新刊紹介:「歴史評論」9月号

特集『近代日本の労働者文化』
歴史評論」9月号の全体の内容については「歴史科学協議会」のサイトを参照ください。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/rekihyo/

■「戦前日雇い男性の対抗文化―遊蕩的生活実践をめぐって―」(藤野裕子
(内容要約)
・「遊蕩的生活実践」とは要するに俗に言う「飲む、打つ、買う」(飲酒、ギャンブル、買春)である。「本宮ひろ志」的世界とか「漫画ゴラク」的世界とか「仁義なき戦い」的世界とか「車寅次郎的・テキヤ的世界」(以下、「本宮ひろ志」的世界と呼ぶ)とか言うとわかりやすいかも知れない。
・創業期の山口組とか初期のヤクザは「港湾荷役人夫の供給」とか、日雇い支配を資金源にしていたので、「戦前日雇い男性の対抗文化」はヤクザ文化とはかなりかぶる。藤野論文にも、その一例として大物ヤクザ藤木幸太郎(横浜港の港湾荷役人夫から身を起こし、横浜港港湾荷役を支配するにいたった人物。暴力団・稲川会埋地一家初代組長)の名前が出てくる。そして今や藤木幸太郎の起こした会社・藤木企業は横浜を代表する一大企業グループ(http://www.fujikigroup.com/)ですよ、奥さん。今もヤクザと関係があるのか知らんが、創業時は多分(以下ヤクザが怖いので自主規制)。今は違うかも知れないが昔の日本ってヤクザには本当に甘いよな(嫌、今も甘いか?)。
・日雇い男性は家庭を持った安定した生活が難しく、だからこそ「飲む、打つ、買う」に走るし、「飲む、打つ、買う」が人並み外れていること(いわゆる酒豪、ギャンブラー、性豪)は「本宮ひろ志」的世界においてはある種の美徳であった(ただし本宮ワールド限定の美徳)。 

参考
その1
「日雇いとヤクザの密接な関係」(あまり言うと差別になる危険性があるが)

山口春吉(ウィキペ参照)
 指定暴力団山口組の初代組長。1910年頃まで淡路島で漁師をしていたが、漁師業に見切りを付け神戸港労務者として移住した。
 当初は神戸市にあった海運業・倉橋組で働いた。倉橋組では持ち前の体力と統率力で小者頭にのし上がった。その後1912年頃、当時 神戸港で造船所の用心棒等を請け負い勢力を持っていた大嶋組の大嶋秀吉の傘下に入った。
 大嶋組の下でも頭角を現し、その勢いに乗って1915年、神戸で沖仲仕約50人を集めて、人夫供給を主業務とする山口組を創設。創設後、人夫供給だけでなく、浪曲興行にも進出し山口組の基盤を確立していった。

その2
「今もヤバイ集団かも知れない藤木企業グループ」

http://www.kit.hi-ho.ne.jp/msatou/07-12/071218gendai-nakada2.htm
■『“ワイセツ合コン横浜市長”ハレンチ徹底追及第2弾 中田宏*1の「公金横領疑惑」と「黒い人脈」、本誌前号「性器に指入れ」報道を「捏造」で「提訴」とは笑止』(週刊現代2007年11月17日号)から、「黒い人脈」の所だけ一部引用
 クリーンでなる横浜市長と、彼の最大の支援者である市の大物実業家の"ただならぬ関係"を本誌は摑んだ。旧メリケン波止場を舞台に、血税ピンハネしていたのだ。ただ呆れるほかない。(青木理・ジャーナリスト)


 中田市長といえば、衆院議員から転じた02年の横浜市長選で政令指定都市の市長として最年少の37歳で当選。「改革」を訴える政界のホープだ。しかし素顔とのギャップは大きいと太田正孝横浜市議が語る。
 「クリーンと言われる市長ですが、イメージとは裏腹に地元での評判は芳しくない。数多くの女性問題のほか、これまでもいろいろと"黒い噂"が囁かれていましたから」
 これ(注:セクハラ疑惑のこと)だけでも市長としての資質を疑うに十分だが、中田市政の病理はさらに根深いところにある。別のベテラン横浜市議が話す。


