新刊紹介:「歴史評論」4月号

特集「時代の奔流と向かい合って生きた歴史家たち」
うまくまとまらないのでタイトル紹介だけのものが多い。
■「久米邦武事件―黎明期史学の受難―」(竹内光浩)
(内容要約)
・久米事件以前から、神道家と久米らは、重野「児島高徳論」*1、久米「太平記は史学に益無し」で対立していたと言う指摘は重要だろう。


■「朝河貫一と比較封建制論序説―個人資料に基づく史学史研究の試み―」(佐藤雄基)
■「西岡虎之助と『新日本史叢書』」(今井修)


■「清水三男の学問―戦時下の歴史研究と「国家・国民」への思い―」(久野修義)
(内容要約)
網野善彦は清水が治安維持法での検挙後、転向し、学風を(教条的マルクス主義的なものからより柔軟なものに)大きく変えたが、そのことに多くの歴史学者は注目してこなかったと主張している。しかしこうした網野の評価には従うことが出来ない。むしろ、そうした網野説に批判的な藤間生大や中村吉治の認識の方が適切である。
・検挙後の清水著作(「ぼくらの歴史教室」「素描祖国の歴史」)に時局迎合と見られる語句があるのは事実である。そうした語句は批判されてしかるべきであろう。しかしこれは清水の本心か疑問であり、いわゆる「奴隷の言葉」と見るべきであろう。網野のように清水が右転向したと見なすべきでない。


■「石母田正の一九五〇年代」(高橋昌明)
(内容要約)
・「石母田正の一九五〇年代」といえば「国民的歴史学運動」と「歴史と民族の発見」であり筆者もそれを取り上げているが私には上手くまとまらないので、指摘するにとどめる。


■「網野善彦の転換」(盛本昌広
(内容要約)
・筆者は網野の「自分の転換点は1953年であった」と言う文章を取り上げているがどう転換点であったか良くわからなかったので指摘するにとどめる。

【参考】
 ウィキペ、コトバンクの久米らの紹介。

久米邦武(1839〜1931)
 維新後は明治政府に出仕。明治4年1871年)、岩倉使節団の一員として欧米を視察。帰国後に、『米欧回覧実記』を編集。
 その後、太政官の修史館に入り、重野安繹と共に「大日本編年史」など国史の編纂に尽力する。明治21年1888年)、帝国大学教授兼臨時編年史編纂委員に就任、重野らとともに修史事業に関与する。在職中の明治25年(1892年)、田口卯吉の勧めにより雑誌『史海』に掲載した論文「神道ハ祭天ノ古俗」の内容が問題となり、公職を辞任した(久米邦武筆禍事件)*2明治28年(1895年)、大隈重信の招きで東京専門学校(現・早稲田大学)に入り、大正11年(1922年)に退職するまで日本古代史や古文書学を講じた。

朝河貫一(1873〜1943)
■業績
 第一に「歴史学者」としての業績がある。古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として欧米で評価され、後にイェール大学教授となった。特に「入来文書」の研究が有名。
 第二に「平和の提唱者」としての業績がある。1941(昭和16)年11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った。
 第三に「キュレーター」としての業績がある。1906年の第1回帰国では、米国議会図書館、イェール大学の依頼で日本東アジア関連図書・資料の収集を行った。イェール大学図書館には、『手鏡帖』、『青蓮院尊円法親王御筆』、『竹取物語』、『厳氏孝門清行録』、『烈女傳』、『伊勢物語』等が所蔵されている。これらの図書・資料は、欧米での日本研究や東アジア研究に必要不可欠なものとなっている。

西岡虎之助(1895〜1970)
 大正10年母校東京帝大の史料編纂掛に入り、荘園制の研究につとめる。戦時下でも歴史における民衆の生活、文化面の研究の重要性を主張した。昭和29年早大教授。著作に「民衆生活史研究」「荘園史の研究」など。

