新刊紹介:「歴史評論」5月号

★特集「今こそ石母田正*1を読み直す」
・なお、詳しくは歴史科学協議会のホームページ(http://www.maroon.dti.ne.jp/rekikakyo/)をご覧ください。興味のあるモノ、「俺なりに内容をそれなりに理解し、要約できたモノ」のみ紹介する。
■「石母田正と「スターリン*2言語学」」(田中克彦*3
(内容紹介)
・「石母田正と「スターリン言語学」」というタイトルであるが正直、「石母田のスターリン言語学理解」や「石母田の言語学理解」よりも田中氏の「スターリン言語学理解」が前面に出ているように思われる。
 田中氏曰くこのスターリン論文は大きな衝撃を共産党界隈に当時与えた。
 というのもこの論文でスターリンは「スターリン自らが言語学の権威として持ち上げたニコライ・マルなる言語学者の理論」を「誤った理論」として否定したからである。

参考

ニコライ・マル(1865年1月6日〜1934年12月20日:ウィキペ参照)
言語学者民族学者。「ヤフェト理論」と称する言語の単一起源説を主張し、1920年代から1930年代にかけて、ソビエト言語学会に大きな影響を与えた。
・ペテルブルク大学を卒業後、1891年から同大学の教員となり、1911年には東洋学部の学部長に就任した。 1909年からは、ロシア帝国科学アカデミーでの活動を始め、1909年3月7日に、科学アカデミーの歴史学・文献学部門の助手となり、アジア諸民族の文学・歴史に関する研究を担当した。1912年1月14日には、非常勤研究員、1912年7月1日には常勤研究員に任命された。
 この間、マルは、カフカースの古代遺跡の発掘に精力的に携わり、特にアルメニアの古都アニの発掘では、貴重な文書史料を発見するなど多くの文物をもたらした。また、アルメニアグルジアに東洋学研究所を設立し、多くの研究者を育てるなど、カフカース歴史学や考古学、民族学の最高権威だった。
 その一方で、マルはカフカースの諸言語に関する関心を深め、1910年代からは、カフカース諸語が、セム・ハム諸語、バスク語と共通の祖語から派生したとする仮説を唱えるようになった。1924年にはさらに、世界の全ての言語が、4つの音素で構成される、単一の「原始言語」から発生したとする「ヤフェト理論」を展開した。マルによれば、言語は特定の発展段階に従い変化をするが、彼の「言語の古生物学」により、どの言語であっても、この4つの音素を見出すことができるという。
 マルは、自説の補強のため、ヤフェト言語学マルクス主義理論に接続し、現代の諸言語は共産主義社会の単一言語に収斂する過程にあるとする説を唱えた。マルは、社会の生産関係に規定された「上部構造」として言語を位置づけ、言語の共通性によって「民族」が形成されるとする主張を、ブルジョワ民族主義によって作られた「虚偽意識」であると批判した。マルの理論は、1920年代から1930年代までソ連邦内の少数民族語にラテン文字に基づく正書法を制定するキャンペーンの理論的基盤となった。
 マルは、1930年にソビエト共産党に入党し、革命前からの科学アカデミー会員の中では、唯一の党員となった。彼の学説は、当時主流であった比較言語学の研究成果と一致しない荒唐無稽とも取れるものであったが、スターリンの支持を得て、ソビエト学会の支配的イデオロギーとなった。一方、マルの批判の対象となった比較言語学は「ブルジョワ言語学」として公的に否定された。
 マルは1926年から1930年までレニングラードのロシア公立図書館の館長を務め、1921年からその死までの間、ヤフェト研究所(現在のロシア科学アカデミー言語学研究所)の所長を務めた。1930年3月3日にはソビエト科学アカデミーの副総裁に任命された。マルは1934年にレニングラードで死去したが、その後も彼の学説は、ソ連邦の支配的イデオロギーとして君臨した*4
 1950年に、『プラウダ』紙上に、スターリンの論文「マルクス主義言語学の諸問題」が発表され、マルの理論は公的に否定されることになった。

