大島渚『愛の亡霊』(ネタバレあり)

今回はid:Bill_McCrearyさんの『知名度は高くないが、実は名画・・・「愛の亡霊」』(http://blog.goo.ne.jp/mccreary/e/188d4924233af566e4aa1a0708d03989)で紹介されている映画『愛の亡霊』について触れてみましょう。McCrearyさんエントリのコメ欄に書こうかとも思ったのですがだいぶ長くなりそうなので。
 小生的には最近の映画(例:御法度)や大島の代表作として名前が挙がる「戦場のメリークリスマス」に比べれば知名度は落ちるんだろうが、それなりに知名度のある映画なんだろうと勘違いしていましたが違うようです。
 何でそんな勘違いをしていたのかというとid:Bill_McCrearyさんはご存じないのか触れていませんが、この映画、今はなくなってしまいましたが、昔、テレビ東京にあった「木曜洋画劇場」で放送されたことがあります。
 「木曜洋画劇場」というのは「えっ、そんな映画あったの」と言う映画を放送することで有名です。時々「そんなB級放送しなくていい」ってこともありますが。
 「『愛の亡霊』は洋画じゃねえじゃん」という人もいるでしょうが、「日曜洋画劇場テレビ朝日)」だって邦画を時々放送しますから。木曜洋画劇場も時々邦画を放送していたわけです(その場合、「特別企画」などのエクスキューズが入る)
 で、タイトルも「愛の亡霊」ということで「愛のコリーダ」に似ているし、出演者の一人は「愛のコリーダ」主演・藤竜也です。なのでこれは「愛のコリーダ」並みに有名に違いないと勘違いしたと。マイナー映画の放送で知られる「木曜洋画劇場」と言うのが少し引っかかりはしたんですが。
 で、お前は見たのかというと、ちょっとだけ見て「ああ、これは俺にはあわないな」と言うことで見るのを辞めました。思うに「ハッピーエンディングの映画」は小生的に見てて楽しいですが、これ「バッドエンディング」であることがもろわかりですからね。小生はそういえばバッドエンディングの映画って大島映画に限らず、あまり見てないかなと気付きました。
 しかも田村高廣殺しが短絡的というか「何で殺すかな」というか。犯人に共感しづらい。
 「被害者が人でなし」とか、犯人に「同情の余地がある」映画なら共感して見ることがしやすいのですが、「田村高廣は別に悪人ではない」ですから。浮気に激怒した田村が「手前らぶっ殺してやる」とか言い出して「殺される前に殺す」とかならともかくそういう話じゃない。こういう事件が現代日本で起きてワイドショーで報じられたら、「あんないい田村さんを殺すなんて本当に鬼畜ですね」とスタジオでコメントが出るような事件ですから。しかも殺害シーンもかなりグロテスクというか、正視に耐えないようなものだった記憶が(まあ、そうでないとリアルでないですが)。
 そう言う意味で『復讐するは我にあり*1なんかも見るのがつらいですね。見ず知らずの人間を躊躇なく殺害して金を奪う緒方拳がただの鬼畜にしか見えない。まるきり共感できない。つうか文字通り、鬼畜なんでしょうが。アレを演じるのは「オファーを断ったという」渥美清でなくても躊躇すると思います。「悪役ばかり来る」とか変な色がつきかねない。緒形の場合「復讐するは我にあり(1979年)」以前に「必殺仕掛人(1972年)」をやっていた「にも関わらず悪人以外の役(例:1974年に演じた「砂の器」の元巡査役)も来た」ので安心して「復讐するは我にあり」の殺人鬼をやれたんでしょうか?
 逆に小生の好きな映画としてわかりやすい例だと「寅さん」なんかは安心してみられるわけです。 もちろんこれはあくまでも「小生の趣味」であって、それ以上のものではないですが。

McCrearyさんエントリでもネタバラシされていますがググって見つけた他のエントリを見てみましょう。

http://blog.goo.ne.jp/langberg/e/458e1be327aff1f3595ed5de21019701
大島渚の「愛のコリーダ」に続く作品で、藤竜也(兄貴)主演とくれば、どうみたって続編なのかと思いますが、まったく毛色の違う作品でした。

それはそういう誤解は絶対に出るでしょうね。McCrearyさんエントリ曰く当時の映画会社も「関係があるかのような宣伝」をしていたわけですし。
共通点って
1)男女の恋愛もの、2)監督が大島、3)主演が藤、4)大島らしくバッドエンド、5)タイトルが似てる、でしかないんですが。
これで共通してるというのは「釣りバカ」と「寅さん」を「喜劇映画でどちらも山田洋次が監督だから共通している」と言うくらい無茶でしょう。

