「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」を笑おう・パート106(追記・訂正あり)

■4月18日 守る会総会ならびに記念講演会
http://hrnk.trycomp.net/news.php?eid=01132
 いずれ正式な実施報告がアップされるのでしょうし、その報告はトンチキな代物でしょう。がっつり突っ込んでみたいと思います。


■SAYA、今のバンドは最高の状態にある。「越天楽」はまさにジャパニーズ・ファンク(三浦の個人ブログ)
http://miura.trycomp.net/?p=3052
 SAYAなる人物がチャンネル桜の女性アシスタントで、一方、三浦が「チャンネル桜の常連出演者」だと言うことを知ってれば「ウヨ仲間の仲間ほめ」と言うくだらない話であることは丸わかりです(毒)。しかし「越天楽(雅楽の一種)」を歌うてのもちょっと想像がつきませんね。そんなの喜ぶ人がそんなにいるのか。


■【3月21日早稲田大学講演会】ビルマミャンマー)における越境する『人間の安全保障』―カチンの視点から― : OAS-RUNASIA アジア研究機構「アジア地域のネットワーク解析研究拠点構築」プロジェクト
http://freeasia2011.org/japan/archives/3917
 極右団体「アジア自由民主連帯協議会」サイトに載った記事です。協議会はウヨ団体ですので載る記事はほとんどウヨ集会の紹介ですがたまにこういうまともな記事も載ります。


■弁護士でクリスチャンだった中平健吉先生(前北朝鮮難民救援基金理事長)が天国に旅立たれました
http://hrnk.trycomp.net/news.php?eid=01127
 ググったところ中平氏
1)有名な「自衛官護国神社合祀事件(政教分離)」「日立就職差別事件(在日差別)」「麹町中学校内申書事件(元社民党代議士で現世田谷区長の保坂展人氏が原告と言うことで有名)」「池子弾薬庫跡米軍住宅建設阻止裁判」などに原告弁護団として関わった、
2)判事時代に右陪席判事として「家永教科書訴訟・杉本判決*1」に関わったという、まあ、どちらかといえば左派的な方のようです。そんな方の死についてウヨの三浦が追悼の言葉を述べる*2。過労死弁護の草分けで左派扱いされていた川人博が右翼変節し、三浦や荒木和博らとつるみ「山本美保さんDNA鑑定捏造疑惑」などという陰謀論すら公言するようになった「ウヨ転向の悲劇」が中平氏についても起こったと言う事でしょうか。
 まさに「北朝鮮問題」はその人物のリベラル性が鋭く問われる問題だと言うことでしょうか。中平氏はともかく、「山本美保さんDNA鑑定捏造論」などという陰謀論にすら荷担する川人については小生は「腐れウヨの外道」「過労死撲滅運動から追放すべきゴミカス」と言う認識しかありません。そして小生にとって三浦ら腐れウヨに「自らの死」であれ「家族や友人知人の死」であれ「死を悼まれること」は屈辱でしかありません。小生が中平氏の遺族や友人なら「お前ら腐れウヨに中平を悼まれてたまるか」と憤激しているところです。


ラグタイムララバイ(三浦小太郎)のアマゾン書評『津田左右吉大日本帝国との対決 天皇の軍服を脱がせた男』
■「津田左右吉大日本帝国との対決 天皇の軍服を脱がせた男」(勉誠出版)(三浦の個人ブログ:http://miura.trycomp.net/?p=3042)でウヨ仲間の大井の本を紹介していた三浦がアマゾンレビューでも宣伝していたので突っ込んでみましょう。しかし「本の解説を書いた人間・三浦」が「第三者の振りしてアマゾンレビューを書く」というのは詐欺も甚だしいんじゃないですかね。

 現在、朝日新聞誤報、記事取り消しなどに観られるように、戦後の贖罪史観や、反権力を語れば文化人としての正当性が得られるような言論が力を失ってきたことは確かです。

 三浦らしいトンデモウヨ言論でのっけから、ずっこけます。「三浦小太郎名義」の自ブログではここまであほなことは書かない三浦ですが「ラグタイムララバイ名義」だからか「津田左右吉と関係ないはずの朝日新聞」への悪口雑言が飛び出すのには心底呆れます。まあ、ラグタイムララバイが三浦であることはモロバレなんですけどね。


毎日新聞『特定秘密:指定管理簿の一部公開 拉致情報など対象』
http://mainichi.jp/select/news/20150318k0000m040133000c.html
 「拉致情報が対象」というのは予想の範囲内ですが荒木ら救う会にとっては「痛し痒し」と言ったところでしょうか。例の山本美保さんの件なんか「特定秘密(捜査上の重要機密)」で片付けられると荒木にとって厄介なことになるわけです(ただ特定秘密保護法がなくても「捜査機密や外交機密を理由に情報公開を拒否することは情報公開法上、一応可能」ですが)。


■大井健輔ブログ『人間とは自分とも「対決」する生き物だ』
http://blogs.yahoo.co.jp/burke22jp/63851059.html

昔から「克己」という言い方がなされますね。

「己の問題点を克服する」てことですね。まあ「言うはやすし、行うは難し」ですね。
何が問題点か自覚するのが難しいし、自覚しても「その問題点の解決方法」を見いだすのも難しい。

今回本を出しましたが、ある方から反論がありました。
「津田が大日本帝国と対決をしたと君は言うが、それでは安っぽい政治的な議論*3だし、単なる戦後民主主義者と一緒にする*4ということではないか。」

 ある方て誰なんですかね。まあ、大井の本を読まないと何とも言い難い気もしますがバカウヨの本をわざわざ読む気もないなあ。


■大井健輔ブログ『松本死刑囚の四女について思ったこと』
http://blogs.yahoo.co.jp/burke22jp/63849376.html

 東条英機*5の一家も、ひどい目にあったと聞きます。学校に通う孫が教師から「東条君のおじいさんは世界で最も悪いことをした人」と紹介されているシーンが映画『プライド』にありました

まあ、いくら東条の孫だからてそんなつるし上げを食らう理由はないわけですが、そこから「だから東条は悪くない」という無茶苦茶な方向に話をもって行ってるのが例のウヨ映画「プライド」のようです。「孫への八つ当たり」なんて論外ですが、ぶっちゃけ、自虐史観とかGHQの洗脳とかいうウヨの寝言ではなく「負け戦で多数の戦死者が出て、生き残った人間も食糧不足で餓死者続出」なんて状況なら東条ら政権幹部が恨まれるのは当然の話です。

 昔は、かなり悪逆なことをしたならば、親族も平気で殺していました。おととい水戸について書きましたが、過激な攘夷派であった天狗党武田耕雲斎の一族*6は(注:天狗党の乱の首謀者であることを理由に)孫まで殺されたはずです(1865年)。血族から二度と反逆者を生み出さないということで、当時は当たり前でした。

 連座制て奴ですね。今は「文明化、近代化した」ので、「選挙の連座制など一部例外を除いて」まともな国では「法制度としては」連座制はありませんし、連座がある場合も「選挙無効」のようなまともなものであって「死刑の連座」なんて野蛮なことはしませんが。ただしメディアリンチという形での「無法な連座制的代物」は欧米や日本でも見られることがあって憂鬱になります。

 松本死刑囚の四女(25歳)が地下鉄サリン事件について謝罪をしている動画を見られますが、可哀想というか、とんでもない重いモノを背負わされて生きてきたんだなと思います。事件当時はまだ5歳ですね。

 まあ、彼女個人には直接の責任はないんだから俺は謝罪の必要はないと思いますけどね。「自主的」なら、まだいいですが「謝罪しないと迫害される」という強迫観念があったら嫌だなあと思います。

 対照的な存在として、三女の本*7が話題になっていますが、この「アーチャリー」は三十を超えている*8わけですから、父が教団内部で神としてあがめられていた時代を見ており、四女のような父を「テロリスト」「人殺し」と断ずる強さ*9はない。強い否定ができないどころか、〈過去の栄光〉から逃れられないようであります。それが四女としては許せず、三女の本について「よくこれほどまでに嘘がつけるものだ」と怒りをあらわにしています。

「三女に対する大井の理解の是非」はともかく

戦前という「過去の栄光」から逃れられない

で「南京事件はなかった」「慰安婦は違法でなかった」「戦前日本はアジア民族解放のために立ち上がった」などとバカほざいてるのが大井や三浦のようなウヨでしょう。「サリン事件の頃の父親をよく知らない四女」のように「過去の日本を知らないはずの大井や三浦」がなぜそういうことをするのか、良く理解できませんけどね。
その結果、大井や三浦らウヨは中韓などの被害国に

「よくこれほどまでに嘘がつけるものだ」と怒りをあらわに

されるわけです。

出版社も本を出すならば、四女の本を出すべきでしょう。

 ググったところ、これは大井の勘違いで四女は松本聡香『私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか:地下鉄サリン事件から15年目の告白』(2010年、徳間書店)と言う本を既に出しています。三女や四女ばかり注目されるというのも興味深いですがまあ他の子どもたちはメディアに報道されたくないんでしょう。俺だって同じ立場ならいちいち世間に注目されたくはないので「他の子どもたち」の気持ちはよく分かります。


■大井健輔ブログ『添い寝(ソフレ)と〈日本の安楽死〉 』
http://blogs.yahoo.co.jp/burke22jp/63843693.html

「ソフレ」とは、征服欲の減退だと思います。

 やれやれですね。「ソフレ」(添い寝フレンド)なんてもんを某サイトが宣伝(?)してるだけで「ソフレが日本に増えてると根拠もなしに勝手に決めつけたあげく」、やれ「征服欲*10の減退」だの「日本の安楽死」だのと深刻ぶってみせるのだから笑わざるを得ません。さすが三浦の類友と言うべきでしょうか。


■大井健輔ブログ『〈児玉友春〉を葬るのは〈大井健輔〉である』
http://blogs.yahoo.co.jp/burke22jp/63842018.html
 三浦小太郎のウヨ仲間・大井がブログを始めたそうですので突っ込んでみましょう。