 「問題の合コンをセットしたBは、中田市長のカネや女など『裏の部分』を担当する側近と言われている。中田市政の裏ではこうした側近や有力支援者らがやりたい放題なんです」


 その一端を示す事例を紹介しよう。舞台は横浜港大さん橋国際客船ターミナル。以前はメリケン波止場と呼ばれた港街・ヨコハマのシンボルである。
 私の手元に「平成18年(2006年)度 横浜市包括外部監査報告書」と題した資料がある。地方自治法に基づき、横浜の弁護士らが中心となった外部監査人が「横浜港の整備運営」と「みなとみらい21地区を中心とする臨海部開発」に関する市の事業の財政支出を監査し、今年1月に横浜市議会議長宛に提出したものだ。いわば、横浜市の港湾行政について、税金の使い方に問題がないかどうか外部からチェックした記録である。
 その中に横浜港大さん橋の国際客船ターミナル管理業務について監査人が「不適切」と断じた事例が明記されている。
 資料によれば、同ターミナルの管理業務は横浜市港湾局から社団法人「横浜港振興協会」に委託され、05年度は清掃管理と緑地管理の業務費として市から同協会に約8600万円が支払われた。しかし、同協会は受託した業務を民間のS社に約3900万円で再委託しているのだ。つまり、同協会は市から請け負った業務をS社に丸投げし、約4700万円もの金額を"ピンハネ"していることになる。市の事業を右から左に移すだけで巨額の利益を得られるのだからずいぶんと"オイシイ話"だが、言うまでもなくこのカネは税金だ。監査に加わった公認会計士の吾妻賢治氏が言う。


 「委託事業を下請けに丸投げして利益を出すこと自体はゼネコンなども行っていることで珍しいことではない。ただ、このケースは利益率が100%以上に達しており、度を越しているので早急に改善すべきだ、と報告しました。この件は市役所内でも問題になっていたそうです」


 なぜこれほどに杜撰な行為が罷り通ったのか。前出の太田市議が憤って言う。


 「横浜港振興協会の幹部に中田市長と睨懇の人物がいるからです」


 その人物とは、同協会の副会長を務める藤木幸夫氏(77歳)*2横浜市中区で港湾関係事業の企業を経営する傍ら、市の関連団体幹部や横浜エフエム放送の社長も務める地元有力者だ。藤木氏自身「尊敬するのは田岡一雄(故人・山口組三代目組長)さん」と暴力団幹部との交友も吹聴しており*3、「地元のドン」として知られている。太田市議が続ける。


 「振興協会の会長には徳川宗家の現当主・恒孝氏が就任していますが、実際はお飾りに過ぎず、事実上の運営は藤木氏が取り仕切っている。当初は中田市長と距離を取っていた藤木氏だが、今や最有力後援者の一人。市長の政治資金集めにも多大な貢献をしています」


 例えば05年4月26日、横浜・桜木町駅にほど近い横浜ロイヤルパークホテルで開かれた中田市長の政治資金パーティー。発起人に名を連ね「主催者」の肩書で挨拶に立っているのが藤木氏である。中田市長の政治資金収支報告書などによれば、3000人近くが参加したこのパーティーで集めた政治資金は実に4300万円にのぼる。


 「市内の港湾・建設業者に対する藤木氏の影響力は絶大。当然、集票力もハンパなものではありません」(前出・支援者)


