新刊紹介:「歴史評論」6月号

歴史評論」6月号(特集『通史を読みなおす―歴史学の「間口」と「奥行き」1』)の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

■「武士論・在地領主論から「通史」を読む―読書案内にかえて―」(高橋修*1
(内容要約)
 中世史について書いた通史から、古典的存在である石井進鎌倉幕府」(1965年、中央公論社)、「中世武士団」(1974年、小学館。後に1990年、小学館文庫)と、その後のさまざまな人物の中世通史(棚橋光男「王朝の社会」(1988年、小学館)、入間田宣夫「武者の世に」(1991年、集英社)、下向井龍彦*2「武士の成長と院政」(2001年、講談社、後に2009年、講談社学術文庫)が主に取り上げられている。)を紹介し、石井の時代は「在地領主制論」の影響が強かった(「武士職能論」はまだ萌芽的な段階だったのだろう)が、近年では「武士職能論」の影響が強くなっているという話。
 ただし、ウィキペ「武士」「武士団」が指摘するように「武士職能論」(武士と朝廷との関係を重視する)と「在地領主論」(武士と在地との関係を重視する)はどちらか一方が正しく、一方が間違ってるというものではないのだろう。

参考「武士の発生と成立」
http://www.ktmchi.com/rekisi/index.html#01

ググったら見つかった個人サイト。個人サイト(ご本人もプロではないと認めている)なので、どこまで信用できるかが問題だが、高橋論文がほとんど、あるいは全く触れていない通史(竹内理三『武士の登場』(1964年、中央公論社)、安田元久院政平氏』(1974年、講談社)、川尻秋生「武門の成立」・加藤友康編『摂関政治と王朝文化』(2002年、吉川弘文館) )や通史以外の本(高橋昌明『武士の成立・武士像の創出』(1999年、東京大学出版会))に触れている点は有り難いかなと思う。


■「太閤検地兵農分離と中近世移行期研究」(長谷川裕子)
(内容要約)
・戦後の「太閤検地兵農分離(刀狩り)」を巡る研究・議論は安良城盛昭の論文「太閤検地の歴史的前提」*3をどう評価するかから始まった。安良城説をどう評価するにせよ、今も「太閤検地兵農分離」をどう理解するかは、中世、近世、中近世移行期をどう理解するかの重要なポイントである(最近の通史の中近世移行期記述としては、池上裕子「織豊政権江戸幕府」(2005年、講談社)、水本邦彦「徳川の国家デザイン」(2008年、小学館)が紹介されている)。


■「自由民権期の「尊皇」論と福沢諭吉「帝室論」」(赤野孝次)
(内容要約)
・筆者は福沢「帝室論」*4については「皇室は政治の社外」と言う語句に注目し「天皇の政治利用の阻止」と好意的に理解する見解(丸山真男「『文明論之概略を読む』」(岩波新書))と「そのような理解は間違いであり、帝室論は「自由民権運動に対抗するために保守思想家・福沢が天皇制を持ち出した」と理解すべき」とする見解(鹿野正直『福沢諭吉』(清水書院)、遠山茂樹福沢諭吉』(東京大学出版会)、ひろたまさき『福沢諭吉研究』(東京大学出版会)、安川寿之輔『福沢諭吉のアジア認識』、『福沢諭吉丸山眞男』、『福沢諭吉戦争論天皇制論(高文研))という対立する説があると理解した上で、基本的には丸山の理解を支持するということのようだ。
・ちなみに筆者は宮地正人『通史の方法』(名著刊行会)が『いわゆる「明治十四年政変」のバックに福沢がいると疑った政府が慶應義塾卒業生など福沢人脈を政府部内からパージしたこと』を記述していることに触れ、そんな福沢が福沢批判派がいうような人間のわけがないと言いたいようだがむしろ、宮地が示唆するように「政府のパージにびびった福沢が世渡りのために帝室論を書いた」気がしないでもない*5(ゲスの勘ぐりではあるが)。
・何というか、佐藤優に対する「岩波と金光翔さん」状態だよな。「丸山の福沢解釈」支持派と批判派(見方が相当違う)。


参考

ウィキペ「明治十四年の政変」
 1881年明治14年)に自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり、政府内でも君主大権を残すビスマルク憲法かイギリス型の議院内閣制の憲法とするかで争われ、前者を支持する伊藤博文井上毅が、後者を支持する大隈重信とブレーンの慶應義塾門下生を政府から追放した政治事件。
 政府から追い出され下野した慶應義塾門下生らは『時事新報』を立ち上げ、実業界へ進出することになる。横浜正金銀行(後の東京銀行)の運営に携わり、「丸善」を創始した早矢仕有的三井財閥の中上川彦次郎(福沢のおい)、藤山財閥の藤山雷太、阪急財閥の小林一三など財界への基盤を確固たるものにした。
 また、野に下った大隈も10年後の国会開設に備え、翌1882年3月には小野梓、矢野文雄とともに立憲改進党を結成、また10月、政府からの妨害工作を受けながらも東京専門学校(現・早稲田大学)を開設した。


■政変で下野した官僚:
 中上川彦次郎、犬養毅*6尾崎行雄*7、矢野文雄、森下岩楠、牛場卓蔵、津田純一、小野梓、牟田口元学、中野武営、島田三郎、田中耕造、河野敏鎌*8前島密、大隈英麿

*1:著書『中世武士団と地域社会』(2000年、清文堂)

*2:ウィキペ「武士」を信じれば「在地領主論」に配慮しながらも「武士職能論」にウェイトを置いた説「国衙軍制論」の有力な主張者ということになるのだろうか。

*3:内容的には「太閤検地兵農分離(刀狩り)」を中世と近世を分ける重要な分岐点と理解する」など

*4:超少数説として「帝室論」は福沢が書いたのではないとする説(平山洋福沢諭吉の真実』(文春新書))があるようだがもちろん筆者はこのような説には立っていない。

*5:宮地は時事新報社(福沢系の新聞)に入社した竹越与三郎が福沢がこの時期発表した「官民調和論」に失望して退社したことにも「通史の方法」で触れており明らかに宮地の見解は福沢批判派に近い

*6:後に首相

*7:文相、司法相、東京市長を歴任

*8:内務相(司法相、農商務相兼任)、文相を歴任