新刊紹介:「歴史評論」7月号

特集「「奥」からみる近世武家社会の特質」
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/

■「一夫一妻制と世襲制―大名の妻の存在形態をめぐって―」(福田千鶴*1
(内容要約)
江戸幕府武家諸法度の規定「国主・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ婚姻ヲ結ブベカラザル事」により、一定の家格以上の武士に対し、幕府の許可なき婚姻を禁止した(勿論違反すれば処罰される)。
 また明文の重婚禁止規定はなかったものの、幕府は重婚を認めようとはしなかった。
 このことから、幕府が一夫一婦制を制度化しようとしていたこと、それ以前は一夫一婦制ではなかったことが読み取れる。
・ただし、現実に一夫一婦制を遵守し、側室の存在を否定することは無嗣断絶の危険性があった。近世前期に「無嗣断絶」が改易理由のトップであったことはそれを物語っていると考えられる。
・まあ、ウヨさんの反発があるかもしれないが、指摘しておくと戦前順調に進んでいた天皇制の世襲が今「女帝導入」を考えざるを得なくなってる理由の一つは側室制廃止だろう。もちろん「事実を指摘しただけ」で「側室制を復活しろ」と言ってるんじゃないので念のため。
・近世初期の「一夫一婦制」ルールはきわめて強力なものであり、建前でも「藩主の子は全て正室の子」とする必要があった。
 筆者はその例として、信州諏訪藩初代藩主・諏訪頼水の正室をあげている。諏訪家の公式記録では、正室は男7人、女9人の子どもを生んだことになってるらしいが、常識で考えてあり得ない話だろう。
・また、筆者によれば様々な状況証拠から三代将軍・家光の実母は江ではなく、側室と見るのが適切だという。「家光の実母捏造」ももちろん筆者的には「一夫一婦制」ルールの強力さを示すものである。詳しくは筆者の著書『徳川秀忠』(新人物往来社)、『江の生涯』(中公新書)を読んでほしいとしている。
・俺「へえ、そうなの」「そいつは知りませんでしたよ、無知なんで。時代劇は平然と江を実母扱いしてるし(福田説が学会でどれほどの支持を得てるが知らんが)」
 ただ、ウィキペ『徳川家光』には堂々と『15人の徳川将軍のうち、正室の子は、家康・家光・慶喜の3人のみ』って書いてあるんだよな。異説(福田説)もあるとはどこにも書いてない。いつもながら使えないな、日本版ウィキペ。
赤旗の「おはようニュース問答」風に
太郎「つまり、徳川家光だの、諏訪頼水の子だのは実母の存在が捏造されたと。産経が騒ぐ金正恩氏の母上の出自みたいですな。在日であることが隠されてるとか何とか」
次郎「失敬な。光り輝く朝鮮の金正恩閣下とその母上を、ニッポソの徳川家だの、もっと格下の諏訪家だのと一緒にするとは。産経の記事などデマに決まっておろうが。しかしニッポソと言うのは江戸時代からデマ常習だったのですね。ニッポソ、何て恐ろしい国」 
・つまらない冗談はさておき。しかしそうした路線にはあまりにも無理があるため、近世中期、後期になるに従いそうした「一夫一婦制の縛り」は弱くなっていく。

 せっかくだから「家光は庶子」という俺にとって衝撃の「新説」福田説を取り上げたエントリを一つ紹介してみよう。この論文で正直一番インパクトが大きかったのは俺的にはここだし。

http://blog.livedoor.jp/kinginsango/archives/2521008.html
九州産業大学福田千鶴教授の著書。
殆ど人物像を知る手掛かりの残されていない徳川秀忠正室・江の生涯を追いかけた正統派学術本である。

 一応プロのはしくれが書いた、しかも「伝統と信頼」の中公新書岩波新書もそうだろうね)の記述なら、「平気で南京否定本出す文春新書など、格下のダメ新書」と違って大きな問題はないはずなのだが。ちょっとこういう新説にはびびってしまうな。「これは中公新書の例外的存在のトンデモか?」と。「中公新書で学者の書いた本だからまず間違いないだろ」と中身確かめないで買ったら、読んでから「やっちまったのか?」と頭抱えちゃうかもしれない。

