新刊紹介:「歴史評論」2月号

★特集「砂川闘争から60年:地域の視点から」
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のあるモノ、「俺なりに内容をそれなりに理解し、要約できたモノ」のみ紹介する。

■『敗戦後の砂川村*1勤労者組合の軌跡:砂川闘争につながる一断面』(沖川伸夫)
(内容要約)
・砂川闘争の前史として闘争の重要な構成要素である「砂川村勤労者組合(後に砂川町勤労者組合)」について論じている。
・砂川村勤労者組合(1948年結成)は砂川村の基地労働者、郵便局員、教員、東芝府中工場労働者など広範な労働者から成り立っており企業別組合の限界を打破しようと結成された物と思われる。
 ただし結成当初は「相互扶助(物品の共同購入など)」「文化運動(映画上映会、野球大会など)」が主たる活動であり政治性はそれほど強くはない。
・しかし次第に文化活動などの充実のためにも政治活動が必要との考えが強まっていく。1950年に勤労者組合は公民館の設立、立川バスの停留所新設、保育園の新設などを求めて積極的に村当局や村議に陳情をしていく。
・組合擁立候補として1951年の村議選に萩原一治が、1952年の村教育委員会選挙*2に天城仁朗が立候補してともに当選を果たす。
 また1954年に開設された砂川公民館の初代館長には組合初代委員長の志茂威が任命された。
 天城が教育委員になっていたとはいえ、「5人いる教育委員」のうち天城だけの主張だけでは志茂の館長就任はなかったと思われる。志茂の館長就任の詳しい経緯は現時点では不明だが、勤労者組合に好意的な態度だった「宮崎伝左右衛門*3派(宮伝派)」の宮崎伝左右衛門、内野茂雄が委員だったことが影響しているのではないかと見られる。勤労者組合と宮伝派は「反・若松貞次郎町長」という意味で共闘することが少なくなかった。
・1955年4月30日の砂川町長選挙では現職の若松町長は都議選(4/23)への鞍替え出馬*4を表明、助役の砂川三三を擁立した。これに対し、宮伝派はリーダーの宮崎を町長候補として擁立した。組合は宮伝派と政策協定を締結、選挙では7票の僅差ながら宮崎が町長に当選する。
 後に起こった砂川闘争(1955年5月)では「反対派=宮伝派(現町長派)+勤労者組合」、「条件派(基地を受け入れた上で条件闘争をする)=若松派(前町長派)」ということになるが、「宮伝派+勤労者組合」の共闘がスムーズに言った背景には闘争以前から一定の協力関係が存在することがあった。


■『砂川闘争における反原水爆の意味』(今井勇)
(内容要約)
 砂川闘争は「先祖伝来の土地を守る」と言う意味合いでスタートしたが、冷戦を背景に、町外の支援もあり次第に「反原水爆」という性格を強めていく。
 こうした動向はいわゆる「条件派」も無視できず条件派は「自分らも反原水爆であり立川基地の是非と反原水爆は別問題である」という釈明を迫られることになる。


■文化の窓『鳥取県日野町における山陰史料ネットの活動―各地の史料ネットから7―』(小林准士)
(内容要約)
・2000年の鳥取県西部地震を機に誕生した山陰資料歴史ネットワーク(略称:山陰資料ネット)の紹介。


