新刊紹介:「歴史評論」4月号

★特集「越境空間から読み解くアメリカ」
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のあるモノ、「俺なりに内容をそれなりに理解し、要約できたモノ」のみ紹介する。
■「アイルランド貧困層の国際移動」(廣田秀孝)
(内容紹介)
・19世紀のジャガイモ飢饉で多くのアイルランド人が北米(アメリカ)に移民したが、彼らの多くは貧困から脱出できず、「反移民感情の高まり」から成立した移民制限法によって彼らの多くは強制送還された。
 彼らの強制送還先は「アイルランドから米国へ移住する際」の通過地点・英国リバプールであったが、リバプールにおいても彼らはよそ者扱いされ、結局アイルランドへと強制送還された。アイルランドも彼らにとっては安住の地ではなく「アイルランド政府」は貧困層をできれば受け入れたくはなかった。 
 ここからは「米国、英国、アイルランド」において貧困層を「社会の負担」と認識し、できる限り排除したいとする共通認識が成立していたことがわかる。


■「日本人漁民の国際移動と共同体形成」(今野裕子)
(内容紹介)
 筆者は従来の日系移民史(米国)が「数の多さ」からもっぱら農業移民にウェイトがおかれていたが、漁業移民にもスポットが当てられるべきとし、和歌山県から、米国カリフォルニア州ロサンゼルスにあるターミナル島への移民を取り上げている。当然ながらこうした「漁業での日系移民研究」は「米国への日系移民史」だけでなく「米国漁業史」にも良い成果を与えることが期待できる。

参考

http://www.yomiuri.co.jp/local/wakayama/feature/CO020726/20160102-OYTAT50055.html
■読売新聞「移民:和文化と共に」
アメリカ西海岸の「ターミナル島」
 和歌山から東に約9000キロ離れた米西海岸カリフォルニア州・ロサンゼルス港の一角に「ターミナル島」と呼ばれる島がある。全長約4.5キロ、幅約3キロ。かつては多くの缶詰工場などが立ち並んだが、今は殺風景な更地になっている。ただ1930年代には約3000人もの日系移民が暮らすにぎやかな島だった。
 新宮市に住む浜本千鶴子さん(90)は現地で生まれ、太平洋戦争の前、日本に帰国した。「日本人が汗と涙で作った島。みな強い絆で結ばれ、一つの家族のように暮らした」と懐かしむ。
 戦前、和歌山を含め、日本の地方はどこも貧しかった。豊かさを求め、大勢が海を越えた。県の集計では、明治の1890年代から戦後の1950年代にかけ、アメリカ、カナダ、ブラジルなどに4万人以上の県民が渡ったとされる。
 ターミナル島は、単に労働の舞台だっただけでなく、移民の精神のよりどころでもあった。神社や寺院がつくられ、男性は柔剣道の練習を通じて日本の礼儀を学び、女性は日本舞踊や茶、いけ花で和文化に触れた。体は海を越えたが、「心は日本と共にある」。そう念じ、日々を過ごした。
 移民者は自らの生活を豊かにして満足するのでなく、稼いだ金を日本に送り、古里の発展を遠方から支えた。さらに、移民に詳しい太地町歴史資料室の桜井敬人学芸員(44)は「送金だけではない。移民は帰国した後も、文字通り身を粉にして古里のため働いた」と話す。
 同町では1916年、帰国者が中心となり、共同出資で定置網漁を営む「太地水産共同組合」を結成。規約の第1条は「町経済を援助する」だ。公共優先を徹底し、組合が上げた利益で、昭和の初めには県下でトップクラスの小学校や駅などを次々と整備した。
 資金に加え、精神面でも帰国者は地域をリードした。利益は公平に分配すべきだとの考えから、水産組合の株の所有は原則1世帯1株までと制限し、平等主義の範となった。組合設立当初に理事長を務めた庄司楠五郎氏(1957年死去)の孫で現太地町長の三軒一高さん(68)は「全町民が潤うにはどんな町政が必要なのか。そんな意識が自然と培われた」と話す。
 だが、太平洋戦争は移民と古里の関係にも暗い影を落とした。
 ターミナル島でも米国側から立ち退き命令が出され、住民は収容所に追いやられた。ひとけのなくなった島では神社や学校が無残に取り壊された。
 美浜町出身の祖父がターミナル島に渡り、1937年、島で日系3世として生まれた龍神好美さん(78)は1945年夏、収容所内のラジオ放送で日本の敗戦を知った。両親、妹と船に乗り、約半月後に初めて降り立った祖国は荒廃していた。神奈川県から関西に向かう列車から見た富士山の美しい姿がせめてもの「慰め」だった。
 平成の今。太地町立太地中学は、移民の歴史を知る「移民学習」に力を入れる。同町は移民先の一つだったオーストラリアの港町ブルームと姉妹都市締結し、毎年、国際交流で何人かの中学生がこの町に赴く。
 担当の中西健教諭(43)は「かつては水産業の出稼ぎで日本人が海外に出たが、今は逆に海外の労働力を受け入れ、成り立つ漁業もある。海外の理解は今も昔も変わらない大事なテーマ」と語る。
 昨年11月、龍神さんはターミナル島を訪問する太地町の一行に加わり、74年ぶりに島を訪ねた。幼少の記憶はおぼろげだったが、頬をなでる潮風がどこか懐かしかった。持参した祖父と両親の写真に、「ようやく家族そろって古里に帰ってこられましたね」と語りかけたという。(福永正樹)
【メモ】ターミナル島
 米国で魚食文化が普及し始めた20世紀初頭、紀南地域の漁村出身者らが多く出稼ぎで移り住んだ。島の港には約100隻もの漁船が係留されていたという。マグロ缶詰の一大生産拠点となり、代表的な商品の一つ「チキン・オブ・ザ・シー」(海の鶏肉)は今に至るも米国人の大好物となっているという。

