今日もid:noharra氏に突っ込む(11/6分)(追記・訂正あり)

 よーし、きょうもおじさん、大嫌いな「珍右翼」id:noharra先生を批判しちゃうぞ。最近どんなつまらないことでも野原に突っ込む俺。

【その1】

@yongsugi さん、私にはあなたの人生を否定したり批判したりする権利はありません。(id:noharraツイッター

いちいち断らなくたって手前ごときゴミに人の人生を否定する権利なんかあるとは誰も思ってないから。バカは黙ってろよ。できればサファリパークのライオンのえさにでもなって「千の風」になって欲しいんだけど(毒)。

総連はそうした論理のすり替えを大宣伝しますが。

論理すり替えてるのは「朝鮮学校無償化除外反対、在日差別反対」と言っただけで俺を北朝鮮シンパ扱いした手前の方だろうが。

私は萩原遼氏の提起に同意します。税金不投入については保留。

・教科書に問題があるという「それだけの提起」だったら他の人間はともかく、少なくとも俺は萩原を批判しない。萩原においては「教科書の問題と無償化の問題」が一緒になってるんだから「教科書に問題があると思うけど無償化除外には反対です」と言う人間の「教科書批判」ならともかく、萩原の主張のウチ「教科書批判」だけ取り出して評価するなんてわけにはいかないだろ。
いい加減「朝鮮学校への批判自体はどんな批判でも問題ない(デマはまた別だが)」が「権力が自分の価値観を元に朝鮮学校へ『改革』をごり押しすることは思想の自由を侵害する許されない行為だ」という事ぐらい理解しろよ。
・税金不投入を支持してる「守る会」会員の癖にいつまでそう言うふざけた物言いしてれば気が済むんだか。
「守る会」会員であると言うことは税金不投入支持と同じだろうが。大体「朝鮮学校生の人権がかかってる話」で保留とか言って恥ずかしくないのか?。

問題をすり替えてシンパを獲得する総連の方針が愚

朝鮮学校無償化除外は差別だという総連の主張はすり替えでも何でもない「事実」だろうが。萩原の主張する「朝鮮学校教科書に問題がある」という主張が正しければ(もちろん正しいかどうかも議論の余地があるが)除外論に一理あるとでも思ってるのか、手前は?
そしていい加減除外反対と言うだけでシンパ扱いするんじゃねえよ、屑。


【その2】

@yongsugi 子どもたちの学ぶ権利が侵害されることはあってはならないと感じます。> おっしゃるとおりです。(id:noharraツイッター

いや、お前は朝鮮学校無償化除外を主張する「守る会」会員なんだから「子どもたちの学ぶ権利」侵害してる一員だろ?。心にもないことは言うなよ。それともバカなのか?。yongsugi氏もお前には呆れてるか、怒ってるんじゃねえの?

@kiyoekawazu 何度もすみません。金時鐘は、もっとダイレクトに社会を感受しつながる詩を詩人は書けるはずだし書くべきだ、みたいな事を言っているが賛成だ。河津さんの意見も同趣旨のようでその意味では賛成だ。(id:noharraツイッター

・おやおや、俺の理解では河津聖恵さん(kiyoekawazuさん)は「朝鮮学校無償化除外批判派のお一人」で「社会につながる詩として朝鮮学校無償化問題を取り上げていた」と思いますが、俺に対する態度のように「悪意はないが、総連に踊らされてる哀れな人」や「北朝鮮シンパ扱い」しないのですか?(河津氏と野原のやりとりは面倒なのでチェックしてないがもしかしたら「その意味では」という奥歯に物の挟まったような物言いがそう言う意味なのかも知れない)
えーと、朝鮮学校無償化除外反対派でも、河津さんのような「ある種の権威(詩人)」とか「利用できそうな人」とか「怒らせたら後が怖そうな人」にはそうやって猫なで声で、俺みたいな無名の小物にはいきなり罵倒ですか?。本当に野原ってキモイなあ、人間性疑うぜ(毒)
・なお、俺はこのブログを書いてるだけなので詩集を出したり、村井知事宛抗議文を送ったりする河津氏には本当に頭が下がるというか感動するというか。

