第三回「国基研 日本研究賞」記念講演会の講演者が「内モンゴル出身のあの人」に決定 、ほか

 最初はhttp://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20160326/5064208022の一部だったのですが大分長い文章になったので「日付一緒の」別エントリにしました。
■第三回「国基研 日本研究賞」記念講演会の講演者が「内モンゴル出身のあの人」に決定
http://jinf.jp/meeting/form?id=123
 そう「内モンゴル出身のあの人」とは「司馬遼太郎賞受賞」のあの人です。

・講演者:楊海英*1(大野旭) 静岡大学教授
・開催日時:2016年07月06日 (水) 18:30〜20:30

 ついに「落ちるところまで落ちた」ようです。つうかあの人のどこが「日本研究」なのか?
 てっきりご専門は「内モンゴル研究」かと思っていたんですが*2。一体どんな理由で受賞し、どんな講演をなさるのか、今から楽しみです。

【追記】

http://jinf.jp/japanaward
第三回「国基研 日本研究賞」
楊海英(大野旭)静岡大学教授
・「日本陸軍とモンゴル 興安軍官学校の知られざる戦い」(中央公論新社
・「チベットに舞う日本刀 モンゴル騎兵の現代史」(文藝春秋

ということで受賞理由が一応分かりました。

http://jinf.jp/japanaward
選考の経緯
満州国における日本の統治と教育、とりわけ騎兵の育成に、武を尊び知を崇める日本人の文武両道の精神とその実践を見てとり、遊牧の民のモンゴル人の価値観と重ね合わせて評価する。
・モンゴル*3をはじめ、かつて日本が支配下に置いた民族や国では、実は大東亜戦争の傷は癒えておらず、それらの国々の現状を放置せず、真の回復のために日本が積極的に関与していくことが求められている。特にモンゴルでは日本への期待が強いことを認識してほしい、と楊氏は語っているのではないか。
講評:選考委員 櫻井よしこ 国家基本問題研究所理事長

 ああなるほどね、やはりそういう日本ウヨ的な理由ですか。

http://jinf.jp/japanaward/h28list
受賞のことば
 「太陽の国」からの近代文明とモンゴル
 ナラン・ウルス(Naran Ulus)というモンゴル語がある。直訳すれば、「太陽の国」との意であるが、モンゴル人はこのように日本を呼ぶ。
(中略)
 南モンゴルのオルドス(Ordos)高原に生まれた私は、子どもの頃から「太陽の国」に憧れていた。モンゴル軍の騎馬兵だった父親やその仲間たちはいつも、「日本人のように正直に、公平に、規律正しく生きなければならない」と私を諭していた。
(中略)
 日本は(ボーガス注:満州国を建国し、満州国の一部だった)南モンゴル各地に学校を創設して教育制度を普及させ、先進的な医学の知識と衛生観を広げた。その結果、1945年夏になると、草原の遊牧民は完全に近代的な民族(nation)に変身していた。
(中略)
 しかし、モンゴル人は「太陽の国」から学んだ近代文明の財産を充分に継承できなかった。「ヤルタ協定」の密約*4によって、南モンゴルが中国*5に売り渡された*6からである。それでも、民族自決の機会を奪われたモンゴル人たちがいかに日本的精神と思想を堅く守りながら力強く生きてきたかを私は著書『チベットに舞う日本刀:モンゴル騎兵の現代史』と『日本陸軍とモンゴル:興安軍官学校の知られざる戦い』の中で描いている。日本人とモンゴル人たちの生き方に、日本近代文明の精粋が宿っている、と私たちモンゴル人は信じている。

