新刊紹介:「歴史評論」5月号

特集『3世紀の東アジア―卑弥呼と『三国志』の世紀―』
 詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。

■「3世紀の東アジア・概論」(河内春人*1
(内容要約)
・まず三世紀の東アジアというのは「黄巾の乱」で後漢が衰退して群雄割拠状態だったと。
 その中で主流勢力となるのが「魏・蜀・呉」の三国、特に中国の大部分を支配していた魏のわけです。蜀・呉は魏を脅かすほどの存在には結局なれず、魏または魏の後継国家たる西晋によって滅ぼされるわけです。
・なお、3世紀中国で重要なことは異民族が中国史にこの時期に積極的に登場することです。たとえば曹操の最大のライバル・袁紹は異民族・烏丸(烏桓)を重用しており、袁紹死後、曹操に敗れた袁紹の息子の袁煕袁尚も一時、烏丸のもとに逃げ込んでいます(ウィキペ「烏桓」「袁煕」「袁尚」参照)
 こうした異民族の登場が後の「五胡十六国」時代につながったと言えます。


■「「邪馬台国」論争の現状と課題」(仁藤敦史*2
(内容要約)
・「邪馬台国論争」というのは「邪馬台国はどこにあったか」と言う論争で、もちろん主たる説は「畿内説」と「九州説」です。
魏志倭人伝には「邪馬台国についての記述」がありますがそれを文字通り理解すると日本の中に邪馬台国がないことになる、つまり邪馬台国がどこかが魏志倭人伝だけではわからないので争いになるわけです。仁藤氏の理解では「魏志倭人伝から邪馬台国の位置を決定することは困難」だが、考古学上は、数々の遺跡が発掘されている畿内の方が邪馬台国の可能性が強いということになるようです。


■「漢魏交替と「貴族制」の成立をめぐって」(小嶋茂稔*3
(内容要約)
・前半が「漢魏交替」、後半が「魏王朝での貴族制度成立」です。
・まず前半。董卓*4の死後、献帝を自らの元に抱え込み事実上、「中華の支配者」になったのが曹操です。曹操は「司空→丞相→魏公→魏王」と昇進を続け、事実上「漢王朝の最高指導者」になっていきます。
 そして、曹操死後、彼の後を継いで「2代目魏王」となった息子・曹丕献帝に圧力をかけて禅譲させ、名実ともに漢王朝は滅ぶわけです。
・次に後半。魏王朝から貴族制度が誕生したとする理解は筆者に寄れば、戦後、川勝義雄によって提唱されます。川勝は「魏王朝の貴族」は「君主からの上からの保障によってではなく、士大夫の輿論からの、下からの保障によって」成立したと主張しました(川勝『六朝貴族制社会の研究』(1982年、 岩波書店))。
 これに対して矢野主税は「寄生官僚制」を主張。貴族の多くは「国家から得る俸禄に頼らざるを得ず、川勝の言うような下からの保障など成立していない」と批判しました(矢野『門閥社会成立史』 (1976年、国書刊行会) )。こうした川勝・矢野論争を踏まえた上で「魏王朝貴族制度」をどう理解するかは未だに重要な課題と言えます。


■「3世紀中国の政治・社会と出土文字資料」(安部聡一郎)
(内容要約)
 近年中国で発掘された出土文字資料(石刻文書など)の紹介。


■「史料としての『三国志』」(津田資久)
(内容要約)
・ここで言う三国志とは「三国志演義」ではなく、その元となった歴史書の方です。
・まず『三国志』が事実上、西晋王朝の国家事業であったことが指摘されます。つまり西晋の正統性を示すための歴史書の訳です。たとえば魏王朝西晋の支配者・司馬氏が使えた王朝。魏王朝の曹氏から西晋王朝の司馬氏に禅譲がされた)の曹操の死は「崩」と表記されるのに対し、蜀の劉備、呉の孫権には「崩」の文字が用いられないことは、『三国志』が西晋を正統王朝とするため「魏王朝」のみを「正統王朝」としていることを示しています。
・『三国志』では魏王朝二代皇帝曹丕とその弟・曹植の権力争いが強調され、曹植に冷淡な曹丕が否定的に描かれていますが、筆者に寄ればこれはかなり事実と異なり筆者・陳寿による誇張があると言います。では何故そうした誇張をしたかですが、当時の西晋の皇帝・司馬炎武帝)と彼の弟・司馬攸の関係にあてこすったのではないかというのが筆者の理解です。
 筆者の理解では陳寿は司馬攸シンパであり、曹丕批判に仮託して司馬攸の重用を訴えたわけです。
・筆者の理解では陳寿諸葛亮*5孔明評価はかなり高い物であり、そこには「同じ蜀出身者としてのシンパシー」があったのではないかとしています。

諸葛亮(ウィキペ参照)
・『三国志』の撰者・陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であった。その政治の才能は管仲*6・蕭何*7に匹敵する」と最大限の評価を与えている。
・しかし、その一方で「毎年のように軍隊を動かしたのに(魏への北伐が)あまり成功しなかったのは、応変の将略(臨機応変な軍略)が得意ではなかったからだろうか」とも書いており、政治家として有能であったと評しつつ、軍人としての評価については慨嘆するに留まり、やや言葉を濁した形になっている。
・また、『三国志』に収録されている「諸葛氏集目録」で陳寿は「諸葛亮は軍隊の統治には優れていたが、奇策はそれほど得意でなく、敵のほうが兵数が多かったので、魏に対する北伐は成功しなかった」と評している。
陳寿の評について「彼の父が諸葛亮によって処罰されたため、評価を厳しくしたのだ」という説が『晋書』陳寿伝にある(注:ただし、この説を津田氏は否定している)。

・最後に津田氏は「裴松之の注」に触れます。裴松之も「魏王朝二代皇帝曹丕とその弟・曹植の権力争い」を強調しますがそこには陳寿同様の政治的背景があったと筆者は見ます。
 当時の宋皇帝・文帝(劉義隆)は弟の彭城王(劉義康)を重用しますが彭城王重用を支持する立場にあったのが裴松之だと言う理解です。


■「3世紀の朝鮮半島」(田中俊明*8
(内容要約)
・まず三世紀の朝鮮半島の有力勢力の一つとしては公孫氏があります。元々は遼東半島が本拠地だったのですが朝鮮にまで進出していったわけです。ただ公孫氏は最終的には魏によって滅ぼされます。
 公孫氏滅亡後の有力勢力が高句麗になります(ただし他にも馬韓弁韓、辛韓などがあった)。


■科学運動通信「吉見裁判・第二回口頭弁論参加記」
(内容要約)
前月・4月号(http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20140320/5210278609参照)にも裁判参加記録が掲載されていましたがその続きです。
 ほぼ同じ内容の文章がhttp://www.yoisshon.net/2014/02/20131211.htmlに掲載されていますのでリンクを張っておきます。

*1:著書『東アジア交流史のなかの遣唐使』(2014年、汲古書院

*2:著書『卑弥呼と台与―倭国の女王たち』(2009年、山川出版社日本史リブレット人)

*3:著書『漢代国家統治の構造と展開―後漢国家論研究序説』(2009年、汲古書院

*4:一時、献帝を抱え込み事実上、後漢の支配者になるが呂布らによって暗殺された

*5:蜀の丞相

*6:斉の桓公の丞相

*7:漢の建国者・劉邦の丞相

*8:著書『大加耶連盟の興亡と「任那」』(1992年、吉川弘文館)、『古代の日本と加耶』(2009年、山川出版社日本史リブレット)