高名な評論家江藤淳が、病を苦に自殺

 「ええ?、それ違うだろ?」て思いますけどね。まあ、病気もあったんでしょうが、当時のマスコミ(週刊誌、ワイドショーなど)が報じたように「孤独だった」てのが大きいんじゃないですかね。
 江藤には子どもがいなくて、自殺の直前には奥さんが病死してたわけです(ウィキペ「江藤淳」参照)。病気だけでなく「病気の苦しみをささえてくれる人間がいなかった」てのが大きいんじゃないか。ウヨ的には江藤が「精神的孤独に耐えられずに自殺」と言うんじゃかっこ悪いんですかね。歴史修正主義にも程があると思いますね。


■「未成年 続・キューポラのある街(1965年 日活映画)」をどう観るか(三浦の個人ブログ)
http://miura.trycomp.net/?p=3044
■『守る会関東学習会「未成年・続・キューポラのある街」上映会報告』(http://hrnk.trycomp.net/news.php?eid=01126)と言うエントリを既に書いてるのに自ブログでも似たようなことを書くとは随分と三浦もしつこい男です(苦笑)。

 吉永小百合さんも、俳優の一つの仕事として出演しただけでしょうし、彼女の責任を問うつもりはありませんが、反核や平和については積極的に発言される傾向のある彼女も、この2作*11については口をつぐんでいます。

・やれやれですね。結局、三浦がこの駄エントリで一番やりたかったこと、それは「九条の会」「脱原発デモ」など「三浦にとって気にくわない運動に参加する気にくわない存在である」吉永氏に「キューポラのある街」主演を理由に「何故帰国事業を非難しなかった」と因縁つけることだったわけです(もちろんただの因縁ですので「三浦の右翼運動支持」でも表明しない限りどのような態度を吉永氏が取ろうと因縁つけ続けるでしょう。別に「出演について謝罪して欲しい*12」とか本気で三浦が思ってるわけではない)。ただ相手が

サユリストと呼ばれる熱烈なファンがいる
・1962年(昭和37年)に『キューポラのある街』でブルーリボン賞主演女優賞受賞、1985年(昭和60年)に 『おはん』、『天国の駅』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞、1988年(昭和63年)に『つる−鶴−』、『華の乱』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞、2000年(平成12年)に『長崎ぶらぶら節』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞、2005年(平成17年)に『北の零年』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞受賞、2014年(平成26年)に『ふしぎな岬の物語』でモントリオール世界映画祭審査員特別大賞、日本アカデミー賞優秀主演女優賞受賞、など受賞多数。
(ウィキペ「吉永小百合」参照)

という「日本を代表する人気女優」ということで「責任を問うつもりはありませんが*13」などと吉永氏を非難する三浦の腰が引けてるのが滑稽です。
 ウィキペ「吉永小百合」から「極右・三浦が反感を覚えてるであろう」彼女の政治的言動についての記述だけ紹介しておきましょう。

吉永小百合(ウィキペ参照)
・ドラマ『夢千代日記』(NHK、1981年(昭和56年))で原爆症に苦しむ主人公を演じたことをきっかけに、1986年(昭和61年)からボランティアで原爆詩の朗読会をスタートさせている。
・平和記念資料館(広島市)に導入された音声ガイドのナレーションをボランティアで担当。ナレーションや原爆詩の朗読などの平和活動が評価され、2003年(平成15年)に「第15回谷本清平和賞」受賞。
・以前から脱原発の立場だったが、福島第一原子力発電所事故後はその姿勢を一層強めている。2011年(平成23年)7月31日に広島市内で行われた日本母親大会では、原爆詩の朗読に先立ち、「日本のような地震の多い国で原子力発電所がなくなってほしい」と述べ、「脱原発」社会の実現を願う考えを示した。
・確定申告手続で各社の取材を受けた際、同席していた当時の大蔵大臣に「この税金は戦闘機を買う費用に使ったりせず、もっと国民のためになることに使って欲しい」と釘を刺した。

・吉永氏主演とは言え、もちろん「彼女以外にも出演者はいる」し、当時の時代状況でまだ若い*14彼女「だけ」に「北朝鮮の実態を何故分からない」「何故帰国事業を非難しない」なんていうのは言いがかりでしかありません。
 大体この映画は当時において娯楽作品として公開されてます。興行的に成功してるし、映画賞も取ってる。なんと映画音楽担当は後の「日本を守る国民会議議長」というガチウヨ作曲家・黛敏郎です。まあ当時の黛はそれほど右翼でなかったのかも知れませんが左翼ではさすがにないでしょう。
 当時において別に「政治性の高い映画」というわけではない。当時においてウヨ以外は「帰国事業?。故郷に帰るのは別に悪いことじゃないんじゃないの?」と思っていたわけです。別に北朝鮮共産主義体制賛美とかそういう話じゃない。そういう話で良く吉永氏を非難出来るもんです。
 何故か三浦は他の出演者、たとえば浜田光夫氏などは非難しないわけです。非難されても困りますけど(何故かは何となく分かりますけどね)。まあ、彼女が別に「脱原発」などに関わってなければ三浦もこういう因縁つけないんでしょうけどね。
 そして俺的にはむしろ「プライド:運命の瞬間」「ムルデカ」なんて映画に出演した連中*15の方がよほど許し難いですけどね。まあ、完全にプロ右翼活動家と化した津川雅彦以外は「浮き世のしがらみで仕方なく」だと思うのであまり批判する気はないですが、正直あんな極右映画に出演した連中には好感が持てません。

ジュンの父親で職人の父ちゃん(宮口精二

 ウィキペに寄れば前作では、父親役は「TBS時代劇・水戸黄門」の初代水戸光圀役で知られる東野英治郎氏だったそうですが、今回何故か宮口氏に変わっています。

 ジュンは崔に、貴方は帰らないの、と聞きますが、崔は「僕だって今すぐにでも帰りたい。しかし、ここ日本にはまだ正しい民族教育を受けていない十万人の朝鮮の子供たちがいる。僕は教師になって、彼らにちゃんとした教育をしてあげたいんだ」とおっしゃります。

 三浦は「崔の言い逃れ」とでも描きたいようですがそうじゃないでしょう。むしろ「帰りたい崔」を学校サイドが「君に帰国されては困る」と引き留めてたんじゃないですかね。
 現実問題、崔が言うように日本で民族教育(朝鮮語とか朝鮮の歴史とか文化とか)やる所なんか朝鮮学校以外にどこにあるんですかね。「在日の民族教育」に無関心だったゲス右翼の分際で「やれ、金日成崇拝がどうとか」因縁つけるだけなんですから、三浦らバカウヨには心底呆れます。

 ジュンは大学進学を諦め、折角の貯金もすべて事業に失敗した克己に渡してしまい、これからは労働者として生きていくことを決意します。
(中略)
 大学にすすむ、つまりこの貧しい労働者社会から抜け出す道ではなく、そこに生まれたものとして、その社会で生き抜き、その中で少しずつでも現場を改革していこう、という趣旨のエンディング*16と思いますが、実はこういう発想、美しくは見えますが完全に間違っています。今の環境から脱却して上昇したい人は死に物狂いで一人でも脱却するしかないのです。
 「1人が10歩進むより、10人が1歩ずつ前進することが大事」といっている間は、実は本当の意味での人間の解放も社会の前進もありません。まず才能のある、努力した一人が道を切り開かない限り、10人の前進もないのです。

 やれやれですね。こういう三浦のような考え方は往々にして「エリート独裁(民衆が愚かだからエリートが指導するしかない)」「自己責任論(エリートの俺は努力して道を切り開いたんだから道を切り開けない奴は無能なだけ)」などといった間違った考えになる危険性が大きいわけです。映画が主張したいことも要するにそういうことだと俺は思いますがそういうためらいは三浦にはないようです。
 大体「貯金を幼なじみの克己(浜田光夫氏)に渡した」と言う記述からは「大学には行きたいが、借金に苦しむ幼なじみを見捨ててまで大学に行くことはできない、少しでも彼を助けたい」という「ジュン(吉永小百合氏)の複雑な思い(恋愛感情?)」を感じるべきでしょうに三浦も全く人情のないバカです。
 まあ、マジで三浦のようなゲスウヨには人情なんてものはかけらもなくて「自分の利益」しか頭にないでしょうけど。
 また三浦の引用する「ネット上の映画紹介」には

(注:保母になるため)社会事業大学*17で学ぶ夢を、この川口で働きながら掴んでゆくことを固く心に誓った。

て書いてあるんだから彼女はそもそも「幼なじみを救うため、一時的に大学進学をあきらめた」だけで「大学へ行くことを完全にあきらめた」訳じゃないわけです(実際問題は勿論進学は難しいでしょうが)。
 つうか単に「続・キューポラのある街」を左翼映画認定して「右翼なので」、天の邪鬼な気持ちから映画での主張に逆張りしてるだけでしょう。北朝鮮と関係ないこんな事でも因縁つけるんだからうんざりです。
 それとも三浦は「無駄に年を取っただけで、世間に全く相手にされてない低能右翼活動家」の分際で何をとち狂ったか「俺はエリートだ」「俺やジュンのようなエリートはエリートらしく生きるべきだと思う」とでも思い上がってるんでしょうか?。俺みたいなノンエリートは「別にエリートの脚をひっぱる気もない」ですが三浦みたいな「エリート万歳論」を無邪気に唱える気にはならないですけどね。それ現実の歴史では単に「ノンエリートの切り捨て(要するに自己責任論)」「エリートの自己正当化(エリートの暴走)」にしか働いて来なかったと思いますからね。
 いずれにせよ全く三浦は建設性のない馬鹿野郎です。三浦みたいなバカを自分の参加してる組織の「事務局長(前副代表、元代表)」にして恥じないid:noharraら守る会会員の馬鹿さ、下劣さには心底呆れますね。