 イヤー、人間って羞恥心を失えばここまで「日本ウヨに媚びる事ができる」んですね(毒)。
 とはいえ、『日本陸軍とモンゴル』についての書評(複数)を信じれば、楊が本心では日本ウヨ連中ほど戦前日本万歳でないことは確かでしょう。そしてウヨ連中が楊の本をまともに読んでいるのか極めて疑問です。それでは書評を紹介してみましょう。

http://www.fben.jp/bookcolumn/2016/02/post_4588.html
 日本軍は、モンゴル民族を自分のいいように利用したということがよく分かる本です。
(中略)
 日本が思い描く楽天地は日本人主導のものだった。モンゴル人*7は(ボーガス注:中華民国からの)民族の独立を目指していた。両者の思惑は最初から異なっていた。

http://blog.ohtan.net/archives/52241233.html
「1936年5月20日付で満州国政府から出された「蒙古民族指導の根本方針」は「民族自決ではなく、各民族が満州国のなかに国民として溶け込むことが現代における民族の生き方である」と最後に強調してから、「満州国の民族政策はアジア民族政策の原形」である、と結論づけている。
 要は、日本への同化を「アジア民族解放」の目標としている。
 中国共産党の宣言書と関東軍の民族政策は驚異的に近似していた。
 どちらもモンゴルのような弱小民族の単独による自決を許さずに、自らを救世主にして解放者であるとし、その救世主と解放者による救済と解放を待たなければならないという傲慢な態度である。
 実際、中国共産党は抗日戦争には加わらず*8に辺境の延安でじっくりと関東軍の政策を研究していた。
 中国共産党はまるで日本帝国主義を引き継いでいるかのようだ。」(楊本p78〜79、91、97〜98)

中国共産党の宣言書と関東軍の(ボーガス注:内モンゴル人に対する)民族政策は驚異的に近似していた。中国共産党はまるで日本帝国主義を引き継いでいるかのようだ」と言う楊の言葉はどう見ても国基研ら日本ウヨに容認できるものではない。そしてそんな楊が国基研ら日本ウヨを本心から信頼しているわけがない。
 ここには「反中国で、お互い利用価値がある」、ただそれだけで成立している醜い野合があります。しかし楊はペマ・ギャルポなどとは違いどうしてもモンゴル人を利用し裏切った戦前日本への怒りがどうしても「抑えきれない」「隠しきれない」ようです。一方それでも楊は「日本ウヨとの野合に手を出す」わけです。

あるアマゾンレビュー(レビュアー:美しい夏)
・モンゴル人である著者の、ジョンジョールジャブへの思い入れは強い。それはそれで構わないのだが、かなり情念の激しいジョンジョールジャブの生涯の、それぞれの時期の思念、行動に対して、すべて、共感的、正当化的に著述し、その観点から日本軍人を非難するのは違和感を覚える。特に、シニヘイ事件における日系軍人38人の殺害を、「草原の二・二六事件*9」と名付けて、賞賛している(そのように読める)のには、強い違和感を覚える。
・第二章以後は、日本人、日本軍人のモンゴル政策、モンゴル観に対する批判がどんどん高まっていき、ついに、第六章の、モンゴル人兵士、生徒による日系教官の無差別殺害に至っても、まるで、因果応報*10のような書き方しかされていないのである。
・著者は戦後の中国の「内モンゴル中国化政策」を厳しく批判し、「中国人が書いたモンゴル史は嘘の塊」と罵倒する。その一方、1945年8月のモンゴル兵による日系教官の殺害を、長年中国政府が「抗日」と認めてこなかったことを不当とし、1999年に至って、やっと「(ボーガス注:抗日)義挙*11」と認められたことを喜んでいる。だが、学校教育によりモンゴル近代化に貢献した日系教官たちを、終戦真近に殺害してしまったことを、モンゴル人の宿敵のはずの中国共産党に「抗日(ボーガス注:義挙)」と評価されたのが、うれしいことなのだろうか?*12

あるアマゾンレビュー(レビュアー:Rob Jameson)
 1945年8月ソ連の対日参戦直後に起きたシ二ヘイ事件の評価。モンゴル軍による日本軍人殺害の「反乱」を「草原の二・二六事件」と持ち上げて(中略)しかも二・二六事件を「国家再生と国民救済を実現させようとした革命*13」p213としている。これには全く同意できない。