エフゲニー・ポリワーノフ(1891年〜1938年1月25日:ウィキペ参照)
言語学者
・日本語のアクセント史に関する先駆的研究を基に、日本語がオーストロネシア諸語とアルタイ系言語との混合言語であるという説を初めて提唱した。
・1938年、ニコライ・マルの学説(スターリン体制における公式言語学説)を批判したために逮捕されて処刑された。
■年譜
1914年〜1916年 ペテルブルク大学非常勤講師。学術調査のため来日。
1918年 外務人民委員部の東洋部局員。
1919年 共産党に入党。ペテルブルク大学教授。
1921年 ペテルブルク大学を辞職。コミンテルン極東部副部長(1926年代末まで人民委員として共産党の東方政策に関与)。
1921年〜1926年 タシケント*5大学教授。
1926年〜1929年 モスクワ社会科学院の言語局局長。
1929年 言語学者ニコライ・マルの「新言語学」に反対する報告をアカデミーに提出。中東に左遷。
1929年〜1931年 サマルカンド大学。
1931年 論文集『マルクス主義言語学のために』を出版。再びマルの学説を痛烈に批判。  
1931年〜1934年 タシケント大学。
1934年〜1937年 フルンゼ*6大学。
1937年 「日本のスパイ」の容疑で逮捕・投獄。
1938年1月25日 モスクワ近郊で銃殺刑に処される。
1963年 名誉回復。

■学説
言語学者ニコラス・ポッペの回想録(邦訳、1990年、三一書房)によれば、ポリワーノフの講義は非常に優れたものだったが、その風体は「スラム街から来た浮浪者」のようだった。アルコール中毒者、麻薬常習者であり、泥酔して女子学生の部屋に侵入するなど不祥事が絶えなかった。片腕がなかったが、泥酔して市電のプラットホームに倒れた時に電車に轢かれたためである。
 しかし、彼は紛れも無く、日本語・アルタイ比較言語学トルコ語に関する研究で第一級の業績を挙げた優れた言語学者であった。また、スターリン体制下の共産党が公認していたマル学説を、公の場で痛烈に批判したことは、非常な勇気を要することであった。アルタイ比較言語学の分野においては、モンゴル語ツングース諸語と同じく、トルコ(テュルク)語にも長母音が存在した事を証明した。日本語研究に関する主要な業績は、アクセント史の再構、方言区分論、琉球語音韻の歴史言語学的考察に関するものである。
 1917年から1924年にかけての一連の論文において、西日本、特に土佐方言及び京都方言のアクセントが古形を保存していることを明らかにした。比較言語学の手法を取り入れたアクセントの本格的な研究は、日本では1930年代前半に服部四郎*7によって先鞭が付けられ、金田一春彦*8らによって推進されたが、ポリワーノフの研究はそれらに大きく先行するものだった。更にポリワーノフは、アクセントが日本語系統問題を解明する決定的な手掛かりを提供すると主張した。
 更に彼は、日本語のピッチアクセントを、アルタイ系言語における位置固定のストレスアクセントとは根本的に異なるものと考え、その起源をフィリピン諸語に求めた。また、日本語は起源的に「オーストロネシア要素と大陸的なアルタイ的諸言語との混合物(アマルガム)」であると主張した。
 これらの主張の当否はともかくとして、ポリワーノフの手法が、鋭利な観察と大胆な推論に基づいたものであった。ポリワーノフの業績は1960年代後半に村山七郎によって再評価され、日本語混合起源説は、ポリワーノフの没年に誕生したオーストロネシア比較言語学に基づく新しい知見の下に復活した。