■有力後援者も「中田はノック以下の男だ」
 そんな藤木氏が「仕切っている」団体が、市の施設の管理業務を市から委託され、民間企業に丸投げして巨利を得ているのだ。中田市政の振る舞いは、有力支援者と一体となって公金を食い物にする行為ではないか。
 藤木氏が横浜市の港湾行政で不明朗な利益を享受している例は他にもある。
 藤木氏の経営する港湾関係の企業『藤木企業』が本牧埠頭内に所有している社員寮の用地使用料についてだ。本来は市に年間1130万円を支払うべき使用料が75%も大幅減免され、実際に支払われているのは280万円ほどに過ぎない。言うまでもなく横浜市が所有する本牧埠頭は市民の財産である。
 これについても前出の監査報告書は「見直しが必要」と指摘している。公認会計士の吾妻氏が呆れて言う。


 「他の自治体では考えられないケースですね。要するに藤木氏の力なのでしようが、あまりに酷い」


 しかし、前出のベテラン横浜市議は「外部監査が指摘しているのは中田市政が抱える闇の一端に過ぎない」と指摘し、前出の支援者はこう打ち明ける。


 「看護学校生とのハレンチ合コンをセッティングしたBと中田市長の関係を取り持ったのも藤木氏だと言われている。クリーンを売り物にした中田市長だが、今や完全に藤木氏に取り込まれ、持ちつ持たれつとなって甘い汁を吸っている。市長の周囲には他にも同様の取り巻きがいて、市政を食い物にしているんです」


 こうした数々の疑問について藤木氏を直撃した。


 「田岡のおじさん(一雄組長)から『人に会うまでは悪口を言うな』と教わったが、中田に会ってその意味が分かった。彼は横浜の将来を託すに足る男だ」


 そう語った藤木氏だが、大さん橋の管理費などの問題については「知らない」と言うばかり。また、中田市長側も「お答えできる立場にない」(市秘書部報道担当者)と言うだけだった。
 しかし、もはや有力支援者からもこんな声が出ていることを、中田市長は肝に銘じるべきだろう。


 「中田は(強制猥褻で有罪となった)横山ノック(元大阪府知事)以下の男だ。最後まで取材を続けて中田のクビを取ってください」


あおき・おさむ:ジャーナリスト。66年長野県生まれ。共同通信に入社後、社会部、外信部、ソウル特派員などを経て06年退社。著書に『日本の公安警察』(講談社)、『北朝鮮に潜入せよ』(同)など

 歴史評論の書評で週刊現代の記事引っ張って、中田叩きやるのなんて俺だけだろうな(苦笑)


■「統制と抵抗のはざまで―近代日本の電信技手と「機上論争」―」(石井香江)
(内容要約)
・まず「機上論争」について説明。
 電信とは電信技手Aから電信技手Bに、モールス信号を送るシステムのわけだが、当初、モールス信号を送るのにはそれなりの熟練の技が必要だった(後に熟練の技などなくても使えるようになるが)。Aがベテランなのに、Bが未熟な場合は仕事がうまく進まないことがある。この時、AがBに対し、「何もたもたやってるんだ、手前」「手前じゃ話にならねえから他の奴に変われ、出直してこい、ヘボ」(もちろんモールス信号なのでもっと簡略された符号だが)などと叱咤激励(?)することを当時の業界用語で「機上論争」という(「どこが論争だ?」と思うが)。まあ、体育会系の職場(はてな民さんに大人気の「王将」とか)で良くあるシゴキの一種と考えればいい。「機上論争」については経営側は、職場の空気が悪くなると否定的であり、未熟な電信技手の問題に対しては、「機上論争」のような非公式で恣意的になりやすい手法ではなく、より合理的かつ公式な手法(職場研修など)で解決しようとしていた。
・ただし、電信技手側には「機上論争」について好意的に受け止める意見もあった(もちろん否定的な人間もいたが)。この現象は体罰やシゴキが横行する名門高校野球部を連想するとわかりやすいだろう。体罰やシゴキを乗り越えて、一軍入りした選手は「あのシゴキがあったから俺は成功できた、甲子園に行けた」と好意的に理解するかも知れないが、二軍で終わった人間やシゴキのせいで怪我して病院に入院した人間などはとてもそんな風には思えないだろう。そして、野球部のたとえを続けると、「機上論争」とは高校側(経営側)は「シゴキはやめたい」「もっと合理的な指導で甲子園を」と思っていたが、3年生やOBが野球部を事実上支配しており、シゴキが撲滅できないという状況だったのだろう。
・どうでもいいけど、本当に日本人って(「しごける立場の人間だけかも知れないが」)「シゴキ」大好きだよな、と思った。


