「天皇による天皇の政治的利用」(http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20091223/p1)に触発されて俺の手持ちの本からいくつか紹介。昭和天皇が新憲法下の制約に無頓着だったこと、そうしたことが一般書籍を少し調べるだけで簡単に知る事が出来ることが分かるかと思う。
p345
安良城氏は(中略)いわゆる「沖縄メッセージ」(中略)を取り上げて、「沖縄の戦後二七年間にわたる米軍=異民族支配に対する天皇の個人的関与・個人的責任は疑問の余地はない」と結論づけるのであった。
(中略)
進藤栄一「分割された領土」(「世界」一九七九年四月号)が明らかにした点であって、いわば周知の事柄に属する。にもかかわらず、安良城氏は沖縄出身者として、(中略)米軍の沖縄占領に対する天皇の個人的関与・責任を黙視することはできなかったのであろう。
p182
沖縄における二七年にわたる異民族支配を積極的に肯定・助長するメッセージを一九四七年、天皇はひそかに在東京合衆国対日政治顧問W・J・シーボルトにあてて送っていたのである。
次に渡辺治「日本の大国化とネオ・ナショナリズムの形成」(桜井書店)
p50
くわしいことは別著*1で書いたことがあるが、「芦田均*2日記」を見れば、天皇が新憲法下になって閣僚や首相の「拝謁」が少なくなったことに、しばしば不満を漏らしていることが手に取るように分かる。
(中略)
また、天皇は、たとえば、吉田*3首相から片山*4首相になるときに、社会主義者の首相誕生に不安を漏らしている。
「片山は弱いような気がするが、どうかね」と。
p50
天皇は、アメリカ政府に沖縄の長期米軍駐留を認めるような書簡を出したり、明らかに日本国憲法の規定に違反する行動を繰り返したのである。
p64−65
六〇年安保に際して、保守政治が天皇を担ぎ出し、使おうと試みたときは二回あった。 一つ目は、改定安保条約の批准書の調印に初めて日本を訪れるアメリカ大統領*5の出迎えに天皇を出すことによって、天皇が、大統領に並ぶ日本の「元首」であることを内外に示し天皇の権威を復権しようとはかったときである。
もう一つは、安保闘争の激化に対して、その沈静化に天皇の威力を使おうとしたときである。
(中略)
最終的にはこのいずれにおいても、保守政治は天皇を利用することは断念したのである。
73−75
一九七三年五月二六日の「入江相政日記」*6には、防衛庁長官の増原恵吉の内奏が珍しく長くなったことが触れられている。
(中略)
その話の中で、天皇は”新聞を読むと四次防で自衛隊が肥大化していると言うが、正面の敵であるソ連、中国、北朝鮮の軍隊と比較すると、師団の配置からすると自衛隊は決して多くはないと思うが、どう思うか”というようなことを質問し、これに対し、増原は、”いや小さくても精強なのでご安心を”などと答えた。
(中略)
ところが、その増原の談話がマスコミで問題となった。
(中略)
天皇は激怒し、「象徴」への幽閉に抵抗した。「入江相政日記」はいう。
「五月二九日(火)
その後長官*7が出て、増原事件について申し上げる。『もうはりぼてにでもならなければ』と仰せあった由」
その後、田中*8首相が増原を切って事件が一段落したのちにも、天皇は入江に向かって不満を述べ続けた。閣僚が順番に内奏してもっと政治の話をするように総理に言えというようなことを匂わせる発言が相次いだのである。
「六月一日(金)
英国首相は毎週一回クイーンに拝謁するとかいふことを仰せ。お上も予も、とにかく何とかして閣僚が御前に出られるように考へようと申し上げ、さうしてくれと仰せになる」
困った宮内庁長官が、できるだけ定期的に閣僚を天皇に奏上させるということを約束して、ようやく天皇の怒りはおさまったのである。
p238
天皇の「沖縄メッセージ」は、憲法の制約から儀礼的役割以外何もできないはずの彼が、秘密で外交・内政上の役割を演じ続けていたことを証明するものだった。
p248
天皇は吉田*9とダレス*10の会談が不調に終わったことを知り、(中略)宮内庁の松平康昌*11を通じて、吉田への不信を示す「口頭メッセージ」をダレスに伝えた。
(中略)
つまり天皇は、ダレスに対してあいまいな態度の吉田にくらべて、米軍と基地を残すかわりに占領を終結させ、日本を独立させるという平和条約の締結にずっと熱心だった。
(私注:id:Apeman氏が紹介しているのがこの件である。)
p279
八二年一〇月一七日、レーガン政権が日本にシー・レーンの防空と、宗谷海峡封鎖の責任分担を求めたことについて、天皇は「そんなことにしたら戦争の危険があるぢゃあないか(中略)(防衛庁)長官に話してくれ」と入江に指示した。