http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200904130000/
 スターリン時代には、しばしば科学や学問の 「階級性」 や、「ブルジョア科学」 に対する 「プロレタリア科学」 の優位ということが強調された。相対性理論量子力学などの現代物理学が、唯物論に反する 「ブルジョア科学」 として否定された時期もあった。とりわけ、メンデルの遺伝法則を否定して獲得形質の遺伝を主張したルイセンコ学説の話などは、今も有名な語り草である。
 西欧言語学の定説と鋭く対立したマール理論が、一時期ソビエト内で支配的位置を占めたのも、おそらくそれと同様の理由によるものだろう。しかし、そういったきわめて政治的な 「国威発揚」 のためのプロパガンダに過ぎない 「プロレタリア科学」 なるものは、どれも結局は現実の前に敗北した。ルイセンコ学説の 「ニセ科学性」 は、農業の不作による飢饉の発生という現実によって明らかにならざるを得なかった。
 第二次大戦が終結し、ソビエトアメリカと並ぶ 「大国」 としての地位を確立したこの時期に、スターリンがマール学説の批判に乗り出したのは、そのような旧来の独善的な 「プロレタリア科学」 なるものが、大国として世界の表舞台に登場することとなった、ソビエトの科学や学問の発展の足かせになっているという判断も、おそらくはあったのだろう。
 しかし、そのような悪弊の是正は、「偉大なる指導者」 スターリンの個人的権威の行使という、これまたきわめて政治的な方法によって行われた。これは、「粛清」 や 「弾圧」 の責任を、直接の担当者であった(ボーガス注:秘密警察トップであった)ヤゴーダ*9やエジョフ*10といった部下に押し付けて、自分の無謬性を守りながら、かえってその神格性を高めたやりかたと同じ、ただのトカゲの尻尾切りにすぎない。
 ところで、このスターリン論文については、国語学者である時枝誠記*11が次のような疑問を呈している。

 言語は、たといスターリン氏が単一説を主張しても、歴史的事実として、そこに差異が現れ、対立が生じるのは、如何ともし難い。もしそれを階級といふならば、言語の階級性は言語の必然であつて、これを否定して単一説を主張するのは、希望と事実とを混同した一種の観念論にすぎない。
スターリン言語学におけるマルクス主義』に関して」

  言語の 「階級性」 という、本来ならマルクス主義者こそが強みを発揮しなければならない問題について、マルクス主義者ではない時枝のほうが正しく認識していたというのは、なんとも皮肉な話である。
 最近刊行された伝記*12によると、彼は国家の最高指導者という激務をこなしながら、なんと1日500ページもの読書をこなしていたそうだ。彼はたしかに、レーニン*13のような緻密な思考や、トロツキー*14のような輝かしい才気こそ持っていなかったが、人並みはずれた強靭な意思と能力を持った人物ではあった。


■「石母田正の前近代アジア社会論:「ライオット地代」論を中心として」(小谷汪之*15
(内容紹介)
 石母田がマルクス剰余価値学説史』「第24章・リチャード・ジョーンズ」から「ライオット地代」という概念を知り、それを古代東洋史に適用しようとした事が取り上げられている(石母田の論文「東洋社会史研究における歴史的方法について:ライオット地代と貢納制」)。
 筆者は「ライオット地代」という概念で示される事態についてマルクスや石母田が着目したことを評価しながらも、それを「ライオット地代」という概念でとらえることは適切ではないとしている。


■『石母田正の歴史叙述:岩波新書平家物語』を中心に』(高橋昌明*16
(内容紹介)
 ググって見つけた記事の紹介で代替。

http://heike.cocolog-nifty.com/heike/2004/12/post_8.html
2004.12.11
石母田正平家物語
 (ボーガス注:1957年に)出版されてからすでに47年も経っていますが、その内容は、今も多くの読者を魅了し続けています。
 著者の石母田正は、歴史をことに中世史を志す者にとっては必読書である名著『中世的世界の形成』*17の著者。わが家の本棚にも『中世的世界の形成』があったので、読み始める前は、きっと歴史学の立場から『平家物語』の史実性を論じられている本なのだろうくらいに考えていました。
 ところが、読みはじめるとすぐに違うことがわかりました。この本は、歴史学者の書いた古典文学論でした。
 なかでも第1章の「運命について」の中で、平知盛をクローズアップさせた功績は大きいと思います。この本を契機として戯曲家の木下順二*18は、戯曲「子午線の祀り*19」を作り上げました。

