田村貞雄氏の毛利敏彦「明治六年政変説」批判の紹介

 すでに、「歴史評論」8月号の紹介(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20100715/1276252007)で田村論文は一部紹介してるがさらに追加。脚注など一部を省略しているので、詳しくは田村氏のHPを参照してほしい(http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/frame.html

征韓論」政変の史料批判――毛利敏彦説批判――
■はしがき
 1873年(明治6)10月の「征韓論」をめぐる政変について、近年毛利敏彦氏は、『明治六年政変の研究』(有斐閣、1978年)、『明治六年政変』(中公新書、1979年)の2書を著わし、この政変を「明治六年政変」と呼ぶとともに、新説を提唱された。
 すなわち毛利氏は従来「征韓」派とされてきた西郷隆盛は「征韓論」者であったことはなく、平和的道義的立場から「遣韓大使」派遣を主張したに過ぎないと主張される。またもっとも強硬に「征韓論」を主張した江藤新平も、反対派の論理矛盾を衝いただけであって、「征韓論」を主張していなかったと評価される。そして「征韓論」に反対し、内治優先派の中心であった大久保利通の方がむしろ「征韓論」であったとされるのである。まことに驚天動地の新説である。
 毛利氏の説の発表直後の1980年11月17日、廃藩置県研究会(現・明治維新史学会)第1回研究会が京都で開かれた。この会は代表幹事原口清氏、事務局長毛利敏彦氏で発足した会で、わたくしも創立メンバーの一人である。席上原口清氏とわたくしは、毛利氏の面前で氏の新著をとりあげて批評した。そこでわたくしは毛利氏の史料解釈に多くの無理や錯誤があり、学説としてまったく成立しないと主張した。原口氏も主要史料を示されて、毛利氏の解釈をきびしく批判された。
 しかしその後も毛利氏はあちこちで自説を述べられており、最近では『江藤新平』(中公新書、1988年)を著わして、江藤が人権確立のために努力した民主主義者であり、「征韓論」者ではなかったと述べられた。かりに氏の言われるように西郷隆盛のみならず、江藤新平さえも「征韓論」者ではなかったとすれば、あの政変は一体何であったのだろう。
 西郷隆盛については、多くの人々がそれぞれの想念を投影し、いろいろな西郷像をつくっている。「征韓論」政変における西郷についても同じであり、毛利氏も御自分の西郷像に固執され、史料の恣意的解釈に終始されているように思える。

 
■1、岩倉使節団と留守政府の対立
 周知の通り朝鮮問題発生以前に、政府の分裂が進行していた。
 この時期の政府機関は太政官三院制という組織であった。最高機関である正院、法典編纂機関である左院、各省連絡機関である右院の三院である。
 正院は太政大臣・左右大臣・参議からなり、その会議を閣議あるいは廟議と言っている。これは通称である。
 一方各省は正院の下にあり、長官である省卿は正院構成員ではなかった。
 正院構成員は太政大臣三条実美左大臣は欠員、右大臣岩倉具視、参議は西郷隆盛(薩摩)、木戸孝允(長州)、板垣退助(土佐)、大隈重信*1肥前)の4名であり、薩長土肥各1名という藩閥バランス人事である。
 この時期岩倉は条約改正交渉のため欧米に派遣されているが、参議の木戸、大蔵卿大久保利通、工部大輔伊藤博文*2もこれに随行した。政府は使節団と留守政府に二分されていたことになる。岩倉使節団と留守政府の間では、重要な改革と人事異動はしないという約定書が結ばれた。これには大臣参議以外にすべての省卿・大輔が署名していた。全部で18名である。この18名がこの時期の政府の実質的な最高首脳であるというべきであろう。
 しかし岩倉使節団との約定にもかかわらず、留守政府は積極的な改革に乗り出した。徴兵令、地租改正、秩禄処分、学制、法典編纂などである。しかし岩倉使節団の側では欧米の工業力や法律制度、あるいは市民生活の現実を見聞し、さまざまな改革構想をめぐらしつつある。欧米の現実を知らない留守政府の改革など笑止の沙汰であったかも知れない。
 一方留守政府内部でも対立が生じていた。いわゆる予算紛議である。すなわち各省の改革が競争状態となり、予算を握る大蔵省と他省の間に紛議を生じたのである。とくに司法省(江藤新平が卿に昇任)と、大蔵省(大久保卿の留守を預る大輔井上馨)の対立は、留守政府の分裂を来たすまでに発展した。
 そこで1873年1月、三条太政大臣岩倉使節団に書簡を送り、政府の内紛を解決するため木戸と大久保の早期帰国を要請した。これに応じて大久保はすぐ帰国の途に就き、木戸はしばらく欧州各国を巡遊した後日本に向った。しかし二人が帰国する以前に、留守政府は明白な約定書違反をやってしまった。それが参議の増員と太政官制潤飾である。
 すなわち4月19日政府は左院議長後藤象二郎*3(土佐)、司法卿江藤新平肥前)、文部卿大木喬任*4肥前)の3人を参議に登用した。反大蔵省側の登用で、とくに司法卿江藤は約定書署名メンバーではなかったから、異様な昇進と思われた。
 ついで5月2日、官制改革が行なわれ、各省(とくに大蔵省)の権限を削り、正院に集中するとともに、参議を内閣議官とし、一切の政務は内閣議官の審議を経ることとした。これを太政官制潤飾という。留守政府は岩倉使節団との約定を無視して動こうとした。
 翌日の5月3日、大蔵大輔井上馨*5と同三等出仕渋沢栄一は辞任した*6。約定書の署名者の一人である開拓次官黒田清隆*7は、激怒して約定書から自分の署名を切り取ったという。
 帰国命令で5月26日に帰ってきた大久保は、この人事異動と官制改革を知って、大いに失望し、また憤激したようである。これでは何のために急いで帰国したのか分らない。心中穏やかではなかったことであろう。
 毛利氏はこの時期の政治過程を長州派対反長州派の抗争として描いておられる。江藤の参議就任で反長州的な色彩が強くなっているのは否めない。参議は薩摩・長州各1名(西郷・木戸)で、肥前3名(大隈・江藤・大木)、土佐2名(板垣・後藤)となっているが、長州系以外が藩閥として連携していたという形跡はない。とくに肥前は大隈と江藤の間に何の連携もなく、肥前閥というのは存在していない。
 この時期には、各藩出身者が藩意識で連携するよりは、政策上の対立や自分の役職の省庁の利害を重視する時代になりつつあり、決して単純な藩閥利害では左右されなくなっている。官制の規定や参議の人員比率によっては、語ることができないのである。
 また留守政府は、岩倉使節団出張中の一時的な代理政権であり、「遣韓」大使派遣問題も独力では決定できなかった。あくまでも留守政府でしかないのである。政権の真の主導権は岩倉・大久保・木戸にあり、そのことを毛利氏は見誤り、とめどもない混迷(毛利51〜52頁)に陥っているのである。


■2、西郷隆盛「戦は二段に相成居申候」
 次に「征韓論」論争について述べよう。
 まず第一段階は8月17日の留守政府の閣議決定で、ここで西郷を使節として朝鮮へ派遣することが内定している。
 第二段階は10月14日、15日の閣議で、ここで正式に使節派遣が決定された。ここには新たに参議になった非「征韓」派の大久保利通が真っ向から西郷と渡り合った。このあとにどんでんがえしの第三段階がある。それが10月23日の岩倉太政大臣代理の上奏で、24日に天皇がそれを裁可し、「征韓論」は敗れた。
 まず第一段階から見よう。
 朝鮮問題が閣議の議題となったのは6月12日頃が最初である。これは5月末の朝鮮国在勤の外務官吏からの報告に基づくもので、その報告では、三井組の密貿易などにより朝鮮政府の態度が硬化し、釜山在住日本人の生活と貿易が圧迫を受け、釜山を管轄する東莱府が日本を批判する掲示を出したことが記されていた。
 明治維新以来、明治新政府と朝鮮政府の間で国交樹立交渉が行なわれていたが、ずっと膠着状態であった。朝鮮側は、徳川幕府と異なる明治新政府の態度に疑念を抱き、国交樹立に消極的であった。
 外務省は、とくに日本批判の国内掲示を重大事と判断して太政大臣三条実美に報告し、対応策の指示を仰いだ。外務卿副島種臣が清国出張中*8であったためである。
 三条太政大臣は、ただちに居留民保護のための小兵力を派遣し、その武力を背景に使節を派遣して交渉することを提案した。
 6月12日と思われる閣議では、板垣らの一大隊急派論もあったが、結局大官の使節派遣が決定された。西郷隆盛は自から使節に任命されることを希望したが、副島外務卿が出張中のため、使節任命は延期された。
 以後7月末までは事態の変化はなかった。 閣議で一大隊急派論を唱えたのは板垣退助であるが、その板垣に対して西郷隆盛が7月29日出した書簡は次のようなものであった。


「兵隊を御繰込み相成候はゞ、必彼方よりは引揚候様申立候には相違無之、其節は此方より不引取旨答候はゞ、此より兵端を開き候はん。左候はゞ初よりの御趣意とは大に相変じ、戦を醸成候場に相当り可申哉と愚考仕候間、断然使節を先に被差立候方御宜敷は有之間敷哉。左候得はば、決て彼より暴挙の事は差見得候に付、可討の名も慥に相立候事と奉存候。兵隊を先に繰込候訳に相成候はゞ、樺太の如きは、最早魯より兵隊を以保護を備、度々暴挙も有之候事故、朝鮮よりは先に保護の兵を御繰込可相成と相考申し候間、旁往先の処故障出来候はん。夫よりは公然と使節を被差向候はゞ、暴殺は可致儀と被相察候付、何卒私を御遣被下候処、伏して奉願候。副島君の如き立派の使節は出来不申候得共、死する位の事は相調可申かと奉存候間、宜敷奉希候」