清水三男(1909〜1947)
 京都市下京区生まれ。京都府立第一中学校、第三高等学校を経て、1931年に京都帝国大学文学部卒業。義兄・中村直勝の影響と、京大での指導教官三浦周行の指導で荘園研究を行った。卒業論文は「封建制度の成立に関する一考察」。1931年同大学院に進学、西田直二郎の指導を受ける。同窓に赤松俊秀。唯物史観の立場にたって中世封建社会成立についての研究を進めた。
 1935年、和歌山高等商業学校(現在の和歌山大学)教員となる。1938年に治安維持法違反で逮捕、翌年釈放され、牧健二に雇われて助手となる。その一方で、中世村落史の研究に従事。1943年に陸軍に応召、敗戦後シベリア抑留。抑留先で急性肺炎のため死去したと伝えられる。没後、『清水三男著作集』全3巻(校倉書房)が刊行されている。

石母田正(1912〜1986)
 1947年から法政大学法学部講師、1948年に同教授。
 代表作である『中世的世界の形成』は戦前に脱稿していたが、戦時中の空襲で自宅と共に原稿は焼失した。しかし、敗戦により今こそ発表すべきと考えた石母田は自宅にこもり、雨戸を閉め切ったまま一夏で再び書き上げたという「神話」は今でも有名。岩波書店より『石母田正著作集』(全16巻)が、青木和夫らの編で刊行されている。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/nk/ishimota.html
石母田正先生のこと
二村一夫
 人生の転機に、一度ならず二度三度と決定的な影響を受けた人について語るのは、その人より自分自身について多くを言うことになる。しかし、それ抜きに先生の思い出を書くことは出来そうもないので、私ごとが多くなるのをお許しいただきたい。
 あの『歴史と民族の発見』が刊行されたのは私が大学に入った年の3月であった。そこに収められた一編一編に深い感銘を受け、進学のコースを決めるとき迷わず国史学科にしたのもそのためであった。ただ、すでにうたごえ運動などというものに深入りしていたから、国民的歴史学の運動に加わった経験はない。しかし、その後研究テーマを決めるときに、この本は小さからぬ意味をもった。また〈敵手の偉大さ〉について教えられたことは、常に論敵を設定して研究を進める傾向として、いまだに痕跡を残している。
 進学した国史学科はまったく期待に反した。勉強したい近代史の講義がひとつもなかったのである。もっとも歌ばかり歌ってろくに教室には出なかったから、それほど文句を言えた義理ではない。それでもいざ卒業となると、もう少し勉強したいと思うようになった。法政の大学院を選んだのは、資料の宝庫である大原社会問題研究所の存在とともに、政治学専攻の修士課程が新設され、そこで石母田先生が教えられることを知ったからである。「『歴史と民族の発見』で道を誤ったので、その貸しを取り立てに来ました」と初対面のあいさつで言い、先生を苦笑させた。
 ゼミではエンゲルスの『反デューリング論』、『イギリス労働者階級の状態』、それにマックス・ウェーバーの『権力と支配』などを読んだ。新設のため全員が一年生というゼミの議論は幼かった。しかし私が勉強らしい勉強をしたのはこの時がはじめてで、先生の一言一言に目がひらかれていく思いであった。なかでも「若い時は何よりも自己が生涯かけて解決すべき問題を発見する時期だ。〈答え〉は〈問い〉の中に半ばは含まれている。今は答えを探すより、解くべき問いをなるべく数多く見つけなさい」と教えられたことは強く印象に残った。
 修士論文を出した直後、先生に呼ばれて大学院六階の研究室に行った。「助手試験があるから受けてごらん」と思いがけない一言であった。この言葉がなければ、私の人生はまったく違うものになっていたであろう。好運にも助手に採用され研究者の卵となった私に、先生はきわめて具体的な注意を与えられた。
「書物は研究者にとっての大工道具である。よい道具を揃えなければ、良い仕事はできない。道具を揃えるのに金を惜しんではならない。必要な金は原稿を書いて稼ぎなさい」。
 結納の金まで本に使ってしまった先生らしい教訓であるが、最後の一句は無能で怠惰な弟子への危惧の念からつけ加えられたものであろう。はたして原稿が書けずにいると、先生はまた言われた。
「動揺はあってもよい、中断さえも仕方がない、しかし仕事を放棄してはならない」。
 これは先生自身の信条でもあったが、不肖の弟子はこの言葉を自分勝手に解釈して、いささか安心してしまった。仕事を完成させないことと仕事を放棄しないことを同じことのように思い込んだのである。先生の指導で始めた研究を十数年間も中断し、その後完了間近なところまでこぎつけ先生への献呈辞まで書きながら、本にまとめることを一日延ばしにしているうちに逝かれてしまった。何とも無念である。
 1973年秋、先生はパーキンソン氏病という難病にかかられ、以後12年におよぶ闘病生活が始まった。最後まで思考力にはいささかの衰えもみせなかったが、動作が著しく不自由となられた。戦前は出版社での勤務の合間に研究し、戦後は民科や歴研、さらには学部長、図書館長、学務理事などの活動に追われ、いつも「勉強する時間が欲しい」と思い続けてこられた先生が、時間はあるのに執筆できない苛立たしさは想像をこえた。しかし、先生はただの一度も愚痴をこぼされなかった。われわれに対してだけでなく、日常生活では我侭を言い続けてこられた奥様にさえそうであったという。だからといって、先生は決して研究生活を諦めていたわけではない。いつも聞かされたのは「80歳まで生きる。生きて概説を書く。概説こそ歴史家の最終目標だ」という言葉であった。
 1930年、17歳のとき、同窓の二高生の思想状況を分析批判する論文を書き、マルクス主義者としての自己の立場を表明された先生は、その後いかなる状況におかれてもその立場を貫き通された。現実が与える課題を避けず、誤りを恐れずに立ち向かわれた先生に、一時期、批判者は少なくなかった。しかし先生は言い訳をせず、最後は作品によって、またその生き方によって批判に答えられた。見事な、堂々たる生涯であった。