http://blog.goo.ne.jp/jchz/e/7cc216676d95d5b3cb9d6a07a65a7653
 大河ドラマ平清盛』も大詰め。ということで、何かと気になる「平家物語」についての古典的名著。
(中略)
 歴史家が書いたとか、文学者が書いたとかいうより、「平家物語」が好きで好きでたまらない、愛読者目線で描かれた評論という気がする。
 平家物語といえば、必ず言及されるのが、冒頭の「祇園精舎の鐘の声」に表された無常観。しかし、無常観や宿命観は、この時代のもっともありふれた思想であった。平家の作者の特異な点、すぐれた点は、もっと別のところにある。著者は、同時代の二人の文学者、西行と(ボーガス注:方丈記の鴨)長明と対照させつつ、平家の作者は、人間が面白くて面白くてたまらない性質であったと考える。
 彼は「現世の人間が汚濁と醜悪にみちておれば、なおさらそれを面白いと思う人間である」。
 彼は「人間の営みを無意味なものとかんがえる思想とたたかっているといってもよい」。
 それは、ひとことで表すなら、物語精神と呼ぶべきものである。著者は「平家の作者が名文でもって書きたてている厭世思想などにだまされてはならない」と痛烈に言い切って、いかにも教科書的な、皮相な読み方を葬り去る。
 この箇所(第一章 運命について)に繰り返される「面白い」という表現を見ていると、今年の大河ドラマで主人公・清盛に「面白う生きたい」と言わせ続けた脚本の淵源は、もしかしてこれか?と疑いたくなってしまった。
 「平家物語」の第一部は清盛、第二部は義仲、第三部は義経が物語の中心に据えられているが、作中における最も重要な人物は清盛である。ここで歴史家である著者は、「史実」の清盛がどうであったかというような議論は一切せず、平家の作者が創造した清盛像の新しさに、真正面から取り組んでいる。文学評論として、すがすがしいほど王道である。
 著者は決して「平家物語」を賛嘆するばかりではない。その限界や弱点も冷静に認めている。たとえば、物語における清盛の行動の必然性が十分でないのは、「敵対者たる後白河法皇を物語として描くことができなかった」ことによるという。これについて、天皇以上に権威のある院を物語上の人物とすることを憚ったのかもしれない、という指摘は興味深かった。やっぱり近代以前にも、そういう政治的制約ってあったのかな。
 ただ、より根本的な理由として著者が挙げているのは、義仲・義経のように直接戦場で行動する人物は描けても、後白河や頼朝のように、背後にあって政治をあやつるような人間は、当時の物語文学では描くことができなかった、という点である。それを描き得るのは近代の散文文学だけであろう、と言われると、ごもっとも、と言うしかない。
 しかし、行動する人間のありさまが活写されていることは「平家物語」の大きな魅力である。著者は、さまざまな人物、さまざまな表現の具体例を、鋭い観察眼でいくつも拾い出し(義経の「すすどき」、多田行綱の「目うちしばたたいて」等)語っている。ここで取り上げられている「昔は昔、今は今」という表現が、先週のドラマで、全く別の場面に換骨奪胎して使われていたのも印象深かった。

http://minnesingerin.seesaa.net/article/28774164.html
 私が初めて「子午線の祀り」を観たのは、1992年の1月である。
 新聞に劇評が載っていて興味を引かれ、ほとんど予備知識を持たずに観に行った。
 物語は、一の谷の合戦で敗れた平家が屋島に移り、さらに壇ノ浦で滅亡するまでを、平知盛を中心人物として描いたものである。「平家物語」の朗誦と木下氏による現代語のセリフが交錯する、4時間に及ぶ壮大なドラマだ。
(中略)
 私が観に行った第5次公演のとき、「子午線の祀り」の制作に尽力した宇野重吉*20は既に亡くなっていて、彼が朗読する「読み手A」は録音を使っていたが、それ以外の主要登場人物は、ほとんどオリジナル・キャストだった。
 嵐圭史*21平知盛)、山本安英*22(影身の内侍)、野村万作(九郎判官義経)、観世栄夫平宗盛)、中村又蔵(梶原平三景時)、滝沢修*23(阿波民部重能)…という顔ぶれ。後にも先にも山本安英の舞台を観たのは、このとき1度きりとなった。
(中略)
 (ボーガス注:1902年生まれの)山本安英はいかにも歳をとっていて、席が前のほうだった私にはどうしても“お婆ちゃん”にしか見えず、(ボーガス注:平知盛の弟・重衡の愛妾)影身の内侍役にはいくら何でも無理があるように思えたが、滝沢修は素晴らしかった。当時、(ボーガス注:1906年生まれの)滝沢修は85歳くらいだったろう。
 阿波民部重能は、主人公の知盛の次くらいにセリフが多い重要な役である。あくまで三種の神器を守り抜くために源氏と闘うことを主張し、和睦交渉の使いを命じられた影身の内侍を殺害までしてしまう阿波民部重能が、平家を裏切って義経に膝を屈してしまうときに言うセリフ――「民部、心、はぐれてしまい申した」――では泣けた。
(中略)
 「見るべき程の事は見つ」と言い残して逝った知盛…。木下順二氏も、見るべきものは見、書くべきことは書き、やるべきことはやって逝かれたのではないだろうか。