参考

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/03/post-f5bf.html
フットチーネさんの抗議文
最近リンクさせてもらったフットチーネさんの抗議文。ご本人の許可も得たので、ご紹介します。
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埼玉県知事 上田清司

突然のご意見、失礼いたします。
私は埼玉県民ではありませんが、このたびなされた埼玉県政の決定に意見したいことがあり、ご連絡差し上げました。
今回ご意見したいことは、今回埼玉県の朝鮮学校への補助金支給を保留(事実上の中止)を決定したことであります。
これは明確な民族差別ではないでしょうか。
至急、県政の決定を変更し、例年通りの補助金支給を継続されることを強く求めます。
朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)の政府による、日本人拉致事件は由々しき人権侵害であり、国家犯罪であります。
しかしこの事件に、どれほど日本の朝鮮学校が関わったというのでしょうか。
ほぼ関与はなされていないのではないでしょうか。
また朝鮮総連のという事実上の在日北朝鮮大使館が運営に関わっているとはいえ、朝鮮学校在日朝鮮人の方々の有志による運営であります。
つまり事実上のボランティア運営ではないでしょうか。
このような学校運営が、どのように拉致事件という犯罪に関与できるのでしょうか。
組織的、直接的、間接的にもほぼ皆無ではないでしょうか。
このような誤った民族差別認識、事実誤認によって在日朝鮮人の子どもたち学生たちの学ぶ権利が侵害されることは、明確な人権違反です。上田知事はすぐさまこの決定を再考のもと、変更されるべきです。
いかなる国家に所属するか、民族的出自にあるかによって差別されることはあってはなりません。
どのような社会にあってもです。これは社会的な犯罪といえるでしょう。
このような民族差別、社会的犯罪が許されるのであれば、今後日本人の子どもたち自身が間違った歴史観、文化的価値感を持つこととなるでしょう。
これは日本国が正義を追求しないこととなります。犯罪であるとともに文化的損失であります。
また日本はかつて朝鮮半島を植民地支配し、半島および韓国・朝鮮民族の方々に多大な苦難を背負わせました。
このなかで言われなき差別が行われてきました。
そしてこの差別および偏見は戦後も日本社会に浸透しており、容易に拭い去ることができない課題でした。
このなかで、在日朝鮮人の方々は「せめて自分たちの子どもたちには、自らの出自を恥じることのない教育を」という思いで朝鮮人学校が設立されたのではないでしょうか。
この朝鮮学校に対する行政的圧迫は、日本が歩んできた植民地主義という負の歴史を忘却することと等しいことです。
全ての人間は平等に扱われなければならない。全ての人間は、教育と文化を享受すべきだという普遍的理由。
そして日本と朝鮮半島に横たわる、植民地支配という悲劇に対する個別的理由。
この普遍的理由と個別的理由から、私たち日本社会は朝鮮学校を受け入れ、日本人の公立・私立学校と同等に扱う必要があると思われます。
またそれ以上に、差別を解消するための積極的な政策を講じるべきです。
今回の県政に対する再考と変更を強く求めます。

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/03/post-d35b.html
人間の醜さにみちた決定です
ヤドリギ金子さんから知らせを受けました。

宮城県議会が、東北朝鮮初中級学校への平成23度分の補助金を打ち切る決定を下したそうです(→http://sankei.jp.msn.com/life/news/110331/edc11033115020002-n1.htm)。

元陸軍自衛官だという知事と、恐らく自民党を中心とした議員たちが、ここぞとばかり議決したと推測します。ぞっとします。
今、他の日本の学校同様に被災に苦しみながら、日本人に炊き出しをし、共生のために努力している東北朝鮮学校と、
利権のために原発行政を進め、私たちの未来を破壊したことに対して謝罪もせず、ゼネコンのための大型公共事業費や自分たちの海外視察費などの血税の無駄遣いには素知らぬ顔を通す心根の醜い自民党議員たちの、
どちらが日本の未来にとって必要なのか、日本に希望をもたらす存在なのかは、明らかでしょう。
このニュースは、政治的どころか人間の醜さにみちみちています。
こうした心根のもうどうしようもない人々にどんな抗議がふさわしいのか、しばらく考えます。

