太田市の歴史スタンプラリー(追記あり)

「おおたんの史跡探検スタンプラリー」
http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/01news/2013-ootannosisekisutannpurari-.html
つうのに今年は参加しようかなと(追記:8/11に全部回ってスタンプを押してきました)。
 縁切寺満徳寺資料館に行ってスタンプラリー台帳はもらってきました。全国的に有名な歴史施設ってのは満徳寺資料館以外はあまりないようですけど。
 太田市にゆかりのある有名な人というのが新田義貞高山彦九郎だというのは台帳をもらってわかりました。
 新田義貞は説明しなくてもわかるでしょうが高山彦九郎を知ってる人は1)「戦前世代」、2)「歴史愛好家」、3)「右翼」のどれかでもない限り今時先ずいないでしょうね。戦前は「皇国史観的な意味」で超有名人なんですけどね。


縁切寺満徳寺資料館の説明

http://www8.wind.ne.jp/mantokuji/mantokuji/mantokuji.html
・江戸時代中期以降、幕府から公認された縁切寺は、ここ上州(群馬県)の満徳寺と相州(神奈川県)鎌倉の東慶寺の二つだけであった。
東慶寺は、千姫が助命をかなえた豊臣秀頼の娘天秀尼(てんしゅうに)(二十代住職)の入寺にあたって、家康から縁切寺の制度を特別に許可された。
鎌倉時代に徳川郷を領地とした(注:新田)義季は、所領にちなんで徳川(得川)四郎と名乗った。徳川家康はこれを先祖とするという由緒*1が江戸時代の満徳寺の地位を決定した。家康は徳川郷を徳川氏の先祖新田氏の故地、つまり徳川氏発祥の地であるとして、1591(天正一九)年11月、450石の御朱印地(ごしゅいんち)として年貢課役(ねんぐかやく)を免除し、特別に庇護した(そのうち100石が満徳寺御朱印地とされた)。
 満徳寺は、徳川氏発祥の地にあり、先祖が建立した寺であった。さらに千姫満徳寺に入寺したことにより、さらにこの由緒が強調され、寺格を高めることとなった。     

高山彦九郎について

http://www.asahi.com/kansai/travel/kansaiisan/OSK201008180052.html
朝日新聞
高山彦九郎像】土下座じゃない 拝礼だ
 京都・三条大橋の東のたもとに、ちょっと変わった銅像がある。おとなの背丈より高い大きな台座にヒゲ面の男が座ってひれ伏している。像といえば、高知・桂浜の坂本龍馬も、上野公園の西郷隆盛も、札幌のクラーク博士も、普通は立っているもの。座っているのは奈良の大仏様か渋谷駅前のハチ公ぐらい。京都市観光企画課に聞くと、「みなさん、土下座像と呼んでます」。京都の大学に通った同僚も「飲み会の待ち合わせは『ドゲザで6時』が合言葉」。確かに土下座をしているように見えるが、そもそもこの人だれ?
 間近に行き、台座に刻まれた名前を見て驚いた。高山彦九郎先生ではないか。江戸後期、諸国を行脚して尊王論を説いた「寛政の三奇人*2」の一人。幕府の追及を受け、福岡・久留米で自刃したが、「尊王運動の先駆者」として幕末の志士たちに強い影響を与えた。
(中略)
 台座にはこう記されている。「京都に出入りする折には、この銅像の姿のように京都御所に向かって拝礼した」と。つまり「ゴメンナサイ」という意味の土下座ではなく、礼儀正しく拝んでいる姿というわけだ。確かに像は京都御所のある北西を向いている。
 できたのは戦前の1928(昭和3)年。有志らが寄付を集め、高さ約2メートルの大銅像を建てた。青山忠正*3・佛教大教授によると、彦九郎は戦前の教科書には楠木正成と並んでよく登場した。
天皇制国家の下、忠君愛国を国民に刷り込むには格好の存在だったのでしょう」。
 44年に金属供出で撤去され、61年に再建されたが、「価値観が一変した戦後は教科書から消え*4、忘れられてしまった」。
 本人の意思とは無関係に、落差の激しい評価を受けてきた彦九郎。だが、像は生き残り、京都の待ち合わせ場所として確固たる地位を築いてきた。自分を知らない世代が像を愛用していることを知ったら、彦九郎はどう思うだろう。出身地の群馬県太田市では、全国を歩いて各地の社会状況を膨大な日記に残した「旅の思想家」として再評価する動きもある。

*1:もちろん徳川氏の権威を高めるための粉飾であって事実ではない

*2:他の二人は蒲生君平林子平

*3:著書『高杉晋作奇兵隊』(2007年、吉川弘文館

*4:「消え」は言いすぎで、「全ての教科書が載せていた(しかも愛国教育的な意味で大々的に扱っていた)」戦前と違って、載ってない教科書が多い、載せてる教科書も戦前ほど華々しい取り上げ方ではないと言う話です。