新刊紹介:「歴史評論」3月号

特集『戦国時代の軍隊と戦争』
詳しくは歴史科学協議会のホームページをご覧ください。興味のある部分だけ紹介する。
http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/
 
■「着到史料からみた戦国大名軍隊」(則竹雄一*1
(内容要約)
・「着到資料」とは「軍役について規定した文書」であり、そのほとんどは北条氏、武田氏、上杉氏である。西国大名には着到資料は見られない。
・一方、戦闘における「戦傷(死亡を含む)」を記録した「手負注文」と言う文書は大内氏、大友氏、毛利氏など西国大名が多く、東国大名には見られない。この資料の差を単に「資料残存状況が偶然にそうなったに過ぎない」とみるか、それとも「西国大名は手負注文を多くだし*2、東国大名は着到資料を多く出す*3」という大名の性格の違いによる物かを分析する必要がある。
・筆者は「着到資料」を元にいろいろ述べているがうまくまとまらないので省略する。


■「戦国時代の兵粮」(久保健一郎*4
(内容要約)
・戦争における兵粮調達は次の3つに分けることができる。
1)個々の兵士が自分で持参、2)現地調達(これは暴力的略奪と金銭による購入にわけられる)、3)自国領から戦争現場への搬入。
・短期決戦なら1)や2)でも問題ない*5わけだが、長期戦になれば3)をしなければ食料が足らない*6
3)の重要性が強く認識されるようになったのが戦国時代と言える。
・こうした兵粮(コメ)の重要性が、「撰銭による貨幣への信頼低下」と相まって、豊臣政権において、石高制度が採用されたのではないかと思われる(ウィキペ「撰銭」にもそうした記述がある)。

参考

ウィキペ「撰銭」(えりぜに)
 日本の中世後期において、支払決済の際に、劣悪な銭貨(びた銭・悪銭という)を忌避・排除したことをいう。
 日本では、鎌倉時代後期ごろから商品経済が急速に進展していき、貨幣の流通が普及したが、主に中国で鋳造された中国銭が一般的であった。これらの中国銭は、中国(宋・元など)との貿易を通じて日本にもたらされた。しかし、その中には中国、東南アジアで私的に鋳造された銭貨も相当数混入しており、また日本でもこれらの貨幣を真似て私的に鋳造する者が現れた。これを私鋳銭(しちゅうせん)と呼ぶ。私鋳銭の中には、一部が欠落したもの、穴が開いていないもの、字がつぶれて判読できないものなど、非常に粗悪なものもあり(ただし、政府発行の銭にも粗悪な物もあり、また私鋳銭にも精巧な物があるなど、質がよいから公鋳銭で質が悪いから私鋳銭と一概に言えるものではない)、商品経済の現場では正式な貨幣と認められなかったりと、嫌われる傾向が強かった。そのため、これら粗悪な銭貨は「びた銭」又は「悪銭」(あくせん)と呼ばれ、一般の銭貨よりも低い価値とされるようになった。
 室町時代に入っても引き続き勘合貿易倭寇などを通じて明から銅銭が輸入され、多くは宋銭だったが次第に明銭が含まれるようになったが、明銭は新しく、流通実績がないために忌避され(明でも日本でも、明銭よりも宋銭の方が好まれた)、支払決済の現場では一般の銭貨よりも低価値とされたり、受け取り拒否されることも少なくなかった。こうした行為を撰銭というが、撰銭はトラブルの原因となることが多く、時には撰銭が原因で殺傷事件が発生することさえあった。
 そのため、応仁・文明の乱が終わる頃になると幕府や大名はびた銭の混入を条件付きで認めることで撰銭を制限し、あるいは禁ずる撰銭令を発令して、円滑な貨幣流通を実現しようとした。しかし、民衆の間ではびた銭を忌避して撰銭をしようとする意識が根強く残存した。
 撰銭を巡る問題は、16世紀の日本に強力な中央政権が存在しなかったことにも起因しており、織田政権・豊臣政権・江戸幕府といった統一政権の誕生とともに解消に向かった。しかしながら、長い間蔓延した習慣であったこともあり、撰銭の完全なる解決は、江戸時代に幕府が安定した品質の寛永通宝を発行し、私鋳銭を厳しく禁ずるようになるまでの長い時間を要した。
 なお、豊臣政権や江戸幕府が石高制を導入した背景には貨幣の基準がびた銭になったことによる貨幣価値の低下と流通の一時的混乱という経済情勢を背景にしたとも言われている(本多博之*7「統一政権の誕生と貨幣」、安国良一「貨幣の地域性と近世的統合」(鈴木公雄*8編『貨幣の地域史』(2007年、岩波書店)参照)


