大会報告特集号「世界史認識と東アジア」
■「朝鮮の植民地化と東アジア」(糟谷憲一*1)
(内容要約)
・日本による朝鮮植民地化の説明。
糟谷氏の報告は「朝鮮植民地化は日本が主体的に選んだ選択で必然ではなかった」「日本の朝鮮植民地支配は朝鮮人民の抵抗を力で排除して行われた」「朝鮮には内部改革の動きがあり停滞一途というわけではなかった」「日本の植民地支配は日本の利益を第一としたもので必ずしも朝鮮人の利益に合致していたわけではなかった(もちろん近代化は結果的に朝鮮の利益と成ることもあったので暗黒面だけで描くことは妥当でないが。ただしどこの国でも植民地支配とはそう言うものでそれを理由に植民地支配を正当化はできないだろう)」と要約できるだろう。
ただ、「よほどの極右でない限り、糟谷氏の主張は認めるのではないか?」と思うが日本人一般ではそうでもないのだろうか。
【朝鮮の内部改革の例】
日本がバックの改革は内部改革と言えるか多少微妙な気もするが。
ウィキペ「甲午改革」
朝鮮で1894年から1895年にかけて行われた急進的な近代化改革。1894年に甲午農民戦争が起こると、日本は朝鮮に出兵、景福宮を占領し、開化派を中心とした金弘集政権が誕生する。7月27日に改革の中心機関として軍国機務処が設置され、次のような改革が進められた。
「中国の年号をやめ、開国紀年に変更。宮内府と議政府の分離。六曹(吏曹、戸曹、礼曹、兵曹、刑曹、工曹)を八衙門(内務、外務、度支(財務)、軍務、法務、学務、工務、農商務)に再編。科挙の廃止。封建的身分制の廃止。奴婢の廃止。人身売買禁止。拷問廃止。罪人連座法廃止。早婚禁止。寡婦の再婚を許諾。財政改革。租税の金納化。通貨の銀本位制。度量衡の統一。議政府を内閣とし近代的な内閣制度を導入。洪範14条の発布。八道を二十三府制に変える地方制度改革。税制制度改革。近代的な警察・軍事制度の確立。司法制度の近代化」
ところが、1895年5月に政権内部の対立で、金弘集内閣が崩壊。三国干渉の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、王妃の閔妃を中心に親露派の力が強まった。その後は親露派の内閣が生まれ、改革は停滞することとなった。
ウィキペ「乙未改革」
朝鮮で1895年から1896年にかけて、日本の影響力の下で行われた、急進的な近代化改革。1894年から1895年にかけて行われた甲午改革の後を引き継いだものだが、乙未改革を甲午改革の一部として、全体を甲午改革と呼ぶこともある。
1895年に日清戦争で日本が勝利したが、三国干渉の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、王妃の閔妃を中心に親露派の力が増した。その結果、日本の影響力の下で行われていた甲午改革は停滞することとなった。しかし、閔妃が暗殺(乙未事変)されると、金弘集内閣は急進的な近代化改革を再開した。断髪令、旧暦から太陽暦への変更、新しい年号「建陽」の制定、小学校の設立、郵便網の整備、種痘法の施行、軍制改革などが行われた。しかし、これらの急進的な近代化改革は、守旧派の激しい反発と抵抗を招き、1896年2月11日には、国王の高宗がロシア公使館に移り(露館播遷)、金弘集は暗殺され、乙未改革は終った。
ウィキペ「独立協会」
1896年から1898年まで李氏朝鮮にあった開化派の運動団体。朝鮮における立憲君主制導入を目指した。独立協会の主張は次第に守旧派官僚との対立を招き、最終的に皇帝・高宗の勅令により解散させられた。
■「竹島/独島論争とは何か―和解へ向けた知恵の創出のために―」(池内敏*2)
(内容要約)
・池内氏は近年、「竹島一件の再検討−元禄6〜9年の日朝交渉」(『名古屋大学文学部研究論集』史学47、2001年)、「前近代竹島研究序説−『隠州視聴合紀』の解釈をめぐって」(『青丘学術論集』25、2005年)(いずれも後に『大君外交と「武威」:近世日本の国際秩序と朝鮮観』(2006年、名古屋大学出版会)に収録)など竹島に関する論文をいくつかを発表しているようだ。
