新刊紹介:「歴史評論」3月号

詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/


特集「近世日本の治者の宗教、民の宗教」
■「近世日本の国家祭祀」(井上智*1
(内容要約)
 筆者の理解では「近世日本の国家祭祀」は次のようになる。
・国家祭祀の中心を担ったのは一貫して朝廷であった(武家による祭祀もあったが)。ただし、それは幕府の朝廷への了解と経済的支援の元になされた。
 幕末においては朝廷の権威が上昇し、武家祭祀は廃れ、国家祭祀における朝廷祭祀の占める割合は大きくなっていった。


■「旧領主の由緒と年忌 ―亀井茲矩顕彰における藩と地域―」(岸本覚)
 まずウィキペ「亀井茲矩」がどんな人物か見てみよう。

亀井茲矩(ウィキペ参照)
 安土桃山時代、江戸時代の武将・大名。因幡国*2鹿野藩初代藩主。
 戦国大名・尼子氏の家臣・湯永綱の長男。尼子氏家臣・山中幸盛(一般には山中鹿之助の名で知られる人物)の妻の妹・時子(尼子氏家臣・亀井秀綱の二女)を娶り、亀井氏の名跡を継ぐ。
 尼子氏再興の動きは、常に強大な毛利軍と寡兵で戦わねばならず、一時的な成果しかあげられなかった。しかし新興勢力である織田信長が台頭、中国地方を伺う情勢となり、事態は一変する。尼子氏残党はこれに臣従し、その支援を受けることとなった。織田方から見ても、中国地方にゆかりのある尼子氏残党は利用価値があった。
 尼子氏残党は織田方(羽柴秀吉)の傘下に入るが、天正6年(1578年)に尼子勝久山中幸盛上月城で孤立してしまう。勝久は自刃、幸盛は降伏後に処刑された。この時、茲矩は羽柴秀吉の軍と同行していた為、難を逃れている。
 その後は中国攻略を進める羽柴秀吉の軍に属し、天正9年(1581年)には吉川経家が守る鳥取城攻略で戦功を挙げたため、因幡国鹿野城主に任命され、1万3,500石を領した。秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与している。茲矩は功績によって因幡高草郡2万4,200石を加増され、3万8,000石の鹿野藩初代藩主となる。
 亀井家はその後、政矩の代に石見津和野藩4万3,000石に加増転封されている(鹿野藩鳥取藩の一部となった)。

津和野転封後も亀井氏は藩祖・茲矩の菩提寺がある鳥取藩領鹿野で法要を行い、それを鳥取藩や藩領民が受け入れている。
鹿野における茲矩追悼が津和野藩、鳥取藩、鳥取藩領民にとってどのような意義があったのか分析する必要がある。


■「在地神職の秩序意識:武州御嶽山*3を事例に」(靱矢嘉史)
(内容要約)
 幕府は諸社禰宜神主法度を制定し、吉田家による神社一元支配を構想した。
 法度三条では「一、無位の社人は白張を着すべし。其の外の装束は、吉田の許状を以て着すべき事。」とし、神官の装束について吉田家の許可を得なければならないとする一方、「一、社家の位階、前々より伝奏を以て昇進を遂ぐる輩は、いよいよ其の通りたるべき事。」とし、公家から許可を得ている神社についてはこの例外とした。
 吉田家の支配下に入ることを嫌った武州御嶽山は二条の例外規定を用い、吉田家の支配を逃れようとしたが、吉田家側は何とか、武州御嶽山を自己の支配下に組み入れようとし、長く混乱が続いた。


■「神祇礼拝論争と近世真宗の異端性 ―讃岐国*4における了空と教乗の論争の検討―」(小林准士)
(内容要約)
親鸞浄土真宗においては「神祇不拝(要するに神社に行かないと言うことだろう。創価学会の皆さんなど日蓮宗系も「原則、不拝」でしたっけ?。浄土真宗系、日蓮宗系以外の仏教はどうなんだろう?)」という重要な概念があったが、これを文字通り実行すれば「日蓮宗不受不施派」のような弾圧を幕府や藩権力から受けることは必定だった。結果、「神祇礼拝」は許容されることになるわけだが、その許容派の一人が「了空」、批判派の一人が「教乗」(いずれも讃岐国の僧侶)であり彼らの間に論争が展開された。こうした論争の展開からは「宗門中央が必ずしも信者末端まで支配を貫徹できたわけではなかった」事が読み取れる。



