライド」に出演した時、記者の低レベルの質問に質問で切り返したのもかっこよかった。
A級戦犯である東條*47を演ずることをどう思いますか」
「じゃあ、君はどう思うんだ」
 要するにこの質問は映画への質問ではなく政治的立場への質問であり、役者が答える義務はない。(たとえば、「東條氏という人間を演ずるとき何に一番気を使いましたか」という質問ならば、津川氏はちゃんと答えただろう)そして、記者自身にはもうほしい答えがあるわけだから(津川氏が東條を肯定する言葉が欲しいのは見えている)それを言ってほしいのなら自分からそういえばいい。

 三浦は言ってることが意味不明です。もちろん津川が卑怯にも事実上回答拒否したのは「質問が低レベルだから」ではなく単に津川に都合が悪い、聞かれたくない質問だからでしょう。
 別にこういう質問が出るのは何も東条に限らない。実在の人物をやれば、それも毀誉褒貶のある人物をやればこういう質問が出るのはわかりきったことです。
 たとえばググって知ったんですがインディーズ系の映画で

■『百合子、ダスヴィダーニヤ』(ウィキペ参照)
 2011年制作の日本映画。小説家中條百合子(後の宮本百合子)と百合子の友人で、ロシア文学者・翻訳家の湯浅芳子*48との恋愛*49を描いたノンフィクション映画。ダスヴィダーニャは、ロシア語で「さようなら」の意味。
■原作:
 沢部ひとみ『百合子、ダスヴィダーニヤ:湯浅芳子の青春』(文藝春秋)、宮本百合子『伸子』『二つの庭』
■キャスト
・中條百合子:一十三十一(ひとみとい)
湯浅芳子菜葉菜(なはな)
荒木茂(百合子の最初の夫):大杉漣
・中條精一郎(百合子の父、著名な建築家):平野忠彦
・中條葭江(百合子の母):吉行和子
・中條運(百合子の祖母):大方斐紗子
野上弥生子(百合子の友人、小説家):洞口依子

なんてのがあるようです。
 インディーズ系らしく、聞いたことのない俳優ばかりですが一部、大杉漣吉行和子とかそこそこ有名な俳優がいます。しかしこの映画や「映画の原作本」って共産党的にはどう評価されてるんですかね。

参考

湯浅芳子(1896〜1990年、ウィキペ参照)
 野上弥生子の紹介で宮本百合子(当時は中条百合子)と知り合い、1924年から、当時の夫・荒木茂と離婚した百合子と共同生活を送る。1927年から1930年にかけて、百合子とともに当時のソ連に滞在する。1947年12月から1年間、婦人民主クラブ機関紙『婦人民主新聞』の編集長も務めた。この時期のことは百合子の小説『伸子』『二つの庭』『道標』に詳しい。
 同性愛者であり、百合子をはじめとして何人かの女性と同棲生活を送り、異性と恋愛関係になることは最後までなかった(瀬戸内寂聴の小説『孤高の人』によれば処女のまま生涯を終えたという)。生涯独身を貫いたこと(ただし、作家・尾崎一雄夫人の異母姉で、茶人である山原鶴が事実上の本妻的立場にいたとされる)で、フェミニズムの立場からの注目も集まっている。
 死後、彼女の功績を記念し、外国戯曲の優れた翻訳・脚色・上演を行った者に贈られる湯浅芳子賞が作られた(最終的に基金残高減のため、2008年第15回で幕を閉じたが、翌2009年から小田島雄志*50・翻訳戯曲賞に引き継がれた。)。
 死去の8か月前、沢部仁美が晩年の湯浅に取材し書き上げた『百合子、ダスヴィダーニヤ:湯浅芳子の青春』(1990年、文藝春秋)が刊行され、百合子との関係を含む半生が詳しく紹介された。1997年、生前の湯浅と交流があった瀬戸内寂聴による回想評伝『孤高の人』(1997年、筑摩書房→2007年、ちくま文庫*51が出版された。2008年には、百合子との往復書簡が翰林書房から刊行された。2010年には、沢部仁美原作、浜野佐知監督による映画『百合子、ダスヴィダーニヤ』が制作された。