この映画の時の吉行和子の実年齢は43歳、そして兄貴は6歳下の37歳。年齢的にかなりムリのある設定ですね。

McCrearyさんもこれは指摘しています。若手を使えばいいと思いますが、「愛のコリーダ」のせいで、事実上、干されていた藤を大島監督がどうしても使いたかったようです。
しかし、それならば、「20歳以上、年下」と言う無理な設定をやめて単に年下でよかった気がしますね。でそれだと不都合が生じるところは、大幅に原作を改変すればいいのでは。

 兄貴が古井戸に落ち葉を捨てていることを、庄屋の若旦那*2が巡査の川谷拓三に話し、もう完璧に疑われています。
 テンパった吉行和子は、自分の家に火をつけ自殺しようとしますが、すんでの所で兄貴に助けられます。自分は死ぬから、あんたは逃げてくれと言われた兄貴は、「イヤだ、いけねえよー。おせきちゃん、おせきちゃん」と泣きじゃくります。
(中略)
 村人は完全に二人を疑っています。さらに証拠になる言葉を聞き取ろうと、川谷拓三が床下に潜り込んでしまう始末。大ピンチです。

McCrearyさんエントリで「火のついた家に一人でいる吉行」の画像がありますがあれは吉行の自殺未遂だったわけです。
この状況下で庄屋の若旦那(河原崎)を殺して何がどうなるんだと思いますが。かえって「若旦那の失踪もあいつらがやったんじゃ」と疑われるだけでしょうに。

二人は、死体を古井戸から引っ張り出し、別のところに埋めることにしました。
(中略)
しかし死体は見つかりません。そりゃそうです。だって、田村高廣は、、、ほら井戸の上に。田村高廣が落とした松葉が、吉行和子の目にブッスリ刺さります。いままでの展開が、わりとのんびりしてたのに、ここでいきなりホラーになってしまいました。何が何だか分かりません。
ともあれ失明した吉行和子はすっかり絶望。

田村高廣が落とした松葉が、吉行和子の目にブッスリ刺さります」
「失明した吉行和子はすっかり絶望」
うーむ、確かに訳がわからない。恨んでるのか、恨んでないのか。

田村高廣の演ずる亡霊は、なかなか人間臭い奴です。
(中略)
 自分が飲む酒を買いに行った吉行和子を迎えに行き、「帰り俥だ、乗っていきな」と人力車を引っ張っちゃいます。でも、「道、間違ってねえか」と言われ「うちに帰る道、忘れちまったあ」と言うところが、滑稽かつ哀れ。なにしろ亡霊ですからね。迷ってこの世にいる以上、家に帰る道だって忘れてしまうというものです。
でも、やっぱりよく分からない映画です。男と女の破滅に向かう程の強い愛を描きたいのか、亡霊が主人公の泣き笑い映画を作りたいのか、はたまたホラーが作りたかったのか。

まあ、普通こういう映画で「うちに帰る道、忘れちまったあ」はないでしょう。四谷怪談のような「この恨みはらさでおくものか」的な考えの方が一般的日本人には共感しやすいでしょう(こうした「復讐心に共感的な価値観」があまりにも極端な方向に行くとMcCrearyさんや小生が批判する「ワイドショーでの凶悪犯つるし上げ」と言う問題行為になるわけです)。
 原作がそうなってるのか、大島が改変したのか気になるところです。

映画の冒頭は、儀三郎の人力車の車輪が回転するショットを使っていますが、これはどう見ても、稲垣浩監督の「無法松の一生」からパクってきたとしか思えません。世話になった軍人の後家さんに憧れ、気持ちを言い出せないまま、何くれとなく世話を焼く無法松の不器用な一生。
この映画では、夫を殺したものの、不器用にしか立ち回れないせきと豊次。そして、亡霊になってさえも、不器用に妻への愛情を示し続ける儀三郎。

なるほどねえ、映画ファンというのはよく見ていらっしゃる。小生も「無法松の一生」は名前ぐらいは知っていますが見たことはないですね。
【追記】
 コメ欄で指摘がありますが「無法松の一生」の主演・阪東妻三郎田村高廣の父親です。言われてから気付きましたけど。

*1:これも小生は木曜洋画劇場でちょっとだけ見ましたが

*2:河原崎建三