新刊紹介:「歴史評論」4月号

特集『歴史資料の可能性』
「興味のある論文」で「うまく要約できそうなもの」だけ紹介する(「靖国護国神社(軍用墓地)」をテーマにした原田敬一*1論文、「慰安婦証言」をテーマにした川田文子*2論文には興味はあるのだがうまくまとまりそうにないので紹介しない)。詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。
 なお、後で紹介しますが「鎮守の森は自然林ではない(畔上論文)」「戦前の喪服は白がスタンダード*3(前潟論文)」という指摘は
1)いかに現代日本人の先入観が事実に反しているか(歴史的に生まれた先入観にすぎないか)、とともに
2)そうした先入観の過ちを暴くのが「歴史学の力」ということを実感させてくれます。


■「下張文書」(小瀬玄士)
(内容要約)
 「下張文書(下貼文書)」というのは

http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/events/shitabari/
襖(ふすま)や屏風などの下張りに、昔は大福帳*4などを解体した反故紙を使用していました。これを下張り文書といいます。
その当時の人々には不要となってしまった文書でも、現在ではたいへん貴重な史料なのかも知れないのです。

と言う話です。
 問題は
1)下張文書は資料としての保存が目的ではないので入手自体が難しい(その存在に気付かれず襖ごと廃棄される恐れがある)
2)下張文書は資料としての保存が目的ではないので分析が難しいというところです。


■「角筆文献の可能性」(西村浩子)
(内容要約)
 「角筆」というのは「象牙や竹の先端を細く削った筆記用具。それで紙面を直接へこませて書いた。(weblio辞書参照)」というものです。日本だけでなく、中国、韓国、ヨーロッパにもこうしたものはあるようです。
 ちなみに何故「毛筆でなく角筆なのか」については残念ながら西村論文には書いてありません(書いてよと思う)。
 ググって見つけた某文章は「何故角筆か」について「一つの回答」を与えているので紹介しましょう。

https://www.shikoku-np.co.jp/feature/tuiseki/273/
四国新聞『角筆が面白い 〜旧高松藩士の獄中記発見から 3つの謎に迫る』
 幕末から明治維新に移る激動の時代に高松藩の家老殺害事件に関与し投獄された旧高松藩士が、紙面をくぼませて文字を書く角筆(かくひつ)を駆使して、獄中での心情を記した小型本二冊(各縦約一一センチ、横一〇センチ、計百二ページ)が高松市内で見つかった。角筆研究の第一人者、小林芳規*5徳島文理大教授の調査で明らかになった。
(中略)
 筆者は牛窪雅男(一八二七―六九年)。
(中略)
 「高松藩では口外することさえタブーとされた事件の真相を、あえて筆圧を抑えた薄い角筆に託して残したかったのではないか」と小林教授。
 研究者の一人も「藩主の意向で大っぴらには書けなかったのだろう。藩主に累が及んではいけないという忠誠心の強さを考えると、こうした角筆のかたちを取ったのにも納得がいく」と話す。
■殺害事件の背景=勤王対佐幕で激突
 一八六九年(明治二)、高松城内桜の馬場で起きた高松藩の松崎渋右衛門殺害事件は、幕末・維新期に藩の進路をめぐって多くの地方で起きた派閥抗争事件の一つ。親藩高松藩では尊皇攘夷を唱える少数派の松崎を、佐幕派の軍務局大隊令官、堀多仲ら幹部十四人が謀って殺害したとされる。
 謀議・殺害に加わった十四人組には厳しい取り調べが続き、八人が獄死する中、七一年、東京弁官から判決が下された。知藩事松平頼聡には閉門四十日のほか、十四人組では堀多仲ら二人が士族はく奪の上斬罪、牛窪雅男らは準流十年などに処せられた。
 松崎と十四人組は歴史の激動期に勤王と佐幕という本質的なイデオロギーの違いで衝突を繰り返していた。松崎は六四年、高松藩家老となるが親交のあった水戸天狗党が鎮圧されたことなどに伴い、家老職を解かれ投獄。約三年半後、元号が明治と変わる中、新政府の命令で家老職(執政)に復帰し藩政の改革に当たった経緯がある。
(中略)
■なぜ毛筆でないか=藩内タブーに配慮
 牛窪雅男の曾孫に当たり、今回の角筆本の所蔵者で、自身の名前は曾祖父の幼名からもらったという岩太郎さん(74)=高松市宮脇町=は「関係者の間では十四人さん事件と呼び、事件のことは殿様から口止めされていたらしい」と話す。その上で「藩の極秘事項として公然とは記録できなかったのと、書く筆と紙がなかったのでは」と話す。
 実際、同家には「雅男じいさんは獄中で毎日二枚支給されるトイレ用の紙を一枚蓄えておき、茶わんの欠片で思いを書いた白紙の帳面があるから大事にしろ」という言い伝えがあり代々申し送りしてきたという。古いが頑丈な手提げ金庫の底から見つかったことからも、同家で大切にされてきたことがうかがえる。
 なぜ和算なのか。角筆本全体のほとんどを地代勘定や変形土地の面積測定などの問題とその解答が占める。単なる和算を書くなら毛筆で書いても良いはずなのに、なぜ角筆で書いたのか。
 小林教授は、あくまで推測だがと断りながら「角筆本の中に獄中生活に『書』と『算』を習う日課があるとの記述があり、表向きは単なる和算の体裁を取りながら、どうしても残したい思いを紛れ込ませたのではないか」と強調する。

