ツイッターやエントリに突っ込むときはIDコールしろとの仰せなので「死ぬほど大嫌いなあの方」にがんがん突っ込んでIDコールさせていただく。まあどうせ「醜い言い訳する」か「華麗にスルー」するか「批判者に対する橋下のツイッターそっくり」の対応しかしないんでしょうけど(毒)
野原燐@noharra
そう、本日8月31日は、大島弓子先生のお誕生日です! 何よりもまず、そのことをお祝いしなければ。ご自身と大島家の猫たちにとって、これからの一年が、平和で実り多いものでありますように! http://blog.livedoor.jp/yumin_talking/archives/15838375.html(id:noharraのリツィート)
こう言うのを見ると「8月31日で北朝鮮関係のめでたい出来事ないかな」「ウィキペで見てみよう(調べないで即答できるほどの朝鮮通ではないので)」「おめでとう北朝鮮!、とか書いて挑発して、アンチ北朝鮮のid:noharra先生の反応を見よう」と思わずにはいられない。たぶん「華麗にスルー」だろうが。
俺のid:noharra嫌いもほとんど病気だな。
で書き換えてみる。
そう、本日8月31日は、人工衛星「光明星1号」を搭載した「白頭山1号」ロケットの打ち上げに成功した日です(1998年)! 何よりもまず、そのことをお祝いしなければ。金正恩第一書記率いる朝鮮労働党と主体朝鮮の国民にとって、これからの一年が、平和で実り多いものでありますように!
【参考】
http://jp.korea-np.co.jp/article.php?action=detail&pid=53212
朝鮮新報『「光明星3」号への期待』から一部引用
現在、自国で開発したロケットで衛星を打ち上げた国は世界で10カ国に過ぎないが、朝鮮も1998年の「光明星1」号によって9番目に名を連ねた。衛星の正確な軌道進入、多段階ロケットの構造工学的設計と制御技術の完成、宇宙空間での電子装置作動の検証、ロケットおよび衛星の観測システムの完成などを目的としたものであったが、そこに最先端科学技術が集約されていることはあらためて述べるまでもない。
当時、朝鮮は「苦難の行軍」の最中にあり、この人工衛星打ち上げに対し反朝鮮勢力は「経済問題も解決できない中での暴挙」とひぼうした。しかし、この「ピョルピッ計画」(この呼称は小説『不滅の嚮導・飛躍の翼』に出てくる)こそは、一時的な苦難を耐え忍び経済のCNC化を柱とする科学重視路線によって将来の展望を拓くという金正日総書記の英断によって推進されたもので、朝鮮の科学技術が世界の最先端に至ったことを示す快挙であった。
残念ながら光明星3号の打ち上げは失敗したわけだが。
http://d.hatena.ne.jp/mujige/20090405/1238921864
訳者あとがきβ版
人工衛星「光明星2号」の打ち上げと日本の朝鮮蔑視感情、から一部引用
mujigeの資料庫から、98年の光明星1号(日本では「テポドン」と呼ばれている*1)打ち上げに際して書いた記事の一部を、やや長くなるが、抜粋しておく。特に引用部分の森崎和江の言葉は、何度も噛みしめておきたい。
それにしても、あれから10年たっても、日本の状況がまったく変わっていない(というより、悪化している)ことに愕然とするしかない。http://d.hatena.ne.jp/ytoz/20090309
ルールと差別----あるいは、人工衛星と金嬉老事件。
第三に、今回の騒ぎの裏には、日本人の朝鮮蔑視があります。
まず、9月5日の朝日新聞の社説から、一部を引用します。国際協調による関与こそ 北朝鮮政策
この隣国と、いったいどうやって付き合っていったらいいのだろう。
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)による新型ミサイルの発射実験をきっかけに、多くの日本人が、あらためて考え込んでしまったに違いない。
「我々の自主権に属する」「日本がせん越に口出しする性格の問題ではない」。北朝鮮当局の声明は、実験をそう論評した。日本政府の抗議や衆参両院の決議を無視し、あえて日本人の感情を逆なでするかのような姿勢である。
(中略)
北朝鮮は人工衛星だったとしている。にわかには信じがたいが、かりにそうだとしても、軍事的な危険性に変わりはない。
日本がしなければならないことは、まずミサイルの開発、実験、配備、輸出に対する抗議の意思を、あらゆる機会と場所をとらえて北朝鮮に伝えることだ。
政府は、日朝国交正常化交渉の再開と、食糧支援、北朝鮮に対する軽水炉の提供事業への協力を、当面凍結することを決めた。平壌と名古屋の間のチャーター便の運航も認めないこととした。
北朝鮮に日本の強い意思を示し、真剣な対応を迫るには、妥当な措置である。日本の安全や地域の平和を脅かすような行動が、経済的に割にあわない結果となることを、具体策で示すことが必要だ。次は、中国の人工衛星打ち上げを論じた、70年4月27日の朝日の社説(抜粋)です。
中国の人工衛星成功に寄せて
中国が人工衛星を軌道にのせ、世界で五番目の衛星打ち上げ国になった。
(中略)
七〇年代は、米ソ以外の多くの国が宇宙開発の分野に進出する年代である。当然各国ともそれぞれ独自の宇宙開発計画を持っているだろう。領土の広い中国では通信衛星のような実用衛星の役割を相当重視していることも推測にかたくない。