網野善彦(1928〜2004)
 1950年3月に東京大学文学部国史学科を卒業。同年4月から澁澤敬三が主宰する財団法人日本常民文化研究所の月島分室に勤務した。1954年に水産庁からの予算打ち切りが決まると同研究所を辞し、翌1955年4月から永原慶二の世話で東京都立北園高等学校の非常勤講師(日本史)として勤務。1956年6月、正式な教諭となり、日本史の授業以外にも社会科学研究会や部落解放研究会などの顧問を務める。同校では部落解放研究会顧問を務める傍ら、東京大学史料編纂所に通って古文書を筆写、1966年に『中世荘園の様相』(塙書房)を著す。
 1967年1月に同校を退職し、同年2月に名古屋大学文学部助教授に就任。1973年には中世史研究会発足に参加している。1978年に『無縁・公界・楽――日本中世の自由と平和』(平凡社)が学術書としては異例のヒットを記録。
 1979年、神奈川大学日本常民文化研究所を招致することが決まり、名古屋大学を辞任し、1980年10月に神奈川大学短期大学部教授に就任。
 1993年4月に神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科を開設し、1995年から同大学経済学部特任教授となり、1998年3月に定年退職。
■業績
 中世の職人や芸能民など、農民以外の非定住の人々である漂泊民の世界を明らかにし、天皇を頂点とする農耕民の均質な国家とされてきたそれまでの日本像に疑問を投げかけ、日本中世史研究に大きな影響を与えた。また、中世から近世にかけての歴史的な百姓身分に属した者たちが、決して農民だけではなく商業や手工業などの多様な生業の従事者であったことを実証したことでも知られている。その学説には批判もあるが、日本史学民俗学からのアプローチを行い、日本史学に学際的な研究手法を導入した功績は広く認められている。


■「近世「壱人両名」考:身分・職分の分離と二重身分」(尾脇秀和)
(内容要約)
「壱人両名」とは「一人の人間が二つの名前を持っていること」を意味する日本近世史の用語である。
筆者は具体例として次のようなものを上げている。
・町人身分の播磨屋新兵衛が医師としては「山本玄蕃」を名乗った。
こうした「壱人両名」は本来違法行為だったが、様々な理由からあまりにも社会に蔓延して処罰がかえって混乱を生む危険性が出たため、「壱人両名」それ自体が処分されることはあまりなく、「壱人両名」が問題を引き起こしたときのみ、処分するというきわめて便宜的な対応を幕府、藩はしていた。

*1:重野は児島非実在説を唱えたが、これは南朝の忠臣・児島を侮辱するものと右派の反発を生んだ。

*2:ウィキペにはこれしか書いてないが、久米の辞任だけでなく、修史編纂事業の中止と編纂委員長・重野の辞任ももたらした