【産経抄】11月26日

彼の最も大きな功績は、先代綱吉が亡くなった直後、家宣に提出した皇室に関する意見書だろう。

実に産経らしい。
もちろん白石には他にも業績があるんですが、皇室関係が最も重要ですか?。

正徳の治(ウィキペ参照)
 江戸時代の正徳年間を中心に進められた政治改革。
 正徳は江戸幕府の6代将軍徳川家宣・7代将軍家継の治世の年号で、主に将軍侍講(政治顧問)の新井白石側用人間部詮房らが実際の政権を担った。白石の儒学思想を元に、文治主義と呼ばれる諸政策を推進した。8代将軍徳川吉宗が行った享保の改革により相当部分は修正されるが、継続された政策も多い。
・正徳金銀の発行
 家宣は老中格柳沢吉保をはじめ側用人松平忠周*1、松平輝貞ら先代の5代将軍徳川綱吉の権臣を更迭したが、勘定奉行には他に適任者がいないということで引き続き荻原重秀が留任していた。
 荻原は元禄期、今までの高純度の慶長金銀を回収し金銀含有率の低い元禄金銀を発行し、家宣時代になってからも将軍の承諾を取り付けることなく独断で宝永金銀を発行し、幕府財政の欠損を補うという貨幣政策をとった結果、約500万両(新井白石による推定)もしくは580万両(荻原重秀による推計)の出目(改鋳による差益)を生じ一時的に幕府財政を潤したが、一貫して金銀の純度を下げる方向で改鋳をし続けた結果、実態の経済規模と発行済通貨量が著しくアンバランスになりインフレーションが発生していた。また、荻原は御用商人からの収賄や貨幣改鋳に関して巨額の利益を収めたなど汚職の噂が絶えなかった。白石は荻原を「有史以来の奸物」「極悪人」と一方的に断罪し、荻原を罷免すべきという上申書を提出すること3度におよび、家宣も正徳2年(1712年)に荻原をとうとう罷免した。
 ようやく貨幣政策に関してイニシアティブを握った白石は貨幣の含有率を元に戻すよう主張。有名な正徳金銀は新井の建言で発行されたものである。
・対琉球外交
 白石は北の蝦夷地とともに、南の琉球に関心を寄せた。白石は正徳元年(1711年)、自ら伏見の薩摩藩邸において、琉球の王子2名と会見している。琉球は国書について、家宣の代から漢文体を採用し書簡の形式も改めた。しかし、「大君」「尊夫人」「貴国」「台聴」などの文字を白石は問題視した。最終的には、琉球の実質的な支配者である薩摩藩島津吉貴に任せることになり、小さな紛糾で済んだ。
・海舶互市新例
 長崎貿易の決済には金銀が多用されたが、この結果、日本の国内通貨量のうち金貨の4分の1、銀貨の4分の3が開幕から元禄までの間に海外に流出したと白石は計算した。白石は長崎奉行大岡清相からの意見書を参考にし、改革案を起案した。これが海舶互市新例(正徳新令、長崎新令とも呼ばれる)で正徳5年(1715年)に施行され、基本政策は幕末まで踏襲される。
 この法制の骨子は輸入規制と商品の国産化推進である。すなわち長崎に入る異国船の数を制限し、かつ貿易額そのものにも制限を加えるというものである。具体的には清国船は年間30艘、交易額は銀6000貫にまで制限し、またオランダ船は年間2隻、貿易額は3000貫に制限した。また、これまでの輸入品であった綿布、生糸、砂糖、鹿皮、絹織物などの海外品はむしろ国産化を推進すべきである、農民は米穀のみをつくり商品作物の栽培は禁ずるという伝統的な封建制度の政策はその限りにおいて緩和されるべきであると考えた。
勘定吟味役の再設
 賄賂の横行や罷免された荻原重秀の独断専行を目の当たりにしていた白石は荻原が廃止した勘定吟味役を正徳2年に再度設置し、杉岡能連と萩原美雅(ともに後に勘定奉行)を任命し、勘定所自体の綱紀の引き締めを図った。
朝鮮通信使待遇改訂
 変更の骨子は「経費節減」と「将軍の呼称の変更」の2つである。その背景にあるのは、白石の対朝鮮外交の基本方針、和平・簡素・対等である。
 1.白石は通信使の応接に約100万両という巨額の費用がかかり、そのため、幕府財政が傾く恐れがある、こう判断し、60万両で抑えることに成功している。
 2.朝鮮側の国書の宛先を「日本国大君」から「日本国王」に直した。
 白石としては、「征夷大将軍」は日本国内でこそ権威があるが海外では何を意味するのかが不明であり、大君の称も朝鮮では王子の嫡子に対する称号として用いられていたため、この際、足利時代に国書で使用された「国王」に変更すべきであるというものであった。これに対しては幕府内反白石派の林家から「国王は天皇を指し、将軍が国王を名乗るべきではなく、無用の改変。平地に波風を立てるもの」、対馬藩藩儒雨森芳洲から「李氏朝鮮は急激な変革を特に嫌う。再考願いたい」とそれぞれ反論をうけ、一時は白石の辞職願にまで発展したが、将軍家宣の全面的な白石支持により事なきを得、最終的に実現している。
 使節待遇の変更は朝鮮側の誤解を招き、抗議を受ける場面もあった。しかし、必ずしも使節を冷遇したわけではない。朝鮮国王への返書を将軍自らが手渡したり、江戸城内で舞楽を上演したりするなど、礼遇と呼べる面もある。
閑院宮家の創設
 当時、宮家は伏見宮家、京極宮家、有栖川宮家と3家あり、この3家を継いだ場合を除き親王を名乗ることができず、その他の天皇家の子女はすべて出家するという形になっていた。朝幕共存共栄の見地から、皇家の血統に万一があった場合を考えての宮家創設であった。宝永7年(1710年)の宮家創設から半世紀後、後桃園天皇崩御し皇継が絶えそうになった際、閑院宮家から典仁親王の第6王子・兼仁王が光格天皇となり、その後、光格→仁孝→孝明→明治→大正→昭和→今上と続き、今日に続いている。閑院宮家の設立は皇継断絶を救う結果となったといえるだろう(注:ただウィキペ「光格天皇」によると後桃園天皇には男子がいなかったものの、他の宮家には男子がいたというので、光格天皇より適任かどうかはともかく、閑院宮家がなくても皇統断絶は起きなかったと思うが)。
武家諸法度改定(「宝永令」)
 武家諸法度は、白石以前にも以降にもたびたび改定されているが、宝永7年に白石はその1つ、「宝永令」を起草した。形式としては、先代の5代将軍徳川綱吉時代の「天和令」から和漢混交文となっていたが、白石はそれをさらに進め、日本文で書いた。内容的にも理念面、文治政治の理念が明瞭に表れているとされる。なお、この宝永令が効力を持った期間は7年ほどに過ぎないが、武家諸法度としては最も整備したものという評価がある。
・生類憐れみの令を廃止
綱吉の時代の生類憐れみの令を早くも綱吉死後の10日目には廃止し、これによって処罰されていた6000人以上の人の罪を解いた。


