【産経抄】5月1日

 豆知識。ウィキペ「ローマの休日」によればこの映画の脚本家ダルトン・トランボは抄子がお嫌いであろう、いわゆるハリウッド・テン(赤狩りに対し、アメリ憲法修正第一条を理由に議会での証言拒否をしたため事実上、アメリカ映画界から干された著名な10人の映画人)の一人です。
 何でそう言う人が「赤狩り時代の1952年にハリウッド映画の脚本書いて、アカデミー脚本賞もらってるの?」というと「イアン・マクレラン・ハンター」(実在の人物でトランボの友人。脚本家)名義で書いてるからです。要するに名前貸しですね。
 持つべき者は友ですな。ハンターのような立派な人間がいなければ「ローマの休日」はなかったかもしれない。
 で、赤旗だとここで「この事実はいかに赤狩りがバカげているかを証明しているのではないでしょうか?」とか落とすんでしょうが産経ですから触れることすらしない(苦笑)
 それはともかく1952年のアカデミーは赤狩り時代ですから、当然ハンターがもらっています。さすがに賞金はトランボと折半したようですが(後に真相が明らかになり、1993年、トランボは既に死去していたので、彼の未亡人が改めて受賞した)。
 ちなみにウィキペによると

 ハンターは他に、やはりブラックリストに掲載されていたリング・ラードナー・ジュニアに名義を貸している。ラードナーは、1964年にミュージカル『フォクシー』を執筆している。
 もちろんハンターの実績は「名義を貸したこと」だけではない。20以上の作品の脚本を書いており、脚本家として実績を積んでいた。ただ、それらの作品は『ローマの休日』など、名義を貸した作品ほどの成功を収めていないというだけのことなのだ。

だそうです。
 ちなみに他にもウィキペ「ローマの休日」には面白い記述があります。

 最初にヒロイン候補に挙がっていたのはエリザベス・テイラー*1であった。しかし、監督のフランク・キャプラ*2が高額の製作費を要求したため、スタジオはキャプラを降板させ、代わりにウィリアム・ワイラー*3に白羽の矢が立った。ワイラーは主役を自由にキャスティングできることを条件に、監督を引き受けた。

 で、ワイラーは当時はまだ無名の新人だったオードリー・ヘップバーンをキャスティングしたと。
 テイラー主演、キャプラ監督で造ってたらどうなってたんだろうとか、この映画がなければヘップバーンの成功も遅れたのかとかいろいろ空想しますな。

父、チャールズ皇太子の離婚*4などで危機的状況になった王室の人気は急速に回復してきたという。

「など」って具体的に何ですか?

他国民から見ても「頼もしい王子」だった。

 過去に大内糾事件など自称保守による皇室侮辱事件が起こってるので、つい「それに比べてわが国の(以下自主規制)」と皮肉でも言いたいのかと勘ぐってしまいます。

若い皇族の減少などの問題点は抱えたままだ。

 だから「など」って具体的に何ですか?。抄子は「など」が口癖になってないですか?
 それと揚げ足取りになりますが「若い皇族は減少してない」と思いますよ。最近(?)、何人かお生まれになったじゃないですか。
 言葉尻をどうこう言うのは大人げないですが、抄子がいいたいのは「若い男子皇族が、悠仁君以外いなくて残念、皇室が絶えちゃうんじゃ」ということでしょうね。
 女性皇族は沢山*5いるのだから、女帝制度を導入すればいいと思うのですがそれは嫌みたいですね。

英王室の結婚式は素晴らしかったが、日本の皇室の将来も真剣に考えたいと思う。

 具体的に何をどう考えたいんでしょうか?。

*1:1960年公開の『バタフィールド8』、1966年公開の『バージニア・ウルフなんかこわくない』と2度、アカデミー主演女優賞を受賞

*2:或る夜の出来事』『オペラハット』『我が家の楽園』と3度アカデミー監督賞を受賞

*3:1942年『ミニヴァー夫人』、1946年『我等の生涯の最良の年』、1959年『ベン・ハー』と3度アカデミー監督賞を受賞。ちなみに監督賞最多受賞者は1935年『男の敵』、1940年『怒りの葡萄』、1941年『わが谷は緑なりき』、1952年『静かなる男』で4回受賞のジョン・フォード

*4:正確には離婚それ自体より離婚原因がチャールズ氏の浮気だったことが人気下降の理由ではないかと思うが

*5:と言うと言い過ぎかも知れないが