新刊紹介:「歴史評論」11月号(追記・訂正あり)

★特集「歴史学の焦点」
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のあるモノ、「俺なりに内容をそれなりに理解し、要約できたモノ」のみ紹介する。
■「日本古代の女帝と女官」(伊集院葉子*1
(内容要約)
 女帝が明文で否定されたのは、明治以降であること、女帝が廃れたのは平安以降であるが大和時代奈良時代においては女帝は何ら珍しいものではないこと、女帝が廃れた原因は「女帝を原則として認めない中国儒教の影響と見られること(そう言う意味では女帝否定論は日本伝統思想とは言い難いこと)」が指摘される。
 女官についても「古代の女官はそれなりの権限を有していた」が女帝同様に中国儒教の影響で権限が廃れていくことが指摘される。


■ 「城郭研究の現在」(竹井英文*2
(内容要約)
 竹井氏が取り上げているのは俗に「杉山城*3問題」「杉山城論争」と呼ばれる問題、論争です(もちろん「城郭研究=杉山城問題」ではないですが、竹井氏は非常に重要な問題と考えているのでしょう。他の件についての言及もありますが本論文でのメインの話題は杉山城問題です)。
 それはどういうものなのか、ググって見つけたエントリで簡単に紹介しておきます(なお、ウィキペディア「杉山城」も参照してください)。最近はググるとこういうのが割と簡単に見つかるから大変助かります。自分で一から「わかりやすく&正確に」説明するのは、非常に難しいですからね。
 でもこんなに「ググると関連エントリがごろごろ見つかる」つうのは「お城研究」というのは愛好家がごろごろいる分野なんでしょう。
 ちなみに後でも触れますが、紹介するブログの書き手の一人は竹井氏ご本人です。
 なお竹井氏の立場はどうも「上杉氏築城説」の立場がより説得力があるとした上で、「上杉氏築城説で生まれる不都合な点」をさらなる研究で解決するという話らしい。

http://blogs.yahoo.co.jp/joukakukenkyuu/8500657.html
 お城好きにはたまらない中世城郭、杉山城。この杉山城をめぐって、「杉山城問題」と呼ばれる大きな論争が、起きています。2008年3月14日付けの読売新聞でも大きく取り上げられました。
(中略)
 何が問題になったのか、一言でいうと、こんだけ複雑で素晴らしい構造のお城なのに、(ボーガス注:杉山城は)古文書に登場しない謎のお城だったんです。でも、この縄張なら、上杉謙信武田信玄と並ぶ強大な戦国大名・北条氏が造った最新式のお城だろう、年代は永禄年間頃(1560年頃)だろう、とされてきたんです。で、みんなそれを疑わなかったんですね。かくいう私もそう思い込んでました。これだけのお城ですからねぇ。
 ところが、最近*4発掘調査が行われたんです。そしたらナント!。建物跡もロクになく、遺構面が1面だけなので造り替えた形跡なし、その1面の遺構面からキレイにまとめて出てきた遺物は、生活感がないものばかりで、15世紀末から16世紀前半、つまりは1500年前後のものだったんです!
 ということは、1500年前後にこのあたりでドンパチやってた関東管領山内上杉氏*5と扇谷上杉氏*6関連のお城で、しかも機能したのはほんの一時期、つまりごく臨時的に造られた陣城のようなもの、と評価されることになったのです!
 これは、今までの年代より50年くらい遡るため、歴史が全然変わっちゃって、常識が一気に覆ることになるので、(ボーガス注:従来、縄張りの複雑さを理由に1560年頃に北条氏がつくったとしてきた)縄張論と(ボーガス注:発掘調査を元に1500年頃に上杉氏がつくったとする)考古学との間で大論争となりました。これが「杉山城問題」です。
 考古学の言う通りになっちゃうと、今まで縄張構造から「北条氏関係の城だ」とか言ってたことが怪しくなるので、「縄張研究ってどうなの?」となる。逆に、ただ遺物が出ていないだけで、考古学ではお城の縄張構造の年代はわからない、「考古学ってどうなの?」という話になる。だから、両者ともに様々な議論がされているんです。
 ところが、無かったはずの関連史料が、遂に発見されたんです。

足利高基書状写(『戦国遺文』古河公方編、606号、山田吉令筆記所収家譜覚書。なお、史料を実見のうえで一部翻刻の誤りを直しました)
椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言
   九月五日       足利高基ノ由
                   花押
         毛呂*7土佐守殿

 これにはっきりと「椙山(ボーガス注:竹井氏は「杉山」と同じと考える)之陣」と出てきます。細かい点は省きます*8が、これは1520年前後の古河公方足利高基の手紙で、(ボーガス注:高基の部下、関東管領山内上杉憲房という人が杉山に在陣したことがわかります。この時、築城されたのが杉山城だと、つまり山内上杉憲房が築城したと考えられる訳です。これは、縄張論ではなく、上記のような考古学の成果とほぼ一致することはおわかりでしょう。
 という訳で、やっぱり16世紀前半の上杉氏のお城でいいんじゃない?という文献史学・考古学の説と、いやいや、これだけ複雑な縄張でそれは考えられない、という縄張論の説が未だに対立している状況なんです。もちろん、それぞれの議論に限界・弱点があるので、今後はどうやってそれを乗り越えていくか、これが大切になってくると思います。
 どうです、面白いでしょ?。同じ杉山城というお城を見ていながらも、これだけ見方や評価が全然違うんですね〜。歴史研究の面白さはこういうところにもあります♪。こんな感じで、お城はまだまだわからないことだらけなのです…
 さて、皆さんはどう思いますか??
*注記
 他にも、「杉山長尾」と書かれた系図史料が発見されました。これもやはり15世紀後半から16世紀前半の山内上杉氏家臣の長尾氏一族のことを指すようです。なので、杉山長尾氏というのが杉山城にいたのではないか、とも考えられます。ただし、(ボーガス注:権威付けのための捏造が多い)系図なので信憑性の問題があることと、発掘調査の成果(特に臨時的な陣城という評価)と齟齬をきたすため、可能性にとどまります。なので、現在は上記足利高基書状写をベースに議論が進んでいます。いずれにせよ、戦国時代の前半であることは変わりません。ここが重要な部分です。
参考文献
・埼玉県立歴史資料館編『戦国の城』(高志書院、2005年)。
・拙稿「戦国前期東国の戦争と城郭―「杉山城問題」に寄せて―」*9(『千葉史学』第51号、2007年)。
・齋藤慎一「戦国大名北条家と城館」*10(浅野晴樹・齋藤慎一編『中世東国の世界3 戦国大名北条氏』高志書院、2008年)。

 拙稿「戦国前期東国の戦争と城郭―「杉山城問題」に寄せて―」という言葉からこのブログ文章を書いたのは何と歴史評論論文の書き手、竹井氏ご本人であることがわかります。

http://tutinosiro.blog83.fc2.com/blog-entry-1381.html
 杉山城は、長く北条氏が築城したと思われていました。
 ところが発掘調査の結果、それより以前、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った「長享の乱」の頃の築城であるとされました。
(中略)
 北条築城説を唱える人たちは反論しました・・・
 確かに創始は「長享の乱」のころかも知れない。
 しかし、山内上杉氏にこの様な高度な城を築く技術があったはずがない。
 「長享の乱」の頃は単純な砦で、その後北条氏により大規模な改修を受け、現状の遺構となったのではないか?
(中略)
 しかし、北条の記録には、杉山城どころか、近隣の菅谷城*11や高見城*12の記述もありません。
 それどころか、新たな事実がわかってきました、長引く「長享の乱」によりこの地域は文字どおり焼け野原となり、広範囲にわたって居住者がいなくなってしまった。そのことにより杉山城の下を通っていた旧鎌倉街道は、街道としての機能が維持できなくなり、街道は西側に付け替えられた、もしくは西側にあったしょぼい道が、主要街道に格上げされたのです。
 北条の記録には、西側の街道沿いの城の名前が残されています。
(中略)
 最近になって、杉山城の縄張りが「賤ヶ岳の戦い*13」の際に築かれた「玄蕃尾城*14」に類似している。杉山城は秀吉による北条征伐の際に、上方勢により改修を加えられたのではないかという人*15が現れました。
(中略)
 今後も杉山城に対する論争は尽きないことでしょう。
 個人的には、それぞれが、それぞれの思い入れを持って、杉山城の素晴らしさを楽しめば、それが一番ではないかと思います。
(記述にあたっては、埼玉県立歴史資料館編集「戦国の城」*16と、歴史学者の講演会に度々参加されているお城仲間のМさんからの情報を参考にさせていただきました。Мさんありがとうございました。)

