新刊紹介:「歴史評論」12月号

詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/

特集「南北朝正閏問題100年」
■「南北朝正閏問題の時代背景」(大日方純夫)
(内容要約)
・廣木氏の論文も指摘しているし、ウィキペ「南北朝正閏論」も指摘していることだが、「南北朝正閏論」で桂内閣が最終的には右翼的に動いたことは事実だが、
1)そもそも問題視された教科書は国定であり、政府は当初、喜田の両統並立論を何ら問題視していなかった
2)問題の火付け役は読売新聞と野党・立憲国民党
3)当初、桂内閣はこの問題を穏便に済まそうと、野党に懐柔工作を仕掛けたが失敗した上、それを暴露されかえって窮地に陥ったこと
4)桂の政治的後見役である元老・山県有朋南朝正閏論の立場で動いたこと
には注意が必要だろう(当時の日本国民が、日露戦争で賠償金が取れなかったことにぶち切れて「日比谷焼き討ち事件」を起こすほど右翼的だったことにも注意。もちろん、「読売の報道」や「国民感情」を強調しすぎるとそれはそれで「全てマスゴミが悪い」「全て国民が悪い」「政府は悪くない、むしろ被害者」と言うとんでもないことになってしまうが)。桂内閣は進んで、南朝正閏論の方向で動いたわけではなかったのである。
・また、大正デモクラシーの立役者の一人である犬養毅立憲国民党党首)が「南北朝正閏問題」で歴史学者弾圧の方向に動いたことは「日本戦前民主主義」の「特徴」「限界」を示していると言える。そして右翼を桂内閣打倒に利用しようとした犬養が、後に右翼に「国賊」として暗殺されるとは実に皮肉な話だと思う。
・なお、正閏問題後、所謂南朝は、吉野朝と呼ばれることになる。


■「南北朝正閏問題と歴史学の展開」(廣木尚)
(内容要約)
・ 「南北朝正閏問題」で当事者の一人・喜田貞吉は両統並立論を採用したことについて「臣下が政府や皇室を差し置いて正閏を論じることこそ不敬(喜田が教科書を執筆した時点では正閏論について政府や皇室から結論は出されていなかった。)」として右派の批判をかわそうとした(ただこの喜田の反論法だと「じゃあ政府や皇室に判断を求めよう」ということになってしまうし、判断がでたらそれに従わざるを得ないことになってしまう。そしてそう言う意味で喜田にとっての「学問の自由」は「皇室の尊厳」を犯さないという条件付きのものであり、その点では実は批判派と認識が共通していた。認識が違っていたのは「何が皇室の尊厳を犯すか」と言う問題だった)。
・しかし右派は「そのような形式的な『臣下の立場論』は、皇室を真に尊重するものではない」「時には臣下による皇室への諫言が必要」「称徳天皇が提唱した道鏡即位を阻止した和気清麻呂の前例もある、清麻呂は不敬なのか」として喜田に反論した。これは「勝手に軍を動かすなどお前らこそ統帥権干犯だろうが」と言う226事件批判への青年将校の反論、「形式的には統帥権干犯に見えるが、正義の行動だから無問題」的な論理だろう。一部珍右翼の「今上や皇后、皇太子を差し置いての雅子妃への非難」も同様の理屈だろう。ただしこの諫言論に立った場合、誰が何を持って「諫言」と評価するのか、「愛国者にしてインテリの、この俺様が言うから諫言なんだ」と言うジャイアニズムでしかないんじゃないのかという問題があるのだが。また、「南朝が正統なら、現在の皇室に直結する北朝はどうなるのか(喜田が南朝正統論採用をためらった理由の一つはこれだろう)」について喜田批判派は明確な答えを出すことが出来なかった。
以上のことについては、我が九条−麗しの国日本「北朝天皇が抹殺されるまで 」(http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20110611/1307755823)も「天皇機関説昭和天皇はむしろ支持していたこと」などに触れ、俺と似たようなことを書いてる(あちらの方がもっとわかりやすいが)
・なお、「南北朝正閏問題」については、少数派ながら三浦周行、黒板勝美南朝正統論の立場に立った(もちろん歴史学者なので仮に詭弁だとしても、ファナティックな論ではないが)ことに注意が必要である。
(ちなみに当時、学界の通説は両統並立論。北朝正統論として吉田東伍がいる。なお、吉田にしても天皇制批判の意図はないこと、そもそも現在の皇室のルーツが北朝であることを考えると北朝正統論を不敬というのはかなり問題があることを指摘しておく)
従来、彼らについて十分な注意が払われていなかったように思われるが何故三浦や黒板は南朝正統の立場に立ったのか、それは、どのような影響を社会に与えたのか、分析する必要があるだろう。