ただし、かなり斬新な説もちりばめられている。その最たる目玉が、「徳川家光は秀忠の正室・江の子ではない」という新説の提唱だ。
(中略)
もっとも、この本では、「家光の母が江じゃないとすれば、じゃあ一体誰が家光を産んだのか?」という、誰もが抱く当然の疑問については、残念ながら言及していない。
 なお、福田教授の説によれば、家光のみならず、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、京極家に養女に出した初、長じて家光と骨肉の争いを展開することになった忠長以外の江の子供たちは皆、江ではなく秀忠の侍妾が生んだ子であるという。

 千姫が長女、初が四女で、忠長が三男です。
 ちなみに「以外の子ども」ってのは次男・家光以外では次の通りです。「以外の子ども」に早死にした長男が入るかどうかは不明です。
・珠姫(次女):加賀藩藩主・前田利常の正室
・勝姫(三女):越前藩藩主・松平忠直正室
・和子(五女):後水尾天皇中宮明正天皇の母。

 やはり新説なんですか、そうですか。この人にとっての新説に過ぎず、もしかしたら通説化しつつあるのかもしれないが。それとも本能寺の変についての「朝廷黒幕説」だの「足利義昭黒幕説」なみの珍説だったりするのか?。なお、俺は黒幕否定説が通説で本能寺の変・黒幕説は全てトンデモだと理解していますので念のため。
(朝廷黒幕説はともかく足利義昭黒幕説の提唱者の一人・藤田達生氏は一応プロの学者なので、アマの俺としては言葉に詰まってしまうな)
 福田説の真偽はともかくこれネタに誰か小説でも書かないかね、しかし。
 いっそのこと、NHKが「江:姫たちの戦国」で「家光は実は江の実子じゃなかったんだよ!」「な、何だって!」とキバヤシ的にぶちかましてくれればよかったのに。
 全くNHKも「上野樹里に幼児やらせる」なんてネタ番組創ってはてな民に突っ込まれるくらいなら、それくらいはじけろよ(棒)。



■「将軍御台所近衛熙子(天英院)*2の立場と行動」(松尾美惠子)
(内容要約)
 近衛熙子は弘前藩津軽家の、幕府への領地加増願いを取り次いだが、これは彼女の実家近衛家津軽家が当時、縁戚関係にあったからである。
 しかし大奥の政治介入を嫌う当時の将軍・吉宗にとって熙子の行為は容認できず、津軽家の願いは却下されてしまう。
 だがここからは熙子が一定の政治力を行使できる地位にあることが読み取れる。


■「大名家の正室の役割と奥向の儀礼―近世後期の薩摩藩島津家を事例として―」(松崎瑠美)
(内容要約)
 薩摩藩5代藩主・島津継豊の正室・竹姫(五代将軍・綱吉の養女)、薩摩藩8代藩主島津重豪正室・保姫(御三卿・一橋宗尹の娘)、11代将軍徳川家斉正室・茂姫(島津重豪の娘)がテーマ。
 彼女らの存在は幕府と薩摩藩の間の重要な情報ルートであり幕府、薩摩藩お互いにとってにとって大変プラスだったと言える。
 この論文では取り上げられていないが13代将軍徳川家定正室篤姫薩摩藩第11代藩主島津斉彬の養女)もそうした流れの一つなのだろう。