・せっかくなのでこの機会に竹島・韓国説に立っていると思われる半月城通信氏のサイト(http://www.han.org/a/half-moon/)を紹介しておく。後でこのサイトを読もうかとは思う。ああ、それと半月城氏の文章が掲載されている『マンガ「嫌韓流」のここがデタラメ』(コモンズ)も書名だけ紹介しておく。興味のある方はお読みになるとよろしかろう。
『マンガ「嫌韓流」のここがデタラメ』については、以前「【ネタ】アホにも程がある「嫌韓流」」(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20100302/1267534795)で簡単に触れた。
・竹島(以下、併記は面倒なので全て日本側呼称の竹島と記載する)論争についての池内氏の主張を一つ一つ見ていく。
1)于山島は竹島か
池内氏は韓国側の「于山島は竹島」と言う主張に対し、「于山島は竹島」と解釈することが困難な文献があるため成り立たないと否定する。
2)元禄竹島一件(大谷家、村川家の竹島渡海に関する事件)をどう理解するか
池内氏は幕府が竹島*3渡海禁令を出したことを「竹島渡海禁令*4には松島渡海禁止と書かれてはいないがそう理解するのが適切である」「松島(今の竹島)を日本領と幕府が認識していたらこのような禁令は出さないだろう」とし、この事件を竹島を自国領と主張する韓国側にとって有利な歴史的事件と理解する(ただし池内氏は「松島(現在の竹島)を幕府が朝鮮領と認識していた」とは見ず「無主地」認識していたと見る)。
3)安龍福の存在をどう認識するか
池内氏は安の主張はその主張を裏付ける客観的な資料が乏しい上、彼の主張が事実だとしても、李氏朝鮮政府は彼の主張に従い、竹島を領土化する行為を取ったわけでもない以上、竹島・韓国領の根拠としては使えないとする。
4)「隠州視聴合紀」の「此州」とは何か
竹島・日本領を唱える論者の一部からは「此州」とは「鬱陵島」と主張され、竹島・韓国説を唱える論者の一部からは「此州」とは「隠岐国」と主張される。池内氏は「此州=隠岐国」であり、「鬱陵島ではない」と主張する。したがって「隠州視聴合紀」の著者*5は竹島を日本領とは思っていなかったと考えられる。江戸時代の日本人に竹島を日本領と思っていなかった人間がいると言うことは韓国側にとって有利な歴史的事件といえるだろう。
これについては半月城氏の池内主張紹介も紹介する。
http://www.han.org/a/half-moon/hm113.html#No.844
■『隠州視聴合記』の最新解釈
池内氏は『隠州視聴合記』の文脈からすれば、議論するまでもなく日本の乾(北西)の地は明確に「隠州」であると考察しました。
しかし「溺れる者はワラをもつかむ」という諺もありますが、「日本の固有領土」説にこだわりすぎると、時として我田引水的解釈をするエセ学者が出てくるものです。田川孝三氏はこう記しました。竹島の地は、是より高麗を見ること 恰(あたか)も雲州より隠州を見るが如くである。上記の如くであるから、すなわち、日本の乾の方の限界は此の州(州はシマの意である)なのであると釈読しなければならぬ。故に従前の諸書にも地図にも、この意味の如く解して書して来ているのである(田川孝三「竹島領有に関する歴史的考察」『東洋文庫書報20』1988,P42)。
この説は見るからに根拠薄弱であり、検討する価値も疑問ですが、それでも池内氏はまじめに次のように批判しました。
この史料解釈は、「高麗を見るに雲州より隠州を見るが如し、然らば則ち、日本の乾の地は、此州を以て限りとなすなり」の「高麗を見る」位置について、「この二島(鬱陵島と竹島/獨島ー池内注)から高麗(韓国)本土を望見する」とした韓国政府見解の誤読に対し、「鬱陵島(竹島)から見て」と訂正するものである。
しかしながら、「然則」で挟まれた前後だけを抜きだして読んだために「此州」の主語が「見高麗」の主語と一致すると錯覚し、ために「州」を「島」と読み替えざるをえなくなったのである。
ところで右に引用した文中で田川のいう「従前の諸書」「地図」とは「隠岐国古記」と長久保赤水「日本輿地路程全図」(そのなかの竹島傍注)のことである。
これらは確かに竹島(鬱陵島)から朝鮮半島が見えると記されている。しかし、そのことは、「竹島(鬱陵島)と高麗」「出雲と隠岐」それぞれが互いに視認できる位置関係にあることを示しているだけであって、竹島(鬱陵島)が日本領だなどとはどこにも書いていない。