■「『太平記』は尊皇の書か?―『太平記』をして史学に益あらしめん―*1」(若尾政希*2
(内容要約)
・『「太平記」は尊皇の書か?』と言うタイトルからは「いや、そうではない」と言う回答が当然予想される。実際、筆者はそう書いているのであるが、筆者は「太平記」が尊皇の書としてもっぱら理解されるようになったのは恐らく近代以降のことであろうとする。
・筆者の著書「『太平記読み』の時代」の「Amazonの商品説明」を引用すれば、江戸時代においては太平記は「尊皇の書」というよりは

楠木正成を理想の為政者=仁君として描き出す政道の書
・戦国武将から藩の為政者へと変身を余儀なくされた大名たちにとって、幕藩体制確立のマニュアル
・民衆の「修身斉家」のための強力な指針

だったのである。「楠木正成は忠臣」、「太平記は尊皇の書」と言う理解は歴史的に形成された産物に過ぎず、当然の事実ではない。どのような経緯でそのような理解が形成されたか分析する必要がある。
 筆者はそうした「楠木正成南朝忠臣論」形成の経緯分析においては「吉田兼好南朝忠臣論」(「正成・忠臣論」と違い、偽書を根拠としていたため、今では忘れ去られた論だが)の形成経緯を分析する事が役立つのではないかとしている(「吉田兼好南朝忠臣論」については川平敏文兼好法師の虚像:偽伝の近世史」(2006年、平凡社選書)参照)。
・なお、筆者の理解に寄れば、「太平記を尊皇の書として読むこと」に早い段階で疑問提示した学者があの黒田俊雄だという。
(黒田「楠木正成の再評価」『歴史学の再生』(1983年、校倉書房)。後に「楠木正成」と改題されて黒田著作集7巻(1995年、法蔵館)に収録)