 牛窪某について言えば「1)高松藩の暗部に触れるため毛筆で公然と書くことを躊躇した」または「2)獄中で毛筆用道具など入手できなかった」ということのようです。
 しかし牛窪某はすさまじいですね。
 明治維新前ならともかく、維新後に松崎暗殺実行に加わった(発覚すれば確実に厳罰ですし、今更松崎一人を殺したところで何がどうなるものでもないでしょう、佐幕派であった暗殺グループが復権するとも思えない)というのもすさまじければ、「角筆で自分の思いを書き残したこと」もすさまじい。そうした文書を「代々の子孫で保存せよ」と言い残したこともすさまじい。業が深いというか何というか。俺にはちょっと理解できないタイプの人間ですね。
 それはともかく、この角筆から「松崎暗殺事件についての牛窪の心情」を知ることが出来るわけです。


■「絵画資料分析試論:絵巻物・肖像画」(大高康正*6
(内容要約)
5W1H」の把握が大事だという話です。
・WHO:誰が描いたのか。この場合の「誰が」は「画家は誰なのか」と言う意味だけでなく「画家に描かせたのは誰なのか」と言う意味を含みます。「法隆寺を造ったのは聖徳太子です」「日光東照宮を造ったのは徳川家康です」というような意味ですね。
・WHAT:何を描いたのか。なお、近年、いわゆる「伝源頼朝像」について「足利直義」とする説、「伝足利尊氏像」について「高師直」とする説があるように、「WHAT」の確定は必ずしも楽ではありません。かつ「伝源頼朝像」レベルに「WHAT(鎌倉幕府初代将軍・頼朝と室町幕府初代将軍・尊氏の弟直義)」が違うと、「WHO,WHEN,WHERE,WHY」まで大幅に違ってくるので実に厄介です。
・WHEN:いつ描いたのか
・WHERE:どこで描いたのか
・WHY:なぜ描いたのか
・HOW:どのように描いたのか。絵画技法という意味ですね。


■「日本近現代史と「原生林」」(畔上直樹*7
(内容要約)
 いわゆる「鎮守の森」は「自然の林」と一般人には情緒的に理解されがちだが資料上はそれは事実に反するという話です。
 たとえばググって見つけた以下のエントリの指摘も畔上論文と問題意識は同じでしょう。
 何でそういう俗説が生まれたのかについては畔上論文は「証拠つきの答え」を持ってないようですがまあ、素直に考えれば「鎮守の森の照葉樹林化は戦後生まれたと見られる」ので俗説も戦後に生まれたのであって、「鎮守の森を美化したい神道サイドからの宣伝」でしょうね。ただこういう宣伝をすると「鎮守の森を処分しづらくなる」と言う問題もあって神社にとって痛し痒しじゃないかなとは思います。