■「『我らのニュース』*4にみる雇員・傭人の文化―1931年の官吏減俸反対運動における―」(佐藤美弥)
(内容要約)
・1931年の官吏減俸とは当時の幣原内閣によるコスト削減の一方策である。
佐藤論文の理解では、従来の「官吏減俸反対運動」研究は、高級官僚の動きに着目するモノが多かった。しかし、減俸対象者には雇員・傭人というノンエリートもおり、その運動は当時の左派労組・全協が支援している。高級官僚のみに着目することは妥当でないというのが筆者の見解である(他の見解はよく分からなかった)。


■「『産業戦士』の世界―総力戦体制下の労働者文化―」(佐々木啓)
(内容要約)
・一部内容が藤野論文とかぶる。藤野論文も指摘しているが日本の戦前下層労働者にはある種のヤクザ的なところがあった。
 しかし、こうした状況を変えなければ「総力戦」には対応できないと政財官界は考えるようになる。労働者を「飲む・打つ・買うのヤクザ」ではなく「勤勉な産業戦士」へと変える必要があると政財官界は考えた。しかし戦後の「株式会社ニッポン」時代はともかく、戦前において政財官界は「勤勉な産業戦士」をつくり出す方法論をついに提示できなかった。


■「イギリス労働者文化のメタヒストリー―「経験」から「物語」への転回―」(長谷川貴彦)
(内容要約)
・イギリスの労働者文化についての研究書の紹介とそれについて筆者のコメント。
 はっきり言って、筆者が取り上げた研究書について一定の理解がないと、この論文の評価は無理である(そして俺にはそんな理解はない)。
 ちなみに、筆者が紹介した研究書は次の通りである(邦訳があるモノに限定)。


エドワード・パルマー・トムスン『イングランド労働者階級の形成』(邦訳、青弓社、 2003年。ただし原著は1963年)
ステッドマン・ジョーンズ『階級という言語:イングランド労働者階級の政治社会史・1832〜1982年』(邦訳、刀水書房、2010年。ただし原著は1983年)

参考

エドワード・パルマー・トムスン(ウィキペ参照:1924年2月3日〜 1993年8月28日)
 イギリスの歴史家、社会主義者平和運動家。
 18世紀末から19世紀初頭にかけての、英国のラディカルな社会運動をめぐる著作『イングランド労働者階級の形成』(原著1963年)の著者として最も有名だが、彼はまた、ウィリアム・モリス*5の伝記 (1955年) およびウィリアム・ブレイク*6についての研究書 (1993年、出版は彼の死後) を出版しているほか、多産なジャーナリスト、エッセイストでもあり、さらには『シカオス文書』というSF小説や詩集を出版してもいる。イギリス共産党の知識人メンバーの一人であり、 1956年のハンガリー動乱への対処をめぐって、ソ連批判から離党することになったが、1950年代末期の英国における第一次ニューレフトにおいて重要な役割を担った。彼は、1964〜1970年及び1974〜1979年のウィルソン、キャラハン労働党政府に対する、意気軒昂な左翼・社会主義の論客であり、1980年代には、ヨーロッパにおける反核運動を先導する知識人であった。