参考
川平敏文兼好法師の虚像:偽伝の近世史」の朝日新聞書評
http://book.asahi.com/author/TKY200610250294.html

南北朝正閏論(ウィキペ参照)
 日本の南北朝時代において南北のどちらを正統とするかの論争。論者の主張は大きく南朝正統論、北朝正統論、両統対立論、両統並立論に分けられる。
■近代以前の南北朝正閏論
 南朝正統論の嚆矢は、南北朝時代南朝方の重鎮・北畠親房が著した『神皇正統記』であった。しかしその後、北朝によって皇統が統一されて楠木正成南朝方の人々が「朝敵」と認定され、親房以後に南朝正統を唱える者はいない状態が続いた。
 この風潮が変化したのは、『太平記』が流布されて公家や武士などに愛読され、南朝方に対する同情的な見方が出現するようになってからである。 その後、水戸藩主・徳川光圀南朝を正統とする『大日本史』を編纂したことが後世に大きな影響を与えた。徳川光圀と並んで南朝正統論を唱えた人物として山崎闇斎が挙げられる。江戸時代後期の頼山陽南朝正統論を採っていた。その一方で朝廷では、永く現皇統につながる北朝を正統とする原則が守られ、祭祀もその方針で行われてきた。だが、公家の間にもわずかながら南朝正統論者(山崎闇斎門人の正親町公通など)が現れるようになり、幕末の南朝正統論を軸とした尊王論の高まりに翻弄されることとなった。
南北朝正閏問題
 明治維新によって北朝正統論を奉じてきた公家による朝廷から南朝正統論の影響を受けてきた維新志士たちによる明治政府に皇室祭祀の主導権が移されると、旧来の皇室祭祀の在り方に対する批判が現れた。これに伴い、1869年(明治2年)の鎌倉宮創建をはじめとする南朝関係者を祀る神社の創建・再興や贈位などが行われるようになった。また、1877年(明治10年)、当時の元老院が『本朝皇胤紹運録』に代わるものとして作成した『纂輯御系図』では北朝に代わって南朝天皇が歴代に加えられ、続いて1883年(明治16年)に右大臣岩倉具視・参議山縣有朋主導で編纂された『大政紀要』では、北朝天皇は「天皇」号を用いず「帝」号を用いている。なお、1891年(明治24年)に皇統譜の書式を定めた際に、宮内大臣から北朝天皇後亀山天皇南朝最後の天皇)の後に記述することについて勅裁を仰ぎ、認められたとされている(喜田貞吉『還暦記念六十年之回顧』)。ただし、これらの決定過程については不明な部分が多い。また、こうした決定の効果は宮中内に限定されていた。
 一方、歴史学界では、南北朝時代に関して『太平記』の記述を他の史書や日記などの資料と比較する実証的な研究がされ、これに基づいて1903年明治36年)及び1909年(同42年)の小学校で使用されている国定教科書改訂においては南北両朝は並立していたものとして書かれていた。ところが、1910年(同43年)の教師用教科書改訂にあたって問題化し始め、とりわけ大逆事件の秘密裁判での幸徳秋水の発言がこれに拍車をかけた。
 そして、1911年(明治44年)1月19日付の読売新聞社説を機に南北朝のどちらの皇統が正統であるかを巡り帝国議会での政治論争にまで発展した(南北朝正閏問題)。
 この問題を巡って野党立憲国民党(党首・犬養毅)が当時の第2次桂内閣を糾弾した。このため、政府は野党や世論に押され、1911年(明治44年)2月4日には帝国議会南朝を正統とする決議をおこなった。さらに教科書改訂を行い、教科書執筆責任者である喜田貞吉を休職処分とした。最終的には『大日本史』の記述を根拠に、明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ、南北朝時代南朝が吉野にあったことにちなんで「吉野朝時代」と呼ばれることとなった。それでも、田中義成などの一部の学者は「吉野朝」の表記に対して抗議している。
 以後、戦前は、足利尊氏天皇に叛いた逆賊・大悪人、楠木正成新田義貞を忠臣とするイデオロギー的解釈が主流になる。1934年(昭和9年)には斎藤内閣の中島久万吉商工相(政友会)が尊氏を再評価した雑誌論説「足利尊氏論」(13年前に同人誌に発表したものが本人に無断で転載された)について大臣の言説としてふさわしくないとの非難が起こり、衆議院の答弁で中島本人が陳謝していったん収束した。しかし貴族院菊池武夫議員が再びこの問題を蒸し返し、齋藤實首相に中島の罷免を迫った。これと連動して右翼による中島攻撃が激化し、中島は辞任のやむなきに至った。
第二次世界大戦後における南北朝時代を巡る議論
 第二次世界大戦後は、歴史の実態に合わせて再び「南北朝時代」の用語が主流になった(平泉澄は戦後も「吉野時代」の表現を用いているが、ごく一部の見解にとどまる)。ただし、宮内庁を始めとして、天皇の代数は南朝で数えるのが主流となっており、南朝を正統としていることになる。

明治天皇の裁断で三種の神器を所有していた南朝が正統であるとされ」と言うが実は「三種の神器」を根拠にすることは余り説得力がないことは歴史に詳しい人ならご存じだろう。というのも

 『吾妻鏡』によれば、1185年(元暦2年)の壇ノ浦の戦いで、安徳天皇が入水し草薙剣赤間関関門海峡)に水没したとされる。またこの時、後鳥羽天皇三種の神器が無い状態にもかかわらず後白河法皇院宣を根拠として即位している。
 南朝北畠親房は『神皇正統記』で、君主の条件として神器の重要性を強調した。しかし神器無しでの即位は後鳥羽天皇後白河法皇院宣により即位したという先例があり、日本において三種の神器は即位の絶対条件ではない(ウィキペ『三種の神器』参照)

からである。これに限らず「天皇家の歴史問題」というのは、尊皇家(右翼)にとって「大友皇子天皇と言えるのか?」とか真面目に考えると頭の痛い問題だらけである。


■「女性相続に見る近世村社会の変容:武州入間郡赤尾村*3を事例として」
(内容要約)
・女性相続は当初は、「例外的事例」「男性相続人が登場するまでの中継ぎ的存在」であったが、近世後期になると、零細農民を中心に「女性相続」は何ら珍しいものではなくなっていく。
この背景には「女性相続を認めないと家の存続が困難」と言う必要性と「貨幣経済の普及により、労役が代銭納化したため、腕力のない女性でも労役負担が可能になった」という状況の変化があった。