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/04/post-4724.html
人として宮城県知事に抗議しましょう!
宮城県朝鮮学校への補助金不交付決議が、震災という悲劇に乗じて、朝鮮学校をつぶそうというとんでもない仕打ちであることは明らかです。人として反対の意志を表明しましょう! 宮城県知事および宮城県当局は、不交付決定をすぐに取り消すだけでなく、人として公式に謝罪しなくてはなりません。

宮城県知事への抗議の送り先
FAXの場合 022−211−2297
宮城県総務部行政経営推進課
知事への提案「明日のみやぎに一筆啓上!」係
抗議メール入力フォーム
https://www.e-tetsuzuki99.com/eap-jportal/PkgNaviDetail.do?lcd=040002&pkgSeq=31862
(2000字以内の抗議文が送れます)

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/04/post-7e42.html
宮城県村井知事へ二度目の抗議文を書きました
 たくさんの友人・知人が抗議してくれたにもかかわらず、宮城県知事が決議を撤回したという知らせが入りません。それで私も村井知事への二度目の抗議文を以下のように書きました。『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』の朗読会用冊子も同封して、明日書留で送ります。

*****
村井嘉浩知事殿
 被災地での間断なき陣頭指揮に深い敬意を表します。
 私は、昨年8月に詩人・歌人79名による『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を発行した詩人の河津聖恵です。東北朝鮮学校の件で再度のお便り(前回はメールにてお送りしました)を失礼致します。
 昨日4月4日、私の住む京都の地元紙である京都新聞夕刊に掲載された記事をお送りします。記事は、日本人と朝鮮人がいかに今、被災を受けた素裸の人間同士として助け合い、励まし合っているかを伝えています。福島と宮城の朝鮮学校のそれぞれが地域の拠点として役立っており、教師たちがみずから被災しながらも、他の被災者のために炊き出しを行っているということです。私はこの記事に感動しました。また、被災地で日本人と朝鮮人が助け合い、理解し合っているという事実に安堵しました。被災地から遥か遠くにいる私自身の方が、逆につよく励まされたほどです。
 知事はこの記事をどう読まれるでしょうか。
 私は知事に、宮城県議会の東北初中級学校への補助金不交付決議を、撤回していただきたいとつよく願います。この京都新聞の記事からも、今回の決議が、宮城県住民の意思を反映していないことは明らかではないでしょうか。
 まず地方行政は、首長と議会だけのものではなく、まず第一に住民たちの意思を反映したものでなくてはならないはずです。決議は、日本人と朝鮮人の市民達の間に生まれつつある相互扶助と相互理解の芽を摘むものです。もしこの決議が実行されるならば、住民のよりよい生活と未来を第一に考えるべき地方行政が、トップダウンで住民の間に差別や分断をもたらす結果となる決議を下したことになります。宮城県政史においても確実に最大の汚点となるに違いありません。
 今回の不交付は国の基準に倣ったものと聞きましたが、そもそも住民のためにある宮城県という共同体が、日本国家という政治的共同体の真似をすべきでしょうか。むしろ県は、国家には出来ないこと、手の届かないことを、やっていかなくてはならないのではないでしょうか。国家が引き裂きがちな人と人とのつながりを、国家に抗ってでも、みずから固有の風土の中で育むべきではないでしょうか。
 今回、貴地では、炊き出しの現場として初めて朝鮮学校に入った人も多いはずです。避難者たちは、朝鮮学校で接した教師や生徒達の姿に、人間本来の温かさや生きる力を感じたのではないでしょうか。
 国家は朝鮮学校を理不尽に排除しています。しかし地域においても、根強い差別感のために学校を訪れる人は少ないのです。だから、今回の震災を契機に東北初中朝鮮学校において生まれた人と人との絆はまさに奇跡なのです。
 知事にお願いします。この被災という未曾有の危機に対し一緒に立ち向かわなくてはならない日本と朝鮮の人々の間に生まれたつながりの芽生えを、理不尽な補助金不交付決議によって踏みつぶさないで下さい。地方行政の側から住民にあらぬ相互不信をもたらさないで下さい。今生まれつつある民間の日朝友好に対し、安易に国家と同じ立場を取って水を差し、日朝対立へと暗転させないで下さい。 
 被災によって負った心の傷は人と人のつながりからしか癒されません。人と人とのつながりこそが、今、光であり希望です。どうか宮城県という地方自治体の誇りと優しさによって、国家とは違う立場で、朝鮮学校を舞台にあらたに始まった友愛を、育んで下さい。貴県から日本を、共に生きる新たな共同体へと変えて下さい。
 どうか、宮城県という地域の未来のためにも、東北初中級学校への補助金不交付を撤回して下さい! つよくつよくお願い申し上げます。
2010年4月5日
      河津聖恵