http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2012/12/post-94d2.html
鎮守の森は、林業地だった?(田中淳*8
 日本で、もっとも多様性が高く、原生状態が保たれている森として注目されるのは、鎮守の森である。
 ごく一部の無人島や高山などの手つかずの森は別として、神社の境内に広がる社叢は、土地の気候や土質などに適した、いわゆる「潜在自然植生」(笑)で、非常に多彩な植物が存在しているとされる。そして原生的な生態系だと。
(中略)
 が、パラパラ見ていた本に、昭和10年の「社寺林の現況」という農林省山林局(今の林野庁)お調査結果が記されていた。
 それによると、(中略)全体としては、スギとヒノキの単純林が多かったのだそうだ。
 おいおい、「潜在自然植生」はどこへ行った(~_~;)。照葉樹は全然目立たないじゃないか。多様性の高い森とは言い難い。地域に則した樹種とはいえ、あきらかに木材需要に応える木が育っている。おそらく人の手で植えたのだろう。
 もともと神社は神の依代として植樹はしていたわけだし、その際に役に立つ木を選ぶのは当たり前かもしれない。また、近隣住民が入って、落ち葉などを採取することも許していたのではないか。
 ようするに、昔は社寺林と言えども手を一切入れない不伐の森ではなく、伐ったり植えたりしていたのだろう。
 すると、社寺林こそが、都市林業の形態を体現していたのではないか。集落の中、あるいは近郊にあって、里人と深くつきあっていた森林地域だからだ。
 ほとんどの社寺林は1ヘクタール未満の小さな空間だったが、そこから日常的に薪や落ち葉を採取したり、ときに木材も得ていたのかもしれない。

