いつもどおりid:noharra氏に突っ込む(7/19分)(追記・訂正あり)

「野原大爆笑」のテーマ
ノ、ノ、野原(id:noharra)の大爆笑。
野原は今日も寝言です。
嗤って下さい今日もまた。
野原に遠慮はいりません

noharra野原燐
野原燐‏@noharra
金正恩は、金永春と李英浩という軍のトップ二人を、あっさりと粛清。浪に呑まれて転覆する可能性も高い。つまり近未来の北朝鮮は、金正恩の強い意向に従って親米路線を加速化させるが、その間に軍によるクーデターが勃発する可能性も高い」 
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33059?page=2

「李英浩」ってのはこの間「病気で軍総参謀長その他の役職を全て更迭されたと朝鮮のメディアが公式発表した人」。金永春って人はよく知らん。ググってもよくわからなかった。近藤曰く、李英浩氏が更迭される前に、人民武力部長を更迭されたらしい。李氏と違ってあまり騒がれなかったから重要度が李氏より落ちるのだろう。あるいは近藤の言うような粛清ではなく単なる隠居か?
id:noharra先生にはどういう考えでこの講談社「月刊現代・ネット版」の「朝鮮ウオッチャー?」近藤大介*1の論文にツィートしたのか是非教えてほしい物だ。
どうせ「アンチ北朝鮮の俺様・id:noharra様としては北朝鮮が崩壊するかもしれないというニュースでメシウマ」というくだらない話なんだろうが。
俺はid:noharra先生と違って北朝鮮に対しては何の思い入れもない。正直、平和的に崩壊してくれるならば崩壊してくれて結構だとすら思っている。
ただこのid:noharra先生の紹介する近藤論文が事実なら、まともな人間なら「メシウマ」と言って喜べる話ではない。少なくとも「クーデターの恐怖」については事実ではないことを望みたい。
近藤論文をオレ流に要約すると次のようになる。


「1:偉大なる金正恩閣下は涙をのんで国の繁栄のため、米国帝国主義(以下、米帝)との国交樹立を決意されました」
 偉大なる毛沢東同志、周恩来同志が米帝と国交樹立したのと同じようなことだろう。


「2:しかしそうした偉大なる金正恩閣下のお心がわからない金永春と李英浩のバカ二人は『米帝と国交樹立などとんでもないことだ!』と閣下に反逆しようとしたのです」


「3:バカ2人は役職を更迭されました(近藤は粛清としか書かないので単に役職をおろされて名誉職つうか閑職に行ったのか、それとも刑務所送りにでもなったのか全く不明)」


「4:しかしこのバカ二人を支持するバカは軍内部に多くクーデターによる金正恩政権崩壊、軍部政権樹立すらあるかもしれません」


で、「1〜3」は正直事実でも構わないのだが、「4」が事実というのは困る。
「4」が事実なら「それによって生まれる政権がかなりの反米タカ派政権になること」が予想されるからだ。
なお、近藤は

急激な親米路線に舵を切った金正恩政権に対して、日本としてもアプローチするチャンスが生まれたと見るべきだろう。つまり、拉致問題を解決した上での国交正常化の道が開けたということである。さらに言うなら、軍のクーデターが勃発する前に、「親米派」の金正恩と組んでおいた方が得策だということだ。

としており「外交こそベストという意味」では俺に考えが近く、id:noharra先生とは考えが遠いのだがそれをどう思うのかもid:noharra先生に聞きたいところだ。まあ、別に「急激な親米路線」に舵を切ろうが切るまいが日朝間外交以外に道はないと俺は思うし、外交路線それ自体は、「百戦百勝の鋼鉄の霊将」金正日閣下が日朝平壌宣言を結んで以降の朝鮮の規定路線だと思うが。

ちなみに俺が近藤論文で一番吹き出したのはここだ。

金正日は子楚*2で、金正恩が秦の始皇帝だ。そして金敬姫が趙姫*3で、李英浩を押しのけて軍のトップにのし上がった崔竜海が嫪毐(ラオアイ)だ。

「ええとじゃあ、嫪毐を趙姫に紹介した呂不韋は誰なの?」
「つまり金正恩閣下の母親は金敬姫先生で兄と妹の禁断の(以下我ながらゲスいと思うので略。たぶんそう言う話ではない。)」
「崔先生って何がそんなに大きいのか、で金敬姫先生を毎晩ヒイヒイ言わせてると(たぶんそう言う話ではない。なお「何が大きい」とか「ヒイヒイ」とかわからない「純真な心の持ち主」は「どういう意味ですか?」とか聞かなくていいから)」
「つまり金正恩閣下は始皇帝のように天下統一をすると(たぶんそう言う話でもない)」
要するにたとえがおかしくないか?