■「大名相続における女性」(大森映子*3
(内容要約)
 長州藩福岡藩の御家相続が取りあげられている。
 まずは長州藩
 6代藩主・毛利宗広は病を患い、末期養子支藩長府藩藩主(後の長州藩7代藩主毛利重就)を指名した。
 問題はこのとき宗広の側室が懐妊していたことだった(もちろん女子だったり死産の可能性もあるからそれでも末期養子をするわけである)。
 宗広は次のような意思を示した。
1)重就の長州藩主・就任により空席となる長府藩主には重就の子(後の長府藩9代藩主・毛利匡満)をつける
2)宗広の子が男子の場合は、重就の次の藩主はその子とする。女子の場合は、すでにいる女児(誠姫)にしかるべき家から婿養子を迎えその男子を重就の次の藩主とする。後で説明するが宗広がしかるべき婿として考えていたのは丸岡藩主・有馬一準の次男(後の毛利重広)だと、長州藩重臣達は主張した(本当にそんな遺志が宗広にあったか真偽不明のようだが)。
結果から言えば、宗広の子は女児(百合姫。誠姫の妹)であった。
重就は自分の子ども(後の長府藩9代藩主・毛利匡満)を誠姫と結婚させることで問題解決しようとする。
しかし長州藩重臣の反対(長府藩主を重就の子にせよという宗広の遺志に反する)からそれをあきらめた。そして重臣達が、先君・宗広の遺志と主張する「丸岡藩主有馬一準の次男・純峯」を婿養子にすることを余儀なくされる。
 では、何故「丸岡藩主有馬一準の次男・純峯」は婿養子になったのか。そして結局毛利家の御家相続はどうなったのかをウィキペ「毛利重広」で見てみよう。

毛利重広(ウィキペ参照)
 享保20年(1735年)2月25日、越前丸岡藩第2代藩主・有馬一準の次男・純峯として生まれる。母・演暢院が長州藩第3代藩主毛利綱広の外孫であったことから、先代藩主毛利宗広の遺言で、宗広の娘・誠姫の婿に迎えられ、藩主毛利重就の養嫡子と定められた。世子決定には、実子の文乃助(後の長府藩9代藩主・毛利匡満)を嫡子にしたい重就や毛利氏の男系子孫でない有馬純峯(後の毛利重広)を養子にすることへの一部家臣の反対もあったが、宍戸広周や毛利広漢ら重臣により押し切られる形となった。宝暦2年(1752年)5月27日、毛利家に養子入り。宝暦10年(1760年)6月19日に死去。享年26。その死に際しては、家中で重就正室・登代(毛利治親生母)による毒殺の風聞が立った。

ということでここから
1)「有馬一準の次男・純峯」が婿養子になったことは、「先君・宗広の遺志」と「純峯の母が3代藩主・毛利綱広の孫であったこと」が理由
 この1)からは「先君の遺志」と「家臣団の主張する後継者候補純峯が3代藩主・毛利綱広の孫であること(要するに家柄がいい)」には、重就が逆らえなかったことがわかります。
 重就の息子は「毛利綱広の孫・純峯」よりは格が落ちるんでしょう。
 一方、家臣団も本心はともかく主君に向かって「お前の糞ガキなんか誰が後継者にするか。あんなバカに長州藩藩主がつとまると思ってるのか。長府藩藩主がお似合いだよ」などとはいえず「先君・宗広の遺志」とか「家柄の良さ」とかを反対理由に持ち出さざるを得ないわけです。まあ、実際は「長府藩の人間なんかに好き勝手されてたまるか」という気持ちがあるでしょうけどね。
2)1)に対しては、新藩主・重就の意思に反することや、有馬一族という外部の人間であること、女系子孫であること*4から、批判意見もあったが、匡満が重就の次の藩主となることを嫌う重臣連によって有馬純峯(後の毛利重広)の婿養子が決定されたこと
3)しかし重広の死により、結局、重就の次の藩主は彼が藩主就任後に誕生した、実子・毛利治親となり、「実子をなんとしても次の藩主にしたい」という彼の野望は、当初つけようとしていた匡満ではなかったが、実現したこと、がわかる
 これでは「毒殺の風聞」がたつのも当然であろう。
 なお、ウィキペによれば、重就にとって「我が子匡満を次の長州藩主にする」という自らの野望を邪魔した重臣連(宍戸広周や毛利広漢ら)には我慢がならなかったらしく、重広死後、彼らは藩の中枢からは排除されたようだ。治親の正室御三卿田安宗武の五女が迎えられ、宗広の娘・誠姫は会津藩主・松平容頌の正室に迎えられる。誠姫に婿を取って毛利家を嗣がせるという宗広の遺志が反故にされたわけである。