■「近世後期における村社会の宗教情勢と異端的宗教活動 ―天草を事例として― 」(大橋幸泰*5
(内容要約)
キリシタン概念を理解する上で重要なのが大塩平八郎の三大功績*6の一つとして有名な大塩のキリシタン摘発事件である。
残された資料からは処罰された人物が「キリスト教徒」とはとうてい認められず、「キリシタン」概念がある時期から「処罰に値する邪教(筆者の言葉では異端的宗教活動)」とほぼ同義化していたことがわかる。
こうした幕府のキリシタン理解を前提において「隠れキリシタン」の問題は論じられるべきである。
・なお、キリシタン認定において「万能の道具」として扱われたのは筆者によれば「踏み絵(絵踏み)」らしい。「統一協会」レベルの明らかに反社会的な宗教活動なら厳しい処罰に躊躇しなかったが、そうでなく「単に怪しい」レベルならば幕府、藩権力としては「踏み絵」というわかりやすい手段で解決していたということらしい。


 参考

浦上四番崩れ(ウィキペ参照)
 1867年(慶応3年)、隠れキリシタンとして信仰を守り続け、キリスト教信仰を表明した浦上村の村民たちが江戸幕府の指令により、大量に捕縛されて拷問を受けた。江戸幕府キリスト教禁止政策をひきついだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされたが、このことは諸外国の激しい非難を受けた。欧米へ赴いた遣欧使節団一行がキリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、1873年明治6年)にキリシタン禁制は廃止され、1614年(慶長19年)以来259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになった。
 ちなみに、「浦上一番崩れ」は1790年(寛政2年)から起こった信徒の取調べ事件、「浦上二番崩れ」は1839年天保10年)にキリシタンの存在が密告され、捕縛された事件、「浦上三番崩れ」は1856年(安政3年)に密告によって信徒の主だったものたちが捕らえられ、拷問を受けた事件のことである。これより前にも「天草崩れ」「大村崩れ」など、江戸時代中期には各地でキリシタンが処刑される事件が起こっている。
■発端
 1864年(元治元年)、日仏修好通商条約に基づき、居留するフランス人のため長崎の南山手居留地内にカトリック教会の大浦天主堂が建てられた。主任司祭であったパリ外国宣教会のベルナール・プティジャン神父は信徒が隠れているのではないかという密かな期待を抱いていた。そこへ1865年4月12日(元治2年3月17日)、浦上村の住民数名が訪れた。その中の1人・イザベリナと呼ばれたゆりという当時52歳の女性がプティジャン神父に近づき、「ワレラノムネ(旨)アナタノムネトオナジ」(私たちはキリスト教を信じています)とささやいた。これが世にいう「長崎の信徒の発見」である。彼らは聖母マリアの像を見て喜び、祈りをささげた。神父は彼らが口伝で伝えた典礼暦を元に「カナシミセツ」(四旬節)を守っていることを聞いて再び驚いた。以後、浦上のみならず、外海、五島、天草、筑後今村などに住む信徒たちの指導者が続々と神父の元を訪れて指導を願った。神父はひそかに彼らを指導し、彼らは村に帰って神父の教えを広めた。
 しかし、2年後の1867年(慶応3年)、浦上村の信徒たちが仏式の葬儀を拒否したことで信徒の存在が明るみに出た。この件は庄屋によって長崎奉行に届けられた。信徒代表として奉行所に呼び出された高木仙右衛門らははっきりとキリスト教信仰を表明したが、逆に戸惑った長崎奉行はいったん彼らを村に返した。その後、長崎奉行の報告を受けた幕府は密偵に命じて浦上の信徒組織を調査し、7月14日(6月13日)の深夜、秘密の教会堂を幕吏が急襲したのを皮切りに、高木仙右衛門ら信徒ら68人が一斉に捕縛された。
