■萩生田氏、70年談話は閣議決定を
http://www.sankei.com/politics/news/150802/plt1508020007-n1.html
ウヨ的な文言を談話に入れたら「公明党の反対で閣議決定なんかできそうにない」「仮に閣議決定しても国内外からすさまじい非難が来る、政権存続がやばくなる(特に安倍が恐れてるのは米国)」との判断の下に安倍は「閣議決定しない」と言ってるのにそう言う安倍の判断への理解が萩生田に全くないらしい辺り本当に絶句です。
萩生田は「公明党も米国も俺が説得するから安倍さん安心してください」なんてんじゃなくて単に「僕は閣議決定したいんだ!」てだけですからね。「閣議決定したいて、公明党を、米国をどう説得するんですか、萩生田さんが説得するんですか?」などと聞いたら「公明党説得は自民党党三役の仕事、米国説得は岸田外相と外務省の仕事だろ、俺の仕事じゃねえよ」などと平気で言う無責任男が萩生田でしょう。
「どう実現するか」というプランがなくてただ「実現したいんだ!」て萩生田は本来「絶対に政治家になってはいけないタイプの人間」でしょう。
■【書評】静岡大教授・楊海英*1が読む『スターリン*2と新疆 1931〜1949年*3』寺山恭輔著
http://www.sankei.com/life/news/150802/lif1508020009-n1.html
いつの間にかすっかり「産経文化人」がすっかり板についてきた「内モンゴルのペマ・ギャルポ」楊先生です。そして今や「専門のはずのモンゴルネタ(特に内モンゴルネタ)」だけではなく「中国叩きネタなら何でもOKやで」化しています。「楊が痛すぎる」「楊も完全に終わったな」と思うのは俺だけではないと思います。
今回もウイグルネタという「楊先生の専門外のネタ」です。
日本の4倍もの広さを誇る新疆は、「アジアの遠い奥地」や「シルクロードの一部」とのイメージが強いが、実は1931年の満州事変をきっかけに、モンゴル人民共和国と同じくらい、ソ連の内政と外交に影響を与えつづけた地政学上の要衝だった史実を著者は整理している。
と書いて「ウイグルと『ワシの専門』モンゴルは密接に関係してるんや!。べ、別にワシが反中国の産経文化人やから専門外のウイグルに手を出してるわけと違うでえ」と言い訳する楊先生ですが。
まあ、それはともかく。
「スターリンと新疆」と言う本のタイトルからして本の内容のメインは「1931〜1949年にスターリンソ連が今の新疆ウイグル自治区に対してどういう考えのもとにどういう政治的働きかけしてたか」つう話でしょう。
あくまでもメインは「中国共産党や中国国民党」ではなく「スターリンソ連」のわけです。
しかし「盛世才*4のウイグル統治はウイグル人無視で酷い」「今の中国共産党のウイグル統治も盛世才並みに酷い」となって「スターリンソ連の新疆への働きかけ」がどっか行ってしまうのはさすが「反中国」楊先生です(もちろん褒めてない)。
また「盛世才(1934〜1944年まで新疆省政府主席)」に触れても何故か「1944年の盛失脚以降」について触れない楊先生です。本の副題が「1931〜1949年」なんですから「盛失脚後の新疆」についても簡単にでも触れないとまともな書評とは言い難いんじゃないか。
ちなみにウィキペディアに寄れば盛失脚以降の新疆省主席は「呉忠信*5(1944年〜1946年)」「張治中*6(1946〜1949年)」です。
また、「新中国建国後」、新疆ウイグルの中心的指導者として活躍した人物が「セイプディン・エズィズィ*7」と言う人物です(ウィキペ「セイプディン・エズィズィ」参照)。