http://blog.goo.ne.jp/xizhou257/e/3c0b4b538f204279f81559c2600a62e9/?cid=388a1a56a0dd6877b882a53ac90fb6a0&st=0
 モンゴル系の日本軍人ジョンジョールジャブ*14の生涯を中心とする。ジョンジョールジャブは、兄のガンジョールジャブが川島芳子*15と結婚*16したと言えば通りがよいだろう。モンゴル人の求める「民族自決」を軽く考えるという点では、往時の日本も現在の中国も変わりはない。日本側に対する「しっぺ返し」が、本書の終盤で紹介されるシニヘイ事件ということになるだろうか。

http://www.masrescue9.jp/worker/back_no/totsuka759.html
『毎日』書評欄。
満州国に重ねた自由と独立の夢」という見出しに惹かれて、岩間陽子*17という人の楊海英著「日本陸軍とモンゴル」の書評を読んだ。
(中略)
 日本はモンゴル人に独立国家の夢を持たせた。しかし「国家としての日本は、自らの政治目的に必要な範囲でモンゴル独立運動を利用して、捨てた」

http://blog.goo.ne.jp/serendra/e/f9d584695070a2523b9e5a236ad09e2b
 満州国で興安北省の省長に任命された凌陞*18は中国からの独立を目標として日本に期待をかけていた。だが、満州国の政策はモンゴル人の期待に反するものだった。
(中略)
 1936年3月の興安四省の省長会議では日本側の政策を激しく批判し、日本語を満州国の国語にする政策や開拓団の草原への入植に反対した。
満州国のモンゴル人には実権が与えられていない。すべての権力は日本人に握られている。日系の役人はモンゴル語もわからないし、モンゴル社会の実情にも暗いので自治なんかできていない。日本語の公文書はモンゴル人にはわからない。」
 凌陞は会議後に逮捕され処刑された。凌陞処刑後、満州国軍高級参謀の花谷正*19少将は宣言した。
「これからモンゴル独立云々と主張する者は、誰だろうと、反満抗日の罪で対処する。」
 日本人とモンゴル人の差別待遇も不和の原因となった。モンゴル人の軍人を養成するために設立された興安軍官学校の生徒がノモンハンに出征した。
「日系軍官はいつも飲んで食ってばかりだった。恩賜もモンゴル人兵士にはまったく配られないし、モンゴル人将校も日本人の半分だった、艱難困苦と生死を共にしているという気持ちは瞬時になくなった。モンゴル人兵士たちはそこから日系軍官を恨むようになった。これがノモンハンでの敗戦の最大の原因*20である。」
 満州国軍の中で日本人は他民族を蔑視し、一方的な服従を強いた。日本に期待し、優秀な軍人となった者ほどその不条理に激怒していた。
(中略)
 1945年8月、ソ連軍が満州に侵攻すると、8月11日にモンゴル軍のジョンジョールジャブ参謀長はモンゴル軍を指揮して部隊内の日系将校38名を処刑した。

http://blog.livedoor.jp/yamasitayu/archives/52126302.html
 1936年に興安北省省長でモンゴル人の有力者だった凌陞(りょうしょう)が関東軍憲兵隊によってソ連と通じた罪で処刑され、ノモンハン事件が起こると、モンゴル人の心は日本から離れていきます。
 ノモンハンではモンゴル人を含む興安軍が編成され戦いに動員されますが、ソ連側にもモンゴル人が動員されており、いわばモンゴル人が日本とソ連の代理戦争に動員されている形でした。
 こうした状況に嫌気が差したモンゴル人部隊からは逃亡する者も続出し、また、日本人のモンゴル人に対する偏見がますますモンゴル人たちの士気をそいでいきました。
 モンゴル人たちの民族自決の夢は日本の勢力範囲内での「自治」という形に矮小化され、ジョンジョールジャブの不満は終戦直前に爆発します。
 ソ連の侵攻を知ったジョンジョールジャブは、8月11日に日系将校を殺して、日本軍を裏切ります。モンゴル人の想いを裏切り続けてきた日本軍を最後に裏切ったのです。

*1:最近の著書に『中国とモンゴルのはざまで:ウラーンフーの実らなかった民族自決の夢』(2013年、岩波現代全書)、『狂暴国家中国の正体』(2014年、扶桑社新書)、『ジェノサイドと文化大革命内モンゴルの民族問題』(2014年、勉誠出版)、『チベットに舞う日本刀:モンゴル騎兵の現代史』(2014年、文藝春秋)、『日本陸軍とモンゴル:興安軍官学校の知られざる戦い』(2015年、中公新書)など

