今日のMSN産経ニュース(6/14分)(追記・訂正あり)

■【鼓動】サッカー好き習氏 中国山あいの町からW杯目指せ
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140614/chn14061407000001-n1.htm

 サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会に注目が集まる中、2002年大会を除いて予選敗退が続く中国では、サッカー好きで知られる習近平*1国家主席の号令のもと、若手選手の育成が急ピッチで進んでいる。中でも最近、中国メディアが積極的に取り上げているのが、陝西省にある山あいの町、志丹県の取り組みだ。(中国陝西省延安市志丹県 川越一)
(中略)
 国営新華社通信によると、ここでは「草の根サッカーの火花が、まさに燃え広がろうとしている」という。党機関紙、人民日報も4月、「黄土高原の快楽サッカー」と題する特集を組んだ。
(中略)
 当初、8校でスタートした同県学校リーグの参加校は23校に拡大した。省の選抜チームに男子2人、女子3人を送り込んでいるほか、中国サッカー協会が全国から有望な選手を選出して育成するプログラム「希望の星」にも、13人が選ばれたという。今年3月にはドイツ・ベルリンで研修する機会を与えられ、同時期に訪独した習氏に激励される“栄誉”も得た。
 ところが、街中では“サッカー県”をアピールする看板などは目につかない。県内で生まれ育った20代の男性は「サッカーが盛んだなんて聞いたことがない。きっと小学校の中だけでやっているのだろう」と無関心な様子だった。30代の独身女性も「言われて初めて知った」と答えた。
 一般県民の認知度が低いのに、なぜ志丹県ではサッカーが優遇され、国営メディアに称賛されるのか。
 省内のある50代男性は、習近平氏につながる人脈を理由に挙げた。「習氏の父親は劉志丹の部下だったんだ」。劉志丹とは県名の由来になった地元出身の「軍人」だ。「土着匪賊(ひぞく)の頭目」との評価もあるが、国民党軍の攻勢を受け、陝西省北部にたどり着いた紅軍(中国共産党軍)の根拠地を創設、陝北ソビエト政府の確立に尽力したと伝えられている。
 劉氏が戦死した1936年当時、陝北ソビエト政府主席を務めていたのが習氏の父、習仲勲*2元副首相だった。習仲勲氏はその後、60年代に反党文書とされた小説「劉志丹」に関わったとして、役職を解かれ下放された。習氏自身、69年から約7年間、陝西省内で下放生活を送っており、同省や志丹県への思い入れが強いとしても不思議はない。
 習氏は中国代表のW杯出場、W杯中国大会の開催を「夢」だと公言している。
 中国サッカー協会の蔡振華主席は1月に協会主席に就任した際、「日本のサッカーは民間の層の厚さにしろ、代表チームにしろ、われわれの手本となる」と述べた。県を挙げてレベルアップに取り組む志丹の小中学生や教師が日本を訪れ、日本の練習方法や指導システムを学ぶ日も、そう遠くないかもしれない。