*1:著書『草原と馬とモンゴル人』(2001年、NHKブックス)、『モンゴル草原の文人たち:手写本が語る民族誌』(2005年、平凡社)、『チンギス・ハーン祭祀:試みとしての歴史人類学的再構成』(2005年、風響社)、『墓標なき草原(上)・(下):内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(2008年、岩波書店、)『続・墓標なき草原:内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録』(2011年、岩波書店)、『中国とモンゴルのはざまで:ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(2013年、岩波現代全書)、『植民地としてのモンゴル:中国の官制ナショナリズムと革命思想』(2013年、勉誠出版)、『チベットに舞う日本刀:モンゴル騎兵の現代史』(2014年、文藝春秋社)、『モンゴルとイスラーム的中国』(2014年、文藝春秋社)、『ジェノサイドと文化大革命:内モンゴルの民族問題』(2014年、勉誠出版)、『狂暴国家中国の正体』(2014年、扶桑社新書)など
*3:この期間の新疆の実質的トップの一人は盛世才(1934〜1944年まで新疆省政府主席)。
*4:『1930年に当時の新疆省(現在の新疆ウイグル自治区)政府の招きで軍官学校教官に就任。1933年に蒋介石国民党政府に新疆辺防督弁に任命され新疆省政府の実権を握る。1934年には新疆省政府主席に任命され名実ともに新疆省政府のトップとなる。1934年には、タシケント(ウズベク共和国の首都)の中央アジア大学への留学生派遣事業が始められ、1935年5月から、ソ連より借款を、6月からはコミンテルンより要員派遣を受けるなど、ソ連からの人的、経済的な支援の下で盛は政権基盤を強化した。1936年には、「日本帝国主義勢力の浸透を防ぐため」と称して、新疆省への入境に査証を義務化し、中国内地からの影響を遮断し、新疆を事実上独立国のように統治した。これに対し、中国国民政府は、ソ連からの軍需物資の輸送ルートとして新疆を重視しており、抗日戦争に協力していた盛への批判を控えざるを得なかった。1939年、盛はモスクワを訪れてスターリンと会談し、ソ連共産党への入党を申請し、ソ連との結びつきの強化を謀った。新疆への影響力が大きくなったソ連はイギリス勢力の新疆からの駆逐を求めたため、1939年3月にはイギリス領インド人の新疆省からの追放令が出された。1942年、独ソ戦でのソ連側の戦況悪化を見た盛は、ソ連に見切りをつけ、国民党政府に寝返ることを決意した。盛は、8月に起きた実弟・盛世騏の暗殺事件を、中国共産党によるものと断定して共産党員を逮捕し、国民党政府への忠誠を表明した。1943年には、陳潭秋(新疆省中国共産党代表・八路軍新疆省駐在事務所代表)、毛沢民(毛沢東・中国共産党主席の弟)ら中国共産党員が処刑された。これに対し、国民党政府は、新疆に軍を派遣し、省政府の接収を図った。1944年、国民党政府の圧力に屈した盛は、国民党政府の農林大臣に任命される名目で、新疆を離れることを余儀なくされ、「新疆王」による10年間の統治は幕を閉じた。後任には、国民党から派遣された呉忠信(1944年〜1946年まで新疆省政府主席)が就任した。盛は1949年には国民党政府と共に台湾に逃れ、1970年に台北で死去した。』(ウィキペ「盛世才」参照)
*5:蒋介石政権下において安徽省政府主席、貴州省政府主席、蒙蔵委員会委員長、新疆省政府主席を歴任。蒋の台湾亡命(?)後も総統府資政、国民党中央評議委員、中央紀律委員会主任委員などを歴任した。
*6:1949年に「新疆省の支配」について中国共産党との交渉を行うが、結局、共産党に投降。新中国建国後は西北行政委員会副主席、全国人民代表大会常務委員会副委員長、国防委員会副主席、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員、中国国民党革命委員会(民革)中央副主席などを歴任した。
*7:東トルキスタン共和国教育庁長、東トルキスタン人民革命党宣伝部長など歴任。1955年に新疆ウイグル自治区が成立すると、自治区政府主席、自治区共産党委員会書記に就任。また、全国人民代表大会常務委員会副委員長、中国人民政治協商会議全国委員会副主席などの要職を歴任。