 要するに副島外務卿が帰国(7月27日)したので、懸案の使節派遣を決定してほしい、兵隊の派遣は、即開戦となる危険があり、まず使節を派遣し、そこで相手が「暴挙」に出れば、「可討の名も慥に相立候」と述べている。ここで西郷は「可討の名」=大義名分にこだわっているようである。相手方を挑発してこの「可討の名も慥に相立」状態を作り出したいのである。
 西郷は三条太政大臣に対して強く働きかけた。8月3日の三条宛書簡を見よう。


「朝鮮の一条、御一新涯より御手を被付、最早五六年も相立候はん。然処最初親睦を求められ候義にては有之間敷、定て御方略為有之事と奉存候。今日彼が驕誇侮慢の時に至り、始を変じ、因循の論に渉り候ては、天下の嘲を蒙り、誰あつてか、国家を隆興する事を得んや。只今私共事を好み猥りに主張する論には決ては無之、是迄の行懸りにて如此場合に行当り候故、最初の御趣意不被為貫候ては後世迄の汚辱に御座候間、斯に至り、一涯人事の限り被為尽候処に御座候間、断然使節被召立、彼の曲、分明に公普すべき時に御座候。是迄御辛抱被為在候も、是非此日を被相待候事と奉存候付、誠に奉恐入候へ共、何卒私を被差遣被下度、決て御国辱を醸出し候義は、万々無之候付、至急御評決被成下度義と奉存候」


 まず西郷は明治維新以来の日朝交渉にふれ、「然処最初親睦を求められ候義にては有之間敷、定て御方略為有之事と奉存候」と最初から親睦策ではなく、「御方略」があった筈だという。そして朝鮮側の消極的態度を「驕誇侮慢」とし、ここで「始を変じ、因循の論に渉」るような方針変更は「天下の嘲を蒙」むるものであり、「最初の御趣意不被為貫候ては後世迄の汚辱に御座候」とあくまで従来の方針を堅持することを求めている。
 そしてこの際「一涯人事の限り」と尽くすため、使節をたて、「彼の曲、分明に公普すべき時に御座候」というのである。
 使節派遣といっても、維新以来の日本側の交渉方針を受け継いでいくというのである。
 次に8月14日の板垣宛書簡がある。


「是非此処を以戦に持込不申候ては、迚も出来候丈けに無御座候付、此温順の論を以はめ込候へば、必可戦機会を引起し可申候付、只此一挙に先立、死なせ候ては不便抔と、若哉姑息の心を御起し被下候ては、何も相叶不申候間、只前後の差別あるのみに御座候」


 右書簡中の「戦」とは、対朝鮮開戦ではないのだろうか。そして使節派遣という「此温順の論を以はめ込候へば」というのは、使節派遣自体が相手を「はめ込」む戦術なのであり、「必可戦機会を引起し可申候」と戦争の挑発策を述べているのではないだろうか。
 ただこの使節には西郷自身がなるのであり、生命の危険もないわけではない。しかしその点については「此一挙」=対朝鮮開戦に先立って死なせると「不便(ふびん)」というような「姑息の心」を起してくれるな、戦の前に死ぬるか、後で死ぬるか「只前後の差別あるのみに御座候」と述べている。
 以上西郷の対朝鮮策が使節派遣、交渉決裂による開戦という二段構えであることが分る。
 そのことをもっと鮮明に述べたのが、次の8月17日付の板垣宛書簡である。西郷は前日の16日、三条邸を訪問して同意を取り付けており、板垣に閣議での協力を求めている。


「此節は戦を直様相始め候訳にては決て無之、戦は二段に相成居申候。只今の行掛りにても、公法上より押詰候へば、可討の道理は可有之事に候へ共、是は全言訳の有之迄にて、天下の人は更に存知無之候へば、今日に至り候ては、全戦の意を不持候て、隣交を薄する儀を責、且是迄の不遜を相正し、往先隣交を厚する厚意を被示候賦を以、使節被差向候へば、必彼が軽蔑の振舞相顕候のみならず、使節を暴殺に及候儀は、決て相違無之事候間、其節は天下の人、皆挙て可討の罪を知り可申候間、是非此処迄に不持参候ては不相済場合に候段、内乱を冀ふ心を外に移して、国を興すの遠略は勿論、旧政府の機会を失し無事を計て、終に天下を失ふ所以の確証を取て論じ候処、能々腹に入候間、然らば使節を被差立候儀は、先度花房被差遣候同様の訳に御座候間、今日に被相決候ては如何に御座候哉御迫り申上候処、至極尤に被思食候間、今日は参議中え御談の上、何分返答可致旨承知仕候付、何卒今日御出仕被成下候て、少弟被差遣候処御決し被下度、左候へば彌戦いに持込可申候付、此末の処は先生に御譲り可申候間夫迄の手順は御任し被下度奉合掌候。」


 右の書簡には「此節は戦を直様相始め候訳にては決して無之、戦は二段に相成居申候」と、使節の派遣が第一段、その使節が「暴殺」された時に派兵するのが第二段という方針が示されている。もし使節が「暴殺」されれば「天下の人、皆挙て可討の罪を知」るであろう、そして「内乱を冀ふ(こいねがう)心を外に移して、国を興すの遠略」という有名な言葉を書いているのである。
 西郷の「戦は二段に相成居申候」という点に注目されたい。まず使節を派遣する、その使節が「暴殺」されれば「天下の人、皆挙て可討の罪を知」るであろう、そうすれば派兵の大義名分ができるというのである。もちろんこれは使節である西郷が殺されることが前提である。西郷自身には交渉をまとめる自信があったかも知れないけれども、殺されないまでも交渉不成立(たとえば西郷の入国拒否)や交渉決裂の可能性がもっとも高いのであり、その場合は開戦をするのであろう。
 またこれは「内乱を冀ふ心」すなわち一部士族らの激しい反政府感情を外国に外らすことが、「国を興すの遠略」になるというのである。この言葉のなかに何が含意されていたのであろうか。
 しかし毛利氏は以上の一連の板垣退助西郷隆盛書簡の真意を疑っておられる。
 毛利氏は、西郷が一大隊派遣論の板垣を説得し、懇願しているとされるのである。また西郷にとって副島外務卿が「強力なライバル」(毛利89頁)であった*9ともされている。そういうことから毛利氏は西郷の真意をあれこれ詮索し、なんとか西郷が「征韓」即行論ではなかっただけではなく、「征韓論」者でもなかったと述べようとされている。
 研究史の整理に関して毛利氏は多くを費やしているが、西郷が「交渉無視の征韓即行論者」(毛利97頁)であるという議論は研究史の上でもほとんど見られない主張である。
 そもそも閣議の主題は「遣韓」大使派遣問題であり、板垣・江藤は「征韓」即行論者であるとしても、西郷が自から「遣韓」大使を希望していたことはだれも否定していない。
 この大使派遣による交渉の推移(西郷の死の可能性も含む)によっては開戦の大義名分を作ろうとするのが西郷の「征韓論」であり、それに対して、政府のトップ・クラスによる交渉提起自体が、現段階では事態を開戦へ導きかねず、その準備は整っていないと主張したのが非「征韓論」であると、常識的には考えられている。ただし西郷の意図について論者の間に多少の評価の違いはある。
 ところが毛利氏は西郷が「交渉無視の征韓即行論者」であるとする主張が、こんにちの学界で有力であるかのように描き出し、それを攻撃することによって、西郷が「征韓論」者ではなかったと論証されようとしているのである。相手の議論を自分の恣意で作り替え、それを攻撃することは論理の飛躍である。
 毛利氏の議論の進め方は、たとえば「・・・ことは十分に考えられる。」「・・・と想像するのは、まったく荒唐無稽な議論だろうか。」「・・・と解釈する余地は残されているように思われる。」という調子である。
 そしてある解釈を提出し、「少なくとも、そのような解釈が史実的にも論理的にも成立不能であるとの論証は、寡聞にして耳にしていない。」(毛利88頁)と言われるが、突然新奇な説を出されても、わたくしたちはそのような説自体「寡聞にして耳にしていな」かった。事実それは論証の必要もないほど成立不能なのではなかったか。また「他の解釈が入り込む余地が絶対ないとの積極的論証も、必ずしもなされているわけではない。」とも言われるが、そんな積極的論証などもともと必要ではなかったのである。
 このように通説的解釈を揺さぶったように見せかけておいて、「とにかく・・・とみなすのは、短絡のそしりを免れないであろう。」「とにかく・・・それだけで・・・と断定するのは、相当に危険であるといわねばならない。」(毛利92頁)と言われる。読む方にとっては何が「とにかく」なのか、さっぱり分からないが、研究史に通じない人は毛利氏の推論の仕方に感心するのかも知れない。
 そして板垣への書簡で述べられたことは、西郷の真意ではなく、ある目的を持った「意図的発言であって、西郷の真意は別のところにあるといえよう」(毛利98頁)と言われる。しかしこの毛利氏の議論ははっきり言って詭弁であり、「まったく荒唐無稽な議論」(毛利88頁)である。毛利氏のような論法であれば、あらゆる史料について、史料の文面通りとの論証はなく、それ以外の解釈が入り込む余地はないとの積極的論証もない以上、「真意」は別のところにあった、と称していろいろな「真意」を持ち出すことが可能である。小説家なら西郷の真意をあれこれ忖度して、奇想天外な解釈を引き出しても許されよう。しかしわたくしたちは歴史学の議論をしたい。
 わたくしは西郷隆盛と言う人物は明治維新を成功させた視野の広い、度量の大きい人物であると思う。それだけにかれが板垣に懇願するためにテクニックを使ったとか、副島程度の人物にライバル意識を持っていたとか、功名心とかがあったとは思われない。毛利氏は西郷を平和主義者に仕立てるために、かれをきわめて卑少な人物として描いてしまっているのではないか。
 また西郷隆盛の性向、性癖を示すために、第一次長州征伐や戊辰戦争時の寛典論*10の言動を例示されるが、これは圧倒的な軍事力をもって包囲・威圧した状況下での寛典論であって、まったく例証にはならない。
 さて8月17日の閣議はともかく西郷の使節派遣を決定した。この決定そのものが使節団との約定違反であったろう。8月19日、三条の上奏に対して天皇岩倉具視の帰国を待って熟議し、さらに奏聞するように答えたという。天皇の独自の判断なのか、三条の具申かははっきりしないが、岩倉使節団を欠いたまま重大事を決定するのに躊躇するのは当然であった。


