新刊紹介:不破哲三「マルクス・エンゲルス革命論研究(上)」(新日本出版社)

・本書はもともとは党中央委員会が開催した不破氏*1の講義を整理して「前衛」2008年8月号から2009年4月号に発表したものである。
参考『赤旗記事:「マルクスエンゲルスの革命論」不破社研所長が講義・第2回「科学的社会主義研究講座」に500人』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2007-10-18/2007101802_03_0.html
・上巻の主な章立ては次の通り。
 講座を始めるにあたって
 第一講「『共産党宣言』と1848年の革命」
 第二講「48年革命後のヨーロッパ」
 第三講「インタナショナル(上)」

・下巻はまだ刊行されていないが章立ては次の通り。刊行されたらここで紹介したい。
 第三講「インタナショナル(下)」
 第四講「多数者革命」
 第五講「過渡期論と革命の世界的展望」

・講座を始めるにあたって
 「マルクス・エンゲルスの革命論(政治運動論)について、論じた著作が自分にはあまりなく、党の取り組みも遅れていると言う認識からこの講座を開催した」と言う前振り(不破「古典研究・議会の多数を得ての革命」(新日本出版社)などがあるので全くないわけではない)。

・第一講「『共産党宣言』と1848年の革命」
 「共産党宣言」執筆と「1848年の革命」でのマルクス・エンゲルスの対応について説明。なお、1848年の革命は次のような結果となった(ウィキペディアを参照)。

 イギリス:選挙権拡大を求めるチャーチスト運動が起こるが、1848年時点では思ったような成果を出せず挫折。
 フランス:王政が倒されて、第二共和制がスタート。しかし後に第二帝政が誕生するので、共産党的な観点でなくても民主主義的な観点からは、手放しで評価できない点に注意。
ドイツ:フランクフルト国民議会が自由主義的な憲法制定を目指すが保守反動派の弾圧で挫折。なお、ドイツでの革命の失敗については後にエンゲルスの論文「ドイツにおける革命と反革命」が執筆される。(この論文については不破「古典への招待(上)」(新日本出版社)の「第4講.『新ライン新聞』と革命三部作」を参照してください)
オーストリア:宰相メッテルニヒが失脚、イギリスに亡命するが帝政に基本的変更は無し。
イタリア:統一国家建設を目指すが周辺諸国の干渉で挫折(統一イタリアが誕生するのは1861年)。

 共和制の誕生したフランスを除けばほとんどが挫折の連続である。当初、少しでも良い方向に向かうのではないかと期待していたマルクス・エンゲルスも情勢の厳しさを実感せざるを得なくなる。ドイツの反動化により、マルクス・エンゲルスはイギリスへの亡命を余儀なくされる。

・第二講「48年革命後のヨーロッパ」
 まずフランスについて。フランスは紆余曲折の末、第二帝政(ルイ・ボナパルト帝政)が誕生してしまう(ボナパルト帝政は普仏戦争の敗戦により崩壊した)。
 なお、フランスでの政治動向についてマルクスは論文「フランスにおける階級闘争」「ルイ・ボナパルトブリュメール18日*2を執筆している(これらの論文については不破「古典への招待(上)」(新日本出版社)の「第4講『新ライン新聞』と革命三部作」も参照してください)。
 ボナパルトの政治。基本的には反対派を力で押さえつける専制政治だがそれオンリーではない点に注意。飴と鞭の使い分けと言うことだろう。
 飴としては
 1)パリ改造などの大規模土木工事
 2)対外戦争による利権拡張。具体的には
 イタリア独立戦争に介入し、イタリアからニース、サヴォワを手に入れる
 カンボジア保護国化など、フランスのインドシナ支配への道を開く、などがある。
 ボナパルトプロイセン相手に戦争を仕掛けたのも利権拡張が目的だったのだが、それは敗戦による帝政の終了という皮肉な結果になってしまう。
 民主主義国フランスで何故帝政が誕生したのか?。マルクスは「ブルジョアプロレタリアートも政治的イニシアチブを失っているときに、伯父ナポレオンの威光をバックに分割地農民の支持を得てボナパルトが登場したから」「皇帝に就任したボナパルトは、ブルジョアプロレタリアート、農民の調停者として振る舞ったから(もちろん帝政が崩壊しないよう、時に力による押さえつけも行いながら、だが)」と分析した。
 なお、「民主主義国フランスで帝政が誕生したこと」から、普通選挙権さえあれば、民主的に事が進むというわけではない(普通選挙権は民主主義の前提だが)という教訓をマルクスは引き出した。

