今日のMSN産経ニュース(1/4分)(追記・・訂正あり)

■首相の拉致認定「再検討」指示…立ちはだかる壁、振り回される家族
 また菅首相の思いつきらしい。本当に困った人だ。
 それはともかく寺越外雄さん(既に故人)をなぜ拉致認定しなければいけないのか、拉致認定可能なのか記事を読んでもさっぱり分からない。
 外雄さんのお子さんが経済的に苦しい状況にあるとしてそれは拉致認定しなければ救えないのか?

子供の国籍取得には、(1)外雄さんの失踪当時の死亡取り消し(2)北朝鮮での死亡認定(3)婚姻認定(4)子供の出生認定−の手続きが必要。

 子どもさんが日本国籍を取得すれば窮状から救えると言いたいらしいが、(1)〜(4)、どれ一つとして拉致認定は無関係ではないのか?。拉致認定しなければ(1)〜(4)ができないわけでもなければ、拉致認定すれば(1)〜(4)が出来るわけでもないと思うが。

警察幹部は「本人が『拉致でない』と言っている以上、認定は難しい」との立場だ。本人とは外雄さんとともに北にいるのが判明したおいの武志さん(61)のことだ。

 私もそう思う。と言うか勝手に外雄さんを拉致認定などされたら既に生活の本拠を北朝鮮にしている武志さん(ウィキペ曰く「平壌市職業総同盟副委員長」という要職)が困った立場になると思うが、その点、産経一派はどう考えてるんだ?。

参考
ウィキペ「寺越武志」

1963年5月11日、13歳の中学生であった寺越武志は、叔父の寺越昭二(当時36歳)、寺越外雄(当時24歳)と能登半島沖へ漁に出たまま行方不明になる。
(中略)
その後の消息がつかめず戸籍上「死亡」扱いにされたが、1987年1月22日に寺越外雄からの手紙によって北朝鮮での生存が判明した。その後武志の父で昭二・外雄の兄の寺越太左エ門(1921年生まれ)と武志の母寺越友枝(1931年生まれ)は北朝鮮に渡り外雄・武志と再会。1997年7月1日、武志は金沢市を本籍として戸籍を回復した。以後友枝は彼に会うために数ヶ月に1度の割合で頻繁に訪朝するようになる。一方太左エ門は2001年7月に訪朝した際そのまま北朝鮮に留まり、武志一家と平壌市内で生活した。
 寺越武志はこの行方不明について、「自分は拉致されたのではなく、北朝鮮の漁船に助けられた」と話し、拉致疑惑を否定している。そのため、日本政府が認定する「拉致被害者」には含まれない。
 一緒に行方不明になった昭二は1968年に清津で死亡、外雄は1994年に亀城で死亡している。また太左エ門は2008年1月12日、平壌市の武志宅にて86歳で死去した。

【5/8追記】
 結局、「証拠が不足してる」と言う理由で認定はしないようだ。まあ、当たり前だ。