新刊紹介:「歴史評論」7月号

特集『通史を読みなおす―歴史学の「間口」と「奥行き」2』
歴史評論」7月号の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

■「通史でみる日本近世史像・近世社会論の変容:一八世紀を中心に」(須田努)*1
(内容要約)
・筆者の理解によると日本近世史研究史は次のような流れになる。
1950年代:幕藩制構造論の時代(代表的な論者は安良城盛昭)
1960年代:幕藩制国家論の時代(代表的な論者は佐々木潤之介)
1970年代以降:百花繚乱の時代。筆者は朝尾直弘の「公儀論」、深谷克己*2の「仁政イデオロギー」「民間社会*3」、塚田孝*4、吉田伸之*5らの「身分的周縁論」「社会集団論」に注目している。


■「近世朝幕関係*6論」(堀新*7
(内容要約)
・筆者の理解によると日本近世朝幕関係研究史は次のような流れになる。
1980年代:「近世*8朝幕関係研究」=深谷克己と言って良いくらい、深谷の研究が代表的だった時代。またこの時期は研究がもっぱら「幕末期」に偏った時代でもあった。
1990年代以降:昭和天皇の死により天皇タブーが崩壊したからか、深谷の研究以外にも多くの研究が発表されるようになる。注目されるものとしては、講座「前近代の天皇」全5巻(1992〜1995年、青木書店)、岩波講座「天皇と王権*9を考える」全10巻(2002〜2003年)があげられる。
・なお本筋ではないが一点だけ気になったこと。筆者の堀は幕末の朝幕関係について論じた部分で「一会桑」という言葉を注記もつけずに使っているが、「歴史評論」は歴史雑誌とは言え、専門誌と言うよりは一般向けである。今や「一会桑」という言葉は歴史好きなら専門家でなくても知ってて当然なのだろうか?。後述するように「一会桑」を取り上げた家近良樹の著書の副題が「幕末・維新の新視点」である事を考えると説明抜きでさらりと書くのは不適切な気がするのだが。

