いつもどおりid:noharra氏に突っ込む(3/25分)(追記・訂正あり)

id:noharraがリツィート
堀茂樹‏@hori_shigeki
 2009年、総選挙が間近に迫り、野党第1党の当時の代表・小沢一郎が近々国政のトップに立つと予想されていた時期に、検察が突然小沢氏を標的とし、政治に介入しました。以来、有象無象の言論人が小沢叩きに狂奔するありさまを目の当たりにし、私は、民主主義を騙る反民主主義の存在に気づきました。

アホかとしか言いようがない。堀って奴は自分の小沢信者ぶりさらして恥ずかしくないのかね(そしてこれにリツィートしたid:noharraは何を考えてるのやら)。
野党第一党の幹部に金の疑惑が出れば「有象無象の言論人」が小沢批判するのは当たり前だろうに。
その有象無象の批判動機が何でアレ、批判自体は非難されるような事じゃない。その有象無象が「小沢と同様の疑惑がある某政治家を批判しない」というダブスタだったとしても、批判されるべきは「某政治家を批判しないこと」であって「小沢批判」じゃない。
 そして「民主主義」云々抜かしてるようだが、小沢が「自公と手をくんで菅下ろし」という明らかに反民主主義な事をしようとしたことはどう総括されてるのか。どうせ「なかったこと」になってるのだろうが。

@hidekih この文章には共感しました。 bit.ly/HqM23C >ありがとうございます。安保全学連と吉本隆明と愛国的戦後憲法派の社会党共産党支持者とが「岸を倒せ」というスローガンで連帯したのが、もう一つのナショナリズムです。庶民は戦争の被害者だった訳。(id:noharraの糞ツイッター

「安保全学連と吉本隆明と愛国的戦後憲法派の社会党共産党支持者」
別に運動参加者を安保全学連と社会党共産党支持者に限定する必要はないだろうに。「自民党からも強行採決への抗議として石橋湛山*1河野一郎*2松村謙三*3三木武夫*4が欠席、あるいは棄権」「東久邇、片山、石橋の3人の元首相が退陣勧告」なんだから。まあ彼らの多くは「単なる反岸」に過ぎず、その理由も「岸では選挙に勝てない」レベルだろうが(ウィキペ「安保闘争」参照)。
そして知識人も吉本に限定する必要ないだろうに。いわゆる「進歩派知識人」(丸山真男鶴見俊輔など)は無視かよ。


「連帯した」
反共右翼・田中清玄から金もらうような恥知らずのクズ「当時の全学連主流派」とは少なくとも共産党は連帯してないと思いますが。


参考

田中清玄(ウィキペ参照)
全学連への資金提供
 1960年(昭和35年)『文藝春秋』1月号に「武装テロと母 全学連指導者諸君に訴える」という文章を発表。
 このなかで田中は「全学連の指導的立場の諸君! 諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心して居ると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和三年(一九二八年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる。」と呼びかけ、「甚だ諸君には御気の毒な事だが、日本の労働者大衆は誰れ一人として君等共産主義者同盟の考え方や、そのデモ闘争を支持しているものはないのだ。君等が自分自身で労働者大衆に支持されているかの様に思い込んでいるのは、とんでもない君等の自惚れだ。」と批判し、「政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである」と訴え、全学連安保闘争に反米右翼という立場から共感を示しつつ、その限界を批判した。
 これを読んだ全学連書記長島成郎が田中からの資金カンパを思いついて田中を訪問、田中は全学連の「反代々木・反モスクワ・反アメリカ」が気に入り、これに応じる。田中は次のように回想している。
 「革命運動はいいんだ。帝国主義反対というのが、全学連のスローガンだった。しかし、帝国主義打倒というのを、アメリカにだけぶっつけるのは、片手落ちじゃないかと僕は言った。「ソ連スターリン帝国主義専制政治はどうしたんだ」とね。そうしたら、そうだと。それで、これは脈があるなと思って、資金も提供し、話もした。私のところにきたのは、島成郎です。最初、子分をよこしました。いま中曾根君の平和研究所にいる小島弘君とかね。東原吉伸、篠原浩一郎もだ。」
 全学連の唐牛健太郎らはのちに田中の企業に就職する(注:安保闘争で「田中の犬」として動いた事へのご褒美ですね、わかります)。 田中は自分の秘書で日大空手部主将だった藤本勇を安保闘争デモに派遣したりもした。なお、田中は岸信介児玉誉士夫らとは敵対しており、彼らへの対抗の意味でも、全学連に加担していた。
 1963年、TBSラジオが『ゆがんだ青春/全学連闘士のその後』(吉永春子)を放送し、島や唐牛らが田中から資金援助をうけていたことが報じられる。日本共産党は『赤旗』で、「右翼と結びついていた」として全学連を連日批判した。後輩の柄谷行人も同主旨で批判した。