■「戦国大名の軍隊と武家奉公人」(菊池浩幸)
(内容要約)
・戦国時代「武家奉公人」「雑兵」研究については今も藤木久志説(藤木『新版・雑兵たちの戦場』(2005年、朝日選書)など)が通説的見解といえる。
・では藤木説をどう発展的に克服すべきか。筆者は藤木説においては「立身出世のため村を捨てる百姓」と「端境期に出稼ぎ的に戦場へ向かう百姓」が明確に区別されてないとした上で、区別した上でそれぞれについての研究を進めるべきとしている。
 また、武家奉公人についての研究を進めるためには他の「奉公人(公家奉公人、寺社奉公人)」との比較研究が重要としている。


■「兵農分離政策論の現在」(平井上総)
兵農分離政策論の歴史的推移についての説明。
1)身分統制令
長らく、「秀吉の身分統制令」(1591年)は「兵農分離政策」の一種として理解されてきた。これに対し、高木昭作論文「いわゆる『身分法令』と『一季居』禁令」(高木「日本近世国家史の研究」(1990年、岩波書店)収録)は「この法令は足軽以下の武家奉公人を確保するための法令であり、いわゆる兵農分離政策ではない」とする理解を提示した。高木説以降は従来的な「兵農分離政策」とする理解は一般的ではない。
2)刀狩令(1588年)
 刀狩令は従来、「一揆防止のための武装解除」として理解されてきたが、塚本学論文「農具としての鉄砲」(塚本「生類をめぐる政治」(1993年、平凡社ライブラリー、のちに2013年、講談社学術文庫))が「(害獣を駆除するなどの)農具としての鉄砲」の存在を指摘して以降「武装解除」という要素*9だけでなく「兵農分離政策」という要素を重視する見解が強くなっている。
藤木久志「豊臣平和令と戦国社会」(1985年、東京大学出版会)、「刀狩」(2005年、岩波新書))
3)城下集住政策
 従来、豊臣政権時代においては、兵農分離政策としての「城下集住政策」が推進されてきたと理解されてきたが最近の研究では必ずしもそうとは言えないことが分かっている(例:城下集住政策を採用しなかった長宗我部氏)。


【書評】
たくさんあるのだが一部だけ紹介。

■安田浩*10『近代天皇制国家の歴史的位置』(2011年、大月書店)(評者:増田知子*11
(内容要約)
 いろいろ書いてあるのだが、個人的に興味深いのはやはり伊藤之雄昭和天皇』(2011年、文芸春秋社)など、伊藤の昭和天皇理解への批判。あとで読んでみようかと思う。
 安田氏及び評者は伊藤説を『昭和天皇免罪論の一種』と理解したうえで一応学者である伊藤説は、「つくる会」などと違い、一定の「もっともらしさ」がある*12としている。伊藤説には今後、厳しい批判が必要だろう。ただ、それは少なくとも、不幸にも故人となられた安田氏にはかなわないことだが。
(評者によれば伊藤は「天皇に特殊な魔力を認める見解がある」として、評者、安田氏、永井和氏*13、ハーバート・ビッグス氏*14の名を挙げてるらしい。またすごいこと言うなと伊藤にあきれざるを得ない。これらの論者も十把一絡げにされても不愉快だろう。後で紹介する瀬畑氏もブログにおいてこうした十把一絡げを批判している)

参考
書評:安田浩『天皇の政治史―睦仁・嘉仁・裕仁の時代』(青木書店、1998年)、升味準之輔昭和天皇とその時代』(山川出版社、1998年)、東野真『昭和天皇「二つの独白録」』(日本放送出版協会、1998年)(永井和)
http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/shohyo1.html
書評:安田浩著『天皇の政治史―睦仁・嘉仁・裕仁の時代―』(1998年5月刊、青木書店)(永井和)
http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/yasuda.html