参考

一会桑政権(ウィキペ参照)
 幕末の政治動向の中心地京都において、一橋慶喜禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮)、松平容保京都守護職会津藩主)、松平定敬京都所司代桑名藩主)の三者により構成された体制。一会桑体制、一会桑権力ともいう。
 この体制は尊皇攘夷急進派・長州藩への対抗を通じて形成され、八月十八日の政変薩摩藩会津藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放したクーデター事件)以降、尊皇攘夷派が退潮し、さらに公武合体論に基づく有力諸侯による参預会議が参与の意見対立から崩壊(1864年)したのち、概ね慶喜の将軍職就任(1866年12月)までの京都政局において支配的な位置を占めた。薩長同盟(1866年1月)はこれへの対抗から形成されたものである。
 徳川幕府を代理する立場ではあるが、江戸を離れた京都にあって天皇の信任を得る一方、必ずしも江戸の幕閣の意向を代弁するわけではなく、相対的に独自の勢力を形成していたとする見方からこのように呼ばれる。
 研究史上、最初にこの用語を使用したのは、学習院大学教授(幕末史)の井上勲である。 大阪経済大学助教授の家近良樹が、幕末期の政治状況は従来の薩長と幕府との対立というだけでは説明できないとしてこの「一会桑政権」と呼ばれる歴史概念を主張している(家近『孝明天皇と「一会桑」:幕末・維新の新視点』(2002年、文春新書))。従来の薩長中心史観では見過ごされがちだが、この三者が幕末において果たした役割を再評価している。
 幕末期、尊皇攘夷運動が高まりを見せ、天皇・朝廷が急速に政治的権威を高めると、京都が政治動向の中心となった。特に幕府大老井伊直弼1860年(万延元年)に暗殺(桜田門外の変)されて以降、薩摩藩長州藩土佐藩など雄藩が中央政界への進出をうかがうようになり、それに伴い草莽を含む尊王攘夷派がぞくぞくと京都に集まるようになった。従来の京都所司代の力のみでは過激派浪士を抑えることができなくなった幕府は、1862年(文久2年)閏8月に松平容保を新設の京都守護職に任命する。
 容保上洛後の京都では尊攘運動がますます激しく、尊攘急進派浪士による暗殺・脅迫が横行、朝廷においても尊攘急進派公家によって朝議が左右されるようになり、天皇の意向はまったく無視されて勅旨が乱発され、幕府に破約攘夷の実行を要求し、さらに1863年文久3)8月には天皇による攘夷親征を演出するための大和行幸が企てられた。急進派が政権を掌握した長州藩も、これらと結びつき京都における政治力を強めていた。これに対し、天皇の意を受けた会津藩薩摩藩が実力行使により長州藩及び三条実美尊攘派公家を京都から追放した(八月十八日の政変)。
 政変後の朝廷は関白に就任した二条斉敬と中川宮朝彦親王によって主導されることになる。また、10月から12月にかけて公武合体派の島津久光薩摩藩主の父)、松平春嶽(前福井藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)、一橋慶喜山内容堂(前土佐藩主)が上洛、松平容保とともに朝廷参預に任命され、朝廷の下での雄藩の国政参画が実現した。参預会議は長州藩の処分と横浜港の鎖港をテーマとしていた。しかし、これを機に主導権を握ろうとする薩摩藩と幕府・一橋慶喜の思惑の違いが絡んで横浜鎖港をめぐって対立、1864年(元治元年)2月に山内が帰国、3月には残る全員が辞表を提出してあっけなく瓦解した。
 3月、一橋慶喜将軍後見職を辞し、代わって新設された禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就任した。いったん京都守護職を退いていた松平容保も復帰、容保の実弟桑名藩主の松平定敬京都所司代に任ぜられた。ここに「一会桑政権」の基本的な枠組みが成立し、禁門の変蛤御門の変)を経て提携を深めた3者は、孝明天皇二条斉敬・中川宮朝彦親王の朝廷と協調して慶喜の将軍職就任に至るまでの京都における政治を主導していくことになる。
 一会桑政権は江戸の幕閣と一定の距離を有しつつ、京都にあって幕府勢力を代表する役割を果たした。朝廷上層部と癒着する一方、諸藩の国政参加を極力排除して朝廷を独占し、国政の指導的地位を確立することをその基本的な性格としていた。
 慶喜将軍後見職に代わって禁裏御守衛総督に就任することにより朝廷に接近する一方、幕府中央との関係は疎遠となった。幕府中央・朝廷双方に名望を有する会津藩は、朝廷・幕府間のパイプ役を自認し、軍事的な面からも「一会桑」の中核であった。会津藩は一貫して西南雄藩の国政参加の阻止に努めたことにより、雄藩とりわけ薩摩藩との対立を深め、のちの王政復古による明治新政府からの排除や戊辰戦争の遠因となった。
 1865年(慶応元)4月には、朝廷において武家に関する評議は全て「一会桑」との打ち合わせの上決定するという原則が形成され、10月には3者の協力で長年の懸案であった安政五カ国条約の勅許を獲得し、幕府老中に同志である小笠原長行板倉勝静を送り込むことに成功するなど、権力としての絶頂期を迎えた。
 一会桑政権は二度の長州征討を主導したが、1866年(慶応2)8月、会津・桑名両藩の意向に関わらず慶喜が第二次征長を中止し、徳川宗家相続を機に諸侯会議を重視する姿勢を打ち出したことにより、その意義を否定される。慶喜の変節に反発した二条が9月に一時参朝を停止し、10月には松平容保京都守護職の辞職を申請するなど、ここに一会桑政権の実質的な崩壊が明らかとなった。
 一会桑政権の終焉は、この体制のもとで抑圧されてきた岩倉具視ら反幕派廷臣や諸藩の活動を活性化させることとなり、明治維新を直前に控えた国内の政治状況に大きな変化をもたらすこととなった。


■「幕末維新史と戊辰戦争」(箱石大)
(内容要約)
戊辰戦争研究は、1960年代の戊辰戦争論争(原口清*10・石井孝*11論争)以後はずっと下火であったが、1990年代後半から、従来の研究が薩長に偏っていたとの反省から、奥羽越列藩同盟に参加した東北諸藩の本格的研究がなされるようになった。