浜野佐知(1948年〜、ウィキペ参照)
 これまで『北村美加 巨乳艶熟』(1987年)、『冴島奈緒・監禁』、『豊丸の変態クリニック』、『沙也加VS千代君 アブノーマル・レズ』(1988年)、『貝満ひとみ 何でもいらっしゃい!』(1991年)、『桜樹ルイ ぐしょ濡れ下半身』(1992年)、『朝吹ケイト お固いのがお好き』(1993年)、『水沢早紀の愛人志願』(1994年)、『小田かおる 貴婦人O嬢の悦楽』(1995年)、『川奈まり子 牝猫義母』(2002年)など、延べ300本以上のピンク映画を撮り続けているベテランピンク映画監督であり、女性監督としては日本一のピンク映画製作本数といわれる。
 しかし、1997年(平成9年)の東京国際女性映画祭にて「現時点では日本の長編劇映画の女性監督で、最多本数は田中絹代*52の6本であると思う」との発言があり、これに発奮して非ピンク映画である『第七官界彷徨尾崎翠*53を探して』(1998年)を自主製作にて監督し発表。以降、『百合子、ダスヴィダーニヤ』(2011年)など一般映画も製作している。著書『女が映画を作るとき』(2005年、平凡社新書)。
■略歴
・1968年、東京写真専門学院放送学科在学中に、若松孝二若松プロダクションに入社。最初の仕事として、『性遊戯』の制作進行を担当するが、すぐに退職。フリーの助監督として働く。
・1972年 『十七才好き好き族』(ミリオンフイルム)で監督デビュー。
1984年 個人事務所として「株式会社旦々舎」を設立。監督・プロデュースの両方を兼ねる。

 なお、

 1997年(平成9年)の東京国際女性映画祭にて「現時点では日本の長編劇映画の女性監督で、最多本数は田中絹代の6本であると思う」との発言

つうのは「その指摘がかりに事実だとしても」おそらく1997年当時の話であって「きちんと調べてませんが」今は『河瀬直美*54』『西川美和*55』などが既にその本数を超えてるかと思います(かつ「田中には失礼ながら」田中と違いかなり話題にもなっている)。

若松孝二(1936年〜2012年:ウィキペ参照)
 1963年にピンク映画『甘い罠』で映画監督としてデビュー。低予算ながらもピンク映画としては異例の集客力をみせた。若松は「ピンク映画の黒澤明」などと形容されヒット作を量産する。
 1965年「若松プロダクション」を創設、足立正生(映画監督、脚本家)や大和屋竺(映画監督、脚本家)などの人材が集まる。作品は学生運動を行っていた若者たちなどから支持を受けたが、若松自身は「学生運動を支持するために映画を作ったことはなかった」と語っている。自分自身が面白いと思った映画を撮っているとのこと。のちに『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』を撮影した時は、前売り券の購入を昔の学生運動家に頼んだものの全く買ってくれなかったという。
 連合赤軍をテーマにした作品『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(2007年)は、2007年10月には、第20回東京国際映画祭にて「日本映画・ある視点 作品賞」を受賞。2008年に第58回ベルリン国際映画祭において最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)と国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)を、第63回毎日映画コンクールで監督賞、第18回日本映画批評家大賞で作品賞を受賞した。
 2010年は、寺島しのぶ*56主演『キャタピラー』を公開。日本での公開を前に、2010年2月20日、主演の寺島がベルリン国際映画祭の主演女優賞を受賞した。
 2012年には三島由紀夫三島事件)をテーマとして、楯の会結成(1968年)から自決までを描く『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』、続けて船戸与一原作の『海燕ホテル・ブルー』を制作。また同年には中上健次原作、寺島しのぶ主演で『千年の愉楽』を制作し、2013年春の公開を控えていた。
 2012年10月12日午後10時15分ごろ、東京都新宿区内藤町の横断歩道のない都道を横断中、左から来たタクシーにはねられて腰などを強く打った。当初の報道では命に別状はないとされていたが、実際には病院搬送時から意識不明の状態が続いており、17日午後11時5分、入院先の病院で死去。

 「ピンク映画出身だが後に一般映画にも進出」した浜野氏のことは「女性映画界の若松孝二」とでもいえばいいですかね?
 それはともかく。「宮本百合子湯浅芳子をテーマとした映画」に出れば「宮本百合子氏についてどう考えているのでしょうか」と百合子役の女優が、あるいは「湯浅氏のようなレズビアンについてどう(以下略)」と湯浅役の女優が聞かれてもおかしくないでしょう。
 それについて「あなたはどう思いますか?」と聞いたら、三浦的に「かっこいいことになる」のか。そんなバカな話はない。
 id:Mukkeid:noharraが俺の質問に「ペマ・ギャルポに興味ない」「前川喜平氏の朝鮮学校についての見解について興味ない」で逃げるのと津川の態度は大して変わりません。かっこいいどころか下劣でしかない。津川やid:Mukkeid:noharraのような卑怯者がこういうことを平気でやる。答えたくないならせめて「ノーコメント」とだけいったらどうなのか。
 津川ははっきりと「A級戦犯でも東条は偉大な人間だと思う、東条を美化して何が悪いのか」でも「自分は東条美化なんかしてない、東条批判のつもりで演じた*57」でも何でも回答すればいいでしょう。
 津川個人が聞かれたくない(自分が極右だと言うことを津川がアピールしたくない)のか、東映やプライド共演者が「津川さんはうかつなことは答えないでください、我々があんたのせいでたたかれてはたまらない」と津川にダメ出ししたのかはともかく。
 しかし三浦も本当にバカです。津川を擁護したいようですが詭弁としてまともな論理に全くなっていません。id:noharraこと八木孝三も三浦のようなバカが役員を務める守る会の会員なんかよくやってられるもんです。
 俺だったら三浦のような「でまかせ野郎のクズ右翼」と一緒に活動だの、同席するだのなんてまっぴらごめんです。
 なお、ウィキペ「プライド・運命の瞬間」によれば津川の東条以外は以下のメンツです。比較的有名な俳優のみ紹介します(正直無名俳優の出演が多い)。なお、以下の俳優陣がなぜ出演したか知りませんが少なくとも津川のようながちウヨではないでしょう。

