今日もid:noharra氏に突っ込む(6/24分)その1

motogao モトガオ
韓国の支援者のビデオメッセージ、平和フォーラムの代表の人の「朝鮮学校の歴史は奇跡の歴史であり、差別の歴史である」という言葉。これほど朝鮮学校が乗り越えてきた歴史の本質を捉えた言葉があっただろうか。胸が熱くなる。誇らしさと悔しさで。

に対する野原のツイッター

id:noharra 野原燐
motogaoさんは本気みたいだが、信じられない。 「朝鮮学校の歴史は奇跡の歴史であり、差別の歴史である」という言葉。現在の総連支配の朝鮮学校を肯定できることに。1950年代の朝鮮学校を誇るのは当然だが。北に帰って真っ先に収容所に入れられたのが誰か、知らない訳でもないだろうに。

 motogao氏(id:motorunder氏)の母校・朝鮮学校をそこまで中傷できるあんたの方が俺には「本気みたいだが、信じられない」のだが。朝鮮学校OBと在校生に失礼すぎだ。「どういう風に育てば野原みたいな屑になれるのか」「親や友人など周囲もこんなに屑なのか」教えてもらいたいレベルの屑さには呆れる。

noharra 野原燐
TVで、「豚と軍艦」を見た。今村昌平監督、長門裕之、吉村実子主演。1961年公開。これは紛れもない名作だ。自分の貧血症を自覚できずにレイシズムがどうのこうのと他人を責めている奴らは、この映画を見て日本革命の喪失の残像を確認して欲しい。

「自分の貧血症を自覚できずにレイシズムがどうのこうのと他人を責めている奴ら」
具体的に誰のことなんでしょうか?。名前が出せないなんてせこいですね、野原先生は。
もしかして「朝鮮学校無償化除外論を唱えていること」「除外論者の中に、明らかな右翼・歴史修正主義者(石原慎太郎や橋下など)がいることをどう思うか聞かれてもスルーし続けてること」を理由にあなたをレイシスト認定してる俺のことですか?
それとも「原発反対運動にレイシストを参加させることに批判的な人間(実は俺もその一人だが)」のことですか?。喧嘩になるのが嫌であいまいな書き方してるんですか?。もしそうなら卑怯者ですね(苦笑)
まあ、その映画は見ないと思うけど、見ても俺の考えは変わらないと思うね(苦笑)
ウィキペ曰く

 基地の町・横須賀に米軍の残飯を流用した養豚でひと儲けをたくらむやくざ組織があった。豚の飼育係を任され一時出世の夢を見たものの、内輪揉めに巻き込まれて自滅していくチンピラ男と、その恋人で、男たちに蹂躙されながらも自分の足で歩んでいく女。二人の生きざまを通して、戦後日本の現実を寓意的に描く。
 日本を代表する映画脚本家で、社会の片隅に生きる普通の若者を描く山内久の代表作の一つ。

なんて作品を見ると何故「朝鮮学校無償化除外に賛同できるのか」or「批判意見を無視してレイシストを反原発運動に参加させたロフトプラスワンの平野とかいう親父が支持できるのか」訳が分からん。
・『日本革命の喪失の残像』ねえ。あらすじを見る限りそう言う作品には見えないが米軍批判でもやるのかしらん。政治的作品を造る監督というと俺なんか今井正とか山本薩夫とか連想するが古いですか、やっぱり。

今井正(ウィキペ参照)
 山本薩夫亀井文夫らと独立プロ・新星映画社を創立した1951年、前進座と組んで、日雇い労働者たちの生活を描いた『どっこい生きてる』を発表。続いて1952年、山村の中学校を舞台にした『山びこ学校』を監督。
 1953年、当時は新興まもない弱小スタジオだった東映に招かれて、沖縄戦の悲劇を描いた『ひめゆりの塔』を製作、今井自身は出来に満足はしなかったものの、本作は大ヒットを記録して、東映の基礎固めに一躍買った。
 その後、再び独立プロに戻り、高崎市民オーケストラ(現・群馬交響楽団)の草創期を描いたヒューマニズム映画の傑作『ここに泉あり』を発表する。
 1956年には、日本における裁判批判映画の最初の作品で、冤罪事件・八海事件の裁判で弁護を担当した正木ひろし弁護士の手記の映画化『真昼の暗黒』を発表。
 東映においても社会派映画を次々と製作、1957年、霞ヶ浦を舞台に農村の貧困を描いた、今井の初のカラー作品『米』や、原爆症の少女と不良少年の恋を描く『純愛物語』、1961年、李承晩ラインをめぐる日韓関係の悪化を、在日朝鮮人の若い漁師を通して描く『あれが港の灯だ』など話題を呼んだ。
 1959年、人種差別批判をテーマにした『キクとイサム』は、黒人との混血の姉弟と、彼らを引き取って育てる老婆*1の交流を描き、本作は今井の代表作となった。今井は日本共産党員ながらもイデオロギーを尖鋭に推したてることはせず、戦争や差別や貧困など社会的テーマを掘り下げ、それに翻弄される弱者の姿を同情を込めて美しく描いた作品を発表し続けた。
 1963年、封建社会の残酷さを描く『武士道残酷物語』で、ベルリン映画祭グランプリを受賞。同映画祭で日本映画がグランプリを受賞するのは、39年後、宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』まで待たなくてはならなかった。
 1972年、古巣の東宝に招かれて反戦映画『海軍特別年少兵』を発表する。

・もちろん部落差別をテーマとした『橋のない川』も忘れたらいけませんね。
・ちなみにこの「豚と軍艦」で助監督を務めたのが後に『キューポラのある街』(吉永小百合のデビュー作、ちなみにこの映画は原作付きだが、原作を元に脚本を書いたのは今村昌平)、『青春の門』(大竹しのぶのデビュー作)を監督した浦山桐郎だそうですよ、奥さん(豆知識)。

*1:この時、まだ40代なのに老婆を演じたのが日本を代表する名女優・北林谷栄氏ですな