■3、大久保利通秋風白雲ノ節ニ至リ候ハヽ」
 この決定の直前の8月15日付で留学中の村田新八大山巌*11に宛てた大久保利通の手紙がある。


「当方之形光ハ追々御伝聞モ可有之、実・致様もナキ次第ニ立至、小子帰朝イタシ候テモ所謂蚊背負山之類ニテ不知所作、今日迄荏苒一同手ノ揃ヲ待居候、仮令有為之志アリトイへトモ、此際ニ臨ミ蜘蛛之捲キ合ヲヤッタトテ寸益モナシ、且又愚存モ有之、泰然トシテ傍観仕候、国家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ、愉快ヲ唱ヘル様ナルコトニテ決テ可成訳ナシ、尤其時世ト人情ノ差異ニ関係スルハ無論ナルヘシ、詳細之情実ハ禿麾ノ所及ニアラス、宜ク新聞紙ヲ閲シテ亮察シ玉ヘ
(中略――島津久光の動静を記した部分)
 当今光景ニテハ人馬共ニ倦果、不可思議ノ情態ニ相成候、追々役者モ揃ヒ、秋風白雲ノ節ニ至リ候ハヽ、元気モ復シ可見ノ開場モ可有之候」


 大久保の言う「当方之形光」とは留守政府の現状を指す。大久保は失望しているのである。そして早期帰国が無駄であったことを述べ、「今日迄荏苒一同手ノ揃ヲ待居候」という。これは岩倉使節団の帰国を待っている意味であろう。
 毛利氏は「当方之形光」を「宜ク新聞紙ヲ閲シテ亮察シ玉ヘ」とあるから、大久保が送った1873年の8月までの新聞に出ているとし、当時の新聞記事を検討されている。そして新聞には朝鮮関係記事はほとんど出ておらず、大蔵省問題(ないし農民暴動)ではないかと言われる。わたくしも主要新聞を閲覧したが、記事の頻度から言えば徴兵、学校問題の農民一揆の報道が群を抜いている。
 このことから毛利氏は「此際ニ臨ミ蜘蛛之捲キ合ヲヤッタトテ寸益モナシ」というのは、「大蔵省攻撃の先頭にたっている参議江藤新平と対決すること」(毛利160頁)とされる。そして「国家ノ事一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ、愉快ヲ唱ヘル様ナルコトニテ決テ可成訳ナシ」とは、司法省による井上の不正追及を指すと言われる。大変な曲解である。
 大久保は井上の不正事件*12などには強い関心を持っているわけではない。「国家ノ事一時ノ憤発力云々」はこのような小問題ではない。また江藤一人のことであれば、岩倉具視一行の帰国を待つ必要はない。ここでは大蔵省問題に見られる政府の分裂、各地の農民一揆の多発に見られる政府の政策の破綻(これらが新聞に報道されている)をよそに、「一時ノ憤発力ニテ暴挙イタシ、愉快ヲ唱ヘル様ナルコト」に熱中している政府全体の動向を指している。これは朝鮮問題以外ではありえない。それを大久保は批判しているのである。
 「八月一五日の時点では、大久保は、朝鮮派遣問題に反対していないし、むしろそれにはあまり関心を持っていなかった」(毛利160頁)といわれるが、大久保は留守政府の朝鮮問題への没入の情報を聞いている筈であり、それにあきれるとともに、長年の親友西郷との対決を覚悟し、岩倉具視一行の帰国を待っているのである。「追々役者モ揃ヒ、秋風白雲ノ節ニ至リ候ハヽ、元気モ復シ可見ノ開場モ可有之候」というのはそのことを指す。大久保が海外の村田と大山に手紙を出した8月15日は、朝鮮問題で西郷の派遣を決めた閣議の8月17日の直前なのである。第一段階のクライマックスである。大久保はこれを無視するかのように8月16日より関西の遊覧に出発した。明らかに留守政府へのあてつけである。
 毛利氏はさらにこの書簡の宛先が西郷に近い村田と大山であることから、西郷批判の書簡を送ることはありえないとされるが、薩摩のにせ(少年)時代以来の同志的感情からすれば、いかようにでも解釈できる。
 この書簡についての毛利氏の解釈は、曲解もはなはだしく、まったく問題にならない。


■4、岩倉具視「朝鮮征伐御互に兼て承知」
 9月13日に岩倉一行が帰国してきた。岩倉具視は早速15日に三条実美邸を訪問し、朝鮮遣使問題の概要を聞いたが、三条は「大久保木戸之両氏「政府ニ出勤之運ニ不相成候テハ百事治り不申」と岩倉に泣きつき、「是迄政府之措置ニ関シ候事故、兎角氷解之場ニ至り不申頗心配仕候」と述べている。氷解しない点はどこか。
 毛利氏はこの時期には朝鮮問題はまだ問題になっておらず、大久保の参議就任とともに急浮上したとしているが、これは誤りである。岩倉はこの時期に朝鮮問題に直面し、朝鮮遣使の中止または無期延期を決意していた。
 留守政府では「百事」が治らないのであり、そのために大久保と木戸の協力を求めた。
 岩倉はフランス駐在公使鮫島尚信宛に書簡を送り、帰国後の情勢とりわけ政府が当面している諸問題について知らせている。これが三条のいう「百事」に相当しよう。
 岩倉はまず
「海外在留伝聞之次第にては御国内頻りに開化進歩の様に候得共、唯形而已にて格別之義も無之、廟堂上之事御案し之通紛紜も有之、諸事大使帰朝之上御所置と申者にて即日より来客輻輳種々承候」
と政府内部の紛糾について述べ、以下紛糾事項を列挙している。
 その第一は台湾問題*13と朝鮮問題であり、第二に樺太問題*14、第三に井上馨らの辞任問題、第四に各地の一揆と農作の状況、以下宮中の問題や島津久光の処遇、清国問題などである。
 そのなかで第一にあげている台湾問題と朝鮮問題については、「台湾始末紛紜御評議も候得共、多分即今着手には至る間敷と存候、朝鮮征伐御互兼て承知之通、真に御評議有之候得共、是以即時之事にては無之哉と存候」と述べている。「朝鮮征伐」という文言に注意されたい。
 これをもって毛利氏は「西郷使節の朝鮮派遣問題について、ほとんど関心らしいものがはらわれていないことに注意すべきであろう。」(毛利12頁)と言われるが、とんでもない解釈である。
 岩倉具視はここで「御互に兼て承知之通」とフランス滞在中に鮫島と意見を交換していることを記し、「真に御評議有之候得共」と留守政府で審議済みであると述べながら、「是以即時之事にては無之哉と存候」とすぐ実現するわけではあるまいと述べている。これは朝鮮遣使問題に関心をもっていないわけではなく、政府が決定していても、すぐには実現しない、させないという見通し、ないし強い決意を語っているのである。岩倉はこの段階で、朝鮮遣使の中止または無期延期を決意していたと言ってよいであろう。
 その第一段階が大久保利通の参議登用である。三条と岩倉は、関西遊覧から帰京した大久保に参議就任を要請したが、大久保は固辞した。以後大久保引き出し工作がつづく。
 10月4日三条は閣議に提出すべき朝鮮問題の概要をまとめ、岩倉に提示した。これは朝鮮に派遣する使節の任務についての決定を求めたもので、使節派遣が戦争に直結する可能性を論じた論旨後半について毛利氏は「このあたりから、使節派遣問題と開戦→征韓論とが、混同されるようになったのではなかろうか」(毛利氏13頁)という。根拠のない憶測である。
 大久保は10月8日になって参議就任を承諾した。そのさいかれは三条・岩倉に対し、朝鮮使節派遣問題について処理方針を確定し、途中で変節しないこと、外務卿副島種臣も同時に参議に任命すること、伊藤博文閣議に列席させるという件を提出している。副島も参議とすることは、「征韓論」者である副島の登用で、自分の就任とのバランスを取ろうとしたものであろう。かくして10月12日大久保が参議に任命され、翌13日に副島が参議に任命された。
 参議就任にあたって大久保は家族にあてて遺書を残している。この時の大久保は少年時代からの親友である西郷との政治的訣別を決意し、死さえ覚悟しているのである。毛利氏はこの点も過小評価している。