清瀬一郎(奥田瑛二
  弁護士。東京裁判で東条の弁護を担当。後に政界入りし、鳩山内閣文相、衆院議長を歴任。
大川周明石橋蓮司
  民間右翼。民間人として唯一、東京裁判被告となる。精神病を理由に免訴判決。
武藤章石田太郎*58
  陸軍省軍務局長、第14方面軍(フィリピン)参謀長など歴任。東京裁判で死刑判決。後に東条らとともに靖国に合祀。
重光葵寺田農
  東条、小磯*59内閣外相。東京裁判で禁固7年。1950年に仮釈放。当初公職追放されていたが、追放が解除されると政界入り。鳩山内閣外相を務めた。

 今思い出したのは「時代屋の女房夏目雅子が一番きれいに取れている映画はこれだと思う。(こういうのを美人女優というのだろうなあ)津川氏はわき役だけどこれがまたいい味を出している。

 俺的に夏目雅子と言えば「西遊記日本テレビ:1978〜1980年)」ですね。最近はさすがに放送しなくなりましたが、俺が子どもの頃(1980年代後半)は何度も何度も再放送されて

夏目雅子*60三蔵法師堺正章*61孫悟空西田敏行(後に左とん平)の猪八戒岸部シロー沙悟浄

には大いに親しんできました。
 夏目雅子がいかにすごいかと言えば、これで彼女が「西遊記の日本におけるスタンダード」をつくったことですね。本来女性の夏目が「男性の三蔵法師をやる」のはおかしいですが、この結果、その後も

・日テレの2時間スペシャルドラマ「西遊記」(1993年)
 三蔵法師宮沢りえ*62
・日テレの連ドラ「西遊記」(1994年)
 三蔵法師牧瀬里穂
・フジの連ドラ「西遊記」(2006年)
 三蔵法師深津絵里*63

と「三蔵法師=女優」という設定が当然のスタンダードになります。
 松本清張砂の器』も原作には『宿命』なんて音楽は何一つ登場しませんが、映画の成功があまりにも大きかったがために、その後のTBSドラマ『砂の器』でも『宿命』が登場することになります。

参考
■一本足の蛸『日本ではなぜ女性が三蔵法師を演じるのか?』
http://d.hatena.ne.jp/trivial/20131006/1381050203

 一般的には不評だったし、確かにオリジナルの魅力と比べてはきついが、この人が監督した「次郎長三国志」(2008)は、あの時代劇をもう一度今の感覚で撮りたい、という意欲作として私は結構楽しんで観ました。

 津川のウヨ仲間である三浦ですらこの評価です。映画監督の才能はなかったんでしょう。
 「俳優でも映画監督でも大成功」イーストウッドみたいなんは例外でしょう。
 たとえば山田洋次は津川作品と同時期に『たそがれ清兵衛』(2002年)、『隠し剣 鬼の爪』(2004年)、『武士の一分』(2006年)を成功させてるのだから、「時代劇が受けない時代」なんていいわけは通用しません(まあ例は山田でなくてもいいですが)
 つうか時期から考えて山田の成功で「あれぐらいなら俺にもできる」なんてバカなこと考えた津川が見事にずっこけたんですかね。
 なお、三浦の言うオリジナルとはマキノ雅弘次郎長三国志』シリーズです。ちなみに津川はマキノのおいで、映画監督としては「マキノ雅彦」を名乗っていたそうです。
 ウィキペディア次郎長三国志』によれば

