新刊紹介:「歴史評論」7月号

特集『天皇・朝廷からみる日本近世』
 詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。それなりに理解した上でうまく要約できた論文のみ紹介しておく。

■「江戸幕府と朝廷財政」(佐藤雄介)
(内容要約)
・朝廷財政は「禁裏領(1万石)からの年貢収入」「官位授与の際の将軍家、大名家、寺社などからの献上品収入」が主な収入であった。
 しかし次第にこの二つだけでは、朝廷財政は賄いきれなくなり、享保年間(1716〜1736)の後半頃から幕府は朝廷への無利子貸し付けを行うようになった(建前は貸し付けだが実際には供与と同じでありほとんど返済されなかった)。
 なぜ享保年間後半かと言う事については「8代将軍吉宗による享保の改革」で幕府財政に余裕ができたことが一因と考えられる。
 朝廷にとって「幕府の貸与なしではやっていけない」と言う意味で、一方、幕府にとって「(実質的決定ではなく形式的決定だが)将軍の任命者」と言う意味で、互いに深く結びついていた。
・幕府による経済支援の仕組みは、「一橋慶喜将軍後見職に、松平慶永政事総裁職に就任した文久の改革(文久2〜3年:1862〜1863年)」時に「金額の増額」など大きな変化が起こっている。幕末時における「朝廷権威の上昇」に対応した措置と思われる。

参考

文久の改革(ウィキペ参照)
■経緯
 兄・斉彬の死後、藩主となった子の島津茂久(忠義)を補佐する国父の立場となった島津久光は、兄の遺志を継ぎ、兄の果たせなかった率兵上京を敢行し、朝廷から勅使を出させることで幕政の改革を推し進めようと図った。文久2年(1862年)3月16日鹿児島を発した久光の軍勢は4月13日に入京する。藩主の父ではあるが、外様大名でしかも無位無官である久光が兵を率いて京へ入り、幕府に無断で公家と接触する事態は、幕府健在の頃であれば許されざる暴挙であったが、桜田門外の変1860年)以来権威の失墜しつつあった幕府体制にそれを阻止する力はなかった。
 一方、京都で勢力を高めつつあった尊王攘夷派の志士は、久光の率兵上京を朝廷主導による武力での尊王攘夷実現・幕府打倒と誤解していた。久光の真意は、あくまで幕政の改革・公武一和であったため、これら志士たちとの間に摩擦を生じ、自藩の急進派有馬新七らの粛清を行った(寺田屋事件、4月23日)。
 久光は公家に工作を行い、建白書を提出。その内容は、安政の大獄(1858〜1859年)の処分者の赦免および復権、前越前藩主松平慶永大老就任、一橋慶喜を将軍後見とする、過激派尊攘浪士を厳しく取り締まる、などから成っていた。久光の建白は孝明天皇に受け入れられ、5月9日、勅使として大原重徳を江戸へ派遣することが決定された。勅書は久光の意見が大幅に取り入れられたものとなった。
 朝廷から改革の指示が下るという前代未聞の事態に幕府内は混乱するが、結局その大部分を受け入れざるを得なかった。
■改革の内容
・人事改革
  若年の将軍徳川家茂を補佐する役として一橋家当主・一橋慶喜*1将軍後見職に任命。越前藩の前藩主・松平慶永(春嶽)を新設の政事総裁職*2に任命。これとは別に、京都における尊王攘夷過激派の台頭によって悪化した治安の取り締まりのため、従来の京都所司代とは別に京都守護職を新設し、会津藩松平容保を任命した。
■改革の影響
 安政の大獄以来、逼塞に追い込まれていた一橋慶喜松平慶永らが表舞台に復帰したことにより幕府の改革は進むかに見えたが、やがて島津久光との意見の相違が明らかとなり、対立することとなる。なお島津久光は帰国の最中、生麦事件1862年)を起こすこととなった。


■「近世公家家職の展開と内侍所神楽」(西村慎太郎*3
(内容要約)
 近世公家家職について内侍所神楽を材料に論じる。内侍所神楽は秀吉政権誕生前までは朝廷内では行われる事が少なく、神楽を執り行う公家家職も衰退していた。
 しかし秀吉政権後、神楽の開催は増え神楽を執り行う公家家職も復権した(何故、秀吉が神楽を重視したかはここでは論じない)。こうした秀吉政権の神楽に対する姿勢は基本的には徳川政権にも踏襲された。ここからは「公家家職の動向」は「武家政権の意向」に大きく影響される事が読み取れる。
 近世の天皇・公家集団とはこうした「武家政権の要請に応じる家職の集合体」と見なす事が出来るのではないか。


■「陵墓と朝廷権威:幕末維新期の泉涌寺御陵衛士*4の検討から」(上田長生*5
(内容要約)
・幕末に泉涌寺が設けた衛士制度は実質的役務はなく、「衛士に任命する事の対価として泉涌寺側が得る経済的利益」が目的だったと見られる。
 一方、衛士側(町人)は尊皇思想と言うよりは「衛士任命によって認められる非常帯刀や菊紋付き提灯の使用」などの身分的特権を求めて衛士に就任したと見られる。
・なお、明治維新後も衛士側(町人)は明治新政府に江戸時代の衛士制度の継続を願っていたが、その願いは採用されなかった。そこには従来の衛士制度には「実質的役務がない」という理解のもと、実質的役務を付与したいという考えが存在していた。
 衛士制度自体は継続したものの、従来の衛士は否定され、明治三年に「京都在住の士族(元旗本など)」が新たな衛士として任命された。
 しかしこの新たな衛士制度も明治7年に「新たに陵墓掌丁と言う役職が設定された事」により廃止される。