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/04/post-1e7e.html
埼玉・宮城両県知事へ石原吉郎の言葉をおくります
先日このブログでお伝えした埼玉朝鮮学校への補助金不支給見送りの件ですが、
本日の水野崇さんのコメントにあるように
埼玉県は二転三転し、4月5日に結局補助金不支給の決定を下しました。
先ほど、埼玉県の担当者に再度電話を掛けました。
詳しい者が席を外しているとのことでしたが、とりあえず出た女性は、やはり、校地が抵当に入っていることを理由にあげました。
しかし先日も書いたように、朝鮮学校の校地は地元の反対などで移転を繰り返し、借金を背負わされてしまったという、日本社会の側の責任が大きいですし、そもそも国の援助は一切ないのだから、財政難は当然なはずです。そして朝鮮学校は日本が奪った母国語を学ぶ場所なのですから、日本が母国語や母国の文化を安心して学ぶために支援するのは当然です。
言葉を奪った者はその言葉を返さなくてはならない、という四方田犬彦さんのテーゼはあたりまえです。そしてそのように責任を取ることが、マイケル・サンデルのいう、国家という共同体の人格を作っていくのです。
昨年から埼玉の上田知事と宮城の村井知事は、揃って、朝鮮学校への補助金の不交付を主張しだしました。過去からあった財政の問題を口実にして(財政の「不健全」などという誤解を招く言葉を強調して)、両知事の主張の背景には、政治的な背景があることは一目瞭然です。
朝鮮学校をつぶしたい、そうすれば過去を水に流せるから。かれらを支持する人はそうたくらんでいるのでしょう。しかし、放射能が水に溶けないように、犯した過去の罪は消えるものではありません。みずから犯した罪と向きあわないことは、国家という人格をメルトダウンさせていくだけです(在特会を想起して下さい)。
もはや憤りも悲しみも感じません。詩人の石原吉郎が伝える、シベリアの強制収容所で取り調べを受けた友人鹿野武一が、取調官に言った言葉が、胸に炙り出されてきます。


「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」


石原は「この言葉は挑発でも抗議でもない。ありのままの事実の承認である」と書いています。そうです、上田知事に対しても、村井知事に対しても、私たちは怒りや悲しみを覚える必要はありません。鹿野の言葉どおり、ありのままの事実を突きつければいいだけです。そしてもはや「人間」を「日本人」といいかえてもいいのです。

俺も上田、村井両知事に石原吉郎の言葉を贈った河津さんをマネしてid:noharraと奴が会員だというレイシスト集団「守る会」に石原吉郎の言葉を贈ろう。
「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」
「この言葉は挑発でも抗議でもない。ありのままの事実の承認である」

【追記】
これに対する,id:noharraのツィート

「俺もid:noharra石原吉郎の言葉を贈ろう。「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」「この言葉は挑発でも抗議でもない。ありのままの事実の承認である」 シモツカレ=どっと疲れ氏 からお言葉頂戴した。

で、俺のお前への言葉の贈呈なり、河津氏の知事への言葉の贈呈なりについてお前はどう思うの?
河津氏は、除外批判派なのにお前が河津氏を非難しないでキモイ猫なで声ですりよってるのはどういうことかね?
そしてツィートで俺のエントリにリンク貼らないのはどういう事かね?