宍戸広周(ウィキペ参照)
 長州藩毛利氏家臣・宍戸氏*5第20代当主。正室は毛利元連の娘。
 享保5年(1720年)、長州藩士熊谷元貞の次男として生まれる。元文元年(1736年)、伯父宍戸広隆の死去によりその家督を相続し、長州藩一門家老となり、藩主毛利宗広に仕えた。宝暦元年(1751年)、藩主宗広が没し、支藩長府藩より重就が藩主として迎えられる。実子を世子としたい重就と対立して、宗広の遺言として縁戚の有馬家より純峯(毛利重広)を養子に迎えることを主張して実現する。
 宝暦10年(1760年)、世子重広が没し、重就の四男岩之允(毛利治親)が世子と定められると、反対派として処分される。
 宝暦11年(1761年)、家督を嫡男就年に譲り隠居する。明和9年(1772年)9月2日死去。享年53。

毛利広漢(ウィキペ参照)
 長州藩一門家老である阿川毛利家の7代目。正室は毛利元連の娘。
 享保7年(1722年)、阿川毛利家の6代目・毛利広規の長男として生まれる。寛保2年(1742年)、父の死去により家督を相続する。藩主毛利宗広に家老として仕えた。宝暦元年(1751年)に藩主宗広が没し、長府藩から藩主として重就を迎える。重就の世子を定めるにあたり、実子を後継者にしたい重就と、先代宗広の遺言として有馬純峯(毛利重広)を養子に迎えたい広漢ら一門家老が対立する。重就が折れて、純峯を藩主世子として迎えることとなる。
 宝暦3年(1753年)、領内に郷校時修館を創設して学問を奨励した。宝暦4年(1754年)、対立していた藩主重就に処罰され、隠居して家督を嫡男の就禎(阿川毛利家の8代目)に譲る。
 宝暦9年(1759年)死去。享年38。

毛利元連(ウィキペ参照)
 長州藩一門家老である厚狭毛利家の6代目。正室支藩徳山藩主毛利元次の娘幸。
 元禄12年(1699年)、長州藩家老毛利就久の三男として生まれる。寛保3年(1743年)、父の死去により家督を相続し、家老として藩主毛利宗広に仕える。
 宝暦元年(1751年)、宗広の養子として迎えられた重就の後継問題で、実子に家督を継がせたい重就と、3代藩主綱広の外孫・演暢院を母に持つ丸岡藩主有馬一準の次男・有馬純峯(後の毛利重広)を誠姫の娘婿として迎えたい元連ら一門家老たちが対立する。宝暦2年(1752年)、重広が婿養子として迎えられた。
 宝暦10年(1760年)に重広が急死し、毒殺の風聞の立つ中で、重就の実子の岩之允(毛利治親)が嫡子に定められると反対派として処罰され、隠居して家督を婿養子として迎えていた就盈(支藩徳山藩主毛利広豊の六男)に譲る。
 安永3年(1774年)9月29日死去。享年76。


 次に福岡藩
 面倒なのでウィキペ「黒田継高」を引用してみる。

黒田継高(ウィキペ参照)
 福岡藩第6代藩主。
 元禄16年(1703年)、福岡藩支藩である筑前直方藩の藩主・黒田長清の長男として誕生。正徳4年(1714年)4月23日、宗家であり従兄にあたる福岡藩第5代藩主黒田宣政の養嗣子となった。なお、黒田長清には継高以外に子がなかったため、長清死後は直方藩は廃藩となり、所領は福岡藩の一部となった。