 翌日、事件を聞いたプロシア公使とフランス領事、さらにポルトガル公使、アメリカ公使も長崎奉行に対し、人道に外れる行いであると即座に抗議を行った。9月21日(8月24日)には正式な抗議を申し入れたフランス公使レオン・ロッシュと将軍徳川慶喜大坂城で面会し、事件についての話し合いが行われた。
■流配
 江戸幕府が瓦解すると、1868年3月7日(慶応4年2月14日)、参与であった沢宣嘉が長崎裁判所総督兼任を命じられ、外国事務係となった井上馨と共に長崎に着任した。4月7日(3月15日)に示された「五榜の掲示」の第三条で再びキリスト教の禁止が確認されると、沢と井上は問題となっていた浦上の信徒たちを呼び出して説得したが、彼らには改宗の意思がないことがわかった。沢と井上から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」という厳罰の提案を受けた政府では5月17日(4月25日)に大阪で御前会議を開いてこれを討議、諸外国公使からの抗議が行われている現状を考慮するよう外交担当の小松帯刀が主張し「信徒の流罪」が決定した。この決定に対し、翌日の外国公使との交渉の席でさらに激しい抗議が行われ、英国公使パークスらと大隈重信ら政府代表者たちは六時間にもわたって浦上の信徒問題を議論することになった。
 6月7日(閏4月17日)、太政官達が示され、捕縛された信徒の流罪が示された。7月9日(5月20日)、木戸孝允が長崎を訪れて処分を協議し、信徒の中心人物114名を津和野、萩、福山へ移送することを決定した。以降、1870年(明治3年)まで続々と長崎の信徒たちは捕縛されて流罪に処された。彼らは流刑先で数多くの拷問・私刑を加えられ続けたが、それは水責め、雪責め、氷責め、火責め、飢餓拷問、箱詰め、磔、親の前でその子供を拷問するなどその過酷さと陰惨さ・残虐さは旧幕府時代以上であった。各国公使は、事の次第を本国に告げ、日本政府に繰り返し抗議を行なった。さらに翌年、岩倉具視以下岩倉使節団一行が、訪問先のアメリカ大統領グラント、英国のビクトリア女王デンマーク王クリスチャン9世らに、禁教政策を激しく非難され、明治政府のキリスト教弾圧が不平等条約改正の最大のネックであることを思い知らされることになった。欧米各国では新聞がこぞってこの悪辣な暴挙を非難し世論も硬化していたため、当時の駐米少弁務使森有礼は『日本宗教自由論』をあらわして禁教政策の継続の難しさを訴え、西本願寺僧侶・島地黙雷らもこれにならった。しかしかつて尊皇攘夷運動の活動家であった政府内の保守派は「神道が国教である(神道国教化)以上、異国の宗教を排除するのは当然である」、「キリスト教を解禁しても直ちに欧米が条約改正には応じるとは思えない」とキリスト教への反発を隠さず禁教令撤廃に強硬に反対し、また長年キリスト教を『邪宗門』と信じてきた一般民衆の間にもキリスト教への恐怖から解禁に反対する声も上がったため、日本政府は解禁しようとしなかった。なお、仏教界には廃仏毀釈などで神道とその庇護者である明治政府との関係が悪化していたため、『共通の敵』であるキリスト教への敵対心を利用して関係を改善しようという動きも存在していた。
■帰郷
 1873年明治6年)2月24日、日本政府はキリスト教禁制の高札を撤去し、信徒を釈放した。配流された者の数3394名、うち662名が命を落とした。生き残った信徒たちは流罪の苦難を「旅」と呼んで信仰を強くし、1879年(明治12年)、故地・浦上に聖堂(浦上教会)を建てた。