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/04/post-2b5f.html
「初めての傍聴」
本日、京都地裁にて在特会の第4回口頭弁論が行われました。
私も傍聴に行ってきました。
初めての裁判の傍聴です。
このブログでも何度か書きましたが
私が朝鮮学校無償化除外反対の活動をするようになったのは、
直接的には朝鮮学校見学の直後に除外問題が起こったことによりますが
その心理的な遠因として
この一昨年に起こった京都の初級学校に対する襲撃事件の場面を
動画で見て受けた途方もないショックがありました。

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/05/post-020c.html
『ハッキョへの坂』を紹介してくれたブログとHP

これまでに新詩集『ハッキョへの坂』を紹介してくれたブログとHPです。

野樹かずみさんのブログ→ http://yumenononi.blog.eonet.jp/default/2011/05/post-fb5b.html

Santaさんのブログ→ http://ameblo.jp/santanomiruyume/entry-10882700114.html

森卓司さんのブログ→ http://lamium.blogspot.com/2011/04/blog-post.html

佐川亜紀さんのHP→ http://www2u.biglobe.ne.jp/~sagawa/

他にブログやHPでの記事を見かけましたら、私の方までご一報下さい。
それから同詩集は店頭だけでなく、アマゾンなどネットで入手できます。ぜひご利用下さい。

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/05/post-d125.html
「本日付京都新聞に『ハッキョへの坂』の書評が掲載されました」
授業料無償化除外に衝撃受け詩集出版
 京都市在住の詩人、河津聖恵さんが、詩集「ハッキョヘの坂」を土曜美術社出版販売から出版した。高校授業料無償化からの朝鮮学校除外への反対を訴えた際に生まれた詩を中心に、20篇が収められている。
 河津さんは全国の詩人に呼びかけて除外反対の抗議アピールを出したり、アンソロジー発刊などの活動をしている。無償化適用の審査は、昨年11月の北朝鮮の韓国・延坪島砲撃で先送りされたままになっている。
 表題作「ハッキョヘの坂」のハッキョとは学校のこと。政府が昨年春、朝鮮学校除外の方針を決めた1週間後、京都朝鮮中高級学校ヘの坂道を憤りながら登った記憶のもとに作った。2100円。

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/06/post-803c.html
「「週刊金曜日」投稿欄に詩集『ハッキョへの坂』の感想が掲載されました。」
 「週刊金曜日」849号(6月3日発行)の投書欄に、『ハッキョへの坂』の感想が掲載されました。投書主の李さんに感謝申し上げます。

詩集『ハッキョヘの坂』
李淳明(イ・スンミョン)(35歳)
 最近、朝鮮学校高校授業料無償化実現のため誠実に一生懸命取り組んでおられる京都市在住の詩人、河津聖恵さんの詩集『ハッキョヘの坂』(土曜美術社出版販売)を読んだ。『ハッキョヘの坂』は日本政府が高校授業料無償化の対象から、朝鮮学校だけの除外を決定したことに対して、怒りと悲しみを感じて、朝鮮学校無償化除外反対を訴えた詩を中心に二〇篇が収められている。
(中略)
河津さんは全国の詩人に呼びかけて朝鮮学校無償化除外反対の抗議アピールを出したり、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』刊行などの活動をしている。朝鮮学校無償化除外によって、在日朝鮮人に対する民族差別や排外主義が煽られている今だからこそ、他者の苦しみや痛みを感じ取れる感受性を育むためにも、『ハッキョヘの坂』は多くの人々に読んで頂きたい詩集だ。

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/06/post-79a8.html
「interview 詩集「ハッキョへの坂」(「月刊イオ」7月号)」
 「月刊イオ」7月号に掲載された「ハッキョへの坂」についてのインタビュー記事です。取材・編集して下さったのは、編集長の琴基徹さん。