■5、西郷隆盛「護兵の儀は決て不宜」と大久保利通「未だ俄に朝鮮の役を起す可からす」、
 10月13日以後政局は激動を迎えた。まず14日の閣議が開かれ、病気の木戸を除く大臣・参議全員が出席し、朝鮮遣使問題をとりあげた。席上はじめて大久保と西郷が公の席で激論を交わした。
 この時大久保は毛利氏の言を借りれば「使節派遣即開戦論」という前提に立って西郷に反対した。しかし毛利氏は「西郷は、このとき大久保の前提とは異った議論を展開したはずである。」(毛利144頁)と言われる。毛利氏によれば、この時西郷隆盛はあくまでも交渉に徹するべきで、そのための使節派遣だと力説したらしい。「西郷のいう通りであるならば、使節派遣即開戦という前提に立って組み立てられている大久保利通の長大な反対論は、ほとんど無意味となる。」と毛利氏は言われる。しかしこの部分はほとんど毛利氏の憶測によるものであり、わたくしたちとしては「毛利氏のいう通りであるならば」というほかはない。
 大久保は錯覚などする筈がない。大久保と西郷は無二の親友であり、少年時代から苦楽を共にしてきた。大久保は西郷の発想、論理、性癖のすべてを十分知っている。大久保以上に西郷を知っている人はいないと言ってもよい。その大久保が会議の席上で西郷と丁々発止とやりあっているのである。一体何を錯覚しているのか。
 この時点での両者の意見を示す文書が、西郷の「遣韓使節決定始末」と大久保の「征韓論に関する意見書」である。この両者を以下に分析したい。
 まず西郷の「遣韓使節決定始末」は、10月17日付(一説には10月15日付)で三条太政大臣宛に提出されたもので、毛利氏は「朝鮮使節問題に関する西郷隆盛の正式かつ最終的な見解とでもいうべき重要なものである」(毛利19頁)と述べている。
 西郷はまず日朝交渉の行き詰りについて
「朝鮮御交際の儀、御一新の涯より及数度使節被差立、百方御手を被尽候得共、悉水泡と相成のみならず、数々無礼を働き候儀有之、近来は人民互の商道も相塞、倭館詰居の者も甚困難の場合に立至候」
と述べている。ここに見られる西郷の日朝交渉に対する認識は、朝鮮側が「無礼」だという当時の政府当局者の共通認識と同じである。
 この時期の日本側の外交方針は、朝鮮側の伝統的な中華的国際秩序観を理解していなかった。もし西郷が多少なりとも「道義」に基づいていたのであれば、朝鮮側の立場にも多少の理解を示し、日本側の外交方針をたしなめる言動があってもよさそうだが、そのような形跡はない。あくまでも日本側の立場を是とした上での立論である。この点には西郷の「平和的道義的立場」を強調する毛利氏はほとんど触れていない。
 西郷はつづけて次のように言う。


「故無御拠護兵一大隊可被差出御評議の趣承知いたし候付、護兵の儀は決て不宜、是よりして闘争に及候ては最初の御趣意に相反し候間、此節は公然と使節被差立相当の事に可有之、若彼より交を破り、戦を以拒絶可致哉、其意底慥に相顕候処迄は不被為尽候ては、人事に於ても残る処可有之、自然暴挙も不被計抔との御疑念を以非常の備を設け被差遣候ては、又礼を失せられ候得ば、是非交誼を厚く被成候御趣意貫徹いたし候様有之度、其上暴挙の時機に至候て、初て彼の曲事分明に天下に鳴し、其罪を可問訳に御座候。いまだ十分尽さゞるものを以て、彼の非をのみ責候ては、其罪を真に知る所無之、彼我共疑惑致し候故、討人も怒らず、討るゝものも服せず候付、是非曲直判然と相定候儀、肝要の事と見居建言いたし候」


 ここで西郷は、「護兵」一大隊派遣は不要であるとし、使節の単独派遣を主張している。
 たしかに「征韓」即行論ではない。「非常の備云々」とは、使節の派遣にあたって開戦準備をしておく必要はないし、それが礼にもかなうと言っているが、要するに軍事的威圧にならないようにとの配慮である。しかしそのこと自体外交的挑発であって、「道義」とは関わりない。「討人も怒らず」というような低い士気では戦えないから、戦えるための士気を鼓舞するような事件を自ら作りだそうとしているのである。
 そして相手が「暴挙」に出た場合は、「初て彼の曲事分明を天下に鳴し、其罪を可問訳に御座候」と述べている。「其罪を可問」というのは開戦を意味する。
 毛利氏は「相手の誠意を信頼して徹底的に話し合いを尽すべきであり、あらかじめ戦争準備など非礼なことをしてはならないという平和的道義的な立場であろう。この始末書をみるかぎり、西郷は、征韓論からはるかに隔っていた。」(20頁)「西郷は征韓即行論者はおろか征韓論者自体でもなかったとみなしてよかろう。」(82頁)と言われる。どこからこのような解釈が成り立つのか理解できない。毛利氏はこの史料を重要視しながら、肝心のことを何も読み取っていない。
 次に大久保の「征韓論に関する意見書」について見よう。
 毛利氏が錯覚として分析を放棄されたこの大久保意見書は、欧米視察によって裏打ちされた国際情勢についての透徹した認識、外交と内政の統一的提起など現実的政治家としての大久保の面目躍如たるものがある。
 冒頭部分で大久保は次のように述べている。


「凡そ国家を経略し、其彊土人民を保守するには深慮遠謀なくんはあるへからす、故に進取退守は必す其機を見て動き、其不可を見て止む、恥ありといへとも忍ひ、義ありといへとも取らす、是其軽重を度り、時勢を鑑み、大期する所以なり、今般朝鮮遣使の議あり、未だ俄に行ふへからすとせし者は、其宜しく鑑み厚く度るへき者あるを以なり」


 ここで大久保は「深慮遠謀」の立場から、「進取退守」にあたっては「機」を重視し、「恥」、「義」ではなく、「軽重」、「時勢」を考えて決定することを主張している。この対極に「深慮遠謀」ではなく、「機」も考えず、「恥」や「義」という価値観から「俄に」「朝鮮遣使」を進めようとする主張があるのであり、その中心人物こそ西郷隆盛である。
 大久保は「俄に」「朝鮮遣使」を進めることが、「俄に朝鮮の役を起す」ことになるとし、7か条にわたって反対理由を述べている。これについては前掲別稿でも述べておいた。
 第1条は維新以後日が浅く「政府の基礎未た確立せす」、各地に「不平を抱くの徒」が多く、一揆が頻発していること、第2条は、財政赤字と外国債の負担の現状、第3条では、政府が取り組んでいる海陸軍・文部・司法・工部・北海道開拓の分野で多くの事業への影響、第4条では輸入超過、金貨流出、国産の不振などを挙げ、開戦となれば兵役の負担が苛酷となり、産業は衰え、輸出入の不均衡をさらに増大させるという。第5条と第6条では国際情勢について、とくにロシアとイギリスの動向、第7条では欧米諸国との不平等条約や、イギリス・フランス軍の駐屯を指摘し、条約を改正して「独立国の体裁を全ふするの方略」を立てるべきであると主張する。
 以上7か条を列挙した上で、大久保は朝鮮遣使が即開戦とならざるをえないことを力説している。すなわち朝鮮との外交交渉が暗礁に乗り上げ、「傲慢礼節を知らさる」を黙視できない状況であるが、
「然れとも未た兵を出して之を征するに、判然たる名義あらさるを以て、今般殊に特命の使節を派出し、その接遇の情形に従ては、則征討の師を起さんとす」
と朝鮮遣使論を要約する。しかし最近の朝鮮国の日本あるいはアメリカの使節への態度を見れば、派遣使節への好遇は期待できず、あらかじめ「開戦の説」=開戦準備を考えておく必要があると言う。
 実際にも使節派遣が順調に行くとは考えられない。おそらく釜山に上陸しただけで、入京は拒否されるだろう。使節が殺害されることはないだろうが、西郷の訪問を拒否されたことを国辱として、強硬な開戦論が巻き起こり、それに押されて政府は開戦を決断せざるを得なくなるだろう。大久保はこうした事態を見越して、現時点での西郷の派遣が、開戦をもたらしかねないとして反対したのである。
 大久保利通は、開戦となれば十有余万の募兵が必要であり、弾薬銃器船艦運輸など出兵費用も1日あたり数万かかる、かりに勝利しても、数年間の長期占領の費用も多額となる、さらにロシア・清国の干渉も予想され、大変な危機となろうと言う。
 この点については9月22日提出とされる秘書官の池田寛治の派兵の財政的負担と内政への影響についての意見書がある。これは藤村道生氏がはじめて取り上げられたもので、大久保の見解をサポートした貴重な史料である。
 池田は朝鮮へ派遣した使節が屈辱を受けた場合、派兵せざるを得なくなるが、その場合派兵兵員を10万と見積もると、その財政負担はかなりのものであり、かりに攻略に成功しても占領の維持は困難である。また負担に堪えかねた人民が擾乱を起こし、全国大乱もあり得るとし、これでは「文武ノ事業ヲ盛大ニ起シ、東洋諸国ノ冠トナリ文明諸国ト駢立スルヲ得ンヤ」と言う。そしてアメリカ・フランス2国が辱めを受けながら、必ずしもその罪を問わず、国内の課題を優先している例をあげ、「况ヤ我日本ノ如キ、内ニ最施可キ急務ノ充満シタル国ニ於テヲヤ」と結論している。
 この池田意見書は大久保の要請によって提出されたものらしく、これを大久保の意見書と重ね合わせると、大久保の論理が一層鮮明に理解できる。
 さて意見書に戻ろう。
 ここで先に引用した文言がつづいている。


「今般遣使の議の由て起る所を察すれは、今特命の使節を送り、其接待若傲慢無礼、以て兵端を開くに確然たる名義を与ふることあれは、則征討の師を出し、其罪を問はんとするの意に似たり」


 西郷の二段階戦術への手厳しい批判である。
 最後に大久保は「国家の安危を顧みす人民の利害を計らす、好て事変を起し、敢て進退取捨の機を審にせさるは、実に了解す可らさる所にして、以て此役を起すの議を肯んせさる所以なり」と結論する。
 要するに朝鮮遣使は、開戦の名義を得るためだというのである。これは西郷が前掲のように「戦いは二段にわたり候」と言っていることと完全に符合するし、「遣韓使節決定始末」の論理とも一致する。
 この論理を西郷が主張し、それに大久保が反対したのである。「征韓論」と非「征韓論」は、政府高官を朝鮮に派遣した時の見通しと決断をめぐる論争である。大久保はなんら錯覚しておらず、錯覚しているのはその閣議の席にいないで、百年後になってあれこれ想像している毛利氏の方である。