 ということで、継高自身が、男子に恵まれない宣政の婿養子となって福岡藩主となった人間であった。
後でウィキペの記述を引用するがその継高自身も男子に恵まれず婿養子を取らざるを得なくなると言う皮肉な話になる。

 晩年の継高は、長男・重政、三男・長経という2人の次期当主となりうる男子を相次いで亡くし、後継者問題に見舞われた*6。継高や重臣は評議の上で、岡山藩主池田宗政の次男政長*7を養子に迎えることに決定した。池田政長は黒田継高の外孫であった。しかし、宝暦13年(1763年)9月、幕府は御三卿・一橋宗尹の五男隼之助(後の第7代福岡藩黒田治之)を養子にすることを打診してきた。結局、継高は隼之助を養子に迎え入れることにした。亡くなった重政の娘屋世を養女に迎え、隼之助と婚約させて、黒田家の血統維持をはかったものの、屋世は11歳で早世してしまう。明和6年(1769年)12月10日、隠居し、養子治之に家督を譲った。隠居後は図書頭を称した。安永4年(1775年)6月17日、福岡城にて死去。享年73。

 既に池田家の内諾も得て後で幕府に了解を得るだけという段階での一橋家の横やりははっきり言って迷惑だったろうが、
「断って御三卿・一橋家の恨みを買うより、ここで縁戚関係を創った方が得ではないか」
「一橋家から話があったので引き受けざるを得なかったといえば池田家も納得してくれるだろう」
「そもそも養子を幕府が了解する絶対の保障はない。その点、池田家の子どもを養子にするより、一橋家の子どもを養子にする方が了解は得やすいだろう」との判断の下、一橋家から養子を受けることとなる。原則、養子というのはやはり何らかの血縁関係があるところから普通もらうわけだが相手が一橋家という超エリートだと話が別になるわけだ。
 しかしこれで黒田家の御家相続問題は終わらない。一橋家から迎えた7代藩主・治之が子どもをなさぬまま30歳で早死にしたため讃岐国多度津*8主・京極高慶の七男(後の第8代福岡藩主・黒田治高)を末期養子として迎えることになる(実際は死後の養子なのだが、それは認められていないため末期養子と偽った)。
 だが、治高も藩主就任1年で病死。御三卿・一橋治済*9の四男(後の第9代藩主・黒田斉隆)を末期養子として迎えることになる(これも実際は死後の養子なのだが、それは認められていないため末期養子と偽った)。斉隆も19歳で早死にするが幸いにも彼には子どもがいたため、御家相続の問題は起こらずにすんだ。


【追記】
 岡山藩主池田宗政の次男政長が「第11代藩主相良長寛」となった「人吉藩」もウィキペによれば御家相続で興味深いエピソードがあるようなので紹介しておく。

人吉藩(ウィキペ参照)
■竹鉄砲事件:
 8代藩主頼央が鉄砲により暗殺された事件である。別名、御手判事件とも呼ばれる。元々相良家の記録にはなく、秘匿されていた事件であるが、渋谷季五郎が相良家近世文書を整理中に偶然発見し判明した。
 発端は7代頼峯の宝暦5年(1755年)に領内を襲った大水害である。藩は当時すでに財政が逼迫していたが、この大水害により藩士の生活は壊滅的な打撃を受けた。 翌宝暦6年(1756年)、藩士救済策として、家老・万江長右衛門らの大衆議派が希望者に対し御手判銀の貸し付けの触れを出した。しかし、小衆議派は、その返済方式では実質的に知行の削減となり藩士が一層貧困に喘ぐとして異を唱えた。
 宝暦7年(1757年)、藩主・頼峯は、帰国に際して弟の相良頼母(後の頼央)を仮養子にしようとした。頼母は小衆議派の中心人物であったため、家老・万江らはこれに反対し、連判状を提出するにいたった。しかし、頼峯は、強硬な反対を押し切って頼母を仮養子として帰国した。 ところが、頼峯を毒殺し頼母の擁立を企てたという遺書を残して藩医が自殺する事件が起こった。頼峯は吟味のうえ小衆議派を処罰し、御手判銀貸し付けは実行された。
 宝暦8年(1758年)、頼峯は江戸参府の途上発病し、江戸到着後死去した。死去により頼母が出府し、8代藩主・頼央となった。 翌宝暦9年(1759年)6月に帰国した頼央は、その2ヶ月後に急死する。相良家の記録では、7月に体調を崩し薩摩瀬の別邸で療養していたが、病状が悪化し死亡したとされている。
 しかし、言い伝えによれば、薩摩瀬の別邸に滞在中の7月、鉄砲により狙撃され8月に至り死亡したという。藩は、銃声を子供の竹鉄砲(爆竹)であると誤魔化し、調査を求める訴えを取り上げなかったという。大衆議派と小衆議派が対立する中、小衆議派の中心人物であった藩主が暗殺されたものと言われている。