■第一次ニューレフト
 1956年のフルシチョフスターリン批判後、トムスンはイギリス共産党内部で、『リーズナー』という名前の反体制出版物を出し始めた。その後に、彼は自分の同志のほとんどとともに、ハンガリー動乱に失望して、共産党を離党した。
 だが、彼は「社会主義ヒューマニスト」と呼んだ立場にはとどまり、『ニューリーズナー』誌を立ち上げた。『ニューリーズナー』は、「ニューレフト」として、つまり1950年代末や1960年代初頭における核軍縮に向けた初期の運動と密接に結びついた反体制左翼の非公式運動として知られるようになったもののうちで、もっとも重要な機関誌であった。
 『ニュー・リーズナー』誌は、1960年に、『大学および左翼評論』誌と合併し、『ニュー・レフト・レヴュー』となったが、トムスンらは後にペリー・アンダーソン*7を中心とする集団と仲違いをし、袂を分かった。そのため、トムスンたちを「第一次ニューレフト」、1968年以降にタリク・アリとさまざまなトロツキストたちを抱き込んだ、アンダーソンやその仲間たちの集団を、「第二次ニューレフト」と呼ぶことがある。
 トムスンはその結果、『ソシアル・レジスター』年報の出版者と組むことになり、ハロルド・ウィルソン労働党政権(1964〜1970年)への、左翼からの主要な異議申し立てのひとつである、1967年の『メーデーマニフェスト』の編者のひとりとなった。


イングランド労働者階級の形成
 トムソンの著作のうち最も影響力があったのは、リーズ大学で研究をしていた1963年に出版された『イングランド労働者階級の形成』であり、その影響は今も続いている。それが語るのは、18世紀末から19世紀初頭の世界から取り残された初期労働者階級の人びとの忘れられた歴史である。この著作の序文で、トムスンは次のようにして、歴史を書くための自分のアプローチを説明している。


「わたしが試みているのは、貧しい靴下職人、ラッダイト運動の小作人、『時代遅れ』の手織り織機工、『ユートピア的』職人たちであり、さらには、恥知らずな子孫たちによって裏切られたジョアンナ・サウスコット*8の仲間たちさえ、救おうとすることなのである。彼らの工芸や伝統は死にゆくところだったのかもしれない。新たな産業主義に対する彼らの敵意は、後ろ向きのものだったかもしれない。彼らの協働主義的な理念は空想的だったかもしれない。彼らの反乱謀議は向こう見ずなものだったかもしれない。だが、彼らは先鋭な社会的騒動の時代を生き抜いたが、わたしたちはそうではない。彼ら自身の経験からしてみれば、彼らの野望も妥当なものだといえる。そして、もしも彼らが歴史の因果性なのだとしたら、彼らは、彼ら自身の人生のなかに追い込まれ、因果性として残り続ける。」


 この著作は調査と分析による労作であるとともに、史料編纂という意味においても重要である。これによってトムスンが示そうとしたのは、マルクス主義歴史学の力は、現実の血の通った労働者の経験に由来するものであるということである。この本はその出版以来、40年以上にわたって、大学での読書リストのなかにその題名が残り続けている。


平和運動についての発言
 1980年以後、トムスンは、核軍縮運動におけるもっとも突出した知識人となり、世界各地の活動家たちの尊敬を集めた。英国において、政府の小冊子「防衛と生存」のパロディである、彼のパンフレット「抗議と生存」は、反核キャンペーンが勢いを取り戻すにあたって重要な役割を果たした。それと同じく重要なことは、トムスンは、ケン・コーツ、メアリー・カルドー*9らとともに、1980年のヨーロッパ核軍縮アピールの著者の一人として、ポーランドからポルトガルにいたるヨーロッパ非核地帯の呼びかけを行っており、それがヨーロッパ非核運動の設立文書となった。

トムスンが書き終えた最後の著作は『野獣に逆らう証人――ウィリアム・ブレイクと道徳律』(1993年)であった。数年間を研究に費やし、彼の死のすぐあとに出版されたこの作品は、ブレイクが反体制的宗教理念からどれほどの着想をえており、それがイングランド市民戦争の時代における、君主制にもっともラディカルに反対する思考にそのルーツを持ったものだったということを説得的に示している。


