新刊紹介:「歴史評論」9月号

歴史評論」9月号(特集「「1910年前後の東アジア」」)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。
ここでは私にとって興味のある文章のみ紹介します。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

■「1910年前後の朝鮮―大韓帝国はなすすべもなく併合されてしまったのか?―」(林雄介)
(内容要約)
・本論文では、大韓帝国側の動きとして
・韓国中立化構想(実際、韓国は日露戦争時、中立を宣言したが、日本はそれを無視し、軍事的圧力により日韓議定書を締結させた)
・ハーグ密使事件(1907年)に代表される密使外交(第二次日韓協約により外交権を奪われていたため、密使外交をせざるを得なかった。これに対し、日本は皇帝・高宗を退位に追い込み、第三次日韓協約で軍を解散させ内政権も奪った)
がとりあげられている。なお、大韓帝国が特に期待していたのはアメリカが朝米修好通商条約の第1条「周旋条項」(「第三国が締約国の一方を抑圧的に扱う時、締約国の他方は、事態の通知をうけて、円満な解決のため周旋を行う」という文言)に基づいて、介入してくれることだったようだ。
・これらの大韓帝国側の動きは残念ながら帝国主義列強の支持するところとはならなかったのだが。
 もちろん支持しなかったのはパワー・ポリティクスの論理によるもので、日本の方に道理があるとかそう言う話ではありません。
 具体的には、例えば
1)第二次日英同盟(1905年)
 日本が韓国を自国の支配下に置くことをイギリスに認めてもらうかわりに、日本はイギリスのインド支配を認めると言うもの。
2)日露協約(1907年)
 日本が韓国を自国の支配下に置くことをロシアに認めてもらうかわりに、日本はロシアの外モンゴル権益を認めると言うもの。
3)桂・タフト協定(1908年)。
 日本が韓国を自国の支配下に置くことをアメリカに認めてもらうかわりに、日本はアメリカのフィリピン支配を認めると言うもの。
・なお、これら以外にも義兵闘争や愛国啓蒙運動など、さまざまな運動があったことに注意。安重根による伊藤博文暗殺はもちろん義兵闘争の一環です。
・まあ、歴史修正主義ウヨの皆さんは「望もうが望むまいが日本は韓国に良いことをしたのだ」「当時は植民地支配がスタンダード」と居直るのだろうが。


■「清朝の外藩モンゴル統治における新政の位置」(岡洋樹)
(内容要約)
・新政とは1901年以降、清朝(当時は西太后政権)が実施した近代化政策のことである。
 モンゴル支配については、従来の方式をより中央集権的なものにすることが図られた。
 しかし、この近代化改革は辛亥革命で挫折した。外モンゴル辛亥革命の混乱を利用し、独立を宣言した。


■「1910年前後のチベット―四川軍のチベット進軍の史的位置―」(小林亮介)
(内容要約)
清朝チベット現地政権(ダライ・ラマ13世政権)の自主性を認める間接支配を行ったが、1910年、より中央集権的な支配とするため、現地政権の反対を押し切って、四川軍のチベット進軍を実行した。しかし、これに反発したダライ・ラマ13世はインドに亡命、対立姿勢を明確にする。
・1911年の辛亥革命で、清朝は崩壊し、ダライ・ラマ13世はチベットに帰国する。1913年、インドのシムラで、イギリス、中華民国チベット三者会議(シムラ会議)が行われるが、結局チベットの国際的な地位(中華民国の領土なのか、独立国家なのか)は決定しなかった。チベットはあいまいな立場(中華民国は内政の混乱からチベットに介入できる力がなかった。しかし、チベットの独立は認めなかった。チベット側も独立を国際社会に認めさせるだけの力を持たなかった)のまま、近代化改革を推し進めていく。
・中国側がチベットへの実質的支配権を再び得るのは中華人民共和国建国後のことである。


■歴史のひろば「社会福祉歴史学―池田敬正『日本社会福祉史』以降―」(杉山博昭)
(内容要約)
・池田敬正『日本社会福祉史』(1986年、法律文化社)は現在でも社会福祉史研究の古典と言われる名著である(ただし、一般には池田は『坂本龍馬』(1965年、中公新書)の著者として有名)。
・池田『日本社会福祉史』以降の注目すべき研究として筆者は次のようなものを上げている。

【右翼・保守思想と社会福祉
小倉襄二『右翼と福祉』(2007年、法律文化社
遠藤興一『天皇制慈恵主義の成立』(2010年、学文社

【植民地と社会福祉
沈潔『「満州国」社会事業史』(1996年、ミネルヴァ書房
朴貞蘭『韓国社会事業史』(2007年、ミネルヴァ書房
大友昌子『帝国日本の植民地社会事業政策研究』(2007年、ミネルヴァ書房