新刊紹介:「歴史評論」8月号

特集『アジアのなかの戦争遺跡』
 詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のある論文、うまく要約できた論文のみ紹介する。
 特集タイトルは「アジアのなかの戦争遺跡」としているが、「朝鮮戦争*1」「ベトナム戦争*2」「カンボジア内戦*3」などといった「日本が戦争当事者として関わっていない物*4」は取り上げられていない。取り上げられているのは「第二次大戦*5での日本関係の戦争遺跡」なのだから特集タイトルは「日本の戦争(第二次大戦)とアジアの戦争遺跡」とでもした方がよかったかと思う。「歴史評論(外国史も取り扱う)」ではなく「日本史評論」なら「アジアのなかの戦争遺跡」でも問題ないかもしれないが(なお、その場合でも第二次大戦限定*6であることをタイトルで触れた方がいいと思う)。



■「戦跡保存の取り組みと課題」(村上有慶*7
(内容要約)
沖縄戦の戦跡保存に取り組む筆者の「沖縄戦戦跡保存」をメインにした「戦跡保存の取り組みと課題」についての論文。

参考
赤旗
『「慰安婦」と住民虐殺削除、戦跡説明文 嘉陽議員が隠蔽追及、沖縄県
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-02-25/2012022504_02_1.html
 沖縄県政(自公系)が公然と「慰安婦と住民虐殺を隠蔽する立場に立った事」への批判。戦跡保存運動においてはこうした「政治的対立」は避けられないことだろう。もちろん「負の歴史を隠蔽しよう」とする保守側が間違ってることは言うまでもないと思うが。


『社会リポート、沖縄 旧日本軍司令部など地下壕跡、大量の避妊具出土、周辺に軍専用の「慰安所」』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-06-23/2013062314_01_1.html
『沖縄・大量の避妊具出土、報道に相次ぎ反響、「軍の管理売春の証拠」』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik13/2013-07-07/2013070714_02_1.html


■「陸軍登戸*8研究所の実相をみつめて:明治大学平和教育登戸研究所資料館設置の意義」(渡辺賢二*9
(内容要約)
 明治大学文学部兼任講師として明治大学平和教育登戸研究所資料館の運営に関わる筆者による明治大学平和教育登戸研究所資料館についての説明。


参考
明治大学平和教育登戸研究所資料館公式サイト
http://www.meiji.ac.jp/noborito/
明治大学平和教育登戸研究所資料館公式ツイッター
https://twitter.com/meiji_noborito
登戸研究所保存の会」公式サイト
http://www.geocities.jp/noboritokenkyujo/
ドキュメンタリー映画「陸軍登戸研究所」公式サイト
http://www.rikugun-noborito.com/


【資料館訪問記】
鉄平ちゃんの相模原ディープサウス日記『明治大学平和教育登戸研究所資料館を見に行きました』
http://blogs.yahoo.co.jp/teppeichang0340/12318527.html
はまれぽ「陸軍登戸研究所
http://hamarepo.com/story.php?story_id=1211


【映画「陸軍登戸研究所」感想】
退屈な日々 / Der graue Alltag『【映画感想】『陸軍登戸研究所』(2012) 』
http://alltag.hatenablog.jp/entry/2014/04/18/215349
麗しき酒の宴『映画「陸軍登戸研究所」 』
http://blog.akki.jp/entries/2014/05/22

