新刊紹介:「歴史評論」1月号

★特集「第一次世界大戦後の日本『新外交』」
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のあるモノ、「俺なりに内容をそれなりに理解し、要約できたモノ」のみ紹介する。
■『1920年代の日本外交と知識人:その遠景』(片桐庸夫*1
(内容紹介)
 総論的論文。個別論文の簡単な紹介と「何故、1920年代(第一次大戦後)の日本外交に注目するのか」が書かれている。
 「何故、1920年代の日本外交に注目するのか」の理由は以下の通り。平たく言えば「外交環境の大変化」である。
1)ロシアとドイツにおける革命の発生。
2)レーニンソ連指導者)やウィルソン・米国大統領による民族自決権の主張
 この主張の影響もあり、チェコハンガリーポーランドユーゴスラビアバルト三国などが独立した。また、この主張は中国の54運動、朝鮮の31独立運動を引き起こした。
3)国際連盟が発足、日本は常任理事国となり、国際的地位が向上した
4)いわゆる排日移民法の成立(1924年


■『外務省と「新外交」:国際民間団体対応を中心に』(堀内暢行)
(内容紹介)
 外務省の「太平洋問題調査会(IPR)」への対応が分析されている。
 外務省は第1回会議においては「出席者への資料提供や参加費用支弁」などを一応行ったものの、その影響力については懐疑的であり関与はそれほど積極的ではなかった。
 しかし第二回会議以降は「調査会が恒常的組織になった事」「第1回会議ではテーマではなかった中国問題が第2回大会以降テーマとして浮上したこと」から第1回大会とは違い「出席者への資料提供や参加費用支弁」に積極的に関与した。
 ただし「調査会会合での日本の立場の説明(日本外交の正当化)」については、積極的に関与した外務省も何故か「調査会会合についての報告書」を作成しても、それをマスコミや政治家などへの広報に積極的に活用した痕跡は認められない。またこうした報告書が「外交政策決定に用いられた痕跡」も現時点では認められない。
 何故「報告書」を外部広報に積極的に用いなかったのか、また「外交政策決定に用いられることがなかったとするならばそれは何故なのか」は今後の検討課題である。


■『外交論壇の新潮流:半沢玉城による『外交時報』改革』(伊藤信哉*2
(内容紹介)
・外交時報国際法学者・有賀長雄*3によって創刊された雑誌だが、売れ行き不振と有賀の健康問題から、大庭柯公*4に経営権が譲り渡される。
 しかし大場も経営がうまくいかず、彼は上原好雄(有賀、大場に続く三代目社長)に経営を譲り渡す。この上原が『外交時報』の編集担当として登用したのが本論文がとりあげる半沢(後に上原に続く四代目社長)である。
 半沢の編集方針として注目されるのは
1)若手の登用
2)学者だけではなく政治家や官僚(軍人を含む)の寄稿論文を掲載
3)読者投稿欄の充実
といったことである。こうした新機軸は読者層を広げ、外交時報の経営状態を改善させた。
 1)としては蝋山政道*5(1895年生まれ、1920年代は東京帝国大学助教授)、横田喜三郎*6(1896年生まれ、1920年代は東京帝国大学助教授)、田岡良一*7(1898年生まれ、1920年代は東北帝国大学助教授)、英修道*8(1902年生まれ)、植田捷雄*9(1904年生まれ)などといった1920年代においては「20〜30代の人間」が上げられる。
 2)としては原敬*10(当時、首相)、高橋是清*11(当時、原内閣蔵相)、芳澤謙吉*12(当時、中華民国公使)、二宮治重*13(当時、参謀本部第二部長)、渡辺錠太觔*14(当時、陸軍航空本部長)、野村吉三郎*15(当時、海軍省教育局長)などが上げられる。
 なお、2)、3)の前提として筆者は「高学歴化の影響もあり外交に興味を持つ国民が増えたこと(外交時報を読む読者層の増加)」「そうした国民の存在から政治家や官僚が外交の実施においては国民への広報活動が重要と考え外交時報のような外交宣伝の場を求めていたこと(外交時報執筆希望者の増加)」をあげている。
 ちなみに総合雑誌「改造」が創刊されたのは1919年であるが、これも「高学歴化の影響」と見ることができるのではないか。


■『戦間期の民間外交と国際政治の民主化:国際世論をめぐる攻防における知識人と国家』(高光佳絵*16
(内容紹介)
 主としていわゆる「インクワイアリー問題」が取り上げられている。

