田中角栄の原発政治家ぶりを新潟日報で学ぼう

「新刊紹介:「前衛」11月号(追記・訂正あり)」
http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20111016/5421309876、で少し紹介しているが。

新潟日報 新聞協会賞受賞・長期連載「揺らぐ安全神話柏崎刈羽原発

■第3部 なぜ未開の砂丘地に
 東京電力が未開の砂丘地に柏崎刈羽原発を建設する計画を発表したのは1969年9月だった。それから38年目の今年(注:2007年)7月、同原発中越沖地震による激しい揺れに襲われ、大きなダメージを受けた。地元が地域振興の夢を描いて砂丘地に導いた同原発は依然、全号機の運転停止が続き、日本海から吹く季節風にさらされたまま、静かに年を越そうとしている。首都圏などを電力供給エリアとする東電がなぜ、遠く離れた本県の砂丘地に進出したのか。地元はなぜ誘致に動いたのか。未開の砂丘地をめぐる駆け引き、原発建設の妥当性が争われた地盤論争を含め、立地に至る経緯を関係者の証言をたどりながら探った。

http://www.niigata-nippo.co.jp/jyusyou/report/04_04.html
■第3部・第4回 電源三法『元首相が「生みの親」、誘致は理研人脈を発端に』(2007年12月14日)
 「責任を感じている。柏崎に原発を呼んできたのは父ですし…」。東京電力柏崎刈羽原発が被災した中越沖地震の発生から10日後の7月26日。元首相田中角栄の長女で衆院議員の真紀子(63)は新潟市のホテルで、参院選を戦う民主党候補の応援演説の中でこう語った。
 同原発の建設予定地をめぐる土地売却益約4億円が届けられた元首相邸。主の田中は原発誘致にどうかかわっていたのか。
 地元が誘致を決議した1969年当時、自民党幹事長として抜群の政治力を示していただけに、さまざまな憶測を呼んできた。


 「どこまで立ち入っていたのかはっきりしない。資源外交に努めていたのは分かるが…」。


 原子力産業の発展を目指して五六年に設立された日本原子力産業会議(原産会議。現:日本原子力産業協会(原産協会))の元専務理事・森一久(81)は考え込んだ。
 森は原産会議に設立時から約50年間勤務した。業界の生き字引的存在だ。約50年前にあった原子力に関する国の審議会答申内容をよどみなく語る森だが、田中が表立って誘致に動いた記憶はないという。
 柏崎刈羽原発建設に携わり、同原発所長も務めた宅間正夫(70)は推測する。「(誘致の経緯を記した)書物で田中さんの名前を見たことはない。政治問題にさせないため、表に出るのを避けたのだろうか」
【親密な付き合い】
 ただ、森は田中と原発との接点と考えられる人物を1人挙げた。森が長年仕え、原産会議副会長も歴任した松根宗一(故人)だ。
 1954年、理研ピストンリング工業(現・リケン)の会長に就任すると同時に東電顧問となる。63年に柏崎市長になったばかりの小林治助(故人)に原発誘致を勧めた人物である。
 松根は愛媛県宇和島市出身。日本興業銀行に勤めた後、理研に入った。電力業界でつくる電気事業連合会副会長にも就いた。「電力業界生え抜き以外の副会長は松根さんの後にも先にもいない」と森。屈指のエネルギー事情通だった。
 森は、松根と田中が同席した場面に一度だけ立ち会ったことを覚えている。田中は「松根さん。娘(真紀子)をもらってくれる人が決まって本当に良かった」と喜んでいたという。だが、原子力の話はなかった。
 森は「松根さんは『今日、角栄さんがこんなことを言っていた』とよく私に話してくれた。2人は非常に親しかった。自宅も近かった」と振り返り、原発誘致に関する推測を口にした。「どちらかというと松根さんが勧め、田中さんが話に乗ったのではないか」
 田中の地元筆頭秘書を務め国家老と呼ばれた本間幸一(85)は松根との面識はないと言う。「うち(田中)は理研とのつながりはあった(俺注:確か田中が土建屋時代、理研の工事を請け負っている)。東京で何かあったのかも知れないが、松根さんがどう絡んだのかは知らない」と話し、「(田中から)原発誘致に関する指示を受けた記憶はない」とする。
 参院選の演説で父角栄の誘致関与を示唆した真紀子。しかし、発言内容を確認すると「周辺の人から伝え聞いただけ。父はエネルギー政策は重要とよく言っていたが、父から原発の話を聞いたこともないし、個別に話したこともない」と答えた。
【総辞職の半年前】
 柏崎刈羽原発誘致に限っては具体的な動きが見えない田中。だが、首相時代の74年6月、原発立地自治体に多額の交付金を配分する電源三法を「生みの親」として成立させ、原発推進の表舞台に立つ。田中内閣総辞職の半年前だった。
 電源三法の発案者は柏崎市長・小林とされる。69年の誘致決議を機に原発建設への行程は順調に進むかに見えた。だが、大きな試練が小林を待ち受けていた。