登戸研究所ウィキペディア参照)
・神奈川県川崎市多摩区生田にかつて存在した、大日本帝国陸軍の研究所。
・1939年(昭和14年)1月、「謀略の岩畔」との異名をとった陸軍省軍務局軍事課長・岩畔豪雄*10大佐によって、秘密戦の研究部門として、「登戸研究所」が設立された。
 登戸研究所の前身は1919年(大正8年)4月に「陸軍火薬研究所」が改編して発足した「陸軍科学研究所」のため、当初の正式名称は「陸軍科学研究所登戸出張所」であった。所長には篠田鐐大佐が就き、1939年(昭和14年)9月に正式発足した。1941年(昭和16年)6月に「陸軍科学研究所」が廃止され、「陸軍科学研究所登戸出張所」は「陸軍技術本部第9研究所」に改編。1942年(昭和17年)10月、陸軍兵器行政本部が設けられ、その下の「第9陸軍技術研究所」に改編。1943年(昭和18年)6月、電波兵器部門を多摩陸軍技術研究所へ移管。1945年1月、「帝国陸海軍作戦計画大綱」が発表され、本土決戦準備のため、登戸研究所は長野に移転する。
 1945年8月15日、敗戦が決定すると、陸軍省軍務課は「特殊研究処理要綱」を通達し、すべての研究資料の破棄を命令した。それらの資料のほとんどが処分され、また、ほとんどの関係者が戦後沈黙したため、長らくその研究内容は不明だった。
 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、登戸研究所第三科の関係者がアメリカ軍に協力し、 横須賀基地内の米軍印刷補給所で、偽造印刷技術を使い、共産圏の各種公文書の偽造を行ったと言われる。
 戦後、登戸研究所跡地は民間に払い下げられ、慶應義塾大学工学部が使用していたが、慶應義塾大学が日吉キャンパスの復興にともなって移転したため、1950年(昭和25年)に11万坪のうち3万坪余を慶應義塾大学明治大学に生田キャンパスとして払い下げた。
・なお、登戸研究所の建物は一時期、校舎として使用されていた。老朽化のため建物の大部分は取り壊されたものの、偽札の製造に使用された「5号棟」、「26号棟」、枯葉剤の研究が行われたと見られる「36号棟」のほか、動物慰霊碑や消火栓など当時の施設がまだ幾つか現存している。
 2010年3月29日、明治大学生田キャンパス内に資料館開館。前述の「36号棟」の建物をそのまま資料館として利用しており、当時の貴重な資料が展示されている。
・中国の経済を乱すため当時として45億円の中国の偽札がこの研究所でつくられ、30億円の偽札が中国で使用されたという。
・1948年1月26日に発生した帝銀事件では、警視庁は犯行に使われた毒物が登戸研究所が開発したものである疑いがあるとし、第二科の研究者に対し捜査が行われた。 第二科の関係者は、登戸研究所で開発されたアセトン・シアン・ヒドリン(青酸ニトリール)である可能性があると証言している。


■「戦争遺産の保存と平和空間の生産:原爆ドームの保存過程を通じて」(濱田武士)
(内容要約)
 1996年(平成8年)には世界遺産登録された原爆ドームだが、過去には取り壊し論があったこと、そうした論に対し、最終的に決着がついたのは1967年(昭和42年)の保存工事であることが指摘されている。

参考
広島市原爆ドーム」公式サイト
http://www.city.hiroshima.lg.jp/toshiseibi/dome/

原爆ドーム(ウィキペ参照)
広島市に投下された原爆の惨禍を今に伝える被爆建造物。1915年(大正4年)に広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていた。ユネスコ世界遺産文化遺産)に登録されており、「二度と同じような悲劇が起こらないように」との戒めや願いをこめて、特に負の世界遺産と呼ばれている。
サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年(昭和26年)頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていた。1955年(昭和30年)には丹下健三の設計による「広島平和記念公園」が完成した。この公園は、原爆ドームを起点とし、原爆死没者慰霊碑広島平和記念資料館とを結ぶ軸を南北軸として設計されており、原爆ドームをシンボルとして浮き立たせるものだった。原爆ドーム原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになったが、1960年代に入ると、年月を経て風化が進み、安全上危険であるという意見が起こった。一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になった。広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていたが、流れを変えたのは地元の女子高校生、楮山ヒロ子の日記である。彼女は1歳のときに自宅で被爆し、15年後の1960年(昭和35年)、「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため16歳で亡くなった。この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎や『広島折鶴の会』が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年(昭和41年)に広島市議会は永久保存することを決議する。翌年保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら、現在まで保存されている。
 広島市単体での保存・管理が続いていたが、被爆50年にあたる1995年(平成7年)に国の史跡に指定され、翌年には、ユネスコ世界遺産文化遺産)への登録が決定された。


