彼らは、民主化を求める事を体制打倒を求める事だと言う。体制打倒の後に来るのは混乱だと言う。君らは国家を否定するのだな、という問題にすり替える。彼らは東電と同じだ、君らは電気を否定できるのかという問題にすり替える。違う、私たちは小さな正義をむりやり圧殺する貴方を否定してるだけだ。(id:noharraのツイッター)
書き換えてみよう。
「野原は『朝鮮学校無償化賛成論』を朝鮮総連と北朝鮮の全面正当化だという。君らは全体主義を肯定するのだな、という問題にすり替える。違う、私たちは子どもの権利をむりやり圧殺する貴方を否定してるだけだ。」
それと民主化を求めることは悪いことではないが、だからといってたとえば「リビアの反体制派を軍事支援することがいいことか」と言ったら疑問な点には注意が必要だね。
日本が好きであり一番大切であるとして、その象徴になるのは「天皇」であるというのが右翼思想。
「日の丸」「君が代」など天皇に比べればただの出し殻のような物。先頃、真実の熱烈な愛(例えば226事件や三島)になる危険性を嫌う官僚根性が生み出した、偽のシンボル。
(id:noharraのツイッター)
・野原ご本人はgotainminoなるバカウヨを批判してる積もりのようだし、gotainminoがバカなのも事実なのだが。
・はいはい、右翼思想の俺様定義乙。
・「天皇」こそ右翼の中心って、出し殻「日の丸」「君が代」の代わりに、学校にご真影でも飾れば愛国心の育成によろしいんでしょうか(毒)
・そもそもid:noiehoie氏がおちょくってるが、天皇は「モノではなく意思を持った人間」なので愛国心の中心に置くのはかなり難しいと思うが。ウヨと天皇が常に同意見とは限らないからね。
・ああ、それと天皇を愛国心の中心に置くのは問題ないと野原は思ってるらしいけど、なら「朝鮮学校が国家元首の写真を飾っても問題ない」んじゃないの?。
226事件や三島の事件の場合は、(注:天皇への)愛の亢進が主体をパワーアップし、反乱のようなものまで引き起こしてしまいます。(id:noharraのツイッター)
・天皇への「愛の亢進」?。「俺の思い通りの政治しないから軍人や政治家テロってやる(それをきっかけに俺の思い通りの政治の方向に進むといいな)」ってだけじゃん(ちなみに青年将校の場合「満州への派遣命令」が直接のきっかけ。左遷だと理解してぶち切れたと。なお、戦前の人間は「天皇は絶対に正しい」と学校などで教育されていたので「政治が悪い」は「天皇の回りが悪い」に自動変換されることに注意。
・連中の行為のどこに「天皇への愛」があるのやら。
大体、226事件では重臣を殺された天皇は「勝手に軍隊を動かして朕の重臣を殺しやがって」と激怒し青年将校の厳罰を主張してるんだが。また昭和天皇が、青年将校が「皇道派嫌いの自分を隠居or殺害し、青年将校に近いと言われていた秩父宮(昭和天皇の弟)を新天皇として擁立する気ではないか」とおびえていたというのは割と有名な話だと思うが。
仮に青年将校たちが天皇を愛していたとしても、相手に理解されない愛なんてストーカーとかと一緒だろ。
・「反乱のようなもの」?
「のような」じゃなくて反乱ジャン。
・なお、野原が226事件に似た性格の、515事件(海軍軍人による犬養首相暗殺)や3月事件(橋本欣五郎*1陸軍中佐らによる宇垣一成*2首相擁立・クーデター計画。結局実行はされなかった)、10月事件(橋本欣五郎陸軍中佐らによる荒木貞夫*3首相擁立・クーデター計画。結局実行はされなかった)、埼玉挺身隊事件(青年将校によるクーデター計画)をどう理解してるのかも気になるところだ。俺は全部「軍部の暴走」と言う意味では違いなどないと思うが(もちろん目指す方向など細かい違いはあるだろうが)。はっきり言って当時の日本軍(特に陸軍)は「クーデター上等」「暗殺上等」の危ない組織だったと思う。3月事件や10月事件、埼玉挺身隊事件で(左遷はあったようだが)誰も刑事処分を受けずに全てが闇に葬られたことが226事件という青年将校の暴走を助長したことは間違いないだろう。
・ちなみに10月事件には北一輝がメンバーの一人として参加しており(ウィキペに寄れば北を司法相にするという意見もあったという)、これが226事件で「北を黒幕として処刑」することにつながったのだろう。
参考
「三月事件」(ウィキペを参照)
1931年(昭和6年)3月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件。