■「北朝鮮・死の強制収容所からの脱出、嘘ではない」脱北者シン・ドンヒョク氏インタビュー : The Huffington Post Japan
http://freeasia2011.org/japan/archives/3910
 『細部に嘘はあったが収容所生活がつらかったこと自体は嘘じゃない』て見苦しいとしか言いようがありませんね。要するにどうシンに好意的に理解したところで同情を得るために「話を盛ってた」てことじゃないですか。それ以外に理解しようがあるのか。
 嘘つきはぐちゃぐちゃ抜かしてないで表舞台からとっと消えたらどうなんでしょうか。脱北者北朝鮮批判者も今や山ほどいるわけでシン一人消えても「シン本人とそのお仲間以外」は誰も困りません。むしろシンが表舞台にでてくれば「あんな嘘つきが未だにのさばってるのか(北朝鮮)」といい攻撃の材料になるだけです。

インタビュアー
「14号収容所からではなく、18号収容所から脱出したと証言を翻して議論になっている。2つの収容所は大きく異なると言われているからだ。」
シン
「そうではない。(中略)少し複雑だが説明しよう。私は今まで証言した通り、14号収容所で生まれた。その当時あったのは14号収容所だけで、18号収容所はなかった。その後、1985年頃に、14号収容所に住んでいた収容者のうち、一部を除いて全員、川の向こうへ移住しろという命令が出た。どのような基準だったのかは分からないが、私たちの家族は、14号に残留する中に含まれていた。
(中略)
 その日から、川の対岸の収容所が14号、元の14号だった所は、18号収容所と名前が変わった。そして、2回目の脱出を試みた後、再度捕まって戻された所が14号収容所なので、証言の内容が間違っているわけではない。さらに14号も18号も政治犯収容所で、決して14号での生活が18号よりも過酷というわけではない。」

 シンの言い訳が事実だとしても、だったら最初からそう言えて話です。どこに「嘘をついたこと」を正当化出来る事情があるのか。インタビュアーも「でそれのどこに嘘をつくことを正当化する事情が?」と聞かないんだから全くぬるいもんです。


■「津田左右吉大日本帝国との対決 天皇の軍服を脱がせた男*18」(勉誠出版)(三浦の個人ブログ)
http://miura.trycomp.net/?p=3042
・俺に言わせれば「歴史の事実を捏造しようとしてる」と言う意味では「津田を弾圧した戦前日本政府=南京事件否定論河野談話否定論を唱える三浦らバカウヨ」で、そうした「歴史捏造と闘った」という意味では「欠史八代を主張した津田=南京事件研究者、慰安婦研究者(笠原十九司*19、吉見義明氏*20など)」ですが自分を「津田の側」だと思える三浦には心底呆れます。
・何故三浦がこの本の宣伝エントリを書いてるかと言えば三浦がこの本の解説を書いてるからだと言う事は「勉誠出版」のサイト(http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100430)を見れば分かることですが何故かそのことを書かないで「第三者の宣伝」ぶるいつもながら卑怯者の三浦です。
・なお勉誠出版は他にも加瀬英明*21昭和天皇の戦い:昭和二十年一月〜昭和二十六年四月』(2015年)なんて出してますからそういう本屋なんでしょう。まあ、林博史*22『戦犯裁判の研究:戦犯裁判政策の形成から東京裁判・BC級裁判まで』(2009年)、笠原十九司編『戦争を知らない国民のための日中歴史認識:「日中歴史共同研究〈近現代史〉」を読む』(2011年)とか、まともそうな本もありますけどね。

大井健輔(おおい・けんすけ)
本名 児玉友春。昭和56年(1981)2月28日生まれ。千葉県柏市出身。立教大学文学部史学科卒。同大文学研究科史学専攻修士課程修了。同大同博士課程中退。研究分野は日本思想史。
『新日本学』(拓殖大学日本文化研究所)、『昭和史講座』(保阪正康*23事務所)、『北の発言*24』(西部邁*25事務所)、『史学雑誌』(東京大学文学部)、『皇学館論叢』(皇学館大学人文学会)、『立教日本史論集』(立教大学日本史研究会)などに論文掲載。

 やれやれですね。拓殖大、皇學館大は「右翼大学」、保坂と西部は「右翼文化人」と見事なまでに活動分野がウヨってる御仁です。歴史学者でもなんでもない三浦に自著の解説を書かせることといいおよそまともな歴史家ではないでしょう。まあ、既に「津田左右吉研究」なんてものはたくさんあるわけで
ウィキペ「津田左右吉」にも

家永三郎津田左右吉の思想史的研究』(1972年、岩波書店
上田正昭*26編『津田左右吉』(1974年、三一書房
・新川登亀男*27ほか編『史料としての『日本書紀』:津田左右吉を読みなおす』(2011年、勉誠出版

なんて本が紹介されています。この大井本が果たして「過去の津田研究をきちんと理解した上で学問的意味のある新しい知見を付け加えてるか」が問題の訳ですが、まあ「読まずにこんな事を言っては失礼」ですが期待薄でしょうね。

天皇を軍事指導者に祀り上げる帝国に真っ向から対決し、その本来の姿を説いた「津田裁判」。

 やれやれですね。ウィキペ「津田左右吉」を見るだけでもわかりますが、津田が戦前ウヨに問題視され、ついに不敬罪で処罰されたのは「いわゆる欠史八代(初代神武から9代開化までの天皇は実在性が怪しい)」を主張したことであって

天皇を軍事指導者に祀り上げる帝国

なんて話ではありません。大体「軍事指導者に祭り上げる」も何も法律上、天皇は「大元帥」という軍事指導者以外何物でもありませんが。だから「統帥権干犯」なんてことも問題になるわけです。
 津田が評価され、また当時の日本政府が批判されるのも
1)仮に津田学説(欠史八代)が間違いでも不敬罪で裁くのは学問への権力の不当介入
2)そうした弾圧に屈しなかった津田は偉い
という話の訳です。なお、ウィキペ「津田左右吉」を見れば分かりますが一方で津田が「天皇制支持者」であり「反共主義の右派」だったことにも注意が必要でしょう。別に「天皇制支持者だから津田はくだらない」という話ではなく「津田においては天皇制支持と欠史八代主張は両立していたこと(別に天皇制批判や否定が主張の目的ではない)」に注意が必要だと言う事です。
 そして三浦らウヨが津田を持ち上げるのも「天皇制支持の反共主義」だからでしょうね。津田が仮に「天皇制批判者のマルキスト」だったら悪口雑言でしょう。


大東亜戦争全体主義の勝利に終わった(三浦の個人ブログ)
http://miura.trycomp.net/?p=3024
 正直、三浦の言いたいことが分かりません。三浦の言う大東亜戦争とは文脈から見て1941年開始の太平洋戦争と言うよりは1939年開始の「第二次世界大戦」のようですが一般には第二次大戦は「日独伊」という全体主義陣営(枢軸国)に「米英仏」といった民主主義陣営(連合国)がかった戦争と評価されてるわけです。
 まあ、連合国のうち「蒋介石中華民国」「スターリンソ連」は「民主主義」とは言いがたいですけど、それあげつらって何か意味があるのか。
 三浦は「全体主義スターリンソ連)が勝利したから第二次大戦は愚かだった。満州事変や真珠湾攻撃をして第二次大戦を引き起こす側にいた日本は愚かだった」といいたいようではなさそうですから結局「逆張り」「天の邪鬼」てことなんでしょう。全く非建設的な性格ですね。

以下は、2013年8月16日に発売された「表現者」に書いた文章です。

表現者」とはもちろんウヨ雑誌です。

大東亜戦争の真の勝者はどこだったかという問題だ。答えは簡単で、最も勝利し領土を拡張したのはスターリンソ連である。明らかなスターリンの戦略ミスによって国民に甚大な被害を与えたにもかかわらず。

 いやいや「ドイツのポーランド侵攻と同時期に行われたバルト三国併合(要するにドイツに手一杯でソ連に英仏が手が回らない事を見越した火事場泥棒行為ですが。独ソ不可侵条約でドイツは攻めてこないという考えもあったわけです)」はまあそれなりの「領土拡張」でしょうが、それ以外は大して「領土」は拡張してないでしょうよ。北方領土なんてたいした領土じゃないし。樺太(サハリン)はもともと日本が「日露戦争」で奪った領土だからロシア(当時はソ連ですが)に返すのは当然でしょう。台湾は中華民国に返し朝鮮(韓国)の独立も認めたわけですから。
 まあ、「東欧に勢力を広げた(ただし領土ではないし、ユーゴのチトーが典型だが東欧共産勢力は必ずしもソ連の単純な傀儡ではない)」のはソ連にとって「第二次大戦の怪我の功名」でしょうがそれは米国も同じですからね。第二次大戦前は英仏の力も強くいわゆる「モンロー主義」もあったわけですが「戦争で英仏がぼろぼろになったこと」でモンロー主義は影を潜め、米国は欧州への影響力を強めたわけです。英仏も「今はともかく当時は」、米国の欧州進出には複雑な思いもあったでしょうが、ソ連が東欧に出張ってきた、ドイツでナチスが、イタリアでファシズムが復活する危険性もゼロじゃない、英仏は経済がぼろぼろでは「米国は出しゃばるな」と言える状況ではないわけです。
 「ソ連大勝利」と言えるほど話も単純じゃないでしょう。
 なお、

明らかなスターリンの戦略ミス*28によって国民に甚大な被害を与えたにもかかわらず。

という三浦が日本政府の明らかな戦略ミス「対米戦争とそれによる国民の甚大な被害(例:東京大空襲、原爆など)」について日本政府を批判しないのは実に滑稽です。

中立条約破棄

 破棄していいとはいいませんが「日本の敗戦が不可避」という政治状況下で「条約破棄」の可能性を予想できなかった日本もいい加減政治音痴です。また日本側が「関東軍特種演習」という形で「チャンスがあれば条約破棄する気だった」事にも注意が必要です。

中国共産党政権誕生への道を開いた。

 ソ連はそんなに毛沢東に好意的じゃないんですけどね。スターリンは当初は国民党勝利を予想して毛沢東支援がおざなりだったというのは有名な話だと思いますが。
 つうかむしろ毛沢東のジョーク「日本軍のおかげで蒋介石に勝てた」のほうがまだ「説得力がある」でしょう。