■「通史叙述にみる近代日本の戦争と軍隊」(本庄十喜)
(内容要約)
・筆者はここで取り上げる戦争を日清戦争以降太平洋戦争までとしている(ただし筆者も認めるように、それ以前にも戦争はあった。対外戦争としては台湾出兵、国内戦争としては士族反乱があげられる)。
日清戦争については現在の通史では「帝国主義戦争」と見るものがほとんどであるが、1960年代の通史においては「帝国主義の前段階」とみなす通史も少なくなかった。また1960年代の通史においては、「台湾征服戦争」に対する叙述がほとんど見られないか非常に少ないのも現在の通史との大きな違いである。
・1970年代から「15年戦争」という、太平洋戦争を日中戦争とのつながりで見るべきだという主張が有力となり、歴史書の著書名*12にも使われるようになる。1980年代以降には「太平洋」で、インパール作戦など太平洋と関係ない場所を含むのは不適切であるという考えから「太平洋戦争」にかわり「アジア太平洋戦争」という語が使われるようになる。
・1980年代以降は、韓国、東南アジアの民主化も追い風となり、日本の戦争犯罪についての具体的な研究*13がなされるようになる。
・また筆者はシベリア出兵*14について、シベリア戦争(あるいはシベリア干渉戦争)と呼ぶべきであるとする和田春樹の主張をその後の研究史に重要な影響を与えたとして取り上げている。
(なお、シベリア干渉*15ググると小林啓治『戦争の日本史21:総力戦とデモクラシー 第一次世界大戦・シベリア干渉戦争』(2008年、吉川弘文館)がヒットした)

参考

http://www.a-saida.jp/russ/sibir/sibir00.htm
ロシア革命の貨幣史:シベリア異聞』(齋田章)より一部引用
 日本の行ったロシア極東地方での軍事干渉を一般には 「シベリア出兵」 というが、この用語法自体、ことの本質を覆い隠す侵略者側の表現であるとして、これを 「シベリア戦争」 と呼ぶべきであると和田春樹氏らが提唱して既に久しい。


『シベリア戦争史研究の諸問題』 ロシア史研究 No.20、1973年4月
『「シベリア出兵」 をシベリア戦争とよぶことについて』 岩波講座日本歴史 月報5 (第18巻付録)、1975年9月


 和田氏がそこで論じておられるように、シベリア出兵は、たんなる出兵ではなく、宣戦布告はなかったものの、まぎれもなく戦争であった。


■「「昭和史」を書くということ」(源川真希)
(内容要約)
・本論文で筆者が取り上げている昭和史とは「昭和戦前史」のことである。
 「昭和戦前史」において重要なテーマはやはり戦争であって、あの戦争をどう理解するかが、昭和戦前史の最大のポイントとされてきたと言えるだろう(例えば日本ファシズムをどう理解するかや、山之内*16や雨宮昭一*17の総力戦体制論など)。


■「高度経済成長の捉え方―その歴史的位置―」(沼尻晃伸)
(内容要約)
・1970〜80年代通史(筆者は江口朴郎『日本の歴史32・現代の日本』(1976年、小学館)、藤原彰『体系日本の歴史15・世界の中の日本』(1989年、小学館)を取り上げている)と2000年代の通史(筆者は鹿野政直『日本の現代』(2000年、岩波ジュニア新書)、荒川章二『全集日本の歴史16・豊かさへの渇望』(2009年、小学館)を取り上げている)における高度経済成長の取り上げ方について、筆者は前者は戦前との関係を重視しているのに対し、2000年代通史は2000年代から高度経済成長を振り返るといったスタンスであると筆者はしている。
・本論では論じていないが脚注において松尾尊兌『国際国家への出発』(1992年、小学館)、大門正克編『高度成長の時代』全3巻(2010〜2011年、大月書店)が重要著作として紹介されている。


 なお、須田論文*18と編集後記(大橋幸泰)が「グランドセオリーの崩壊」をことさらにいうのには違和感を感じた。「彼らの言うグランドセオリーとは何か」*19「そんなものが果たして過去に本当に存在したのか」自体議論の余地があるだろうが、仮に過去に「グランドセオリー」があったとしても通史記述の困難さは今と大して変わらないのではないか?。たとえが悪くて恐縮だがグランドセオリーは世界地図のようなものであって、それで日本地図や住宅地図の代わりになるわけではないと思う。