■「寛文抜船一件から見る日朝関係」(酒井雅代)
(内容要約)
「抜船」というのは「抜荷」と言い換えると時代劇ファンの人にはわかりやすいかもしれない。要するに幕府の許可を受けない密貿易ですな。
「寛文抜船一件」の特徴は、密貿易の相手方が李氏朝鮮政府だったということだろう(日本側は民間だが)。当時、後金(後の清王朝)と軍事的に対立していた朝鮮では硫黄(火薬の原料)の需要が拡大していたが当時の朝鮮では硫黄は自給自足ができず輸入に頼っていた。しかし江戸幕府公認の貿易では需要が満たせないことから、抜け荷の実行にいたったものであった。
 しかしそれは幕府によって摘発される。「日朝貿易」を重視し朝鮮と事を荒立てることを望まない幕府は、朝鮮相手に「犯人つれてこいや」「お前ら朝鮮王朝が主犯だろう」などという「北朝鮮相手に拉致被害者家族会、珍右翼が巣くう会がとってるような態度」はとらず朝鮮側の犯人追及は曖昧に片付け、後の外交処理をすべて対馬藩・宗氏に一任したのであった(もちろん日本国内の犯人は死刑や流罪という厳罰に処された)
 まあ、朝鮮の方も「抜け荷実行者」を「国のためよくやった」としてそれなりの褒賞を与えていたので「引き渡せ」と仮に言われたとしても引き渡せるわけもないのだが。今風に言えばシンガンスを引き渡せとか言うバカは本当に常識がないなと改めて(以下略)
 なお、「ばれたのに続けられないだろ」という国内の声もあり、朝鮮王朝は抜け荷をやめ、硫黄国内自給の道へ舵を切ることになる(まあ、抜け荷ですでにそれなりの硫黄を獲得し、蓄えていたというのもあるが)。
ちなみに朝鮮の名誉のために断っておけば、対馬藩も朝鮮相手に密貿易(朝鮮人参など)を実施したことがあることに注意。


【結論】
 「寛文抜船一件」からは「日朝貿易の利益のためには拉致問題はいいかげんもうどうでもいいんじゃね、国交正常化しようぜ」「日本企業もレアアース掘ろうぜ、中国ばかりに掘らせてなるものか」と言う教訓を得ることができる、と書いてid:noharra君に自動IDコールするとどう反応するか試してみるテスト(追記:野原先生曰くアカデミックな文章には点が甘いそうだ。ここの結論は「俺の感想」に過ぎず、別に酒井氏の見解ではないのだが。酒井氏の主張は俺の認識では「江戸時代の日朝関係=政府間交渉(宋氏を介し、幕府と朝鮮王朝が通交)」と理解されがちだが、特殊なケースとは言え「朝鮮王朝と日本商人の抜け荷」、「宋氏と朝鮮商人との抜け荷」と言うケースもあることに注意が必要だと言うことにすぎない)。
 いやマジレスすると国交正常化した方が拉致問題の解決的にもいいと思うのだが。


■私の原点「私を育てた四種の文献」(太田幸男
(内容要約)
太田氏があげている4種の文献は次の通り。
1)魯迅の諸著作
2)羽仁五郎「東洋における資本主義の形成」(羽仁「明治維新史研究」(岩波文庫収録))
3)侯外廬『中国古代社会史論』(邦訳:名著刊行会)
4)増淵龍夫『中国古代の社会と国家:秦漢帝国成立過程の社会史的研究』(岩波書店
1)により筆者は魯迅の姿に感銘を受け中国史を志し、2)〜4)によりあるべき中国史の方法論を考えさせられたと言うことのようだ。
2)、3)はマルクス主義の立場に、4)はウェーバー主義の立場に立っており、マルクスウェーバーのようないわゆるグランドセオリーなくして何の歴史学かと筆者は言いたいようだ。そして、筆者として今もマルクス主義にグランドセオリーとしての一定の有効性を認めていると言うことであろう。