連合軍はナチスを倒すためにソ連スターリン全体主義体制を支持するという政治的欺瞞を選択したのだ。

・別に欺瞞じゃないでしょう。「ナチスに負けてもいい」とは普通思わないでしょうよ。
 そして欺瞞つうのなら「日ソ中立条約」を結んだ松岡外相と彼を外相とした戦前日本政府も立派に政治的欺瞞ですけどね。
 松岡は「米英に勝つためにはソ連と手を結んで構わない」「ソ連なんてそういうマキャベリスト国家だ。だからドイツと独ソ不可侵条約を結んだんだ。俺もそういうマキャベリズムは大歓迎だ」て考えだったわけですから。松岡の失敗は彼が「ヒトラーの陰謀を見抜けなかったこと」ですね。とはいえ「英国と闘ってるんだからヒトラーもいくらソ連嫌いでも英国が降参するまでソ連攻めないだろ。二正面作戦なんて愚策ジャン」という松岡の理解は一理ありますし、実際そういう理解はスターリンもしててヒトラーに油断したが為に初戦惨敗する羽目になります(もちろん無茶な赤軍粛清も惨敗の一因ですが)。とはいえ「二正面作戦の失敗でヒトラーは敗北する」わけで「二正面作戦なんか愚策だろ」という松岡、スターリンコンビ(?)の理解は「ある意味正解」だったわけです。
・また政治的欺瞞つうなら、
「反共運動に資金面で協力してくれることを理由に統一協会霊感商法を黙認した日本ウヨ」
「戦前は『打倒米国』『打倒蒋介石』だったのに戦後は『打倒ソ連、打倒中国共産党』を理由に掌返して米国や蒋介石とごろごろニャンニャンした日本ウヨ」
の方がよほど政治的欺瞞でしょう。三浦らウヨは「統一協会と日本ウヨの癒着」について少しは恥というものを感じないんですかね?

多大な民衆をシベリアに「強制連行」された日本政府

関東軍兵士なら抑留されていい」とは言いませんが兵隊を「民衆」と表現するのはいかがなもんでしょうか。シベリア抑留は批判されて当然ですが「外国にそれほどたくさんの日本軍兵士がいたことは今の目で見れば侵略ではないか」という点には注意したいですね。

 重大なのは、スターリン体制が戦後ある時期までは進歩と平和の象徴として評価され、共産主義が時代の夢として語られたことである。

・まあ、「左派におけるスターリン体制の高い評価」は「フルシチョフスターリン批判」「それ以降の中ソ対立やユーロコミュニズムなど」で崩壊しましたけどね。
・「共産主義が時代の夢として語られた」のは別に不思議じゃないでしょう。共産主義は「現実の共産主義国家の実態はともかく」理念としては「民族平等」「貧困撲滅」などをスローガンとしていたからです。まあ、色々政治的計算もあったでしょうが、ソ連は「ベトナムホーチミン」など各地の民族活動家を支援もしていた。
 手放しの評価はしませんが「中国の周恩来」「ユーゴのチトー」などは「非同盟運動」という一つの政治運動を創始した。
 また「共産主義というライバルがあったから西側も福祉充実などに力を注いだ面がある」「共産主義マルクス主義)から社民主義が生まれ、英国やドイツなどでは政権を取得したこと」などを考えればそう簡単に共産主義の役割を否定できるもんでもないでしょう。
 少なくとも三浦らウヨが正当化したがる「大東亜会議」なんぞよりも「共産主義の産んだ遺産(まあどこまでを遺産と評価するかって問題もありますが。社民主義を遺産と評価するのは評価しすぎかもしれません)」の方がよほど豊かでしょう。だからこそ未だにマルクスの著作は「一つの古典」として世界各国でそれなりに読まれるわけです(一時期に比べれば読む人は減ったかも知れませんが)。一方、三浦の絶賛する「日本版アジア主義」なんかそんな国際性はないわけです。

 (注:少なくない左派が)韓国政府の強権政治は批判しても北朝鮮の実態を知ろうともしなかったこと、南ベトナム政府の堕落や米軍の虐殺は報じても、北ベトナムテト攻勢*29の本質、特にフエにおける民衆虐殺や、最も純粋にベトナム民族解放の理想に殉じた南の解放戦線を死地に追いやったスターリン主義戦略(これはジョージ・オーウェルが「カタロニア讃歌」で暴いたやり方そのものである)はほとんど指摘されなかったことは、戦後言論のゆがみとして忘れてはならないだろう。

 やれやれですね。「右も左も批判してきた人間」ならともかく「北朝鮮北ベトナムは非難しても韓国軍事独裁南ベトナムは擁護する」「韓国軍事独裁南ベトナム以外にもフィリピンのマルコスやインドネシアスハルト、チリのピノチェトなど右の独裁は擁護する」腐れウヨの一人・三浦が何様なんでしょうか。

 6月末、新疆ウイグルで民衆決起が勃発、中国政府は「テロ」「暴動」として弾圧している(この原稿は2013年7月3日執筆)。
(中略)
 その中国に今や韓国政府が接近している有様を見るとき、スターリン主義の悪もナチスの悪も、人類は全く反省していないのだなと思わざるを得ない。

 全く反省がないのは「河野談話否定論」「南京事件否定論」などウヨのデマ垂れ流しに公然と荷担する三浦の方でしょう。俺が三浦ならここまででかい口を叩くなら「河野談話否定論」「南京事件否定論」になど「本心はともかく公然と荷担すること」などとても恥ずかしくてできませんがそういう常識は三浦や三浦とつきあって恥じない連中(例:守る会会員のid:noharra)にはないようです。
 それにしても「韓国が接近してる」て(苦笑)。三浦には「日本財界も接近してますし、欧米財界も接近してますが?」と聞きたくなりますね。韓国「だけ」あげつらう理由はなんでしょうか?
 「朴チョンヒ時代は反共の仲間だったじゃないか!。裏切ったんだ!。韓国が裏切ったんだ!」「日韓国交正常化の時に経済支援してやったのに!」とでも思ってるんでしょうか?

 わが日本の大東亜戦争を、敗れたりとはいえアジア民族解放と独立に寄与したとして再評価する論は、確かに歴史的事実としては一定の理があるとしても、それはあくまで南アジア*30限定のことであり、日本の敗戦によって成立したともいえる中国共産党政権は、欧米以上*31の侵略と植民地化*32ウイグルチベット南モンゴルなどで行い、その植民地は解放の見込み*33すらない。戦争中、東京で開催された大東亜会議*34は世界最初のアジア諸国サミット*35であり、そこで語られたアジア諸民族の独立と相互連帯の夢を再評価することは確かに歴史を学ぶ上で重要なテーマだが、その夢は少なくとも東アジアにおいては悪夢に終わったという現実から目をそむけるわけにはいかないだろう。
(中略)
 大東亜戦争はアジア解放の聖戦*36なのか、自衛戦争*37なのか、侵略戦争なのか、もしくはその要素のすべてが絡み合った歴史的な大変動だったのか、それは様々な説*38がありうるだろう。

 今時ここまで平然と「大東亜戦争肯定論」を公言できる神経には実に呆れます。
「敗れたとは言え」ではなくて「日本が宗主国を追い出す」→「日本が敗れる」→「権力の空白状態」となったから独立できたのであって日本が敗れなければ日本の植民地となったでしょう(形式的独立を仮に与えたとしても)。また「インドネシアベトナム」では1945年8/15の後すぐに独立できたわけではなくしばらくは「植民地回復を目指す旧宗主国との戦い」が続きました。
 こんな三浦とつきあいながら「アンチ安倍」「アンチ右翼」面できるid:noharraの恥知らずさにも呆れますが。正直にid:noharraは「僕は安倍シンパを公言する三浦さんとつきあってるんだから、もちろん僕も安倍シンパだよ。僕の安倍批判なんて虚言だよ」と自白したらどうなんでしょうか。
 それはともかく、「日本の敗戦によって成立した中国」とやらを罵倒する三浦ですがならば「日本の敗戦で独立した」と三浦が言う東南アジア諸国は独立後から今に至るまでなんの汚点もない立派な国揃いなのか。そんなことはまったくなくて、「フィリピンのマルコス」だの「インドネシアスハルト」だのは反対派を軍で弾圧する独裁者だったわけです。


■守る会関東学習会「未成年:続・キューポラのある街」上映会報告
http://hrnk.trycomp.net/news.php?eid=01126

 映画での日本人妻の言葉「私は本当は行きたくないんだよ、どんなに貧乏でも、日本にいたいんだよ」「朝鮮に行った私のことを、みんなが忘れてしまっても、ジュンちゃん*39、貴方だけは覚えていてね」というセリフを観ると、この映画を作った人たちは、多少なりとも帰国事業の実状が見えていたようにも思えます。

 いや、「三浦の言うような意味」、つまり「帰国者や日本人妻の生活が、一般北朝鮮人と比べても相当に貧弱らしい」とか「帰国者や日本人妻への差別が起こってる疑いがある」とか言う意味では見えてないでしょうよ。一般的な「不慣れな外国へ向かうので不安な気持ちで一杯の日本人妻」という認識しかしてないでしょうね。三浦は「見えてたこと」にして映画制作者を非難したいのかも知れませんが。


■忘れられたファシスト 下位春吉(三浦の個人ブログ)
http://miura.trycomp.net/?p=3026
・まあ「忘れられた」というからには「全盛期にはそれなりに知られてた」という事実がないといけないと思いますがそういう事実あるんですかね?。
・後で説明しますが、下位のことはむしろ「忘れられた山師」「忘れられた詐欺師」て気もします。
 なんというか「ドクター中松」「羽柴誠三秀吉」などを連想させます。
・なお、ググったら「下位春吉」でウィキペの項目ができててびっくりしました。藤岡氏が、あるいは三浦が作ったんでしょうか?
 まずはウィキペ「下位春吉」にコメントしてみましょう。

ウィキペ「下位春吉」
 第一次世界大戦末期の1918年、下位はアルマンド・ディアズ将軍と知り合い、将軍から前線の取材をすすめられた。新聞社の通信員として前線に赴いた下位は、まもなくイタリア軍に志願入隊し、戦闘行為に参加した。