■ 歴史の眼「「慰安婦」の証拠が必要なのか:『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』新装増補版をめぐって」(森川万智子*24
(内容紹介)
 もちろん森川氏は「証拠が必要ない」といっているわけではない。戦乱の中、慰安婦側に証拠を残す余裕もなければ、一方加害者側が証拠を散逸*25させる状況で「慰安婦だったと語る女性の被害証言を裏付ける物的証拠*26がわんさかある」などということはありえないという事実を前提にした上で「慰安婦だったという女性の証言を吟味した上で、矛盾が見あたらず、また創作とは思えない迫真性、信用性があるならば」それを「原則として真実であると見なし被害者として扱う」のが常識的態度であろう、「証拠を求めることが適切でないときにまで証拠提示を求める」のは時代劇「遠山の金さん」での「証拠を出してみろ!」「遊び人の金さんなどどこにいるんだ!」という悪党の悪態*27とどこが違うのかという話である。まあ、河野談話河野洋平*28なども同じようなことを言ってることである。こうした主張を「証拠の否定、軽視」とみなすのは曲解であろう。
 そもそも「厳密な証拠提示」などを求めたら結果として加害者(?)が有利になるのは何も慰安婦問題に限った話でもない。ウヨ連中がワーワー非難する「中国のチベット統治の問題点」などぶっちゃけ「中国が現地支配している」ためダライ一味(ダライ集団)には「被害者証言」しか出せないだろう(なお、以下のチベット関係話はあくまでもボーガス私見であり、森川氏は関係ない)。
 「慰安婦問題」では「証言だけでは駄目だ、証拠を出せ」、ダライ一味の自称「被害者証言」では「証拠はなくていい、証言だけでいい、中国がチベット支配してるから」とはいつもながら産経などウヨのダブスタには心底呆れる。
 まあ、ダライ一味の場合その提出する被害者証言が「100パー嘘、中国悪くない」とはさすがに小生も思わないが、一方で「中国叩き&日本ウヨに媚びるため相当、被害規模を盛ってる疑いがある」のは否定できないと思う。しかもダライ集団の場合「オウムからカネもらったり」「メンバーのペマ・ギャルポが『中国は天皇処刑を考えてる』とデマ飛ばしたり」「ダライがエセ科学者・村上和雄と対談したり」するのだからまさに「ダライ一味(チベット亡命政府一味)は論外のクズ、社会悪」といっていいだろう。「一日も早く滅亡すること」が「社会悪」ダライ一味の社会的責務だろう。というと例の「お休みの人」は怒りそうだが、まあはてなブログに復帰する気もなさそうだしお仲間相手に「ボーガスの野郎、ダライ猊下を侮辱しやがって許さない」などと陰口たたくのが関の山でしょうね(毒)。

