石上三登志「名探偵たちのユートピア」その3:ダシール・ハメットの晩年について

・石上本では10章でハメットを扱っています。
・ハメットの「日本で有名な作品」と言えば
 黒澤明「用心棒」(1962年)の元ネタだと言われる「血の収穫」(1929年)
 1941年にハンフリー・ボガート*1で映画化された「マルタの鷹」(1930年)でしょう。で、石上氏曰く「1934年に長編『影なき男』を書いてからは長編は書いてないし、短編も多分書いてないんじゃないか」とのこと(ハメットの没年は1961年)。
 「へえ、じゃあ晩年って何してたんだろう?」と思ってウィキペを見てみます。

 1931年、劇作家リリアン・ヘルマン*2と出会い、その後30年間を共に過ごすことになった。その関係は映画『ジュリア』で描かれており、ハメットはジェイソン・ロバーズ(このときの演技で1977年アカデミー助演男優賞受賞*3)、ヘルマンはジェーン・フォンダ*4が演じている。
 その後のハメットは、自作の映画化で収入が得られるようになったこともあってか、創作意欲は衰えている(ただし、後半生を共に過ごしたリリアン・ヘルマンはこの見解に対して否定的である。彼女によると、執筆活動はずっと続けていたが、作品を完成させることができなかった。何故、完成させられなかったのかは分からないと、自らの自伝で述べている)。
 1937年にはアメリ共産党に参加している。
 真珠湾攻撃による太平洋戦争勃発後の1942年、彼は陸軍に志願した。第一次世界大戦結核を患った犠牲者であり、共産主義者だったが、従軍が認められるよう働きかけた。戦時中のほとんどをアリューシャン列島で陸軍の新聞を作る下士官(軍曹)として過ごした。その後肺気腫で除隊している。
 戦後は政治活動に戻ったが、かつてほど熱心ではなかったという。1946年6月5日、公民権議会 (Civil Rights Congress) (CRC) の議長に選ばれ、その後はCRCの活動に注力するようになった。1949年11月4日、CRCの保釈基金連邦政府の転覆を図ったとして共謀罪で捕らえられた11人の保釈に使われたことで、アメリカ中の注目を集める事態となる。1951年7月2日、弁護側の敗訴が濃厚になると、被告のうち4人が逃亡。裁判所は逃亡者への召喚状をCRC評議員に送った。1951年7月9日、ハメットは裁判所に出廷して証言した。このとき政府側は保釈基金に寄付した人々が逃亡者をかくまっている可能性があるとして、そのリストを提出することを要求したが、ハメットはそれを拒否した。ハメットは合衆国憲法修正第5条を盾に質問に答えることを拒否し、CRCの文書にある彼の署名を識別することさえ断わった。その結果、法廷侮辱罪で訴えられ、有罪の判決が下され、ウェストバージニア連邦刑務所で服役した。
 1953年3月26日、上院の委員会で証言させられたが、委員会への協力を拒んだためブラックリストに載せられることになった。

 まあ、ハメットの政治的立場と小説の価値はまた別物ですが、豆知識としてメモしておきます。

*1:アフリカの女王』(1951年)でアカデミー賞主演男優賞を受賞

*2:政治的立場としては勿論左派です

*3:ロバーズはウォーターゲート事件を描いた「大統領の陰謀」ではワシントンポスト編集主幹ベン・ブラッドリーを演じ1976年アカデミー助演男優賞を受賞している。

*4:「コールガール」(1971年)、「帰郷」(1978年)でアカデミー主演女優賞受賞