新刊紹介:「歴史評論」4月号

★特集「現代アメリカとは何か?:始点から考える」
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のあるモノ、「俺なりに内容をそれなりに理解し、要約できたモノ」のみ紹介する。

■『「帝国」と「帝国主義」:アメリカ帝国(主義)論研究史断章』(横山良)
(内容要約)
 筆者は近年、日本でのアメリ近現代史研究において、高橋章『アメリカ帝国主義成立史の研究』(1999年、名古屋大学出版会)など、一部を除いて「アメリカ帝国主義論」という視点からの研究が減っているように思うが、それでよいのかとして疑義を呈している。


■『移民国家アメリカの優生学運動:選び捨ての論理をめぐって』(貴堂嘉之*1
(内容要約)
 アメリカの初期移民政策において長く「優生学理論」が大きな影響を与えたことが指摘されている。

優生学(ウィキペ参照)
・スティーヴン・ジェイ・グールドは、米国において1920年代に成立した移民制限は、自然の遺伝子プールから「劣った」人種を排除することを意図した優生学的目標によって動機付けられたものであったと主張している(グールド「人間の測り間違い:差別の科学史(上)(下)」(2008年、河出文庫))。
・20世紀初頭、米国は、南欧と東欧から膨大な量の移民を受け入れるようになった。ロスロップ・スタッダードやヘンリー・ラフリンら優生学者たちは、もしこの先、移民が制限されないとするならば国の遺伝子プールを汚染することになる劣等人種が国中に満ち溢れることになるとする議論を立ち上げた。


■『冷戦期アメリカ軍の軍人家族保護政策』(小瀧陽)
(内容要約)
 米国において徴兵制が廃止されるのは1973年だがそれ以前からアメリカの兵士のメインは「志願兵」であった。「志願兵の確保」のため、政府はさまざまな軍人の福利厚生に力を入れたがその一つが「住宅ローン制度の充実」など家族への福利厚生政策であった。
 ただしこうした福利制度は「公民権運動」が本格化する以前の1960年代前半までは「黒人が対象外であったり、白人より給付が低かったりする」人種差別的な代物であった。


■『華北分離工作の展開と天津日本専管租界居留民社会の変容』(松村光庸)
(内容要約)
 「華北分離工作」と同時期に「天津日本専管租界」に「天津電業*2、鐘ヶ淵紡績*3、東洋製紙、トヨタ自動車」など日系企業が多数進出していることを指摘、「中国進出を望む財界の要望」が「軍部の華北分離工作」を進展させ、「華北分離工作の進展」がさらに「財界の進出を促進する」と言う関係にあったと主張する。
 もちろんこうした「華北分離工作の進展」は日中間の関係を深刻化させるものであった。

華北分離工作(ウィキペ参照)
・日本が北支五省(河北省・察哈爾省・綏遠省*4山西省山東省)で行った一連の政治的工作の総称。
・北支一帯を国民政府の影響下から切り離し、日本の支配下・影響下に置くための工作であった。
・中国側の呼称は、華北事変で、『中華民国史大辞典』では、1935年5月以降の日本軍による一連の「華北自治運動」から、宋哲元をトップとし、日本に対抗する冀察政務委員会の設置までの期間が該当し、「満州国を日本が建国した満州事変(1931年)」・上海事変(1932年)・「日中全面戦争に突入した盧溝橋事変(盧溝橋事件)(1937年)」と並ぶ「事変」として認識されている(内田尚孝『華北事変の研究:塘沽停戦協定と華北危機下の日中関係・1932〜1935』(2006年、汲古書院)参照)。
・1934年12月7日、日本の陸海外三省関係課長間で「対支政策に関する件」が決定され、その中で北支に国民政府の支配力が及ばないようにすることや、北支における日本の経済権益の伸張、親日政権の樹立などが目標に掲げられた。また、1935年1月初旬に関東軍が開催した「対支蒙諜報関係者会同」(大連会議)でも同様の方針が唱えられた。
 こうして1935年(昭和10年)、支那駐屯軍関東軍は、それぞれ軍事力を背景に国民政府と2つの協定(6月10日の梅津*5・何応欽協定、6月27日の土肥原*6・秦徳純協定)を結び、河北省、察哈爾省から国民党勢力を撤退させた。
 11月3日に中国が幣制改革を実行すると、日本軍は北支における国民政府の経済的支配力強化を恐れて、塘沽協定による非武装地域を管轄する傀儡政権として冀東防共自治委員会(後の冀東防共自治政府)を11月25日に樹立した。これに対し、国民政府は日本軍の圧力をかわすため、12月18日に河北省・察哈爾省を管轄する冀察政務委員会を設置し、緩衝地帯を設定した。
 1936年1月13日、岡田啓介*7内閣は「第一次北支処理要綱」を閣議決定したが、これは北支分離方針を国策として決定したものといえる。4月中旬には支那駐屯軍の増強を決定し、5月〜6月に北平(今の北京)・天津・豊台などに配置していった。これに対して国民政府は反対の意向を申し入れ、北平・天津などでは学生・市民による北支分離反対デモが起きる事態となった。中国人の抗日意識は大きく高まり、新たに日本軍が駐屯することになった豊台付近では、日中両軍による小競り合いがたびたび起こり、また中国各地で日本人襲撃事件が多発するようになった。
 日本は8月11日には「第二次北支処理要綱」を制定。北支五省に防共親日満地帯設定を企図したが、11月の綏遠事件において中国軍が日本軍(実質的には徳王配下の内蒙古軍)に勝利したことによって中国人の抗日意識はさらに大きなものとなり、さらに12月には西安事件が起こった。
 日本ではこれを受け、1937年4月16日の「第三次北支処理要綱」において、華北分離工作の放棄も検討されたが、確固とした政策とはならず、盧溝橋事件を契機に日中全面戦争に突入していくこととなった。

*1:一橋大学教授。著書『アメリカ合衆国と中国人移民:歴史のなかの「移民国家」アメリカ』(2012年、名古屋大学出版会)。個人サイト(http://www.soc.hit-u.ac.jp/~kido/

*2:天津を営業区域とした電力会社、日中合弁企業だが、資金面、人事面共に日本側の色がより強い。

*3:後のカネボウ。経営多角化を進め食品や化粧品に進出するが元々は紡績企業

*4:察哈爾省・綏遠省は現在の内モンゴル自治区の一部にあたる。

*5:陸軍次官、関東軍司令官、参謀総長など歴任。戦後東京裁判終身刑(服役中に病死)。1978年(昭和53年)に靖国に合祀された。

*6:関東軍奉天特務機関長、ハルビン特務機関長、陸軍教育総監など歴任。戦後東京裁判で死刑判決。1978年(昭和53年)に靖国に合祀された。

*7:田中、斎藤内閣海軍大臣を経て首相