新刊紹介:「歴史評論」5月号

歴史評論」5月号(大会特集号/世界史認識と地域史の構想Ⅲ)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

 以下は私が読んで面白いと思った部分のみ紹介します。(詳しくは5月号を読んでください)
 なお、5月号は、2009年11月14日(土)、15日(日)に早稲田大学で、行われた第43回歴史科学協議会大会・総会(大会テーマ:「世界史認識と地域史の構想Ⅲ」)の報告号です。

■「二〇〇八年世界経済危機の歴史的性格」(萩原伸次郎)
(内容要約)
・うまくまとまらないので箇条書き。
金融危機が経済危機に発展したのは米国経済が金融に大きく依存する経済だからである。
・一九二九年世界恐慌と二〇〇八年世界経済危機の類似点。どちらも米国発の金融危機が契機。また、どちらも経済危機が発生するまではアメリカは好景気であった(というか二〇〇八年世界経済危機については、後に金融危機の原因となるサブプライムローンでバブルを起こしていたから好景気だったという面が大きいだろうが)
 ウィキペディアから一九二九年世界恐慌期の大統領フーバーとフーバーの前任者クーリッジについての記述を引用(なお、フーバーの後任がニューディールで知られるルーズベルト)。一九二九年世界恐慌の発生をフーバーは予想していなかったことが分かると思う。

(クーリッジ)
 彼の大統領職中にアメリカ合衆国は著しい経済成長を遂げ、その期間は「狂騒の20年代」(ローリング・トゥエンティーズ)と呼ばれた。

(フーバー)
 「どの鍋にも鶏一羽を、どのガレージにも車二台を!」というスローガンを掲げて圧勝したフーヴァーは、1929年3月4日の就任式の大統領就任演説で「今日、われわれアメリカ人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利日に近づいている」と語った。しかし、その見通しは甘すぎた。

・一九二九年世界恐慌と二〇〇八年世界経済危機の相違点。
 まず、一九二九年世界恐慌では積極的財政政策は必ずしも採られなかった(例.フーバー財政や日本の井上財政)。また、今回の恐慌では世界協調が取られているが、一九二九年世界恐慌はそうはならず(例.アメリカのスムート・ホーレー法、イギリスやフランスのブロック経済)、対立はついに第二次世界大戦にまで発展した。

・最後のまとめ。うまくまとまらないので本論文の一部を紹介。

 二〇〇八年世界経済危機の場合、今後どのような道筋をたどるのだろうか。
 第一に、公的資金導入による巨大金融機関の救済は成功し、大金融機関の公的資金の返済と収益の回復は、順調に進むだろう。しかし、(注.経営体力の違いから)中小の商業銀行の業績悪化は続くだろう。
 第二に、大胆な減税と財政支出政策が継続的に行われるだろう。しかし、金融資産蓄積主導型循環においては、その即効性が疑わしいのだ。
 (中略)
 雇用回復なき景気回復となる可能性は高いだろう。
 第三に、G20*1における内需拡大の展開に期待が集まるだろう。今後、世界経済の急成長は、中国、インド、ロシア、ブラジルなど新興工業諸国へ移行することになるであろう。


■「グローバル化と国家・地域の再編―現代日本の歴史的位置―」(岡田知弘)
(内容要約)
・うまくまとまらないので、箇条書き。
・筆者は日本のグローバル化を便宜的に第一段階(中曽根内閣の臨調路線)、第二段階(橋本内閣の六大改革)、第三段階(小泉内閣構造改革)、第四段階(リーマンショック後の見直し←今ここ)と分けている。
新自由主義政策は、都市と地方の格差など深刻な問題を生み出した。それが自民党衆院選敗北による下野をもたらした。

・最後のまとめ。うまくまとまらないので本論文の一部紹介。

 民主党を中心とする新政権は、政権獲得後、沖縄米軍基地再編問題、後期高齢者医療制度問題等での「揺れ」や「豹変」が目立つようになっている。
 (中略)
 しかし民主党がその方向(注:小泉政権のような新自由主義的な方向)に走るならば、前述した構造改革の矛盾に対する国民の批判的な意識との乖離が生じ、その政権基盤を揺るがさざるをえないだろう。新自由主義構造改革の根本的転換をめぐる対抗関係の帰趨が、日本の未来を展望する上での枢要点だといえる。