 日本人が外国の戦争に「個人的に」兵士として従軍する、参戦するというのは相当に問題があると思いますが、
1)下位が何故そんな事をしたのか、イタリアへの愛か、それとも政治的計算が何かあったのか
2)自分の行為が日本の外交や国際的イメージに悪影響を与えないかという躊躇はなかったのか
気になるところです。後で紹介する「ムソリーニの白虎隊記念碑話」という明らかな虚言を考えると「参戦」は「詐欺師(山師)・下位の虚言」て可能性もあるかも知れません。さすがに「戦場取材程度」しかしてないのを「前線で戦った」と虚言はいてるということです。
 三浦の文章やウィキペではその辺り分かりません。藤岡論文を読めばその辺り分かるかも知れませんがそこまでの興味はさすがにありません。一応ググったら藤岡論文のpdfデータ(http://www.fukuoka-int-u.ac.jp/lib/fiu-kiyo/fiu25-5.pdf)がヒットはしましたが。

ウィキペ「下位春吉」
 1924年12月、下位はイタリアから帰国した。この頃一時的に国士舘大学の教授と国士舘中学の校長となっている。1924年夏ごろには皇国青年党を設立し、自ら主宰となるなど政治運動にも関わっていたが、資金繰りに行き詰って1927年ごろに解党している。

 完全なプロ右翼活動家ですね。

ウィキペ「下位春吉」
 この時期に下位は当時の若松市*40(現・会津若松市)の市長に対して、「ムッソリーニ*41が白虎隊の事績*42に感激して記念碑を建立したがっている」という進言を行った。これは下位の創作であったが、新聞報道がなされて有力者からの賛助金も集まった*43ため、やむなく外務省がムッソリーニに打診し、1928年にイタリアから送られた記念碑が若松市飯盛山に実際に建立された。その後、短期間の訪伊を何度か行った後に、1927年にローマ大学に設置される日本文学講座担当教授となるため、一家でローマに向かったが、結局この講座は実現しなかった。ローマで下位は研究と「私設日本大使」としての活動を行っていたとされる。
 1933年、下位一家は日本に帰国した。下位によるとこの帰国はイタリア首相となっていたムッソリーニによって、日本においてイタリアの紹介を行うよう依頼されたからだという。下位は「あの日からずっと私はムッソリーニのそばにいた。ムッソリーニのところには自由に入ることができた」とムッソリーニとの親密さを語っているが、ムッソリーニ側の資料で下位の名前が出てくるものはほとんど存在しない。

 「全聾の作曲家を装っていた佐村河内」「STAP細胞捏造の疑いが濃厚な小保方」「特定失踪者というデマを放言する荒木和博」を連想させる下位の虚言癖には呆れますね。だまされる側もどうかと思いますけど。うさんくさい政治活動家が「ムソリーニとつきあいがある」「ムソリーニが白虎隊に感激していた、記念碑を作りたいそうだ」といって怪しいと思わないんでしょうか?。
 俺だったら「こいつムッソリーニへの手数料名目でカネだまし取る詐欺師と違うか」「誇大妄想のほら吹きと違うか」などと思いますけど。
 まあ、それはともかくムッソリーニもいい迷惑でしょう。
 しかし「賛助金まで集まったんでご迷惑とは思いますが記念碑の件、何とかしてもらえませんか?。今さら『アレは下位の嘘だった』ではわしら外務省や若松市など関係者の面子がたたんのですわ。勿論後々それなりのお土産はイタリアにセットしたいと思います(日本外務省)」「わかった、そのくらいのことならおやすい御用だ(ムソリーニ)」というやりとりでもあったのか知りませんが、「ムッソリーニていい奴じゃん」とつい思ってしまいました(苦笑)。まあ、「こんなことで『そんな嘘に何でワシがつきあわんとあかん、下位にだまされたあんたらの自業自得やろ?。下位をぎゅうぎゅうに締め上げた上で、賛助金出した人間にあんたらがお詫び行脚すればええだけやろ?』などと日本に喧嘩を売っても仕方ない、記念碑ぐらいやったら大して金もかからんし、恩を売っといた方がええやろ(ムッソリーニ)」という計算はあったでしょうけど。
 ちなみに「ムッソリーニ、白虎隊」でググって見つけたサイトを紹介しておきましょう。

■Valdegamas侯日常
『山師、日伊関係を揺るがす:下位春吉と飯盛山ローマ市寄贈の碑(上)』
http://d.hatena.ne.jp/Donoso/20121013/1350129173

 この「ムソリーニの白虎隊記念碑」、今もあるようですから、福島に行く機会がある方は写真にでも撮ると面白いかも知れません。まさに「ナニコレ珍百景」ですね(ただし経緯は不明だが、記念碑に刻まれた碑文は削り取られて今はないとのこと。GHQの命令だという説が流布してるようだが真偽は不明)。さすがに「下位のホラ話」という恥ずかしい経緯は記念碑周辺には書いてないようですが。なお弱るのはネトウヨサイトの中には下位のホラ話「ムソリーニが感激」を事実として書いてる代物があることです。
 ちなみに三浦は自ブログのエントリでこの「白虎隊記念碑話」に全く触れませんが、これが
1)藤岡論文はこの話に触れてないこともあって三浦が知らない
2)三浦は知ってるが、「ムッソリーニに傾倒したまじめな男・下位」という三浦が作り出したい下位イメージに明らかに反するので故意にネグった
のかは不明です。「卑怯者のトンデモ右翼」三浦なら2)の可能性も充分あると思いますが。

ウィキペ「下位春吉」
 日本に帰国してからの下位は、日本放送協会のイタリア語部長や国際連盟教育映画部日本代表、日伊学会評議員、日本農林新聞社長などを歴任している。

 まあ随分と大出世したもんです。イタリア帰りと言うだけでも当時はハクがついたんでしょうか。
 しかしイタリアと全く関係ない「日本農林新聞社長」てのは何なんでしょうか?。
 日本ウヨには「加藤完治*44」、「権藤成卿」、「橘孝三郎*45」など、いわゆる農本主義*46がたくさんいますので「ウヨつながり」でしょうか。

ウィキペ「下位春吉」
 また出口王仁三郎と接近し、昭和神聖会*47の創立にも参加している。

 ただし出口の右翼活動を危険視した政府側は出口と「彼が幹部を務める宗教団体・大本」に激しい弾圧を加えます。昭和神聖会の活動は当然ながら挫折します(ウィキペ「大本事件」「昭和神聖会」「出口王仁三郎」参照)。なお、出口という人間も、「ムッソリーニとの交友を吹聴する」下位同様、「ある種の誇大妄想癖」だったのかもしれません。
 次に三浦の文章にコメントしてみましょう。

以下は以前月刊日本に書いた文章です。

 月刊日本なんて右翼雑誌に平気で寄稿できるなんて何とも極右なことです。

 本稿は藤岡寛巳(福岡国際大学教員)氏が2011年同大学(注:の紀要)に発表した「下位春吉とイタリア・ファシズム」を読むことなしにはあり得なかった。

 よくもまあ、三浦も研究者でもないのにそんなマイナー論文に気付いたモンです。まさか藤岡氏が三浦の「右翼友達」てこともないでしょうし何がきっかけなんでしょうか。
 藤岡氏の名前でググったところ『原初的ファシズムの誕生:イタリア戦闘ファッシの結成』(2007年、御茶の水書房)という本がヒットしたので「近代日本史」というアプローチではなく「近代イタリア史」というアプローチで下位を研究してるのでしょう。

 下位春吉は福岡県士族井上喜久蔵の四男として生まれる。この喜久蔵とは、明治新政府への士族反乱秋月の乱への参加者の一人だった。この後1925年、秋月の乱から50年を経て、この決起を記念する演説会で下位は講演することとなるのだが、おそらく彼は、父の参加したこの乱の敗北を思想的原点として決して失わなかった。

と三浦が言うなら何か根拠が必要でしょう。
秋月の乱も、下位が評価したであろうダヌンツィオのフィウメ占拠や、ムソリーニのローマ進軍もどちらも武装蜂起だ」レベルではとても「秋月の乱が思想的原点」とはいえないでしょう。

 1915年秋、下位は単独、日本を出航し、ダンテ研究のため単身ナポリに旅立ち、王立東洋学院(現在のナポリ東洋大学)で日本語を教えながら、イタリアの若い文学者と交流しつつ、与謝野鉄幹・晶子、泉鏡花吉井勇などの作品をイタリア語訳するとともに、雑誌「サクラ」を刊行、樋口一葉国木田独歩森鴎外土井晩翠二葉亭四迷など明治以降の現代日本文学の翻訳を精力的におこなっていく。

 この「日本文学紹介活動」だけだったら下位も「平凡な日本文学紹介者」で人生を終わったんでしょうにね。

 この様な活動を見ていると、この時代の日本人の方が、現代よりもはるかに「国際人」だったことを知らされる

 いやいや今の方が全然日本人は国際化してるでしょうよ。下位のような「洋行する人間」は当時は少数派でしょう。ほとんどの日本人は海外に行くこともなく人生を終わっていたわけです。
 一方今の日本は『世界の日本人妻は見た!』(TBSテレビ)、『世界行ってみたらホントはこんなトコだった!?』(フジテレビ)、『世界の村で発見!こんなところに日本人』(テレビ朝日)など「国際的番組(?)」がたくさんあるわけです。今や仕事や学業、観光で海外に行くことは全く珍しいことではなくなった。

 近代国家の価値を、反動であれ、革命であれ越えようとする者の意識の共振、これを見失ったとき、歴史は単なるイデオロギーで善悪を振り分けられる悪しき政治紙芝居に堕する。

 三浦が何が言いたいのかさっぱりわかりません。
 大体三浦のようなウヨは日本の問題行為については「単純に善悪で裁くな」と言う癖に「スターリン粛清」「文革」などといった自分の気に入らないものは平気で「善悪で裁く」のだから単に「日本を非難するな」と言うだけの話に過ぎません。