 昨年2月に朝鮮学校の授業を見学した後、朝鮮高校は除外する方針だという新聞記事が出たんです。それを見て、ショックというか、これはひどいという気持ちがありました。自分自身が悲しく、とにかくこれを誰かに訴えたいという気持ちが先に立ち、書いたのが「ハッキョヘの坂」です。3月19日でした。生徒たちの印象とそれに対する日本社会の罵声、そのギャップに、ただただ、これはひどいという気持ちでした。
 この作品は、朝鮮学校を訪ねたときのことを思い出して書きました。時間を追うように書いています。私の作品はこういふうに時系列的に書くものが多いんです。

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/08/post-b72b.html
「一昨日25日東京での朝鮮学校無償化実現の要請行動に参加しました」
 一昨日25日に、朝鮮学校の無償化実現の要請行動に参加するために、東京へ行ってきました。文科省内閣府への要請行動と、院内集会に参加しました。詳しくは以下にリンクした記事をお読み下さい(写真に私も少し映っています)。記事が伝える、「〈高校無償化〉からの朝鮮学校排除に反対する連絡会」代表の長谷川和男さんの言葉の末尾部分を、以下引用します。私もまったく同感です。政治の教育への介入、朝鮮学校だから除外という差別は明らかに憲法違反です。しかも昨秋の砲撃戦を受けて、超法規的措置という異常な事態を、菅直人首相はみずからもたらしながら、異常な措置を放置したまま、辞任してしました。あまりにも無責任です。その結果菅首相を信じて待っていた朝鮮学校生は、苦しみつつもついに国家賠償の提訴を決意しました。しかしこの事態の異常性は、日本国民にとっても同様に戦慄すべきもので、原発同様、国家自身が憲法=国民を裏切った罪は底知れません。
JANJANBLOG記事URL→http://www.janjanblog.com/archives/48038