東宝版・次郎長三国志マキノ雅弘監督)
『次郎長三國志 次郎長賣出す』 (1952年12月4日公開)
次郎長三国志 次郎長初旅』 (1953年1月9日公開)
次郎長三国志 第三部 次郎長と石松』 (1953年6月3日公開)
次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港』 (1953年6月23日公開)
次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路』 (1953年11月3日公開)
次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家』 (1953年12月15日公開)
次郎長三国志 第七部 初祝い清水港』 (1954年1月3日公開)
次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』 (1954年6月8日公開)
次郎長三国志 第九部 荒神山』 (1954年7月14日公開)
東映版・次郎長三国志マキノ雅弘監督)
次郎長三国志』 (1963年10月20日公開)
『続・次郎長三国志』 (1963年11月8日公開)
次郎長三国志 第三部』 (1964年2月8日公開)
次郎長三国志 甲州路殴り込み』 (1965年8月25日公開)

です。

 私としては、拉致問題にも関心を持ちポスターなどで協力してくれたことにも感謝したい。政治的な意見も述べたこともあるがそれはこの人の本質ではなく、娘を溺愛し、妻を最後までみとった津川氏らしく、家族が引き裂かれたことへの怒りと悲しみで協力してくれたのだと私は勝手に想像しています。

 いや明らかに津川はウヨでしょう。そんなに必死に津川の右翼性を否定せんでもいいでしょうに。


■ロバも死んだライオンならば蹴とばせる(三浦の個人ブログ)
http://miura.trycomp.net/?p=4761

 ソ連崩壊直前に放映された『朝まで生テレビ』で、ソ連のジャーナリストもコメンテーターで出演していた。彼ははっきりと、ゴルバチョフを含めて、ソ連の体制が間違っていたことを発言し、それはとても良心的で説得力のあるものだった。
 しかし、その場で聴衆としてスタジオに来ていたソ連の若い留学生が、マイクを向けられて答えた言葉は、ちょっと感動してしまった。そのジャーナリストに対して、確かにソ連共産党は間違っていた、自分たち留学生も事実上監視下にあり弾圧されていたことを述べたうえで、しかし「これまでずっと共産党にいて、その政策に反対もしないで(正直利権も得ていて)今、共産党が解体寸前になったら批判をするのは男らしくない」と語ったのでした。
 この批判は厳しすぎると言えばいえる。ただ、ロシアには「ロバも死んだライオンならば蹴とばせる」という、私個人も大好きなことわざがある。ライオンが王者として君臨しているときに、彼の暴政に戦いを挑むのは立派で勇気のいること。しかし、もうライオンが死んだときに、その死骸を蹴とばし唾を吐くことは誰にでもできる。むしろ、その時に、今ライオンを蹴とばす権利が誰にあるのか、と抗することの方が勇気がいるかもしれない。

「死んでからライオンを蹴飛ばしたロバってのは、例えば冷戦崩壊後に右翼転向し反共活動家となった元日本共産党員・藤岡信勝のことですか?。それともセクハラ問題で日本共産党に処分(参院議員引責辞任)されるや、元共産党政策委員長でありながら逆恨みして(以下、一部略)筆坂のことですか?」
「あるいは蒋介石生前は228事件批判など何一つしてなかったくせに、蒋介石死後、国民党が中国に宥和的になり、また台湾での蒋介石の影響力が弱まって、台湾独立主張系の民進党が力を伸ばし始めるや、民進党にすり寄って、228事件で蒋介石に悪口を始めたあなた方日本ウヨのことですか?、三浦さん*64
「それとも別の誰かですか?」

と聞きたくなります。冗談はさておき、三浦らウヨ連中は藤岡や筆坂秀世ら「転向ウヨ」を内心では「死んでからライオンを蹴飛ばしたロバだ」と馬鹿にしてるでしょう。
 だからこそ藤岡らはそうした差別(?)に対抗するために「必要以上に極右発言を言うのではないか」と俺は疑っています。そこまでして右翼活動して何が嬉しいのかと思いますが。
 しかしこんな偉そうなことを抜かす三浦ら日本ウヨにどれほど「ライオンに死ぬ前から戦いを挑めるロバ」がいるのか。
 例えば三浦らウヨ連中は「靖国参拝して何が悪い!」と中国、韓国には居丈高にものを言っても米国政府の「靖国参拝は遺憾」には何一つ反論できない。安倍がそうした米国の批判に躊躇して靖国参拝をやめても何一つ安倍批判ができない。
 三浦ら日本ウヨ連中は「生きているライオン(米国)を蹴れない臆病者のロバ」にすぎません。連中は中韓をなめてるから悪口する。仮に中国や韓国が「米国を上回る国力」でも持っていれば確実に中国、韓国にへいこらしてるでしょう。
 一方、三浦が悪口する左派、あるいはリベラル保守の側には「必要以上の過大評価」は禁物でしょうが、