■「失業対策の意図と帰結―近代日本の経験から―」(加瀬和俊)
 うまくまとまらないので本論文を一部紹介し、コメント。なお筆者には、「戦前日本の失業対策―救済型公共土木事業の史的分析」(1998年、日本経済評論社)と言う著書がある。

 給料生活者、一般労働者*2は職種へのこだわりと生活スタイルないし社会的ステイタスについての自己意識があり、失業しても大勢としては日雇土木労働に従事しようとはしなかった。

 何故、「日雇土木労働」の話が出てくるのと思う人がいるだろうが筆者によると、戦前の「失業対策」の主流は「公共工事での日雇土木労働」だったようだ。
 まあ、今の日本でも大企業のホワイトカラーが、失業して「公共工事での日雇土木労働」を進んでやるかと言ったら「待遇の悪さ(安定した職ではなく給料も安い)」「世間の否定的な目(「あの人もついにそこまで落ちたか」等)」から進んではやらないだろう。

 戦間期における財界の労働政策に対する態度は、労働争議労働組合法案へのかたくなな態度によって特徴付けられる。それは制度化(労働者の権利化)への一貫した拒否(労働組合法案、失業保険構想等に対して)と個別企業内での温情主義の実践とそれに依拠した社会的正当性の自己主張によって特徴付けられる。
 (中略)
 ただし、財界は失業救済事業については反対せずに黙認していた。米騒動型の暴動を阻止することは財界にとっても望ましいことであったし、日雇労働者への施策は企業内労使関係に影響を与えることが無かったから、その必要性は容認できたのであろう。

 失業対策を求める労働組合の(中略)多数派の主張は以下のように要約できる。
 1.賃下げ無しに労働時間制限を実施し、解雇を避け、さらに新たな雇用を行うこと、2.失業給付制度を創設すること、3.熟練労働者用の失業救済事業を創設すること、4.解雇の場合には解雇手当を支給すること、という内容である。
 これらの要求項目は、組合員の中心を占める工場労働者の希望をストレートに反映したものであって、(中略)現に実施されている失業救済事業に対する拡充・改善の要求は全く無い。

・筆者によれば左派系の労組(例.日本労働組合全国評議会)や、日雇失業者の団体(例.日本労働組合全国協議会(全協)傘下の全国失業者同盟)は「現に実施されている失業救済事業」の改善をそれなりに求めていたらしいのだが、それは主流ではなかったようだ。
 なお、既に指摘したが、「現に実施されている失業救済事業」の主流は「公共工事での日雇土木労働」だ。
・失業給付制度の創設、解雇手当の支給という要求が興味深い。現在では当然のこれらの制度が戦前の日本では当然のものではなかったと言うことである。

 当初は失業者が増加すれば失業救済事業の規模を拡大すればよいと考えられていたが、事態はそうした単純な想定通りには進まず、以下のような諸問題が自覚されざるを得なくなった。
 第一に潜在的失業者である農村在住者、渡航朝鮮人等が失業救済事業の実施される六大都市*3に大量に流入し、その就労者となろうとしたことである。

 農村や朝鮮では食えないからと言うことだろう。都市失業者にとっては迷惑な話だが、農村住民や朝鮮人を批判しても仕方あるまい。本来、農村や朝鮮で失業救済事業があれば、よかったのだがなかったのだろう。

 第二に失業者数も失業救済事業の規模もピークを記した昭和恐慌期においては、緊縮財政のため公共事業規模は全体としては大幅に圧縮され、その一部である失業救済事業(中略)だけが拡張するという関係が生じた。
 この結果は、専業的な土建労働者が半失業者化し、建設業界の労使がともに失業救済事業の中止を要求することになった。
 (中略)
 第三に失業救済事業の規模の制約の下で、失業者が増加し、失業救済事業での就労希望者が増加するにつれて、一斉登録(全員入れ替え制)が困難になり(中略)既登録者の権利を抹消できた分だけ新規登録を受け付ける方式に変わっていった。
 (中略)
 同時に、登録条件が厳格になり、従来は救済対象となり得ていた者も排除されざるをえなくなって、失業者に対する無差別平等な救済策とは言えない状況になっていった。