したがって「すなわち、日本の乾の方の限界は此の州(州はシマの意である)なのであると釈読しなければならぬ」などというのは願望をそのまま決意表明したに過ぎないのである。
「州」に「島」の意味があるのは一般論としてはそのとおりである。しかし田川は、「隠州視聴合紀」中に数多くある「州」のうち右の部分だけは「島」と解さねばならないことについて、何らの客観的検討もしておらず、これでは論として成り立ちようがない。(池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』第25集,2005,P145)(中略)
恣意的な解釈は下條正男氏*6も負けないようです。下條氏は愼𨉷廈氏を批判して「『隠州視聴合記』から自説に都合のよい個所だけを抜きだして解釈し、「国代記」の文章全体を読んでいなかった」と書きましたが、ご自身はどうなのか、それが問題です。池内氏は、細部は割愛しますが、下條氏をこう批判しました。下條正男説は結局のところ「見高麗 如自雲州望隠岐、然則日本之乾地 以此州為限矣」だけを抜きだして読み、誤解した、田川孝三の同じ轍を踏んでいる。
先述したように「見高麗 如自雲州望隠岐」のどこにも竹島(鬱陵島)が日本領とは書いていないばかりか、「隠州視聴合記」すべてを精読してもそのような記述は出てこない。
にもかかわらず、「『高麗を見ること雲州の隠州を望むがごとし』は、高麗(朝鮮)を見ている位置は当然日本領と認識しているわけで、竹島、鬱陵島、隠岐島の中で雲州(島根)から隠岐島を見るように朝鮮が見えるのは、鬱陵島だけしかない(下條正男「竹島問題考」『現代コリア』361,1996,P69)」とか「日本領から高麗(朝鮮)が望めるのは、「国代記」の中では鬱陵島だけである(下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004)」などとするのは、竹島(鬱陵島)を日本領とする思いこみである。
そうした思いこみの補強説明として、「『隠州視聴合記』が書かれた当時の出雲藩には、竹島(鬱陵島)を日本領として認識するだけの事情があった(下條正男『竹島は日韓どちらのものか』文春文庫,2004))」という。その主たる論拠は、米子の大谷・村川両家が竹島渡海を繰り返していた事実が『隠州視聴合記』に記載されているというところに求められている。
たしかに、大谷・村川両家は、「竹島渡海免許」を受けて、年に一度、竹島(鬱陵島)へ渡海し、数ヶ月同島に滞留しながら漁業活動を行った。大谷・村川両家は、竹島(鬱陵島)および松島(竹島/独島)を将軍家から拝領したと述べているから、これをもって日本領と認識したと考えがちである。
しかしながら、「竹島渡海免許」は、大谷・村川両家が同業の競合者を排除するために、旗本阿部家を介して得た「渡海免許」であり、したがって竹島(鬱陵島)へ大谷・村川家および同家に雇われた者以外は渡海できなかった。
また竹島(鬱陵島)へは毎年一度渡海したのみであって、漁期が終われば鳥取藩領に戻ったから、誰もそこに居住しなかった。こうした状態は、客観的にみたときに「日本領」であったとは言いがたい(池内敏「前近代竹島の歴史学的研究序説」『青丘学術論集』第25集,2005,P159)。池内氏は、田川氏や下條氏は「竹島(欝陵島)を日本領」とする思いこみから『隠州視聴合記』を誤読したと解釈していますが、あるいは両氏は「竹島(欝陵島)を日本領」にしたいという願望が先にたっていたのかも知れません。
(中略)
池内氏は、さらに内藤正中氏*7の説などもすべてを検討し、結論として『隠州視聴合記』は「竹島/独島の帰属を示す歴史的根拠として使用することは日韓いずれの側にとっても適当ではなく、そうした議論の現場から退くべきものなのである」と記しました。
結局『隠州視聴合記』の解釈は、日本の限界は隠州であり、竹島(欝陵島)と松島(竹島=独島)は異国の地になるという結論になるようです。日本政府はそれを承知してか、「誤読」という韓国側のきびしい批判にダンマリを決めこんでいるようです。
5)大韓帝国勅令41号(1900年)の解釈
竹島・韓国領を唱える論者の一部はこの勅令に出てくる「石島」とは「竹島」のことで、当時の韓国政府が竹島領有の意思を示したものだと解釈するが「そうした解釈の可能性があること」は否定しないが、現時点ではそれは一つの可能性にとどまると池内氏は主張する。