治安維持法反対を主張し、その結果、右翼に暗殺された山本宣治*65」 
スターリン*66批判の結果、国外追放されたが、国外でもスターリン批判を続けメキシコで暗殺されたトロツキー*67
文革派に打倒されるかもしれないという政治的ストレスを感じ、かつ晩年はがんを患いながらも、中国首相として米中、日中国交正常化を成し遂げた周恩来」  
金大中事件光州事件という弾圧を乗り越え、ついに韓国大統領として太陽政策を実現した金大中

など英雄がゴロゴロいるわけです。俺が三浦ら日本ウヨが大嫌いなのは「英雄がいないで、人格低劣なクズしかいないから」だと思います。

*1:このうち『マダムと女房』、『伊豆の踊子』が五所平之助監督作品、『浪花女』が溝口健二監督作品。

*2:『不死鳥』が木下恵介監督作品、『夜の女たち』が溝口健二監督作品。

*3:1947年の『結婚』、『不死鳥』(以上、木下恵介監督)、『女優須磨子の恋』(溝口健二監督)、1948年の『夜の女たち』(溝口健二監督)、『風の中の牝鶏』(小津安二郎監督)で受賞

*4:田中の「監督としての国際的評価」など知りませんので「ウソだ」とは言いませんが「ホンマかいな」「ひいきの引き倒しと違うのか」とは思います。

*5:新藤『ある映画監督:溝口健二と日本映画』(2002年、岩波新書)のことか?

*6:まあ確かに小津が『自分で撮影を考えて、シナリオを書いた』のでしょうが、田中に提供することを惜しくないと思う程度の思い入れだったのでしょう。いかに小津が全面協力するとは言え強い思い入れがあれば他人に撮影はさせないでしょう。

*7:ただしウィキペディア「風の中の雌鶏」によれば他の小津作品と比べると興行的にぱっとせず、一般的には「失敗作」と見なされてるようです。

*8:2022年1月2日追記:実は女優・望月優子がこれ以前に『海を渡る友情』(1960年)、『おなじ太陽の下で』『ここに生きる』(以上、1962年)を監督しているのでこのウィキペディアの記述は間違いです。

*9:著書『王家衛(ウォン・カーウァイ)的恋愛』(2005年、INFASパブリケーションズ)など

*10:著書『映画と移民:在米日系移民の映画受容とアイデンティティ』(2016年、新曜社)など

*11:1960年に俳優・石原裕次郎と結婚し女優引退

*12:1952年映画『我が家は樂し』(中村登監督)、『少年期』(木下恵介監督)、『めし』成瀬巳喜男監督)でブルーリボン賞脚本賞を受賞

*13:松井須磨子のこと

*14:このうち『女優須磨子の恋』『西鶴一代女』『雨月物語』が溝口健二監督作品、『楢山節考』が木下恵介監督作品、『おとうと』が市川崑監督作品。

*15:2023年5月29日追記:現在は組織改編で国立映画アーカイブ

*16:一般人だと無理なんですかね?

*17:一時は黒澤明『野良犬』(1949年)、小津安二郎『宗方姉妹』(1950年)、溝口健二西鶴一代女』(1952年)といった名作も作成しているが1955年の大蔵貢社長就任以降は、エログロ路線に突入。

*18:千利休の娘・吟の悲恋を描く、直木賞を受賞した今東光の同名小説の映画化(1962年)。1978年に熊井啓監督も映画化している(■旧・かぶとむし日記『熊井啓監督『お吟さま』(1978年)』(http://d.hatena.ne.jp/beatle001/20070817/1187358213)参照。

*19:稲垣浩溝口健二黒澤明の監督作品のカメラマンとして世界に知られる。

*20:戦後の一時期、日本共産党書記局で活動し、レッド・パージで共産党に対する弾圧が行われた際には書記長・徳田球一メッセンジャーとして中国に渡航し、中国側の「日本共産党の指導者を迎え入れる用意がある」という伝言を日本に持ち帰ったという伝説の持ち主(その後、1960年代に共産党から離れた)。1951年、レッド・パージで解雇された今井正監督の復帰作『どっこい生きてる』で自らも撮影指揮として映画界に復帰。なかでも、小林正樹監督と組んだ『人間の條件』(1959年、1961年)、『切腹』(1962年)、『怪談』(1965年)は、国内外から高く評価された。毒舌家で知られ、卓越した技術とそれに裏打ちされた撮影理論から、監督にも遠慮なく意見をいう直言型の性格で、「宮島天皇」と呼ばれた。一方、大映京都撮影所のカメラマン・宮川一夫とともに双璧をなす存在から、「西の宮川、東の宮島」とも言われた。著書『「天皇」と呼ばれた男・撮影監督宮島義勇の昭和回顧録』(2002年、愛育社)(ウィキペディア「宮島義勇」参照)