■6、「征韓論破裂」
 以下の経過は周知の通りである。
 10月15日の閣議では、結局三条太政大臣と岩倉右大臣のみで協議することになり、やむをえず西郷の主張通りとするという決定が披露され、参議の多数は了承した。
 しかし大久保はあくまで反対の意志を崩さず、10月17日に辞表を提出した。これに驚いた岩倉も辞意を表明、木戸も辞表を提出した。同じ17日、西郷らは閣議決定天皇に上奏することを三条に要請したが、両者の板挟みにあった三条はその日の夜高熱を発して倒れた。
 ここから大久保らの巻き返しが始まる。大久保は伊藤博文大隈重信の協力を得て「一ノ秘策」を推進した。すなわち発病した三条に代って岩倉を太政大臣代理に任命し、太政大臣の権限を行使して閣議決定を空洞化させようとしたのである。
 22日、西郷・板垣・江藤・副島の「征韓」派4参議は岩倉邸を訪問し、閣議決定の上奏を迫った。しかし岩倉は太政大臣の権限でこれを拒否した。23日岩倉はこの問題を天皇に上奏したが、使節派遣に反対する自己の所見を述べた。この日西郷は辞表を提出して去った。まもなく鹿児島に向う。
 24日天皇は岩倉の上奏を受け入れ、使節派遣を不可とする裁断を下した。同日他の4参議も辞表を提出、「征韓論」は破裂した。一方政府は伊藤博文*15らを新参議に登用し、大久保利通中心の政権が発足した*16。いわゆる大久保政権である。
 もちろん非「征韓」=内治優先派も、いずれは「征韓」=朝鮮侵略を実行する点では、「征韓」派と同じであった。この点は従来の研究史の認めるところである。
 しかし「征韓」派の方が非「征韓論」であり、非「征韓」派の方が「征韓論」であったとする毛利氏の説は、氏の西郷への思いが作りだした砂上の楼閣である。江藤新平が「征韓論」者ではなかったという議論も、同様のものであり、論じる必要はないであろう。


■あとがき
 毛利説に対しては、この時期の政治状況全体の把握に関わるため、太政官制をはじめ、外交観、予算紛議、司法改革、サハリン・琉球問題*17藩閥対立の多くの問題について論じる必要がある。これらについては他日を期すこととしたい。

征韓論」政変研究の若干の問題点
■はしがき
 わたくしはさきに「「征韓論」政変の評価をめぐって――毛利敏彦説批判――」(歴史教育者協議会『歴史地理教育』四六一号 一九九〇年九月号)と「「征韓論」政変の史料批判――毛利敏彦説批判――」(歴史学研究会歴史学研究』六一五号 一九九一年一月号)を発表したが、これは毛利敏彦氏の『明治六年政変の研究』(有斐閣、一九七八年、以下たんに有斐閣版とする)と『明治六年政変』(中公新書、一九七九年、以下たんに中公新書版とする)の二冊の著書を批判したものである。
 ここに至る経過はすでに右二稿で述べたように、一九八〇年十一月の廃藩置県研究会(現在の明治維新史学会)の第一回研究会(毛利氏も出席されていた)で、原口清氏とともに毛利氏の二冊の著書を書評したことがきっかけであった。しかしわたくしはこの批判を活字にしなかった。毛利氏がわたくしたちの批判を受け入れられたと思ったからである。
 最近わたくしは『日本史研究』三二六号(一九八九年十月号)所載の佐々木寛司氏著『日本資本主義と明治維新』(文献出版、一九八九年)への書評で、佐々木氏が毛利氏の書に言及されたことに関連し、「理論的にも実証的にも完全に破産した失敗作」と述べた。これに対して毛利氏は早速同誌三四〇号(一九九〇年十二月号)に「田村貞雄氏にこたえる」という一文を寄せて、わたくしを批判された。そこで毛利氏は「田村氏は拙著を「失敗作」とみなす理由を何も書いていないし、同氏がそのことをすでに公表済みであるとも聞いていない。」とも述べられている。まったく見当違いの御批判である。
 批判点は十年前に公開の席で申し上げているのである。
 毛利氏は右稿において、十年前の自説があたかも学界で認められたかのように誇示され、その要点をつぎのようにまとめられている。

(一)西郷は「征韓論」に敗れて下野したという通説は誤っている。その根拠は次の五点である(私注:4点の誤記か)。
1.西郷が公式に(閣議の席で)「征韓」を主張したという証拠はない。
2.西郷が「征韓論」者だったかも知れないと疑わせる史料はあるが(板垣退助宛書簡等)、西郷の真意を表わしていないとの反証が可能である。
3.十月十五日付太政大臣三条実美宛文書で、朝鮮との平和的・道義的交渉の必要を明言している。
4.西郷の使節派遣は八月十七日閣議で内定して、天皇の裁可が済み、十月十五日の閣議で正式に決定した。

(二)政変の原因は参議大久保利通の陰謀にあり、右大臣岩倉具視と結託して、適法に成立した閣議決定をひっくり返し、天皇を誘導した。これには汚職露見で窮地に立っていた長州閥伊藤博文が協力した。

(三)西郷と他の四参議の辞任理由ないし動機は違い、五人を一括して「征韓」派とみなしている通説は誤りである。

 この要約は同氏「明治初期政治・法制史における江藤新平――『江藤新平関係文書』解説――」でも行なわれており、最後に「史実に照らせば、江藤が辞職に追い込められた明治六年政変が決して征韓論政変ではなかったことが御理解頂けたであろう。」と結ばれている。
 毛利氏の説のなかには、非「征韓」論とされている大久保利通の方が「征韓」論であったとする点や、「征韓」論者であったとされる江藤新平が「征韓論」を主張しなかったとする点も含まれている。また岩倉使節団の評価や、「長州派」の存在を含め、この時期の政治過程の評価にも毛利氏の新説がある。これらの点も含めて毛利説は吟味されるべきであり、毛利氏が右三点に絞られたのはいささか理解できない。
 わたくしは右の毛利氏の文への反論を「「征韓論」政変をめぐって――毛利敏彦氏に答える――」と題して『日本史研究』に投稿してあるが、そこで右の(一)〜(三)の論点をなぞりながら批判しておいた。本稿は右反論において紙数の関係で十分論及できなかった部分について述べるものである。
 なお毛利氏はわたくしの『歴史地理教育』四六一号(一九九〇年九月号)所載稿について、同誌四六九号(一九九一年三月号)で「西郷隆盛は征韓を企てたか」と題して反論されている。そこで毛利氏は、わたくしが毛利氏の「依拠する最重要史料に対する全面的吟味」「を避けたり一部分だけをいじってお茶を濁すような」「いわば「手抜き工事」」をしたと非難されているが、とんでもない濡れ衣である。毛利氏が重視されるのは十月十五日または十七日付の西郷隆盛の「遣韓使節決定始末」であるが、わたくしは『歴史地理教育』掲載文では同誌の性格上、引用を最小限にしたものの、十分論じており、また『歴史学研究』掲載文ではその九割を引用して論じているのである。
 この点についてのわたくしの反論は、学界の論争の場ではないとする『歴史地理教育』編集部の意向もあり、やむなく明治維新史学会編の『明治維新史研究』創刊号(吉川弘文館より近刊)に掲載する予定である。本稿ではこの問題についても若干論及している。