今回の衛星は、そうした「宇宙技術開発の順調な始まり」と見るべきであり、中国が宇宙開発のような科学技術の重要分野で多くの工業諸国に先がけて実績をあげたことには、敬意と祝意を表したい。
(中略)
たしかに、平和利用の技術は密接に軍事技術と結びついている。今回の打ち上げも、軍事的な能力に結び付けて考えないわけにいかないことは間違いない。
(中略)
われわれは、こうした側面からのとらえ方にはそれなりの根拠があることは認めながらも、中国が今回の成果を平和利用分野での技術発展に生かしていくことを期待しないわけにはいかない。
(後略)
この頃の朝日新聞は、明確な親中国路線をとっていたので、これだけでは扱いが不公平なのは当然だと思われるかも知れません。
しかし、例えば読売は「かなり以前から予想されていたことで、いまさらのように驚くことはあるまい」「中国の核の脅威を必要以上に強調して、客観的には中国を敵視することになる“力による対応策”へ国民を誘導することは、日本の安全と繁栄にとって危険な道であることを銘記しなければならない」(同年4月28日)、毎日も「冷静に考えれば…中国が米ソの核基地をたたくだけの第一撃能力体系を持ちうるとは思われない」「いたずらな感情論や観念論に基づく論議は、決して国民の願望する本当の安全保障をもたらすものではない」と、今回のケースとは違い、日本への脅威論をあおったり、制裁を主張することなく、理性的な反応を見せています。
中国のロケットが日本上空を飛び越えなかったから? でも、この時の中国はすでに核実験に成功しており、日本全域が中国の核ミサイルの射程に入ったという意味では、その軍事的意味は朝鮮の衛星どころではありません。当時中国は、日本と国交はなかったし(日本政府の言い分では「中国共産党が不法に支配」していたわけですね)、国連にも代表権はありませんでした。
もちろん発射の事前通告はありませんでした。各紙が強調する日本の安全保障の側面から見れば、どちらが現実的脅威かは明白でしょう。
さらに最近の例でいえば、中国が台湾付近にミサイルを打ち込んだとき、沖縄の漁民は何日間も出漁を見合わせなければならず、日本人の実生活には「テポドン」とは比べものにならないほどの影響がありました。にも関わらず、中華学校の生徒が襲われたとかいう話は、まったくありません。
こうやってさまざまな角度から検討すると、やはり今回の日本の反応は、たとえそれが国際ルールに反し、危険を伴うものであったとしても、尋常ではないことがお分かりになると思います。
大国へのおもねり、小国への蔑視、朝鮮支配の未清算、本土重視と沖縄差別…。「テポドン」騒ぎは、日本社会に蔓延する矛盾が絡み合って噴き出した日本人自身の問題でもあることを見つめなければ、何度でも形を変えて繰り返されることでしょう。***
この投稿を書いていて再び思い起こされたのが、#5215でも紹介した森崎和江『二つのことば・二つのこころ』*2の、次のような一節です。森崎は金嬉老事件によせて、「私は人質の位置にいた」と前提した上で、こう書いています。それは、日本人は誰でも、あるとき、ふいに個人的な理由なしに、朝鮮人によって人質とされて、なんのふしぎもないといいたいためだ。しばしばそうなるであろうことを指摘しておきたいからだ。人質とは、朝鮮人の主体性にとりおさえられる状態である。けれどもまた、朝鮮人の主体性に対して、まともに対応する自由----つまり生命の危機感とひきかえに自己の朝鮮を掘り起こす自由----を確保する。
日本人は犯罪の有無にかかわらず、人質として日本人が朝鮮人の主体性にとりおさえられることを、ふつごうだと考える。それは日本の大衆にとって、ごく自然な発想である。そしてまた日本の支配意識も、さようなことはふつごうだと考えるが、それはいささか不自然な反応である。その意識は反応の立脚点を心さわがしく探さねばならない。
ではもし、中国人が日本人大衆を人質にしたらどうだろう。朝鮮と中国は、ともに日本国が侵略の対象とした相手である。が大衆の両者に対する感情にはかなりの差があるのだ。
私は朝鮮語の本を時折電車のなかで開くことがある。……或るとき誰かが声をかけた。「なぜ朝鮮語の勉強をなさるのですか。どうせやるなら中国語がよくはありませんか」この反応は大衆の気持ちをよくあらわしている。もしこれら大衆が中国人の手で人質になったなら、やはり不都合なことだと大衆一般は反応するだろうか。金嬉老の孤独な戦いから、30年の歳月が流れました。金嬉老はいまも無期懲役囚として獄中にあり、オモニは11月4日、息子の出獄を待つことなく、亡くなりました。
金嬉老事件と朝鮮の衛星打ち上げは、もちろん全然関係のない、別々の出来事です。しかし、30年の時を隔てたこれら二つの出来事に接したときに、日本人の心にわき起こった感情が、全然別種のものだとも、私にはどうしても思えないのです。
「朝鮮人の主体性に対して、まともに対応する自由」を、いまだに日本人は確保できていないことが、再び露呈してしまったのではないか。それゆえに金嬉老はいまも日本の最長期囚として獄にあらねばならないのではないか。
政治家とマスコミが騒げば騒ぐほど、そんな苦い思いがこみ上げてくるのです。
(注)金嬉老氏は1999年9月7日、一度も見たことのない“祖国”、韓国に「帰国」することを条件に、仮釈放された。事件から31年目のことだ。
俺的にはid:mujige氏に合点、合点(NHK「ためしてガッテン」風に)だが、合点しないのがid:noharraなのだろう。