6)太政官の明治9年(1876年)の島根県への回答の解釈
池内氏は太政官回答(「竹島を日本領と解釈すべきか」という島根県の質問に対し「日本領ではない」と回答した)は「少なくともこの時点では太政官は竹島を日本領と認識していなかった証拠」とみなし、この事件を韓国側にとって有利な歴史的事件と理解する。
7)竹島を島根県に編入した島根県告示40号(1905年)の解釈
韓国側は韓国に通知なく告示されたため無効と主張するが当時の国際法上そうした義務はないため、道徳には反するかも知れないが告示自体は合法有効であると解釈せざるを得ない。しかし、それは「日本が竹島を江戸時代から自国領と認識していたと言うこと」を意味しないことに注意が必要と池内氏は主張する。
すでに紹介した2)、6)、及び「最終的には日本政府に竹島の貸下げ願いを提出した中井養三郎(島根の漁業者)が当初は、竹島の貸下げ願いを韓国政府に提出することを考えていたこと」(堀和生「1905年日本の竹島領土編入」朝鮮史研究会論文集24(1987年))から、「日本が竹島を江戸時代から自国領と認識していたと言う主張」に池内氏は否定的である。
・なお、この告示をいわゆる「無主地先占」と見なすことに池内氏は否定的である。
8)いわゆるマッカーサーラインの根拠となったSCAPIN677号、1033号の理解
ウィキペ「SCAPIN」
SCAPIN(Supreme Command for Allied Powers Instruction Note、スキャッピン)とは、連合国軍最高司令官(SCAP)から日本政府宛てに出された訓令。
日本の行政権の行使に関する範囲に言及した第677号において、竹島、千島列島、歯舞群島、色丹島が除かれているため、戦後竹島を実効支配する韓国と、千島の択捉島・国後島と歯舞群島・色丹島を実効支配するロシアは、この文書を自国の領有根拠の一つとしている。
(中略)
第1033号「日本の漁業及び捕鯨業に認可された区域に関する覚書」によって、太平洋戦争終戦後の日本漁船の活動可能領域が定められた。マッカーサー・ラインとして知られる。この覚書では、竹島周囲12海里以内の地域を日本の操業区域から除外する一方、「この認可は、関係地域またはその他どの地域に関しても、日本の管轄権、国際境界線または漁業権についての最終決定に関する連合国側の政策の表明ではない」との文言も盛り込まれており、主に領土問題において頻繁に議論の的となる。
なお、後に韓国の李承晩大統領によって宣言された「李承晩ライン」はこの第1033号によって画定されたマッカーサー・ラインを踏襲したものである。
SCAPINを単純に解釈すれば韓国側のような理解しか出ないだろう。
一方日本側はどう主張するかというとそれもウィキペ「SCAPIN」に書いてある。
しかし、SCAPの上部組織である極東委員会には軍事作戦行動や領域の調整に関する権限が与えられていない。それを踏まえてこの文書の第6項には「この指令中の条項は何れも、ポツダム宣言の第8条にある小島嶼の最終的決定に関する連合国側の政策を示すものと解釈してはならない。」と、これが暫定的な指令である旨が明示されている。事実、この文書で竹島などと同様に日本の施政権が停止され、アメリカに実効支配されていた琉球列島や小笠原諸島などが後に日本の施政権下に復帰している。
また、SCAPIN677が発令された半月後の1946年2月13日に行われた日本との会談において、GHQはSCAPINが領土に関する決定ではないこと及び領土の決定は講和会議にてなされると回答している。
要するに「暫定措置だ」「講和会議で決まるんだ」「講和会議で竹島は韓国に帰属しなかったら韓国領じゃないんだ」と言う話である。
池内氏はこの件については日本側の主張が正しいのではないかとしながらも、そこから一気に「竹島は日本領」とは言えないと主張する。
というのは当初の講和会議草案では「竹島=韓国領」であったからである(最終的にどこの国に帰属するかは決定されなかった。「放棄してないから日本領」と言う主張もあるが、そう見るより竹島の帰属をはっきりさせることにより日韓と対立することを恐れたアメリカがどうとでも理解できる文言で片付けたと見る方が妥当だろう。そうした政治的背景がある上、綿密な論理展開をしているわけでもないのでいわゆるラスク*8書簡は「竹島・日本領の根拠には使えない」「当時のアメリカが韓国の主張を支持しなかったと言う事実」を示すものでしかないと池内氏は主張する)