http://ikoma.cocolog-nifty.com/moritoinaka/2010/11/post-3cc3.html
里山シンポ〜鎮守の森の変遷(田中淳夫)
 里山は、人間が手を入れて作り出した二次的空間というのが一般的理解だが、その中でも神社の境内である鎮守の森(杜)は、神のいる場所として人が手を付けない空間とされてきた。だから、そこに広がる植生は、原植生・潜在植生が残されていると考えられるのだ。
 とくに西日本なら、それは照葉樹林である。
 ところが……ある時(注:この里山シンポの)発表者が古地図を見て、鎮守の森に針葉樹林の印が描かれていることに気づく。 そこで調べだしたのだが、戦前は鎮守の森でマツタケを採取して販売していたことがわかってくる。つまりマツ林だったのだ。
 そして全国的にも鎮守の森は、幾度も伐採され草を刈って肥料にし、その後は植林していたことがわかってくる。
 鎮守の森も、潜在植生=原生林ではなかったのだ。
 なかなか面白い調査である。ホント、里山の鎮守の森幻想は崩れたのである。
 では、いつから伐採が行われなくなり、原生環境に遷移していったか。照葉樹林になったのか。それは、どうやら外部から肥料が導入されて、草や落葉の堆肥づくりが行われなくなったことによると気づく。
 そして、それは日露戦争後に、大陸から大量の大豆粕が輸入されたことに関係あるのではないかと推測する。南満州鉄道の主要な貨物が大豆粕で、販売肥料の首位になっていくからだ。
 化学肥料が普及する前は、大豆粕肥料が非常に人気が高かったのは私も知っている。通常の堆肥より効果が大きく、散布にも手間がかからないので重宝されたのだ。しかし、その大豆粕が中国からの輸入だったとは知らなかった。
 そして時期を同じくして、この頃から草山への植林が奨励され火入れがされなくなったことも、原生植生を回復させる要因になったと考えられるそうだ。
 この点については、私も大いに意見がある。日露戦争後、たしかに植林が奨励されたのだ。
 それは土倉庄三郎が関わっている。日露戦争では莫大な戦費と多大な人的消耗を費やしたが、その結果得られた領土や権益はわずかで(それも三国*9干渉で返還する*10)、賠償金も得られなかった。そんな戦争をするよりも、荒れ地に木を植えるべきだ。そうすれば毎年成長する木は、莫大な利益を生み出す。それは年々戦勝しているも同然である……これは土倉庄三郎の年々戦勝論と呼ばれた。
 そして全国を植林指導に回るのである。
 なるほど、鎮守の森を始めとした潜在植生がとりもどすまでには、こうした運動や外来肥料の増加が関係していると考えられるのかもしれない。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakaatsuo/20130408-00024302/
鎮守の森は「本物」か(田中淳夫)
 近年、鎮守の森に対する関心が高まっている。
 鎮守の森とは、神社の本殿や拝所、参道などを囲むように存在する樹林地である。
(中略)
 鎮守の森が注目されるのは、ここに失われつつある地域の古い植生が残されていると信じられたからだ。
 現在の日本列島は、ほとんど人為の影響を受けている。里山も、農地はもちろん森林や草原、小川や池などは人が作ったものだ。とくに森林は、人が常に草刈りや伐採を行い維持してきた雑木林か、木材収穫のため植えられた人工林である。
 その中で鎮守の森だけは、神域ゆえに人の手が入らなかったと考えられた。そのため周辺とは違った草木が生え景観も独特である。
(中略)
 しかし鎮守の森は、果たして本当に昔から変わらぬ植生で、管理を必要としない自然なのか。
(中略)
 鎮守の森には、照葉樹林が非常に多い。だから「鎮守の森=照葉樹林=潜在自然植生」という図式が生まれた。そして照葉樹林を「本物の自然」という主張が成されたのである。
 ところが、その前提に疑問符がついてきた。昨今の研究により、鎮守の森が本当に古来からの植生なのか怪しくなってきたからだ。
 1935年に、農林省山林局が「社寺林の現況」という調査報告を出している。
(中略)
 全体として、関東以西の鎮守の森に多い樹種は、マツ、スギ、ヒノキなど針葉樹だった。落葉広葉樹も比較的あるが、照葉樹はあまり確認できなかったのである。どうやら四国と九州を除いて、照葉樹林主体の鎮守の森はあまりなかったようである。
(中略)
 さらに文献を調べると、鎮守の森にも頻繁に人の手が入っていることがわかった。落ち葉や枝葉を肥料や燃料として採取された記録があるのだ。なかにはマツタケを採取する権利を売買していたところもあった。
 また木材を得るためにスギ、ヒノキやケヤキを植栽することも少なくなかった。サクラやウメなど花を愛でるため植えられた木々も少なくない。
(中略)
 そして照葉樹林が目立つのは明治以降、とくに戦後であることがわかってきた。
 では、なぜ鎮守の森に照葉樹が増えたのだろうか。
 戦後は伐採が減り、落ち葉の採取もなくなった。理由は、化学肥料や石油・ガスなど化石燃料が普及したからである。用材も外材やコンクリートなど非木材が多く使われるようになった。そのため鎮守の森に人の手が加わることが減った。すると、それまで人の手で排除されたり育つ環境になかった照葉樹が伸び始めたのである。つまり、鎮守の森の照葉樹林は、案外歴史が浅いことになる。
 だから、今の照葉樹林がどうなるのかわからない。今後も十分に育つのか。後継樹も照葉樹が生えて、長く保たれるのか。まだまだ未知である。
(後略)


■「植生景観の復元」(小椋純一*11
(内容要約)
・どうやって昔の植生景観を復元するかという話です。
1)写真
2)地形図
 明治以降の植生を知りたいなら「写真」「地形図」を使うことが出来ます。
3)絵画
 明治以前は写真、地形図などないので、それ以外の手法になります。その一つが絵画ですが絵画は写真と違い「写実性に欠ける」、つまり事実に反する想像の産物が描かれているケースがあるので注意が必要です。
4)理化学的分析
 具体的には
・樹幹解析:木の年輪を分析
・花粉分析:湖沼の泥炭などに含まれる花粉を分析
・微粒炭分析:泥炭や土壌に含まれる微粒炭を分析、などがあります


■「城館の構造から歴史を読む」(斎藤慎一*12
(内容要約)
群馬県藤岡市にある高山城(東日野金井城)について筆者は「城の構造」から、「北条氏の敵対勢力」が北条氏に対する攻撃拠点の一つとして築いたと理解し、「北条氏が防衛拠点として築いた」とする説を批判する。
・では高山城を城主・高山氏に築かせたのは誰だったのか。筆者は別資料(高山氏への武田氏の書状)から武田氏(武田信玄)の命によって建設されたと判断する。


■「歴史資料としての津波碑:災害史を読み解くために」(北原糸子*13
(内容要約)
 今回の東日本大震災での「津波被害」は「過去の津波被害」を歴史の教訓にしていなかったという意味で歴史学者にとっても痛恨の極みである。「過去の津波被害研究」を見直す必要があるだろう。