http://shizuokacastle.web.fc2.com/information_of_castle/castle_history_of_study.html
「杉山城問題」
○「杉山城問題」の起こり
 杉山城は、埼玉県比企郡嵐山町にある遺跡である。この杉山城は、長らく縄張り研究者によって、天文・永禄年間(16世紀中期)に北条氏によって築城された城とされ、その高い完成度が高く評価されてきた)。
 しかし、平成14年度から同16年度にかけて行われた発掘調査において、以下のようなことが判明した。
1.杉山城跡は1時期であり、再利用・改修した痕跡が認められない。
2.出土遺物から、15世紀末から16世紀前半の山内上杉氏関連の城である。
3.出土遺物の構成や平坦面(曲輪)の造作の粗さから、臨時的な城であり、使用された期間は極めて短かったと推測される。
 このように、発掘調査成果は、これまでの見解を覆すものであった。縄張り研究者の見解と発掘調査成果による見解のズレは、以前から存在したが、「城の改修は16世紀後半まで行われるが、その時期には城の使われ方が変わって、城で生活することがなくなったために、遺物は出土しない」、「遺物を消費する活動が行われていない」などと解釈されてきた。
 しかしながら、杉山城の件は、発掘調査の結果、再利用・改修した痕跡が認められない点と、発掘調査が行われるまで、北条氏の築城の典型と評価されてきたことが、問題を大きくした。その結果、縄張り研究と城研究における(※決して考古学全般ではない。あくまで城の研究に限定される)考古学の方法論が、果たして正しいのかどうか、議論をする必要が生じたのである。
○「杉山城問題」の経過
【2005年 −縄張り研究と考古学の議論−】
 杉山城の発掘調査成果を受け、2005年2月、シンポジウム「埼玉の戦国時代 検証比企の城」が開催された。杉山城の発掘調査成果だけでなく、北条氏による使用が確実な松山城においても、15世紀後半〜16世紀中頃の出土遺物が中心であったこと、縄張り研究から、杉山城より古いとされてきた小倉城では、16世紀後半までの遺物が確認されたことなど、注目される成果が次々と報告された。
 特に議論の対象となったのが杉山城で、縄張り研究者から、「杉山城の縄張から15世紀末という年代観は技術的には考えにくく、今回の調査の出土した遺物は量的にも少なく、前段階の遺物が混入したもので、遺物の出土しない城という存在を想定できるのではないか、そうでなければ杉山城跡の縄張が技術的に年代、周囲の城郭群、戦国期城郭群のなかで孤立し、技術的なつながりが見えない」との指摘を受けたという。それに対し、村上伸二氏は、遺物と遺構の同時性は確かであり、「16世紀中葉から後半の遺物が1点も検出されていないことは、調査成果の年代観を裏付けるものと考える」と述べた。
 同年12月、シンポジウムの成果をもとに刊行された『戦国の城』では、縄張り研究者の西股総生*17と松岡進氏*18が論考を寄せた。西股氏は、発掘調査成果から、「居住性がごく限定された空間だっと考えることができる。」「特定の戦術上の目的に従って構築された純軍事的施設であることが、縄張から予想される杉山城のような城郭においては、空間利用の在り方が居館や集落とは明らかに異なる様相を見せている」と述べ、「遺物消費のあり方についても、居館や集落遺跡とは違った視角による分析が必要である」「限られた出土陶磁器の年代から城郭の構築・使用年代を判定するためには、まだまだ検証の手続きが不足していることを指摘せざるをえない」と指摘した。
 松岡氏は、瀬戸美濃の大窯第1段階の終期の年代比定根拠がないこと、生産地から離れた消費地であることから、杉山城の年代に再考の余地があると指摘した。
 杉山城の発掘調査成果について、縄張り研究者は、それを全面的に受け入れることはしなかった。西股氏と松岡氏の指摘は、生産年代と消費地のタイムラグの問題と、「城」という特殊な施設であることを考慮すべきであり、このことから、杉山城の年代は検討の余地がある、というものである。
 両氏とも、従来の縄張り研究に問題点があったことを認めつつも、考古学の側にも問題がある、と指摘したのであった。
 このように、杉山城問題は、当初、縄張り研究と考古学の研究者を中心に議論がされていたが、議論は平行線をたどり、長期化の様相を見せた。しかし、2007年、文献史学から注目すべき見解が提示され、杉山城問題は、新たな段階へ動いていく。
【2007・2008年 −文献史学よりの見解提示−】
 杉山城に関連する文献史料は、それまで見出されなかったが、竹井英文氏・齋藤慎一氏によって、次の史料が杉山城に関連するものとして提示された。