 確かに「歪んだ青春」ですね。

安保闘争(ウィキペ参照)
 共産党は「極左冒険主義の全学連主流派」を批判した。一方で、全学連主流派は既成政党の穏健なデモを「お焼香デモ」と罵倒した。
 1963年(昭和38年)2月26日、東京放送TBSラジオ)が実録インタビューで構成した番組『歪んだ青春-全学連闘士のその後』を放送する。この番組は60年安保闘争時の全学連が、「反共右翼」としての活動を行っていた実業家・田中清玄から資金援助を受けていたことを暴露する。日本共産党は「ブント全学連の挑発者としての正体が露呈した」「新左翼=ニセ「左翼」暴力集団」と批判した。田中清玄自身は、「アジア主義右翼としての『反岸』と『反共産党』という立場から全学連に共感を持った」と語っているが、既成左翼(特に日本共産党)と学生運動の分断を狙った工作活動であることは明らかである。

唐牛健太郎(1937年2月11日 - 1984年3月4日:ウィキペ参照)
 北海道函館市生まれ。1956年、北海道函館東高等学校(現・市立函館高等学校)を卒業し、北海道大学教養部(文類)に入学。
 1957年、北大教養部自治会委員長に選出され、日本共産党に入党する。全学連第11回定期全国大会で中央執行委員に選出されるが、その後日本共産党が指導する安保闘争に限界を感じてブント(共産主義者同盟)結成大会に参加する。
 1959年、ブント書記長の島成郎の強い説得を受けて全学連委員長に就任する。1961年、全学連委員長を辞任。1962年、ブントと革命的共産主義者同盟による共産主義学生同盟の結成を画策するが中止となる。共学同事件の責任をとり政治活動から身を引く。
 田中清玄の経営する丸和産業に嘱託の身分で就職する。以後全国を放浪。ヨットクラブ、居酒屋経営、漁船乗組員、工事現場監督などさまざまな職業に従事。1982年からは、徳田虎雄の要請で札幌徳州会病院設立に協力した。
 1984年、直腸ガンで死去。

島成郎(1931年 - 2000年10月17日:ウィキペ参照)
 東京都生まれ。1950年、東京大学教養学部入学と同時に日本共産党に入党。共産党の50年分裂で除名処分をうける。レッドパージ反対闘争に参画し、自治会副委員長として運動する。1951年、共産党に復党。1954年、東京大学医学部に入学。
 1955年、全学連再建に精力的に活動し砂川基地反対闘争、原水爆禁止反対闘争に参画。1957年、共産党東京都党委員に当選。第7回大会の代議員になるが生田浩二、佐伯秀光と共に党内フラクションを結成し「プロレタリア通信」を発信する。1960年安保闘争時のブント系(共産主義者同盟全学連書記長として活動。のち田中清玄からの資金供与をマスコミで報道され、共産党をはじめ内外から強い批判をうけ、運動の前線からは撤退を余儀なくされる。
 1964年、東京大学医学部卒。闘争終息後は国立武蔵野診療所に勤務後、地域医療に尽力。85年に上京して、陽和病院院長。その後は北海道鶴居村養生邑病院名誉院長、北海道苫小牧植苗病院副院長、沖縄本部記念病院医療顧問、同病院やんばる所長を歴任。2000年、沖縄県名護市にて胃がんのため死去。

*1:吉田内閣蔵相、鳩山内閣通産相等を歴任。元首相。

*2:鳩山内閣農林相、池田内閣建設相等を歴任

*3:東久邇宮内閣厚生相、幣原内閣農林相、鳩山内閣文相等を歴任

*4:片山内閣逓信相、岸内閣経済企画庁長官・科学技術庁長官、佐藤内閣外相、田中内閣環境庁長官等を歴任。後に首相