特集「いま、歴史教育は何をめざすのか」
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
今回の特集はあるべき歴史教育を考えるといういつも以上に要約しづらい内容なのでかなりアバウトな要約になっている。
■「グローバル化の時代における歴史教育の対話―往復書簡から― 」(大門正克*1、戸川点)
(内容要約)
・大門氏の著書「Jr 日本の歴史7:国際社会と日本(1945年から現在)」(2011年、小学館、題名からわかるように岩波ジュニア新書のような青少年向け)について高校で日本史を教える戸川氏が意見表明し、それに大門氏が応答するというもの。内容については直接お読みいただきたい。
■「学術会議の歴史基礎案―世界史未履修問題への対応をめぐって―」(久保亨*2)
(内容要約)
世界史未履修問題*3をきっかけに出された、日本学術会議の提言「新しい地理・歴史教育の創造:グローバル化に対応した時空間認識の育成」(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-t130-2.pdf)についての久保氏のコメント。久保氏の見解については直接お読みいただきたい。
参考
歴史家をめざす学生のブログ「歴史教育の未来に向けて〜日本学術会議提言「新しい高校地理・歴史教育の創造」を考える」
http://d.hatena.ne.jp/theta_K/20110806/1312639645
井内誠司の学界時評
『世界史未履修問題」と子どもー日本学術会議・提言ー(1) 』
http://59801224.at.webry.info/201205/article_2.html
『「世界史未履修問題」と子どもー日本学術会議・提言ー(2) 』
http://59801224.at.webry.info/201205/article_3.html
『「世界史未履修問題」と子どもー日本学術会議・提言ー(3) 』
http://59801224.at.webry.info/201205/article_4.html
『「世界史未履修問題」と子どもー日本学術会議・提言ー(4) 』
http://59801224.at.webry.info/201205/article_5.html
『「世界史未履修問題」と子どもー日本学術会議・提言ー(5) 』
http://59801224.at.webry.info/201206/article_1.html
『「世界史未履修問題」と子どもー日本学術会議・提言ー(6) 』
http://59801224.at.webry.info/201206/article_2.html
「参考サイト」はググって見つけた物(残念ながら俺の探し方ではこれぐらいしかヒットしなかった)を参考までに紹介しているだけで、俺の意見ではないし、ましてや久保氏の意見とも関係ないことをお断りしておく。
■「高校歴史教育の改革と思考力育成」(油井大三郎*4)
(内容要約)
世界史未履修問題をきっかけに出された、日本学術会議の提言「新しい地理・歴史教育の創造:グローバル化に対応した時空間認識の育成」(http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-t130-2.pdf)についての油井氏のコメント。タイトルからわかるように「詰め込み型歴史教育から思考力育成型の歴史教育を目指せ」という話。そして、油井氏の研究対象であるアメリカ歴史教育の実践からいろいろと参考になることがあるのではないかというお話。
とはいえ実現はなかなか難しいだろうと思う。大学入試が現実に「詰め込み式の方が有利」である以上そこを変える必要がまずあるだろう。
また、「思考力育成型」というのは「通史的・体系的学習が難しい(「不可能」ではないだろうが)」と言う問題もある。
■「歴史の学びの原初的形態へ」(野口剛)
(内容要約)
高校教師である筆者の立場からのあるべき歴史教育へのコメント。
■「歴史を考える力としての学力の構造―「仮説性」という概念を介して歴史認識の学力を考える―」(佐貫浩*5)
(内容要約)
・「仮説性」(「歴史的問題について何らかの仮説を立てそれを検証していくこと、そのために必要な学力」と理解すればいいのだろう)を軸にあるべき歴史教育についてコメント。内容的には油井氏の「思考力育成型の歴史教育」という話とかぶるところがあると思う。
■歴史の眼「はじめての天皇陵立ち入り観察:誉田山古墳(宮内庁呼称応神天皇恵我藻伏崗陵)内堤表面観察調査の報告と意義」(森岡秀人)
(内容要約)
うまく要約できないので関係ブログの紹介でお茶を濁す。
参考
http://heike.cocolog-nifty.com/kanwa/2011/02/post-79ea.html
平安京閑話〜山田邦和*6のひとりごと〜『誉田山古墳の陵墓公開、の巻』