 椙山之陣以来、相守憲房走廻之条、神妙之至候、謹言、
     九月五日               花押(足利高基
     毛呂土佐守殿
「山田吉令筆記所収家譜覚書」『戦国遺文』古河公方編−606号
 この史料をもとに、竹井氏・齋藤氏は、杉山城の年代について見解を提示した。各氏の見解は、以下の通りである。
竹井氏の見解
1.「9月5日付毛呂土佐守宛足利高基書状写」に「椙山之陣」とある。この史料の年代は、当時の政治状況などから、永正9年(1512)から大永3年(1523)までの間のものと比定できる。
2.「椙山之陣」は、当時の政治状況などから、現在の埼玉県嵐山町にあったと考えられる。ただし、現況遺構は、複雑で技巧的なもので、簡易的な造りとされる「陣」とは差が大きく、特異なものとなってしまうため、「椙山之陣」が発掘調査された杉山城と同一とは考えにくい。
3.近代に作成された史料「佐竹家*19臣之系図」に、「杉山長尾」が見える。杉山長尾氏は、惣社長尾氏の一族で、当時の政治状況から、永正9年頃に山内上杉憲房に攻撃され滅ぼされたと考えられる。「杉山」は、埼玉県嵐山町の「杉山」を指すものと考えられ、杉山城を拠点とした長尾氏が当時存在していた。
4.以上の事から、「椙山之陣」は、杉山城を攻撃するために構築された「陣」で、具体的には越畑*20などのことを指す。杉山城は、杉山長尾氏の「拠点的城郭」であって、永正9年に落城して以後廃城となり、短期間の使用にとどまった。
齋藤氏の見解
1.「9月5日付毛呂土佐守宛足利高基書状写」に「椙山之陣」とある。この史料の年代は、当時の政治状況などから、永正9年から大永4年の間と比定できる。
2.「椙山之陣」は、年代的及び地理的に考えて、埼玉県嵐山町に比定され、大永元年から同4年正月の間に、山内上杉憲房が構えた「陣」である可能性が非常に高い。この点が了解されるのであれば、「椙山之陣」こそ杉山城であると考えて良い。
3.杉山城を杉山長尾氏の拠点とする竹井氏の説は、発掘調査成果などから、杉山城の性格は、陣城であると考えられ、成り立ちえないと思われる。
 竹井氏と齋藤氏の指摘は、「椙山之陣」の比定地に違いがあるが、同一の史料から、杉山城が16世紀前半の城であると指摘した点で共通している。また、発掘調査成果とも一致しており、発掘調査成果を文献史学が裏付ける形となった。
【2008年・2009年 −杉山城天正18年築城説と「戦国の城の年代観」シンポジウム−】
 2008年10月18日・19日、帝京大学山梨文化財研究所において、シンポジウム「戦国の城の年代観 −縄張研究と考古学の方法論−」が開催された。
 シンポジウムでは、峰岸純夫氏*21による記念講演と、縄張り研究と考古学の研究者計6名による報告が行われ、縄張り研究者、考古学それぞれの立場から、城の年代観について議論が行われた。以下、報告の内容について「杉山城問題」に関連するものを、シンポジウムをまとめた本『戦国時代の城』*22から整理していく。
縄張り研究
 縄張り研究の立場から「杉山城問題」関連について意見を述べたのは、西股総生氏、松岡進氏、中井均氏の3氏である。3氏の意見を整理すると、以下のようになる。
1.西股氏
 出土遺物の年代をそのまま築城年代に読み替えることが「実証的」と言えるか疑問。山中城*23新府城*24高天神城*25でも古い時期の遺物ばかり出土している。出土遺物の年代からストレートに城の年代を確定することは、一乗谷遺跡*26など、日常的な生活を伴う拠点的な城においては有効であろうが、「純粋戦闘空間」として構築された城においては難しいと考える。
 ただし、城を縄張りで編年することは疑いを持つが、縄張り研究の方法論は、「城郭という遺構をめぐる人の営みの諸相」を見る上で必要だ。「城郭という遺構をめぐる人の営みの諸相」の第一義的には軍事である。城を通して軍事を考える方法論(つまり縄張り研究)は、もっと積極的に模索されてよい。
2.松岡氏
 それまで、縄張りの細部の検討によって、「無名の城が、大きな空間のサイズを示しているという意外な事実の摘出」を行ったが、そこには無意識な飛躍があり、「杉山城問題」により、その点を鋭く指摘された。
 だが、城の築城主体や年代の推定は、縄張り研究の到達目標ではない。中世の城とは、「固有の一次的空間(城の縄張り)を形成し、地域社会の主体的な意思を含む多元的な二次的空間=空間複合を生み出す軍事施設である。その様相を読みとるために必要なのは、単体の城郭の縄張・規模の精細な把握とともに、軍事史的な「地理的コンテクスト」、すなわち比高(自然環境)・立地(人文環境)の認識である」。
3.中井氏
 16世紀後半の発達した縄張りであるとした遺構論(縄張り研究)と、出土した遺物はすべて15世紀後半から16世紀初頭に収まるものであるとした遺物論(考古学)は、どちらも正しいという認識から再検討すべき。縄張りより考えられていた年代よりも古い遺物が出土したからといって、遺構の年代を遡らせることはできない。
 杉山城の遺構は、とても15世紀後半から16世紀初頭に出現するものではなく、仮に出現したとしても、同時期に機能したとされる上戸陣*27や五十子陣*28との整合性が成り立たない。
 改めて杉山城の縄張りを分析してみると、北条氏の築城よりもさらに新しい構造であると考えられる。また、天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦において、柴田勝家の本陣となった玄蕃尾(げんばお)城と遺構が類似している。このことから、杉山城は「織豊系城郭」であり、天正18年の小田原合戦時に、前田利家によって構築されたものである。
 西股氏、松岡氏は、中世城研究において、縄張り研究が必要であることを主張した。一方、中井氏は、16世紀中期の北条氏築城説と、16世紀前半の山内上杉氏築城説に加え、16世紀最末期の前田氏築城説という新説を主張した。これにより、杉山城の年代について、3つの説が並ぶこととなった。
考古学
 考古学の立場から意見を述べたのは、藤澤良祐氏*29、森島康雄氏、鈴木正貴氏の3氏である。3氏の意見を整理すると、以下のようになる。
1.藤澤氏
 生産地と消費地とのタイムラグについて、生産の在り方によるタイムラグはほとんど存在せず、考古学的時間としては同時に起こったと捉えた方がよい。生産年代と消費地におけるタイムラグの問題は、使用から廃棄までのタイムラグが原因であったと考えられる。ただし、近年、地域により大窯製品の時期別の出土状況が大きく異なっていることから、「大窯製品の消費の実態を解明するにあたっては、その地域における大窯製品の流通状況を十分把握した上で検討を加える必要」が出ている。
2.森島氏
 最も重要なことは、在地土器編年の整備である。また、城の縄張りについても、土器と同じように、型式組列を組み立てていくという方向性での研究が必要であろう。
3.鈴木氏
 消費地遺跡で遺跡や遺構の年代を瀬戸美濃窯産陶器で考察する際に注意しなければならないのは、遺跡や遺構の年代をそこから比較的多く出土した遺物から判断すると、年代観のズレが生じる可能性がある。一定のサンプル数が必要。
 藤澤氏は、瀬戸美濃大窯編年が、消費地においても有効であることを改めて述べた。森島氏は、年代観の決定に在地土器の編年が重要であることを示し、鈴木氏は、遺跡・遺構の年代決定の方法に注意すべき点があると述べた。
 私見になるが、3氏とも、直接「杉山城問題」についてコメントしていない。しかし、3氏の論文を読むと、遺物の型式論を論の軸に据えることで、考古学において型式論が最も基礎的な手法であり、城の年代決定においても必要不可欠であること、さらに、その手法を縄張り研究にも求めているように思える。
【2009年〜現在 −杉山城築城説の論争の展開と、天正後期北条氏築城説−】
 2009年、文献史学による杉山城16世紀前半の山内上杉氏築城説に対し、縄張り研究者の松岡進氏が批判を投げかけた。
 竹井氏の見解に対しては、
1.杉山城の縄張りについて。15世紀後半から16世紀初頭と推定するには格差が大きすぎる。
2.機能について。発掘調査成果によれば、臨時的な城とされているが、それを「短期間」という言葉で置き換え、杉山長尾氏の「拠点的城郭」としたのは、「微妙な含意の飛躍がある」
3.「陣」の解釈について。「椙山之陣」の文言によって、杉山城とは別であったと確実に導き出せるか。「陣」は、目の前の城を攻めるためよりは、広域的な策源地の性格をもつ方が一般的。「陣」があって戦闘の場だったから「城」もあったということはできない。
 次に、齋藤氏の見解に対しては、
1.杉山城を山内上杉氏の陣とした点について。「椙山之陣」と杉山城を同一と見なしうる遺構論上の根拠があげられていない。同時代の陣と杉山城とは同一の範疇に属するものとは思えない。
2.関連史料の読解について。齋藤氏は、「石川忠総留書」の内容の中で、「羽尾峯」で山内上杉氏と扇谷上杉氏が和睦したとの記述に着目し、「羽尾峯」は、杉山と松山の中間にある。このことから、扇谷上杉氏の本拠松山城に対抗する目的で、山内上杉氏が杉山に陣を築き、憲房自身がそこに陣した可能性が生まれる、としている。
 しかし、「太田備中入道永厳出仕、於羽尾峯対面憲房」は、扇谷上杉氏側の太田氏が、「羽尾峯」に出向いて憲房と対面した、と読め、憲房の陣は羽尾にあったとする方が自然である。
3.杉山城のようなプランを山内上杉氏が実現できたとする論拠をあげていない。杉山城と、他の15世紀後半から16世紀初頭とされる城とは段階差があると考える。
として、両者の見解を批判した。また、共通する問題点として、「文献史料の解釈に立脚して杉山城を年代的に位置づける作業に遺構論が従属しており、想定された「拠点的城郭」あるいは「陣」という機能を、改めて遺構論の次元で掘り下げて検証するプロセスが欠落している」と指摘した。
 文献史学の側からは、現在の所、松岡氏の批判に対し、反批判は行っていないものの、竹井英文氏が、縄張り研究による編年論について、研究史を整理した上で課題点をあげている。竹井氏は、縄張り研究による編年論の最大の問題点が、論拠が不明確であることと指摘し、「文献史料や考古学の成果などによって、確実に年代が比定できる事例を収集し、それを軸に議論を組み立てていくことが、一番無難である」と述べた。
 また、「杉山城問題」について、この問題で、西股総生・松岡進両氏が縄張りだけで編年不可能であることを認めたことは、「パーツ論による縄張編年の破産宣告」であるとし、1960年代以降の縄張り編年論に一つの区切りがついたとし、「年代比定や築城主体の特定にはこだわらず、いかなる戦略空間の中で多様な城館が軍事的に機能していたのかを明らかにするもの、という方向性が示されたことも大きな変化といえよう。こうして、縄張研究は新たな段階を迎えたのである」と述べた。
 さらに、中井氏の杉山城織豊系城郭説について、
1.技巧的なパーツが施され、純粋に縄張りから見ると戦国後期と見れる田辺城について、発掘調査成果からそのまま16世紀前半以前と比定しているにも関わらず、杉山城では発掘調査成果に疑問を投げかけ、縄張りにこだわって16世紀後半以降と比定している。
2.縄張り研究では編年は不可能と縄張り研究者自身が認めたにも関わらず、なぜ杉山城は織豊系城郭であると判断できるのか。また、縄張りにより年代比定を行っているが、その論拠が玄蕃尾城と類似しているからでは弱い。玄蕃尾城の縄張りが、天正11年の柴田勝家の本陣のものであるという論拠がないからである。
と批判した。
 城研究における考古学の方法論については、城館史料学会シンポジウムにおける山上雅弘氏の発言が注目される。
 山上氏は、「京都系の土師器とか、いくつか目盛になる土器があるわけですけれども、京都系の土師器で言えば京都では編年がうまく行くかもしれないけれども、地方へ行ったときにそれがうまく使えるのか、使えないのか。使えるものと使えないものがあると思いますし、年代幅が10年で物が言えるものと、半世紀ぐらいの幅でみておかなければならないものとか、いろいろ問題がある。極端なところでは、土器編年が進んでいないとか、単純に備前焼とか貿易陶磁器のみで共伴関係をみたために時代が狂ってしまっているものもある。それが本当にうまく行っているかどうなのかというのは、そろそろ検証すべき時期に来ていると思います」と述べ、年代比定の再検証の必要性を唱えた。
 また、「消費地の遺跡に関する議論が少なすぎる」と指摘し、「城館についての消費動向とか物の使われ方、伝世のあり方と、市場とか経済都市が全く同じなのか違うのか。一般集落と城館は全く一緒の消費動向を示すのか示さないのか。そういったことについて考古学の側ももう少し議論すべき時期にきている」と課題点を挙げた。
 このように、杉山城の築城時期に関する批判と、それに伴う城研究の各方法論への問題提起が投げかけられる中、2011年、杉山城の築城時期について新たな見解が出された。中西義昌氏による天正後期北条氏築城説である。
 中西氏は、杉山城について、「根拠とされる瀬戸美濃製品については、武田勝頼天正9年(1581)に築城した新府城跡にも杉山城と同形式のものが出土しており、こちらを参考にするならば天正中・後期の遺構として縄張りからみた年代観と何の齟齬もなくなる」と述べ、出土遺物からの年代比定が杉山城山内上杉氏築城説の論拠とはなりえないことを指摘した。また、城の遺構の年代観と遺物のそれとのズレについても言及し、「第三者的な目線から一方の成果を挙げて一方の側に根拠を示せと迫る二項対立的な議論は望ましくない。むしろ、双方の年代観を比較する視点から、実際に運ばれてきた陶磁器等について、生産地から消費地への流通や現場での使用のされ方、遺物の出土状況から城郭施設の持つ特有の性格を読み込み検証される素材として杉山城跡が取り上げられるべきと考えられる」と、現在の議論の問題点と今後の取り組み方について見解を述べた。
 さらに、杉山城の築城時期については、縄張りから「一見複雑な縄張にみえるものの、実際は本丸を起点に角馬出しや馬出し曲輪を重ねるパターンをくり返した結果と評価できる」と述べ、「このような階層的な曲輪配置から、杉山城の築城主体となる勢力が城主を頂点とする組織的な軍団であったと考えられる。このような軍団編成は、豊臣秀吉の関東征伐に対して関東一円から大規模な動員を行い組織的な抗戦を実践した後北条氏権力と重なる。杉山城は、最終段階の後北条氏系城郭の到達点を今日に伝える」ものだと指摘した。また、文献史料の解釈については、「『椙山之陣』は当地での戦闘と解釈するのが一般的であり、扇谷上杉氏時代に現存の杉山城跡を結びつけるには無理がある。遺物編年による年代観を頼みとする解釈にすぎない」と批判した。
 中西氏の天正後期北条氏築城説により、杉山城の築城時期について、4つの説が提示される状態となった。「杉山城問題」は、解決の糸口を見出すことができぬまま、泥沼化の様相を呈してきている。