参考

http://www.21ccs.jp/soso/chinateki/chinateki_38.html
福本勝清
侯外廬と『中国古代社会史論』
(前略) 
 現在のアジア的生産様式論の立場からみて、同書はどのように評価できるのであろうか。太田幸男「侯外廬『中国古代社会史論』の意義について」(『中国古代の国家と民衆』汲古書院、1995年)は、侯外廬が早川二郎『古代社会史』から大きな影響を受けたと述べている。だが、『中国古代社会史論』のなかでの、早川評はあまり芳しいものではない。侯外廬は、早川が『古代社会史』で展開した貢納制論を、注目すべきものと述べながら、早川が貢納制をもって、独立した社会構成ではないと述べている点をとらえて、早川説はライハルトの過渡期論に近く、ただ彼は貢納制をことさら強調したにすぎず、それゆえ彼の貢献も欠点も、ライハルトのそれと同様であると、結論づけている(ライハルトは『前資本主義社会経済史論』の著者)。つまり、印象としては、むしろ否定的な評価という気さえする。ひょっとすると、太田は、別なソースから、早川から侯外廬への影響の確証をえているのかもしれない。
 おそらく、侯外廬は早川『古代社会史』を日本語で読んだのだと思われる。彼は高級中学を卒業した後、日本留学を一度決意したことがある(1923年)。また、フランス留学の手続きをとるためにハルビンに滞在したおり(1927年)、『資本論』など日訳や英訳のマルクス主義古典を購入したが、その時、ドイツ語を学んで『資本論』を翻訳する決意をしたとあり、当然、日本語が読めたと考えられる。アジア的生産様式の理解を深める際、早川二郎『古代社会史』に注目したのは、何幹之『中国社会史論戦』の影響であろう。何幹之の著作では、早川と秋沢修二が、当時、もっともすぐれたマルクス主義歴史理論の担い手であると書かれているからである。
 早川のアジア的生産様式論は貢納制を柱とするが、アジア的社会における貢納制は原始社会から階級社会へ向かう過渡期の構成であって、独立した社会経済的構成を成立させるものではないとしている。だが、この貢納制は共同体的諸関係とよく両立し、その共同体的諸関係の存在が奴隷制への発展を阻むことになる。つまり、早川の貢納制論は、アジア的社会における社会構成としての奴隷制段階を否定するものでもあった。それに対し、侯外廬のアジア的生産様式は、古典古代と並ぶ、アジア的古代の生産様式であり、古典古代が歴史コース(原始社会から階級社会へ)の革命の道であるとするならば、血縁的氏族制度を残した、改良(維新)の道であり、その社会構成は古典古代と同様に奴隷制を本質すると考える。これだけを見るならば、侯外廬のアジア的生産様式論は、ソ連で主流となった古代東方型奴隷制論の一つということができる。違いは、古代東方型奴隷制論がアジア的生産様式概念を回避するために、あるいはアジア的生産様式論自体を抹殺するために生れた議論であるのに対し、侯外廬のそれは、あくまでもアジア的生産様式概念を復活させ、さらにそれをより具体的な歴史事象の理解に寄与すべき新たな歴史理論として提起されている点にある。
 では、早川と侯外廬の間にまったく共通する点がないのかというと、重要な共通点がある。早川は、過渡期の社会構成である貢納制の展開からアジア的な封建制の成立を展望している。日本の場合、それは、律令期にあたるが、彼はその社会構成(アジア的封建制)を国家的封建主義とも呼んでいる。国家的封建主義において、土地は国有である。侯外廬にとり、アジア的生産様式(アジア古代奴隷制)の後にくるものは、封建制にもとづく社会であり、秦漢以後がそれにあたる。そして、その社会構成の中核に土地国有制(封建的土地国有制)が存在する。
 彼らが主張する国家的封建主義あるいは封建的土地国有制は、アジア的生産様式の強い影響のもとにある。古代日本および古代中国において、共同体的諸関係もしくは氏族共同体がながく土地私有制の発展を阻んできたが、それは封建制のもとでも大きな影響力を保持し続けるからである。侯外廬は「中国の歴史は、中古にいたっても西洋とは相対的に区別された封建の道をたどった。なぜなら、過去に存在した一つの氏族共同体的関係が、中国の家族組織の歴史の中に浸透していたからである」(太田幸男ほか訳『古代社会史論』pp.409-410)と述べ、さらに東方古代においては、氏族が大部分の土地を保有する土地国有制であり、その後、次第に顕族(土地私有者)が台頭し、封建化が進展する。だが、それによって成立した専制国家は、皇帝をして最高の地主たらしめる。豪族は土地を皇帝から賜ることもあれば、その土地を奪われ公田にされることもある(『韌的追求』)と展開する。