■一、留守政府の予算紛議
 毛利氏は「征韓論」政変の原因は参議大久保利通の陰謀にあり云々と述べておられる。そのこと自体間違いではないが、あまりにも短絡した見方である。「征韓論」政変の根本的原因は何といっても岩倉使節団と留守政府の対立にあり、また留守政府自体が分裂していたことにある。
 その点毛利氏はかつて正当にも「〈政変〉は、約言すれば、廃藩置県前後の政治過程において政府内に蓄積された矛盾の爆発であった」(有斐閣版二ペ―ジ)と述べられている。しかしその「政府内に蓄積された矛盾の爆発」についての評価が大きな問題である。
 朝鮮問題が発生する以前に政府部内で対立が激化した問題は、何といっても定額金問題すなわち予算紛議である。これについてはすでに多くの研究の蓄積があるが、毛利氏がこれにほとんど触れていないのは奇妙なことである。ただ江藤サイドからかれが司法省予算増額を力説したことが指摘されている(有斐閣版一八三ペ―ジ)に過ぎない。
 岩倉使節団は一八七一年十一月に出発するが、出発にあたって岩倉使節団と留守政府の間では、重要な改革と人事異動はしないという約定書が結ばれていたが、これには大臣参議の外、各省卿・大輔一八名が署名していた。
 この一八名がこの時期の政府の実質的な最高首脳であるというべきであろうが、大臣参議以外に、各省の卿と大輔(次官)が入っている。卿が欠員になっている省もあるが、これはそれぞれ事情があることであり、大輔が卿代理となっている。なおここに江藤新平が入っていないことに注意されたい。
 留守政府と岩倉使節団の間にはしだいに対立感情が生じた。手紙の往復で三か月近くかかるのだから無理もないが、一々改革について了承を取り付けるのは困難であり、留守政府は廃藩置県の事後処理を越えて多面的な改革に突き進んだ。徴兵令、地租改正、学制、司法改革などである。これは留守政府正院がある計画をもって推進したのではなく、各省がそれぞれ勝手に推進し、正院がそれを追認しているに過ぎないといった状況であったからである。
 一方これらの改革の進行に使節団はしだいに批判的になった。使節団一行は直接見聞した欧米の工業力や法律制度、あるいは市民生活の現実を参考にさまざまな改革構想を生みつつあったわけで、その欧米の現実を知らない留守政府の猪突猛進的な改革には批判的にならざるを得なかったのであろう。
 留守政府の正院を構成する大臣参議のうち、三条太政大臣と西郷参議・板垣参議の三人は、確乎とした政策構想はなく、おそらく大隈参議ただ一人が所見を陳述し、審議を進めていたのであろう。これを支えているのは、大蔵省(大輔井上馨)であり、膨大な井上馨建議要項がそれを示している。これらはおそらく大隈を中心とする協議によって正院の認可を得たものであろう。外交政策や機構改革については西郷や板垣の意見もあったであろうが、内政については大隈ー井上ラインが主導権を発揮していた。
 このような弱体な正院であるからこそ、それぞれの政策を立案し、予算を要求する各省と、大蔵省が激突し、正院は調整能力を失って右往左往するばかりであった。
 予算紛議は廃藩置県後の諸改革と租税改革との関連で発生した。租税改革はいまだ準備中であり、石代納*18も許容したばかりである。一八七二年については秋の収穫時から徴税が開始されたばかりで、依然として現物納を含んでおり、予算総額そのものが試算程度で不確定要素が多い。
 しかし各省は争って所掌事項の改革に走り、大蔵省に経費の請求をするに至った。そこで大蔵省と各省との間に定額金(国家予算)をめぐる紛議が発生したのである。とくに司法省(卿は江藤新平)と、大蔵省(大久保卿の留守を預る大輔井上馨)の対立がいわゆる予算紛議であり、留守政府の分裂を来たすまでに発展した。
 予算紛議については毛利氏の二著発表以前に、いくつかの研究がある。
 阿部賢一氏「予算公表始末――大隈財政の一業績――」(『大隈研究』三輯、一九五三年)は先駆的なものであるが、石塚裕道氏「大久保政権の成立と構造」(『東京都立大学開学十周年記念論文集』一九五九年、のち同氏著『日本資本主義成立史研究』吉川弘文館 一九七三年)、大江志乃夫氏「大久保政権下の殖産興業政策成立の政治過程」(稲田正次氏編『明治国家成立過程の研究』御茶の水書房 一九六六年)がある。これらは大蔵大輔井上馨の財政政策とかれに代って最初の予算を公表した参議兼大蔵省事務総裁大隈重信の財政政策を対比したものである。
 わたくしも「制度か経済か――予算制度の成立」(『エコノミスト』一九六六年十一月十五日号、毎日新聞社、のち家永三郎井上清編『近代日本の争点 上』毎日新聞社、一九六七年、所収)、「留守政府の予算紛議」(家永三郎教授東京教育大学退官記念論集刊行会編『近代日本の国家と思想』三省堂、一九七六年)で所見を述べたことがある。
 そこでわたくしは井上と大隈の政策を同質のものと見て、むしろ司法卿であった江藤新平とのあいだに富国構想において基本的相違があったとしたものである。
 なお最近では関口栄一氏「明治六年定額問題――留守政府と大蔵省・四――」(東北大学法学会『法学』四四巻四号、一九八〇年)および同氏「司法省と大蔵省――留守政府と大蔵省・五――」(東北大学法学会『法学』五〇巻一号、一九八六年)がある。
 一八七一年七月の廃藩置県で成立した政府は、太政官三院制をとったが、その最高機関である正院を構成するのは大臣参議であった。そのうち参議は西郷隆盛(薩摩=鹿児島)、木戸孝允(長州=山口)、板垣退助(土佐=高知)、大隈重信肥前=佐賀)の四人であり、薩長土肥各一名という藩閥バランス人事となっている。
 しかし政権を支えているのはもはや藩閥のバランスだけではなかった。すでに民蔵分離問題*19に見られるように政策上の対立も生じており、藩閥を横断した政策派閥も形成されつつあった。その一例として木戸孝允を中心とした「洋化派」をあげることができる。「洋化派」は大隈重信井上馨伊藤博文を中心として構成されており、殖産興業政策や財政政策で新しい構想を提唱推進し、漸進主義的な政府首脳や保守派と摩擦を起こしていた。かれらの富国構想は、いわば経済立国論ともいうべきもので、急速な技術導入、工業化政策を推進していた。
 このような予算作成をめぐる対立は、たんに官庁相互のセクショナリズムだけで起こっているのではない。それ以上に当時の政府部内に生じていた国家政策をめぐる対立に原因があったのである。そしてこの対立は、廃藩置県から「征韓論」政変に至るあらゆる政争と密接なつながりをもっていた。
 井上馨は一八七三年五月四日に三等出仕渋沢栄一とともに辞任するが、七日付で政府に財政建議を提出している。この建議はまもなく『日新真事誌』などに掲載されたため、対立の内容が明るみに出た。しかも建議の内容が、政府財政の大きな危機(歳入四〇〇〇万円に対し歳出五〇〇〇万円。差引き赤字一〇〇〇万円)を暴露していたため、世論は騒然となった。
 かれらの財政建議をみると、
「夫レ開明ノ言タル其称一ナリト雖モ、推シテ其帰スル所ヲ論スレハ、判然岐ツテ二ツト為ササルヲ得ス。開明ノ政理上ヲ主トスルハ形ヲ以テスルモノニシテ、開明ノ民力上ヲ重ンスルハ実ヲ以テスルモノナリ。形ヲ以テスルモノハ求メ易クシテ実ヲ以テスルモノハ致シ難シ」
と当面の改革=開明化を、かれらは「政理上」と「民力上」の二つの内容に分けている。
 「政理上」の開明とは、形をもってするものであり、欧米の法律・政治・教育の制度を輸入し近代的統治体系を樹立することである。「民力上」の開明とは、実をもってするものであり、近代工業を移植し産業の発達・軍事力の充実をはかることである。
 なにしろ「凡ソ国体・兵制・刑律・教法・学則・工芸・民法・商業ヨリ百般ノ技芸ニ至ルマテ之ヲ一時ニ更革シテ以テ万国ト抗衡セント欲ス」という国家的課題があるのである。今もし「政理上」の開明を主とし、「民力上」の開明を重んじないならば、「政治遂ニ人民ト背馳シ、法制益美ニシテ人民益疲レ、百度愈張リテ国力愈減シ」る結果となる。井上らは、「歩歩序ヲ逐ヒ、著著実ヲ認メ、政理ヲシテ民力ト相背カサラシムルヲ要ス、決シテ躁行軽進、速成ヲ一日ニ求ムヘカラス」と主張するのである。
 こうした原則に立って、「用ヲ兵制ニ豊ニシテ費ヲ法律ニ歉ニシ、或ハ額ヲ工術ニ加ヘテ貲ヲ学制ニ損ジ、或ハ農租ヲ逓減シテ商税ヲ増加スル」方策をかれらは提案する。これは、軍備拡張、殖産興業の推進を重視する一方で、法律、教育制度の整備を延期しようとするものであり、裁判所制度の確立など司法改革をめざす司法省と、学制の施行によって画一的な学区制、義務教育制の確立をめざす文部省に批判を集中しているのである。
 一方司法卿であった江藤新平は、井上辞職の五か月前、予算問題で大蔵省と衝突し、辞表を提出したが、その際次のように述べていた。


「(万国と)並立の元は国の富強に在り、富強の元は、国民の安堵に在り、安堵の元は国民の位置を正すに在り」


 では国民の位置を正すとは何か。それは婚姻・出産・死去の手続きを厳しくして、相続贈遺の法が定まり、動産不動産の貸借売買の法を厳しくして私有・共有の法が定まり、それらによって、聴訟を敏正、国法・治罪法を公正、断獄を明白とすることにある。


「於是民心安堵、財用流通、民始て政府を信ずる深く、民始て其権利を保全し、各永遠の目的を立、高大の事業を企つるに至る。当是時、収税の法、其中を得ば、民各業を励まん。各々業を励みて民初て富む。税法、中を得て、税初て豊かなり。民富み、税豊かにして、然後、海陸軍備も盛に興る可なり。工部の業も盛に可興なり。文部の業も盛に可興也。」


 要するに富国の基礎は、法律制度の整備にあり、税制改革、軍備の近代化、殖産興業などに先じて着手されねばならぬ、というのである。これらはいわば法治立国論ないし司法立国論と言うべきであろう。
 右のように予算紛議はたんなる官庁間の確執ではなく、富国構想そのものの対立、井上・渋沢の言葉を借りれば、「政理上」と「民力上」の開明をめぐる政策上の対立があったのである。
 この予算紛議についての毛利氏の見解は、もっぱら江藤を近代的な民主主義者と持ち上げるだけで、きわめて一面的な評価しかされていない。『江藤新平』(中公新書、一九八七年)はもっぱらこの立場からの論述であり、従来の研究からの大幅な後退と言わざるを得ない。


■二、太政官制の潤飾
 予算紛議のさなかの一八七三年一月、三条太政大臣岩倉使節団に書簡を送り、政府の内紛を解決するため木戸と大久保の帰国を要請した。これに応じて大久保はすぐ帰国の途に就き、木戸はしばらく欧州各国を巡遊した後帰国の途に就いた。しかし二人が帰国する以前に、留守政府は明白な約定書違反を行なった。それが参議の増員と太政官制潤飾である。
 すなわち四月十九日政府は左院議長後藤象次郎(土佐)、司法卿江藤新平肥前)、文部卿大木喬任肥前)の三人を参議に登用したのである。ついで五月二日、各省(とくに大蔵省)の権限を削り、正院に権力を集中するとともに、参議を内閣議官とし、一切の政務は内閣議官を経るものとした。内閣という呼称はここではじめて登場する。これを太政官制潤飾という。
 この人事異動と太政官制潤飾についての毛利氏の評価も、江藤対「長州汚職派」という図式による一面的なものであり、的確な考察をしておられない。
 右の人事異動は各省間の調整を行なうべき正院が、各省卿クラスを参議に昇任させ、正院の場において調整しようとはかったものである。後藤らの昇任はそれを示している。この時期の省卿としては、外に大蔵卿の大久保利通と外務卿の副島種臣がいるが、大久保は遣外使節としてヨーロッパにあり、副島は目下清国派遣中であり、二人とも昇任から除外されている。
 太政官制潤飾により予算案を作成する立場の大蔵省の権限は削減されることになった。すなわち正院は従来各省に委ねられていた権限を剥奪して、自らの権限を肥大化させるが、とくに諸官省・各局・各地方官公費をはじめ諸官禄および旅費その他の雑費、秩禄および社寺給禄の制限、臨時諸費の制限、非常の軍費および国費についての決定権を正院が掌握したことである。この点はもともと大蔵省の権限であり、最終的には正院が決定するにしても原案を作成するのは大蔵省であった。結局この太政官制潤飾は、大蔵省の権限を大幅に削減して、正院自決としたものであり、この時期の大蔵省と司法省、文部省との予算紛議に則して言えば、大蔵省の主張を退けたものである。人事において司法卿(江藤新平)、文部卿(大木喬任)を参議に登用するという措置もそれと不可分であった。
 この時大蔵大輔井上馨と開拓次官黒田清隆が反発している。これは先の大臣参議省卿大輔十八名の盟約違反という理由であろうが、省卿と大輔を対等に待遇していた盟約から、省卿クラスを参議に昇格させ、省卿と大輔の差が生じたことへの不満であろう。もともと省卿不在で大輔が省卿代理をしていた開拓使などの官庁では、大輔クラスの不満が生じたと思われる。長官の空席であった開拓次官の黒田清隆の憤激も、また大蔵卿大久保利通不在中、卿の職務を事実上代行していた大輔井上馨の不満もこの点に関わっている。
 また「正院事務章程」では、正院内の参議からなる内閣について、次のように規定している。