 次にドイツ。
 ドイツでは、オーストリアを排除し、プロイセンを中心としたドイツ統一(いわゆる小ドイツ主義)が進められた。
 1862年、議会は皇帝の提出した軍事予算を否決。これを解決するためビスマルクが首相に就任。何とか予算は通過する(この時のビスマルクの演説が有名な鉄血演説)が、この後もしばらく、皇帝と議会の緊張状態は続いた。
 1866年、普墺戦争が勃発。プロイセンが勝利し、大ドイツ主義(オーストリアを中心としたドイツ統一)が完全に息の根を止められる。

・第三講「インタナショナル(上)」
 ここでいうインタナショナルとは、いわゆる第一インターナショナル(国際労働者協会。1864〜1876年)のこと。他にも次のようなインターナショナルがある(ウィキペディアを参照)。
 第二インターナショナル:1889年から1914年まで活動。第一次世界大戦で各地の社会主義者が祖国防衛を唱えたため崩壊。
 第三インターナショナルコミンテルン):レーニンを中心に結成。1919年から1943年まで活動。
 第四インターナショナルトロツキーの呼びかけにより1938年結成。ウィキペディア見る限り、現在では多数のグループに分かれてしまってる模様。中には「第五インターナショナルつくろうぜ!」と言うグループもあるようだ。
 社会主義インターナショナル第二インターナショナルの後継組織として1951年に結成。社民主義系(第三インター第四インターが共産系)。日本では現在、社民党がこの組織に加入している(過去には社会党民社党が加入していた)。

 なお、有名な革命歌「インターナショナル」はもともと第一インターナショナルをたたえる目的で作られたらしい(フランス語が原詩)。

(不破氏の本から「インターナショナル」の歌詞の引用。他にも別バージョンがあるようだが)
起て、飢えたるものよ、いまぞ日は近し。
覚めよ、わが同胞(はらから)、暁は来ぬ。
暴虐の鎖断つ日、旗は血に燃えて。
いまぞ高くかかげん、わが勝利の旗。
いざ戦わん、いざ奮い立て、いざ。
ああ、インタナショナル、われらがもの。
いざ戦わん、いざ奮い立て、いざ。
ああ、インタナショナル、われらがもの。

 ここではインターナショナルでのマルクスの活動を説明。具体的には創立宣言の執筆や、ウェストンに対する批判など。
(ウェストンに対する批判は後に「賃金、価格及び利潤」として刊行された。詳しくは不破「古典への招待(中)」(新日本出版社)の「第7講.マルクス『賃労働と資本』『賃金、価格及び利潤』を参照してください) 

*1:書記局長、委員長、議長を歴任。著書『回想の山道:私の山行ノートから』(1993年、山と渓谷社)、『歴史教科書と日本の戦争』(2001年、小学館)、『私の戦後六〇年:日本共産党議長の証言』(2005年、新潮社)、『憲法対決の全体像』(2007年、新日本出版社)、 『小林多喜二 時代への挑戦』(2008年、新日本出版社)、『マルクスは生きている』(2009年、平凡社新書)、『不破哲三 時代の証言』(2011年、中央公論新社)、『私の南アルプス』(2011年、ヤマケイ文庫)、『「資本論」はどのようにして形成されたか』(2012年、新日本出版社)、『歴史から学ぶ:日本共産党史を中心に』(2013年、新日本出版社)、『マルクス資本論」 発掘・追跡・探究』(2015年、新日本出版社)など

*2:ナポレオン・ボナパルト(ルイ・ボナパルトの伯父)がクーデタを起こし政治の実権を握ったのが「ブリュメール18日」だったので、このタイトルがつけられた。この論文に出てくる「一度目は悲劇として、二度目は茶番として」と言う文句は非常に有名である。