http://www.sankei.com/region/news/140901/rgn1409010019-n1.html
産経新聞捕鯨400年「くじらの町」太地町 夢求めた「移民の町」 和歌山』
(前略)
 明治から昭和にかけて、太地の人々は夢を求めて海を渡った。米国では、脂分の少ないビンナガマグロ*1からさらに脂を抜く技術を使って、米国人好みの淡泊な味に仕上げたという。
 太地町から米カリフォルニア州に移住し、いち早く漁業に取り組んだ日本人として知られるのが、漁野吉郎兵衛。ひ孫の清春さん(72)=埼玉県鴻巣市在住=は、親類が異国の地で暮らしていた当時のことを鮮明に覚えていた。「子供のころ、米国から届く荷物にコーヒーやお菓子などが入っていて、とても楽しみだった」と懐かしそうに話した。
 昭和初期、人口3800人に満たなかった太地町では、500人以上が移住したという。向かった先は米国のほか、カナダのブリティッシュコロンビア州、オーストラリア・ブルームだった。同町歴史資料室の櫻井敬人学芸員は「能力を生かして豊かさを得るチャンスをつかもうとしたのではないか」と説明する。
(後略)

http://www.la.us.emb-japan.go.jp/web/News_Soryoji_Tasumi_2013.htm
■外務省「平成25年総領事表彰」
在ロサンゼルス日本国総領事館は、2013年6月10日(月)、巽幸雄ターミナルアイランダーズ前会長に対して、総領事表彰を行います。
(中略)
・表彰理由
 ターミナルアイランダーズは、1971年の創立以来、会員同士の親睦を図ることはもちろん、敬老引退者ホーム設立の際の資金援助やその他日系団体の支援に力を注いでおり、南カリフォルニアにおける日系社会の歴史・文化の普及・発展に大きく貢献しています。
 巽幸雄氏は、上記の通り、同団体の副会長を14年、会長を27年務められました。主な功績としては、2002年にターミナル島の一角に鳥居と及び「漁師の像」記念碑を中心とした「ターミナル・メモリアル」が落成した後、10年の長きにわたり保全に献身されたことが挙げられます。
(中略)
 加えて、2007年に上映となったドキュメンタリー映画、「古里〜失われた村ターミナルアイランド〜」の撮影に全面的に協力し、かつてのターミナル島での漁村の生活や、第二次世界大戦前、同地において日本人がどれだけ米国における漁業の発展に寄与していたかを後生に伝えるためにご尽力されるなど、2004年に外務大臣表彰を受けた後も2011年に会長を退かれるまで活躍されました。


■「アメリカ・ユダヤ人委員会とイスラエル:建国の余波のトランスナショナル・ヒストリー」(小阪裕城)
(内容紹介)
 もともとは「非シオニスト団体」としてスタートしたはずのAJC(アメリユダヤ人委員会)が、イスラエルが次第に国際社会での存在感を高めていくと共に次第にシオニスト団体化し、有力なイスラエルロビーになっていく様子が述べられている。