http://clio.seesaa.net/article/226078374.html
日夜困惑日記@望夢楼『安田浩先生について思い出すことなど』
 『歴史学研究』第877号(2011年3月)に、伊藤之雄氏に対する批判(「法治主義への無関心と似非実証的論法――伊藤之雄「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」(本誌831号)に寄せて」)が掲載された(※)が、その論調が、いかにも大学院ゼミでの院生の報告(それも、どちらかといえば出来の悪い方の……)に対する批判の調子そのままなので、苦笑させられたものである。
 発表当時、じつはすでにご本人も死期を悟っていて、今のうちに言いたいことを言っておこうと思っていたのでは、という噂があった。結局のところ、やはりそういうことだったんだろうか、と思う。
 なお、同論文も収録されるらしい最後の著作(これも死期を悟ってまとめられていたものなのだろうが……)『近代天皇制国家の歴史的位置』が、大月書店より10月7日より発売されるとのことである。
(※)なお、この批判が掲載されるまでの議論の経緯については、当事者のひとりである瀬畑源くん*15の blog に詳しい。以下を参照のこと。

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2006-10-05
書評:伊藤之雄昭和天皇立憲君主制の崩壊』*16

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2007-08-29
伊藤之雄氏「近代天皇は「魔力」のような権力をもっているのか」について

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26
3年前の手紙

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2006-10-05
瀬畑源ブログ「書評:伊藤之雄昭和天皇立憲君主制の崩壊』」
 『歴史学研究』の今月(2006年10月)号に、私の書いた伊藤之雄氏の『昭和天皇立憲君主制の崩壊』の書評が掲載されています。
  もしよろしければお手にとって見てください。
  与えられた文字数がそんなに多いわけではなかったので、論点を相当に絞りました。
  コンセプトは2つ。
  1つめは「伊藤氏の土俵の上で批判をすること」、 2つめは「日英比較の問題について論じること」でした。
  そのために、一番書きたかった「日英の統帥権の比較をなぜ伊藤氏は論じようとしないのか」という部分は、1つめのコンセプトに引っかかったので書くのを止めました。
 今から考えてみると、書いても良かったかもと思わなくもないです。
 私が特に強調したかったのは、「全く違う社会間の比較をする場合、起きた現象だけを比較するのは意味がない。制度や社会の比較がまずあって、それから行うべきだろう。」という点です。
 比較文化などに詳しい友人に話をすると、それは当たり前なことでしょみたいなことを言われたので、やはりそうだよなと思って、かなりきつい書き方をしました。
 歴研の話だと、伊藤氏が反論を書きたいと申し入れてきたそうなので、是非ともそのあたりについて書いてほしいなと個人的には思っています。
 日英君主制比較というのは、私自身も色々と考えているテーマではあるので。

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2007-08-29
瀬畑源ブログ
伊藤之雄氏「近代天皇は「魔力」のような権力をもっているのか」について
 私が『歴史学研究』2006年10月号に書いた伊藤之雄氏の『昭和天皇立憲君主制の崩壊』(名古屋大学出版会、2005年)への書評について、ご本人から反論をいただいた。
 書評対象者から返事をもらえるということは、これほど光栄なことはない。伊藤氏には本当に感謝してもしきれない。
 それが、『歴研』2007年9月号に載った上記タイトルの論文である。
 詳しくは、伊藤氏に直接書くのが礼儀であろうと思うので、簡単な感想だけをここに書いておきたい。
 まず、反論を『歴研』に書くことはしません。
 伊藤氏は、反論があるなら「自らそれを実証するか、少なくとも具体例をあげて、拙著の元になった論文や拙著に対してコメントすべきであった」(18頁)と述べておられるので、要するに「論文で勝負してこい」ということなのだろう。
 残念だったことは、私があの書評で一番強調していた「英国との比較の問題」について、結局ほとんど反論の中で触れてもらえなかったことである。
 私が、真っ先に批判にあげたように(「感想として、著者の意図とは逆に、日本と英国は、君主制のあり方に決定的な違いがあるという印象を持たざるを得なかった」59頁)、私の意図はこっちにあったのだが、その途中で使った安田浩氏の文章に噛みつかれ、なんだか消化不良だった。
 また、やはり安田氏の誤読から伊藤氏の議論が出発しているので、やはり噛み合っていないなあという印象がぬぐえない。私としてはそこの架橋も意図にはあったのだが、どうみても私の文才のなさから、そのようには読めない文章を書いてしまった。大いに反省する必要があると思う。
 あと、イメージ論への反論は「それでいいのか?」という答えで、正直驚いた。
 どうみても、伊藤氏の著書の序論を読めば、国民全体を論じているようにしか読めない。
 また、もし中産階級以上に限定して論じるなら、「国民」という言葉をそのような意味で使うという定義を書く必要があったのではないか。  「読者層の定義を読めば自明」(23頁)というのは、いくらなんでも乱暴すぎやしないかという感じがぬぐえない。
 当然、伊藤氏の本を読んだときに、ここの文章には気づいていたのだが、まさかその言葉のみで対象を限定をしているということだとは思いもしなかった。
 とりあえず、一読の感想を書きました。詳しくは伊藤氏に手紙を書いてから、その内容をアップロードするかも含めて考えます。じっくりと検討する必要もあるので、時間がかかると思いますが。