http://reliance.blog.eonet.jp/default/2011/10/1027-4717.html
「10月27日「ならっていいともセミナー」講演フォロー」
 私は、『朝鮮学校無償化除外反対アンソロジー』を許さんと共同編集しました。その編集がきっかけで交流を重ねることで、許さんのお人柄や民族教育への熱い思い、そして今の話にもあった生い立ちを知ることが出来ました。それは日本人である私にとって、未知なもので大いに感銘を覚えると共に、自分の国、日本の知らなかった姿、歴史を目の当たりにすることでもありました。
 私自身が朝鮮学校の除外反対の活動をするようになった経緯ですが、まず2010年2月26日に、朝鮮学校除外の新聞記事に私は大きなショックを受けました。ちょうどその前に、私は、在日の人々と日本人と一緒に、尹東柱(ユン・ドンジュ)という詩人を偲ぶ会を行ったばかりでした。ちなみにユン・ドンジュは、戦時中に私の住む京都に留学して福岡で殺された詩人です。その会の一環としてその翌日に京都朝鮮中高級学校を見学しました。そこで日本と朝鮮の架け橋となろうとして、一生懸命に学ぶ生徒の姿、そして先生と生徒との親密な信頼関係を見て、大変感銘を受けたばかりでしたので、除外のニュースは本当にショックでした。けれどその後世間、とりわけネットの世界から声高に聞こえてきたのは、傷ついている筈の生徒たちの痛みに、想像力によって寄り添う人間らしい言葉ではなく、むしろ傷をさらにえぐるかのような誹謗中傷でした。新聞がそうした誹謗中傷を煽ったり、さらに大阪府橋下知事が暴言を吐いたりして、生徒たちは結局社会のトップのからも、ネットという下の方からも、言葉の暴力を受けることになってしまいました。私はその社会全体の言葉の暴力に対して、やはり詩人としても黙って見ていられないと思いました。それは先ほどの許さんの話にもあったように、この問題を自分自身、さらには日本人自身の問題として痛感したからです。つまりこのように人の痛みに想像力が働かず、あるいは痛みが分かっているからこそあえて言葉の暴力をふるう、そういう社会を放置していけば、それは在日コリアンだけでなく、日本人自身を追いつめていくと思いました。つまり言葉の暴力は、日本のモラルや精神のあり方をみずから貶めていくと思います。何よりも、詩人として言葉を扱う自分が、言葉が人を傷つける凶器となっている現状を、見逃すわけにはいかないと思いました。むしろ、言葉は本来は人間を根本で正しい方向に向けていくモラルの力や、あるいは人間を本当の自由へと解き放つ詩的な力を持っていると思います。だから、その逆の方向で使う人に対して、ノーを突き付けたいと思ったのが、反対の一番の動機でした。
 『アンソロジー』についての経緯は、先ほどのお話で許さんに十分語っていだたいたと思いますので、私は繰り返しませんが、ここで、朝鮮学校を知って在日朝鮮人と交流することで、何が自分の中で変わっていったのかを簡単に述べたいと思います。
 私は東京の渋谷で生まれ、2才の時に東京の郊外にある国立という新興都市で育ちました。新しい町である環境もあって、在日と言われる人々との出会いが殆どありませんでした。唯一、母の友人に日本名を名乗られていた方がいて、その方がなぜ朝鮮人なのに日本の名前なのかをうっすら疑問に持った程度でした。隣町の立川には、朝鮮学校があって、電車のホームで何度かチマチョゴリの制服を見かけたこともあって、このお姉さん達の制服は違うのだと少し思いつつも、すぐに忘れていきました。
 大学入学を機に京都に住むようになったのですが、ただ京都という歴史の古い町にいながらも恥ずかしいことですが、やはり問題意識がなかったということもあって、出会いはありませんでした。私自身文学を学んだり詩を書くことがまず第一ということがあって、日本の現実をよく見るということがなかったという事情もありました。
在日コリアンと交流のきっかけとなったのは、2009年に、その2年前の2007年に私が書いた詩が、在日の文学者にとりあげられて、朝鮮新報という新聞に掲載されたことでした。その詩は、先ほどのユン・ドンジュに捧げた小さな詩でした。その後、その先生とお会いする機会が生まれました。そしてその先生から、京都に住む甥御さんを紹介していただき、そしてその人を通じて京都の在日コリアンの人々と交流するようになりました。
 正直いうと、私も初めて在日の方々とお話しする時は、やはり緊張しましたし、初めのうちは、在日の方同士で朝鮮語で話す場面では、少し違和感ももちろんありました。やはり自分の中でも、意識しないままこれまでの人生で知らず知らず刷り込まれた日本人中心の価値観があったと気づかされました。それを解くためにはやはりこうした出会いという機会がなければならなかったのだなと痛感します。また一方で、在日の苦しみも知ることとなり、日本の別な姿を見せつけられ、考えさせられました。とりわけ、2010年12月に京都の朝鮮第一初級学校が在特会という右翼集団にびといいやがらせをされた映像を見たときは、本当にショックでした。朝鮮学校の苦しみももちろんですが、とりわけ、一部とは信じたいけれども、これが今の日本人の姿なのだというショックです。そのショックもまた今の活動の原点になっていると思います。しかしやはり、今の私を最も励ましてくれるのは、在日の方々の真剣な生き方に接した経験です。とりわけ今日の許さんの人生や人格を感じ取ることができたというのは、私に大きな力を与えてくれていると思います。