■文化の窓「資料保全活動の現在:各地の史料ネットから(4)」(田中大輔
(内容要約)
 山形県文化遺産防災ネットワーク(ブログ http://yamagatabunkaisan.cocolog-nifty.com/)の活動報告。


■書評「小野容照著『朝鮮独立運動と東アジア』*6 」(三ツ井崇*7
(内容要約)
・意義を認めながらもいくつかの疑問点を指摘している(本の内容については出版社サイト(http://www.shibunkaku.co.jp/shuppan/shosai.php?code=9784784216802)参照)。
1)第二章『在日朝鮮人留学生の出版活動:朝鮮人留学生、朝鮮民族運動と日本人実業家』で取り上げられた在日朝鮮人留学生団体「学友会」について、「出版・印刷といった活動」や「人的ネットワーク」の記述が中心を占めており、「学友会の出版した雑誌『学之光』や出版・印刷活動以外の活動」への指摘が不十分なのは問題としている。
2)第五章『東アジア共産主義運動と朝鮮:上海派高麗共産党*8国内支部の誕生』、第六章『日本における朝鮮人社会主義運動の発生と展開:北風派共産主義グループ*9の形成過程』では「在日朝鮮人学生運動の中の社会主義運動」が取り上げられている。著者は「在日朝鮮人学生運動は当初多様であったが、次第に社会主義運動が主流化していく」と言う認識のようである。その認識と是とするとしても「社会主義運動についての記述」に偏りすぎていないか。社会主義運動以外の運動についてももっと触れるべきでなかったか。
3)著者自身も自覚しているように思われるが、思想研究の面が少し弱いように思われる。注を見る限りこの分野での韓国の国文学研究の成果を取り入れてもいいのではないかと思う。
4)団体について記述する場合、団体の結成と分裂、廃止といった動向をわかりやすく読者に伝えるため整理した図表があった方がよかったのではないかと考える。

参考

朝鮮共産党(ウィキペ参照)
■朝鮮共産党日本総局
 金若水らの北星会(1925年1月、一月会に改編)に見られるように、日本においては朝鮮人留学生の社会主義運動組織が作られていた。
 1922年の信濃川朝鮮人虐殺事件*10発覚は、低賃金や過酷な環境での労働(タコ部屋労働)を強いられた在日朝鮮人労働者の状況に対する朝鮮人・日本人社会主義者の関心を集めた。1922年、東京朝鮮労働同盟会が結成される。1925年2月には、在日朝鮮人労働団体が結集して在日本朝鮮労働総同盟(在日朝鮮労総)が結成されている。
 第2次朝鮮共産党は1926年4月に「日本部」の結成を試みたが、弾圧により頓挫した。組織化が実現したのは第3次朝鮮共産党のもとでの1927年5月のことであり、朝鮮共産党日本部(責任秘書:朴洛鍾)と高麗共産青年同盟日本部(共青日本部、責任秘書:韓林)が結成された。党の「日本部」は1928年4月に「日本総局」と改められた。
 党日本総局責任秘書はのちに金天海*11が務め、共青日本部責任秘書を一時期印貞植が務めている。
 社会主義者たちは在日朝鮮人運動の主流を占め、日本民衆との連帯を重要視した。1929年頃より「一国一党原則」が強調され、在日朝鮮労総が日本労働組合全国協議会(全協)に解消されるなど、朝鮮人組織は日本人組織に吸収されることとなった。このことは在日朝鮮人運動に混乱を招いた。朝鮮共産党日本総局は1931年に解散した。

*1:1864年には将軍後見職を辞職し、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に就任(このとき将軍後見職は廃止された)。1866年には徳川宗家を相続し15代将軍に就任

*2:1863年に内部の意見対立から慶永が辞表を提出。後任に川越藩松平直克が任命されるが、1864年に廃止

*3:著書『近世朝廷社会と地下官人』(2008年、吉川弘文館)、『宮中のシェフ、鶴をさばく: 江戸時代の朝廷と庖丁道』(2012年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*4:御陵衛士と言った場合、一般には「新撰組に粛清された伊東甲子太郎一派(いわゆる高台寺党)」が連想される(たとえば、ウィキペやはてなキーワードの「御陵衛士」で書かれている内容は伊東一派の事である)。ただし本論文では伊東の事は扱っていない。なお、現在、伊東らの墓が泉涌寺にある(泉涌寺サイトhttp://www.mitera.org/kaikouji.php参照)

*5:著書『幕末維新期の陵墓と社会』(2012年、思文閣出版

*6:2013年、思文閣出版

*7:著書『朝鮮植民地支配と言語』(2010年、明石書店

*8:上海派」がついてるのはロシアのイルクーツクに本部を置いた「イルクーツク派」と区別するためのようだ。「上海派」「イルクーツク派」についてはウィキペ「朝鮮共産党」参照

*9:ウィキペ「朝鮮共産党」が触れる「1922年に朝鮮に帰国した在日朝鮮人留学生・金若水がつくった組織・北風会」のことらしい

*10:1922年(大正11年)7月に信濃川発電所工事所で大倉組の朝鮮人労働者数十人が虐殺された事件(ウィキペ「信濃川朝鮮人虐殺事件」参照)

*11:1926年に神奈川朝鮮合同労働会中央委員、関東朝鮮労働組合連合会委員長。1928年に在日本朝鮮労働総同盟(在日朝鮮労総)中央執行委員長兼争議部長。1945年に在日本朝鮮人連盟(朝連)最高顧問、日本共産党中央委員・朝鮮人部部長。1950年に帰国。1951年に朝鮮労働党中央委員・社会部長。ただし現在の消息は不明で粛清説もある(ウィキペ「金天海」参照)