http://h-sebata.blog.so-net.ne.jp/2011-02-26
3年前の手紙
歴史学研究』877号(2011年3月)に、安田浩氏の手による「法治主義への無関心と似非実証的論法―伊藤之雄「近代天皇は『魔力』のような権力を持っているのか」(本誌831号)に寄せて―」が掲載されました。
 この論文が書かれるに至るきっかけは、私の伊藤氏の著書に対する書評でした。
 ブログの記事を紹介していくと、

 書評:伊藤之雄昭和天皇立憲君主制の崩壊』→『歴史学研究』2006年10月号掲載の私の書評
  ↓
 伊藤之雄氏「近代天皇は「魔力」のような権力をもっているのか」について→その書評に対する伊藤氏の反論(『歴史学研究』2007年9月号)
  ↓
 今回の安田氏の論文

 私の書評の主旨は、伊藤氏による日英君主制比較は、政治過程が「似ている」ことを理由として制度が「似ている」という論理になっており、それは論理構造的におかしいだろうということでした。(制度から見れば、明らかに違いがある。)
 ただ、伊藤氏には主旨をうまく受け取ってもらえず、反論は、私に対してというよりはむしろ、引用した安田浩氏の論考に対する批判がメインとなっていました。
 そこで、安田氏が伊藤氏に対する批判の筆を取ったというのが、今回の安田氏の論文になります。
 なお、念のため申し上げると、私と安田氏との間に師弟関係はありません。過去にお会いしたのも2度ぐらいかと思います。
 もちろん、今回安田氏が論文を書くことについて、私は掲載されるまで一切知りませんでした。
 本来ならば、私が反論をしておけば良かったということになるのかもしれません。
 ただ、ブログにも書きましたが、伊藤氏が、反論があるなら「自らそれを実証するか、少なくとも具体例をあげて、拙著の元になった論文や拙著に対してコメントすべきであった」(18頁)と述べておられる以上、私が反論を歴研誌上に書くことは、おそらく建設的な議論にならないだろうと思い、反論は書きませんでした。
 ただ、この反論を読んだ直後に、伊藤氏に私信を送りました。
 今回、安田氏が論文を書かれた時に、この私信を読み返してみて、安田氏の論文の補足説明になるかなと思いました。
 よって、ここにその私信を全文アップロードしておきます。
 私信であるにも拘わらずアップロードする理由は

①伊藤氏の反論に対する再反論という形ではなく、私の書評の補足説明という形で書かれているということ。また、そのような書き方のため、伊藤氏からの再々反論は無く、研究頑張ってくださいといったような丁寧な葉書を頂いて、やりとりは終わっている。よって、伊藤氏の再々反論をアップロードしないとフェアではないというような事態はおきないということ。
②注記もきちんと入れており、論文に近似した形で書かれているということ。
③基本的には「伊藤氏は安田氏を誤解している」という内容であり、今回の安田氏の論文を補足するものであること。
④内容はすべて私が書いたものであり、著作権は私が有しているということ。また、内容的にも、特に伊藤氏を中傷したり貶めたりするようなことは一切書いていないこと(むしろ、若気の至りの文章が多くて、自分を貶めている感もある・・・)。
⑤伊藤氏の反論に対して私が再反論をしなかったのは、別に私が伊藤氏の論旨に納得したからというわけではないということを伝えておきたいと思ったこと。
となります。
 また、このファイルの最終更新日が2007年9月11日なので、時効かなとも思います。PDFにして上げておきます。
 なお、上記のような経緯がありますので、あまり引用等で使わないでいただけるとありがたいと思います。(もちろん、論旨に対する批判がある場合は引用していただいて構いません。)
 印刷はできますが、コピペはできないようにしてあります。
 興味のある方はどうぞごらん下さい。
 http://www008.upp.so-net.ne.jp/h-sebata/koubunsyo/sebata_letter.pdf