 片や過渡期の社会構成説と奴隷制否定説(早川)、片や古典古代と並立する独立した構成体説と奴隷制のアジアの道(侯外廬)。両者の間には、大きな相違があるように見えながら、同時に、しっかりとした共通点もあることが理解できるであろう。20世紀のアジア的生産様式論の提唱者たちはほとんど、つねに自らの主張をストレートに表明することはなく、その時代の制限のなかで、その主張を屈折させながら著述してきた。たとえば、ソ連マジャール学派は当初、古代から近代まで、中国をアジア的生産様式のもとにあったと主張していたが、厳しい批判に押され、やむをえず、アジア的生産様式は歴史的なものであり、現在の生産様式ではないと、その主張を大きく後退させている。それはアジア的生産様式論を守るためにした後退であった。レニングラード討論(1931年)の翻訳(『アジア的生産様式に就いて』白揚社)に携わった早川が、当初よりアジア的生産様式が独立した生産様式であることを否定し、過渡期の社会構成としたのは、そこに起因していよう。そうすることによって早川は、より自由にアジア的生産様式論を展開しえたのであった。党の支配力が比較的弱かった日本では、アジア的生産様式論自体はまだ議論可能であったからである。
 侯外廬がアジア的生産様式論に踏み込もうとした頃、中国党の党勢とその権威は回復の過程にあった。彼が次々に著作を発表した1940年代は、党勢もその権威もさらに拡大し続けた時期であった。彼のアジア的生産様式論がソ連流の古代東方型奴隷制論に一見類似しているのは、当然といえば当然であった。それが、当時、アジア的生産様式論を展開するもっとも容易な理論的ポジションであった。たとえば、もし彼が早川のように、アジア的社会における奴隷制段階を否定したとしたら事態はただちに厳しいものになったであろう。というのも、それは『ソ連共産党(ボ)小史』(1938年)において定式化されたスターリンの歴史理論(歴史発展の五段階論)に直接抵触することになったからである。
 侯外廬は『資本制生産に先行する諸形態』を歴史研究に応用した最初のマルクス主義者であった。『諸形態』のキー・コンセプトは、幾つかあるが、もっともよく知られているのは、総括的統一体と総体的奴隷制である。侯外廬は、前述のように、征服氏族が被征服氏族を総体として奴隷化するという点において、総体的奴隷制概念を継承している。だが、なぜか総括的統一体に関する言及はない。おそらく、エンゲルス国家論(『家族・私有財産・国家の起源』)とうまく繋がらないからであろう。そのかわり、アジア的社会、古典古代世界およびゲルマン世界における都市と農村の関係についての議論に依拠している。社会的分業に基礎をおく古典古代の都市に対し、「都市と農村の一種の差別なき一体性」として現れるアジアの都市は、経済機構のうえにある「おでき」(複受胎)にすぎないと、何度も強調しているように、古典古代の都市とアジアの都市との比較において、彼の都市国家論は有効であるようにみえる。また、『諸形態』によれば、都市より出発した周代は古代であって、農村から出発すべき中世(封建社会)ではありえないということになる。だが、ゲルマン世界における農村の都市化について、とくに何故、中世封建社会の発展が農村の都市化として形容されるのかについて、理解が十分ではない印象を強く受ける。それは、たぶん、彼が読んだ『諸形態』がロシア語からの重訳であったということとも関係があろう。戦後最初に日本語訳された『諸形態』(飯田貫一訳、1947年)もロシア語からの重訳であった。飯田訳を読むかぎりで言えば、ロシア語からの重訳では、『諸形態』におけるゲルマン的所有の理解に限界がある。とくにゲルマン的所有の理解に必要な「個人的所有」(das individuelle Eigentum)の概念的核心をつかむことは難しくなる。『諸形態』の中心は三つの所有形態をめぐる議論であった。それらの種別性は、共同体成員の所有権の強度(弱さ・強さ)に依存する。それが理解できないかぎり、アジア的所有を十分に理解することができないし、アジア的生産様式も十全に理解することができない。侯外廬のアジア的生産様式論から、そのことが痛いほど窺われる。