新聞やテレビでも既報だが、陵墓関係16学・協会(大阪歴史学会、京都民科歴史部会、考古学研究会、古代学協会、古代学研究会、史学会、地方史研究協議会、奈良歴史研究会、日本考古学協会、日本史研究会、日本歴史学協会、文化財保存全国協議会、歴史科学協議会、歴史学会、歴史学研究会、歴史教育者協議会)が宮内庁に要望してきた「陵墓公開」の一環として、大阪府羽曳野市の誉田山古墳(誉田御廟山古墳ともいう。宮内庁のいう「応神天皇恵我藻伏崗陵」)の内堤部への立ち入り調査が実現した。
(中略)
とにかく、対象が日本第2位の巨大前方後円墳ということで、マスコミの興味も大きかったようである。幹事役の私のところにも、1週間前くらいから問い合わせの連続。よく勉強されている記者の方にしゃべるのは良いのだが、陵墓問題や古墳についてまったく知識のない記者さんもいて、その人たちに1から説明するのはなかなかにしんどいことである。さらに、立入調査の数日前に共同通信が「応神陵に巨大方形土壇」発見という記事を配信し、そちらとの関連での質問が多く、こちら側の立場を説明するのに大童となる。とにかく、当日までてんてこ舞いであった。
当日朝、まずは幹事団体が集合し、誉田山古墳の南側に隣接し、もともと同古墳を境内地としていた誉田八幡宮に行き、御挨拶。後円部側の旧拝所を観察。旧拝所には石造の太鼓橋が架かっている。最近、必要があってアーチ形石橋を調べてみたので、ちょっと興味深い。
午後、古墳の前方部側の宮内庁事務所前に集合。予想以上に新聞社や放送局が列をなしているのに驚く。さらに、上空には何機もヘリコプターが飛んでおり、最初はそれが何か分からなかったのだが、実は私たちを狙っていることに気がつき、仰天! 13時より立入開始。ただ、今回の立入調査は誉田山古墳の内堤(内濠の外側の堤)のみであり、墳丘への立入はやっていない。ここのところ、誤解のないように。マスコミの中には、(中略)墳丘に立ち入っていないのでは意味がないという態度をあからさまに見せるところがあったり、逆に、内堤部だけの立入でなにかセンセーショナルな大発見を期待したりするところがあったりしたようだ。それはどちらも間違い。記者さんたちに繰り返し説明したのは、古墳は墳丘も濠も堤もすべてあわせてひとつの遺跡なのであり、そのそれぞれについてどんな小さな情報でもよいから拾い集めていくのが私たちの目的である。そんな地道な作業の積み重ねこそが意味があるのであり、堤では意味がないとか、逆に今回の立入ですべてがわかるとか、そんなものではありえない。
この立入の成果はいずれ学会の刊行物の中で報告するが、ひとつだけ言ってもいいのは、とにかく巨大で綺麗な堤だった。とにかく幅50m、中規模古墳がすっぽりおさまるような規模の堤など、他の古墳ではめったにお目にかかることはできない。それに、保存状態も極めてよい。古墳の堤はややもすると過小評価されることが多いが、こんなすばらしい堤を見ると、これからきちんととりあげていかなくてはならない研究対象であることを実感する。
■書評:堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動──動員される民衆』(柴田哲雄*7)
(内容要約)
・後で紹介する参考サイトの要約とかぶるところもあるが一応紹介してみよう。
【本書の課題意識】
・汪政権の進めた新国民運動について、目的、実態(運動の方法論など)、成果などを具体的に分析する。
【本書の成果】
・従来、新国民運動の失敗について「汪政権の傀儡性(政治基盤が弱体で日本軍の介入を招いたこと)」を理由とする解釈が強かった。間違いではなくそれは重要な要因ではある物の、それを強調すると「日本軍の介入がなければ成功した」かのように理解されかねない。
本書は汪政権そのものにも官僚主義などの内在的問題があったことを指摘している。
【本書の問題点】
本書の成果は基本的に高く評価できるが、以下の問題点を指摘する。
1)「動員される民衆」という副題を掲げながらももっぱら「政権側がどう動員しようとしたか」にスポットが当たっており、「民衆がそれをどう理解したか」にスポットがあまりあたっていない。そうした資料は少ないとは思うが、当時の小説家の作品や、重慶政府の報告書などを使ってそうした分析をすることは困難であってもすべき事だったと思われる。
2)政権が取り込もうとしていた汪政権軍や、上海資本家への言及が少ない。新国民運動がテーマである以上、それらについて大々的に論じろとは言わないがもっと言及しても良かったのではないか。
3)一部、事実認識として疑問点がある。たとえばp148は「周仏海*8日記」(邦訳:みすず書房)を引用し「周と汪は親密な関係にあり、政治認識を共有していた」「周は日本の対英米戦を不可避と見なし、汪も同意見であった」「こうした認識の元に新国民運動は展開された」と言う趣旨の記述がある。
しかし、一方である先行研究*9は「汪が日本の重慶脱出工作に応じたのは、『日本の対英米戦は実施されず、実施されない限り、英米は日中戦争にあまり介入しない』と言う判断があった」「太平洋戦争はその汪の判断に大きな修正を迫る大事件であった」と言う趣旨の記述をしている。
堀井氏が「汪は日本の対英米戦を不可避と見なしていた」というなら先行研究への詳細な批判が必要だろうがそれはなされておらず問題ではないか。