永井均著『フィリピンと対日戦犯裁判:1945〜1953年』(2010年、岩波書店)(評者:佐治暁人)
(内容要約)
 内容要約にかえてググって見つけた書評を紹介してみよう。ま、書評を読まなくても常識があればわかることだが「日本へ強い抗議をすることが多い中国、韓国」だけでなく、東南アジア、たとえば本書がテーマとするフィリピンだってあの戦争でひどい目にあってるのであり、「つくる会」なんぞの主張は詐欺以外何物でもない。連中の存在は日本人として恥ずかしい。

http://booklog.kinokuniya.co.jp/hayase/archives/2010/03/19451953.html
『フィリピンと対日戦犯裁判 1945-1953年』永井均(岩波書店)
 『日本のフィリピン占領(一九四二〜四五年)の帰結として、一九三九年の国勢調査人口約一六〇〇万人に対し一一一万人余りという膨大な数のフィリピン人の人命が失われ、家畜と重要産業の精糖工場の各六割が灰燼に帰した。国内全体の損害総額が八〇億ドルとも見積もられるなど、フィリピンは文字通り壊滅状態に追い込まれた』。
 その惨状は、世界的に見ても異常で、『一九四六年五月にマニラを訪れたアイゼンハワー将軍は廃墟となったマニラの光景を見て啞然とし、「ワルシャワ以外に、このような最悪の破壊を目にしたことがない!」と叫んだと報じられた』。


 本書は、のちの大統領で1953年に日本人戦犯に恩赦を出して、全員の帰国を許したエルピディオ・キリノが、1945年2月のマニラ市街戦で家族7人のうち、妻、次男、長女、三女の4人を同時に失った場面からはじまる。妻と長女の遺体を数日間道端に放置せざるを得なかった計り知れない悲しみを感じると、なぜこのような寛大な恩赦を出すことができたのか、まず最初にその謎を知りたいと思った。その謎は本書である程度は理解できたが、そのフィリピン人の寛大さを理解し、戦後の日本とフィリピンとの関係にいかせなかった日本人に憤りを感じた。わたしの個人的な感想は後にして、まず本書の学問的価値をみていこう。
 本書の概略は、表紙見返しにつぎのように適確にまとめられている。
『フィリピンにおける日本軍の残虐行為の捜査が本格化した一九四五年から、国交が回復されない中、モンテンルパのBC級戦犯全員が釈放された一九五三年までの八年間、アジア・太平洋戦争をめぐって日比両国は何を考え、どのように向き合ったのか。膨大な一次資料とインタビューに基づいて、戦後日比関係の出発点となった対日戦犯裁判のプロセスを明らかにし、その歴史的な意味を再考する』。
 著者、永井均は、従来の対日戦犯裁判の歴史研究を『自国中心の戦争観・裁判観に基づく一国史的な見方』ととらえ、それを乗り越えるために、『すでに忘れられ、風化しつつあるフィリピンによる対日戦犯処理への取り組みの軌跡を日比両方の視点から見つめ直し』たいという。著者は、本書の特徴をつぎのように説明している。
 『従来の対日戦犯裁判の歴史研究では、米英等、戦犯裁判を実施し、これを主導した大国(宗主国)の政策や大国間の政治力学の解明が精力的に進められ、多くの成果を上げてきた。その一方で、日本軍に侵略・占領され、国土が戦場となったアジアの側から描く研究はやや取り残された感がある。前述のように、日本軍の残虐行為が多発したフィリピンを分析の軸に据えた研究蓄積は、日本はもとより、フィリピン、米国においても、あたかも死角をなすが如く極めて乏しかった。以上のような研究史の中で、本書は従来の日比関係史や戦犯裁判研究で看過されてきた主題に関する萌芽的な研究と位置づけることができよう。その特徴は、第一に、東京裁判論、あるいはBC級裁判論として、従来の戦犯裁判研究で個別に研究されてきた二つの対日戦犯裁判を、フィリピンの視座から、捜査、裁判、赦免、釈放に至る対日戦犯処理の全体を視野に入れて系統的に考察を加えたところにあり、第二に、分析に際しては一国中心的な見方を排し、戦犯問題をめぐるフィリピン側の政策動向に日本側の立場と対応−認識・戦略・行動−を交差させ、フィリピンの旧宗主国で対日占領を主導した米国の関わりも視野に入れるなど、フィリピンと戦犯問題について多面的な検討に努めたところにある』。