■「モノから読み解く昭和の暮らし」(前潟由美子)
(内容要約)
1)ちゃぶ台
 ちゃぶ台が登場するのは明治以降である。それ以前は「立場の違い」により食事は別々に食べるのが当然であった。
 ちゃぶ台が「都市部だけでなく、農村部にまで広く普及する」のは昭和20年代以降のことである。しかし昭和30年代頃から「洋風テーブル」が次第に普及し、昭和60年代にはちゃぶ台はほぼ洋風テーブルに取って代わられる。
2)女性の礼服
・明治以前は婚礼衣装は女性は白無垢が一般的であった。また喪服も女性は白無垢が一般的であった。
・一方、昭和に入ると婚礼衣装、喪服ともに女性は黒無地(和装)が普及していく。
・戦後、女性の婚礼衣装は華やかな打ち掛けとなり、また洋装の普及により、ウェディングドレスが着られるようになる。黒の婚礼衣装は廃れていった。
 喪服は「黒」と言う色については変化はなかったが洋装の普及により黒無地(和装)ではなく黒の洋装が主流になる。いずれにせよもはや和装は「冠婚葬祭時」にしか着られないものと化していることに注意が必要。
3)女中部屋
 戦前は中流以上の家庭には女中と女中部屋が存在したが、戦後は上層階級ならともかく中流階級では到底経済的に女中は持てず、また家電製品の普及などにより女中の必要性も減ったため女中部屋はすたれた。
4)姫鏡台
 小型の鏡台。昭和初期に開発されたが昭和50年代頃には既に「生活の洋風化」などからドレッサーに取って代わられている。


■歴史の眼『教科書攻撃の新段階と今後の課題:都府県教委の特定教科書採択排除が意味するもの』(石山久男*14
(内容要約)
内容要約にかえて赤旗の記事を紹介しておきましょう。


【教委の特定教科書排除】
『神奈川県教委が不当介入、実教出版「日本史」教科書 再検討求める、審議前に圧力』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-31/2013073114_01_1.html
『日の丸・君が代強制記す教科書、都教委また排除』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-08-23/2013082301_04_1.html
『埼玉県議会委 教科書採択への圧力、柳下県議 閉会中審査を批判』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-03/2013090304_03_1.html
『「日の丸・君が代」強制記述教科書問題、校長よび「介入」質問、埼玉県議会委』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-09-14/2013091414_01_1.html


教育委員会制度改悪】
『政治権力による教育支配への大改悪:安倍政権の「教育委制度改革」について、志位委員長が会見』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-02-21/2014022101_02_1.html
教育委員会「改革」、教育の政治支配狙う、「戦争する国」づくりへ』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-02-20/2014022002_02_1.html
『教委制度「改革」田村議員の質問、教育介入意に介さず 安倍内閣の危険な姿浮き彫りに、論戦ハイライト』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-06/2014030602_01_1.html
『教委制度「改革」で主張、現場の声反映の教育に、TBSラジオ番組で宮本議員』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-08/2014030804_03_1.html
教育委員会が首長の下請けに、自公「改革」案、際限のない支配・介入に道』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-14/2014031402_04_1.html


【教科書問題】
教科書検定、政府見解記述求める、審議会、基準改悪の報告』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-12-21/2013122101_03_1.html
『領土問題で政府見解明記、学習指導要領解説書 政治介入の危険あらわ』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-01-29/2014012901_03_1.html
『教育へ権力介入の表れ、指導要領の解説書改訂』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-01-29/2014012902_02_1.html
『国が教科書「是正要求」、改憲誘導の育鵬社版 竹富町に押し付け』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2014-03-15/2014031501_02_1.html


■科学運動通信『吉見裁判・第一回口頭弁論(二〇一三年一〇月七日)参加記』
(内容要約)
ほぼ同じ内容の文章がhttp://www.yoisshon.net/2014/01/2013107.htmlに掲載されていますのでリンクを張っておきます。
また現在、第二回口頭弁論参加記(http://www.yoisshon.net/2014/02/20131211.html)も掲載されています。
 小生もいくつかコメントしてみましょう。

http://www.yoisshon.net/2014/01/2013107.html
当日、ネット右翼による動員はかけられなかった模様です。しかし、桜内議員は「チャンネル桜」やSNS等のサイトを通じ、「国益のため負けられない裁判」 と呼号して、ネット右翼に広く支援活動を呼びかけています。口頭弁論二回目以降、新たな動員がなされる可能性は、予測しておく必要があります。