「内閣ハ天皇陛下参議ニ特任シテ諸立法ノ事、又行政事務ノ当否ヲ議判セシメ、凡百施政ノ機軸タル所タリ」


 内閣は参議のみで構成される正院内部の機関である。拡張された正院のなかでとくに強い権限をもつのが参議であり、太政大臣、左右大臣は事実上棚上げされてしまっている。これら参議たちの一部が省卿の昇任者であったとすれば、しばしば明治政府を悩ます参議省卿の分離または合体の一過程でもあったのである。
 毛利氏は、この太政官制潤飾は「太政大臣に最高決定権があった従来の太政官制とは異質なものに事実上転化した」(新書版九二ページ)とされている。この点はその通りであるが、それ以上の分析をせず、「江藤の鋭利な頭脳と卓越した能力」(新書版九三ページ)の賞賛に終始し、この改革を政治過程のなかに正確に位置づけられてはいないのは、残念なことである。
 この人事異動と太政官制潤飾が、政府の強化となったかどうかは大いに疑問とされる。たとえば左院議官の宮島誠一郎は、諸参議の「各自支離」「倦怠萎微」、行政諸省の「支体分離」などと記しているが、正院の権限強化の半面、各省が改革意欲を失い、政府全体が混乱状態に陥りつつあったのでないだろうか。
 とくにこれは岩倉使節団一行を強く刺激したと思う。これは三条太政大臣と岩倉右大臣を棚上げし、さらに大久保大蔵卿の発言の場をなくする策といってもよい。これをもっとも不快に思ったのが大久保利通であっただろう。かれは大蔵卿をまだ解任されていたわけではない。後事を託した井上馨に行き過ぎがあったとしても、右の大蔵省の権限剥奪と正院への集中、その正院への新参議の登用は、要するに大久保利通はずしとして受取られた。
 帰国命令で五月二十六日に帰ってきた大久保は、大いに失望したようである。これでは何のために急いで帰国したのか分らない。かれはやがて東京を離れ、関西地方で遊覧を重ねている。岩倉らの帰国を待って、再起を期していたはずである。
 以上のような岩倉使節団と留守政府の対立、留守政府自身の分裂が「征韓論」論争の背景としてあるのである。このような政治過程を無視して、西郷隆盛あるいは江藤新平の政治的立場のみをクローズアップされる毛利氏の手法は、従来の研究史を無視した一人よがりのものなのである。


■三、研究史の方法
 ここで研究史の方法について一言したい。
 毛利氏は先行研究をくわしく検討された上で自説を展開されている。しかしその研究史整理の仕方には異論がある。
 毛利氏は西郷が「征韓論」ではなく「遣韓論」であったとして、あたかも通説が即時開戦論であったかのような言い方をされているが、このような研究史の整理には大きなトリックがある。そもそも毛利氏の研究史の整理方法は、研究自体の発展を二次的なものとし、いろいろな説を並列し、A説とかB説とか分類されているに過ぎない。これは研究史の整理とはいえないのではないか。
 研究史はそれ自体歴史であり、新しい史料の発展や、論理の深化により、相互に発展するものである。その過程で破綻した説もあるし、発想としては面白いが、根拠の薄くなった説もある。こういう研究史を無視し、破綻した説も含めて並列的に並べ、A説とかB説とか分類するのは、少なくとも歴史学の手法ではない。
 そのA説やB説も必ずしも研究の時間的順序にしたがって叙述されているわけではない。たとえばB説の最後に戦前の徳富蘇峰の説が述べられるなど、混乱がひどい。
 かつて西郷隆盛が「征韓」を行ない、その余勢をかって国内においても武政=士族軍事独裁を実現しようとしていたという説があった。井上清氏『日本の軍国主義2』(東京大学出版会、一九五三年)の主張である。
 その根拠は鳥尾小弥太の「国勢因果論」(指原安三編『明治政史』所引、『明治文化全集・正史編(上)』所収)によるものである。この説に対して原口清氏の『日本近代国家の形成』(岩波書店、一九六八年)は、これは鳥尾の勝手な臆断であり、西郷隆盛が賛成していたわけではないとして否定された。留守政府の参議として西郷は国会開設論に同意しており、これは士族軍事独裁論と相容れないというのもその論拠の一つである。
 これに対して井上清氏は『西郷隆盛』下(中公新書、一九七〇年)で、旧説を一部修正されつつも、なお鳥尾小弥太の推測に依拠されていたが、原口氏は同書の書評(『歴史評論』二四七号、一九七一年二月号)で、井上氏の所論を明確に批判された。これにより武政=士族軍事独裁樹立説は、根拠を失ったのである。
 研究史の整理方法としては、このように研究の進展のなかで否定されたり、修正された部分を時間的順序にしたがって整理し、現在残された課題を明らかにすべきであって、毛利氏のような分類法は、研究史の整理とはいえないのである。
 右の問題に関していえば、西郷が兵を率いてすぐ朝鮮に渡るというような説はもはや研究史では問題ではなくなっている。したがって毛利氏が、西郷は即時開戦論ではなかったといわれても、これは決して氏の創見ではないのである。問題はこのことから毛利氏が、西郷が「征韓論」者ではなかったとか、平和的道義的立場に立っていたなどという結論を引き出されたのが、大きな誤りなのである。
 たしかに西郷は板垣らの即時開戦論を押えて、使節派遣論を展開した。しかしそれは平和的道義的立場からではない。
 かれは「戦は二段」と明確に言っている。まず使節が「暴殺」される、それによって兵力派遣の大義名分ができるというのである。ただそれは西郷の死が前提であり、西郷自身が兵を率いたり、また勝利後かれを中心とする政権はできるはずもないからである。
 しかし朝鮮国が使節を「暴殺」するという前提そのものが、朝鮮国は野蛮未開であるとの偏見によるものではなかろうか。実際には使節漢城(ソウル)入りが拒否される可能性がある程度であろう。漢城には近世を通じて友好的であった徳川幕府使節も入京していない。そうすると折角西郷が使節として赴いても、入京拒絶にあう可能性は大きい。
 その程度の交渉不調でも、それを開戦の口実とする強硬派の突き上げを抑止することは、いちじるしく困難となろう。
 そこで西郷の使節派遣が客観的には否応なしに「征韓論」になるというのが、この段階での大久保の批判であった。
 「征韓論」と非「征韓論」はこの点で火花を散らしていたのであって、西郷の真意は「遣韓論」であったとして、論点を他にずらしてもらっては困るのである。


