【産経抄】4月28日

 どこが反骨なんだかさっぱり分かりませんが。まさか戦前の逮捕事件オンリーで反骨と言ってるんじゃないですよね。それなら産経の大嫌いな共産党も戦前逮捕歴があるので反骨になりますが。まあ、産経や産経文化人が評価する人間にまともな人間はいないのがいつものパターンです(苦笑)

政府の統制経済政策に、反共の立場から憤りを覚えていた奈須田さん

 「統制経済共産主義」ではありません。それならナチス共産主義になってしまう。「自由主義経済」の立場ならともかく、本当に「反共の立場」から批判してたのならアホすぎです。

比較文化史家の平川祐弘さんは著書のなかで、奈須田さんを戦前の名ジャーナリスト、桐生悠々になぞらえている。

 奈須田氏は悠々になぞらえられるような人なんでしょうか。大体、「自民党命」「戦前万歳」の産経が悠々を評価するなんて(苦笑)

ウィキペ「桐生悠々
 1910年(明治43年)には信濃毎日新聞主筆に就任した。1912年(大正元年)、明治天皇の大葬時に自殺した乃木希典陸軍大将を(注:無意味な死だと)すぐさま批判した社説「陋習打破論――乃木将軍の殉死」を著し、反響を呼ぶ。1914年(大正3年)には、シーメンス事件*1に関して政友会を攻撃、信濃毎日新聞社長・小坂順造*2は政友会所属の衆議院議員であったため対立、退社を余儀なくされる。
 同年には新愛知新聞の主筆として名古屋に赴任し、社説およびコラム「緩急車」で信毎時代と変わらぬ反権力・反政友会的言説を繰り広げるも、新愛知はこれまた政友会系新聞であったことと、同紙と憲政会系・名古屋新聞との激しい販売競争(皮肉にも両紙は太平洋戦争中の新聞統合で中日新聞を形成する)に疲れたこともあり退社する。
(中略)
 1928年(昭和3年)に、当時の信濃毎日新聞主筆・風見章*3衆議院議員選挙(第一回普選)に出馬すべく退社したため、悠々は同紙に主筆として復帰、再び反軍的な一連の社説を著す。
(中略)
 1933年(昭和8年)8月11日、折から東京市を中心とした関東一帯で行われた防空演習を批判して、悠々は社説『関東防空大演習を嗤ふ』を執筆する。同文中で悠々は、敵機の空襲があったならば木造家屋の多い東京は焦土化すること、被害規模は関東大震災規模に及ぶであろうこと、空襲は何度も繰り返されるであろうこと、灯火管制は近代技術の前に意味がないばかりか、パニックを惹起し有害であること等、12年後の日本各都市の惨状をかなり正確に予言した上で、「だから、敵機を関東の空に、帝都の空に迎へ撃つといふことは、我軍の敗北そのものである」「要するに、航空戦は空撃したものの勝であり空撃されたものの負である」と喝破した。この言説は陸軍の怒りを買い、長野県の在郷軍人会は信濃毎日の不買運動を展開したため、悠々は同9月に信濃毎日の退社を強いられた。

*1:当時の与党は政友会

*2:今もオーナーは小坂家。小坂一族は小坂善之助(順造の父、信濃毎日創業者)時代から国会議員を世襲してきた。順造の子・善太郎、徳三郎はそれぞれ「池田内閣、三木内閣で外相(善太郎)」、「大平内閣で経済企画庁長官、鈴木内閣で運輸大臣(徳三郎)」。孫・憲次は小泉内閣文科相で現在、参議院自由民主党幹事長

*3:第1次近衛内閣書記官長(今の官房長官にあたる)、第2次近衛内閣司法大臣