■歴史の眼「茨城県*4内の文化財・歴史資料の震災被害と救出活動」(高橋修、高村恵美、山川千博)
■歴史の眼「東日本大震災宮城県文化財救済」(宮城歴史科学研究会(柳谷慶子*5))
■歴史の眼「被災資料保全活動の現在―宮城歴史資料保全ネットワークによる水損資料への対応―」(天野真志)
(内容要約)
・全て震災によって被害を受けた文化財保全活動についての簡単な報告。

参考
「歴史資料ネットワーク(史料ネット)」
http://blogs.yahoo.co.jp/siryo_net
「NP0法人宮城歴史資料保全ネットワーク」
http://www.miyagi-shiryounet.org/
「ユメノツヅキ」
http://d.hatena.ne.jp/yunraai/

http://ibarakinews.jp/news/news.php?f_jun=13149676372911
2011年9月3日(土)
茨城新聞「被災土蔵から掛け軸や刀救出 平潟で茨城史料ネット」
 東日本大震災で損壊した県内の史資料を救済しようと設立された「茨城文化財、史資料救済・保全ネットワーク(茨城史料ネット)」は1日、北茨城市平潟町の土蔵を対象に救助活動を始めた。同町は県内有数の土蔵群を誇り、これまでで最大規模の活動となる。震災復興に伴う損壊家屋の解体が迫る中、参加者は収蔵物の記録や搬出に汗を流した。
 茨城史料ネットは、1995年の阪神大震災で活躍した歴史資料ネットワーク(兵庫県)に倣い、今年7月に発足。震災直後から津波被害による絵画の修復や全壊した御堂からの仏像救出など、組織的な史料救済に取り組んできた。
 今回の活動に参加したのは、県内外から集まった研究者や茨城大学生ら約30人で、今月中に4日間をかけ計5軒の土蔵を調査する。元地方銀行所有のものや未開の蔵まで、その成果は未知数だ。
 代表を務める茨城大人文学部高橋修教授(48)によると、平潟町は江戸時代に、全国の港へ旅客や貨物を運ぶ廻船(かいせん)の寄港地として発展し、旧家はその富を土蔵に収めたという。高橋教授は「北茨城市の歴史に光が当たる史料を残さなければならない」と話した。
 初日は、1929年築の2階建て土蔵を調査。6畳の室内を東西南北に分割し、収蔵物の状況を棚や固まりごとに番号を振って記録した。取り出した史料はエアキャップなどで梱包(こんぽう)し、所蔵者の意向を優先しながら、仮収蔵場所の廃校に搬送した。
 救済された史資料は、ふすまの裏貼りに使われていた引き札と呼ばれる広告チラシや掛け軸、刀、写真など約60点。蔵を所有する武子ケイ子さん(74)は「蔵の中に何があるか全然知らなかったが、たくさん出てきてたまげた」と顔をほころばせた。

【今月の新刊広告】
鹿毛敏夫『アジアン戦国大名大友氏の研究』(吉川弘文館
・「アジアン戦国大名」って言葉は聞いたことがないんですが、鹿毛氏の造語なんでしょうか?。なんかカッコええな、大友氏。


下村太一『田中角栄自民党政治:列島改造への道』(有志舎)
角さんの列島改造論は既にジャーナリストや学者によって様々な形で論じられてると思いますが、今更新見解とか出せるんでしょうか?
ま、自民を論じるとき、佐藤内閣通産相として日米繊維交渉妥結を、首相在任中は日中国交正常化を成し遂げ、首相退陣後も「闇将軍支配」「竹下派支配」という形で影響を与えた角さんを取り上げる、角さんを論じるとき、首相時代の彼の最大の売りであった「列島改造論」を取り上げるというのはある意味、ベタというか王道ではありますが。

*1:久米邦武の論文『太平記は史学に益なし』がこのタイトルの前提にあるのだろう

*2:著書「『太平記読み』の時代―近世政治思想史の構想」(1999年、平凡社選書)

*3:現在の埼玉県坂戸市赤尾。江戸時代は川越藩領内

*4:つい忘れがちだけど東北以外も被害を受けてるんだよね

*5:著書『近世の女性相続と介護』(2007年、吉川弘文館