参考
http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-6199.html
ものろぎや・そりてえる
堀井弘一郎『汪兆銘政権と新国民運動──動員される民衆』
・日本側の工作に応じて重慶の蒋介石から分離した汪兆銘グループが、北京の中華民国臨時政府(首班は王克敏)及び上海の中華民国維新政府(首班は梁鴻志)と合流する形で1940年3月末、南京に成立したいわゆる汪兆銘政権については、共産党・国民党の双方から「傀儡政権」と規定されているため研究蓄積が少ない。この政権が日本の大陸侵略に利用されたのはもちろん確かであるが、他方で汪兆銘たち自身の少なくとも主観的意図としては日本側と交渉しながら限定的条件の中でも中国側の利益を図ろうとした側面も看過できない。「傀儡」とレッテル貼りして一定の枠組みの中に歴史理解を狭めてしまうとこうした両義性が見落とされかねないという問題意識から、本書では「対日協力」政権という呼称が用いられる。
・日本のバックアップで組織されていた維新政府の組織を継承→その傀儡的性格などマイナスの桎梏。
・できるだけ広いグループを集め、本格政権としての威容を示すためポストを濫発→行政の肥大化。
・日本軍の撤兵、税権・租界の回収、軍管理工場の接収、日本人顧問の制限などを要求して国家としての主体性を追求→しかし、政治的実態は弱く、日本側もこの政権への期待が薄くなった→日本と汪兆銘政権との間の不信感は1942年の段階ですでに表れていた。
・1943年以降、汪兆銘政権の政治力をいかに強化するかという問題意識→そもそも「親日」政権ということで一般の評判が悪く、民心掌握ができていない→対民衆工作が課題となった。
・民衆動員組織の重層的・多元的な混乱:維新政府の頃からあった大民会、興亜建国運動、1941年2月に東亜聯盟中国総会、1942年7月に新国民運動促進委員会(新民会)など、他にも行政組織として清郷委員会、保甲委員会→組織や運動の乱立→動員体制が整備できないまま空回り。
・汪兆銘系の国民党組織→日本側は国民党が組織的基盤を強めることを望まず。人材は党から行政機構へと流出。
・石原莞爾らが起こした東亜聯盟にはもともと東亜各国の政治的独立と日本との対等な関係という発想があった→辻政信が汪兆銘に談判して東亜聯盟中国総会が成立→汪兆銘は、日本の「東亜新秩序」と孫文の「大亜州主義」とを結びつけて解釈、「和平」運動の理念を新政権樹立後の東亜聯盟論によって継承させようとした→しかし、日本側の方針転換によって東亜聯盟はつぶれていく→これに変わる民衆動員運動として新国民運動。
・汪兆銘側としては、英米権益の回収を要求するため政権の対米英参戦を望んだが、日本側は消極的。「中華復興」と並んで「東亜解放」を掲げた新国民運動は対日協力を正当化するデモンストレーションとなったが、東亜聯盟にあった政治的独立の契機は後退してしまい、対日協力ばかりが強調されていくことになる。
・新国民運動は、積極的な理念を展開するものではなく、三民主義を継承。また、蒋介石の新生活運動を踏襲。華北にも進出したが、新民会との整合性がとれず頓挫。
・近代国民国家にふさわしい「礼儀正しく文明的」な国民性を形成しようという志向性を持っていた点で、蒋介石政権の新生活運動と汪兆銘政権の新国民運動には共通点があったという指摘は、近代中国史における国民国家形成という長期的課題を念頭に置いて考えると興味深い。
・汪兆銘の死後(1944年11月)、新国民運動は消滅。
*1:著書『歴史への問い/現在への問い』(2008年、校倉書房)
*2:著書『社会主義への挑戦:1945-1971(シリーズ 中国近現代史 4)』(2011年、岩波新書)
*3:大学入試で世界史選択のところが少ないことが大きな原因だろう。といって世界史必修をやめていいかといったらいいようには思われないし、とはいえ大学入試の現状を変えることも難しいであろう。学術会議案は「世界史と日本史を統合した科目・歴史基礎(仮称)」を新たに設立することを提唱しているらしい。
*4:著書『なぜ戦争観は衝突するか―日本とアメリカ』(2007年、岩波現代文庫)、『好戦の共和国アメリカ』(2008年、岩波新書)
*6:天皇陵関係の著書に『歴史のなかの天皇陵』(共著、2010年、思文閣出版)
*7:汪政権について著書『協力・抵抗・沈黙―汪精衛南京政府のイデオロギーに対する比較史的アプローチ』(成文堂)
*8:ウィキペ曰く「中華民国の政治家。国民党中央執行委員・党中央宣伝部副部長などを歴任。1938年に汪兆銘が対日和平を志向して重慶を脱出すると、これに従い汪政権成立に参加する。汪政権成立後は行政院副院長・財政部長・中央政治委員会秘書長・中央儲備銀行総裁・上海市長・上海保安司令・物資統制委員会委員長を歴任した。汪兆銘亡き後は、陳公博が主席代理となったが、周は実力者として地位を固め、「実質的な後継者」とも評された。戦後漢奸として逮捕され、1946年11月7日に死刑の判決を受けるが、特赦により、1947年3月26日、無期徒刑に減刑される。しかし1948年4月、結局は南京で収監中に獄死。」