 一応引用しましたがぶっちゃけ「小生にとっては文章が長い上に複雑すぎて」まるきり理解できてないことをお断りしておきます。

http://shizuokacastle.web.fc2.com/information_of_castle/recent_studies.html
■2012年のお城研究
1)縄張研究
 縄張り研究からは、木島孝之氏*30「城郭研究−「縄張り研究」の独自性を如何に構築するか−」(『建築史学』59、2012)を得た。
(中略)
「杉山城問題」については、
1.足利高基書状にある「椙山之陣」は、「陣城」を意味するのではなく、椙山方面での「戦闘」を指すことが明白であり、文書の誤読である(145頁)。
2.陶磁器編年案には、標準遺跡の年代観について入念に再検証を行う必要性がある(146頁)。
とし、「そもそも『杉山城問題』自体が存在しない」と断じた(145頁)。その上で、「杉山城は関東の最終的発展型であり、同城と酷似する西方城*31や同型の滝山・栗橋城*32後北条氏末期まで機能する」ことなどから、「杉山城は後北条氏側が豊臣軍の来襲に備えて構築した繋ぎの城と考えられる」と指摘した(146頁)。
2)考古学
 発掘調査成果による城の年代決定と、文献史学や縄張研究によるそれとの「ずれ」の問題、及び、いわゆる「杉山城問題に」ついて検討した論文として、簗瀬裕一氏「東国における戦国期城館と出土遺物の年代観についてー年代の「ずれ」と欠落の問題を中心に−」(佐藤博*33編『中世房総と東国社会』岩田書院、2012)を得た。
 簗瀬氏は、考古学の立場から、城館と出土陶磁器の年代の「ずれ」について、房総の事例を中心に検討し、杉山城についても併せて検討した。
 結論として指摘したのは、以下の2点である。
1.年代の「ずれ」の問題について
•戦国期の陶磁器を欠く遺跡が少なからず存在しており、「城館の出土資料がそのまま素直に城館の年代や歴史を反映しているという前提を、白紙に戻す必要がある」(230頁)。
•「城館の年代を導き出すためには、陶磁器等の詳細な出土状況を分析し、廃棄時期を明らかにするという綿密な資料操作が必要で、考古資料の形成プロセスを織り込んだ研究の方向性が求められる」(同上)。そのためには「陶磁器のみでは限界があるのは明らか。かわらけを主とする在地産土器類の編年研究」が重要である(同上)。
2.「杉山城問題」について
•遺物は、後期Ⅳ新段階を主とするが、大窯1段階も一定量伴っており、貿易陶磁による瀬戸美濃の置き換えもみられることから、「時期的には16世紀に主体があるといえる」(228頁)。
山内上杉氏のかわらけと扇谷上杉氏のそれが出土しており、2つのタイプのかわらけは時期差によるものと考えられ、ある程度の期間存続した可能性がある(230頁)。
•中井均氏の「前田利家改修説は、陶磁器の欠落を想定しても中世末という年代には賛同できない」(230頁)。
 このように、簗瀬氏は、考古学的に城の年代を導き出す方法について再考の必要性を訴えるとともに、杉山城についても、16世紀を主体に、ある程度の期間存続した可能性があると指摘した。
3)文献史学
 文献史学においても、「杉山城問題」に関する論文が発表された。
 竹井英文氏は、「その後の「杉山城問題」 −諸説に接して−」(『千葉史学』60、2012)の中で、竹井氏の前稿「戦国前期東国の戦争と城郭 −『杉山城問題』に寄せて」(『千葉史学』51、2007年)の確認と「杉山城問題」に関する諸論点等を整理・検討した上で、自身の見解を提示した。
まず、「杉山城問題」に関する諸論点等については
1.松岡進氏の竹井説批判について。
 松岡氏自身の杉山城の年代観・築城主体の比定が述べられていない。肝心な部分が述べられないまま批判されており、対案を提示しない限り、「現状では生産的な議論はできないように思う」(48頁)。
2.中井均氏の杉山城天正18年(1590)前田利家築城説について。
 遺物編年を正しいとしながらも、それを棚上げにして立論していることから、中井氏の説には従い難い。また、論拠としている前田利家書状写の解釈は誤りである(48頁)。
3.中西義昌氏の杉山城天正後期北条氏築城説について。
 「求心的かつ理念型に基づいた縄張技術を駆使できる築城主体は戦国前期には見出せ」ないと断定できる明確な根拠はない。また、「北条氏系城郭」の概念規定が全く行われておらず、杉山城の縄張りが北条氏に限定されるとする根拠もはっきりしない(49頁)。「結局、滝山城などと類似性があるから北条氏の城だとしてきた循環論法的な従来の縄張研究と大差なく、年代を新しく設定しただけである」(50頁)。
と批判した。その上で、前稿で詳しく触れなかった「椙山之陣」の解釈について検討し、
1.「陣」とは、軍勢が駐屯している場そのものを指す言葉と捉えるべきで、その実態は様々である(53頁)。
2.「椙山之陣」は、杉山での戦闘を指す言葉とは考えられない。上杉憲房が「椙山」に在陣し、それが「椙山之陣」と呼ばれたのである。また、「椙山之陣」の攻撃対象となるべき杉山城の存在は想定できず、発掘調査成果でも、杉山城は臨時的な城と評価されている。よって、「椙山之陣」=杉山城と考えられる(54・55頁)。
として、杉山城が戦国時代前期に機能していたことを示し、前稿で提示した竹井氏の説を補強した。
 さらに竹井氏は、「今後は各方法論において今一度基本に立ち返り、何がどこまでいえるのかという基礎的研究を着実に積み重ねていくことが必要」(56頁)として、今後の中世城研究の課題を提示した。