改革の評価
 正徳の治については白石と詮房が幕政に参与した期間が短く、正徳2年の家宣死後は反白石派の抵抗が強まり、徹底したものにはならなかったので評価は難しい。ただ従来、正徳の治のその後を担った8代将軍吉宗によって正徳の治の内容は否定されたといわれるが、必ずしもそうではない。
 確かに吉宗は武家諸法度は元通り漢文体の天和令に復し、朝鮮通信使の接待における徳川将軍の表記を元通り「日本国大君」に戻している。白石が家宣の諮問に応じて提出した膨大な政策資料が廃棄処分にさえされている。
 しかし、これらは紀州徳川家から将軍に就任した吉宗が側用人政治を嫌う老中土屋政直ら「援立の臣」に行った一種の配慮とみる見解が有力である。むしろ、実質的な経済政策の多く、特に貨幣政策における高品位主義、長崎貿易の政策は吉宗もその方針の正しさを認識しており、正徳の治で行なわれた改革の内容はそのまま承継されている。
これらについては、白石によって登用された萩原美雅を吉宗が再び起用していることからも明らかであろう。結論としては、正徳の治と享保の改革には断絶があると考えるのは相当ではない。前者の有用な部分は後者によって承継され、吉宗主導の改革と共に後世に残ったとみるのが至当であろう。

白石が偉かったのは、宮家が増えるのは武家にとって不利ではないか、という慎重論を一蹴、「ただ、武家政治の良否のみに関係する」(折りたく柴の記・桑原武夫訳)と幕府の枠を超えた判断を示したことだ。

いやそもそも武家にとって不利じゃないでしょ。天皇に任命されて政治をするってのが幕府政治の建て前なんだから、皇統が断絶したら幕府だって困るんですよ。
断絶したらしたで「天皇無しでの政治」を行うための何らかの策を取ったでしょうが。

この血筋を今上陛下も引かれているのだから、白石の建言と家宣の英断がいかに先見の明があったか300年を経たいま、よくわかる。

閑院宮家がなければ皇統断絶したなんて事実はないんですが。つまり結果論的にはなくてもよかったわけです。
閑院宮家から天皇になったのは光格天皇ですが、彼がいなくても男子の皇族はいましたから。彼がなったのは「最も天皇にふさわしい」という朝廷内部の判断からです(ウィキペ「光格天皇」参照。このころは、話し合いで天皇が決まるそう言う時代だった)

藤村修官房長官は、きのうの会見で、女性皇族が結婚しても皇族の身分を維持する「女性宮家」の創設について玉虫色の発言をした。ひとつの案ではあるが、占領下に臣籍降下させられた旧皇族の復帰も検討するのが筋だ。

女性天皇なんて認めないという立場に立てば確かにそうなるでしょうね。でも女性天皇認めないなんて儒教の影響による女性差別に過ぎないと思いますが。
伝統云々というならたとえば「一般人からの皇室へのお嫁入りである美智子皇后」など過去の伝統破壊はどうなるんでしょうか?
しかも旧皇族なんて今上一家にとって遠い親戚で他人みたいなものですよ?。

とはいえ、当面は秋篠宮さまの長男、悠仁さままで皇位継承に何の心配もない。政府・宮内庁が今なすべきことは、悠仁さまにしっかりと帝王学を学んでいただく態勢をつくることだ。

今時帝王学ねえ。産経らしい。もちろん変な人間が国の象徴では困りますが、政治的権限を全く持たないのに帝王学はないでしょう。

その後のことはじっくりと衆知を集めれば良い。平成の世にも白石はきっといるはずだ。

何だかなあ。皇室の未来なんかどうでもいいですよ、俺の生活に関係ないし。むしろ金の節約になるし、ウヨに変な政治利用されたくないから廃止して欲しい。
まあ、あえて言えば「女性宮家の創設と女帝容認」じゃないですかね。女性排除に正当な理由があるとはとても思えないし、外国では女帝珍しくないし。日本の歴史上も一応女帝はありますし。
他の案は国民の支持とかの点で問題がありそう。
今時側室制度の復活なんか出来るわけもないし、「旧宮家の復活」だの「養子制度の導入」だのは「今上一家にとって他人も同然の人」が皇室に来るわけだからね。

*1:ただしウィキペによると、後に8代将軍吉宗によって京都所司代、老中に登用される