*1:近世史に関する著書として『「悪党」の一九世紀』(2002年、青木書店)、『幕末の世直し:万人の戦争状態』(2010年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*2:著書『江戸時代』(2000年、岩波ジュニア新書)、『南部百姓命助の生涯:幕末一揆と民衆世界』(2016年、岩波現代文庫)など

*3:深谷本を読まないと何とも言えないが筆者の説明を読む限り深谷の言う「民間社会」はもっとわかりやすく言えば、都市が発展し、農村に基盤を置かない人(職人や商人など)も生活できるようになった社会と言ったところか

*4:著書『大坂の非人』(2013年、ちくま新書)、『大坂民衆の近世史』(2017年、ちくま新書)など

*5:著書『成熟する江戸』(2009年、講談社学術文庫)、『都市:江戸に生きる』(2015年、岩波新書)など

*6:言わなくても分かると思うが朝廷と幕府の関係

*7:著書『織豊期王権論』(2011年、校倉書房

*8:近世といった場合尊皇攘夷運動で朝廷の権威が上昇した幕末も含まれるが、幕末とそれ以外(織田・豊臣期、幕末以外の江戸時代)ではかなり状況が違うとして筆者は幕末期にはあまり触れていない

*9:「王権概念が有効か」「王権とは何か」については争いがある

*10:著書『戊辰戦争』(1963年、塙書房)、原口著作集3巻『戊辰戦争論の展開』(2008年、岩田書院

*11:著書『戊辰戦争論』(1984年、吉川弘文館。2008年に復刻)

*12:15年戦争」でググるだけでも江口圭一『昭和の歴史(4)十五年戦争の開幕』(1982年、小学館)、『十五年戦争小史』(1986年、青木書店)、『十五年戦争研究史論』(2001年、校倉書房)、大杉一雄『日中十五年戦争史』(1996年、中公新書)等を見つけることが出来る

*13:731部隊を取り上げた森村誠一悪魔の飽食』(1983年、角川文庫)や林博史BC級戦犯裁判』(2005年、岩波新書)、吉見義明『従軍慰安婦』(1995年、岩波新書)、『毒ガス戦と日本軍』(2004年、岩波書店)など

*14:日本の主要な研究としては細谷千博『シベリア出兵の史的研究』(1955年、有斐閣。2005年、岩波現代文庫より復刻)、原暉之『シベリア出兵―革命と干渉 1917〜1922』(1989年、筑摩書房)がある。

*15:シベリア干渉の「宣戦布告をしない」「チェコ軍団救出が目的で侵略じゃないんだよと言い訳」「簡単に勝てるぜと相手をなめてたのに敗北」「現地に傀儡政権造りたがる」「三光作戦かよと突っ込みたくなる日本軍の暴虐ぶり」「ナイスすぎる反共ぶり」(ウィキペ『シベリア出兵』参照)というのが後世の人間にとっては「太平洋戦争や日中戦争そっくり!」とデジャビュ感がすごいな。まあ、やってる人間(日本軍)が同じだからある意味当然かも知れないが。

*16:著書『総力戦と現代化』(共著、1995年、柏書房

*17:著書『戦時戦後体制論』(1997年、岩波書店、1997年)、『総力戦体制と地域自治』(1999年、青木書店)

*18:須田には戦後歴史学を分析した著書『イコンの崩壊まで―「戦後歴史学」と運動史研究』(2008年、青木書店)がある。

*19:大橋はともかく、須田について言えば本誌掲載論文で「1989年(いわゆる東欧革命の年)が画期」としているのでマルクス主義史学と同義のように思われるが。そもそも『グランドセオリー=マルクス主義史学』と言えるかも、『ソ連東欧体制の崩壊=マルクス主義史学の終焉』といえるかも議論の分かれるところだろう。個人的はいい加減『ソ連東欧崩壊』を声高に叫ぶ人間には飽き飽きしている