■書評:ユウジ・イチオカ*5(市岡雄二)著『抑留まで:戦間期の在米日本人』(2013年、彩流社) (和泉真澄*6
(内容要約)
・2002年に死去した市岡雄二(カリフォルニア大学UCLA校教員)の遺稿集。評者も指摘するように当然ながら「一番新しい論考でも10年以上経過している」わけで、その後の研究の視点を反映していない歴史的限界がある点に注意が必要。
・第一部の「3章・見学団:二世訪日研修のはじまり」「4章・国語学校:日本語学校をめぐる議論」において市岡は「二世訪日研修」「二世対象の日本語学校」の存在を指摘し、日系移民にとっては「日本とのつながりは重要であり続けた」「こうした日系の日本重視を理解せずして太平洋戦争時の日系強制収容は理解できない*7」としている。評者に寄れば従来の「米国での日系移民研究」は「日系がいかに米国社会に適応しようとしたか」に重点が置かれており、この点で市岡の指摘は重要である。
 また「4章・国語学校:日本語学校をめぐる議論」で市岡が「福永マイルズ寛事件(以下、福永事件)」を紹介していることを評者は評価している。福永事件とは1928年に日系二世が起こした身代金目的誘拐殺人事件である。評者によれば、市岡がこの事件について論じるまでは日系研究においては福永事件についての研究は乏しく、それは「日系を美化したいという『日系の歴史』研究者(多くは市岡のような当事者である日系)の願望を反映した歪み」ではないのかという理解が市岡にあったと見られる。
 ググって見つけた福永事件について触れたサイトを紹介しておく。

http://www.asahi-net.or.jp/~rf2s-asm/juddsx/lmjudd.htm
■フクナガ裁判
 1928年9月、10才の少年ギル・ジェミソンが誘拐され、1万ドルの身代金を要求されるという事件がおきました。ハワイアン・トラスト・カンパニーの副社長である父親が指定の公園にて覆面の東洋人に4千ドルを渡したが、犯人は逃亡、少年は戻りませんでした。
 当初より犯人は東洋系、日系人らしいとの疑いから大々的な捜索が日系人に対しても行われました。
 事件発生から三日後、ロイヤルハワイアンホテル近くにて少年の惨殺死体が発見されました。
 その後、身代金として用いられた紙幣から容疑者が割り出されます。犯人はマイルス福永寛という日系二世の青年でした。当時まだ19才。
 福永は貧困な家庭にうまれ、ハワイ信託会社*8の集金人に親が辱められるのを見、同社への恨みをつのらせていたといいます。ただ、なんの罪もない少年を死に至らしめたことについては悔恨の念を示し、身代金の用途については両親を日本へ帰すために使いたかったと陳述しました。
 1928年10月、ホノルル巡回裁判所にて福永は死刑の宣告をうけます。まじめな文学青年である彼の態度や、動機への同情から日系人の間で再審運動か起こり、死刑執行は延期されます。しかし精神異常を理由とする再審要求は理由薄弱として却下、1929年10月、ワシントン.D.Cの大審院は再審要求を最終的にしりぞける決定をくだしました。同年11月12日、ハワイ準州知事ローレンス・M・ジャッドは死刑執行状に署名。

 従来の例から県知事(準州知事)は、なかなか死刑執行状に署名をしないものなのに、判決から一ヶ月と経たぬうちに署名をしたことなどで、日系人間には「白人は日本人をバカにしている」と憤激した者が多かった。
(牛島秀彦著「行こか メリケン、帰ろか ジャパン:ハワイ移民の百年」*9より)

 ジャッド知事が実際にこの事件についてどのような意見をもっていたのでしょう。彼の自伝を捜しても、この件についての記述は見当たりません。ただ、言えるのは緊密な白人社会において、福永にたいして有利な行動は取り難い状況だっただろうということです。
(中略)
 1929年11月19日に死刑は執行されました。


・第二部の『7章・忠誠の意味:カズマロ・バディ・宇野の場合』、『8章・日本人移民のナショナリズム:一世と日中戦争』、『9章・真珠湾前夜の国家安全保障:1941年立花スパイ事件と連坐した一世指導者ら』では「米国に忠誠を誓いファシズム日本と闘った日系」という「日系によって長く宣伝されてきたセルフイメージ*10」に反するが故に、日系研究においてあまり取り上げられてこなかった問題が取り上げられている。
 7章の「カズマロ(一麿)・バディ・宇野」とは日中戦争において戦場ジャーナリストとして日本軍に従軍、日本の立場からの戦争宣伝を行った人物である。
 市岡は宇野のことを「マージナルマン*11」と表現している。
 8章では日系一世が「帰化が法的に許されていないこと」もあり、日本への愛着を強く持ち続け、日中戦争時に日本軍への献金や応援手紙の送付を行っていたこと、そうしたことが米国人の日系人への猜疑心を招き後の「強制収容」につながったとしている。ただし一方で市岡はこうした「日系の日本軍支援」は
1)他の民族集団も自国に対して行っていたことであり日系に限られたことではないこと
2)日系の行為は少なくとも違法行為ではないこと
も指摘している。
 9章では「1941年に発生した立花スパイ事件」をとりあげ「米国に忠誠を誓いファシズム日本と闘った日系」という「日系によって長く宣伝されてきたセルフイメージ」への批判を行っている。