まあ、藩主暗殺なんて表沙汰にしたら確実に改易されるでしょうからね。

 また、これにより藩主相良家の血統は断絶し、以後約10年間、他家から晃長、頼完、福将*10、長寛と4人の人物を相次いで継嗣に迎え入れるという不安定な家督相続をし、なんとかお家断絶の危機を切り抜けていった。

で、晃長、頼完のエピソードも興味深い。

相良晃長
 肥後人吉藩・第9代藩主。第8代藩主相良頼央の養子。宝暦2年(1752年)2月20日、日向高鍋藩主・秋月種美の三男として生まれる。兄に有名な出羽米沢藩主・上杉鷹山(治憲)がいる。宝暦9年(1759年)12月11日、頼央が暗殺されたため、末期養子に迎えられて家督を継いだ。ところが3年後の宝暦12年(1762年)2月4日に早世した。享年11。
 この年齢で継嗣があるわけがなく、相良家の縁戚に当たる大納言・鷲尾隆熙の子を新たな第10代藩主相良頼完として迎えた。しかし、頼完は晃長より年長*11で、さらに晃長が17歳未満のため、武家諸法度上、末期養子は認められないことから、人吉藩では無嗣断絶による改易を恐れて、晃長の病状は回復し、その後に頼寛と改名したということにした。つまり、幕府には晃長と頼寛を同一人物であるということにして処理し、さらに公式系譜さえも改竄した。幕府には露見していた節があるが、人吉藩改易を望まない幕府は特段問題にしなかった。それどころか、同様の継嗣問題が発生した際の救済策のモデルに利用されることさえあった。

「幕府には露見していた節がある」
まあ、露見するでしょ、普通に考えて。全く別人なんですから。皆で「病気が直ってよかった」と華麗にスルーですか?
「藩主が暗殺される」わ、「幼君死亡をごまかすために公式系譜を改ざんする」わ、下手な時代劇よりドラマチックですな。


【渋谷季五郎について】

http://210.149.59.38/feature/kataru/shibuya/20100205001.shtml
 渋谷家は幕末、人吉藩相良家の家老職を勤めたとかで、明治5(1872)年、采地の一武村に移り住んだ。
(中略)
 祖父季五郎は、明治24(1891)年に慶応義塾を卒業、塾長福沢諭吉から三井財閥に就職を斡旋されたが、学資を出してもらった旧藩主相良家の恩顧黙し難く、子爵相良褚綱公の家庭教師を勤めた。
(中略)
 祖父は晩年「相良家史料」の整理にかかった。東京の相良子爵家から送られた文書たんすから、よれよれの古文書を引き出しては読み、浄書して、ついに五十四巻の「相良家史料」を完成、これら古文書は後に慶応大学図書館に収められ、国の重文に指定されたが、これにかけた祖父の執念はすごかった。祖父はぜんそくの持病があり、とくに冬の発作には七転八倒したが、それが収まるとまた机にもどって黙々と仕事を続けた。子供心にもそれが痛ましくて、私は黙って祖父の背中をさすった。祖父から私は学問の厳しさを教わったように思う。