 1920年2月、ダンヌンツィオが占領中のフィウメを下位は訪れていることが当時の新聞記事のダンヌンツィオ発言からわかる。

 ダヌンツィオのフィウメ占領とは次のような話です。

ダンヌンツィオ(ウィキペ参照)
 第一次世界大戦後のパリ講和会議で、フィウメ(いわゆる「未回収のイタリア」の一部。現在のクロアチア領リエカ)をオーストリア=ハンガリー帝国からセルボ・クロアート・スロヴェーヌ王国(後のユーゴスラビア王国)に割譲するとの結論が出されたことに激怒したダンヌンツィオは、1919年9月12日、イタリア人武装集団を率いて進軍し、フィウメ市を占拠、アメリカ、イギリス、フランス3軍から組織された守備軍を追放した。
 彼らはイタリアによるフィウメ併合を要求した。国際関係の悪化を懸念してイタリア政府は国境線を封鎖、武装組織の投降を促した。そこでダンヌンツィオはフィウメの独立を宣言し、イタリア本国にまで宣戦布告したが、イタリア海軍による艦砲射撃を受け、12月に投降した。
 フィウメ占拠事件後のダンヌンツィオは自宅に隠退し、著作活動を行った。しかしフィウメ時代の側近との連絡を保っており、政界に隠然たる勢力を持っていた。

 藤岡氏の翻訳を紹介させていただくが、ダンヌンツィオは下位を讃えて歓迎会を催し、以下のように演説した。
(中略)
「(前略)中国とロシアを打倒した人々*48は、現在、全征服地をもとめる。 かれらはアジア支配のみならず、全太平洋に向かう。その力はフィリピン、インドシナ、蘭領インド*49、そしてハワイを見すえるのだ。」
「(前略)われらは、イタリアの東の港フィウメから、極東の光差す国に挨拶をおくろう。今度はわれらの番だ。主は近くに在り。アララー!」
 最後の「アララー」とは(中略)ダンヌンツィオ独特の(中略)戦場の掛け声である。この演説は豪快でありながら実は政治的にも考えられたもので、日本の大陸進出を明確に「古いヨーロッパによる世界秩序」に対する革命勢力としてダンヌンツィオはとらえている。この時代は侵略も植民地化も絶対悪だなどとは認識されておらず、日清、日露戦争の勝利は、日本国の勝利であると共にアジアの民族覚醒、新しいアジアの復興になりうるものだったこと、そして日本のさらなる膨張や侵略ですら、可能性としては「アジアの蘇生、聖なるアジア、広大で至高なるひとまとまりの地域を革新する突然の若返り」につながると述べているのだ。

 やれやれですね。第一次世界大戦後、日本はドイツの植民地だったパラオを事実上の日本の植民地にしますがそのときのパラオの法的地位は「国際連盟委任統治領(統治者は日本)」でした。つまりは第一次大戦後はもはや露骨に「パラオを日本領にして何が悪い」と言える時代じゃなかったわけです。
 有名なウィルソン・米国大統領やレーニン民族自決権提唱も、第一次大戦後の「チェコスロバキアハンガリーポーランドなどの独立」もそうした時代の産物でしょう。
 三浦の主張とは異なり、この頃は「侵略や植民地化は悪徳」という考えが強まり始めたと言っていいでしょう。

 これは決して歴史的には前例のないことではない。ナポレオンの戦争や、ダンヌンツィオの抱いていたイメージからすればローマ帝国のように、侵略そのものが世界の発展と意識革命をもたらすことはありうるのである。このアジアからの現在国際秩序への挑戦を守ろうとしているのが、英米に代表される「老いぼれたヨーロッパ」であり、ダンヌンツィオとここフィウメに決起した戦士たちはこの秩序に対する革命勢力という面では日本と同じ地点に立つのだというダンヌンツィオの論理は、実は後年実現した日独伊三国同盟より思想的に遥かに純化されたものであり、政治的にも高い見地を示している。

 右翼活動家ダヌンツィオの「下位へのリップサービス」がある「どこまで本気か怪しい」アジ演説をここまで評価出来る三浦には呆れます。
 大体

侵略そのものが世界の発展と意識革命をもたらすことはありうるのである。

と三浦はいうのなら「中国のチベット解放」を侵略だと非難だけしかしないのは辞めたらどうなんですかね。
 「チベット解放」が「チベット経済の発展とチベット人の意識改革」をもたらしたのは間違いないでしょうから。前も書きましたけど今もダライ体制だったらチベットは「世界の最貧国」だったでしょうね。

正直、その雄弁から講演会は成功が続くものの、運動としてはさしたる効果をあげることはできなかった。

 下位の運動が失敗した理由にはもちろん「下位の能力」と言う問題もあるでしょうがそれだけでなく「イタリアファシズムが魅力的でなかった」と言うのが大きいんじゃないか。民主主義者にとってはファシズムなんか評価出来ないし、「ファシズムに親和的な人間」であってもその後「ナチスヒトラー」という「より魅力的なファシズム思想・運動」が登場するわけです。不謹慎ですが有名なブラックジョークに「今度何かやるときはイタリア抜きでやりましょう(日本)」「そうしよう(ドイツ)」てのがありますよね。

戦後、下位はファシズムの支持者として公職追放を受けたが、仮にそうでなくても、もはや言論の場も意志も下位にはなかっただろう。

 確かに「大して政治力があるとも思えない下位」なんぞ公職追放しなくとも、発言の場なんかないでしょう。とはいえ「公職に就いてた右翼活動家」であることは事実ですから公職追放せざるを得ないのでしょうが。

1952年1月、イタリアの歴史家でジャーナリストのモンタネッリ*50は下位にインタビューしている

 そのインタビュー記録の邦訳でもあるなら1度読んでみたい。

下位は沈鬱な表情をみせながら、「いわば、人間のすることはすべて無意味だ」と漏らしていた。

 「児童文学者」としてスタートしながらたいした成果を上げないまま、「日本文学翻訳家」になりそれもたいした成果を上げないまま「右翼活動家」に転進し、そこでも大した成果を上げないであげく「公職追放」ですからね。ぼやきたくもなるでしょう。

「俺は自由だ
思っても見よ、俺は神の的だ
思っても見よ、この恐ろしい希を
いよいよ輝くみ徴(しるし)を
神に授かるに値するだらうといふことを」(ダヌンツィオ「聖セバスチャンの殉教」三島由紀夫訳)

 ウィキペ「ダンヌンツィオ」によれば三島の言動にはダヌンツィオの影響があると考えられているようです。

ウィキペ「ダンヌンツィオ」
 三島由紀夫が、ダンヌンツィオ『死の勝利』(生田長江訳)を下敷きに、『岬にての物語』(1946年、桜井書店→後に新潮文庫)を書いたと筒井康隆は述べている。三島は、池田弘太郎との共訳でダンヌンツィオ『聖セバスチァンの殉教』(1966年、美術出版社→1988年に国書刊行会から復刻)を刊行した。これら作品上の関係のみでなく、「楯の会」の制服や行動にダンヌンツィオの影響を見る者も多い。
 特に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の本部庁舎バルコニーからおこなった演説は、フィウメ占拠時のダンヌンツィオが取った行動の模倣であると、たびたび指摘されている。筒井康隆の著書『ダンヌンツィオに夢中』(1989年、中央公論社→後に1996年、中公文庫)は、これらの論考・指摘に基づいている。


【追記】
 他にも下位の名前でググって見つけたエントリをいくつか紹介してみましょう。
 まずは
■昭和三年機密公第二号
http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/8fe7a00fe8d5985c70f0e8bc1ce3c8b9

 昭和3年1月5日附、機密公二号という在伊特命全権大使松田道一が外務大臣田中義一に宛てた公文書が残されている。
標題は「在当地下位春吉ノ行為ニ関スル件」とあり、過般、陸軍大臣秘書官本多少佐が畑次官代理として伊太利大使館附武官笠井大佐に対して、下位春吉の伊国首相「ムッソリ―ニ」氏による会津白虎隊の墓前に寄贈の記念碑について、その後何の音沙汰もなく下位の言に疑いを挟む者もおり、本件の真相について内密調査を依頼していた。
 井上通訳官が日伊協会長「ベルトラメッリー」氏に確認したところ、この件については何も承知しておらず、事実無根の話であり、下位の買名的偽言と断定して憚らなかった。さらに先月30日同官が首相官房長「マメリー」に下位の話の真偽を確かめた処、同官房長は「飛デモナキ事ナリ、察スルニ下位ノ詐偽的言動ナルベシ、此点ハ大ニ明確ニ大使ヘモ伝達置キ願度シ本件ハ首相ノ名誉二モ関スル事ナレハ委曲首相ニ報告スベシ首相ハ大ニ不愉快ヲ感ズルナルベシ」云々と語った。
 さらに羅馬*51大学事務局より本大使宛に公文書にて、下位春吉は同大学の教授ではないことの通告と同人が大学教授である噂がある為、同人宛の諸郵便物が大学に多数配達され甚だ迷惑であることを訴え、当館に郵便物を返送してきた。

 下位の虚言「ムソリーニが白虎隊記念碑を建てたがってる」について駐イタリア・日本大使館に問い合わせを受けたイタリア側が「そんな事は一度も言ったことがない、下位の虚言ですよ」とマジで怒ってるという話です。ローマ大学が迷惑がってる「下位がローマ大学教授であるとの噂」というのも下位本人が流したものと見るのが自然でしょう。イタリア側と「駐イタリア・日本大使館」にとって下位は「迷惑なトンデモ日本人」以外何物でもなかったわけです。

 昭和三年機密公第二号に対し同年2月28日附にて出渕外務次官が在伊松田特命全権大使に返信している。
「本件贈碑実現ヲ見サル場合ニハ此挙ニ感激セル会津地方民ヲ失望セシムルコト深甚ナルモノアリ自然之ニ関与セル山川*52、幣原*53両男(爵)其ノ他ノ名士ニ多大の迷惑を蒙ラシメ又日伊の親交二モ却ツテ悪影響ヲ及ホス処有之ト考慮シ掘田欧米局長ヲシテ在本邦伊国大使ニ本件成行ノ事情ヲ内話シ小型ノモノニテモ宣シキ故伊国首相ヨリ紀念碑贈与を得ハ最モ好都合ナルモ其ノ運ヒニ至リ難キ場合ニハ碑ハ当方ニテ準備スベキニ付之ニ彫刻スル題字ヲ贈ラルル様斡旋アリ度旨個人の資格ニテ懇談セシメタル処同大使ハ快ク承諾シ早速郵便ヲ以テ伊国首相へ贈碑方稟申シタル」と伊国大使の承諾を得て、全権大使に本件実現のため努力してほしいと指示している。