(結論)
・現時点では、日本側の主張も韓国側の主張も決定的な証拠はなく「竹島問題のさらなる歴史的研究」が必要である(なお領土問題の解決に話を限定すればこの際歴史的根拠に拘らない解決と言うことも考えられる)。「竹島は我が国固有の領土」という日韓両国政府の主張は「100%間違いのない事実」として学校教育で教えて良いようなものではない。
池内報告の「和解へ向けた知恵」とは「とりあえず現時点では両国とも自国領とする歴史的主張は根拠薄弱でさらなる研究が必要と認めようぜ」「学校教育で間違いない事実と教えるのはやめようぜ」「いっそ、歴史的経緯と関係ない解決方法でもいいんじゃね?(島を北は韓国領、南は日本領といったように二つに分けるとか、共有領土にするとか、島根の漁業に配慮してもらった上で日韓友好のため韓国領と認めるとか)」ということらしい。
(参考)
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2006-12-02/2006120212_01faq_0.html
赤旗
〈問い〉
志位和夫委員長が先日の韓国訪問で、竹島問題についてのべた、日本の主張の「歴史的根拠」、「韓国側の主張」とは?(東京・一読者)
〈答え〉
◆日本の主張の「歴史的根拠」
17世紀以降、日本人が竹島(当時は松島と呼ばれていた)に渡ってサザエ漁やアワビ漁などの経済活動をおこない、この島についての正確な知識を持っていたということは、文献的にも確認のできる歴史的な事実です。1905年の竹島の領土編入は、この島についての歴史的な権原を持つ日本が、国際法に基づいて自国領土に編入した、と解釈することができます。しかし、それだけでかたづけることのできないさまざまな問題が残されています。
◆韓国側の主張は
6世紀以来の韓国側の文献で、独島(竹島の韓国名)は韓国固有の領土であるとしています。しかし日本側は、それらの文献に現れる「于山島」や「三峯島」が現在の独島(竹島)であるかどうかは、かならずしも明確ではない、と批判しています。
また韓国側は、日本が明治の初期に、いったんは竹島(当時の松島)を自国領土とは「無関係」であると決定したことを重要視しています。
日本が竹島を領土編入した1905年という年は、日本が朝鮮半島を植民地化する過程と重なっていました。この時点ですでに(注:統監の許可無しでは外交ができないとする1905年の第二次日韓協約によって)事実上外交権を奪われていた韓国は、国際的に異議を唱える手段を奪われていました。こうした歴史的背景があるにもかかわらず、日本政府が、かつての侵略戦争や韓国植民地支配をどう見るかについてあいまいな態度をとっていることが、この島をめぐる問題を複雑にしています。竹島問題解決の前提としても、日本政府の歴史認識が正されることが求められています。
その前提のうえで日韓両国が、この島をめぐる歴史的事実とその認識を両国の国民が共有できるようにするための共同作業をおこない、納得のできる方向で問題の解決を図ることがめざされる必要があります。
同時に、そうした根本的な問題解決の以前にも、漁業問題など、両国民の利害に直接かかわる問題では、共存・共栄の精神で漁労と資源保護などをおこなうことは可能であると考えます。排他的経済水域(EEZ)設定問題や、島周辺での海洋調査などについても、それぞれの国が自国の利益のみを主張するのではなく、両国の共通の利益を見いだす方向で協力がすすめられるべきで、万が一にも軍事的衝突などがあってはなりません。
侵略戦争や植民地支配に対する日本側の歴史認識が正されて両国間に真の善隣友好関係が確立され、竹島をめぐるさまざまな共同作業が積み重ねられていけば、将来的に、この島をめぐる日韓の協調的な対応ということも議論される日がくるかもしれません。
【追記】
後に池内氏はこの歴史評論論文を含む論文を著書「竹島問題とは何か」(2012年、名古屋大学出版会)としてまとめている。主張それ自体は、「歴史評論論文をより詳細にしたもの」と考えればよろしい。結論も「日本の主張も韓国の主張も支持できない」というものである。