 著者が控えめにいう「萌芽的な研究」としては、ひとまず成功したといっていいだろう。
「国際社会の視線を意識しつつ、そして何よりも自国民の強い反日感情に囲まれて対日戦犯裁判を遂行することになった」「フィリピン軍による戦犯裁判は一九四七年八月一日から四九年一二月二八日まで実施され、七三のケース、被告一五一名が主に現地住民の殺害、虐待、強姦等の廉で裁かれた。米軍から移管された容疑者の半数以上がその容疑を「解除(cleared)」される一方で、起訴された戦犯の約九〇%が有罪を宣告され、その約半数に当たる七九名に死刑判決が下され」た。しかし、その「死刑判決を受けたフィリピン戦犯のうち、実際に刑を執行されたのが約二割(一七名)にとどまったという低い執行率は、他国(米国、英国、中国、フランス、オランダ、オーストラリア)が実施したBC級裁判での高い執行率(約八割)と比較した時、著しい対照をなしていた」。この著しい対照を、本書はまだ充分に説明し切れていない。それは、他国のそれぞれの戦犯裁判の研究を相対化する研究が、まだ充分でないからである。
 たとえば、いろいろと曲解されるインドのパル判事については、フィリピンのハラニーリャ判事の選出のいきさつを知り、「パル判決」を批判するハラニーリャの「同意意見」を読むと、従来とは違った評価が出てくるだろう。ハラニーリャ判事は、パル判事と同様、第一候補ではなく、第一候補が辞退した後、有力候補を差し置いて、定かな理由なしに選ばれた。しかも、当時62歳と高齢で、その5年前に軍人としてはかなり高齢の57歳の時にバターン戦敗戦後の「死の行進」を経験していた。多くの部下を失い、自身日本軍による虐待を受け、収容所で病気と栄養失調のために死線をさまよった。
 ハラニーリャ判事は、東京裁判の判決(多数判決)を作成した多数派判事のひとりであったが、「われわれ多数意見の者は、すでにわれわれの決定を書き上げ、本官はそれに同意するのであるが、卑見によれば、さらに論議と説明を必要とするいくつかの点があるので、本官はこの同意意見を書かないわけにはいかない」と、1948年11月1日付で「同意意見」を裁判所に提出した。11項目からなる意見書のなかには、東京裁判の正当性に根本的疑義を呈したパルを批判したものが含まれている。そして、一部の被告について、より厳しい量刑を求めた。東京裁判には、BC級戦犯裁判を実施した7ヶ国のほかにソ連、カナダ、ニュージーランド、インドが加わり、検事、判事を指名し派遣した。これらの検事、判事のそれぞれについて、あまり知られていない。
 著者は、日比関係史や戦犯裁判研究の新たな展開の基礎となる研究を試みている。ともに、本書を従来の研究の主題にどうからめていくかが、ポイントとなる。日比関係史であれば、賠償問題を含め、戦前からの人脈を辿って多くの日比両国の人びとが水面下で動いた。敗戦直後から、日本の商船はマニラに入港していた。また、戦犯裁判にかかわった欧米人は、第一次世界大戦後のことが念頭にあった。たとえば、天皇の戦争責任をめぐっては、ドイツ皇帝の戦争責任の問題を意識せざるを得なかっただろう。アジア・太平洋戦争の戦後処理は、第一次世界大戦から引き続く第二次世界大戦の戦後処理の一面ももっていた。
 日比関係史にかんして、本書には新たな展開を期待させるものが多く含まれている。そのひとつが、戦後認識が日本とフィリピンとで大きく違ったことであり、それが戦後の日比関係に大きな負の影響を与えた。本書から、いくつかの具体例を拾ってみよう。  まず、敗戦時に、「フィリピン人と交流を深めていた在留邦人も含めて、大多数の日本人は敗北するやいなや、フィリピン社会のどこにも身の置きどころがなく、フィリピン人から文字通り石をもって追われた。そして、少なからぬ日本人たちが「二度ともうフィリピンなんかに来るものか」と、恨みに近い感情を抱いてフィリピンを後にした」。
 先にとりあげた「ハラニーリャの「同意意見」は日本では一部新聞に論評なく、小さく報じられただけだった」のにたいして、「フィリピン国内では多くの新聞がハラニーリャの「同意意見」を取り上げ、その見解を肯定的に報じ、彼の見解がフィリピン国民の感覚にも沿ったものだったことを示唆」した。「日本国民は、戦争の主たる責任は指導者にある」とし、「傍観者的な態度で裁判を他人事と見なし、次第に裁判自体にも強い関心を向けなくなった」。
 その要因のひとつは、新聞各紙が裁判に充分な紙面を割かなかったためで、「東京裁判の判決を見つめる日本国民の視界から、フィリピンなどアジアの被害者の存在は外れていた」。「日本側は東京裁判で裁きが終わり、過去の問題が一応の決着を見たと感じ、その関心と視線を将来の平和構築に移そうとしたが、フィリピン側はこれを拒否した」。「このように、東京裁判終結を迎えた時、戦争と占領をめぐる両国の立場の隔たりは余りに大きく、日本のフィリピン占領で生じた日比間の亀裂が修復に向かうきざしは全く見えなかった」。
 日比間の隔たりを埋める絶好の機会は、フィリピンのモンテンルパ刑務所に服役していた日本人戦犯が恩赦され、日本に帰国する時に訪れた。その前に、フィリピンでの戦犯の待遇についてみてみよう。「モンテンルパの獄窓でフィリピン人看守と会話を交わし、あるいは友達のような関係を築いていく者もあった。他国の戦犯(容疑者)収容所で私的制裁(リンチ)が横行したとの伝聞が少なくない中(とりわけ英軍が管理するシンガポールチャンギー刑務所とオートラム刑務所に顕著だったという)、モンテンルパで虐待を受けたという回想はほとんどなく、むしろ寛大さを評価する向きが多いように見受けられ」た。食糧、衣糧、嗜好品についても、「「品種その他についても殆ど制限を設けなかった」ように、フィリピン当局は救恤品の件についても「非常に寛大」で、その後も、復員局の救恤品に加え、来訪者の差し入れなど「正規のルート以外」の救恤物資(金銭も含む)などもモンテンルパ流入した」。
 そして、自分の家族を日本人に殺されたキリノ大統領と弟を殺されたり虐待されたりしたエリサルデ外務長官は、苦渋に満ちた決断をした。エリサルデの弟を虐待した「下手人」を含む日本人戦犯全員(再審の結果、死刑を確認された3名を含む)に恩赦を与えたのである。しかし、その交渉にあたった日本人は、その「苦渋」を日本国民に伝えることなく、詳細は報じられなかった。吉田茂首相からキリノ大統領宛への恩赦を求める書簡にも「キリノの妻子の死を悼む、あるいは謝罪にまつわる文言はメッセージに含まれていなかった」。恩赦発表後の岡崎勝男外相の談話は、敗戦直後にマニラ市街戦時の日本軍の残虐行為を知って、「嗚咽し、顔面蒼白となり、倒れてしまうと思われるほど」の体験をしていたにもかかわらず、たんに「キリノの「キリスト教的精神からでた寛大な措置」に「感謝」するとの表現にとどまり、それ以上踏み込むことはなかった」。その結果、「当時の日本の新聞論調は、フィリピン国民の対日感情がすでに好転し、日本人に赦しを与えたとの見方が中心」になっていった。
 しかし、現実は違っていた。帰国の途につくためにマニラ港埠頭に向かった戦犯たちは、「沿道の人達からあらゆる罵声を聞いた」。取材のために来ていた新聞記者も、「戦犯たちの乗ったトラックがモンテンルパからマニラの港まで走る間、これを見送る路傍のフィリピン人たちの大部分は白い眼を向けて、「ドロボー」と叫んだ」と書いている。戦犯のひとりは、「比島人全体の対日感情をよくするためにはまだ日がかかると思う」と語り、記者は、フィリピン人の恨みや憎しみは、「生きているうちに消える日が来るかも知れない。しかし、それでも少くとも、十年、二十年の歳月はかかるにちがいない」と、一種のあきらめを感じた」ほどであった。
 そして、著者は、本書をつぎのように結んでいる。
キリノ大統領による戦犯恩赦は、日本側が隣国との歴史を顧みる一つの契機となりえたものの、当時の日本の国内論調はフィリピン国民の対日感情について主観的な楽観主義に傾き、過去の具体的内実を深く見つめ、そこから教訓を学ぶという公的規範の形成の転機とはならなかった。日比両国民の相互不信の悪循環を断つために、被害者側(フィリピン)が先んじて譲歩した「赦しの先行」は、日本側に過去を直視するよう促す問いかけとも見ることができるが、この問いかけは完結することなく、戦争をめぐる認識ギャップの最小化への努力を喚起するように、今なお未完の問いであり続けているのである」。
 日本人戦犯にたいする「赦しの先行」や賠償をめぐる問題の具体的なことについては、充分な証拠がなく、このような研究書に書けないことが多々ある。したがって、単純にフィリピン人の「寛大さ」でかたづけられないことがあるのは確かである。しかし、そういった「寛大さ」であっても、日本人はそれを真摯に受け止め、「未完の問い」に向き合う必要がある。わたしが本書を読み終えて憤りを感じたのは、本書から日比関係においては戦後処理が失敗であったと読み取ったからである。戦後処理失敗の「戦犯」は、日本占領下でフィリピン人が味わった痛みを知りながら、それを国民に伝えなかった人びとである。当時の状況から言えない、書けないことがあったとしても、フィリピン人の「寛大さ」を身をもって体験した人びとは、機会をみてそれを伝える責任があったはずだ。それをしなかった、あるいはできなかったのは、知ろうとしなかった国民にも原因がある。つまり、日本国民すべてに、日比間にかんして戦後処理に失敗した責任がある。それが、戦争を知らない世代にも、今日まで重くのしかかっている。なぜこれほど、日本人は敗戦後、とくに戦場としたフィリピンを含む東南アジアにたいして鈍感になったのか。本書のように、その原点を問い続けなければ、フィリピン人の痛みを理解し、わだかまり抜きの友好関係を築くことはできない。「十年、二十年」どころか、65年たってもフィリピン人のわだかまりは消えず、戦争を知らない世代にも着実に受けつがれていることを、日本人はもっと深刻に受け止める必要がある。