1930年(昭和5年)に政治結社「桜会」を結成した橋本欣五郎中佐、長勇少佐、田中清少佐、重藤千秋大佐らは軍部による国家改造を目指して国家転覆を画策した。これに杉山元*4陸軍次官、小磯國昭*5軍務局長、永田鉄山軍事課長、根本博新聞班長、二宮治重*6参謀次長、建川美次参謀本部第二部長、山脇正隆作戦課長、岡村寧次補任課長ら当時の陸軍上層部や社会民衆党の赤松克麿、亀井貫一郎、右翼の大川周明や清水行之助(北一輝の子分の一人)らも参画。永田鉄山軍事課長が計画書を作成した。一切の計画資金は軍の機密費から出されていた。また、活動資金として徳川義親が50万円を出資した。
計画では、3月下旬に大川、亀井らが1万人の大衆を動員して議会を包囲。また政友会、民政党の本部や首相官邸を爆撃する。混乱に乗じ、第1師団の軍隊を出動させて戒厳令を布き、議場に突入して濱口内閣の総辞職を要求。替わって宇垣一成陸相を首班とする軍事政権を樹立させるという運びであったが、直前の3月17日に撤回された。
二宮、小磯らの首脳が決断を躊躇したことが、計画中止の原因のひとつであった。そして第1師団長の真崎甚三郎が反対の態度を表明したからであった。
宇垣自身は事件への関与を全面否定しているが、彼が計画にどの程度関わったのかは今もって不明である。
本件は、本来ならば軍紀に照らして厳正な処分がなされるべき事件である。にもかかわらず、計画に関与した者の中に陸軍首脳部も含まれていたことから、事件を知った陸軍は、首謀者に対して何らの処分も行わず、緘口令を布いて事件を隠匿した。
この事件は、十月事件や二・二六事件など、のちに頻発する軍部によるクーデター計画の嚆矢であると共に、政界上層部や右翼、国家社会主義者をも巻き込んだ大規模な策謀であった。
「十月事件」(ウィキペを参照)
1931年(昭和6年)10月の決行を目標として日本陸軍の中堅幹部によって計画された、クーデター未遂事件。別名錦旗革命事件。
1931年9月18日、柳条湖事件が発生、これを端緒として満州事変が勃発した。当時外務大臣であった幣原喜重郎を中心とした政府の働きにより、不拡大・局地解決の方針が9月24日の閣議にて決定された。しかし、陸軍急進派はこの決定を不服とし、三月事件にも関わった桜会が中心となり、大川周明・北一輝らと共にクーデターを計画した。
十月事件の計画概要は、軍隊を直接動かし、要所を襲撃し、首相以下を暗殺するというもので、決行の日を10月24日早暁と定め、関東軍が日本から分離独立する旨の電報を政府に打ち、それをきっかけにクーデターに突入するというものであった。
具体的には桜会の構成員など将校120名、近衛歩兵10個中隊、海軍爆撃機13機、陸軍偵察機、抜刀隊10名を出動させ、首相官邸・警視庁・陸軍省・参謀本部を襲撃、若槻禮次郎首相以下閣僚を殺害および捕縛。その後閑院宮載仁親王や東郷平八郎・元老西園寺公望らに急使を派遣し、組閣の大命降下を上奏させ、荒木貞夫陸軍中将を首相に、さらに大川周明を蔵相に、橋本欣五郎陸軍中佐を内相に、建川美次陸軍少将を外相に、北一輝を法相に、長勇陸軍少佐を警視総監に、小林省三郎海軍少将を海相にそれぞれ就任させ、軍事政権を樹立する、という流れが計画の骨子となる。
外部の民間右翼からは大川周明、岩田愛之助が加わっていたが、その後北一輝・西田税が参加した。その他在郷軍人への働きかけも行われ、鎌倉の牧野伸顕内大臣の襲撃は海軍が引き受けていた。また、大本教の出口王仁三郎とも渡りをつけており、信徒40万人を動員した支援の約束も取り付けていたし、赤松克麿・亀井貫一郎らの労働組合も動く手筈となっていた。
この計画は10月16日には陸軍省や参謀本部の中枢部へ漏れ、翌17日早朝に橋本欣五郎・長勇・田中弥・小原重孝・和知鷹二・根本博(以上、陸軍軍人)・天野辰夫(民間右翼。天野は1933年の神兵隊事件でも検挙される)といった中心人物が憲兵隊により一斉に検挙される。大内力は、著書「日本の歴史・ファシズムへの道」(中公文庫)で、この計画ははじめから実行に移す予定はなく、それをネタに政界や陸軍の中央部を脅迫することで政局の転換を図ることが目的であったと推測している。事実、荒木を含めこの計画を知った軍の首脳部は事態の収拾に率先して動き、次第に政権の主導権を獲得していくこととなった。