 ここでは一九三二年以降の為替低落による輸出増進、軍需景気による景気回復=失業減少の下で、労働組合が景気回復の持続を期待して積極政策を容認し、国際競争における国益擁護に傾斜していく過程を、日本労働総同盟の認識の変化に即して跡づけておきたい。
 (中略)
 第一に景気回復・積極政策を指示する方向での変化である。
 当初は高橋財政=積極政策に対して批判的なスタンスを強調(中略)していたが、次第に(中略)好景気の持続を望む心情が正直に語られるようになる。
 (中略)
 経済統制を含めて景気の持続のための政策が期待されるようになっていったのである。
 第二に、労働組合としての努力の方向に関して「産業協力」の方針が浸透したことである。
 (中略)
 第三に、各国の経済恐慌の結果としての国際的経済対立に対処して、日本の国益を確保しなければならないという意識が明確になってきたことである。
 このことは日本の低賃金に対する正当な国際的批判として肯定的に受け止められていたソーシャル・ダンピング論が、(中略)批判されるようになり、(中略)労働条件の上昇を止めるべきであるという意識に繋がっていった。

・第一の「当初は高橋財政=積極政策に大して批判的なスタンス」というのは「大量の国債発行→後で増税」を恐れていたと言うことだろう。
・第二、第三はいわゆる「日本型労使関係」の基礎がこの時築かれたと言うことだろう。 「会社、国あっての我々」「ストなんて論外だ」「景気がよくなるんなら対外侵略して構わない」的な言動を労組がしていることが何というか痛い。
・「侵略戦争は国民が望んだ」と言う側面もあるのであり、単純に「国民=被害者」とは言えないということ。一億総懺悔で権力者免罪でも困るのだが。

 本稿の趣旨を大まかにまとめれば以下の通りである。戦前日本の失業問題は第一次大戦後恐慌を期に本格化したが、失業対策は、労使関係への国家不介入、労使協約自治の欠如、財界の給付政策拒否といった原則の下で、失業者を就労させるために特別に事業化された失業救済事業として実施された。
 しかし、(注.日雇労働者ではない)一般労働者、給料生活者の大半は失業しても失業救済事業で就労しようとはしなかった。一般労働者を構成員とする労働組合は企業内では解雇に反対し、それが避けられない場合には解雇手当を要求するとともに、公的制度としては失業給付策を要求しており、現実に実施されている失業救済事業についてはほとんど関心を持たなかった。公的な失業給付策が実現されない下で、彼等は企業依存(解雇阻止、解雇手当取得)、景気好転への期待を高めざるを得ず、国際経済対立の下で企業が競争力を失わない範囲内で賃金引き上げを要求し、対外侵略・軍事工業化に追随する方向に傾斜していった。
 失業救済事業は雇用対策としての内実が乏しく、治安対策として容認されていたが、厳しい登録制約・就労制約に規定されて、治安対策としても充全に機能することはできず、景気の強行的回復が治安政策の面からも要求されざるを得なかったといえる。
 井上財政から高橋財政への歴史的転換は、失業問題の重みが政治・経済・社会の動きを深部において規定していたことを象徴する事態であったといえよう。


(追記)
加瀬「失業と救済の近代史」(2011年、吉川弘文館)を紹介するエントリ『1920-30年代日本の失業問題と失業対策を断固拒否した財界人の意見まとめ』(http://kousyoublog.jp/?eid=3004)を参考までに紹介。

*1:アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、イタリア、日本、メキシコ、ロシア、サウジアラビア南アフリカ、韓国、トルコ、イギリス、アメリカ、欧州連合

*2:筆者は労働者を日雇労働者と「それ以外の労働者」に分け、「それ以外の労働者」を「給料生活者(事務職)」と「一般労働者(非事務職)」に分けている。

*3:東京市大阪市京都市横浜市名古屋市、神戸市。東京市は今の東京二三区に当たる。