参考

■立花事件(ウィキペ「立花止」参照)
 1935年(昭和10年)、米国で情報活動を行っていた海軍軍人・宮崎俊男が米国当局に逮捕され、日本海軍の対米情報網は壊滅した(宮崎は国外追放処分を受けた)。海軍軍人・立花止はその情報網の再建を行っていたが、1941年(昭和16年)5月、米太平洋艦隊司令部の下士官から米海軍の戦艦射撃成績表の入手を図る。ところがこの下士官は逆スパイで、立花は逮捕された。立花は外交特権を有しておらず、起訴となれば服役の可能性が高かった。この時期は駐米大使・野村吉三郎、駐米武官・横山一郎らが国務長官コーデル・ハルと外交交渉を行っていた時期にあたり、影響を与えかねない事態であった。野村はウェルズ国務次官とスターク海軍作戦部長を、横山は海軍情報部長を訪問し、穏便なかたちでの収拾を図った。この事件は立花を国外追放にする政治的決着で終結した。

 なお、評者は問題点として以下を指摘している。
1)市岡は「移民に出た日本人は共通の日本的価値観を持っていた」とするがこうした考えは現在の研究成果からは疑問視せざるをえない。移民には「出身地域」「職業」「経済的地位」「移民した時期」などにより無視できない差異があった。
2)翻訳の問題。
 翻訳者は脚注を全て「英文のママ」としているが、確認が難しい出典表記*12はともかく少なくとも「説明的部分」については翻訳して欲しかった。
 また従来「強制収容」「帰化不能日本人*13」「境界人」と訳されている言葉を訳者はそれぞれ「大量抑留」「国籍取得不適日本人」「傍流の人間」と訳しているが、
1)誤解を招かないため「従来訳」と同じ訳語にすべきではなかったか
2)あえて従来訳と異なる訳を使うのならばその理由について簡単に説明すべきだ
としている。

*1:砂川は1954年までは「砂川村」、1954〜1963年までが「砂川町」、1963年以降は立川市の一部

*2:当時は教育委員は「首長の任命制」である今と違い公選制

*3:砂川闘争時の砂川町長

*4:都議選において宮崎は次点で落選する

*5:著書『一世:黎明期アメリカ移民の物語り』 (1992年刀水書房・歴史全書)

*6:著書『日系アメリカ人強制収容と緊急拘禁法』(2008年、明石書店

*7:もちろん市岡は強制収容を正当化したり「日系は日本とのつながりなど切って捨てもっと同化すべきだった」としているわけではなく「単に日本が米国相手に戦争したから日系は収容された」とする理解は不適切であるとしているにすぎない。

*8:原文のまま。「ハワイアン・トラスト・カンパニー」と最初に書くのならどちらか一方に統一して欲しい。

*9:1978年、サイマル出版会→後に、1989年、講談社文庫

*10:もちろんこうしたイメージが宣伝されてきたのはそうした方が「強制収容批判」など日系差別批判がやりやすいと言う面があることは否めない。

*11:一般には「境界人」と訳されるが本書では「傍流の人間」と訳されている

*12:日本語の一次資料の場合、「一次資料の名称」通りに訳すべきだし、また「既に邦訳がある英語文献」については「その邦訳通りに訳すべき」だろうがそれは相当困難なことなのでそこまでは要求しがたいと評者はしている。

*13:帰化が法的に認められない日系一世のこと