十月事件首謀者に対する責任の追及は、永田鉄山らによる極刑論も一部あったものの、同志の助命を橋本に嘆願された右翼・杉山茂丸が、西園寺公望に口添えを行ったり、橋本の盟友である石原莞爾が陸軍首脳部に圧力をかけたりすることで、結果的には曖昧なままにされることとなった。橋本は重謹慎20日、長・田中は重謹慎10日の後、地方や満州に転勤という軽い処分で、これは軍部において桜会の勢力が依然強大であったことを示している。しかし、この事件をきっかけとして桜会は事実上解体を余儀なくされた。
十月事件がもたらした影響としては大きく3つが挙げられる。一つは若槻内閣の倒閣、二つ目に陸軍内部の勢力変化、そして三つ目に民間右翼の活動に刺激を与えたことである。
陸軍の首脳部では宇垣一成にかわり荒木が勢力を伸ばし始め、同時に桜会が勢力をなくしたため、幕僚中心の勢力配置ができ上がった。そして、北・西田一派はこの図式に失望の念を抱いた青年将校を取り込み、のちの栗原安秀による救国埼玉青年挺身隊事件(栗原らによるクーデター計画事件)や村中孝次・磯部浅一らによる陸軍士官学校事件(村中、磯部がクーデターを計画していたとして処分されたが、村中らの軍追放を狙ったでっち上げと言われる。)へと繋がっていった。また、民間右翼の間にも軍部に頼らず、自分達の力で何とかしなければ、という想いが強くなり、この思想は後の血盟団事件(三井合名会社理事長・団琢磨、前蔵相・井上準之助暗殺)へと発展していくこととなった。
http://www.c20.jp/1933/11teisi.html
「埼玉挺身隊事件」
昭和八年十一月、埼玉県熊谷市に起ったこの「不穏事件」は、検挙されたのがこの地方の民間人ばかりで、そのうち公判にまわされたのは、わずか七人だった。
当時拓殖大学の学生だった吉田豊隆は政党、財閥が腐敗堕落し、農村が日に日に疲弊し、しかも失業者が巷に溢れ、外には一九三六年の国際危機が迫っていることを常から憂い、 北一輝の著書の影響などから昭和維新の実現を期し、同志の獲得につとめた結果、昭和八年四月ごろ、熊谷市付近の青年から同志を得た。
たまたま、八年六月下旬、新聞記事で、十一月十四日、川越市で政友会関東大会が開催され、同会総裁鈴木喜三郎以下党幹部が出席することを知ると、これを好機とし、十一月十日、熊谷市に集合して、 鈴木喜三郎*7政友会総裁暗殺計画を謀議していたものである。これが埼玉県警察部特高課の知るところとなって、前日の十一月十三日、一斉に検挙された。以上がその公訴事実である。
これに栗原安秀が深く関係していた、というよりも栗原中尉が日大生水上源一*8を通じて吉田豊隆を知り、この埼玉の青年同志を組織したのである。しかし、予審終結決定書にも、公訴事実中にも栗原中尉ら現役将校の名はまったく出ていない。事実は吉田、水上らが八年一月ごろ栗原と話し合うようになってから彼の計画に賛成し、栗原少尉(当時)を中心に実行方法を練ったのだ。
実行計画によれば、栗原や近歩三の中橋基明らの青年将校が兵をひきいて出動する、これに学生、農民が呼応して蹶起し、西園寺公、牧野内府、斎藤首相、鈴木政友会総裁などの重臣を襲撃暗殺し、また警視庁を襲うというものであった。決行を九月二十二日の夜と決めたが、これもすべて栗原の発案である。
新聞発表を読んだ者は、鈴木総裁などを殺したところで仕方がないと思ったにちがいない。果してこの当局発表にはトリックがあった。つまり、前記のように現役軍人が首謀者となって、五・一五事件や神兵隊事件のようなことを計画していたと発表すると再び世間に大衝撃を与えるので、従犯的立場の民間側を切りはなしてこれを独立犯罪となし、その反抗企図も「鈴木総裁暗殺計画」だけにしぼったものである。軍部の圧力に屈した警察と裁判所の奸計だが、その裏には当時軍中央部に実力を持っていた皇道派首脳の圧力があったと考えられる。
【中略】
このようにして、栗原中尉には何の処罰もなかった。栗原だけでなく、いっしょに名前の出た近歩三の中橋基明中尉、歩一の香田清貞大尉、同丹生誠忠中尉、同佐藤竜雄中尉、同中村雅郎少尉、同前田仲吉軍曹、同尾島健次郎軍曹も処罰されなかった*9。
戦前から「服従を求める」そういうものは存在するだろ。ご真影とか教育勅語とか。別に「戦後」に始まったわけじゃないし、文部省「だけ」の意思じゃないし。政界、財界にもそう言う「日の丸君が代」万歳のウヨはいる。そう言うウヨ政治家(例:石原)でも当選するのが日本(俺にとっては悲しいが、日本のマジョリティは「それを支持してる」or「どうでもいい」と思ってるんだな)。
戦前の「負の遺産」が社会に今も残ってるって話だろ。文部省「だけ」に話を歪曲化するんじゃねえよ。