■四、江藤新平の「征韓論
 毛利氏の江藤新平の「征韓論」についての評価もおかしなものである。
 毛利氏のこの時期の政治過程に関する叙述は、江藤新平を軸に長州派対反長州派の藩閥抗争として描いておられるのだが、この点については大いに疑問がある。前述したように、この時期には各藩出身者が藩意識で連携するよりは、政策上の対立や自分の役職の省庁の利害を重視する時代になりつつあり、決して単純な藩閥利害では左右されなくなっているのではなかろうか。たとえば肥前藩出身の四人の参議(大隈・江藤・大木と副島)が肥前閥としてなんらかの連携をしていたというようなことはないのである。したがって一八七三年五月の太政官制潤飾以後の政治過程の評価にも大いに異論があると申し上げておきたい。
 毛利氏は十月十五日付の江藤新平岩倉具視宛書簡を引用され、これは前日の閣議での岩倉の発言を批判したものであるとし、「この書簡を丁寧に読めば解るように、いずれも相手の議論の弱点を衝いたり、相手の議論を逆用するという論理展開上の必要から出ているのであって、江藤自身の積極的提案ではない。したがって、このとき、江藤が征韓意見を述べたとはいえない。」(有斐閣版二二ペ―ジ)といわれている。この点は前掲近著『江藤新平』(一九八七年)でも繰り返されていて、「このとき江藤が征韓論を主張したとみなすのは完全な誤解である。」(同書一九三ペ―ジ)といわれている。そしてつづけて「現存史料によるかぎり、朝鮮使節問題自体に関する江藤の立場は必ずしもはっきりしない。かれは人権確立と法治体制造出に専念していたから、朝鮮問題については、とくに賛成でも反対でもなかったのではないだろうか。」(同書一九三ペ―ジ)といわれている。通説とは違い、江藤は「征韓論」者ではなかったとされるのである。
 しかしこの文書はただ岩倉の論理矛盾を衝いているだけのものではない。それを通じて樺太よりは朝鮮問題を先決とし、西郷の使節派遣を支持しているのである。そして最後に「先日被為召候節も兵権之事を略申上候は、其方略も聊有之候故申上候事にて、尚御注意被遊度奉存候」(傍点は引用者)と述べ、「兵権」についての「方略」も述べている。これは一般的な軍事問題ではなく、西郷の朝鮮使節派遣に密着した軍事方針を意味する。これこそ「征韓論」でなくてなんであろう。
 この江藤の書簡に関する毛利氏の新解釈はまったく根拠がなく、江藤が「征韓論」者であったという従来の説はいささかも動かない。毛利氏は江藤を非「征韓論」者といったことはないと、弁明されるかもしれないが、それなら以上のような曖昧模糊とした解釈は、撤回されるべきであろう。要するに明々白々な従来の史料解釈に対し、なんとか江藤を救済しようとされているに過ぎないのである。あれほど激しい気性の江藤が政争の渦中にあって「とくに賛成でも反対でもなかった」ということはありえないのではないか。
 毛利氏は「征韓論」政変後の人事において、司法卿が重要な問題であったといわれる。江藤が支配した司法省の編成替えは確かに重要問題であったが、それは藩閥的利害から問題視されていたのではない。政府は司法卿に大木喬任(前文部卿)を任命したが、大木が肥前藩出身なので、大久保利通伊藤博文が反対したと述べられている(有斐閣版二〇一ペ―ジ)。その根拠としてあげられる木戸孝允岩倉具視書簡は、司法卿については岩倉、大久保、伊藤がそれぞれ候補者を挙げ、岩倉が一任されて大木に決めたといういきさつが述べられているに過ぎず、大木が岩倉の当初の候補だったかどうかは分らないし、大久保も伊藤も固執しておらず、大木に反対した形跡はない。
 大木が肥前藩出身だからというのは毛利氏の想像だが、同じ肥前藩出身の大隈重信は人事選考にも参加しており、肥前藩云々はこの時期の政治過程を藩閥の対抗関係で見ようとする毛利氏の憶測に過ぎない。大久保政権はいずれも参議を兼ねる内務卿大久保利通薩摩藩)を中心とし、工部卿伊藤博文長州藩)、大蔵卿大隈重信肥前藩出身)を両輪として構成されているのであって、反肥前的な政権ではない。
 毛利氏はこの時期の政局をあまりにも藩閥抗争として描き過ぎているきらいがある。そこから長州系政治家の疑惑事件*20を一八七六年*21の政治過程の中心にクロ―ズアップされ、あたかも「征韓論」より大問題であったかのようにされたのであるが、その根拠ははなはだ薄弱であった。


■五、毛利説のほころび
 この他にも毛利氏の説には氏自身が認められたいくつかのほころびがある。
 たとえば大久保利通の方が「征韓論」であったとする論拠としてあげられた「岩倉公に呈せし覚書」*22は、誤用であった。これは日本史籍協会の『大久保利通文書』の編者が誤って「明治六年十月」のものとして混入したもので、文中「御雇仏人ブワソナ―ド氏」に公法上の問題を調査させるとあるが、ボワソナ―ドは一八七三年十月の「征韓論」政変当時、まだ日本に到着していなかった。
 毛利氏はこれを「まさに周到かつ現実的な開戦準備計画メモ」と評価され、「征韓論をめぐる西郷と大久保の関係は逆転することもあり得よう。」(有斐閣版、一四八ペ―ジ)といわれる。さらに毛利氏は「大久保は、本当に内治論者だったのだろうか。」(同一五一ペ―ジ)と疑問を提出され、多々弁じておられるが、すべてこの文書の評価が前提となっている。毛利説の扇の要にあるといってもよい。
 この文書の誤用は前述の一九八〇年十一月の研究会の席上毛利氏自ら認められた。毛利氏は中公新書版ではこの史料を使用されていない。この史料の否定によって、毛利氏の大久保論(政変段階で大久保の方が「征韓論」であったという説)は事実上崩壊していると思うのだが、毛利氏は「この文書を削除しても拙著の論旨に重要な変化は生じないことを断わっておきたい。」といわれる。ではこの史料を抜きにしてどのように大久保=「征韓論」説を立論されるのであろうか。ぜひ伺いたいものである。
 また六月十五日付の五代友厚大久保利通書簡における「大敗北ニ而帰陣」の文言をもって、大久保が失意のうちに帰国したとされた点である。これは条約改正交渉の失敗の失意ではなく、佐々木克氏が指摘されたように、金銭上の問題であった。そして佐々木氏は大久保が強い決意をもって岩倉の帰国(九月)を待っていたとされており、大久保失意説の毛利氏を批判された。
 しかし毛利氏は右書簡の解釈の誤りは認められながら、九月末から十月はじめにかけて大久保が参議就任を固辞したことをあげて、大久保失意説に固執された。この場合の固辞は、相手の誠意を確かめたり、より多くの条件を獲得するための外交辞令に過ぎない。こういうことは諸葛亮孔明*23ならずとも、われわれの周辺にいくらでもある事例である。毛利氏の大久保失意説は、「前後の事情からみてかれの真意」といわれるが、あまりにも表面的な観察ではあるまいか。
 こういうほころびを一つ一つ指摘して行くと、毛利氏の説を根拠づける史料はほとんどなくなっているのが現状である。にもかかわらず、毛利氏は『歴史地理教育』誌上でのわたくしへの反論で、西郷隆盛の「遣韓使節決定始末」をとりあげるだけで、他の問題点については、旧二著を読めとされている。これだけのほころびについての反省がまったく見られないのは、どういうことであろうか。


■おわりに
 毛利氏に答えるのは以上である。しかし右の文で毛利氏が自説の評価について、多々弁じておられるので、その点につき若干申し述べたい。
 毛利氏の新説は、氏によれば「多大の反響を呼びおこした」のだそうである。氏はつづけていろんな雑誌の書評で取り上げられたとか、外国人研究者も支持しているとか縷々述べられている。辞典にも参考文献としてあげられているそうである。およそ馬鹿馬鹿しい話である。こういう調子で自画自賛される毛利氏の研究者としての見識を疑う。
 自ら史料の分析をしないで結論だけもてはやす無責任な「世評」などに、「眼力」などあるはずがないではないか。西郷南洲顕彰館が毛利説を支持したことが、またそれをある外国人研究者が支持していたということが、毛利説の正当性を立証することにいささかでも寄与するのであろうか。あきれ果てて物も言えない。とりわけ外国人にも支持があると言い立てるとは、何ということであろう。事大主義そのものではないか。
 わたくしは論争は史料の実証とそれにもとづく論理だけでやるべきだと思う。史料を検討していない他人の言説を、自説の支持の根拠に据えるべきではなかろう。このことは事前に毛利氏にきびしく御忠告申し上げておいたのだが、聞き入れられなかったのはまことに残念である。
 一方で毛利氏は、学界での毛利説批判をまったく無視されている。たとえば家近良樹氏の「「明治六年政変」と大久保利通の意図――毛利敏彦説に対する疑問――」(『日本史研究』二三二号、一九八一年十二月)の詳細な毛利説批判があるが、毛利氏は今日まで反論されていない。毛利氏は佐々木克*24の書評(『日本史研究』二一四号、一九八〇年六月)に対して答えられた文のなかで「拙著への学問的批判の続出を期待するものである。私も真剣に応答することをお約束」すると述べられていたのであるが、氏は原口氏やわたくしの批判に答えられなかっただけでなく、家近氏への反批判も今日までされていない。
 また最近では田中彰氏「大久保政権論」(遠山茂樹氏編『近代天皇制の成立』岩波書店、一九八七年)、宮地正人氏『日本通史3・国際政治下の近代日本』(山川出版社、一九八七年)、石井寛治氏『大系日本の歴史12・開国と維新』(小学館、一九八九年)、飛鳥井雅道氏「西郷隆盛は平和主義者であったか」(藤原彰今井清一・宇野俊一・粟屋健太郎氏共編『日本近代史の虚像と実像1』大月書店、一九九〇年一月)などがあるが、いずれも毛利説をとっていない。
 毛利氏はまず自著の多くのほころびを補綴し、多くの批判に答え、自説を再構成されるべきであろう。今のままでは毛利説は学説の名に値しないといっても過言ではあるまい。

*1:後に首相。早稲田大学創設者

*2:後に首相、枢密院議長、貴族院議長などを歴任。元老の一人

*3:後に逓信大臣、農商務大臣

*4:後に司法大臣、枢密院議長を歴任

*5:外相、農商務相、内務相、蔵相を歴任。元老の一人

*6:もちろん抗議辞任

*7:後に首相、元老

*8:台湾に漂着した琉球民が現地人に殺害された事件の処理のため。

*9:外務卿の副島が使節になる可能性が高かったと言うこと。

*10:責任者の処罰にとどめ、改易処分はせず長州藩は藩として残したこと(この結果、長州藩は第二次長州征伐では逆に幕府を敗北させることが可能となった)や、江戸城無血開城など。もちろん寛大な処分と言ってもノーペナルティの訳ではない。

*11:陸軍大臣、内務大臣など歴任。元老の一人

*12:尾去沢銅山横領事件のこと。

*13:1871年に起こった台湾に漂流した琉球人が現地人に殺された事件の処理。1874年の台湾出兵の原因となる。

*14:1875年の樺太・千島交換条約で決着する。

*15:参議兼工部卿に就任。

*16:大久保は参議兼内務卿に就任。

*17:1879年の琉球処分沖縄県の設置)のことか?

*18:租税を米ではなく貨幣で納めること。

*19:統合した民部省と大蔵省(存続官庁は大蔵省)を再度分離すべきかどうかという問題。結局、大蔵省と内務省の分離で決着。

*20:山県有朋の山城屋和助事件、井上馨の尾去沢銅山横領事件。

*21:原文のまま。おそらく一八七三年または明治六年の誤記

*22:本当は明治8年江華島事件の時の書類だった。

*23:三顧の礼のこと。

*24:著書『大久保利通明治維新』(吉川弘文館歴史文化ライブラリ−)