なお、池内本のアマゾンレビューを紹介しておく。
論証の過程がとても緻密なのである。
(中略)
それはたとえば『穏州視聴合記』にある「然則日本之乾地、以此州為限矣」の「此州」がどこを指すかが従来問題とされていたが、池内さんは、この資料の中での「州」あるいは「島」の用法をすべてあげ、その「州」が当時の竹島(鬱陵島)ではなく隠岐国のことであるとした。また、韓国の古地図にある、「于山島」=竹島とされてきた説に対し、これを100枚以上の古地図を調べ、そうでないことを証明したなどである。「竹島」は古来鬱陵島の付属島として考えられてきた。その鬱陵島に対し幕府は何度も日本領でないことを認め、渡航を禁じてきた。竹島が日本領となるのは1905年、ちょうど韓国が保護国化される手前で、これが日本の植民地化の過程の一つとして問題になるのだが、そのころまでは日本も日本領とは考えていなかったのである。一方韓国も、一時は空島化政策がとられていたほどで(そのため自然が保護された)領土意識はなかったが、日本が「先占」するのとほぼ同じころに領土意識をもつようになっていったようだ。だから、結論としては、どちらにとっても「固有の領土」ではなく、20世紀初頭になって領土意識が芽生えたのである。また、サンフランシスコ条約で「竹島」の帰属が日本と韓国の間でどんどん変わっていったことと、それに絡むラスク書簡の判断の根拠を問題にする。それは要するに、本当はどちらのものとも言いかねるという結論になるのである。ここからどうすべきか。道はおのずと示されているが、池内さんはそれ以上を語らない。
■「「東アジア史」再考―日本古代史研究の立場から―」(山内晋次*9)
(内容要約)
東アジアという枠組みは有効であるが、それにとらわれると見えてこないものがあるのではないか。この枠組みだと中国、日本、朝鮮の三国関係に着目し、それ以外の関係が抜ける危険性がある。
1)例えば7世紀後半の唐が朝鮮半島から撤退したのはもちろん新羅の抵抗も理由だろうが、吐蕃(現在のチベット)との戦争で朝鮮に軍事力をさく余裕がなかったとする説も有力である。
しかし、吐蕃は東アジアではないので、東アジアにとらわれすぎるとそうしたことは見えなくなるであろう。
2)日宋貿易で日本が宋に輸出した有力商品の一つは硫黄であった。では何故大量の硫黄を中国は欲したのか。これも東アジアだけに注目したのでは見えてこないと筆者は言う。
筆者の理解では西夏(現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)。東アジアというよりは中央アジア)との戦争で宋は大量の火薬が必要となり、そのために日本から火薬の原料である硫黄を大量に輸入したのだという。
■「「華」はどのように「夷」を包摂したか」(井上徹)
(内容要約)
・明清時代、特に明代の広東を中心に「華」(中華帝国)が如何に「夷」(広東の場合はヤオ族)を包摂(同化=儒教化)したかを説明。
■「近世琉球の自意識―御勤と御外聞―」(渡辺美季*10)
(内容要約)
・近世の琉球政府には琉球は、小さいながらも清(中国)、徳川幕府(日本)への「御勤」(ある種の奉公関係)を担う、重い「御外聞」(琉球の評判)を有する国であるという自己認識が存在した。そして、薩摩藩はこの「御勤」への協力者として位置づけられた。こうした琉球の自己認識は幕府や薩摩の側もある程度、共有するものであった。1709年、幕府は琉球使節の参府を無用としたが、薩摩は「琉球は清の朝貢国の中で朝鮮に次ぐ高い席時の国であり、参府は幕府や薩摩の威光にもなる」と主張し、幕府もその薩摩の主張を結局受け入れている。
■書評「笠原十九司*11『日本軍の治安戦―日中戦争の実相』」(本庄十喜)
(内容要約)
・本書は岩波シリーズ「戦争の経験を問う」全13巻の1冊。ちなみにほかの12冊は次の通り。
山田朗*12「兵士たちの戦場――体験と記憶の歴史化」
吉田裕*13「兵士たちの戦後史」
リ・ナランゴア「ネイションの模索――近代モンゴルと日本」
中野聡「東南アジア占領と日本人――帝国・日本の解体」
根本敬「抵抗と協力のはざま――近代ビルマ史のなかのイギリスと日本」
