今日のMSN産経ニュース(7/5分)(追記・訂正あり)

■【日韓の細道】「強制連行」という魔術語 首都大学東京特任教授・鄭大均*1
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140705/kor14070511000009-n3.htm
 産経文化人・鄭の「強制連行問題研究家」(特に草分け的存在たる朴慶植*2)への言いがかりです。
 「この問題に無知でかつ文章力もない」小生ではうまく批判出来ないので鄭への批判エントリを紹介しておきます。


歌ったらアカン歌なんてあるわけないんだッ!
『ごあいさつ』
http://d.hatena.ne.jp/gurugurian/20091231/1229632409
『「マンガ嫌韓流」の強制連行否定論を検証する。』
http://d.hatena.ne.jp/gurugurian/20090430/1241098142


■【産経抄】7月5日
http://sankei.jp.msn.com/world/news/140705/chn14070503080002-n1.htm

 初日は鈴木啓久第117師団長、2日目は藤田茂第59師団長の供述書が公開された

藤田氏の名前でググって見つけた文章を『中国人民の寛大政策について(藤田茂)』(http://www.ne.jp/asahi/tyuukiren/web-site/backnumber/02/hujita_kandaiseisakunituite.htm)を参考までに一部紹介しておきます。

 私が作戦を実行した地域の住民からは、数多くの告発状が寄せられておりました。
 予審判事は「あなたは、住民が訴えているような事実を認めますか」と私に質問しましたが、私は作戦のことは思い出しましたが、当時住民をどこで何名殺したかなどは問題にもしていなかったし、何の報告も受けておらないので、まったく知らないことでした。
 「当時、住民を殺したことなど覚えていないし、知らない。しかし指揮官として、そのような事実があるなら道義上の責任は取ります」と答えました。
 1956年6月、私たちに対する軍事裁判が始まりました。正しくは中華人民共和国最高人民特別法院軍事法廷であります。
(中略)
 検事が、私たちの罪状についての起訴状朗読を行い、午前中はこれで終わりました。
 午後、裁判は続行され、被告第一号に対する証人の証言が始まったのです。この証人たちの証言の一言一句は本当に怒りと憎しみに満ち満ちておりました。その一人一人の眼光と一句一句の憎しみが、私の胸に突き刺さる思いでした。次から次へと立つ証人たちは異口同音に私を極刑に処すよう証言の最後を結んでおりました。
 その中でもっとも印象に残る証言について述べます。
 それは私が連隊長の時代、山西省安邑県に上段村という村がありますが、その部落に共産軍がいるという情報が入りましたので、「直ちに捕捉せん滅すべし」という師団命令をうけて、私は部下を指揮してその部落に向いました。夜明け前、折りしも移動しつつある敵50名と遭遇、ただちに戦闘に入りました。白々と夜が明けるころ戦闘は終わりましたが、私はまだ部落の中に敵が潜んでいるかもしれないと思い、部落の掃討を命じました。
 私は部落の城門付近に腰をすえて部落内の様子をうかがっておりました。あちらこちらで火の手があがる、単発的な銃声が聞こえる。私は「また何かやってるワイ」といった程度にしか思っていませんでした。
 しかし、このときの罪状によりますと、住民の老若男女140名を殺害したうえ、井戸に投げ込み、捕虜12名を殺害し、100余軒の民家を焼失させたのです。
 この時の証言に立った張葡萄という62歳になる老婆は、このため一家が皆殺しにされ、ただ一人生き残ったのです。老婆は当時の情況を話しているうちに段々興奮してきて、怒りのために体が震えだし、顔は汗と涙と鼻水とよだれでクチャクチャで、それは物凄い形相でした。
 老婆の白髪まじりの頭髪は憎しみで逆立っていました。
 私は元来、人の喜び、怒り、悲しみ、苦しみの表情を何度も見たことがありますが、この老婆のような凄い形相を見るのは初めてであります。なんと言いますか、怒り、憎しみ、悲しみ、苦しみ、恨み、これらの感情が一時に爆発したという表情であります。
 この老婆は髪を逆立てて、テーブルを乗り越え私に飛びかからんばかりの有り様なのです。証言という生やさしいものではありません。裁判長が幾度もなだめ、看守が、元の席へ引き戻してもすぐに私に飛びついてくるのです。また連れ戻す。また夢中で飛びかかってくる。
 私は本当にそこに立っていることができなくなりました。つらい、苦しい、まさに断腸の思いであります。心から呵責の念がわいてまいりました。もうどうでもいい、ひと思いにこの老婆に蹴るなり、噛みつくなり、打ち倒すなりして欲しいという気持ちで一杯でした。そこにからくも立ちすくんでいることで精一杯でした。
 私はこの老婆の怒りと憎しみでくしゃくしゃになった顔がまぶたに焼きついていて、生涯消えることはないでありましょう。
 このような証言を26人から聞きました。丸一日半、私はただ立ちすくんでおりました。その時間の長かったこと、これはとうてい言葉では表現できるものではありませんでした。