ネトウヨへ支持を呼びかけるっておよそ政治家とは思えない振る舞いです。

http://www.yoisshon.net/2014/02/20131211.html
 被告側の主張の要点としては、原告は名誉毀損の請求原因を特定できておらず名誉毀損の成立要件を満たしていないため、不当な提訴であるということです。具体的には、被告が橋下大阪市長の記者会見の冒頭で述べた「これは既に捏造だということがいろんな証拠によって明らか」の「これ」は「慰安婦が性奴隷である」ということであり、原告の著作を示さない。

すさまじいまでの桜内のヘタレぶりですね。「慰安婦は捏造といった覚えはあるが、吉見氏の著作が捏造といった覚えはないから吉見氏への違法行為は成立しない」んだそうです。


■アピール『教科書採択への不当な政治的介入をやめさせ、子どもにとってもっともふさわしい教科書を教員が選べるようにすることを広く訴えます』
(内容要約)
http://www.ne.jp/asahi/kyokasho/net21/appeal20131230.htmhttp://sando99.jimdo.com/に全文掲載されているのでリンクを張っておきます。

*1:軍用墓地関係の著書に『兵士はどこへ行った:軍用墓地と国民国家』(2013年、有志舎)

*2:慰安婦関係の著書に著書『赤瓦の家:朝鮮から来た従軍慰安婦』(1994年、ちくま文庫)、『インドネシアの「慰安婦」』(1997年、明石書店)、『イアンフとよばれた戦場の少女』(2005年、高文研)など

*3:今「白」で行ったら変人扱いでしょう

*4:江戸時代の商家が用いていた帳簿のこと

*5:著書『角筆文献の国語学的研究』(1987年、汲古書院)、『角筆のみちびく世界:日本古代・中世への照明』(1989年、中公新書)、『角筆文献研究導論』全4巻(2004〜2005年、汲古書院)、『角筆のひらく文化史:見えない文字を読み解く』(2014年、岩波書店)など

*6:著書『参詣曼荼羅の研究』(2012年、岩田書院)、『富士山信仰と修験道』(2013年、岩田書院

*7:著書『「村の鎮守」と戦前日本:「国家神道」の地域社会史』(2009年、有志舎)

*8:著書『日本の森はなぜ危機なのか:環境と経済の新林業レポート』(2002年、平凡社新書)、『森林からのニッポン再生』(2007年、平凡社新書)、『割り箸はもったいない?:食卓からみた森林問題』(2007年、ちくま新書)、『森を歩く:森林セラピーへのいざない』(2009年、角川SSC新書)、『森林異変:日本の林業に未来はあるか』(2013年、平凡社新書)など

*9:ドイツ、フランス、ロシア

*10:原文のまま。三国干渉で遼東半島を中国に返還したのは日清戦争なので明らかな勘違い。まあ、「賠償金がない」「権益(満鉄と南樺太)が日清戦争(賠償金と台湾)に比べ小さい」のは事実だろうが。

*11:著書『絵図から読み解く人と景観の歴史』(1992年、雄山閣出版)、『植生からよむ日本人のくらし:明治期を中心に』(1996年、雄山閣出版)、『森と草原の歴史:日本の植生景観はどのように移り変わってきたのか』(2012年、古今書院

*12:著書『中世東国の領域と城館』(2002年、吉川弘文館

*13:著書『江戸城外堀物語』(1999年、ちくま新書)、『地震の社会史:安政地震と民衆』(2008年、講談社学術文庫)、『関東大震災の社会史』(2011年、朝日選書)、『江戸の城づくり:都市インフラはこうして築かれた』(2012年、ちくま学芸文庫

*14:著書『近現代史と教科書問題』(1998年、新興出版社)、『日の丸・君が代:国旗・国歌を考える』(1999年、学習の友社)、『教科書検定沖縄戦「集団自決」問題から考える』(2008年、岩波ブックレット