参考:ダライ一味が被害を盛ってる疑いについて

http://xizang.is-mine.net/tibetgenocide.html#1
 「チベット大虐殺」の証拠となっているのは自称被害者たちの証言、ダライ集団が具体的な出典も示さずに捏造した出鱈目な数字、およびそれらを基に西側諸国の反中勢力が作成した物的証拠のない数々のプロパガンダ資料のみである。しかし日本の戦争犯罪を否定する右翼日本人によれば「証言だけでは証拠として成立しない」だそうで、実際のところこの点に関してだけは彼らの言うことは正しい。なぜなら自称被害者の証言は残念ながら組織的に捏造しようと思えばいくらでも捏造できるもの(中略)だから。
 ここで念のために釘を刺しておくが、右翼日本人が否定している日本の戦争犯罪には加害者たる日本軍が残した証拠資料も多数あるので、それらは疑いようのない歴史的事実である。よって日本の戦争犯罪は「証言だけでは証拠として成立しない」で否定することはできない。
(中略)
 ダライ集団はしばしば中国が提示する国内チベット族の「中国のおかげで我々は農奴制から解放されて生活水準が大幅に向上した」という数々の証言を「中国政府が口裏合わせをしている」と証拠もなく決めつけて頭ごなしに否定するが、それなら「チベット大虐殺」の存在を主張する側が提示する自称亡命チベット人の「中国がチベット人を虐殺した」という証言もダライ集団やCIAや統一教会をはじめとする反中勢力が口裏合わせをして捏造したものだと見做されても文句は言えない。
 現にCIAや統一教会が中国分裂工作の一環として組織的かつ大々的に「フリーチベット運動」を煽動していることがはっきりしている以上、自称亡命チベット人の証言などもCIAや統一教会によって捏造されているものであると考えることは十分に可能である。ちなみに主に日本で熱心に「チベット大虐殺」神話を流布しているペマ・ギャルポ統一教会工作員である。
 対する中国側が提示する「中国のおかげでチベット族農奴制から解放されて生活水準が大幅に向上した」という事実には証言以外にも数々の証拠があり、証言を否定するだけではその事実を否定することはできない。この時点で中国側の主張とダライ集団・チベット独立派側の主張のどちらのほうが信憑性があるのかは明々白々である。
(中略)
 ちなみに英国ロンドンに本部を置く反中団体「自由チベット運動」(Free Tibet Campaign)の元幹部であるパトリック・フレンチですら調査によって「120万人大虐殺」の証拠はないと認めている。以下、ニューヨーク・タイムズの記事「He May Be a God, but He’s No Politician」(彼は神かもしれないが、決して政治家ではない)よりフレンチの発言を抜粋し、英語原文と日本語訳を掲載する。

[English]
 For example, the Free Tibet Campaign in London (of which I am a former director) and other groups have long claimed that 1.2 million Tibetans have been killed by the Chinese since they invaded in 1950. However, after scouring the archives in Dharamsala while researching my book on Tibet, I found that there was no evidence to support that figure.
[日本語]
 例えば、ロンドンの自由チベット運動(私はその元幹部である)や他のグループらは、「彼ら(中国)による1950年の侵略以来、120万人のチベット人が中国人によって殺された」と長らく主張してきた。しかしながら、私はチベットに関する自著の調査をすると同時にダラムサラチベット亡命政権の所在地)で公文書を探し回ったのち、その数字を裏付ける証拠がないことに気づいた。

 要は元反中活動家の重鎮がダラムサラチベット亡命政権の所在地)で公文書を照会してみても「120万人大虐殺」の証拠たるものが何一つ見つからなかったのである。それでも「120万人大虐殺」の証拠があると言うのならば是非とも見せてほしいものである。

*1:著書『中世的世界の形成』(1985年、岩波文庫)、『神話と文学』(2000年、岩波現代文庫)、『日本の古代国家』(2001年、岩波モダンクラシックス)、『歴史と民族の発見:歴史学の課題と方法』(2003年、平凡社ライブラリー)など

*2:ソ連共産党書記長

*3:著書『ことばと国家』(1981年、岩波新書)、『言語学とは何か』(1993年、岩波新書)、『「スターリン言語学」精読』(2000年、岩波現代文庫)、『チョムスキー』(2000年、岩波現代文庫)、『言語からみた民族と国家』(2001年、岩波現代文庫)、『エスペラント:異端の言語』(2007年、岩波新書)、『ことばとは何か:言語学という冒険』(2009年、講談社学術文庫)、『差別語からはいる言語学入門』(2012年、ちくま学芸文庫)など

*4:ウィキペ「エフゲニー・ポリワーノフ」によればマル学説に否定的だった言語学者ポリワーノフが1938年に粛清(銃殺)されている。

*5:ウズベキスタンの首都

*6:ソ連陸海軍人民委員を務めたソ連の政治家

*7:著書『日本語の系統』(岩波文庫

*8:著書『日本語(上)(下)』(1988年、岩波新書)など

*9:後任の秘密警察長官・エジョフによって粛清される

*10:後任の秘密警察長官・ベリヤによって粛清される。なおベリヤはスターリン死後、副首相(内相兼務)に就任したがフルシチョフ党第一書記(後に首相兼務)、マレンコフ首相らとの政治抗争に敗れ銃殺された。