『一九四六年五月にマニラを訪れたアイゼンハワー将軍は(注:日本軍の攻撃で)廃墟となったマニラの光景を見て啞然とし、「ワルシャワ以外に、このような最悪の破壊を目にしたことがない!」と叫んだと報じられた』
『大多数の日本人は敗北するやいなや、フィリピン社会のどこにも身の置きどころがなく、フィリピン人から文字通り石をもって追われた。そして、少なからぬ日本人たちが「二度ともうフィリピンなんかに来るものか」と、恨みに近い感情を抱いてフィリピンを後にした』
『戦犯たちの乗ったトラックがモンテンルパからマニラの港まで走る間、これを見送る路傍のフィリピン人たちの大部分は白い眼を向けて、「ドロボー」と叫んだ』
 いや、「つくる会一派」のでまかせ「大東亜戦争は植民地解放の聖戦」との乖離がすごいですね。
 そして評者も書いていますが、同じ東京裁判担当判事でありながら「フィリピン出身のハラニーリャ判事の日本における無名性」と、一方「インド出身のパル判事の日本における有名性」には日本人として恥ずかしくなりますね。「日本を批判し、被告人全員の死刑判決を主張するハラニーリャ(バターン死の行進経験者)」は都合が悪いから無視して、「全員無罪」とする都合のいいパルを万歳するわけです。