*21:ウィキペディア田中絹代」の『1949年(昭和24年)10月、日米親善使節として渡米。翌1950年(昭和25年)1月19日に帰国した。出発時は小袖姿 だったが、帰国時はアフタヌーンドレスと毛皮のハーフコート、緑のサングラスにハワイ土産のレイをまとって登場。報道陣らには「ハロー」と一声発し、銀座のパレードで投げキッスを連発。この姿と行為で渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから「アメリカかぶれ」と叩かれた。それ以降自殺を考えるほどのスランプに陥ったという。帰国後、新東宝小津安二郎監督『宗方姉妹』、木下惠介監督『婚約指環』に出演。しかし、両作とも不評で、とくに後者は三船敏郎と恋人役を演じたが、それが一部から「老醜」とまで酷評された。1951年(昭和26年)には映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優部門で10位以内にも入らずトップスターの地位を失った。ファンレターが1通も来なくなったと漏らしていたという。』という不遇の時代のことでしょう。

*22:小生がこの文章を書いている2017年8月11日現在、香川京子(1931年12月生まれ)、有馬稲子(1932年4月生まれ)がともに86歳ですからね。

*23:嵯峨侯爵家の長女。愛新覚羅溥傑清朝最後の皇帝で満州国皇帝でもあった愛新覚羅溥儀の弟)の妻。

*24:小生がこの文章を書いている2017年8月11日現在、福永氏(1940年3月生まれ)も78歳とかなりのお年です。

*25:1959年から1961年の3年間にかけて公開された『人間の條件』は、毎日芸術賞毎日映画コンクール監督賞、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞を受賞。1962年、『切腹』でカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞。1965年、『怪談』で、2度目のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受けたほか、アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされ、日本映画史上屈指の傑作と絶賛された。1967年、『上意討ち 拝領妻始末』でヴェネツィア国際映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞、キネマ旬報ベスト・ワンとなった(ウィキペディア小林正樹」参照)。

*26:2006年に、映画『フラガール』『ハチミツとクローバー』での演技が認められ、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞ブルーリボン賞主演女優賞をはじめ、数多くの映画賞を総なめにした。2010年、映画『おとうと』で、山田洋次監督作品に初出演。以降、山田の『東京家族』(2013年)や『家族はつらいよ1〜3』(2016年、2017年、2018年)に起用され続けている。2017年に公開された主演映画『彼女がその名を知らない鳥たち』で日本アカデミー賞キネマ旬報ベスト・テンをはじめ、その年の多くの主演女優賞を受賞した(ウィキペディア蒼井優」参照)。

*27:1962年、高校在学中、『キューポラのある街』(浦山桐郎監督)にヒロイン役で出演、ブルーリボン賞主演女優賞を受賞。1984年、映画『おはん』、『天国の駅』で、1988年、映画『つる:鶴』、『華の乱』で、2000年、映画『長崎ぶらぶら節』で、2005年、『北の零年』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞(ウィキペディア吉永小百合」参照)。

*28:他も「吟が思いを寄せる高山右近仲代達矢)」「吟を側室にしようとする豊臣秀吉滝沢修)」とビッグネーム揃いですね。

*29:劇団民藝創設者の一人

*30:脚本が小津ですので小津作品常連出演者・笠が登場するわけです。

*31:俺の年代(1970年代後半生まれ)だと『関口宏のお父さん』ですね。リアルタイムでは佐野出演作品なんか見てませんので

*32:ゴジラ』の芹沢博士が有名

*33:1954年(昭和29年)に『二十四の瞳』でブルーリボン賞作品賞、毎日映画コンクール日本映画大賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞。同年のキネマ旬報ベストテンでは同作と木下『女の園』が黒澤の『七人の侍』を抑えて1位・2位を独占した(ウィキペディア木下恵介』参照)。

*34:1965年に映画『幸福』でベルリン国際映画祭銀熊賞を、1985年に映画『冬の旅』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞(ウィキペディアアニエス・ヴァルダ」参照)

*35:2003年、映画『ロスト・イン・トランスレーション』でアカデミー脚本賞を、2010年に映画『SOMEWHERE』でヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞(ウィキペディアソフィア・コッポラ」参照)。

*36:1918~1995年。48年間のキャリアで映画に59本出演し、7本の監督を務めた(アイダ・ルピノ - Wikipedia参照)