参考

呂不韋(ウィキペ参照)
 中国戦国時代の秦の政治家。始皇帝の父・荘襄王を王位につける事に尽力し、秦で権勢を振るった。始皇帝の本当の父親との説もある。
■奇貨居くべし
 呂不韋は商人の子として生まれた。彼は若い頃から各国を渡り歩いて商売をし、富を築いた。
 ある時に趙の人質となっていて、みすぼらしい身なりをした秦の公子・異人(後に子楚と改称する。秦の荘襄王のこと)をたまたま目に付けて、「奇貨居くべし」(「これは珍しい品物だ。これを買って置くべきだ」)と言った。異人は当時の秦王・昭襄王の太子・安国君(後の孝文王)の庶子であったが、安国君には20人以上の子があり、異人の母・夏氏は既に安国君の寵愛を失っており、異人自身が王位を継げる可能性は極めて低かった。しかし呂不韋は彼を秦王にし、その功績を以て権力を握り、巨利を得る事を狙った。
■世子を擁立
 呂不韋は秦に入って安国君の寵姫・華陽夫人のもとへ行った。さらに華陽夫人の姉にも会って、自身の財宝の一部を彼女に贈って彼女を動かし、この姉を通じて異人を華陽夫人の養子とさせ、安国君の世子とするよう説いた。華陽夫人は安国君に寵愛されていたが未だ子が無く、このまま年を取れば自らの地位が危うくなる事を恐れて、この話に乗った。安国君もこの話を承諾して、異人を自分の世子に立てる事に決めた。
 趙に帰った呂不韋が異人にこの吉報をもたらすと、異人は呂不韋を後見とした。また異人はこのとき、養母となった華陽夫人が楚の出身だったのでこれに因んで名を子楚と改めている。
 呂不韋は趙の芸妓の女を寵愛していたが、子楚はこの女が気に入り譲って欲しいと言い出した。呂不韋は乗り気ではなかったが、ここで断って子楚の不興を買ってはこれまでの投資が水泡に帰すと思い、女を子楚に譲った。この女は既に呂不韋の子を身籠っていたが、子楚にはこれを隠し通し、生まれた子も子楚の子ということにしてしまった。これが政(後の始皇帝)であるという。この説が真実かどうか今となっては確かめる事はできないが、当時から広く噂されていたようで、『史記』でもこれを事実として書いている。
■秦の宰相
 紀元前252年、秦の昭襄王が在位55年で逝去し、その次男の孝文王が立つと子楚は秦に送り返され太子となったが、間もなく孝文王が50代で逝去したために太子の子楚が即位して荘襄王となった。呂不韋は丞相となり、彼の権勢は並ぶものが無かった。
 紀元前246年、荘襄王が若くして死に、太子の政が王となった。呂不韋は仲父と言う称号を授けられ、呂不韋の権勢はますます上がった。
■斜陽
 権勢並ぶものが無い呂不韋太后と密通していた。これは元々太后荘襄王が死んで、物足りなくなったので呂不韋を誘ったのだが、政が大きくなるにつれて元愛人とはいえ自分より身分が高くなった太后との関係を続けるのは危ないと感じた呂不韋だったが、太后はもともと好色だったため男なしではいられず、未練を断ち切れなかった。そこで代理として、嫪毐(ろうあい)という巨根の男を太后に紹介した。しかし、太后の住まいである後宮は宦官以外の男性は入れない。そこで、宦官と偽って後宮に送り込んだ。太后は嫪毐に夢中になり、子を二人生んだ。
 嫪毐はその後、太后の寵愛を背景に権勢を振るったが、秦王政に太后との密通が発覚し、ならばいっそと謀反を起こすがすぐに鎮圧され、車裂きによる刑で誅殺された。そして嫪毐の二人の子も処刑された。さらに秦王政は仲父の呂不韋連座制に従い処刑する事を望んでいたが、今までの功績を重んじて丞相の罷免と蟄居に留めた。
 紀元前236年、呂不韋はその後も客と交流する事を止めず、諸国での名声も高かったので、秦王政は呂不韋が客や諸国と謀って反乱を起こすのではないかと恐れ、呂不韋を詰問する手紙を送り蜀への流刑とした。この事に呂不韋は自らの末路が見えて絶望し、翌年服毒自殺を遂げた。
■評価
 呂不韋始皇帝の実の父であると言う話は広く流布しており、『史記』でも呂不韋列伝に史実として記載されている。しかし、始皇帝を中傷するために作られた話とする見方もある。

*1:ググった限りでは何物か不明。

*2:始皇帝の父親。呂不韋が本当の父親かもしれんが

*3:呂不韋の元愛人。始皇帝の母親