*1:著書『戦国大名領国の権力構造』(2005年、吉川弘文館)、『動乱の戦国史古河公方と伊勢宗瑞』(2012年、吉川弘文館

*2:あるいはそもそも着到資料がない

*3:あるいはそもそも手負注文がない

*4:著書『戦国大名と公儀』(2001年、校倉書房

*5:略奪の道徳的是非はひとまずおく

*6:時代が異なるが、3)を無視した極端なケースがインパール作戦である

*7:著書『戦国織豊期の貨幣と石高制』(2006年、吉川弘文館

*8:著書『出土銭貨の研究』(1999年、東京大学出版会)、『銭の考古学』(2002年、吉川弘文館

*9:もちろんそういう要素はある

*10:著書『天皇の政治史:睦仁・嘉仁・裕仁の時代』(1998年、青木書店)

*11:著書『天皇制と国家:近代日本の立憲君主制』(1999年、青木書店)

*12:なお、この伊藤本は司馬遼太郎賞を受賞

*13:著書『青年君主昭和天皇と元老西園寺』(2003年、京都大学学術出版会)

*14:著書『昭和天皇(上・下)』(2005年、講談社学術文庫

*15:著書『公文書をつかう:公文書管理制度と歴史研究』(2011年、青弓社

*16:2005年、名古屋大学出版会