http://www.niigata-nippo.co.jp/jyusyou/report/04_05.html
■第3部・第5回 地盤論争再燃『中越沖で活断層発覚、国の審査に不信廃炉論も』(2007年12月16日)
 東京電力柏崎刈羽原発建設当時に既に存在していた活断層疑惑。初の原発震災を引き起こした中越沖地震は疑惑を再燃させた。東電は5日、地震後の海域調査を踏まえ、柏崎刈羽原発の設置許可申請時の評価を覆して活断層と認めた。同時に、2003年には原発周辺の海底に活断層の疑いがある断層7本の存在を把握しながら公表せず、隠ぺい体質を露呈した。
 柏崎刈羽原発反対地元3団体の佐藤正幸(63)は「立地場所を決めてから東電が地盤を調べる。途中で地盤の劣悪さが指摘されても後戻りせずに安全審査は進んだ」と国への不信感を語る。
 「1号炉真下に断層 新潟大教授が判定」「東電側は確認せず」。東電が柏崎原発建設の用地買収をほぼ終えようとしていた1974年8月、本紙は社会面トップで報じた。69年の誘致決議と相前後して各地に反対組織が結成されていた地元には衝撃が走った。この時期を境に反対派と東電との間で建設予定地の地盤論争が一気に熱を帯びた。
角栄の地盤だ】
 原発誘致を実現した柏崎市長・小林治助(故人)は苦況に立たされる。自宅には脅迫電話も掛かってきた。小林の長男正明(66)=後に治助に改名=は「おやじは『(誘致に動いた)選択が本当に正しかったのか。これだけ説明してなぜ理解されないのか』と苦悩していた。口にはしないが、後ろ姿を見れば分かった」と父の心情を代弁した。
 柏崎原発反対同盟(70年結成)などは新潟大学教授らの協力を得て、地盤調査に乗り出し、原発敷地の「地盤は劣悪」と早くから主張。後に活断層の存在を指摘した。現在、最高裁で係争中の1号機設置許可取り消し訴訟に発展する。
 柏崎刈羽は、東電が自ら原発用地買収に当たる初のケースとなった。県が用地買収を担った福島原発とは事情が異なる。そこに地盤論争という新たな重圧が加わり、買収に七年の歳月を費やした。
 1号機訴訟の一審で原告団長を務めた元県議の田辺栄作(94)は「東電は、田中角栄の地盤だから反対運動はひどくならないと思ったのだろう」と振り返る。
【県に判断求める】
74年11月、小林は一つの決断をする。住民の地盤に対する不安に応え、国への設置許可申請の手続きに待ったをかけた。東電に申請保留を申し入れ、第三者の県に地盤問題の判断を求めた。県は翌75年2月、「小断層はあるが工学的にも処理できる。支障はない」との見解を発表。東電は、1カ月後にようやく国に設置許可申請をした。
 小林自身に地盤への不安はなかったのか。長男正明は「父は孤立無援の中で頑張り通した。実際、ぐらぐらしたときもなかったわけではない。説明すれば分かるというスタンスで、市民合意を重視した」と話す。
 柏崎商工会議所の前専務理事・内藤信寛(67)も「反対派にも必ず面会した人。市長の心身はぼろぼろになった」と打ち明ける。
 一方、反対同盟元代表で小林との交渉でも先頭に立った元柏崎市議・芳川広一(84)は、県に見解を求めた小林の判断には複雑な思いがある。「市では判断できず、県に調査を預けた。われわれは地盤の弱さは想定済みだった。中越沖地震の揺れを想定外と言う東電に原発を造る資格はなかったのだ」と憤りを隠さない。
 市民の合意形成に苦しんだ小林は75年に4選を果たすが、その後体調を崩し、79年8月、市長退任からわずか4カ月後にこの世を去った。
 世界最大級の柏崎刈羽原発に初めて大きな震災を引き起こした中越沖地震は、国の安全審査への信頼性を根底から覆し、「廃炉論」まで出ている。その激震は、原発直下の活断層をあぶり出し、「砂上の原発」の存続基盤を大きく揺るがせている。(文中敬称略)

■主な参考文献=順不同
「評伝柏崎市小林治助」(吉田昭一)「明日への創造」(柏崎商工会議所)「柏崎市史」(同市)「東京電力三十年史」(東京電力)「関東の電気事業と東京電力」(同)「田中角栄研究全記録」(立花隆)「泥田の中から」(田辺栄作)「田中角栄の元側近36年目の衝撃証言」(森省歩=現代・2002年5月号)ほか。