 これまた一応引用しましたがぶっちゃけ「小生にとっては文章が長い上に複雑すぎて」まるきり理解できてないことをお断りしておきます。


■「アメリカ黒人史研究の隘路:次の一〇〇年を見据えて」(大森一輝*34
(内容要約)
・筆者が問題にしていること、その一つは「黒人史研究は闘った黒人ばかりにスポットが当たっていないか」と言う話である。
・たとえて言うなら「中国共産党統治下チベットにおいて、共産党官僚として生きるチベット人」も「チベット人の一面」なのである。それを「ダライ猊下を裏切った恥知らず」と罵倒して終わりにするのは「政治の論理としてはあり得てもそれを、歴史研究と呼べるか」つうことである。歴史研究ならば「何故そうしたチベット人がいるのか」を直視しないといけないということである。そうすれば「だってダライはなんだかんだ言ったって近代化に失敗したジャン、中国のおかげで西蔵鉄道できたのは良かったジャン、結局、中国統治下でやっていくしかないじゃん?」などという「裏切り者と言う見方にとどまらない何か」が見えてくるのではないか(注:勿論それは中国のチベット支配が100%正しいという話ではありません)。そうは思いませんか、チベットキチガイid:Mukkeさん(嫌みのつもり、Mukkeの応答ははなから期待してません)
 もちろんチベットは一例であり、「欧米や日本の植民地統治下で、『宗主国に忠誠を誓う現地住民』」でも「戦時下日本で転向した共産党員」でも何でも同じ事である。
 筆者は「闘った黒人にスポットを当てる研究とは違った研究」として、上坂昇*35アメリカの黒人保守思想:反オバマの黒人共和党勢力』(2014年、明石書店)を紹介している。
・他に筆者が問題にしていることとしては「被差別者・黒人だからと言って差別感情がないわけではない、常に正しいわけではない」つうことである。
 たとえて言えば「仮にダライ一味が中国に差別待遇を受け、その結果、インドに亡命する羽目になったとしても常にダライ一味が正しいわけではない。オウム真理教から多額の金をもらい、チベット人焼身自殺を扇動し、エセ科学者・村上和雄と対談し、日本ウヨと野合するダライ一味の無法が人として許せるだろうか(いや絶対に許せない、ダライ一味はくたばれ)」みたいな話だと俺は思う。
 たとえば健常者の黒人は「障害者の黒人」に対し、異性愛者の黒人は「同性愛者の黒人」に対し差別意識を持ってきたことであろう。しかし「闘った黒人」にスポットを当てては、そうした事が見事に抜ける危険性があるわけである。
・こうした自らの主張の一根拠として筆者は「2015年ボルチモア暴動の引き金となった警官による黒人虐殺疑惑」を上げる。
 この事件では加害者の警官のウチ、3人は黒人であったし、当時のボルチモア市長は「黒人であったにも拘わらず」問題追及に消極的であった。
 ここからは「白人による黒人差別」と言う面だけでなく「富裕層による貧困者差別という面があったのではないか」「黒人でも恵まれた層は白人のような貧困黒人に対する差別意識を持つようになってるのではないか」といったことが読み取れるのではないか。
 何というか「在日朝鮮・韓国人でありながら死ぬまでそれを隠し続け、日本ウヨとともに在日差別に荷担した愚人・やしきたかじん」を連想させる話ではある。


★第49回大会準備号《歴史における社会的結合と地域3》
■「安保法制と戦後日本の総括」(山口二郎*36
(内容要約)
 安倍批判デモに参加するなどし、市民運動家としても、活発に安倍批判を繰り広げてきた、山口氏が研究者としてどのように「安保法制と戦後日本の総括」を行うか、楽しみである。大会に参加するほどの熱意はないが「歴史評論での誌上報告」については後ほどコメントしたいと思う。


■「東京大空襲をめぐる研究と運動について」(山辺昌彦*37
(内容要約)
 東京大空襲を巡る研究と運動の現状と課題についての報告。

参考
kojitakenの日記
■「早乙女勝元東京大空襲』(岩波新書)を読む」
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20131201/1385872913
東京新聞
■『都平和祈念館「早く建設を」 東京空襲 体験者 進む高齢化』
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2013/togisen13/news/CK2013061102100008.html
赤旗
■『東京平和祈念館建設早く、「すすめる会」が都に署名』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-01-24/2015012403_01_1.html
■主張『戦後70年と大空襲、被害解決へ国は責任を果たせ』
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik14/2015-03-10/2015031001_05_1.html


■「歴史資料の保全・活用と地域社会:福島県での歴史資料保全活動を通じて」(阿部浩*38
(内容要約)
 「ふくしま歴史資料保存ネットワーク(略称:ふくしま資料ネット)」(http://www.geocities.jp/f_shiryounet/)代表を務める筆者が「ふくしま資料ネットの活動報告」を中心に「歴史資料の保全と活用」についての現状と課題を語る。


■「戦後日本における在日朝鮮人の生活困窮問題と「地域」」(金耿昊*39
(内容要約)
・『戦後日本社会における生活保護制度の形成と在日朝鮮人:「生存権」からの段階的排除と生活保護獲得闘争の展開』(東京歴史科学研究会編『人民の歴史学』198号、2013年12月収録)、『在日朝鮮人生活保護受給「問題」の現在と過去:在日一世世代における差別と貧困の連続をめぐって』(君島和彦編『近代の日本と朝鮮』(2014年、東京堂出版)収録)といった著作がある筆者がそれを発展させた形での報告を行うとのこと。


■「ISIL出現の背景としての「グローバル化*40」(佐原徹哉*41
(内容要約)
 要約といいながら一部俺ちゃんの感想がかなり混じってる気もするが。

 何故ISILは誕生したのか。筆者はそれを「割とありきたりな物言いの気もする」が米国のせいだとする。
 米国がソ連への対抗のためにアフガンゲリラ支援したことが、タリバンアルカイダ(つうかアルカイダ指導者オサマ・ビン・ラディン)を生み出したように、「イラクフセイン政権やシリアアサド政権」に対抗(可能ならば政権転覆、それが無理でも政治的牽制)させるために現地イスラム反政府勢力に武器供給したことがISILを生み出したのだと。
 自らの国益のためならテロリストに武器供給して恥じないのが「テロ支援国家」「ならず者国家」米国だと言う事、そしてその「テロリスト」も都合が悪くなれば「用済みとまでに切って捨てられること」は「CIAによるチベットテロリスト(中国に軍事攻撃をしかけるチベットゲリラ)支援の顛末(米中国交正常化で支援打ち切り)」でも明白である。ねえ、チベット愛好家id:Mukkeさん(皮肉のつもり)。
 その意味で「ISILがイラクとシリアを主たる拠点とするのは当然」である。また米国が自らの過去の中東政策を反省せずしてISIL批判だのISIL打倒作戦だの滑稽である。
 特に滑稽なのはこの期に及んで未だに米国が「アサド政権打倒」を画策し、反アサド勢力に武器供給していることであろう。
 なぜなら、プーチン*42(ロシア大統領)が指摘するように
1)反アサド政権最大勢力・自由シリア軍は「米国の軍事支援目当て」に集まってきた「政党助成金目当てにできた維新の党」なみの「有象無象の集団、烏合の衆」であり、ISILとつきあいのある連中が多数含まれ、「自由シリア軍に米国が供給した武器がISILに流れている疑い」が濃厚だから
2)フセイン政権転覆後、イラクでISILの活動が活発化したようにアサド政権を打倒すれば、ほぼ確実にシリアでISILの活動が活発するから。有象無象の集団に過ぎない自由シリア軍にはアサド政権ほどのISILへの抵抗力はないと見ていいから
である。
 日本では何故かプーチン空爆を批判する愚か者が多く、なかには「アサド政権打倒を唱えるバカ(例としてid:noharra*43)」もいるがそう言う意味ではプーチン空爆は「実に正しい行為だった」と言うべきだろう。
 なお、以下は「明らかに」ボーガス私見*44で「佐原氏の意見ではない」が、こうした「ISILの脅威」は「トルコのテロ」や「新疆ウイグルのテロ」に見られるように「イラク、シリア限定」ではなくなりつつある。
 トルコ政府や中国政府のイスラム取締*45を批判するものも多いようだが、「安全地帯にいる日本人」がそう言うことをするのはいかがな物かと思う。イスラムテロを封じ込めるためには多少の厳しさは必要だろう。