■書評・ウォーカー「絶滅した日本のオオカミ」(中澤克昭)
(内容要約)
「オオカミは絶滅していない、ドラえもんのび太が保護したんだ!」とお約束のぼけをした上で、アマゾンレビューと朝日の書評を紹介してみる。

若干残念な部分があります, 2011/3/8
By りっぴ (下関市)
良い本です。一読の価値があります。
非常に広く、深く情報を集めている力作なのですが、少しだけ残念な部分があります。
まず、平岩米吉の「ニホンオオカミは本来人を襲うことがなく、日本では益獣、そして神の使いとして崇められてきたが、海外から狂犬病が入ってから立場が一変した」という考え方にあまりにも依拠しているのが残念です。
この誤った歴史観ニホンオオカミを語るとき、必ずと言っていいほど基調とされるものですが、実際には赤穂浪士を美談にするのと同じくらい間違ったものの見方です。
せっかく、外国の方が書いた本なのですから、そういったところをちゃんと検証して欲しかったのですが...。
また、明治以降の日本の西欧化に対して、少しセンチメンタルすぎはしないでしょうか?
私も明治維新に対しては否定的な見解をもってはいるのですが、女工哀史とか蟹工船のイメージで明治をステレオタイプ化されても面食らいます。
それと、第6章の「オオカミ絶滅理論と日本の生態学分野の誕生」については、もしかしたら翻訳のせいかも知れませんが、読んでいて嫌な感じがしました。
何というかシニカルな感じがします。
以上、気になった点をあげ連ねてしまいましたが、それでも良書であることに変わりはありません。
特に、巻末に50ページもの脚注があり、日本のみならず海外の参考文献が多く掲載されているのは本当に素晴らしいの一言です。
ニホンオオカミについて、ご興味のある方には、是非御一読をお勧めします。

平岩説(狂犬病問題の重視)支持には同意できないという指摘は中澤氏もしている。

http://book.asahi.com/review/TKY201002230182.html
絶滅した日本のオオカミ―その歴史と生態学 [著]ブレット・L・ウォーカー
[評者]石上英一(東京大学教授・日本史)
■「大口の真神」消した近代化問う
 かつて日本列島のオオカミには二つの亜種がいた。北海道のエゾオオカミと、本州・四国・九州のニホンオオカミである。古代以来、「大口の真神」とも呼ばれ、作物を守る神、多産の象徴として尊崇された日本のオオカミだが、なぜ20世紀初頭に絶滅してしまったのか。
 絶滅の過程は柳田国男今西錦司らのオオカミ研究、動物誌、生態学民俗学などでも明らかにされてきた。著者も先行研究を踏まえ、その上に論を展開する。だが、本書の大きな特徴は、著者の近世日本の蝦夷地征服の研究の蓄積とアメリカのオオカミ生態保護運動に対する理解に基づくところにある。
 アメリカのイエローストン地区では、絶滅したオオカミを再導入して生態系を復元するウルフプロジェクトを1995年にスタートさせた。モンタナ州に生まれ北海道でも学んだ著者は2000年、同プロジェクトの冬季調査に参加し、オオカミの生態観察をした。オオカミに接した経験を生かし、環境史・生態学の視点からオオカミ絶滅の問題に取り組んだのである。
 オオカミが人間を攻撃する有害動物とする認識は、近世に確立した。第一の要因は、人間による農業生産、馬飼育の拡大などによってオオカミの生活圏が圧迫されたことにある。第二の要因は、18世紀以降の狂犬病伝染による、オオカミの人間攻撃の増加にある。19世紀後半には、エゾオオカミにも狂犬病が伝染したらしい。
 そして本書が詳細に語るように、近代化を進める明治政府は1878年以降、北海道開拓事業において、アイヌに神として崇拝されてきたエゾオオカミを畜産振興を妨害する有害獣として撲滅する作戦に出た。近代化がオオカミを消したのである。
 ところで、昨年出た『狼(おおかみ)の民俗学――人獣交渉史の研究』もニホンオオカミに関(かか)わる説話・伝承・絵画・信仰に言及する。著者菱川晶子氏もスウェーデンで民間伝承学を学び、野生オオカミの足跡に触れる機会を得たという。人間と動物の関係から環境問題まで、オオカミ研究に学ぶものは多いといえよう。

*1:著書『近世の神社と朝廷権威』(2007年、吉川弘文館

*2:今の鳥取県

*3:現在の武蔵御嶽神社(東京都青梅市

*4:今の香川県

*5:著書『キリシタン民衆史の研究』(2002年、東京堂出版)、『検証 島原天草一揆』(2008年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*6:ほかは破戒僧の摘発と大坂西町奉行所不正役人の摘発