*37:後述しますが「元売春婦が過去を克服して更生しようとする姿を描く作品(赤線の存在を肯定してない)」なのでそもそも「赤線を肯定している溝口」と描き方が違うのは当然です。そこを批判するのは違うんじゃないか。そして赤線の存在否定は「売春侮蔑」ではあっても「売春婦侮蔑」とは違うわけです。もちろんそのあたり、田中がうまく描けていないつう批判はあり得るとは思いますが、このあたりは見ないとなんとも言えません。少なくとも田中には売春婦侮蔑の考えはなくむしろ『売春婦更生施設を社会に広く紹介したい』つう山田洋次『学校』(夜間学校を広く社会に紹介した)のような思いだったでしょう。

*38:溝口はそもそも人格が破綻した毒舌家なのでその発言は、客観的と言えるかどうか、「常に」明らかに割り引くべきですが。

*39:まあ若くして引退した原節子なんかそうなんかもしれません。

*40:ウィキペディア田中絹代」が紹介する「成瀬映画『あにいもうと』での、監督見習い(助監督もどき?)経験」を考えれば彼女もそのあたりはそれなりに真面目に考えていたでしょう。さすがに「すぐにでも」つうほどには甘くはない。

*41:著書『追放者たち:映画のレッドパージ』(1996年、岩波同時代ライブラリー)、『三文役者の死:正伝殿山泰司』(2000年、岩波現代文庫)、『シナリオ人生』(2004年、岩波新書)、『「断腸亭日乗」を読む』(2009年、岩波現代文庫)など

*42:いや、そんなんで溝口をかばっていいのか?。人間的にやばいでしょうよ、あの人。ぶっちゃけ人格破綻者だと思います。映画という世界がなかったら果たして生きていけたのか?。なお、溝口のひどさについてはid:Bill_McCrearyさん記事『60年前の本日、溝口健二は亡くなった(8月24日更新)』(https://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/d3ebd93472a6bb7363f563422d91cb2d)のコメント欄でウィキペディア溝口健二」の「溝口暴君エピソード紹介」を、俺がコメントしたことがありますので参照いただければ幸いです。id:Bill_McCrearyさんも「溝口は人間としてはくず」と評価しています。まあ、溝口が人格者で、たしなめるような愛情あふれる理知的な物言いでも田中は反発して映画監督をしたのでしょうが、「人間のクズが、田中を見下して侮辱的物言い」だからなおさら従うわけがありません。

*43:イヤー田中絹代が映画監督をしなくてもいずれ解消されたんじゃないですかね。「繰り返しますが」だって溝口がクズだから。

*44:イヤー見なくても「やっぱ興行的に成功しないとか、監督として限界を感じたのかなあ、あまり彼女の映画を見る機会ないしなあ(見ないでそういうこと言ったら悪いけど)。」と予想つくと思うんですが。そもそも映画なんてのはスポンサーがいないとつくるのも配給するのも難しいですし、興行的に成功しないとスポンサーの獲得が難しくなるわけです。

*45:もともと落語家であったが、1952年、映画『こんな私じゃなかったに』(松竹、監督:川島雄三)に出演し、映画デビュー。その後もテレビドラマや映画の俳優、テレビ司会者(テレ朝ワイドショー『アフタヌーンショー』(1965〜1973年)、日テレ『それは秘密です!!』(1975〜1987年)など)などのタレント活動がメインとなり、落語家としては開店休業状態だったが、1980年代初頭、2000年代から2011年までは落語家としても活動していた(ウィキペディア桂小金治」参照)

*46:1950年に映画『てんやわんや』で、1955年に映画『夫婦善哉』でブルーリボン賞主演女優賞を受賞(ウィキペディア淡島千景」参照)

*47:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、近衛内閣陸軍大臣を経て首相。戦後、東京裁判で死刑判決

*48:訳書にチェーホフ『かもめ』、『桜の園』、『三人姉妹』(岩波文庫)、マルシャーク『森は生きている』(岩波少年文庫) など。

*49:ウィキペディアの原文のまま。「えーと恋愛てどういうことかしら?。LGBT的な意味?。それとも宝塚の『お姉様と妹』的な意味?」ですね。

*50:英文学者、演劇評論家東京大学名誉教授、東京芸術劇場名誉館長。著書『シェイクスピア物語』(1981年、岩波ジュニア新書)、『シェイクスピア名言集』(1985年、岩波ジュニア新書)、『シェイクスピアへの旅』(1988年、朝日文庫)、『(シェイクスピアの)遊びの流儀』(2005年、講談社)、『シェイクスピア人間学』(2007年、新日本出版社)、『シェイクスピアの戦争・平和学』(2008年、新日本出版社)『シェイクスピアの恋愛学』(2010年、新日本出版社)など