ウィキペディア「太平洋問題調査会(IPR)」
 1938年には日中戦争の原因・影響の学問的解明を目的としてIPR国際事務局により企画された「インクワイアリー(調査)シリーズ」の刊行をめぐってIPR日本支部は事務局と対立、「インクワイアリー」に対抗して日英両文による『現代日本と東亜新秩序』を刊行し、翌1939年のヴァージニア・ビーチ会議以降、太平洋会議への参加を拒否した。これ以後日本IPRの活動は停滞し、日米開戦直前の1941年11月にはIPR中央理事会との関係を絶つなどして組織維持をはかろうとしたが1943年5月14日「敵性調査機関」として日本政府から解散処分を受けた。


 もともと「政府と独立した民間外交」を目指して誕生した調査会(IPR)だったが、日中戦争の勃発を機にIPR米国支部やIPR中国支部は日本批判のトーンを強め、一方、IPR日本支部は米国支部や中国支部の態度に反発を強め、ついに「会議不参加」という事実上のIPR脱退に至った。
 もちろんこうした米国、中国、日本支部の態度は政府当局に影響されたものであった。政府から独立した民間外交の難しさを「インクワイアリー問題」は示していると言える。

*1:著書『太平洋問題調査会の研究:戦間期日本IPRの活動を中心として』(2003年、慶應義塾大学出版会)、『民間交流のパイオニア渋沢栄一の国民外交』(2013年、藤原書店

*2:個人サイト(http://www.s-ito.jp/home/miscellanea/profile.html)。著書『近代日本の外交論壇と外交史学:戦前期の『外交時報』と外交史教育』(2011年、日本経済評論社

*3:明治19年1886年)ヨーロッパに留学し、オーストリアウィーン大学教授シュタインに国法学を学ぶ。明治21年1888年)に帰国し、明治22年(1889年)枢密院書記官となり、内閣に勤務しながら著述活動も展開。日清戦争日露戦争には法律顧問として従軍し、ハーグ平和会議には日本代表として出席している。その後陸軍大学校海軍大学校東京帝国大学慶應義塾大学早稲田大学などで憲法国際法を講じた。大正2年(1913年)に中華民国大総統袁世凱の法律顧問となったが、大正4年(1915年)に日本が袁に突きつけた対華21カ条要求に反対して顧問を辞任。大正10年(1921年)、脳溢血のため60歳で死去(ウィキペディア「有賀長雄」参照)。

*4:1918年、大阪朝日新聞の「白虹事件」の影響を受けて東京朝日新聞を退社。翌1919年に、同じく東京朝日を退社した松山忠二郎が社長に就任した読売新聞社に招かれて編集局長となった。社会運動に関心をもち、日本社会主義同盟の創立にかかわった。1921年5月、読売新聞の特派員としてシベリアからロシアに入るが、極東共和国の取材でチタから送ったレポートを最後に消息を絶つ。戦前にソ連渡航した社会主義関係者について調査をおこなっている加藤哲郎一橋大学名誉教授は、大庭はスターリン粛清によって死亡した模様であると記している。死後の1992年10月、ロシア政府により名誉が回復された。なお、大庭は1902年頃にウラジオストクエスペラントを学び、日本エスペラント協会に入会。エスペラントの普及活動に当たった(ウィキペディア「大庭柯公」参照)。

*5:政治学者。後にお茶の水女子大学長。民社党のブレーンの一人としても知られる・著書『政治学の任務と対象』(1979年、中公文庫)など(ウィキペディア蝋山政道」参照)。

*6:国際法学者。後に東京大学法学部長、最高裁長官など歴任(ウィキペディア横田喜三郎」参照)。

*7:国際法学者。後に京都大学法学部長、大阪産業大学学長など歴任(ウィキペディア「田岡良一」参照)。

*8:国際政治学者。1926年慶応義塾大学法学部卒。慶應義塾大法学部助教授、教授を歴任。1968〜72年、日本国際政治学会理事長(ウィキペディア「英修道」参照)。

*9:国史家。1928年東京帝国大学法学部卒。1930年東亜同文書院教授、1937年東方文化学院研究員、1942年東京帝国大学東洋文化研究所嘱託。戦後は東京大学東洋文化研究所教授、早稲田大学教授を歴任(ウィキペディア「植田捷雄」参照)。

*10:伊藤内閣逓信相、西園寺、山本内閣内務相を経て首相

*11:山本、原、田中、犬養、斎藤、岡田内閣蔵相を歴任。226事件で暗殺される

*12:後に犬養内閣外相

*13:参謀次長、第5師団(広島)長、満州拓殖公社総裁、小磯内閣文相など歴任

*14:陸軍大学校校長、陸軍航空本部長、台湾軍司令官、陸軍教育総監など歴任。226事件で暗殺される。

*15:軍令部次長、呉鎮守府司令長官、第3艦隊司令長官、横須賀鎮守府司令長官、阿部内閣外相、駐米大使など歴任。

*16:著書『アメリカと戦間期の東アジア:アジア・太平洋国際秩序形成と「グローバリゼーション」』(2008年、青弓社