http://ameblo.jp/chedaniel/entry-11022244136.html
<ハンギョレ新聞>朝鮮学校「無償化」除外反対に尽力されている河津聖恵さんへのインタビュー
 京都朝鮮中高級学校へつながる小さな坂道を登る一人の日本人女性がいた。
 詩の「芥川賞」と呼ばれる「H氏賞」(2003年)を受賞するなど数多くの賞を受賞した日本の代表的な詩人のひとりである河津聖恵(50)であった。
 一週間前日本政府が朝鮮学校に対して高校「無償化」対象から除外するという方針が言論から報道されたのをみて衝撃を受けた河津は「世の中のどうしようもなさに怒りを感じながら」学校への坂道をのぼっていった。その次の日、朝鮮学校の風景と子どもたちの姿を目とこころに留めながら彼女は一編の詩をつづった。
 「もう一人のあなたは/思わず手のひらを出して/花をもらって、まだ見ぬあなたに会おうとして/立ち尽くしていた」で終わるこの詩はオモニ(母)、ドンム(友)、ウリマル(朝鮮・韓国語)、ウリハッキョ(私たちの学校)、ソンセンニム(先生)、アボジ(父)、オッパ(お兄ちゃん)などウリマル(私たちの言葉)が韓国語の発音そのまま日本語詩語として収録されている。
 詩を読んでみると「メディア(マスコミ)を中心として(朝鮮学校にたいしての)嘘と悪意に満ちた世の中に対抗して彼らの真実を詩でもって証言しようとした」という彼女のこころが一枚の水彩画のように伝わってくるようだ。
 河津は日本政府の朝鮮学校無償化排除方針が決まった2010年以降、「在日」と呼ばれる在日同胞の文人たちと日本の文人たちとともに反対運動を主導している。去年8月「朝鮮学校『無償化』除外反対アンソロジー」を出版し、その後東京、京都、広島、奈良、東北地方などで朗読会を開いたりもした。また日本文部科学省を訪問し「無償化」除外に対する抗議文を渡した。
 無償化排除反対運動を展開することはそう簡単なことではない。日本の有名詩人が世論の逆風に立ちはだかり戦う理由とはなんだろうか。慶尚南道チャンウォン キム・ダルジン文化祭(今月3〜4日)に参加するため韓国を訪問した河津は5日<ハンギョレ>と会い「『無償化』排除は差別のみならず教育の自由と平等性を謳う日本国憲法にも反する」と話す。彼女はまた朝鮮学校の実際の教育内容をみれば右翼の主張は根拠のないものであると強調した。


 「朝鮮学校はスパイを養成しているとか人を洗脳していると主張している人たちがいるのも事実だ。しかし、朝鮮学校に訪れてみたら社会教科書は、多少日本に対して強く反発している内容もあったり拉致問題について言及されていない部分があるが全体の教育内容はやはり民族教育、失ってしまった『朝鮮』を取り戻し、守ろうとするものであった」


 彼女は、朝鮮学校を無くして日本学校に通えばいいじゃないかという日本の右派たちの主張にたいして「日本学校に通う在日さえも民族名を明かせないのが現実である、そんな状況で朝鮮学校から来たというと子どもたちがどんないじめにあうか想像することもできない」といいながら、むしろ日本学生たちは朝鮮学校にもっと多く通って交流の場を広げなければならないと強調する。
 彼女が在日同胞問題に興味をもったのは5年前尹東柱の詩との出会いが大きな契機であった。在日同胞詩人である金時鐘さんが翻訳した尹東柱の詩を読み「切なくとも美しい彼の詩語に、こころを針でさされたようだった」という。それ以降、尹東柱の詩を朗読する集まりに参加し、河津は2009年尹東柱をテーマにした短い詩「プロメテウス―尹東柱へ」を文藝春秋にて発表した。この詩を在日同胞文化家が新聞で紹介したことにより在日同胞たちとの交流がより深まったという。「その前まで在日問題にたいしてまったく分からなかったが、彼らの成長過程(歴史)とこころを知るようになってから新しい世界が開いたというか、彼らの新しい発想など、日本にたいする見方が新しく変わった。
 個人的に2004年乳がんで手術を受けた彼女は尹東柱の詩が大きな心の支えになったという。「手術後、時々心が不安にさいなまれたりしたが彼の詩を書き写しなら心の安定を取り戻したりしていた。」
 高校一年の時から詩を書きはじめた彼女は心の揺れや孤独感、詩への美意識のようなものをテーマにした超現実主義風の詩を書いていたが「在日」との出会いは他者と自身との関係にテーマを移すひとつの契機なったという。
 チェルノブイリ事故を越えた惨事として伝えられている福島原発事故もまた、彼女の詩作の大きなテーマとして近づいている。
 「大震災の現場を直接訪問しそれに関する詩を書いたが、原発事故にたいしてはまだ書けずにいる。日本や文明や文化などを全体的に省みなければならないので、力を蓄えなければならない。単純に原発反対ではなくインパクトのある詩を書きたい。」と話した。