*2:追記:コメ欄に書いたように日本が絡んでくる「日本陸軍とモンゴル」(中公新書)辺りで受賞かと思っていましたが、予想通りでした。

*3:日本は外モンゴルなど支配下に置いてませんのであくまでも「満州国の一部だった内モンゴル」です。

*4:ヤルタ協定にはソ連の対日参戦密約(この中でソ連の千島取得が事実上米英によって黙認された)があり日本ウヨが敵視してることが楊のこうしたヤルタ協定敵視発言の背景にはあるのでしょう。

*5:勿論この時点では蒋介石中華民国です。楊が「単なる反中国共産党ではないこと(むしろ反中国)」が伺えます。しかしこれ文字通りに理解すれば、「内モンゴルの独立希望(そして外モンゴルへの編入)」としか楊の言葉は読めませんが本気なのか。

*6:そもそもヤルタ協定は建前では「中国の現状の再確認」にすぎません(最初から蒋介石内モンゴル独立なんか認めてない)。

*7:勿論内モンゴルですが。

*8:「加わらずに」という事実はさすがにないですよね。

*9:そもそも226事件少数民族の多数民族に対する反乱じゃなくて軍部内の派閥抗争(統制派VS皇道派)ですからね。まあ皇道派が敵視していたのは統制派だけではなく「親英米派、あるいは陸軍に批判的な政治家、官僚など」も敵視しておりだからこそ陸軍軍人でない高橋是清蔵相(元首相)、斎藤實内大臣(元海軍大臣、元首相)が暗殺されるわけです。

*10:自業自得ともいう。

*11:「正義の行い」という意味

*12:うれしいんでしょうね。

*13:青年将校の主観はともかく彼らは彼らの親分である陸軍大将・真崎甚三郎(元陸軍教育総監)や荒木貞夫(犬養、斎藤内閣で陸軍大臣。また近衛、平沼内閣で文部大臣)を首相や陸軍大臣という要職に就けることしか政府に要求していません。「自分の親分に全てをかける」という極めて安直な代物です(真崎や荒木の重用を皇道派嫌いの昭和天皇が認めず、その結果真崎や荒木も逃げ腰になって青年将校たちの計画は挫折します)。とても「国家再生と国民救済を実現させようとした革命」なんて呼べません。

*14:ウィキペ「ジョンジュルジャブ」によれば文革期の迫害から1967年に自殺しているという。

*15:清朝の皇族・粛親王の第十四王女。8歳のとき、粛親王の顧問だった川島浪速の養女となり日本で教育を受けた。その後、芳子は上海へ渡り同地の駐在武官だった田中隆吉(後に陸軍省兵務局長)と交際して日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変に関与したといわれるが(田中の回想による)、実際に諜報工作を行っていたのかなど、その実態は謎に包まれている。戦後間もなく中華民国政府によって漢奸として逮捕され、銃殺刑となった(ウィキペ「川島芳子」参照)

*16:ただし後に離婚

*17:著書『ドイツ再軍備』(1993年、中公叢書)など

*18:1936年3月、凌陞は関東軍憲兵隊にソ連外モンゴルとの内通容疑で逮捕された。弟で興安北省第1警備軍参謀長の福齢や、義弟で興安北省警務庁長の春徳らも、共犯者として逮捕された。外モンゴル側史料でも裏付けがとれることから、内通は冤罪ではなく事実であったと見られる。満州国軍政部は4月21日に凌陞らの死刑判決を発表し、24日に死刑を執行した。享年51(ウィキペディア「凌陞」参照)。

*19:関東軍参謀、満州国軍顧問、第1軍参謀長、第55師団長、第18方面軍参謀長など歴任。

*20:実際の敗戦原因はソ連の軍事力が日本より上だったという「物理的理由」でしょうがこういう悪口が出るほど差別待遇が酷かったと言う事でしょう。