倉沢愛子*14「資源の戦争――「大東亜共栄圏」の人流・物流」
高岡裕之「総力戦体制と「福祉国家」――戦時期日本の「社会改革」構想」
河西英通*15「せめぎあう地域と軍隊――「末端」「周縁」軍都・高田の模索」
大串潤児「「銃後」の民衆経験――地域における翼賛運動 」
中村秀之*16「〈特攻隊〉の系譜学――イメージと語りのポリティクス」
河田明久「戦争のディスプレイ――アジア・太平洋戦争と大衆消費社会」
成田龍一*17「「戦争経験」の戦後史――語られた体験/証言/記憶」
・「治安戦」とは「日本軍が確保した占領地の統治の安定確保を実現するための戦略等の総称」であり、本書では華北での「治安戦」が取り上げられているため、本書においてはいわゆる「三光作戦」=「治安戦」と理解して良いであろう。
評者は笠原の研究を評価しながらも、笠原本が中国のみを取り上げていることを本書の問題点としている。
マレー・シンガポールでの華僑粛清(この分野については林博史の「華僑虐殺」(すずさわ書店)、「シンガポール華僑粛清」(高文研)がある)など、日本の他の占領地域での「治安戦」とのつながりについて論じられればなおよかったであろうとしている。
参考
・林博史教授のサイト
http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~hirofumi/
笠原本の書評
・弁護士会の読書「日本軍の治安戦」
http://www.fben.jp/bookcolumn/2010/09/post_2658.html
笠原本が指摘する日本軍・日本社会の超無責任体質(ノモンハン事件、大陸打通作戦*18と無茶ばかりやり、失敗をしても軍上層部から責任追及されず、戦後は国会議員に成り上がる参謀・辻政信とか。なおシンガポールの華僑粛清にかかわり、その地の反日感情を強めたのも辻である)にスポットを当てた書評。
このエントリ筆者が富永恭次について書くのなら、「俺もあとで特攻する」とふかしたくせに敵前逃亡したことに触れてほしかった。インパール作戦の牟田口廉也とか旧日本軍ってそんなのばっかだよな。しかも本心どうなのか知らんが戦後も謝罪しねえし。
・Apes! Not Monkeys! はてな別館『日本軍の治安戦』
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20100613/p1
アメリカなどほかの国も治安戦をやっているという認識の大切さを指摘する書評。
・大阪市立大学大学院・早瀬晋三の書評ブログ 『日本軍の治安戦−日中戦争の実相』笠原十九司
http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2011/02/post_210.html
上記2ブログが指摘してない点について、いくつか触れているので興味深い。
*1:著書『朝鮮の近代』(1996年、山川出版社世界史リブレット)
*2:著書『大君外交と「武威」:近世日本の国際秩序と朝鮮観』(2006年、名古屋大学出版会)、『竹島問題とは何か』(2012年、名古屋大学出版会)
*3:ただしここで言う竹島は現在の鬱陵島のことであり、当時は今の竹島は松島と呼ばれていた。
*4:ただし、大谷家、村川家はこの禁令の対象外
*6:著書『竹島は日韓どちらのものか』(2004年、文春新書)
*7:著書『竹島=独島問題入門:日本外務省「竹島」批判』(2008年、新幹社)
*8:当時、国務次官補。ケネディ政権、ジョンソン政権で国務長官
*9:著書『日宋貿易と「硫黄の道」』(2009年、山川出版社日本史リブレット)
*10:著書『近世琉球と中日関係』(2012年、吉川弘文館)
*11:『南京事件』(岩波新書)、『南京事件論争史』(平凡社新書)など南京事件をテーマにした著書が多数あり、南京事件は氏のライフワークと言っていいだろう。
*12:著書『世界史の中の日露戦争』(吉川弘文館)、『昭和天皇の軍事思想と戦略』(校倉書房)
*13:著書『昭和天皇の終戦史』『日本の軍隊』(岩波新書),『日本人の戦争観』(岩波現代文庫)
*14:著書『「大東亜」戦争を知っていますか』(講談社現代新書)
*18:この作戦の立案者として非難されるのは辻と並び称される「昭和の愚将」服部卓四郎だが辻も立案者の一人らしい