 下位のホラを信じて動いている会津人(それも山川健次郎東京帝国大学総長など、複数のお偉いさん)がいるので今さら「アレは嘘でした」では面目が立たないので「記念碑をイタリアが作成して贈呈する方向でなんとかイタリア政府を説得してくれ」「それが無理なら、記念碑作成は日本がやるけど、碑に刻む文はイタリア側で書いてもらうとかなんとか何らかの形でイタリアを絡めてくれ」と外務省本省から駐イタリア・日本大使館に命令が来たという話です。下位のホラ話の尻ぬぐいをさせられる駐イタリア・日本大使館職員もいい迷惑です。
  次に
■伊太利*54大使松田道一からの要請
http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/aab38488b0b441e494b7ceb72c928804

 昭和3年9月15日附、在伊特命全権大使松田道一発、外務大臣・男爵田中義一宛、昭和3年10月10日接受、昭和三年欧米局、公二〇五号、「白虎隊墓前に奉納すべき贈碑に関する件」という公文書がある。
(中略)
 ローマ合同電通二十五日発として九月二十六日東京朝日新聞夕刊に「白虎隊の記念塔授受式終る」として電報記事が記載された。
 この記事には「授受式に下位春吉が日本を代表して記念柱を受取った」とあり、これに驚いた伊太利大使は「白虎隊頌徳紀念柱授受に関する誤報是正方の件」として外務大臣宛に訂正の是非を問合せをしている。
 『本件が元来下位の無責任なる言行の尻拭いとして伊国側の好意に訴え請求したる事情に願み此の如く本件紀念柱が全く同人の膽煎の結果なるかの如き聨想を誘起する本件記事が日本第一の大新聞紙に掲載せられ多数の一般読者を誤らせ、本件に関する経緯を顧み伊国側に対し実に相済まさる儀なるに付きとして当地AP及UP通信員に東京に通信の有無を確認したところ両者とも下位春吉の関係については知らず、AP等の通信は二十六日附の時事新報の正確な報道と同じであることが判明し、他に本件のような誤報を打電する通信社がなく、察するに下位自身の兼策ではないか、何れにせよ右様の誤報が東京朝日新聞の如き大新聞に依り報道されたのは日伊両国共に迷惑を感じる次第により可能な限り誰人に依りこの誤報が打たれたか取調べ、今回の贈柱は下位とは全く関係ない点を明瞭に公表し、従来同人に対する一般世人の誤信を一掃すべき』と上申している。
 これに対し大臣は「下位ノコト特二言フ必要ナシ、若シ検問スル者アラバ之二対シ軽ク下位ガシテ実佯ナルコトヲ説明スレバ足ル今日二至リ下位ノコトヲ言フハ贈碑二実聨シ不快ナル追憶ヲ伴ハシメル二過ギズ」として、本省は「今回伊国ヨリノ記念柱ハ伊国側ノ発意二ヨリ寄贈セラレタルモノ」と指示していた。

 この文章からは外務省サイドがいかに下位に反感を覚えてるかが良く伝わってきます。
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■伊国寄贈白虎隊記念碑除幕式
http://blog.goo.ne.jp/mearikutiari/e/1f5709578eb5543db6420fd62346657b

・伊太利大使の挨拶と除幕
・羅馬市長(伊太利大使代読)、外務大臣・男爵田中義一*55福島県知事・加勢清雄*56らの祝辞のあと、会津側代表として海軍少将・子爵松平保男*57が謝辞
・白虎隊紀念碑建設会総裁の高松宮宣仁親王殿下が除幕式台臨
・伊国寄贈白虎隊紀念碑建設会
 総裁:高松宮宣仁*58親王殿下
 名誉会長:
  男爵 田中義一
  男爵 幣原喜重郎*59
  宮内大臣・法学博士 一木喜徳郎*60
  伊国大使・男爵 ポムぺオ・アロイージ
  駐英大使 松平恒雄*61
 会長:公爵 近衛文麿*62
 副会長:
  男爵 山川健次郎*63
  伯爵 サン・マルチノ*64
 実行委員:
  男爵 大倉喜七郎*65
  外務省欧米局長 堀田正昭*66
  式部官 山縣武夫
  海軍大佐 濱田豊
 委員
  侯爵 徳川頼貞*67
  伯爵 溝口直亮*68
  男爵 武井守成*69
  陸軍中将 畑英太郎*70

 もともと怪人「下位春吉」の与太話だったものが「日伊の要人が出席して大々的なセレモニー」というとんでもない話になっています(苦笑)。しかし賊軍だったはずの白虎隊が日本政府から「武士道の鑑」として称えられ、その場に「関係ないはずの」駐日イタリア大使がいるというのもなんか変な気がします。
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■『黒シャツ*71の日本人・SF乱学講座』(白土晴一)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5302/200510text.html

 高等師範在学中の春吉は、巌谷小波や久留島武彦などによる「口演童話」の活動で知られた存在であった様だ。巌谷小波が始めた「巡回口演」のお伽話会には、先生に引率された生徒たちが数多く参加する等、新しい教育運動という一面があり、多くの教師が関わっていた。春吉は「通俗講話も一の大きな教育である」とし、他校では「雄弁部」や「弁論部」が幅をきかせる中、より教育的な「講話部」の活動に力を注ぎ、友人である葛原しげる(童謡作曲家*72・教育家)と共に師範学校卒業生在校生を中心とした口演研究グループ「大塚講話会」を発足させている。

 下位が影響を受けたという巌谷小波、久留島武彦、下位の友人で「大塚講話会メンバー」葛原しげるについてウィキペで経歴を書いておきましょう。

巌谷小波(1870〜1933年:ウィキペ参照)
 1891年(明治24年)、博文館から児童文学の処女作『こがね丸』を出版、以後博文館と組んで児童文学に専心した。作品の多くは博文館の雑誌「少年世界」に掲載された。以後同社の「幼年世界」、「少女世界」、「幼年画報」などの主筆となって作品を執筆、さらに「日本昔噺」(1894〜96年)、「日本お伽噺」(1896〜98年)、「世界お伽噺」(1899〜1908年)など、大部のシリーズを刊行した。今日有名な『桃太郎』や『花咲爺』などの民話や英雄譚の多くは彼の手によって、幼い読者の手に届いたもので、日本近代児童文学の開拓者というにふさわしい業績といえる。1911年に作った文部省唱歌『ふじの山』の作詩者としても知られる。

久留島武彦(1874〜1960年:ウィキペ参照)
 1906年より日本全国での童話の読み聞かせ(口演童話)活動を本格的に開始。訪ねた幼稚園・小学校は6,000を超える。1924年、日本童話連盟が創立され、巌谷小波らと共に顧問に就任。同年にデンマークで行われたボーイスカウトの第2回世界ジャンボリーに、日本の派遣団副団長として参加した。このときアンデルセンの生地であるオーデンセを訪れ、アンデルセンの生家が物置同然に扱われている事や、彼の墓が手入れもされず荒れ放題だったことに心を痛め、地元新聞をはじめ、行く先々でアンデルセン復権を訴えた。これに心動かされたデンマークの人々は彼を「日本のアンデルセン」と呼ぶようになった。

葛原しげる(1886〜1961年:ウィキペ参照)
・童謡作詞家、童話作家福山市名誉市民。
・葛原は小学校や幼稚園向けの唱歌とは別に、家庭向きの子どものための歌の必要性を考え、当時はまだピアノよりも一般家庭に普及していた箏を伴奏に、「春の海」の作曲で知られる宮城道雄とのコンビで多数の童謡を発表した。宮城作品全425曲のうち、葛原作詞の童謡は98曲にも及び、まだ無名だった宮城を後援者として支え、生涯変わらぬ友情を持ち続けた。こうした邦楽童謡は、当時はそれなりの人気があったが、現在一般にはほとんど知られていない。
・葛原の代表作として広く知られる作品に「夕日」がある。これは洋楽の童謡だが「夕日」の歌い出しは最初、「きんきんきらきら」であった。小二の長女に「夕日は『ぎんぎんぎらぎら』でしょう」と言われて変更したという。作詞した童謡は4000篇とも言われる。また「どんどんひゃらら、どんひゃらら」という歌詞で知られる童謡「村祭」は長年、作詞者不詳の文部省唱歌とされてきたが、近年、葛原の作詞であることが判明した。

 巌谷、久留島、葛原の三人とも全員児童文学関係者であることが分かります。つまりはこの道を「順調に進めば」下位は巌谷らのように「児童文学者」として扱われたでしょう。しかし何故かイタリアで「樋口一葉国木田独歩森鴎外土井晩翠二葉亭四迷など明治以降の現代日本文学の翻訳」を行い児童文学から離れるわけです。
 まあ、「児童文学から離れた後の道」は「イタリア人への日本文学(大人向け)の紹介」だったわけですが、何故かそれからも離れ「右翼活動家への道」へ進むわけです。

*1:原告・家永教授側の言い分を大幅に認めたリベラルな判決として評価されてる

*2:ただし三浦はウヨなので「自衛官護国神社合祀訴訟」での中平氏弁護団の「合祀違憲論」をどう考えるかといった「三浦にとって触れたくない中平氏の生前の言動」は見事なまでにスルーしていますが。

*3:そもそも「政治的対決の何が安っぽいんだ?」と俺は思いますけど。

*4:「単なる戦後民主主義者の何が悪いんだ?」と俺は思いますけど。

*5:関東憲兵隊司令官、関東軍参謀長、陸軍次官、近衛内閣陸軍大臣などを経て首相(一時、陸軍大臣参謀総長も兼務)。戦後A級戦犯として死刑判決。

*6:後に靖国に合祀された

*7:松本麗華『止まった時計:麻原彰晃の三女・アーチャリーの手記』(2015年、講談社)のこと

*8:ググったところ31才

*9:いや普通はサリン事件の時に「5才」でも「テロリスト」と無茶苦茶に非難するのは躊躇すると思いますけどね。一応父親ですから。年齢は関係ないでしょう。そもそも「テロリスト呼ばわり」は強さなのか?。詳しく分析しないと何とも言えませんが「そう攻撃しないと世間から排除されるとの恐怖」がうんだ「弱さの表れ」の可能性もあるわけです。

*10:まあ、そもそも女性とのおつきあいを「征服」と表現するのも俺的にはどうかと思いますが。

*11:キューポラのある街」の第一作と続編のこと

*12:まあ俺はあとでも述べるように謝罪の必要などないと思いますが

*13:だったら「口をつぐんでる」云々などと「非難がましい事言うな」て話ですが。

*14:映画において彼女の年齢設定は高校生であり、実際の彼女の年齢も「キューポラのある街」では17才、「続・キューポラのある街」では20才です。

*15:武士の情け(?)で津川以外は名前を出しませんが。

*16:彼女の進みたい大学は「日本社会事業大学社会福祉関係の大学)」でなりたい職業は「保母」というんだから「それなりに豊かな生活がしたい」レベルならともかく、もとから三浦のような「エリート意識」はないと思いますけどね。

*17:日本社会事業大学」のことか?