 どんな人物か気になったので、記事が触れてる「劉志丹」についてググって見ます。

反党小説「劉志丹」事件(ウィキペ参照)
 1936年に戦死した劉志丹を題材に書かれた小説『劉志丹』が反党文書だとされ関係者が弾圧された事件。
 劉志丹は1920年代から活躍した軍人で、長征の先頭に立ち高崗らと共に陝西省北部の陝北ソビエトの確立に尽力した。1936年2月21日、毛沢東の「北上抗日」という指示で東征を行い、山西省に入ったところで同地を支配していた国民党の閻錫山軍*3に敗北し、4月14日に退却の途中に射殺されている。この一件で後に彼の故郷である保安県は志丹県と名を変え、追悼大会が盛大に行われた。
 1954年、党中央宣伝部の指示で、彼を題材にした小説『劉志丹』が弟・劉景范の妻で、自身も陝北で活動していた李建彤によって執筆が始められ、1959年までに初稿を書き終えた。その後、1936年当時に陝北ソビエト政府主席であった国務院副総理・習仲勲の助言を得て、1962年までに完成した。だが既に失脚していた高崗*4に関わる内容*5であったことから、陝北地域の党責任者だった賈拓夫は中央宣伝部の審査を仰ぎ、周揚副部長は問題なく出版は可能と結論。出版にこぎつけた。
 ところが光明日報、工人日報*6、中国青年報*7などに連載されると閻紅彦(雲南省党委員会第一書記)が、内容は党中央の評価が必要だと発表に反対し、その報告を受けた康生*8は「政治問題であり、処理を求める」と楊尚昆*9に調査を命じた。
 8月、第8期中央委員会第10回全体会議予備会議で小説『劉志丹』は高崗の名誉を回復し、党を攻撃する文書と指摘、9月24日に開催された第8期十中全会で毛沢東*10は「小説を書いて反党反人民をするとは、これは一大発明だ」と批判した。これを口実に習仲勲、賈拓夫、劉景范らが反党集団と認定され、習仲勲は党内外の職務からすべて解任された上に下放され、賈拓夫は北京鉄鋼公司の副経理に降格された。
 1966年に文化大革命が始まると、康生、江青*11林彪*12らは小説『劉志丹』に関わった人間に対して手を伸ばし始める。1967年、人民日報で出版許可を出した周揚を党と国家を簒奪する陰謀を進めていたと批判し、拘束した。李建彤は1970年に党から除名され、労働改造処分となるなど、西北反党集団として6万人が被害を受けたとされる。またかつて毛沢東に英雄と評された劉志丹自身もその記念碑が紅衛兵によって破壊された。
 1978年の第11期3中全会以降冤罪事件の再評価が始まり、翌1979年には「小説劉志丹の名誉回復に関する報告」で「すばらしい革命文化作品であり、高崗の再評価問題など存在しない」と評価され、10月には再出版された。しかし、一部古参同志が事実と異なると指摘したため、1986年に習仲勲が調査した結果、「党の歴史的人物の描写は歪曲してはならない」と決定され、胡耀邦*13・党総書記の指示で再度発禁となった。

志丹県(ウィキペ参照)
 中国陝西省延安市西北部に位置する県。かつては保安県という名称だったが、同県出身の劉志丹が1936年に戦死し、彼の業績を称えて改称された。中国共産党が地名に個人の名前を付けることは珍しい。

*1:福州市党委員会書記、福建省長、浙江省党委員会書記、上海市党委員会書記、国家副主席、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席などを経て国家主席、党総書記、国家中央軍事委員会主席、党中央軍事委員会主席

*2:副首相をつとめるが反党小説「劉志丹」事件で失脚。文革後名誉回復し、広東省党委員会第一書記、広東省長、全国人民代表大会常務副委員長などを歴任

*3:1936年当時、山西省政府主席。国共内戦蒋介石らとともに台湾に逃亡。台湾では総統府資政や国民党中央評議委員を歴任

*4:中国中央人民政府副主席、国家計画委員会主席、中国共産党中央政治局委員などの要職を務めたが、毛沢東(党主席)や劉少奇国家主席)、周恩来(首相)らとの権力闘争に敗れて自殺した。その後、トウ小平(副首相)主導の下に「高崗・饒漱石反党連盟に関する決議」が採択され、高崗は東北を「独立王国たらしめようとした」と批判されて党籍を剥奪された(ウィキペ「高崗」参照)。

*5:高崗に触れた内容があったと言う事でしょう。劉志丹の死亡時期から考えても「新中国建国後の高崗」を美化してるなんて事は考えられないし建国前の記述だったら問題ない気がしますけどね

*6:労働組合ナショナルセンター(全国組織)である中華全国総工会の機関紙

*7:中国共産主義青年団の機関紙

*8:中央文化革命小組顧問として文革を推進。文革中に死去。文革後、中国共産党は彼を林彪江青集団の一員として除名した

*9:党中央委員会副秘書長兼中央弁公庁主任、党中央軍事委員会秘書長などを歴任するが文革で失脚。文革後、名誉回復し、全国人民代表大会常務委員会副委員長、党中央軍事委員会副主席、国家中央軍事委員会副主席、国家主席などを歴任

*10:中国共産党主席

*11:毛沢東の妻。中央文革小組第1副組長として文革を推進。毛沢東死後、4人組の一人として裁かれ無期懲役判決。獄中で自殺

*12:防相党中央軍事委員会副主席、党副主席、第一副首相などを歴任するが林彪事件で失脚

*13:新中国建国後、中国共産主義青年団共青団)第一書記、陝西省党委員会第一書記などを歴任したが、文革で失脚。文革終了後、復権し党中央秘書長兼中央宣伝部長、党総書記などを歴任。1987年に党政治局拡大会議で総書記を解任されて失脚。後任総書記は趙紫陽首相