参考

アメリカ・イスラエル公共問題委員会(略称AIPAC、エイパック:ウィキペ参照)
 アメリカ合衆国において強固な米イスラエル関係を維持することを目的とするロビー団体である。アメリカにおいて、全米ライフル協会をも上回る、最も影響力のあるロビー団体とする報道もある。
・政治目標[編集]
 AIPACのホームページによれば、2006年8月現在でのAIPACの政治目標は以下の6つである。
1.ハマースに率いられたパレスチナ自治政府を孤立化させる。
2.イランの核兵器保有を防ぐ。
3.イスラエルを支援し、中東における唯一の民主主義国家を守る。
4.イスラエルを、将来の脅威から守る。
5.(アメリカにおいて)次世代の親イスラエル政治指導者を育成する。
6.アメリカ合衆国議会に対し、米-イスラエル関係に関する宣伝活動を行う。
・批判を呼んだ活動
 AIPACの活動のうち、例えば以下のものは大きな議論の的となった。
・1981年のチャールズ・パーシー上院議員へのネガティヴキャンペーン
 1981年4月、イラン革命イスラム諸国への波及を恐れたレーガン政権は、アラブ穏健派に属する諸国への支援の一環として、サウジアラビアAWACSを5機売却することを決定した。上院外交委員長として、パーシーはこれを支持した。その結果、AIPACはパーシーを「反イスラエル」だとするネガティヴキャンペーンをさまざまな手法で展開。結果、1984年の選挙でパーシーは落選した。
・1982年のイスラエルレバノン侵攻問題
 同年のイスラエルレバノン侵攻において、フランスが主導した国連イスラエル非難決議案に対して米国政府は拒否権を行使した。これは議会およびロナルド・レーガン大統領に対してAIPACが影響力を及ぼしたためであり、多くの犠牲者を生んだ、との批判がなされた
ミアシャイマーとウォルトによる分析
 AIPACとその米国対外政策への影響度を巡る最も包括的な分析は、2006年に発表されたジョン・ミアシャイマーシカゴ大学政治学教授)とスティーヴン・ウォルト(ハーバード大学ケネディスクール学部長)による『イスラエル・ロビーとアメリカの外交政策』(邦訳、2007年、講談社)である。この論文中で両名は、アメリカの中東政策は主として「イスラエル・ロビー」すなわち「アメリカの外交政策を親イスラエルの方向に誘導しようと精力的に立ち働く、個人および団体のゆるやかな連合体」によって操作されており、AIPACはその中心に位置すること、その結果、アメリカ自身にとって現在の中東情勢は国益に沿う方向ではなくむしろ重荷となってきていることを論じている。
 同論文はもともと米雑誌「アトランティック・マンスリー」のために2002年に起稿されたが、同誌が掲載を拒否、最終的に2006年3月になり英雑誌「ロンドン・レヴュー・オヴ・ブックス」に掲載されるという曲折を経ており、発表後も賛否両論の的となっている。


■「南アフリカにおけるアメリカ南部黒人教育の受容」(上林朋広)
(内容紹介)
・ANC(アフリカ民族会議)初代議長ジョン・ランガリバレレ・デューベが米国南部の黒人教育施設タスキーギ学院をモデルに南アに設立したオハランゲ学院が取り上げられている。
 タスキーギ学院やオハランゲ学院が白人層から一定の支援を受けていたことに触れ、その理由を「学院が政治的言動を控え、職業教育による黒人の経済的自立を全面に掲げたから(非政治性をアピールしたから)」としている。
 政治的言動を控えることで学院は白人層の攻撃をかわし、一部白人層から支援を受けることすらあったが、それは一方で「黒人による自立的経営」を阻害する危険性のある危うい道であった。


■書評:宇吹暁「ヒロシマ戦後史:被爆体験はどう受けとめられてきたか」(2014年、岩波書店)(住友陽文*2
(内容紹介)
 住友氏の書評に寄れば本書の大きなテーマの一つは「何故被爆体験を理由に反核兵器を訴えてきた日本において近年まで原発の安全性についての批判(個々の原発の立地に対する批判)はともかく、何故脱原発を左派政党も含め、あまり大きくなかったのか」ということ*3のようである。
 小生も別に社会党共産党といった左派政党をあげつらう気もない*4のだが、「日本に置いて保守派だけでなく左派も含めて最近(というのは福島事故のわけだが)まで脱原発の声が大きくはなかったこと」は「そのようになった理由の分析(考えられる物としては石油ショックの衝撃、電力労組の左派政党への影響力など)」も含めて反省的に評価されるべきだろう。
 もちろん社会党共産党が党として長年、各地の原発立地反対運動にコミットしてきたことや、近年、脱原発を強く訴えていることをきちんと評価した上で、「社会党共産党だって、最近まで脱原発ではなかったじゃないか」などという揚げ足取りではない意味での「反省的評価」だが。

*1:ビンチョウマグロとも言う。

*2:著書『皇国日本のデモクラシー:個人創造の思想史』(2011年、有志舎)、『核の世紀:日本原子力開発史』(共著、2016年、東京堂出版)など

*3:これは福島事故を受けての住友氏の問題意識でもあるのだろうが。

*4:これは住友氏や宇吹氏もそうであろう