*18:もちろん昭和天皇が「軍服を脱ぐ」、つまり「大元帥でなくなった」理由は「敗戦後、大元帥としての権力を奪われたから」であって津田など全く関係ありません。敗戦国の国王が「王政廃止」などで権力を奪われることは古今東西全く珍しくありません。

*19:著書『南京事件』(1997年、岩波書店)、『南京難民区の百日:虐殺を見た外国人』(2005年、岩波現代文庫)、『南京事件論争史:日本人は史実をどう認識してきたか』(2007年、平凡社新書)など

*20:著書『従軍慰安婦』(1995年、岩波新書)、『日本軍「慰安婦」制度とは何か』(2010年、岩波ブックレット)など

*21:『日本を誤らせた国連教と憲法信者』(2004年、展転社)、『「核武装」が日本を救う』(共著、2011年、チャンネル桜叢書)、『ジョン・レノンはなぜ神道に惹かれたのか』(2011年、祥伝社新書)、『なぜアメリカは、対日戦争を仕掛けたのか』(共著、2012年、祥伝社新書)、『日本と台湾:なぜ、両国は運命共同体なのか』(2013年、祥伝社新書)、『中国人韓国人にはなぜ「心」がないのか』 (2014年、ベスト新書) などウヨ著書多数

*22:個人サイト(http://www.geocities.jp/hhhirofumi/)。著書『BC級戦犯裁判』(2005年、岩波新書)、『沖縄戦・強制された「集団自決」』(2009年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『米軍基地の歴史:世界ネットワークの形成と展開』(2011年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)、『裁かれた戦争犯罪:イギリスの対日戦犯裁判』(2014年、岩波人文書セレクション)など

*23:著書『日本解体:「真相箱」に見るアメリGHQの洗脳工作』(2004年、扶桑社文庫)。

*24:何が「北」なのかと思ったら「北海道限定発売」で執筆者も北海道人がメインだそうです(ウィキペ「北の発言」参照)。

*25:著書『私の憲法論:真正保守による改正試案』(1999年、徳間文庫)、 『保守思想のための39章』(2002年、ちくま新書→後に2012年、中公文庫)、『核武装論:当たり前の話をしようではないか』(2007年、講談社現代新書)、『日本の保守思想』(2012年、ハルキ文庫)、『どんな左翼にもいささかも同意できない18の理由』(2013年、幻戯書房)、『保守の辞典』(2013年、幻戯書房)などウヨ著書多数。

*26:著書『大和朝廷』(1995年、講談社学術文庫)、『古代日本の女帝』(1996年、講談社学術文庫)、『渡来の古代史:国のかたちをつくったのは誰か』(2014年、角川選書)、『日本古代史をいかに学ぶか』(2015年、新潮選書)など

*27:著書『漢字文化の成り立ちと展開』(2002年、山川出版社日本史リブレット)、『聖徳太子歴史学』(2007年、講談社選書メチエ)など

*28:ドイツの対ソ連戦争を予想しなかったことと「無茶苦茶な赤軍粛清」で軍事力を疲弊させたことか?。

*29:テトとはベトナム語旧正月春節)のこと。1968年の旧正月期に北ベトナムがかけた軍事攻勢のこと。ウィキペ「テト攻勢」によれば、軍事的成果は乏しかったが、「一時、民族解放戦線に米国大使館が占拠されたこと」「ベトナム警察庁長官グエン・ゴク・ロアンがサイゴンの路上で、解放戦線の捕虜を射殺したこと(非合法処刑の疑いが濃厚。なおこの写真を撮影したカメラマンは1969年度ピューリッツァー賞ニュース速報写真部門を受賞した)」などで米国の反戦気運が高まった。

*30:東南アジアの誤記だろう

*31:何をもって三浦が「以上」認定するのか不明です。つうか欧米の侵略を受けたアジア諸国に対してあまりにも無神経です。

*32:そもそも中華民国時代に「中国の領土扱いされていた場所(新疆ウイグルチベット内モンゴル)」を支配することは「侵略」「植民地化」なんでしょうか。まあ、いずれにせよ「中華民国時代から中国領土扱い」なんだから蒋介石中国だろうと独立がなかったことだけは確かです。

*33:やれやれです。「解放=独立」でしょうが非常識きわまりないですね

*34:大東亜会議には「インドネシアスカルノ(後に初代大統領)」は呼ばれなかったことを指摘しておきます。日本は建前の世界ですらスカルノを「チャンドラ・ボース」など会議に呼んだ面子と同じ扱いをしなかったわけです。

*35:マジレスすれば「第一回アジアアフリカ会議(1955年)」の方がよほど「世界最初のアジア諸国サミット」でしょう。

*36:「結果的に独立国が誕生した」云々というなら第一次大戦だって独立国は誕生していますが?

*37:日中戦争にせよ太平洋戦争にせよ日本から開戦したのに何が自衛なんでしょうか?。

*38:三浦が田母神のように「コミンテルン陰謀論」を公言しない点が興味深い。ただし三浦はコミンテルン陰謀論を厳しく批判しているわけではありません。

*39:吉永小百合が演じた主人公

*40:1955年に北会津郡湊村、一箕村、高野村、神指村、門田村、大戸村及び東山村を編入した際に、市名を現在の会津若松市に変更した。変更した理由は福岡県若松市(現在の北九州市若松区)との混同を避けるためである(ウィキペ「会津若松市」参照)。

*41:イタリア首相、ファシスト党党首

*42:白虎隊が自刃した飯盛山会津若松市にある。

*43:今の日本において、まあ「オバマ米国大統領」「オランド・フランス大統領」「プーチン・ロシア大統領」「習・中国国家主席」「朴・韓国大統領」、誰でもいいですがこの種の「外国要人」からの記念碑を喜ぶかといったら「微妙な気」がします。つう事は当時は1)「ムソリーニは人気があった」、あるいは、2)ムソリーニ云々というより「欧米へのあこがれがものすごかったので欧米の要人なら誰でもウエルカム」てことなんですかね。

*44:満州国への農業移民を推進した

*45:515事件に連座無期懲役判決(ただし後に恩赦で出獄)。戦後は右翼結社「全日本愛国者団体会議(全愛会議)」の顧問を務めた。ちなみに作家・立花隆(本名・橘隆志)は橘孝三郎とは親族関係にある(ウィキペ「橘孝三郎」参照)。

*46:新しき村」を開設した作家・武者小路実篤(彼の農本主義トルストイの影響だと言われる)などウヨでない農本主義者も勿論います。

*47:出口が代表を、右翼結社「黒龍会」代表・内田良平が副代表を務めた右翼結社。大本(http://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=29)ホームページに寄れば昭和神聖会の創立式には後藤文夫(当時、岡田内閣内務大臣)、秋田清(当時、衆院議長)など各界の名士が参加したとのこと。

*48:日清、日露戦争での日本の勝利のこと

*49:インドネシアのこと

*50:著書『ルネサンスの歴史 (上)・(下)』 (1985年、中公文庫)、『ローマの歴史』(1996年、中公文庫) 、『物語・ギリシャ人の歴史』(2011年、文化書房博文社)

*51:ローマのこと

*52:東京帝国大学九州帝国大学京都帝国大学の総長を歴任した山川健次�欖のことと思われる。

*53:加藤、若槻、浜口内閣で外相を務めた幣原喜重郎のことと思われる。

*54:イタリアのこと

*55:原、山本内閣陸軍大臣を経て政界入り。当時、田中は首相で、外相を兼任していた。

*56:内務官僚、宮崎県知事、高知県知事、福島県知事を歴任

*57:会津松平家の当主。秩父宮勢津子妃(保夫の兄・松平恒雄の娘)を通じて皇室とも縁戚関係にあった。

*58:昭和天皇の弟

*59:加藤、若槻、浜口内閣で外相

*60:大隈内閣文相、内務相、宮内大臣、枢密院議長など歴任

*61:駐英大使、駐米大使、宮内大臣など歴任。秩父宮勢津子妃の父親

*62:貴族院議長、首相を歴任。戦後、A級戦犯に指定され服毒自殺

*63:会津藩出身者。東京帝国大学九州帝国大学京都帝国大学の総長を歴任。

*64:イタリアの上院議員

*65:大倉財閥総帥

*66:外務省欧米局長、駐イタリア大使など歴任

*67:紀州徳川家の当主。楽譜や音楽文献、古楽器類の収集家として知られ、「音楽の殿様」と称された。

*68:新発田藩・溝口家の当主。陸軍少将。

*69:鳥取県知事、石川県知事、貴族院議員、枢密顧問官などを歴任した武井守正の息子。作曲家。宮内省官僚。宮内省楽部長、式部職儀式課長、式部次長、式部長官を歴任。

*70:陸軍省軍務局長、陸軍次官、第1師団長、関東軍司令官など歴任

*71:ムソリーニの私兵部隊「黒シャツ隊」とかけている

*72:原文のまま。実際は「作詞家」が正しい。