 先般、中国を訪問した知人が私に申しました。
「中国の人々は、過去の戦争のことは忘れましょう、将来の平和と友好のため話し合いましょうと言いました。さすが中国人は大国の人民だ。あの日本軍の侵略による損害を水に流そうというのです」と。
 私はこの言葉を聞いて大変情けなく思いました。誰が親兄弟を殺され、先祖伝来の家を焼かれてこれらを忘れられましょうか。私は「過去のことは水に流そう」と言っておられる中国人民の奥深い心情を、正しく理解する必要があると痛感いたしました。
 先年、中国帰還者連絡会の代表団が訪中した際、平頂山を訪れました。前回1966年訪問したときにはありませんでしたが、その小高いところに立派な記念館が新しく建てられておりました。この記念館に一歩足を踏み入れると、館内におびただしい白骨があります。説明を聞きますとこの山の中腹を掘り起こし取り出したものです。子どもに覆いかぶさったままの姿の親子の白骨もあります。土がついたまま累々たる白骨の山です。
 この平頂山の事件*3というのは、抗日愛国軍がこの平頂山部落にいたという理由で日本軍が部落を包囲し、三千名の住民を広場に集合させ機関銃で全員射殺し、一人一人を銃剣でとどめをさし、さらにガソリンをかけて焼却し、山を爆破して死体を埋めたという恐るべき日本軍の蛮行であります。
 平頂山には石碑が立っています。その石碑には「血と涙と恨みを心に刻み、階級の苦しみを銘記せよ」と刻まれています。侵略戦争の苦しみを忘れるどころではありません。この記念館は戦争を知らない若い世代を教育する貴重な学習の場なのです。
(中略)
 中国の東北から海南島に至るまで、かつて日本軍が侵略した地域には、中国人民の血の跡が残っているのです。このことを私たちは銘記しなければなりません。日本が中国を侵略したことは拭い去ることのできない歴史の事実であります。
 私は、侵略戦争の実態をよく見つめて侵略戦争を心の底から憎むとき、はじめて「過去のことを水に流して日中友好を願う」中国人民の心情を理解することができるのだと考えています。過去の侵略戦争を反省し、日本軍国主義の告発こそ、日中友好の基礎であると私は確信しております。
 訪中した際、周恩来*4総理は私に対して次のように述べられました。
「今度、日中両国の間に国交が回復したことはまことに喜ばしいことです。
(中略)
 しかし、本当の友好はこれからでありましょう。中国人民と日本人民がお互いにもっともっと理解を深め、その相互理解の上に信頼の念が深まってこそ、初めて子々孫々に至るまで変わることのない友好関係が結ばれることでしょう。これにはまだ永い年月がかかることでしょう。日中友好のためお互いにいっそう努力しましょう」
 私はこの言葉こそ今日、中国人民の心情であると感じております。

こうした藤田氏の言動を

彼らは、シベリア抑留を経て中国・撫順の戦犯管理所に送られ、生きるか死ぬかの極限状況で洗脳工作を受けた。

で片付けるのが産経です。もちろん中国側が藤田氏に対して「産経の言うような政治工作」をしなかったとは言いませんが「それが全てだ」「藤田の発言は本心じゃないんだ、洗脳された哀れな人間だ」「あの戦争を藤田のように反省しなくていいんだ」などというのは藤田氏に失礼であるとともに、戦争被害者に対しても無礼千万です。
 こういうことをやらかしておいて、一方で「日本は戦争を反省した」と言えるのだから産経の厚顔無恥も相当のもんです。

*1:この件での鄭の著書として『在日・強制連行の神話』(2004年、文春新書)

*2:著書『朝鮮人強制連行の記録』(1965年、未来社)など

*3:事件発生当時から既に『国際連盟において、1932年11月24日、国民政府の顧維鈞首席代表が問題にしている』。また平頂山事件の遺族が日本政府に国家賠償を求めた請求でも「請求は認められなかったが虐殺の事実自体は認定されている」。被害者数など事件の詳細はともかく、歴史捏造主義極右の主張する「事件不在論」は成立しえない(ウィキペ「平頂山事件」参照)

*4:新中国建国後、死去するまで首相。また1958年まで外相を兼務