■私生活
 トムスンは歴史家ドロシー・タワーズと1948年に結婚した。彼女はチャーチスト運動における女性たちについての研究、ヴィクトリア女王についての研究で貢献をしているほか、バーミンガム大学において歴史学の教授をつとめた。


■主要著作
単著
 『イングランド労働者階級の形成』(青弓社, 2003年)
 『ゼロ・オプション――核なきヨーロッパをめざして』(岩波書店, 1983年)
編著
 『新しい左翼――政治的無関心からの脱出』(岩波書店, 1963年)

共編著
『世界の反核理論』(勁草書房, 1983年)

 なんか何かから直訳してるとしか思えない分かりづらい文章だな、ウィキペ。

■追悼・野沢豊&斉藤孝
今月号には、笠原十九司*10が野沢豊氏の、羽場久美子氏*11 が斉藤孝氏の追悼文を書いている。
野沢、斉藤両氏についてご著書を紹介してみる。

野沢豊
著書
孫文と中国革命』(1966年、岩波新書)
辛亥革命』(1972年、岩波新書)
『日本の中華民国史研究』(編著、1995年、汲古書院

斉藤孝(1928年11月2日〜2011年1月28日:ウィキペ参照)
 日本の歴史学者国際政治学者。学習院大学名誉教授。

■著書
第二次世界大戦前史研究』(東京大学出版会 1965年)
『現代世界の史的考察――国際政治と日本』(東京大学出版会 1966年)
『スペイン戦争――ファシズムと人民戦線』中公新書 1966年/中公文庫 1989年)
『学術論文の技法』(日本エディタースクール出版部 1977年)
戦間期国際政治史』(岩波書店 1978年)
歴史学の周辺』(東京大学出版会 1979年)
『スペイン・ポルトガル現代史』(山川出版社 1979年)
『昭和史学史ノート――歴史学の発想』(小学館 1984年)
『歴史と歴史学』(東京大学出版会 1985年)
『国際政治の基礎』(有斐閣 1988年)
『ヨーロッパの1930年代』(岩波書店 1990年)
『歴史の感覚――同時代史的考察』(日本エディタースクール出版部 1990年)
歴史学へのいざない』(新曜社 1993年)
『同時代史断片』(彩流社 1998年)

*1:今は無役。頼むからこのまま政治的にのたれ死んで欲しい

*2:藤木幸太郎の息子である

*3:そもそも父親・幸太郎がヤクザで田岡とは同盟関係にありましたから

*4:官吏減俸反対運動で当時の逓信省雇員・傭人が発行した闘争機関誌

*5:ウィキペ曰く、19世紀イギリスの詩人、デザイナー、マルクス主義

*6:ウィキペ曰くイギリスの画家、詩人

*7:ウィキペ曰くイギリスの左派歴史学者。著書『古代から封建へ』(刀水書房, 1984年)、『西欧マルクス主義』(新評論, 1979年)、『ポストモダニティの起源』(こぶし書房, 2002年)。『想像の共同体』で知られる歴史学者ベネディクト・アンダーソンは彼の兄。

*8:ウィキペ曰く、自称「宗教予言者」

*9:ウィキペ曰く、イギリスの政治学者。著書『兵器と文明』(技術と人間, 1986年)、『新戦争論――グローバル時代の組織的暴力』(岩波書店, 2003年)、『グローバル市民社会論――戦争へのひとつの回答』(法政大学出版局, 2007年)、『「人間の安全保障」論―グローバル化と介入に関する考察』(法政大学出版局, 2011年)

*10:著書『南京事件』(岩波新書, 1997年)、『南京事件論争史――日本人は史実をどう認識してきたか』(平凡社新書, 2007年)

*11:著書『拡大ヨーロッパの挑戦――アメリカに並ぶ多元的パワーとなるか』(中公新書、2004年)