参考

http://www.sankei.com/world/news/151205/wor1512050048-n1.html
産経新聞『【イスラム国】トルコへの石油密輸「証拠公表の準備ある」ロシアに続きイランも』
 イランのレザイ最高評議会事務局長は4日、イスラムスンニ派過激組織「イスラム国」が石油をトルコに密輸している証拠があると主張、「トルコ政府が知らないと言うなら、公表する準備がある」と述べ、トルコをけん制した。国営イラン通信が伝えた

http://jp.sputniknews.com/russia/20151202/1262808.html
■Sputnik日本『ロシア国防省、ISの石油供給に関与しているとして、エルドアン*46大統領とその家族を非難』
 ロシアのアントノフ国防次官は2日、ブリーフィングで、トルコのエルドアン大統領とその家族が、テロ組織「IS(イスラム国)」によるシリアからの違法な石油供給に関与していると発表した。
 アントノフ国防次官は、次のように語った−
「石油販売による収入は、テロリストらのシリアにおける極めて重要な活動資金の一つとなっている。テロリストらは、年間およそ20億ドルを稼いでいる。その資金は、世界中から戦闘員を雇ったり、兵器、機器、武器などの装備につかわれている。
 そのためロシアで活動が禁止されてる『IS』は、『シリアとイラクで盗んだ石油生産』インフラを保護している。
 シリアとイラクの正当な所有者から盗まれたこの石油の主な消費者は、トルコだ。伝えられた情報によると、この犯罪ビジネスに、国の政治指導者のトップであるエルドアン大統領とその家族が関与している」。

http://www.sankei.com/world/news/151204/wor1512040054-n1.html
産経新聞『【露軍機撃墜】プーチン大統領「誰がテロリストに稼がせているのかは分かっている」 年次教書でトルコを批判』
 プーチン氏は、上下両院議員や地方指導者を前にした教書演説で、露軍機撃墜を「戦争犯罪」「テロリストとの共謀」と主張。トルコ指導部は「何度も後悔するだろう」と述べて対トルコ制裁の拡大も示唆した。
 トルコについては、「誰が私腹を肥やし、テロリストに稼がせているのかは分かっている」とも発言。イスラム国からの大規模な石油密輸にトルコのエルドアン大統領と親族らが関与している−との露国防省の発表が念頭に置かれている。

http://www.sankei.com/world/news/151201/wor1512010030-n1.html
産経新聞『【露戦闘機撃墜】「イスラム国からの石油密輸」が背景とプーチン氏批判 トルコ大統領は「証拠あれば辞任」』
 ロシアのプーチン大統領は11月30日、トルコがロシア軍機を撃墜した動機について、過激派組織「イスラム国」支配領域からトルコが大量に石油を密輸しており、輸送経路がロシア軍に破壊されないよう守るためだったとの見方を示した。プーチン氏はパリ郊外で記者会見し、あらためてトルコを批判した。

http://roodevil.blog.shinobi.jp/Date/20130830/
■スーパーゲームズワークショップエンタテイメント『シリア侵略戦争推進・応援メディアのアジアプレスは今すぐ事業停止して解散せよ』
 アメリカのシリア侵略を巧妙なやり口で応援しているアジアプレスに報道機関を名乗る資格はない。即刻事業停止して解散すべきである。さもなければ、「報道機関」の看板をとっとと外して「欧米帝国主義を応援し、日本の民族差別政策や軍拡化に奉仕する政治運動団体」と正直に名乗る事だ。その方がすっきりする。

http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2015/739.html
■浅井基文ブログ『シリア情勢とロシアの軍事行動』
(前略)
 このように見てきますと、シリア問題に関するアメリカとロシアの立場及び政策において、明らかにプーチン・ロシアに分があり、オバマアメリカはどう見ても支離滅裂な場当たり的対応しかしていないことが分かります。中東・北アフリカの大量難民流出問題の根本原因が自らの政策にあることを今なお認めようとしないオバマ政権(10月8日付コラム『中露米首脳の国際情勢認識:第3回(アメリカ)』(http://www.ne.jp/asahi/nd4m-asi/jiwen/thoughts/2015/738.html)参照)ですから、対シリア政策が相変わらず漂流状態であるのも当然ということでしょう。このようないい加減な政策運営が大量の無辜の死亡者と難民を生んでいることを考えると、本当にいたたまれない気持ちにならざるを得ません。

http://chosonsinbo.com/jp/2015/10/sinbo-j_151102-2/
■朝鮮新報『〈ニュースの窓〉シリアを巡るパワーゲームに激変:浮かび上がる反テロ戦争の真実』
 数百万人に及ぶシリア難民の悲劇、泥沼化する内戦(奇怪な反テロ戦争の構図)のさなか、崩壊寸前と思われたアサド政権が起死回生した。その最大の契機はロシア空軍の空爆にあった。
 シリア内戦の実態は複雑だが、アサド政権打倒を目指す武装勢力は米、イスラエル、サウジ、トルコ、カタールなどの武器財政支援を受けている。そこへ「参入」してきたのが悪名高いイスラム国(ISIS)。すでにイラク、シリアの広大な地域を影響下に置き益々勢いを増しているISISはアサド政権を苦境に追いやっていた。
 ところが、ここで大事件が起きた。プーチン大統領率いるロシアがISISの拠点に照準を定めて精密誘導弾などによる集中的空爆で大打撃を与えたのである。「ISIS撲滅」を叫んできた米国が傀儡国を動員して挙げた1年の成果以上のものをわずか4日で達成したのである。
 とくに重要な戦果は、ロシア空軍、アサド政権の政府軍、イラン系シーア派の軍隊が合同してシリア第二の都市アレッポを攻略、ISIS、アルカイダらテロリストから奪還しつつあることだ。ここを奪還すれば、シリア西部の人口密集地を統治できる。形勢は完全に逆転した。
 この戦闘で国際社会の前に一つの真実がはっきりと浮かび上がった。それは、米、英、イスラエル、サウジ、カタール*47、トルコなどがISISを相手に戦ってきたのではなく、逆に軍事訓練、武器供与、財政支援など全面的にバックアップしてきたという事実だ。
 米国はロシアを表立って批判できない。なぜなら、ISISの拠点を破壊することは米国への「支援」になりこそすれ、「妨害」にはならないからだ。そのため、ロシア軍は自分たちが支援している部隊を攻撃しているなど非難することで牽制しようとしているが、詭弁に過ぎないことは誰の目にも明らか。
 もう一つくっきりと浮かび上がったのは、「ロシア・イラン・イラク・シリア」vs「米・サウジ・カタール・トルコ・ISIS」という対立の構図である。というのは、もはやイランもイラクも、子飼いのテロ組織を支援することでシリアを破綻させようとしている敵対国連合の思惑と手法を完全に見透かしており、ロシアとの協力関係をさらに強化することで米国の悪魔的な中東政策・戦略を突き崩すために動き始めたからだ。
 ネオコンに乗っ取られたブッシュ政権が、ほとんど実体のない「国際テロ組織」・アルカイダと関係があり、国内で化学兵器を製造しているという疑惑をでっち上げ、それを口実に一方的に戦争をしかけてフセイン政権を崩壊させた手口を踏襲するオバマ政権の中東政策は破綻を迎えた。本当の対テロ戦争で決定的戦果を挙げたアサド大統領は早速、モスクワに飛びプーチン大統領に感謝の意を述べ、今後も緊密な協力関係を維持、発展させることで合意した。また、イラクのアバディ首相はいまだにイラクに居座り続ける米軍司令官の反対を押し切ってイラク領土内のISISの拠点も空爆してくれるよう要請しようとしている。こうなってくると、財政的にも、軍事戦略的にも行き詰った駐イラク米軍も追い出される可能性も出てきた。
 反米イスラム圏とロシアが緊密に連携することで、米国の対中東覇権戦略は音を立てて崩れ始めた。ロシアの軍事行動は国際法的にも完全に合法である。

http://jp.sputniknews.com/opinion/20151101/1108128.html
■Sputnik日本『米国は本当にISの同盟国なのか?』
 アサド氏の即時退陣は諦める、とのシグナルが米大統領府から送られるようになっているが、一方で国防総省は、「イスラム国(IS)」と戦うシリアの穏健反体制派の訓練を続けることを宣言している。問題はこの反体制派が同時にアサド氏とも戦っているということにある。米国が彼らに武器弾薬を送っても、それらはしばしばIS戦闘員の手に渡ってしまう。米国は故意にISを支援しているのではないか、との疑いが生まれる。
 テロリストを支援するという冷戦時代からの慣行のもたらす害悪について、モスクワ国立国際関係大学国際研究所主任研究員アンドレイ・イワノフ氏は次のように述べた。
「ロシアのメディア、又はロシアの一部専門家に人気の説は、IS(イスラム国)は中東に『管理可能なカオス』を創り、その一環としてバシャール・アサドを失墜させるために、米国の支援によって創設された、というものがある。ISは米国自身によって、またはその中東における同盟国・サウジアラビアカタール、トルコによって資金の大半を得ている、との説である。
 この説は本当に説得力がある。第一に、西側資本主義と東側共産主義、二つの陣営が敵対し合ったあの冷戦時代、米ソは世界各地に活発に共産主義の、または資本主義の闘士たちを創り出し、かれらに資金を与えていた。ソ連崩壊間際、ソ連最初にして最後の大統領、ミハイル・ゴルバチョフ*48とその側近たるペレストロイカ推進派らは、左派および革命運動体への支援を中止した。西側と社会主義陣営がもはや対立するものではなくなるということを心から信じていたからだ。しかしソ連崩壊後すぐに、米国が依然としてロシアを敵視し、米国の影響力拡大および強化に役立つ勢力への支援を停止する構えにないことが明らかになる。一方のロシアは、軽率な経済改革の果てに深刻な財政危機に陥り、もはや同盟国を支援できるような状態ではなくなっていた。その間も米国は活発に、たとえばコソヴォの分離主義者を支援し、ユーゴスラヴィアを分裂させ、ムスリム同胞団を支援し、エジプトに大迷惑をかけ、他にも色々な悪事を働いた。
 ISを支援しているのは米国およびその同盟国だ、とする説を信ずべきものとする第二の理由は、この1年米国を筆頭とする有志連合が行ってきたIS対策に見られる奇妙さだ。有志連合はたび重なる空爆を行いながら、ISにこれっぽっちのダメージも与えなかった。さらに驚くべきは、2000年代初頭には香港・マカオにある金正日のものと見られる口座を凍結できた米国が、ISの口座凍結に取り組まないことだ。ISの支配領域からの石油の供給も寸断しない。若い戦闘員がトルコを通過するのを妨げもしない。ロシアの専門家らの評価では、米国はこれら全てを特段の苦労もなくしおおせるはずだ。なぜしないのか。したくないからだ。
 こうしたことを考えると、米国はISをロシアの同盟国および友好国、たとえばシリアと戦わせるために利用しようとしている、いやそれどころか、ロシア本国に損害を与えるために利用しようとしている、との考えを抱かざるを得ないのである。ロシアはそれでなくても多くの問題を抱えている。しかしそれでも今のロシアは1990年代のロシアではない、あの下手糞な改革でほとんど破産寸前に追い込まれたロシアと同じものではない。今のロシアは米国とその同盟国に混乱と衝撃を与えうる諸々の組織に資金援助を行うすべを持っている。それなのにロシアはそれをしない。それはなにも、そのためのお金を惜しんでいるのではない。そしてそれは、そのようなやり口は汚い、と考えているからでもない。米国と西側を敵視していないからである。彼らがユーゴスラヴィアイラクアフガニスタン、シリア、ウクライナであんなに汚いことをしたにも関わらずである。
 『自分で何をしたか分かっているのか』とプーチン大統領は国連総会で西側の聴衆に問うた。
 いまだにわかっていないようだ。しかしもしかしたら理解できるかもしれない。少なくともロシアはそれを未だに期待している。よって、ISのようなモンスターを創り出しも支援しもしない。」