*11:著書『国語学原論(上)(下)』(岩波文庫

*12:メドベージェフ『知られざるスターリン』(現代思潮新社)のこと

*13:ソ連人民委員会議議長(首相に当たる)、ソ連共産党党首

*14:ソ連外相、国防相を歴任。後に国外追放されるが国外でもスターリン批判を続けたためスターリンの放った刺客により暗殺される。

*15:著書『マルクスとアジア:アジア的生産様式論争批判』(1979年、青木書店)、『インドの中世社会:村・カースト・領主』(1989年、岩波書店)、『不可触民とカースト制度の歴史』(1996年、明石書店)、『インド社会・文化史論:「伝統」社会から植民地的近代へ』(2010年、明石書店)など

*16:著書『平清盛・福原の夢』(2007年、講談社選書メチエ)、『平家の群像:物語から史実へ』(2009年、岩波新書)、『増補改訂・清盛以前:伊勢平氏の興隆』(2011年、平凡社ライブラリー)、『平家と六波羅幕府』(2013年、東京大学出版会)など

*17:現在は岩波文庫に収録

*18:ゾルゲ事件を題材とする『オットーと呼ばれる日本人』、東京裁判を題材とする『神と人とのあいだ』などで戦後日本演劇を代表する作家となる。「劇団民藝」を主宰した宇野重吉とは生涯の同志であった。1984日本芸術院会員に、1998年東京都名誉都民に選ばれるが辞退し左翼としての筋を貫いた。元号法制化、小選挙区制度反対運動をするなどし、九条の会にも賛同している。また日本共産党支持者として同党の支持層拡大の催しにも活発に参加した。著書『シェイクスピアの世界』(1993年、岩波同時代ライブラリー)、『私の「マクベス」』(1993年、講談社文芸文庫)、『“劇的”とは』(1995年、岩波新書)、『古典を読む・平家物語』(2003年、岩波現代文庫)など(ウィキペ「木下順二」参照)。

*19:『夕鶴』と並ぶ木下の代表作(ウィキペ「子午線の祀り」参照)

*20:滝沢修らと劇団民藝を創設。俳優の寺尾聰は長男(ウィキペ「宇野重吉」参照)。

*21:劇団前進座の歌舞伎俳優

*22:1949年から1986年までの37年間に山本の『夕鶴』上演回数1037回の記録は、1990年に森光子の『放浪記』に抜かれるまでロングラン上演回数のトップであった(ウィキペ「山本安英」参照)。

*23:1951年(昭和26年)の三好十郎作『炎の人』ではゴッホを演じて芸術祭賞、毎日演劇賞を受賞する。この役は生涯の当たり役となり、公演は83歳を数えるまで続けられた。リアリズムの演技を徹底的に追求した人物の一人で、その役作りと演技で「新劇の神様」と呼ばれた。『炎の人』ではゴッホのやつれた感じを出すために6キロも減量して役に挑んだエピソードがある。趣味である油絵の腕前は相当なものであり、『炎の人』に使うひまわりの絵も滝沢が描いている。また、公演パンフレットに使う写真を自分で撮るほどのカメラ好きでもあった。(ウィキペ「滝沢修」参照)

*24:著書『文玉珠 ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』

*25:「戦犯追及などを避けるための」故意の証拠廃棄もあれば、そうした故意の破棄ではない混乱の中での証拠散逸もあった

*26:但し「その被害を訴える女性が事実、慰安婦被害者である」という「状況証拠」なら色々とあると思うが。また「個々の被害を訴える女性が本当に慰安婦被害を受けたかどうか」ではなく「慰安婦は犯罪行為かどうか」という話なら動かぬ証拠はたくさんあるわけである。

*27:そこで「そんなに見たい金さんならばとっくりと遠山桜を拝みやがれ」などと遠山が啖呵を切り、悪人が「切腹」「はりつけ獄門」「終生遠島」などの厳罰に処されて終わるのがいつものお約束。

*28:中曽根内閣科学技術庁長官、宮沢内閣官房長官、村山、小渕、森内閣外相、衆院議長を歴任