■「マレーシア・中国の慰安所跡を訪ねて」(吉池俊子)
(内容要約)
 慰安婦問題に取り組む筆者による「マレーシア・中国*11慰安所跡」訪問記。まあ、「慰安婦問題に詳しい人」には今更言うまでもないのだが慰安婦は「朝鮮半島限定」ではありません。


参考
【マレーシア】
林博史*12
マレー半島の日本軍慰安所
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper08.htm
マレー半島における日本軍慰安所について』
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper09.htm
マレー半島ポートディクソンの日本軍慰安所跡』
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper61.htm

【中国】
林博史『解説 中国人元「慰安婦」の証言』
http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper05.htm
人民日報『アジアで現存する最大規模の日本軍「慰安所」旧址を文化財に』
http://j.people.com.cn/94638/94658/8568693.html
時事通信『台湾も「抗日」「慰安婦」記念館=来年開設の意向』
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201407/2014070700817


■科学運動通信『彦根市史問題で争われたこと』(上野輝将*13
(内容要約)
『新修彦根市史 通史編 現代』執筆者の一人である筆者・上野氏による彦根市批判。


参考
『新修彦根市史 通史編 現代』のページ(上野氏ら執筆者による意見表明のページ)
http://hikoneshishimondai.sitemix.jp/index.htm
京都新聞
彦根市史「現代」発刊を中止 労働争議解釈で溝』
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20131029000171
『執筆学者、発刊求め提訴も 彦根市史刊行中止問題』
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20131031000181
『滋賀・彦根市史、原稿修正の実務協議へ 執筆者と市合意』
http://kyoto-np.jp/politics/article/20140418000150
毎日新聞『新修彦根市史:「現代」刊行中止 市と執筆者、歴史認識など対立 /滋賀』
http://mainichi.jp/feature/news/20131030ddlk25040529000c.html
産経新聞『市史刊行中止で執筆陣は調停申し立て、住民監査請求も出た背景は… 滋賀・彦根市
http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140217/waf14021708100006-n1.htm


■書評『今井昭彦*14著「反政府軍戦没者の慰霊」*15』(長南伸治)
(内容要約)
・従来の「戦没者慰霊研究」は「靖国護国神社」に偏っていたが、靖国護国神社が対象にしない反政府軍戦没者(例:佐賀の乱萩の乱神風連の乱西南戦争などの士族反乱戊辰戦争での彰義隊奥羽越列藩同盟等)も研究することによって「近代日本の戦没者慰霊」の全体像が分かるというのはその通りだろう。
 そうすることにより「靖国は敵味方の区別のない慰霊施設」というデマも批判出来るわけである。
・なお、書評の指摘で興味深いのは

何ら証拠がないにもかかわらず「神風連の乱」の戦没者が後に靖国に合祀されたと認識している人が熊本に存在している

ということである。なお、今井氏が調査した限りでは「合祀の真偽」は不明らしい。
 今井氏は「そうした認識(ある種の都市伝説)が生まれた経緯については今後の研究課題」としているそうだが、是非解明して欲しいものだ。
・いくつか書評が今井氏批判をしているので紹介しておく。
1)今井氏は第2章「第二章 会津戊辰戦役における東軍戦没者の慰霊」で、

1874年(明治7年)に「藩戦没者を祀る招魂社設立」を明治新政府に認められた長岡藩に対し、会津藩は同じ賊軍藩でありながら明らかに戦没者慰霊の面で差別待遇があった

としているが評者はそういうためには
ア)長岡藩の「招魂社設立要求」をどういう経緯で明治新政府は認めたのか
イ)長岡藩、会津藩以外の賊軍藩の戦没者慰霊はいかなるものだったのか
を検討する必要があるが、少なくとも本書においてはそうした検討がされていないと批判している。
2)今井氏は「第三章 西南戦役における戦没者の慰霊」で、

・1889年(明治22年)年の大赦による西郷*16への正三位追贈後は政府の西郷再評価が行われ、1922年(大正11年)には西南戦争戦没者を祀る南洲神社が設立されたこと、つまり「靖国護国神社というシステムからは排除されながらも賊軍戦没者としては破格の待遇だったこと」に触れ
・そうした状況について「政府幹部に西郷への仲間意識が強く残っていたから」とし、その根拠として鹿児島県令・岩村通俊*17の回想を引用している