*51:ちなみに瀬戸内氏には他にも評伝として『かの子撩乱』(1974年、講談社文庫)、『ここ過ぎて:白秋と三人の妻(上)(下)』(1987年、新潮文庫)、『田村俊子』(1993年、講談社文芸文庫)、『炎凍る:樋口一葉の恋』(2004年、小学館文庫)、『美は乱調にあり:伊藤野枝大杉栄』、『諧調は偽りなり:伊藤野枝大杉栄(上)(下)』(2017年、岩波現代文庫)がある。

*52:これについては津田なおみ『映画監督 田中絹代』(2018年、神戸新聞総合出版センター )という評伝があるようですね。

*53:作家(1896〜1971年)。代表作『第七官界彷徨』。長く忘れ去られた存在だったが浜野映画(1998年)の影響もあって、代表作『第七官界彷徨』が2009年に河出文庫から復刊されている(ウィキペディア尾崎翠」参照)。

*54:1969年生まれ。1997年、映画『萌の朱雀』で、カンヌ国際映画祭カメラ・ドール(新人監督賞)を史上最年少(27歳)で受賞。2007年、映画『殯の森』でカンヌ国際映画祭グランプリを受賞。また、これを受けて、奈良県民栄誉賞を受賞。2009年、カンヌ国際映画祭で、映画祭に貢献した監督に贈られる「金の馬車賞」を、女性、アジア人として初めて受賞。2015年、フランス芸術文化勲章シュヴァリエ章を受章。また、同年、映画『あん』がカンヌ国際映画祭「ある視点」部門のオープニング作品に決まる(ウィキペディア河瀬直美」参照)

*55:1974年生まれ。2006年、映画『ゆれる』でキネマ旬報ベストテン2位、キネマ旬報脚本賞ブルーリボン賞監督賞などを受賞。また、映画『ゆれる』を自らノベライズした同名小説(ポプラ社)が、第20回三島由紀夫賞候補となった。2009年6月に映画『ディア・ドクター』でキネマ旬報ベストテン・日本映画1位、ブルーリボン賞監督賞を受賞。2015年には小説『永い言い訳』で第28回山本周五郎賞候補、第153回直木賞候補。2016年に『永い言い訳』を映画化し、毎日映画コンクール・監督賞を受賞(ウィキペディア西川美和」参照)

*56:2003年に映画『赤目四十八瀧心中未遂』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を、『ヴァイブレータ』では東京国際映画祭女優賞を受賞。2010年には、『キャタピラー』で、1964年の左幸子今村昌平『にっぽん昆虫記』)、1975年の田中絹代熊井啓『サンダカン八番娼館 望郷』)に次ぎ日本人として35年ぶりにベルリン国際映画祭銀熊賞(最優秀女優賞)を受賞した(ウィキペディア寺島しのぶ」参照)。

*57:とはあの映画をどう見ても言えないでしょうが。

*58:二代目コロンボ声優として著名

*59:陸軍省軍務局長、陸軍次官、関東軍参謀長、朝鮮軍司令官、平沼、米内内閣拓務大臣、朝鮮総督、首相を歴任。戦後、東京裁判で無期刑。服役中に病死し、後に靖国に合祀される。

*60:1982年、『鬼龍院花子の生涯』の台詞「なめたらいかんぜよ!」が流行語となる。迫真の演技が話題になりこの作品でブルーリボン賞獲得。演技派女優としての地位を確立した(ウィキペディア夏目雅子」参照)。

*61:鎌倉学園在学中の1962年、16歳で「ザ・スパイダース」に加入し、ボーカルを担当して「夕陽が泣いている」などがヒット。1970年のバンド解散後はソロで歌手活動を展開したほか、俳優、司会、コメディアンと、多方面で活動している(ウィキペディア堺正章」参照)。

*62:1988年、映画『ぼくらの七日間戦争』の主演で女優デビューを果たし、日本アカデミー賞新人賞を受賞。2003年、映画『たそがれ清兵衛』で日本アカデミー賞・最優秀主演女優賞を、2005年、映画『父と暮らせば』で第47回ブルーリボン賞・主演女優賞受賞(ウィキペディア宮沢りえ」参照)

*63:2003年、映画『阿修羅のごとく』で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を、2010年、映画『悪人』でモントリオール世界映画祭最優秀女優賞、日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞(ウィキペディア深津絵里」参照)

*64:たぶん「蒋介石生前に228事件批判なんかしとらんかったくせに今頃228事件批判とは何や、お前ら日本ウヨは?。全く恥知らずやな。そういうんを「死んでからライオン(蒋介石)を蹴飛ばすロバ」つうんか?(嘲笑)」と面と向かって言われれば三浦らウヨはマジギレでしょうね。

*65:彼については例えば■赤旗『山本宣治ってどんな人?』(https://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-03-03/0303faq.html)参照

*66:ソ連共産党書記長

*67:ソ連外相、国防相など歴任