■「将軍家「奥」における絵画稽古と御筆画の贈答」(木下はるか)
(内容要約)
 徳川将軍家においては、幕府御用絵師によるかなり厳しい「絵画稽古」が嫡子(男女問わず)や、他家から迎えた正室に対して行われた。それは徳川家にとって絵画能力は「徳川家の権威を示す物」として当然に身につけておくべき教養とみなされたからである。
 こうして身につけた絵画能力によって描かれた「すばらしい絵画(御筆画)」は大名や幕臣に下賜品として贈与され、将軍一族の偉大なる権威の証明(美しい絵画に感動!。さすが俺たちの徳川将軍家やで!)となるのだった。一方もらった方も床の間に飾ったりすることによって「忠義の精神」を証明するのだった。
まあ、いつの時代も独裁者のやることは変わらないということやね。たぶん絵画だけじゃなくてたとえば武家にとっての茶道なんかもそうなんだろうね。
 戦後は独裁者と違うけど、歌会始とかもそういうもんやろ。「天皇陛下万々歳」「天皇一家の歌読む能力すごいッス」的な。


■歴史の眼「横浜市における「つくる会」系教科書の採択とその背景」(加藤千香子)
(内容要約)
 一言で言えば前市長の中田が選んだバカウヨ教育委員共が理屈抜きで選んだと言うだけのばかばかしい話。林市長の選んだ委員はそんなばかはしなかったそうなのでそれだけは救いだ。
 厄介なのは「つくる会」系が最初1%未満だったのが、今4%に増えてると言うことだろう。
 もちろん、山田のバカが区長を辞めて杉並で採択されなくなったなどといったハッピーニュースもあるのだが、今後も「戦いは続くぜ」という憂鬱な話。まあ、この種のバカウヨ連中で一番うんざりさせられるのは橋下だよな。つくる会への態度がどう見ても石原と変わらねえ*12のに、よくアレを大阪愚民は支持できるな。しかし、橋下に限らず、俺の住む埼玉の上田と言い、名古屋の河村と言い何でああいう「歴史修正主義」バカが改革派面できるのかね。


■文化の窓「ソウルで考えたこと第2回:韓国での『併合百年』」(君島和彦*13
(内容要約)
 『「韓国併合」百年を問う』(岩波書店)のあとがきが「韓国での学術研究会が低調だった」としている事への反論。
 筆者曰く、韓国においては「学術研究会で一般の参加者が少ないのは珍しくないこと」「学者だけが参加すれば別にいいと考える風潮があること」を指摘し、「そうした状況がいいとは思わない」が「まるで、韓国併合問題が韓国で風化してるかのように描写している岩波の後書きは問題がありすぎる」と批判している。

*1:著書『徳川秀忠』(新人物往来社)、『御家騒動』、『江の生涯』(以上、中公新書)、『徳川綱吉』(山川出版社日本史リブレット)

*2:6代将軍・徳川家宣正室。関白、太政大臣を務めた近衛基熙の娘

*3:著書『お家相続―大名家の苦闘』(角川選書

*4:女系云々は女帝反対論で産経がよく言う反対理由ですね

*5:宍戸氏は毛利氏とは縁戚関係にある

*6:なお、次男は重政、長経がなくなる以前に既に病死していた

*7:後の肥後人吉藩・第11代藩主相良長寛。結局、福岡藩ではなかったが、別の藩に養子として迎えられたわけだ。

*8:丸亀藩支藩

*9:一橋宗尹の四男。第11代将軍徳川家斉の父

*10:美濃苗木藩主遠山友明の次男・友充

*11:武家諸法度では原則年長養子は認められない

*12:だからこそ中田が橋下のブレーンの訳だが

*13:著書『教科書の思想:日本と韓国の近現代史』、『日韓歴史教科書の軌跡―歴史の共通認識を求めて』(以上、すずさわ書店)