が、岩村の回想は「岩村の意識」を知る上では重要だが、「政府幹部の意識」とまで一般化していいかは疑問である。また仲間意識というなら「西郷同様仲間であったはず」の「元明治新政府幹部たち」がおこした「萩の乱前原一誠*18)」「佐賀の乱江藤新平*19島義勇*20)」についての明治新政府の扱いにも触れて欲しいと評者は批判している。


■書評『鄭栄恒「朝鮮独立への隘路:在日朝鮮人の解放5年史*21」(樋口雄一*22)』
(内容要約)
 日本においては「終戦直後在日朝鮮人史」を扱った研究は少なく、その意味で価値があると評者は評価している。
 なお、本書と同じ時期を扱った最近の著作としては、呉圭祥*23『ドキュメント在日本朝鮮人連盟:1945〜1949』(2009年、岩波書店)がある。

*1:ウィキペディアに寄れば韓国には「戦争博物館(ただし朝鮮戦争限定ではない)」が北朝鮮には「祖国解放戦争勝利記念館」がある(ウィキペディア「戦争記念館(韓国)」、「祖国解放戦争勝利記念館」参照)

*2:たとえば、ベトナムホーチミン市には「戦争証跡博物館」がある(ウィキペディア戦争証跡博物館」参照)

*3:たとえばポルポト時代の強制収容所「トゥール・スレン収容所(暗号名S21)」は現在「国立トゥール・スレン虐殺犯罪博物館」になっている(ウィキペディア「S21 (トゥール・スレン)」参照)

*4:朝鮮戦争ベトナム戦争はともにアメリカの兵站基地としては関わってますけど

*5:つまり、それ以前の戦争の遺跡(例:函館戦争の五稜郭)については取り上げられていない。

*6:日清戦争義和団事件(北清事変)などは出てこないと言うこと

*7:著書『日米地位協定:基地被害者からの告発』(共著、2001年、岩波ブックレット)、『沖縄修学旅行(第3版)』(共著、2005年、高文研)

*8:研究所の所在地が「生田」であるにもかかわらず「登戸」の名がついたのは創立当時の最寄り駅が小田急電鉄「稲田登戸駅(現在の向ヶ丘遊園駅)」だったためと考えられる。

*9:著書『陸軍登戸研究所と謀略戦:科学者たちの戦争』(2012年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*10:1937年(昭和12年)、防諜・謀略活動を目的として新設された参謀本部第8課の主任として秘密裡に進められた汪兆銘樹立計画に関与。1938年(昭和13年)には日本初のスパイ学校、後方勤務要員養成所(のちの陸軍中野学校)を設立。

*11:雲南省・龍陵慰安所資料館

*12:慰安婦問題の著書として『共同研究・日本軍慰安婦』(共著、1995年、大月書店)、『「村山・河野談話」見直しの錯誤:歴史認識と「慰安婦」問題をめぐって』(共著、2013年、かもがわ出版)など

*13:著書『近江絹糸人権争議の研究:戦後民主主義と社会運動』(2009年、部落問題研究所)

*14:著書『近代日本と戦死者祭祀』(2005年、東洋書林

*15:2013年、御茶の水書房

*16:参議、陸軍大将、近衛都督

*17:鹿児島県令、会計検査院長沖縄県令、北海道庁長官、山県内閣農商務大臣などを歴任

*18:参議・兵部大輔

*19:参議・司法卿

*20:北海道開拓使判官、秋田権令などを歴任

*21:2013年、法政大学出版会

*22:著書『戦時下朝鮮の農民生活誌:1939〜1945』(1998年、社会評論社)、『戦時下朝鮮の民衆と徴兵』(2001年、総和社)、『日本の朝鮮・韓国人』(2002年、同成社近現代史叢書)、『日本の植民地支配と朝鮮農民』(2010年、同成社近現代史叢書) など

*23:著書『在日朝鮮人企業活動形成史』(1992年、雄山閣出版