http://jp.sputniknews.com/opinion/20151101/1106167.html
■Sputnik日本『ISの最重要スポンサーは麻薬マフィア、しかし「金づる」は他にも』
 IS誕生については米国も一定の役割を果たしていた、と言われる。一年前のことだが、トルコ誌「ラジカル」の取材に応じ、CIAの上級分析官グラム・フラー氏は、「何も米国がIS創設を企んだわけではないが、中東への介入とイラク戦争による不安定化がIS誕生の要因になった」と述べている。
 パキスタンにもISを間接的に米国が支援しているとする声がある。今年のはじめ、パキスタンにおけるISの幹部とされるユザフ・アル・サラフィなる人物がラホールで逮捕された。「尋問でサラフィ氏は、米国経由の資金で青年のリクルートを行い、またシリアにおける軍事行動を行っていた、と述べた」と当時、パキスタン紙「ザ・エクスプレス・トリビューン」が匿名情報として報じた。その消息筋は、さらに、「米国はいつもISの活動を非難するが、自国から同組織へ資金が流れることを止めようとしない」と語った。

http://jp.sputniknews.com/politics/20151014/1031161.html
■Sputnik日本『ロシア大使、ロシアとシリアは国際法の尊重のために戦っている』
 シリアにおけるロシアの行動は国連憲章に基づいた、国際法を尊重する闘いである。シリア駐在のアレクサンドル・キンシャク・ロシア大使はリアノーボスチ通信からのインタビューに対し、こう語った。
(中略)
 ロシアはリビアおよびイラクで起きた武力による体制転換の結果を記憶しており、同様のシナリオがシリアで繰り返されることを望まないと指摘した。
「ロシアはこんにち、今まで繰り返されてきた国家体制を武力クーデターで覆す試みを事実上封じている。これは国際法の基本原則を無残に侵すものだ。そして我々の作戦に対する苛立った反応から察すると、こうした試みを是とする諸国*49は大いに無念さを味わっているのがわかる。」

http://jp.sputniknews.com/politics/20151014/1029936.html
■Sputnik日本『プーチン大統領 米国が「自由シリア軍」に供与する武器がテロリストの手に渡ることを危惧する』
 プーチン大統領は、フォーラム「ロシアは呼んでいる!」で演説し、「シリア領内で200回以上も攻撃し、公式的には『自由シリア軍』の訓練には5億ドルを費やした」と述べ、「そして今になって、航空機で『自由シリア軍』に弾薬や装備などを提供していると伝えられた。どこにこの『自由シリア軍』はいるのか?」と語った。
 プーチン大統領はさらに次のように指摘した。
「もしこれらの弾薬や兵器、装備を単にどこかへぶちまけるのであれば、これらが再び、シリア反政府勢力の訓練課程であったようにテロリストたちの手に渡ったり、また再びこれが、『IS(イスラム国)』の手に渡ることはないだろうか?。どこに保証があるのか?。」

http://jp.sputniknews.com/middle_east/20151014/1032346.html
■Sputnik日本『「穏健な在野勢力」は米国諜報機関の隠れ蓑』
 欧米は、ロシア軍機が、過激派テロ組織「IS(イスラム国)」の戦闘員らにではなく、シリアのアサド政権に反対して立ち上がった「蜂起軍」に対し空爆をしているとして、反ロシアキャンペーンを展開し、他でもない所謂「穏健な在野勢力」が「IS」に対する戦いにおいて勝利する事に期待をかけている。
 こうした欧米の期待を一身に背負っているのが、シリアで活動中の多数派反政府勢力の一つ「自由シリア軍(FSA)」だ。
 ロシアの政治学者ウラジーミル・レペヒン氏は「そもそも穏健な在野勢力など、フィクションに過ぎない」と見ている。
 以下レペヒン氏の見解を皆さんに御紹介したい。
「まず申し上げたい事は、もう大分以前から『自由シリア軍(FSA)』は、もう全く世俗的な存在ではないという点だ。初めは確かに、あそこには、世俗的グループや運動体の代表者、例えばアサド大統領に反対する将校達やシリア政府軍からの脱走兵、どこにも属さない自由な若者達、さらにはインテリゲンチヤもいた。しかし『FSA』が、この4年変化をとげた間に、そうした世俗勢力の代表といった要素は失われ、事実上、比較的穏健な考えを持ったメンバーはすべて、難民としてシリアを離れてしまった。ゆえに、欧米が『FSA』の戦闘員と見ている人達の大部分は、私に言わせれば、もう『IS』と何ら変わりがない。
 外国のスポンサーによる『自由シリア軍(FSA)』への資金援助を通し、また米国製の武器や、米国の訓練センターでの戦闘員の養成を通じて、この組織は、過激派イスラム主義者を含めた、シリアにおける反アサド勢力全ての連合体になるはずだった。禁止されたテロ集団である『IS』に入っていない、バラバラな在野勢力グループの行動に対するコントロールを保障するため、『FSA』の外国のスポンサーらは、2013年に『シリア・イスラム戦線』や『自由シリア軍(FSA)』『イスラム軍』などをベースに所謂『イスラム戦線』を作った。しかしスポンサーらは、この組織をコントロール下に置く事に失敗し、2013年末には、この『イスラム戦線』の戦闘員らは、トルコとの国境にある『FSA』の最高軍事評議会本部を占拠してしまった。そうしたわけで『イスラム戦線』の創設は、事実上、上手くいかず、それでなくても力を失っていた『FSA』はさらに弱体化した。
 『FSA』の本部は『イスラム戦線』による占拠後、消滅した。ここから次のような問いが生まれる。欧米の政治家達は、シリアに『FSA』という穏健な在野勢力が存在するという神話を育て、彼らに武器援助をしながら、何を期待しているのだろうか?−という疑問である。
 『FSA』は、欧米の諜報機関が、過激なイスラム主義者グループとコンタクトするのをカモフラージュするための作り話に過ぎず、それ以上のものではない。『穏健な在野勢力』という神話を必要としているのは、米国政府とその衛星国である。その理由の第一は、西側の一般の人々の間に、親米連合勢力が『IS』と、自主的に戦っているという幻想を創り出す事だ。そして第二に、穏健な在野勢力を装うイスラム主義者の手で、アサド政権を倒す事である。まさにそれゆえに、米国の諜報機関は『IS』や、存在もしていない『FSA』など他のグループの陣地に関するデータを、ロシアと共有しようとしないのである。
 実際上、シリアに穏健な在野勢力など存在しない。そうした勢力は、死に絶えており、残ったのは、ジュネーヴやモスクワあるいはアンカラ*50で開かれる平和維持フォーラムで、スポンサーの利益のために、シリアの『民主派』のリーダーを装う、数百人の臆病者のグループだけだ。
 またロシアが『穏健な在野勢力』を空爆しているとの非難は、今日シリア領内には、反アサド側に立つ勢力など、イスラム過激派グループを除いて残っていないという単純な理由からも、馬鹿げたものと言わざるを得ない。ロシア軍機が今、誰を攻撃しようと、それが『IS』であれ『FSA』であれ、それらは、シリアを自分の敵ばかりでなく一般市民の血で満たそうとする様々なテロリストに対するものである。欧米が、武器や資金、その他のものをいかなる在野勢力に援助するとしても、もう今日それは、シリア国民によって合法的に選ばれた政権に対するばかりでなく、ロシアに敵対する行為となるだろう。」

*1:著書『古代の女性官僚:女官の出世・結婚・引退』(2014年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)

*2:著書『織豊政権と東国社会:「惣無事令」論を越えて』(2012年、吉川弘文館

*3:埼玉県比企郡嵐山町杉山にある。城といっても「安土城跡」のような完全な「城跡」であり説明されなければ城とは分からない状態である(しかも文献にほとんど残っていないこともあって無名)。「姫路城」のような「天守閣が現存して見るからに壮大なもの」ではもちろんなく埼玉県民どころか、たぶん嵐山町民でも知らない人が多いと思う。なお、2008年、杉山城跡に、菅谷城跡(埼玉県比企郡嵐山町)、松山城跡(埼玉県比企郡吉見町)、小倉城跡(埼玉県比企郡ときがわ町)がセットで「比企城館跡群」として国の史跡として広域指定された(ウィキペディア「杉山城」参照)。

*4:2002年のこと

*5:扇谷上杉氏と激しく対立したが北条氏に圧迫され、当主・上杉憲政は1552年に越後の長尾景虎(後の上杉謙信)の元に逃れた。1561年には憲政は上杉家の家督関東管領職を長尾景虎に譲り、長尾氏が上杉氏を名乗るようになる

*6:後に北条氏によって滅ぼされた

*7:武蔵国毛呂(現在の埼玉県入間郡毛呂山町)の豪族・毛呂氏のこと

*8:「細かい点」とは竹井氏による資料解釈であり、その資料解釈には「椙山之陣は杉山城ではない」など、もちろん批判もあるわけです。

*9:後に、黒田基樹編『山内上杉氏』(2014年、戎光祥出版)に収録

*10:後に齋藤慎一著『中世東国の道と城館』(2010年、東京大学出版会)に収録

*11:埼玉県比企郡嵐山町菅谷にある城跡。もともとは鎌倉幕府の有力御家人として知られる畠山重忠の館跡である。後に「扇谷上杉氏→山内上杉氏→北条氏」の持城となった。

*12:埼玉県比企郡小川町高見にある城跡。

*13:羽柴秀吉柴田勝家を打倒した戦い

*14:柴田勝家が本陣をおいた。福井県にある。

*15:ググったところ中井均氏の説らしい。つまり上杉氏築城説でも北条築城説でもない第三の説と言う事でしょう。正確には「上杉氏築城、秀吉改修説」でしょう。こうすることによって「遺物から上杉氏築城と判断されるが城郭構造からは、北条氏以降築城と思われる」という状態がクリアできるわけです。が、もちろん「一応筋が通ること」と「それが正しいかどうか」は別です。上杉氏築城説に立てば「複雑な城郭構造から北条以降築城と判断すること自体がただの思い込み、上杉氏でも杉山城は築城できた」ということになるし、北条氏築城説にたてば「遺物からの年代推定が間違ってる」ことになるわけです。素人には一寸判断がつきません。

*16:藤木久志監修、2005年、高志書院

*17:著書『「城取り」の軍事学:築城者の視点から考える戦国の城』(2013年、学研パブリッシング)、『東国武将たちの戦国史:「軍事」的視点から読み解く人物と作戦』(2015年、河出書房新社)など

*18:著書『戦国期城館群の景観』(2002年、校倉書房)、『中世城郭の縄張と空間:土の城が語るもの』(2015年、吉川弘文館)など

*19:久保田藩秋田藩)藩主

*20:埼玉県比企郡嵐山町越畑(おっぱた)にある城跡

*21:著書『新田義貞』(2005年、吉川弘文館人物叢書)、『足利尊氏と直義:京の夢、鎌倉の夢』(2009年、吉川弘文館歴史文化ライブラリー)など

*22:2009年、高志書院

*23:今の静岡県三島市にあった城(現在は城跡)。永禄年間(1558年〜1570年)に北条氏康により築城される。

*24:今の山梨県韮崎市にあった城(現在は城跡)。天正10年(1582年)に武田勝頼により築城される。

*25:今の静岡県掛川市にあった城(現在は城跡)。

*26:織田信長に滅ぼされた朝倉氏の本拠地。今の福井市にある。

*27:「うわどじん」と読む。今の埼玉県川越市上戸にあった城(現在は城跡)

*28:「いかっこじん」と読む。今の埼玉県本庄市五十子にあった城(現在は城跡)

*29:著書『中世瀬戸窯の研究』(2008年、高志書院

*30:著書『城郭の縄張り構造と大名権力』(2001年、九州大学出版会)

*31:今の栃木県栃木市にあった城(現在は城跡)。

*32:滝山城は今の東京都八王子市に、栗橋城は今の茨城県猿島郡五霞町にあった城(現在はどちらも城跡)。

*33:著書『中世東国日蓮宗寺院の研究』(2003年、東京大学出版会)、『中世東国足利・北条氏の研究』(2006年、岩田書院)など

*34:個人サイト(http://www.tsuru.ac.jp/~omori/)、著書『アフリカ系アメリカ人という困難:奴隷解放後の黒人知識人と「人種」』(2014年、彩流社

*35:著書『アメリカの貧困と不平等』(1993年、明石書店)、『キング牧師マルコムX』(1994年、講談社現代新書)、『神の国アメリカの論理:宗教右派によるイスラエル支援、中絶、同姓結婚の否認』(2008年、明石書店)、『オバマの誤算:「チェンジ」は成功したか』(2010年、角川oneテーマ21)など

*36:個人サイト(http://yamaguchijiro.com/)。著書『政治改革』(1993年、岩波新書)、『日本政治の課題:新・政治改革論』(1997年、岩波新書)、『イギリスの政治・日本の政治』(1998年、ちくま新書)、『日本政治・再生の条件』(2001年、岩波新書)、『戦後政治の崩壊:デモクラシーはどこへゆくか』(2004年、岩波新書)、『ブレア時代のイギリス』(2005年、岩波新書)、『政権交代論』(2009年、岩波新書)、『政権交代とは何だったのか』(2012年、岩波新書)、『いまを生きるための政治学』(2013年、岩波現代全書)など

*37:著書『東京大空襲:未公開写真は語る』(2012年、新潮社)

*38:著書『ふくしま再生と歴史・文化遺産』(編著、2013年、山川出版社

*39:『帝国日本の再編と二つの「在日」:戦前、戦後における在日朝鮮人と沖縄人』(共著、2010年、明石書店)、『近代の日本と朝鮮』(共著、2014年、東京堂出版

*40:ISILが出現したのは「米国の国家戦略(フセインやアサドへの対抗のため現地反体制勢力に武器供給したこと)」が原因であり、そうした米国の国家戦略には「米国型グローバリズム戦略」が存在するというのが、筆者の理解のようだ。そこからは「米国が無法な軍事力行使や政権転覆行為を放棄しない限り、ISIL的現象はなくならない」と言う結論であろう。

*41:著書『近代バルカン都市社会史:多元主義空間における宗教とエスニシティ』(2003年、刀水書房)、『ボスニア内戦』(2008年、有志舎)、『中東民族問題の起源:オスマン帝国アルメニア人』(2014年、白水社

*42:エリツィン政権大統領府第一副長官、連邦保安庁長官、第一副首相、首相を経て大統領

*43:野原の場合、「日本から遠く離れた」アサド政権打倒どころか、「日本の隣国」北朝鮮打倒を唱える論外のバカ、クズだが。お前さ、隣国でそう言う無茶やったら「シリアから欧州に難民が大量に来てしっちゃかめっちゃか」並みの惨状(大量の北朝鮮難民)が日本を襲うかも、とか、戦争で最悪何万人に死ぬか分からないとか考えられないバカか?、id:noharra

*44:まあ、この文章より前も俺の意見と佐原氏の意見がごちゃごちゃになってる気もするが。

*45:まあ、トルコ政府や中国政府に何の問題もない、100パー、クリーンだとまでは言いませんが

*46:イスタンブル市長、首相などを経て大統領

*47:カタールやサウジに対するこうした見方が正しいか知らないが「王国でありどう見ても民主的ではないカタールやサウジ」に米国が何故か非常に甘い「偽善きわまりない二重基準国家」である事は事実だろう。

*48:ソ連共産党書記長、ソ連大統領を歴任

*49:主として英米のこと

*50:トルコの首都